テレビの前に二人で並んで、憧れのレース会場へと意識を傾ける。
『姉』は声援と合わせて体を揺らし、左耳に居座る
――カーネリアン。紅玉髄。赤い天然石。
後には脆くも砕け、形を変えて『弟』に引き継がれる耳飾り。
石言葉は"勇気"。
そして
あるいは、"心臓"であるともされる。
ゲートを置き去りに駆け出して
右へ左へ視線を突き刺して、各々の最適な
冷気漂う空気に負けず、少女等は己の小さな躯体で以て空間に航路をこじ開けた。
『まずハナを切ったのはメジロパーマー!
しかしミホノブルボン追従します!』
『先頭争いが始まりましたね。
どちらが先取となるのか注目です』
『最後方にはアベックドリーム、巻き返しに期待しましょう』
16対の脚が地を揺らし、蹄鉄が芝を踏み潰して轍を作る。
観客席に立つファインドフィートからは未だ遠くを走る彼女達は、しかし実体とはかけ離れて大きな身体に見えた。
その波濤の如くに溢れ出る気迫が故か。あるいは、彼女自身を満たす緊張がそう見せているだけの幻に過ぎないのか。
真実の沙汰はどうだろうと、音の波は紛れもない多大なる衝撃となって観客席までに打ち寄せた。
「ブルボンの調整は可能な限りを尽くしたつもりだけれど……」
「けれど、不安ですか?」
「もちろん」
ハナをメジロパーマーに譲り、その後ろにピッタリ付けたミホノブルボン。
規則正しく、規律に従い駆動する体内時計に意識を寄せ──一秒ごとを過不足無くカウントを重ねる。
そうして適切な速度と稼働率を測り、常に己の走行をシミュレートし続けて──現実と仮想の誤差修正を繰り返しながら脚を回転させていた。
崎川トレーナーはそんな彼女へと黒い瞳を差し向けて、ゆるやかに白い息を吐き出す。
「レースに"絶対"は無いもの。
私は私に出来る全てを──最善を注ぎ込んだわ。
今日のレースに向けてトレーニングメニューを組み上げて、日々変化する体調や新陳代謝までも考慮して指導内容を修正した」
「…………」
「でも、完璧じゃないのよね。
最善は最善。完璧には手が届かないから、最善止まりなのよ」
『第4コーナー!
ハナは変わらずメジロパーマー!すぐに続くミホノブルボン!
三番手はこの娘、トウカイテイオー!』
『全体的にペースが早いですね。消耗具合が心配です』
実況と解説の声がマイクに乗って響き渡る。
観客の間をすり抜けて情報を伝達し、生々しい臨場感を伴ってレースの現状を伝え続けた。
「やっぱり今回のレースはミホノブルボンじゃないか?
クラシック二冠だぞ、クラシック二冠」
「いやいや、それならライスシャワーじゃないのか?
彼女にはそのミホノブルボンを下したという実績がある」
「トウカイテイオーが一番だろ。
前回の優勝者だし……あの時よりも更に速くなってるって聞いたぞ」
「いやいやいや、ビワハヤヒデもすげーだろ。
見ろよあの
──なるほど、確かに。体格というのは有利不利にダイレクトに影響する要素の一つですからね。
周囲の男性観客の言葉に耳を揺らし、納得の意を込め頷いた。
ファインドフィートも
骨格が大きければ筋肉の積載量だって増えるし、その積まれた筋繊維も物理的に"長い"からか、少量でも大きな力を出力できるのだ。
……だから"勝てる"、だから"強い"というのはいくら何でも早計に過ぎるが。
「体格……体格ね。
確かに重要なファクターの一つではあるけれど、それだけで勝敗を判断するのは無理があるでしょうに……」
「……実際、小柄であっても歴史に名を残したウマ娘はいますからね」
「ええ。
タマモクロスがいい例ね」
"白い稲妻"。
オグリキャップとしのぎを削りあったという怪物の一角だ。
そして、ファインドフィートでさえも知っているビッグネームである。
彼女と同じ"芦毛"のウマ娘だからと興味を惹かれ、何となく過去の記録を調べたというのが事の顛末だが──タマモクロスの功績は素晴らしくも恐ろしいと言うべきモノであった。
さらに言えば、タマモクロスの記録は証明でもある。
ウマ娘の"体格"や"定番の常識"が絶対のものでは無いという新たな事実の。
『さあメジロパーマー快調に飛ばしていきます。
そのすぐ後方ミホノブルボン、安定した走り』
『やや縦長の陣形ですね。これはどうでしょう?』
そんなそれぞれの考察を他所に、レースはつつがなく進行していく。
ファインドフィート達の立ち位置からして、今の序盤と一周した後の最終直線で最も顔が見えやすいぐらいの構造だ。
コーナーを曲がり、徐々に遠ざかっていく彼女等の背中。
だがウマ娘の身体能力からして……もうほんの数分もあれば再び目の前を通過するだろう。
小さくパタパタと両手のうちわを振りながらディスプレイに視線を移す。
モニター越しであれども、ミホノブルボンとトウカイテイオーの顔がよく見えた。
現状彼女等はそれなりに遠くを走っている訳ではあるが──文明の利器とは良いもので、表情程度は容易く汲み取れるのだ。
「……ブルボン先輩は、普段通りに見えますね。
テイオーさんは……何というか、すごい真剣です」
「あら、そう見える?」
「違うんですか……?」
「うーん。
私には……二人共笑っているように見えるわ。
とっても楽しそうにね」
「……そんな風に見えるんですか」
「ええ。
私、
「なるほど……?」
チラリと崎川トレーナーの横顔を眺めつつ、刻一刻と変化するレースの様相を見つめた。
響くマイクの声は相も変わらず熱い気合と共に状況を細かく解体し、観客へ向けて提供している。
それに呼応するかのように、それぞれが愛するウマ娘への応援の声が雨のようにターフへと降り掛かった。
「………」
……"暑苦しいな"、と小さく口の中で呻きを零した。
右を見ても謎のお兄さんが熱気を撒き散らしているし、左を見ても──……崎川トレーナーが壁になってくれているが、その奥で
鳴り止まない声、声、声。
周囲一帯から発せられる熱気は、凄まじいの一言に尽きる。
それにアテられてクラクラと揺れる頭を必死に抑えつつ、うちわを振って応援の意を振りかざした。
『まずは一周目。正面スタンド前まで到着しました。
先頭は変わらずメジロパーマー。その後ろミホノブルボン。
三番手はこの娘、アライホウガン。少し離れてトウカイテイオー!』
『余裕の表情ですね。バ
『トウカイテイオーの真後ろ、メジロマックイーン。内から見るようにライスシャワー。
少し離れてメジロライアン』
『メジロ家大集結ですね。
名家の血統と、これまでの戦績に裏打ちされたスタミナも見どころです』
蹄鉄の音に合わせて尾を揺らし、徐々に近付き大きくなっていく友人たちの姿に焦点を合わせる。
ミホノブルボンの表情は相変わらず無機質で、トウカイテイオーは真剣な顔で前を見つめていた。
やはり崎川トレーナーが言っていたような──"楽しそうな顔"には見えない。ただ真剣な形相を浮かべているばかりだ。
……口の中が寂しくなって、もう一つ取り出した飴玉をカラリと含む。
今回は"はちみつ味"が無かったので代打の"ザクロ味"だ。
コロコロと口の中で転がすが──あまり、好みの味ではない。
"安売りだったから"で何となく通販で注文したのは、もしかすると間違いだったかもしれないと今更思い至った。
「沢山あるのでお一つどうぞ」
「ありがとう。
……お、ザクロ味かぁ、珍しいわね。
私、これ食べたこと無いのよ」
「美味しいですよ」
嘘だ。
ファインドフィートからしてみれば"美味しい"とは口が裂けても言えない代物である。
ひょっとするとそんな内心もバレてしまうのかもしれない……と、少しだけドキドキしていた。
──"だからどうした"、という話ではあるけれど。
小さなため息の中に一杯の後悔とザクロの甘味を混ぜ込んで、冷たい空気に溶かしてみる。
出来上がった白い霞のフィルターを通してみても、やはりミホノブルボンの表情に変化をつけることは叶わなかった。
「もうすぐ中盤か……」
「ああ。位置取りを上げ始めた娘も何人かいるな」
「ライスシャワー!頑張れェ!!
お前はできる子!強い子なんだ!」
……ライスシャワーへ向けられた応援の声がすぐ横から響いてきて、非常に驚いたのは内緒である。
若干毛並みが逆立った尻尾を手櫛で整えつつ、ザクロの飴玉を噛み砕く。
やはり、あまり
『第二コーナーを抜けて向こう正面に入った!
先頭はメジロパーマー、レースは淀みなく進んでいます。
今残り1000メートルを通過しました!』
彼女等の横顔を眺めるには丁度いい角度だ。
些か距離関係は遠すぎるが──ウマ娘の身体機能のゴリ押しでなんとかなる。
少なくとも、ファインドフィートの目はとても良かった。
「……やっぱり、楽しそうには見えないです」
「まあまあ、結論を焦らない。
表情は浮かぶだけじゃなくて、滲むものでもあるのよ」
「滲む……?」
「そうよ。
仮面の裏側から染み出すのよ。当人の心情とか、性根とかも……ね」
「はぁ……」
……やはり、ファインドフィートにはよく分からない事だった。
そんな意が滲む曖昧な返事を返しても崎川トレーナーは気にした風でもない。
ただ、かばんから取り出した缶コーヒーを指先で弄んでいた。プルタブを引っ張ろうと藻掻く姿というだけでもある。
寒さで
"うちのトレーナーによく似てますね"と胸中のみに感想を零す。
姿形は似ても似つかない。
……が、立ち振舞を見ていれば、どことなく似通った面影を見つけてしまうのだ。
「……開けますよ」
「あ、あら……ごめんなさいね。
普段はこんなじゃないんだけど」
「ブルボン先輩がいますからね」
「……!?」
「冗談ですよ……っと。
はい、どうぞ」
「ありがとう……」
手渡された缶コーヒーにさっさと口をつけ、気恥ずかしさごと飲み込むように黒い水を取り込んでいた。
崎川トレーナーという女性は完全無欠なようにも見えて──しかし、その性根は意外と
いいや、むしろ有欠だからこその完全とも言えるのかもしれないが──。
「……崎川トレーナー」
「どうしたの?」
「もう少しで最終コーナーですよ」
「嘘!?何時の間に!?」
──ともあれ、レースは刻一刻と針を進めている。
二分と半分もあれば終わってしまうのが有マ記念。
歴史に名を刻もうとも、どれほどの重みが宿っていようとも──時間は平等に過ぎていく。
『メジロパーマー失速、やや苦しいか!
その後ろからミホノブルボン!
先頭入れ替わります!
それを見るように三番手、メジロマックイーン!余裕綽々だ!』
徐々に、徐々に展開が移り変わる。
もうじきに到達するのは最終コーナーだ。
衆目が見守る中で各ウマ娘達の立ち位置が目まぐるしく変化を重ねていく。
『先頭はミホノブルボン、後ろにメジロパーマー。すぐ外にメジロマックイーン!
トウカイテイオー徐々に位置取りを上げています。そこにビワハヤヒデ迫る!』
ぐんぐんと加速する。
既に余力を残していない娘でさえも気力の底から必死に気炎を巻き上げて、前へ前へと脚を踏み出す。
観客席へ面する最終直線へと徐々に近付いてくる彼女等の表情は、誰の目であろうとモニターという拡大鏡無しでも十分よく見えるようになっていた。
『続く最終直線!
いの一番に飛び出したのはミホノブルボン!ミホノブルボンです!
しかし続くトウカイテイオー!内からビワハヤヒデが更に加速!!外から見るメジロライアンも続いた!!ここから差しきれるのか!?
そしてメジロマックイーン、負けじと踏み込み!
──その陰からライスシャワーが飛び出した!何時の間に此処に居たのか!?』
──加速する。加速する。
各々の末脚を遺憾なく発揮し、色とりどりの色彩を載せて疾走する。
列の最先端目掛けて淀の刺客が追い縋り、帝王がスリーステップを踏み締めて、名優が威光を知らしめるべく邁進する。
そんな彼女等に追い付かれぬために、ミホノブルボンが一層の延びを見せた。
"逃げ"でありながら更に延びる疾走──それはサイレンススズカが見せた驚異的な走りにも似ている。
ファインドフィートは、それを"流星"のようだと思った。
残光を引き連れ疾走する彼女は天駆ける星々にも見えて──。
「すごい……」
──しかし、彼女は決して
ミホノブルボンというウマ娘は、このような長距離を走る才に恵まれなかった──という事は、それなりに知られた話だ。
だから
人工的な調律と研鑽の積み重ねの果てに、彼女は
けれども。
何故偏執的なまでの努力を始めたのか──ファインドフィートは、その原動力を知らない。
その事実を思えば、少しだけ胸がチクリと痛む気がした。
『ミホノブルボン延びる!ここに来て更に加速!!凄まじい!凄まじいぞサイボーグ!!』
──しかし、だから勝てるかと言えば違うのだ。
斯様に語るトウカイテイオーの口角が、大きく大きくつり上がる。
もはや表情の動き──目尻が表す情動までをハッキリと目視できる距離感の中で、燦々と燃え上がる闘志を発露した。
そして一歩、大きく踏み込む。
二歩、更に深くまで沈み込んだ。
反発力を得るために、バネが大きく縮むように。
矢を番えた弓の弦を、力いっぱい引き絞る様のように。
"──
三歩、果てなく飛ぶように──駆け出した。
"
異様に柔らかい関節、高練度に鍛えられた体幹。
その両方を足し算ではなく、掛け算で重ね合わせて生み出される至高のバネ。
ともすれば
けれどこのレースの参加者は──誰もが彼女に追いつき、そして超えようとする名バ達だった。
『メジロマックイーンがトウカイテイオーに並ぶ!ライスシャワーその後ろにピッタリ付く!
ミホノブルボンとは半バ身もありません!』
差して、追い抜き、抜き返されてまた先頭を奪い返す。
一着争いに参列したのはミホノブルボン、トウカイテイオー、メジロマックイーン、ライスシャワー。
三者三様ならぬ四者四様の脚を踏み鳴らして最終直線の最後──ゴール目がけてラストスパートを駆けていた。
当然、苦しい筈だ。
肺を膨らませ、空気を必死に取り込み鼓動を回す。
そんなの苦しくない訳がない。
しかしファインドフィートの瞳に反射する彼女等はみな──。
「……笑って、る?」
「楽しそうでしょう?」
「………」
「夢を追いかける彼女達って、すごくキラキラしてるの。
だから私は、そんなあの娘達に憧れた」
「……確かに、綺麗です。
かっこいいって思ってました」
汗が弾ける。
空気に混ざって蒸気になって、白い靄で尾を引いた。
「……けど、夢を追いかけるのって」
──四人がゴールへもつれ込む。
ファインドフィートが瞬きする間もあれば全員が走り抜けているような、ほんの僅かな時間の隙間の事だった。
「そんなに、良いものなんでしょうか。
あんなに楽しいものなんでしょうか」
……しかし、その声音は誰にも届かない。
小さな疑念は観客の大歓声にかき消され、いとも容易く消え去った。
わぁわぁと騒ぐ合唱がファインドフィートの鼓膜を通して、胸の内で反響し、腹の奥底までを震わせている。
そんな、以前のレースでは心地よかったはずの衝撃は──何故だか、今の彼女にとっては少しばかり不快だった。
『着順が出ました!
一着はトウカイテイオー!トウカイテイオーですッ!
つまり二連覇!二連覇達成!
一年を締めくくる年末の中山で!帝王が再び君臨したァ!!』
ハナ差、ミホノブルボン。
続けてメジロマックイーン、ライスシャワー。それぞれアタマ差である。
厳しすぎるレースの世界は──当然ながら敗者へ温情を与えることはない。
ほんの僅かな差であろうとも勝ちは勝ちで、負けは負け。
だからこそ、己の先輩達も苦しんでいるのではないかと心配になって視線を向ければ──ただ手を取り合い、お互いの健闘を称え合っているらしい。
心情の分かりやすさで言えばメジロマックイーンだろう。
彼女はあからさまに悔しげな表情で、心の奥底から複雑な情念が滲んでいるようだった。
……けれど、祝福していた。
混じり気もなく、当然のように。
何故そうも真っ当であれるのか、何故そこまで真っ直ぐであれるのか。
……あるいは、『ファインドフィート』が混じり物だからこそ──こんな"疑念"を抱いただけなのか。
「へんなの」
弾ける笑顔を浮かべたトウカイテイオーとは真逆の色を浮かべて、ぽつりと零す。
いつまでも競バ場を揺らし続けている祝福の饗宴。
それに紛れた呟きは、誰にも届かぬままで空気に溶けた。
さあさあ、さあさあ。
"次"はあなた。白いあなた。『双子』のあなた。ファインドフィート。
大丈夫よ、恐れないで。
踏み出すの、"勇気"のままに。