因子継承。
祝福を添えて、あなたに。
「準備は?」
「万端です。
勝利のはちみーでも用意しておいてください」
「はいはい」
「"はい"は一回で十分ですよガイコツ」
「はいはい」
「おのれ……」
いつもの呆れた笑いを浮かべるのは葛城トレーナー。
毎回毎回ワンパターンで恥ずかしくないのか?と、痩せっぽちの彼を冷めた瞳で見つめるファインドフィート。
二人の姿があるのは、白い壁に四方を囲まれた控え室。
寒い冬を連想させる"白"に辟易としつつ、空っぽになったはちみーのカップを机の上に置く。
……その側面に巻かれた帯に滲んだインクが、やけに視線を惹いて仕方がなかった。
さらりと撫でて掌で隠してみてもやはり気になる。
「……これは」
そして今回は端っこの部分に新しい書き手の列が増えていた。
当人の気性に準ずるかのように淡麗で、力強い筆跡のもの。
"頑張って!"
飾り気のない短い文章だ。
けれども、ありったけの激励を込められた文字だった。
書き手はおそらく──いや、間違いなく数日前に世話になった女性だろう。
「あの、これ」
「ん……ああ、捨てないように言っておく。
安心してくれ」
「どうも……」
葛城トレーナーへ放り投げたのは小さなお礼の言葉。
……何となしにちらりと彼の方に目を向けてみれば、手元のタブレット端末の操作に集中している様子。
らしい、が──微かに緩んだ口元が矢鱈と目立つ。
「…………」
とはいえ、それをつついてしまえば
これは直感ではなく経験である。
彼女は己の弁論の才では誰にも敵わないことを理解できていたのだ。
「で……どうだ?
「……」
……ともあれ、問われたからには答えねばなるまいと鏡を覗き込む。
鏡面に反射する自分の姿を上から下まで入念に眺め、その場でくるりと一回転。
「流石はURA公認メーカー。納期もバッチリだな。
出来も……かなり良さそうだ」
──初のG1レースに挑むための"勝負服"の申請。
芙蓉ステークスで勝利してから、およそ一週間後に出したのだったか。
「ええ。
見てください、この質感。
すごいです」
「そうか、良かったな」
そして今日、ファインドフィートの元に届けられた勝負服は──とても良く馴染んだ。
外形だけを見ればとてもではないが走りに適しているとは口が裂けても言えないモノ。
しかしウマ娘とはそんな
つまり、
「……着る前までは、そこまで良いものなのかと懐疑的に思っていましたが……」
「今は、どうだ?」
「本当に素晴らしいですね。
気分が高揚します。
それこそ、今日のわたしは今までで一番速くなっているような気さえしています」
「そいつは重畳」
ふくらはぎまでを覆い隠す青い革靴で、床を軽く踏み鳴らす。
小気味よく響く音は、ファインドフィートの内心をこれ以上無く分かりやすく表現していた。
「……デザインは、キミと担当者が直接やり取りしていたんだったな」
「はい。
……結果論ですけど」
「そうか」
ファインドフィートの勝負服は全体的に白がメインの配色だ。
ピッチリとした白い上着と、ゆったりとした同色の
時折に設置された赤い装飾と袈裟懸けにされた青い布がよく映える。
全体的な造形として言えば──質素ではなく、華美でもない。
どことなくギリシャ風の香りを漂わせる装束だった。
「そのチョーカーは……」
「付属品です」
「なるほど」
右へ左へ肩を回す。脚の腱を伸展させる。上体を大きく反らす。
体を解す行為も最早手慣れたものだ。
もちろん、解し過ぎは厳禁である。
筋肉を伸ばす行為はケガの防止として最も手軽で効果的な方法の一つではあるが──場合によって
一応、基本的に無視できる範囲の影響らしくはあるのだが……。
……しかし彼女は、ただそれだけの影響も気にしてしまう程に緊張していた。
過去経験のしたことの無い舞台に挑むのだから、当然といえばその通り。
重賞レースで勝ち星を上げるだけでも歴史に名を残す偉業なのだから、難易度は推して知るべし。
そして今回出走する"ホープフルステークス"は、G3、G2、G1と区別されたグレードの中でも最高峰に位置する。
これで緊張するなと言う方が無理だろう。
「ふぅ………」
「準備は、できたか」
「……はい」
「キミの身体機能なら問題なく勝てるはずだ。
少なくとも、他のウマ娘と比較しても頭一つ分程度は飛び抜けている」
「はい」
「つまり……キミが気にかけるべき事は
他を見すぎるなよ、ファインドフィート」
葛城トレーナーの眼に宿ったのは如何な心情か。
ファインドフィートには、やはり理解できなかった。
「大丈夫です。
ええ、もちろん」
「そうか」
しかし、どちらにしろ──走ると決めたからには、走らなければならない。
なにせ彼女が目指すと決めたのは前人未到の九冠ウマ娘。
「よし……」
"行ってきます"と言葉を残し、地下バ道へと続くドアを開く。
ひんやりとした空気が流れ込んでファインドフィートの肢体を包む。
全身を苛むそれのおかげで、自然と気が引き締まるように思えた。
そうして歩き始めた彼女の背に向けて届いたのは"勝ってこい"という無愛想な声。
返事の代わりに、ゆらりと尻尾を振るだけで──言葉を返せるほどの余裕も無く、強張った脚取りで冷気の漂う道を踏み締めた。
「大丈夫、大丈夫……。
陽の光が届かない故に薄暗い地下バ道。
真冬の冷気は殊更に強く、ファインドフィートの手足を苛む。
それを振り払うように心臓が鼓動を繰り返し、熱気を秘めた血が四肢を巡った。
生命の摂理として当然のことではある。
しかしファインドフィートにとって、これこそが何よりも大事な──本当に、何よりも代えがたい支えだった。
「さあ、勝ちましょう」
か細い喉を鳴らして小さく呟く。
……もちろん、『姉』は言葉を返さない。
『2番人気の紹介です!
2枠4番、ファインドフィート!
真新しい勝負服に身を包み、初のG1という舞台に昇ります!』
『今回も素晴らしい仕上がりですね』
『このホープフルステークスが初の重賞レースです。
素晴らしい走りに期待しましょう』
パドックでのお披露目。
しかしファインドフィートは相変わらずの無表情で周囲を眺めた。
時折カメラのフラッシュが網膜に刺激を与えてくるが──しかし、ヒト由来の気性を持つ彼女にとってそう影響のあるものではない。
故に淡々と行程を熟し、粛々とレース開催の時を待つ。
その態度も"肝が据わっている"と捉えられたのか、そう悪印象を持たれることもなかった。
もちろん、意図してのモノでは無いけれど。
「…………」
それからパドックを終え、もう一度冷気に満ちた地下バ道を通り抜けて
半ば無意識の領域で体を動かし続けて、ふと我に返った頃には既にゲートの目前だった。
緊張のしすぎ……と言えば、その通りかもしれない。
これまでとは比べ物にならない観客達の熱気に当てられたのか。
小さく震える肩を武者震いと断言できたのなら、どれほど良かった事だろう。
(……ああ、それに──左右の熱意も、とんでもないですね)
それは平時のファインドフィートが朧げにしか感じ取っていない闘走本能の火花。
数日前の
彼女が走り始めてようやく自覚できる、ウマ娘としての矜持。
そして、混じり物でしかない彼女にとっての──。
『各ウマ娘15名、ゲートに揃いました』
『3番人気はこの娘、レリックヒート』
『2番人気はファインドフィート。
この評価は少し不満か?』
『
1番人気、オオヤマライデンです』
「はぁ……。
集中、しなければ……」
一度目を閉じ、大きく深呼吸。
緩やかに落ち着き始めた鼓動に耳を傾けて、ゲートの中の隙間を見通すように目を細めた。
狭い狭い空間の中で苛立ち始めた本能を宥めつかせて、ジリジリとうなじを炙る焦燥感に耐え続ける。
今回、レース前に指示された作戦は『差し』。
中盤までは後方に待機し、最終コーナー付近で準備を整え、最後の直線で一気に
レースの花形、王道である。
……とは言え、駆け引きの類は未だに苦手だ。
他のウマ娘と併走トレーニングなりなんなりで経験を積めていれば話は違ったのかもしれないが──残念ながら、都合が合わなかった。
つまり、ファインドフィートに駆け引きの経験値は蓄積されていない。
これまでの
そう一通りの答えを弾き出し、自己の芯鉄として焼き付ける。
……焼き付けた、つもりだ。
(一秒、ニ秒、三秒……)
とくり、とくり。
鼓動を刻む心臓に合わせて秒数を数えた。
一切の思考を破棄し、心臓の唄に耳を澄ませて、目の前の壁が取り払われるまで。
四つ。
五つ。
六つ──。
「…………ッ!!」
──耳障りな音と共に壁が失せた。
そしてゲートが開いたと同時に
……彼女の反応そのものは悪くなかったはずだ。
しかし、冷気の影響を受けた関節の駆動が鈍い。
『ハナを切ったのはオオヤマライデン!安定の逃げ!
先頭争いがありません!二番手フリップカールが少し離れた外につきました!
そこからすぐレリックヒート!内にカナリアセイン──―』
軽やかに整えられた芝を蹄鉄で削り取る。
そのまま流れるように前から数えて7番手の──列の真ん中に位置を固定した。
その時点から
葛城トレーナー曰く、注意するべきは"掛からないこと"だと言う。
彼がそう判断したのなら、自分のレースさえ守っていれば問題なく勝てる──ハズ、である。
(……本当に?)
──チラリと脳裏をよぎった疑念。
しかし、そんなものは根拠の欠片もない焦燥感の産物に過ぎない。
ファインドフィートは自分にそう言い聞かせて、ただ脚の回転のみに意識を向けた。
時間のカウントは必要ない。
ただ、心臓から伝わる消耗に気を遣うだけで十分だ。
『まずは最初のコーナー!
先頭は変わらずオオヤマライデン、これはどうでしょう?』
『掛かっているのかもしれませんね。
どこかで落ち着きを取り戻せると良いのですが』
(………?)
またもう一つ疑念が生まれる。
ウマ娘特有の優れた聴力が拾ったのは、聞き覚えのある名前に対してのコメントだった。
先頭をひた走る鹿毛の少女。
顔は見えないが──しかし、纏う空気には揺らぎを感じ取れない。
果たして、アレが掛かっていると言えるのだろうか。
むしろその割には──。
(……この距離を走っていて、余裕がある?
最後まで走りきれるつもりですか?)
──そこまで考えて、即座に思考を破棄する。
よくよく考えずとも
当然、出場するウマ娘の能力は相応に高いものばかりが集まるはずである。
ファインドフィートは己が最も速いという自負があった。
『縦長の陣形ですね。
さぁ、これはどうでしょう?』
『最終コーナー目前までにどれほど位置取りを整えられるのか、見どころですね。
後方に付けすぎたせいで差し切れなかった、なんて事になりかねません』
……だが、スタミナを比較するとどうだ?
本当に最後の加速で追いつけるのか?
技巧は?彼女の消耗具合を把握できるのか?
だって、ファインドフィートというウマ娘は──。
「………」
最悪を想定し──鹿毛の少女を差しきれる距離をキープするため、ゆるゆると位置を上げていく。
風に揺られるハロン棒を尻目に、鋭い呼吸と共に脚を踏み出した。
『先頭が向こう正面へ到達しました!今回はかなりペースが早いです!』
『どこかで息を入れられるといいですね』
走る。走る。
大きく口を開き、肺を満たす酸素を血流に混ぜ込んで。
ちらりと目を横に向ければ未だ余裕のある様子のウマ娘達。
じわじわと脚取りを整えながらも、朧げだった
故に位置取りを更に押し上げる。
レース開始直後は7番手だった位置を5番手に。
5番手から4番手に。
もはや差しではなく先行型の脚取りである。
──そうして走る彼女は、
赤の耳飾りが風に揺られ、チリチリと悲鳴を上げる。
「ハッ、ハッ、ハ……ッ!」
視界の端っこでぐらりと揺れるハロン棒。
しかし
だから前へ。前へ、前へ。
"あのポンコツ娘が"。
と、観客席のどこかで吐かれた悪態も知らずに。
『続く第三コーナー!
先頭はオオヤマライデン!やや失速気味ですが、スタミナに余裕はありそうだ!
二番手は──』
うるさく響く実況の声。
けれどもファインドフィートの意識にまで入り込むことはなく、荒い呼吸と激しい鼓動を繰り返す心臓の唄に掻き消されて
徐々に削られていくスタミナ。溜まっていくストレス。
想定を超える消耗具合は、ファインドフィートから冷静な思考を奪っていくに十分なものである。
……続くカーブをどうにか内側から走り抜ける事には成功した、ものの──。
第四コーナーへと辿り着く頃には、既に精神力の殆どを失っていた。
(……あ)
本来であれば、ここから仕掛けられたのかもしれない。
しかし、思ったよりも力が入らない。
──走った以上に、疲れが蓄積している。
そこに来て彼女もようやく自覚してしまう。
己が無様にも"掛かっていた"ことを。
「──ハッ、ハっ、フゥ……ッ!
クソ……ッ、
今更気付いても遅い。遅すぎた。
ファインドフィートの真後ろから、徐々に徐々に近付く脚音。
後続のウマ娘達も先頭を差し切るべく、ついに行動を開始したのだ。
必然、後方から追い立てられるように前へ脚を踏み出した。
──が、先頭に立つ彼女との間に開いた
「ふざけるな」
苛立ち、焦燥、恐怖。
八つ当たりのように、脚へ力の限りを叩き込む。
──しかし、出力が足りない。
正確に言えば、あのオオヤマライデンを追い越せるほどの加速を得ることができない。
きっと彼女はあれ以上に速くなることはないだろう。
しかし、大して失速することもないのだろうと、半ば本能的に直感していた。
「ふざけるな……ッ!」
……嫌だ。
認められない。
血を吐くような想いを、血に吐き出した。
だからもっと加速しろ。
もっと速くなれるはずだ。
少なくとも──
「わたしは、まだ──!」
しかし彼女の足掻きは無為と化し、無駄に尽きる。
最終直線の残り半分に差し掛かっても
走る。届かない。
走る。足りない。
走る。追いつけない。
……只々、力が足りなかった。
ファインドフィートは、きっと『ファインドフィート』に成り切れていなかったのだ。
ならば齎される結果は当然──
手にするのは勝利の美酒ではない。
敗者らしく、敗北の苦汁を口にするしかないのだ。
"あら、まぁ……"
きっと、その筈
あまく、
"……まったく、ファインドフィートちゃんは仕方がないですね!"
"夢を叶えたいのでしょう?
諦めたくないのでしょう?
……こんなところで躓いちゃあダメですよね?"
"負けるのは、『ダメ』ですよね?"
"な、の、で~……"
"……特別、ですよ"
ぐちゅり。
胸の奥から湿った音が響いた──気がする。
そして疑問を覚える間もなく同時に感じる熱。酷く苦しい圧迫感。
体の内側に無遠慮に手を挿し込まれたような異物感が脳髄に押し寄せる。
「ギッ……!?」
それと同時に、芝と土煙が足元で爆ぜた。
全く同時に顔を叩く風。
彼女は走っていた。
これまでで最も速い疾走だった。
──そんな余力、もう残っていない筈だったのに。
「ぁッ」
彼女の意思を無視して引き攣った喉から喘鳴が漏れ出した。
それまでのスタミナの限界に唾を吐き捨てて──あっさりと、両脚と上躯が勝手に駆動を再開する。
「はッ、ハっ、ゥ……!」
普段のフォームと同系統でありながら、しかし明確に次元が違う程の破滅的な加速。
一歩踏み込むごとに大きく撓り、前へ前へと身体が押し出されて。
風にたなびく長髪が尾を引いて、真っ白な轍が青い芝を彩っていく。
『ファインドフィート!延びる!更に延びる!!ここで加速しました!
あっという間にバ身差が縮まっていく!!』
それはあり得る筈のなかった復活だ。
衆目の度肝を抜くには十分すぎるインパクトを与える程に。
実況の驚愕が。そして観客の熱狂が中山競バ場を大きく大きく震わせていた。
「ウッソでしょ……!
アンタあそこから速くなんの!?」
先頭の背を追いかけて。追いついて。
そして追い抜くには十二分な脚取りであった。
その間、ファインドフィートはただ胸の痛みを堪えるばかりで精一杯だった。
ただ胸の奥から響く不快な信号が神経を蹂躙して、思考能力を根こそぎ奪い去るばかりで。
……そんな中でもたった一つ。
たった一つだけ、理解できる事実がある。
『ファインドフィート!一着はファインドフィートです!
一年最後のG1レースに!新たなホープの誕生です!!』
「……ハ、ハッ。
……ハァ……は。
ぁ……っ!」
ただ──
────。
──。
それからどうやって地下バ道に引っ込んだのか。
誰と話して、あるいは誰とも話さずに控え室の前にまで辿り着いたのか。
今のファインドフィートには皆目見当がつかない。
……ただ、"
どんな対応をしたのかすら覚えていないけれど。
明確に感じ取れているのは今なお胸を苛む痛みと、新しい回路を植え付けられたかのような違和感。
そして激しい頭痛のみが今ある現実の妥当性を立証していた。
「……ふぅ」
薄暗い地下バ道で、吐息を虚空に吐き出す。
そうして空に舞う水分が水滴になる程には寒い筈なのに、不思議と体は熱気を纏ったまま。
……だからきっと、あれは幻ではなかったのだ。
風にはためく青い掛け布が虚しく揺れる。
きっとそれが、彼女の思う所を代弁していた。
「ん、これは……」
──そのままぼんやりと佇む中でふと感じた、一際熱いナニカ。
鼻腔を伝い鼻の下に溜まるそれ。
指を充てがってみれば、触感を刺激するのは"ぬるり"と滑る水気。
擦り取って眼前に翳せばその正体は簡単に把握できた。
「……鼻出血?」
ぼうっと胡乱げな眼差しを向けながら、指先の"赤"を擦り合わせた。
……そのまま青ざめた瞳を隠すように、ゆっくりと瞼を閉ざし──。
ただ、真っ白な勝負服に付着させない為に、気をつけながら手を降ろす。
「控え室に、戻らないと……」
……一着を取ったファインドフィートには、ウイニングライブのセンターで踊るという極めて重要な
さほど気乗りしているわけでもない、が。
少なくとも、多少の些事で体を休める気にはなれなかった。
こんなもの
数分も経てば止まるに決まっているのだから。
だから、何も考えたくはない。
少なくとも、今だけは。
『
敗北は許されない。
諦めることは許されない。
立ち止まることは許されない。
それでも、あなた達は"しあわせ"でしょう?