『ぼくはただ、姉さんに生きていて欲しかった』
"……私はただ、
『昔みたいに星を見つめていたかった』
"昔みたいに空を見上げていたかった"
『でも、今は苦しくて、寒いんだ』
"でも、今は悲しくて、寂しいです"
『ぼくは、姉さんと一緒に手を繋いでいられたら……それだけで良かったのに』
"私だって、
──きっと、それだけで"
ぼくらは、それだけで。
「姉さん……」
か細い喉から響く声。少女のソプラノボイス。
それが自分のモノであることに気付くまで掛かった時間は、呼吸五回分ほど。
そして更に呼吸を五回重ねて、ようやく自分が眠っていたことに気付く。
ファインドフィートはややあって、身体に掛かっていた布団を退け体を起こした。
カーテンを貫通する朝日に照らされたおかげだろう。加速度的に意識の覚醒が進む。
数秒も経てば寝ぼけ眼の霞はしっかりと消え去り、何時も通りに澄んだ青い瞳が戻って来ていた。
「……はぁ」
そうして、寝癖でボサボサに絡まった頭髪はそのままに。
はっきりと定まった焦点を頼りにベッド下のスリッパを探し出して足を差し入れる。
数日前のレースでは些か以上に無理をさせた躯体を気遣いつつ、ゆっくりと。
スタミナを限界まで振り絞った上でそこから更に、以前までの最高速を超越したのだ。その反動は推して知るべしだろう。
……が、そうは言えども。
彼女の現状を端的に述べるのなら、健康体そのものと言う他ない。
身体が動かないだとか、関節が痛むだとか、そんなことは一切ないのだ。
むしろここ最近はずっと"絶好調"。
不気味なほどに、不快なほどによく動く。
──
「はぁ……」
ため息をもう一つ、朝日の中に混ぜ込んだ。
古来よりの迷信曰く、ため息をする毎に"幸せ"が逃げていくとは言うけれど。
彼女はそれを理解した上で何度でも吐き出した。
今更じゃあないかと、鬱屈に。
「………」
横を見る。ベッドの主はいなかった。
きっと朝練にでも向かったのだろう。
今日は"大晦日"であるというのに、素晴らしい向上心だ。素直に尊敬の念を覚えるほどに。
ほんのりと心中に去来する物寂しさに蓋をして、鏡越しの髪に櫛を通して整える。
壁に掛けた時計を横目で確認してみれば現時刻は朝の8時。早朝と言うには少しばかり遅すぎる時間帯だ。
普段のファインドフィートならば、これよりも数時間早く起きてトレーニングに勤しんでいる所だったのだが──。
──そこまで考えて、へにゃりと耳を垂れさせた。
青の耳飾りが所在なさげに揺れている。
思い返すのは、彼女が目覚ましい成績を残した数日前の"
あの日、ウイニングライブの直前に──葛城トレーナーには割と真面目な説教をされてしまったのだ。
やれ、"ポンコツ"、"アホの子"、"すぐ掛かる"。
もちろん言葉遣いはもっと堅苦しいものだったが。
そしてファインドフィートは反論もできず、粛々と受け入れる他なかった。
なにせそのいずれもが正論。
トレーナーの忠告を無視し、最後の最後で無茶な走りをしたものだったから尚更だ。
随分と心配させてしまったようで、レース後にはウイニングライブもスッポ抜かしてまで病院に連れて行かれた。
……結局
「……あ、着替えなきゃ」
のろのろと寝間着を脱ぎ捨てて、何時も通りトレセン学園の制服に身を包む。
冬の冷気から身を守るための厚手の長袖。
そんな布の鎧でさえも、いまのファインドフィートにとっては心強い味方だった。
そのまま鏡で一通りの身嗜みを整え終えて、反射する自分の姿を不遜に見下ろす。
そうしてしまえば何時も通りの"ファインドフィート"の完成だ。
無表情な顔。青い瞳。白い頭髪。
……だからきっと、何時も通りの筈なのだ。
「よし……。
散歩にでも、行きましょうか」
◆
ゆるゆると歩く。
空を仰げば、ゆるやかに流れる雲がファインドフィートを見下ろしていた。
それらの雲の面積自体はさほど多くないお陰で、日光は常と変わらず地表を照らせるらしい。
しかし、そのくせ寒さはさほど変わらない。
故にファインドフィートにとってはあまり有り難みがない事である。
そんな朝の空気の中を駈歩で移動するウマ娘達。
彼女等を尻目に、ぼんやりと目を瞬かせた。
何故か久しぶりの自由時間のようにも思えて──ほんの少し、何をすべきか良いのか迷っているのだ。
もちろんこれまで自由がなかったかと言えばそうでもない。
葛城トレーナーは意外と気配りのできる男で、彼女が自由に過ごせる時間を合間合間で設定してくれていたのだから。
だから強いて理由を上げるのなら……数日前のレースが濃密に過ぎた事だろうか。
あの日、あの時に感じた寒気。
それは今も胸の奥にへばり付いていて、ずっと疼いているまま変わらない。
まるで
「……ああ」
──なんとなく、疲れたような気がする。
肉体的にではなく、精神的に。
その疲れからほんの少しでも逃れたくて、頭を振って思考を強制的に遮断した。
そしてそのまま足を進める。
"テクテク"、"テクテク"とあてもなく。
石畳を踏む青い靴は今日もゴキゲンに音を鳴らしている。
ただの靴では彼女の心を汲み取れない事の、実に無意味な証明でもあった。
「……あ」
「おっ」
──そうして歩き続けること数分間。
ふと目に入った通路脇のベンチ。そこに腰掛けているのは見覚えのある──というよりも、見覚えしかない少女だった。
鹿毛の頭髪を揺らし、手元のカップを傾けていたのは制服姿のトウカイテイオー。
今日も元気に朝練を終えた後なのか、額には僅かに汗が滲んで髪の毛が張り付いていた。
「おはようございます、テイオーさん」
「うん!おはよ、フィート!
こんな時間にトレーニングしてないのは珍しいね~」
「……ええ、まぁ……はい」
答えを誤魔化す口の中身を代弁するように、ゆるゆると尻尾が揺れる。
そんな彼女の姿を見て、快活な笑みを訝しげな表情へと遷移させた。
座ったままのトウカイテイオーに"まぁまぁ、とりあえず座りなよ"と声をかけられて──ファインドフィート自身にもそれに逆らう気は無かったらしく、のろのろと木板に腰を預けた。木材故にか意外と温かい。
氷河に一杯のお湯を振りかけるのと同じくらい無意味だとしても、素直に有り難かった。
「ん~……。
なんか、疲れてるの? こう~……普段よりも元気が無さそうだけど」
「そう、見えますか?」
「うん、見える。むしろ疲れてるようにしか見えないかな~」
そう語るトウカイテイオーの視点はファインドフィートの耳に固定されたまま。
大いにヘタれた白いそれは、これ以上無く分かりやすく彼女の調子を表している。
「………なるほど。
なら、疲れているのかもしれません」
「もー、なにそれ。
自分の事じゃんか」
「はい……。
自分の事ですけど……自分の事だから。
自分だから、分からないのかもしれません」
「……そっかぁ」
トウカイテイオーのカップから、"じゅこここ"と音が響いた。
無遠慮に鼓膜を揺さぶるそれを聞いて"そう言えば最近、はちみーを飲んでいなかったな"と思い出す。
12月28日のホープフルステークス。
3日前のレース以降どうにも頭が回っていないのは、そのせいかもしれない。
そんな思考の半分以上に──いやむしろ、殆どの部分に現実逃避が混じっているのだが。
「はい、これ」
「………?」
「ほら、はちみーだよ。
さぁさぁ、ワガハイに感謝するのだぞ~」
「……ありがとう、ございます」
受け取ったはちみーに、一緒に手渡されたストローを突き刺す。
久しぶりに飲むはちみーは相変わらず甘くて、美味しいものだ。
──けれども、胸の奥に蟠ったままの苦味は一向に消え去ってくれない。
普段なら紛らわせてくれるはずの甘いものでさえ歯が立たないのなら、他にどうしろというのか。
彼女にはまるで分からない。何も。
「ね、ホープフルステークス勝ったんだってね!
おめでと、フィート!」
「……。
…………。
……………あっ、ありがとうございます」
「わぁ……。
これは、重症だね~……」
ざぁざぁと吹き荒ぶ一陣の風。
真冬の冷気はファインドフィートの身体を否応なしに苛む。
寒さに震えてしまいそうな身体を意図的に無視して、はちみーのカップを傾けた。
……やはり、ただ甘いだけだ。
「……何か悩んでるの?」
「そう……なのかも、しれません。
そうじゃないのかもしれません」
あっという間に空っぽになったカップを、意味もなく指先で弄ぶ。
ありもしない答えをカップの内側から絞り出そうと苦慮するように、白く細い指先を充てがった。
……当然、そこから見いだせる真実などない。
転がしても
だから、強いて言うなれば──。
「──ただ、疲れてしまっただけなんです。
本当に、それだけです。それだけなんですよ」
「……そっか」
そこで、ファインドフィートの隣から響く"じゅここ"という音に雑音が交じる。
ファインドフィートに続きトウカイテイオーもはちみーを飲み干したらしい。
空っぽになったカップを揺らしてどうするのかと思えば──急に立ち上がり、見事な投擲フォームで構えて見せる。
傍らの後輩に困惑の青い眼差しを向けられても我関せず。
──そのまま流麗に手先を振るって、数メートル先のゴミ箱へと投げ込んだ。
"ストラーイク!"と嬉しそうに上がる歓声。これでファインドフィートよりも
「ね、フィートも投げる?」
「えっと……?」
「ほらほら、手を貸して!
フォーム教えたげる!」
「わっ」
流れるようにトウカイテイオーに絡みつかれ、手取り足取り、投擲フォームを教え込まれた。
その上無駄にわかりやすい教導だ。
ファインドフィートは唐突に始まった謎の
──数分後には、無駄に綺麗なフォームでカップをゴミ箱へと投げ込んでいた。
「おー!おめでと、フィート!
これで免許皆伝だよ!」
「ええ……?」
カランカラン、とゴミ箱が不満げな金切り音を鳴らしている。
練習の的にされたことについてか。
はたまたウマ娘二人の遊びに使われたことについてなのか。それは無意味な念慮だ。
無論トウカイテイオーにとってもどうでも良いことでしかなく、既にゴミ箱の事なんぞ忘却の彼方。
ニコニコと快活に笑って、自分よりも
「ほらほら、行こ!」
「えっ、と……どこに?」
「遊びに!」
そう言うやいないや駆け出した。
"だから、どこに向かうのですか"と、白い尾を風に揺らして問う。
"美味しいものを食べに~!"と答えたのは後輩思いの先輩だ。
駈歩というには些かゆるやかな速度。
ゆったりと流れる時間に身体を乗せて、風を感じる。
──ただ、それだけの行為でも、不思議と心地よかった。
胸の奥の蟠りがほんの少し解けているような、そんな錯覚さえもある。
何も考えずに走る。
風を切って、冷風に身を包む。
そんなもの、普段なら寒くて寒くて、震えてばかりの筈だったのに──何故かほのかに暖かい。
「フィート」
二人して走る中、ふとトウカイテイオーが振り返った。
青い目が陽の光を反射してキラキラ輝く。彼女の気質を明瞭に表すように。
「ねっ、そんなに焦らなくたって良いんだよ」
「………」
「焦ってたって、がむしゃらに走り続けたって疲れるだけだし……何より、苦しいからさ」
しかし、とか。
でも、とか。
何かを言葉にしようとしても意味を込められず、胸の奥で
そんな彼女の内心を知ってか知らずか、諭すように唇を震わせていた。
「少しだけでいいんだよ。
時々脚を止めて、呼吸を整えて。
遠回りかもしれないけど……結局、そういうのが一番の近道かもしれないよってコト!」
「……テイオーさん」
「ま!
今こんなこと言われても"はいそうします"なんて思えるわけないよね~……。
ボクにも分かるよ、その気持ち」
「………」
「けどね、休む事はとっても大切なんだよ」
一瞬だけ遠くを見つめた彼女の瞳になんというべきか。
ファインドフィートはその解答を持たなかった。
未だにトウカイテイオーのことをまるで理解できていないのだから、当然だとも言える。
だから彼女は、ただ受け渡される言葉を──"消化できない"と知った上で呑み干した。
「というわけで!
今だけは何も考えないでボクと一緒にのんびりしよう!」
頷くべきか、否か。
今のファインドフィートにはこれっぽっちも分からない。
だからこそ、トウカイテイオーはそれを
そうしてしまえば──存外押しに弱い彼女は、拒否する事ができないと理解していたからだ。
「ほらほら、はちみーの出張屋台だよ!行こ!
この無敵のテイオー様が奢ってしんぜよう〜!」
「あ……」
指差した先にはいつものお店。
学園前を陣取るボックスカー。
トウカイテイオーに連れられて駆け寄って、何時も通りにカップを手にとった。
ただ、どこにでもいる"子供"のように。
何も考えず、無邪気に。
「……美味しいです」
「そっか!」
ころころ、ころころ。
掌の上で輝く、美しい星。
指の隙間をすり抜けないよう、ころころころ、くるりと廻す。
愛しい子。美しい子。
──あなた達はきっと"
カーネリアン、カーネリアン。