──死なないで。
耳の奥を、胸の底を優しく撫でる声だった。
死なないで。死なないで。
何度も何度も繰り返し、繰り返し、刻み込むように囁かれる。
死なないで。死なないで。
生きて、どうか──どうか。
聞いている側が泣きたくなってしまうほどに悲しい声で、深々と唄っている。
だから彼女はそんな彼を安心させたくて。
また昔みたいに笑ってほしくて、"大丈夫ですよ"と穏やかに口遊んだ。
「
……生きているんです」
望んだものは、返ってこなかった。
薄暗い部屋の窓の外から、無粋な陽光が射し込んでいる。
一条の光であっても暗がりを切り裂くには十二分。
今の今まで眠りこけていた彼女の眼にしてみれば過度な刺激だ。
ほんの少しの苛立ちのまま白いウマ耳を震わせた。
……けれども、朝になったのなら仕方がない。
ついでと言わんばかりに闖入してくる小鳥の囀りに少しだけ耳を伏せつつ、のろのろと起き上がる。
「……はぁ」
寝起きでボサボサになった頭髪が、反射光で白く煌めいた。
それは殊更に彼女の意識の覚醒を促しているようで、ほんのちょっとだけの苛立ちも覚えてしまう。
自分の一部のくせに──あるいは、自分の一部だからか。
……なるほど、朝に弱い事はお見通しか。
さすが私ですね、とくだらない賛辞を込めて弄ぶ。
「ブルボン先輩は……まだ、眠っていますか。
ということはまだ6時か、その程度でしょう」
隣のベッドの主を起こさないように、慎重に、静かに足を下ろした。
そろりそろりと無音のまま歩みを進め、机の前に腰掛ける。
そして収納から鏡を取り出し、頭部の全体が入るように覗き込んだ。
「……」
自慢の芦毛に櫛を通す。
慣れた手付きで白い長髪の一本一本に活力を与えて、しなやかな姿へと。
これを終える頃には同室の先輩──ミホノブルボンも起きてくる頃合いだろう。
横目で見た時計に曰く、現時刻は6時20分。ミホノブルボンが起きてくるのは6時30分だ。
体内時計が恐ろしく正確な先輩の事だから、きっと遅滞なく目を覚ますのだろうと確信があった。
起きてきたら髪を梳かしてあげようか、なんて、予定を立てながら。
少女──"ファインドフィート"は、
春と言うにはまだ早い。
しかし冬と言うには遅すぎる季節の冷ややかな寒気に身を震わせ、小さく頷いた。
ちゃらりと揺れるカーネリアンの耳飾り。
つられて震える青の飾りも、軽やかに髪と戯れる。
「今日も、良い一日になりそうです」
◆
起床したミホノブルボンの髪を梳かして身支度を整え、連れ立って訪れたのは早朝のカフェテリア。
今日は土曜日である故に学業はない。
しかし、ここトレセン学園は競走ウマ娘達の楽園だ。
アスリートとして日々自身の肉体を鍛え上げる事に余念がないのが彼女等である。
……つまり、何が言いたいのか。
それはトレセン学園は年中無休ということだ。
ウマ娘達の食を支えるため、土曜日も日曜日も台所はフル稼働。
雨の日も雪の日も、うら若きウマ娘達の食欲を癒やすために奮闘している。
「本日のおすすめメニューはウマ盛り唐揚げ定食だそうです。
……タンパク質、糖質、脂質含有率、ビタミンバランスの計算中……。
……計算完了。
オーダー、ウマ盛り唐揚げ定食をお願いします」
「……私は大盛り焼き魚定食で」
「あいよッ!」
「朝からそんなに食べてもいいのですか、ブルボン先輩」
「はい。
本日のトレーニングメニューは、かなり『ハード』なものに設定されています。
エネルギー効率を計算した結果、問題なく消費しきれるという結果が算出されました。
つまり問題ありません」
「なるほど……」
やけに恰幅のいいおばさまから大皿の定食を受け取り、適当な空いた席に陣取る。
右を見ても左を見てもウマ娘。
塔と見紛うほどの食料タワーもチラホラ見受けられる。
特に──テレビでも見覚えのある芦毛のウマ娘の席は、実に圧巻だった。
……それを抜きにしても、未だに見慣れない光景だと思う。
地元には他のウマ娘が殆どいなかったから、尚更に。
「食べないのですか、フィートさん」
「ああ、いえ……そうですね。
頂きましょう」
「はい。
朝食は大事ですから」
"いただきます"と手を合わせる。
母から教わった礼儀作法はしっかりと染み付いていた。
……しかし食事はゆっくり上品にとはいかないもので、米に漬物、焼き魚を次から次へと口の中に放り込んだ。
別に予定を急いでいるわけでもない。
だが食事のペースはかなり早かった。
咀嚼し、味わい、飲み込む。
たったこれだけの動作ではある。そう早める必要はない。
だというのに何故こうも箸が止まらないのか──。
「…………むぐ」
──まぁいいかと、さっくり思考を打ち切る。
今日も今日とてトレーニングの予定がしっかりと詰まっているのだ。早いに越したことは無い。
それにファインドフィートもミホノブルボンも元来口数が多くない気性だからか、ほぼ無音のままに時間が過ぎていく。
時折学業に関してや、家庭科の補習について、はたまた尻尾の手入れについてなど、穏やかな会話がぽつりぽつりと起こるのみ。
後は周囲のウマ娘達の賑やかな声が響くばかりだ。
咀嚼。嚥下。
咀嚼。嚥下。
水分補給。
咀嚼。嚥下。
はちみー。
咀嚼。嚥下。
──そうしていればあっという間。
空っぽになった皿が机の上に鎮座するだけ。
「ごちそうさまでした」
「はい、ごちそうさまでした。
タスク、礼儀作法を完遂……エネルギー充填率、上昇。
現在のステータスは『満腹』です」
お盆に載せ返却口まで持ち運び、おばさまに一言を添えて返却する。
"美味しかったかい?"と威勢のいい問い掛けにいつも通りの"美味しかったです"を送り返して、後続のウマ娘達に場所を譲った。
ふと振り向けば、おばさまは続く彼女等にも同じように感想を聞いている。
その姿はまさに職人。まさにプロフェッショナル。
素直にすごいなぁと、尊敬の念を禁じえなかった。
「……行きましょうか」
「はい」
腕時計を確認する。
トレーニングの開始は現時刻から数十分後。
時間的な余裕はあった。
道中は多少ぼんやりと歩いていても良いかもしれないなと、小さく頷く。
なにせいい天気だ。
こんな日こそ陽光を全身に浴びて、風に吹かれるべきだろう。
──視界の隅っこでも、"青い目の少年"も小さく同意の首肯を返していた。
"なるほど、やはりこの選択で正しそうだな"、と。
お気に入りの赤い靴を打ち鳴らして、今日の指針を脳内手帳に書き込んだ。
「では、また」
「はい。フィートさんもお気をつけて」
ミホノブルボンへお辞儀を一つ。
彼女とカフェテリアの前で別れて、学園内を縦横無尽に走り回る通路に足を踏み入れた。
本日のトレーニング内容はスピード系統──実技訓練だ。
つまり、向かうべきは芝の練習コースである。
着替えはカバンに収納済み。練習用のシューズも同じく。
そのおかげで自室に寄る必要も無かった。
だからゆっくり歩こう。つい先程胸の内で決めた通りに。
誰に言うでもなく、口の中で言葉を転がす。
コツリコツリとのんびり
緩やかな風が心地良い。
隣を走る"青い目の少年"も、やはり気分良さげに長い芦毛を棚引かせていた。
「…………おや」
「む、ファインドフィートか。おはよう」
「はい、おはようございます。
エアグルーヴ副会長」
お辞儀を一つ、挨拶に合わせて贈る。"青い目の少年"はいつの間にか消えていた。
鹿毛の少女──エアグルーヴは常と変わらず、気品漂う佇まいだ。
ファインドフィートのカバンを一瞥して、徐に口を開いた。
「これからトレーニングか?」
「はい。
もうすぐ皐月賞ですから……しっかり、追い込まないと」
「……そうか。
無理はしない程度にするんだぞ。
お前ならそのあたりの問題は無さそうだが」
なんて言いながらもしっかり心配してくれるあたり、やはり面倒見の良いウマ娘である。
ファインドフィートもその気遣いを理解しているからか、やや嬉しそうに尻尾を揺らしながら大きく頷く。
身体負荷、適正強度。
トレーニングをする上で最も気を付けなければならない観点だ。
特にウマ娘の肉体──とりわけ、その足は消耗品にも例えられる程繊細な代物。
そしてその管理の手腕こそがトレーナー達の手腕の見せ所の一つであり、ファインドフィートのトレーナーが秀でた分野でもある。
故に不安はない。懸念もない。
ただ、注意すべき点があるとするなら──。
「……では、エアグルーヴ副会長。
またお会いしましょう」
「ああ、気を付けて」
──いいや、考えた所で詮無きことだ。
エアグルーヴと、彼女が世話をする花壇に背を向け再び走り始めた。
コツリコツリ、コツリコツリ。
靴の音が軽快に響く。
ファインドフィートの心もまた、同様だ。
途中のロッカールームでいつもの赤いジャージへと着替えを済ませて、それから更に数分後。
目的地の練習場へ到着すると、既にトレーナー ──葛城トレーナーの姿があった。
痩せぎすの青年で、見るからに不健康な身体。ガイコツと呼びたくなってしまう程脆い肉体。
……だが、彼が有能である事に間違いはない。
果たしてしっかりと毎食を食べているのか。夜はきちんと眠っているのか。
"指導者の不摂生とはこれ如何に"、と思い悩んだのも一度や二度ではなかった。
「……お疲れさまです。トレーナー」
「ああ、よく来たな。
今日の指導内容は覚えているな?」
「はい。予習は万全です」
「そうか……では早速始めてしまおうか。
時間は有限で、積める努力もそれに等しいんだからな」
「……はい」
目元の隈はいつだって色黒く、末期の病人にさえ見えてしまう。
それを自覚しているのかしていないのか──それさえも定かではない。
ただ、ギラギラと輝くその瞳だけは生気に溢れていた。
だからそれを無視してまで彼の邪魔をするのは間違いなのだろうと、言葉をそっと飲み込んだ。
「準備、できました」
「了解」
所定の位置について、一つと二つ呼吸を深める。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
吸って──。
──コースの外の柵の傍に立つトレーナーが、細い右手を掲げていた。
緩やかにそびえ立つ指先を尻目に、また一つ大きく肺を萎ませる。
そしてもう一度喉を大きく開いて──。
「──ッ!」
振り下ろされた手を追いかけるように、地面を蹴り抜き走り出した。
ハーフバウンド。回転襲歩。交叉襲歩。
ウマ娘の基本の歩法を忠実になぞり上げて血気盛んに風を切る。
ごうごうと耳を叩く空気の音が心地良い。
とうとつと身体を叩く冷気さえも、素晴らしく甘味なもの。
「ハッ、ハッ、ふッ──」
──まばたきをする。
すぐ隣に、また"青い目の少年"が居座った。
ファインドフィートと鏡写しの容貌で、まったく同じ軌道を描いて風を切る。
……しかし、彼の足元には影がない。
全く同じ速度で走っているというのに足音さえもない。
ただの幻影であることは、ファインドフィート自身も理解していた。
「──」
けれども、彼は間違いなくそこにいる。
ファインドフィートにしか見えずとも。
ファインドフィート以外が覚えていなくとも──ただの幻影に過ぎないとしても、そこにいるのだ。
走っている限りは消えない幻影。
走って、走って、走り続けて──ファインドフィートが命を燃やし続ける限り、彼が消えることはない。
彼と一緒にいる事が出来る。
それだけが真実だ。
けれど、それがどうしようもなく嬉しくて。
どうしてか分からないけれど、泣きたくなってしまう。
◆
『ねぇ、お医者さん』
湿った水気に混じって、幼い子供の声が響く。
交通事故の被害者のうちの一人。
四人家族の、双子の『弟』。
少年は清潔なベッドの上に乗せられたまま、青い瞳をゆるく開いた。
声音に活力はない。瞼の動きもゆるやかで、老人のように枯れている。
しかしそれでも問わずにいられないと、血糊で乾いた唇を震わせた。
『姉さんは、どうなったの?』
『……それ、は』
問われた青年は、何も答えられなかった。
引き攣った喉から鳴るのは意味も為さないただの喘鳴。
形さえない無為な嗚咽。
彼は真実を知っていた。
少年の片割れが直に至るだろう末路も知っている。
だからそれを口に出すだけでいい。
言葉として紡げばいいのだ。
……けれども、しかし。
たったそれだけの行為が酷く苦しくて、舌が固まって動かない。
青年は若く、未熟で、優しかった。
医者としても、一人の大人としても。
『そっか……』
そんな彼の裏側を読み取って、か細く息を吐き出した。
消化しきれない思いをどうにか分解して、余った熱を呼気に溶かし込む。
そうすることで、どうにか平静を保とうとしていたのだ。
『そっか』
『……すまない』
『ううん、謝らないで。
見えてたから……薄々そんな気はしてたんだ』
……幸か不幸か、彼は幼くとも聡明であった。
自分の片割れがどうなったのか。
これからどうなるのかという事実を、事実としてすぐに飲み干せるほどには。
『ねぇ、お医者さん』
自分の『姉』が死ぬ。死んでしまう。
たった一人の半身が命を落とす。
こんな唐突に訪れる不幸で、あっさりと。
伏線なんて無い。
前兆さえも無い。
そうなるべきという理由も、大義も意義も無い。
ただ死ぬ。
物言わぬ骸と成り果てる。
……そんな未来を思い浮かべるだけで、胸がきゅっと締め付けられた。
『…………』
……死因として挙げるのなら、臓器の多くを失ったこと。
彼は車の中での光景を鮮明に覚えていた。
砕けていく両親も、ガラクタに体中を貫かれる『姉』の姿も。
『ああ、そうだ』
──そこから何故、どんな思考を経てこんな突拍子もない結論に飛躍したのか。
はたまた末期の妄想染みた、理論も何もない単なる願望なのか。
……何であろうとも、彼がこの考えに至るのも必然だった。
『それなら、さ』
──補えばいいじゃあないか、と。
足りない
『ぼくを、使って』
そう語る彼の下半身は殆ど潰れてしまっている。
当然のように、己の命が長くないことを悟ってさえいた。
このまま何もしないのなら死んでしまうだろう。
四人家族で、四人共が死に絶える。
当然の摂理だ。物理現象としてあるがままの、無慈悲な終わり。
──けれども、たった一つだけ。
そんな現実を覆す手段があった。
最後に残る一人を生かすための、最も冴えた方法が。
『……ごめんね、姉さん』
解像度を失い始めた視界。
色彩は昏く、形は朧げ。
もう星も見えない。空なんてどこにもありはしない。
それでも命を繋げるのなら、それでいいじゃあないか──回りもしない舌の上に、ポツリと吐き出した。
苦しくても、辛くても、悲しくても、一人ぼっちでも。
どうか幸せを掴んでほしい。
その想いを無責任だと理解した上で、それでも祈った。
足りないのなら臓物だって、血だって、骨でもなんでもいい。何を捧げてもいいのだ。
だから"助けて"、と。
『女神さま、女神さま。
どうか、どうか──』
"──ああ、ああ……"
"なんて、なんて──美しい。
これが家族の絆、これが愛のカタチ、献身の証明"
……故に、御供
恐らく──。
──いいや、間違いなく、この『双子』の尊厳を踏みにじる事を代償として。
"しあわせに、してあげなければ……"
──走って走って、走り続けて。
幻影を追いかけ始めてから幾年が経ったのか。
実年数を言えば四年程度。
けれど体感的な年数で言えば、もっと走っていたような錯覚にも陥る。
片割れから受け継いだ肉と血は白熱を重ね続けて、今となってはファインドフィートというウマ娘の性能を大きく引き上げるまでになっていた。
ヒト由来の回復力は素晴らしく、多少の損耗はいとも容易く癒やしてくれる。
傷付き。癒やされ。傷付き。癒やされて。
この工程を繰り返す度に幻影は色濃く変化して、ファインドフィートの心を支える柱として機能し続けた。
──そうして至ったこの大舞台でも。
多くの少女達が追い求める皐月賞というステージに登っても尚、すぐ傍に居るのだ。
これのなんと喜ばしいことか。
だから、走り続けなければ。
どこまでも走らなければ。
命を燃やす限り、彼は──『弟』は消えずにいてくれるのだから。
「……ええ、大丈夫です。
ファインドフィートは、速いですから」
赤い靴を打ち鳴らし、ターフの上へと躍り出る。
くるりと舞う尾は軽やかで、ずしりと沈む胸の奥とは正反対の挙動の極み。
ステップ、ステップ、ステップ。
アン、ドゥ、トロワ。
リズムを合わせて呼吸を弾ませ、華麗に雅にスリーステップ。
死がふたりを分かつまで。
……いいや、死がふたりを分かつとも。
きっと、ファインドフィートは走り続ける。
『弟』を連れて、訣別からの逃避行だ。
「ずっと……ずっと、一緒ですよ」
きっと最後まで。
最後のその先に至るまで。