人の夢と書いて、儚い。
ならばウマ娘は?
ウマ娘の夢ならどうなるのだろう。
この問い掛けがずっと気になっていて──結局、未だに答えを知らずにいた。
「ファインドフィート」
「……ああ、トレーナー。
もう出番ですか?」
「いいや、もう少し余裕がある。
一応念には念を入れてキミの様子を確認しに来ただけだ」
「なるほど」
「なに、不安に思うことはない。
今日の"弥生賞"もキミが最速だろうさ」
控室のベンチに座り込んだファインドフィートは、小さく頷いた。
それが自慢げに、なのか。気まずそうに、なのか。
それさえもさっぱり理解できないほど無機質に。
「……何か、気になることでもあったのか?」
「何もありません。
これっぽちの翳りもない、絶好調です」
「そうか……ならいいが。
あと改めての情報共有だが、今回もレース後に簡単な検査だけはする。
頭の片隅にでも置いていてくれ」
「はい」
パタリと尻尾が空振った。青ざめた瞳がトレーナーを見つめて、輝きさえなく瞼を閉ざす。
昨日までとは違う担当ウマ娘の反応に、"おや"と片眉を上げた。
普段ならばもっとふてぶてしく──いや、気安く反応を返してくるものだが、さて。
葛城トレーナーは年若い少女への接し方を心得ているわけではなかった。
最低限の常識の範囲で気を遣うなどは可能でも、その一歩先の手法──例えば、"さも悩んでいます"といった雰囲気を無理なく打ち崩す冴えた一手は、未だに知らずにいるままだった。
むしろ葛城トレーナーにとっては一歩先どころではなく、二歩三歩も先の技法と言っても過言ではないだろう。
……しかしだからといって、目の前の少女から目を逸らせるわけでもなく。
やや間をおいて、ファインドフィートの隣へと足を運んだ。途中視界の端に入り込む──さながら細枝と見紛う程に細い脚が、どうしようもなく頼りなくて仕方がない。
「飲むか、はちみー」
「……いえ、後ほど頂きます」
「そうか」
男から差し出されたはちみーを一度受け取って、傍らのカバンの上に載せておく。
普段とはまるっきり違った対応。強まる違和感。
すわ"反抗期"か等と、新たな疑念さえも湧き上がってしまう程だ。
「……ふむ」
一度、大きく息を吐き出す。
少しだけ考え込んで、ファインドフィートの隣に腰を下ろした。
合わせて揺らいだ空気の流れが彼女にまで波及して──ふと覚えのある"香り"を感じ取る。
「……香水、つけてるんですか?」
「匂うか」
「ええ……この香り、嫌いじゃありません。
優しくて、落ち着く匂いですね。
たしか──父も同じ物を使っていた気がします」
「そうか」
1月の何処かで体調を崩してしまった時があった。
その時に
"ウマ娘用"に薄められた香水の効果はちゃんとあったらしいと胸を撫で下ろす。
「しかしあれだ、懐かしい感じがするな」
こうして二人並んで座ると、以前──専属契約の時を思い出す。
あの時は女神像の広場でベンチに座り込んで、腹を割って話を詰めたものだったか。
今の二人の距離はあの時と同じ。
しかし精神的な距離はきっと縮まっているようで、ファインドフィートの心は不思議と安らいでいた。
だからだろうか。
静かに、穏やかな声音で言葉を紡げる。喉につっかえるものは何もなかった。
「トレーナー。
一つ、お聞きたいことがあります」
「聞きたいこと?
何に関してだ」
「何故、トレーナーはトレーナーになったのですか」
「む……」
カチャリと揺れる青い耳飾り。
白い蛍光灯の明かりを不規則に反射する。
ゆらゆらゆらゆら無意味に踊って、ありもしない我を主張した。
「最初あなたと出会った時、あなたの事を"欲深いヒト"だと思いました。
純粋に濁っていて、素直に捻じくれている、"欲深いヒト"なのだと」
「事実だろう」
「……いいえ、ですが──」
隣の男に視線を向けた。
肉も生気もない細い体だ。
顔だって、疲れ切った雰囲気を隠しきれていない。
よくよく考えなくても分かる話だった。
ただの欲深いだけの人間が、これほどまでに己を追い詰めてまでウマ娘の事を思い遣れるのか。
そもそも他者に対する思い遣りなどという概念が発生しうるのか。
前々から気になっていた"それ"を知りたかった。
これから先慌ただしくなるだろうし、余裕も失せていく。
ならば今のうちに聞いてみたいと、そんな気紛れからの問いである。
「何故、あなたはトレーナーになったのですか?
最初の最初に抱いた目標がお金稼ぎ、という風にも見えなくて」
「……何故そう思うのか、というのも気になるが……。
まあ、あれだ。そんなに気にしなくても良いことだ。
今後のレースに何の影響を与えることもない、つまらない事情だからな」
「つまらないと言える何かはあるんですね」
「……そうとも、言う」
だが、と
別に良いじゃないかと再度語った。
隣に座り込んだ少女に言い聞かせるためか、平坦な声でゆっくりと。
「本当に無意味なんだよ。
だから気にするな」
「……分かりました。
ですが、気が向いたら教えて下さいね」
「ああ、気が向いたらな」
────。
────暫しの空白。気まずい訳でもない、ぬるい雰囲気が場に満ちる。
停滞とも取れる時間の中に僅かながらに浸って──ふと、葛城トレーナーが口を開いた。
「そういうキミはどうなんだ」
「……わたし?」
「何故キミが
答えたくないというなら無理に聞こうとはしないが……」
"俺もそれで答えなかったからな"と肩を竦める。
「……ええ、まぁ恥ずかしい理由というわけでも無いので」
「無理はしなくても良いが」
「トレーナーとウマ娘の相互理解が重要だと、ブルボン先輩がおっしゃっていたので」
「ああ、なるほど……」
どうせ元を辿っていけば
とはいえ考えそのものは至極まっとうとしか表せない正当なモノ。
それに
「そう、ですね……。
始まり、始まりの始まりは、テレビだったと思います」
淀みは無かった。
何処か遠くの景色に焦点を合わせようと苦心しつつ、ゆっくり喉を震わせる。
今となっては遠い過去のような話で、実際は数年前でしかない現実の話。
「テレビの番組で、GIウマ娘特集をやってたんです。
シンザンさん、ミスターシービーさん、テンポイントさん……とても有名な方々ですよね。
彼女達の名前を知らない人なんて誰もいない程に」
「まぁ、そうだな。
それこそ学校の教科書にも出るぐらいだ」
「ええ。
その番組を姉さんと一緒に見てて──
ああ、こんなにもすごいウマ娘がいるんだなって。
日本中のみんなの心に刻まれた、こんなにすごいウマ娘が」
「……なるほど、なるほどな。
しかし姉君がいるとは意外──でもないな」
「どういう意味ですか」
むっつりと睨みつけるもヌカに釘。
葛城トレーナーは全く気にした様子でもなく、クツクツと喉を鳴らしていた。
ある意味で平常運転な男に対して、しかしファインドフィートは何も言えなかった。
……どうせ言葉では勝てなどしないし、勝とうとも思えない。
だから、この話はそこでおしまいだ。
不機嫌に揺れる耳を隠そうともせず立ち上がったファインドフィートに"もうすぐ出走だぞ"と予定を告げて、ついでの如く指先で壁掛けの時計を指し示す。
今から急いで準備が必要と言う程でもないけれど、然程の余裕も無かった。
「まったく……」
「さあ、気にせずしっかり走ってこい。
今日もファインドフィートが最速だと証明してくれ」
「……はぁ、良いでしょう。
しっかり見ていてくださいね、わたしが走り抜けるところを」
──そうして舞台は"クラシックロード"に遷移する。
若干の曇り空の下、生気溢れるターフの上。
湿り気を帯びた芝の表層を蹄鉄で撫で付けながら、ゲートの内部へ入り込む。
それに至るまでの道中で観客席に手を振っておくことも忘れていない。
何せファンの力がなければそもそも出走さえ不可能というタイトルだって存在しているのだから、尚更こういった細やかな気配りが大切である。
とは言えども無愛想、無表情のままであるのは変えられなかったのだが……しかし、何だかんだそれでも受けているらしく、直すべきとも何とも指摘はされていない。無駄な労力を省けるのなら、実に嬉しい話である。
『今日、この弥生賞に集ったのは18名の優駿です。
果たしてどの娘がこの場で最も優るのか、しっかり見届けましょう』
『各ウマ娘、ゲートイン』
中山レース場に集まったフルゲート18名のウマ娘。
誰もがこれから始まるレースに向けて闘争心を滾らせていた。
当然、それはファインドフィートも同じことだ。
ようやく歩み始めた"クラシックロード"の踏み心地を味わいながら、ゲートの向こうに夢想を重ねる。
夢に届くのだろうか、とか。
たどり着いた先の景色は何が見えるのだろうか、とか。
そんな毒にも薬にもならない虚構に思いを馳せて、ゲート内部の閉塞感から目を逸らすばかり。
抑えきれない緊張感が汗となって白肌に滲み、着込んだ運動着に吸い込まれていく。
されどもそのような情動の一切を無視した体内時計は狂い無く時を刻み、今か今かとレースの開始を待ちかねていた。
『3番人気はこの娘、
『2番人気を紹介します、
この評価はやや不満か』
『1番人気、ファインドフィート。
GIウマ娘です。堂々とした佇まいですね』
耳を澄ませば、どくりどくりと響き渡る鼓動の音色。
総身を巡る管を通り、下り、上る血潮に乗って高らかに生を叫ぶ。
解説者の男の声は意識の外側にはみ出していて、理解出来ない雑音に成り下がった。
代わりに意識を占領するのは目の前のゲートのみ。
集中に集中を重ねて認識を尖らせて。
開くと同時に駆け出せるように、自分で自分を飼い慣らす。
そうしていれば、前回のような失態を再現することはないだろう。
思い返すだけでも首を絞めたくなってしまうのだ。
あの日、あの瞬間、くだらない本能に飲み込まれてしまった情けない自分を。
「……ッ」
ズキリ、と胸の奥が痛んだ。
己を叱咤するように鼓動が騒ぐ。
それを誤魔化そうと奥歯を噛み締めて、不安や迷いをすり潰す。そうしてみればありもしないザクロの味を感じた気がした。
「ですが……もう、わたしは大丈夫。大丈夫なんです」
首筋を覆うチョーカーをさらりと撫でて自分を鼓舞した。勝負服の一部から引っ張って来ただけの物であれども、不思議と勇気を与えてくれる。
そうとも、今は違うのだ。
ファインドフィートは成長したと、これまでに積み上げた努力が保証しているのだから。
間違いなく、疑いようもなく、強くなった。
だから勝てる。いいや、勝つ。
目を見開く。耳を立てる。尻尾を振るう。
体内に溜まった熱を吐き出して、乾いた唇をぺろりと舐めた。
『ゲートオープン、各ウマ娘一斉にキレイなスタートを切りました!』
──一斉に轟き始めた脚音を磨り潰すかの如く、大きな大きな歓声が弾ける。
観客席で、液晶の前で、家の中で。
老若男女関係なく胸を震わせ、曇り空を刳り貫いた。
◆
"それで、そろそろ聞いても良いのかしら"
"ん~?
あ、ファインドフィートちゃんの弥生賞ですか?
いや~、凄かったですよねぇ。
しっかりと勝っててえらい! 私も鼻が高いです"
"そうね……ある意味では、関係あるのかしら"
こつり、こつり。木板を弾く音が鳴った。
それの発生源は二柱の女神である。
彼女等は
そして、それぞれの視線の先には大きなチェス盤。
精緻で、精巧。そして絢爛。誰が見ても"美しい"と絶賛することが間違いない造形だ。
それこそ何処かの国の宝物と言われても全く不思議では無いだろう。
しかし、所詮はただのチェス盤。
女神達の前ではその存在感も霞み、薄らぎ、なんら変哲のない小道具にまで成り下がっていた。
"……ファインドフィートちゃんのレースに手を出したことよ。
神聖で、穢されるべきではない、真摯な祈りの場。
それにベタベタと触れてしまった事が正当化される理由って、何?"
"ああ……そういえば、そんな事もありましたね"
コツリと『太陽』陣営の白い
それを討ち取ったのはただの
『王冠』の指先に摘まれ、どこか誇らしげに光を反射していた。
"そんなの決まってるじゃないですか。
あのままだと負けちゃうからですよ?
かわいそうじゃあないですか"
"ふぅん……それで手を出したって訳ね。
事もあろうに、三女神の一柱が、レースの結末を書き換えた、と。
そういうことよね?"
"そうですよ~"
弾けるような眩い笑顔だ。
邪気など無い。怒りも悲しみも同情も後悔も無い。
ただ純粋に達成感に満ち溢れた、綺麗な笑顔だった。
"……ねぇ、レースに至るまでの道中──それこそ、鍛錬の合間で導きを賜わすのなら共感できたわ。
多少の規則を超えて
けれどレース中に手を出すべきではないわ。
だってそれは──"
"──それが何か、問題でも?"
コツリ、コツリ。またもう一度、軽妙な音が鳴る。
『王冠』の玉声を遮り、駒を弾いてチェックメイト。
敗北者の黒い
まるで聞き分けのない子供を諭すように。
無邪気な子供が無法で踏みにじるように。
"『約束』は、何に於いても優先されるべきなんです。
だから私は夢を叶えさせてあげるんです。
……ほら、理由としては十分でしょう?"
"……はぁ、流儀の違いなのかしら。
私としては……準備期間で多くの導きや試練を与えたほうが良いと思うのだけれど"
"いいじゃあないですか、こういうモノも。
だから、ええ……このままでいいんです。
さあさあ。私と一緒に指で紡いで、哀れなあの子達をしあわせにしてあげましょう?"
くすくす、くすくす。
染み込んでいく聖母の笑い声。
くすくす、くすくす。
どこまでも、深々と、海の底まで。
チョーカーとは。
現代では束縛/隷属を象徴する装飾品としても知られている。
しかし遥かな過去──例えば古代エジプトに於いては、全く別の意味合いを持っていたらしい。
数多くの壁画や文献を研究したとある学者は、そう結論付けた。
曰く、高貴な身分の女性が身につける服飾。
曰く、権威を主張するための宝物。
曰く、
それらを総じて行き着く先を表せば、"幸福"を願う為のモノだった。