"走るのに余計な荷物ばかりだったら重たいですよね、苦しいですよね。
きっとすっごく大変ですよね……"
"……ええ、ええ。
何とかしてあげたいですよね。私もそう思います。
しっかり助けてあげて、『
弥生を越えて、卯月の目前。皐月に至るまでもう少し。
艷やかな種々を視線で愛でて、青臭さが入り混じる土の香りを吸い込んだ。
ファインドフィートの視線の先には楽しげに陽光を浴びるバッタや蝶々達。自由奔放に飛んで跳ねる彼らが、ほんの少し羨ましくなる。
「…………」
トレセン学園は今日も平和だ。
どこまでも広がる青い──澄んだ青い空を見上げれば、胸の内で淀んだ悩みも苦味も溶けて無くなってしまうのではないかと、そう錯覚してしまうほどに。
しかし彼女を取り巻く現実は変わらず、いつまでも絡みつく重みが胸中に鎮座するばかり。
鎖で絞め上げているのか、茨で雁字搦めにしているのか、あるいは針の筵に閉じ込めたのか。
どうせ針を突き刺すのなら、嘘つきにでもやってしまえばいいのに……と、無意味な吐露を口の中だけで泳がせた。
「っとと……」
そう囀っているうちに滑り落ちそうになったダンボールの縁を慌てて掴んで、ギュッと握りしめる。
そこそこに重たい箱であれどファインドフィート──ウマ娘の身体能力ならばなんのその。
再びバランスを取り戻してすぐに懐の内で安定させた。
ふと漏れ出た安堵のため息もそこそこに。
今度こそバランスを崩さないように、大切な宝物を抱きしめるようしっかりと胸に抱き寄せる。
……もちろん、これに熱はない。所詮ダンボールなのだから、当たり前の話だが。
「ゴミステーションは……こっちですか」
両腕を下方いっぱいに伸ばせば、胸の下で収まる程度のただの箱。
態々休日の朝から学園外まで走って手にして、トレセン学園のゴミ収集に出そうと労力を捻出していた。正直、もう既に若干眠たい。
けれども今日を逃せばしばらく暇な日はない故に、どうしようもない話だった。
「……くぁ」
この私品を置いていたのはとある大手企業が営業する貸し倉庫だ。
個人向けのトランクルームといえば通りが良いだろう。
幸いにも、と言えばいいのか。
否、不幸中の幸いと表す方が正しいか。
元々金銭的には
この箱はそのうちの一塊、一つのカテゴリー。
その全てをこの脆いダンボールの紙の内側に包括して、態々自力で持ち運ぶ。
特別な拘りがあるという話ではない。
けれど、ファインドフィートは"
だから、こうした。
「それに……もう、不要ですから。
諦めた後の残骸なんて持っていても無駄……そういうものでしょうし」
自分に言い聞かせるように、小さく嘯く。
見えなどしない箱の中身を覗き込みながら、指先に力を込めて。
……もちろんその中身が見えることはない。
ファインドフィートにすべてを見通すような目があれば話は違うのだろうが、そんなことはありえない。
「無駄な荷物を抱えていて叶う夢じゃない。
余分な気苦労は無い方がいい……」
今後の予定を思い浮かべる限り、きっとこんなものは無いほうが良い。
クラシックとはそういうもの。
ウマ娘達が総力を絞り出して、血を紡いで、腹の奥の底の底から勝利を希ってようやく手にする栄冠。
それを目指すというのはこういうこと。
余分なモノを限界まで削ぎ落とし、神の領域を目指す。
これこそが天禀の才を持たぬファインドフィートが選ぶべき最適解。
──この"結論"を導き出したのは勝利を願う理性なのか。
はたまた勝利に執着する本能なのか、それとも──。
「──ああ、いえ。無意味ですね。
そんな事を考える暇があるのなら、テイオーさんを誘ってはちみーでも飲みに行く予定を立てるほうが……余程建設的でしょうに」
そう語った彼女は尻尾揺らす。
自慢の毛並みは微かに艶を失っていた。
昨日も普段通り、風呂を上がった後にミホノブルボンに香油を塗り込んで貰っていたにも関わらず──どこか、萎びた印象を与える姿だった。
「……まったく。
今日の天気は、こんなにも綺麗なのに」
しかし、その理由は考えたくない。
理解したくないから、分かっていない事にした。
それこそが彼女にとっての最適解である。
故に思考を止めて、じっと瞳に蓋をした。
そうして、束の間のみ訪れる薄い暗闇ばかりが彼女の無聊を慰めてくれる。
"何も見えない"というのは、不思議と心を休めてくれるものだ。
幸い道順は十全に覚えているし、ウマ娘の聴覚によって道中他者にぶつからないことは保証されている。
故にほんの少しの時間程度なら、何ら問題は発生し得ないだろう。
──自分にそう言い聞かせて、暫しの間暗闇の中を散歩する。
てくてく、てくてく。
やはり何かにぶつかることはなかったけれど、すぐに目の前が怖くなって目を開けた。
……目の前も、足元も、障害物は何もない。
意味のない恐怖感を消費して、意味のない安堵を覚える。やはり、どこまでも無意味だ。
「……歩いてばかりだと、ヒマですね。
徒歩では時間が掛かりすぎる。
イヤホンでも持ってくればよかった……」
後悔は先に立たず。
気分を紛らわせたかったのだが、無いのなら仕方がない。
……ぼんやりつらつらと
単なる気晴らしだった。
「……ゴールまで、あと何ハロン。
10と2ハロンさ……っと」
形になったのは、記憶の片隅にこびり付いていた歌だ。
いつかの日、彼女の『姉』が歌っていたもの。
当時の無知な『弟』──ファインドフィートには理解できなかったが、異国のお伽噺を基としたものである。
この素朴な歌が古代より受け継がれてきた
少なくとも、響いたのは『姉』にはこれっぽっちも及ばない、随分情けない歌だ。
そう比較できる程度には思い出せる過去の記憶を辿りながら、か細く歌う。
……ああ、なんて弱々しいのだろう。やはり姉さんのようにはうまくいかないな、と。
彼女はそう思って、たった一人でじっとり毒づく。
曇った内心とは真逆に、空は澄んだ青だった。
「夢の灯りをたよりに、行けるかな……」
陽光に溶け込む、どうあってもやる気のない腑抜けた声。
それでも惰性でぼんやり喉を温めながら、てくてく、てくてくと脚を回す。
てくてく、てくてく。ゴミを捨てるために飽きもせず。
……こうして暫く歩みを止めずにいれば、時折すれ違うウマ娘だっている。
言うまでもない事だ。
彼女等の休日は休日であっても、純然たる休みの日に早々ならない。
行き交うウマ娘達を横目で見送りながら、ファインドフィートはファインドフィートのペースで進む。
まれに挨拶を交わしはするものの、基本的には一人ぼっちの旅。寂しくはない。
「……行って、きっと戻ってこれるさ……。
もし君の脚が──」
ガサリとダンボールの中身から振動が伝わって、少女らしい細い指に反発する。衝撃に合わせて歌声も止まった。
幸い、春に至ってようやく過ごしやすい気温になったお陰か痛みも痺れもない。
ゆるく、白くもならない吐息を空に吐き出しながら、またぽつりぽつりと歌い始めて歩き出す。
──そんな彼女の姿は、殊の外目立っていた。
今年のクラシック路線の有望株が聞き慣れない歌を口ずさみながらダンボールを運んでいる姿は──まあ
つまるところ、ファインドフィートの知り合いからの発見率に上昇補正がかかるということでもあった。
「あー!フィートだ!
どうしたのー、こんな所で!」
彼女の背後から投げつけられた声は快活で晴れやか。
この天候とはまた違う、しかし同種とも言える陽だまりのよう。
少しだけハリを取り戻した尻尾を振ってトウカイテイオーに歩み寄れば、それだけで胸の痛みが軽くなる気がした。
……無論錯覚ではあるけれど。
「……こんにちは、テイオーさん。
奇遇ですね」
「うん……ま、フィートってば少し……いや、かなり目立ってたからねー」
「なんと」
「気付いてなかったのー!?」
休日故にだろう、トウカイテイオーは私服に身を包んでいる。
ファインドフィートは服を選ぶことすら面倒くさがって制服を着ているというのに、なんという美意識の格差なのだろうか。
ほんのちょっぴり虚しかったり、『姉』に申し訳ないなとも思う。
……とはいえそれはそれ。これはこれ。
"テイオー先輩がすごいだけ、それで良いじゃないですか"と目を瞑る。
改善は、もう暫く先のことになるだろう。
「……ところでさ、それってどーしたの?
側面に貴重品って書かれてるんだけど……」
「ああ、これは……ゴミですよ。
この文字に関しては、余ってたダンボールに元から書かれてただけです」
「そうなの?」
「ところでテイオーさんは」
「ボクの勝負服──
仕方ないから補修してもらうことになったんだ」
「……なるほど」
ほらこれ、と見せられたのは彼女の言葉通りの物品。
トウカイテイオーが二つ所有する勝負服の内、黒と赤で構成された不死鳥の衣──その一部。左腰に装着されているはずの円盤だった。
どこか民族的な意匠を凝らされた形状は、曰く"おまじない"の意味を込めたものであるらしい。
ドリームキャッチャー。夢を守る、優しいおまじないだ。
「色々、思い入れもあるから」
「…………」
一つ頷く。
思い入れがあるものというのは、どうしたって大事にしたくなるものだ。
それがたとえ枷にしかならない物品であっても、忌まわしい過去を思い返させる品々であっても同じこと。
……入れ込んだ思いが綺麗だろうと醜かろうと、きっと変わらない。変われない。
ファインドフィートは身を以てそれを体感している。
故にか、共感もひとしおだ。
「……では、そろそろ失礼します。
早くこれを捨てにいかないとダメなので」
「あっ、そういえば途中だったね……。
ところでなんだけど、それって何が入ってるの?」
ファインドフィートの姿勢から見て取れば、その中身の重量にもおおよその見当がつく。
ウマ娘であるからこそ"軽い"と形容できるのだろうが、純粋な重量としてはそれなり以上の中身の筈。
ちっぽけな好奇心を携えてファインドフィートの瞳を覗き込む。
……やはり、鉄仮面の裏側は見抜けない。
「専門書とか、星座盤とか、望遠鏡とか……もう使わなくなった不要品です。
元々一応持っているだけのものでしたし、もう良いかと思いまして」
「う~ん……でもさフィート。
その割には……こう、思い入れがありそうだよ?」
「それは……気の所為です。
本当に、本当に……タダのゴミなので、お気になさらず」
──"本当にそうなの?"と、言の葉が喉元までせり上がる。
しかし、二の句は告げられなかった。
告げるべきだろう言葉は、何も生み出せなかった。
……そしてそこで話が途絶えて、暫しの静寂が満ちる。
他にある音なんて他のウマ娘の雑踏か、さあさあと吹く風程度。居心地は然程悪くはなかった。
「……では、また」
「うん。またね、フィート」
特徴的なポニーテールが遠のいていく。
軽やかに跳ねるそれを見送って、ファインドフィートは再び目的地へと意識を向けた。
歩いて残り数分か、その前後。十分もかからない。
ゴミステーションの傍に居た係員の男に一声かけてみれば、なんと本人による仕分けをした上でそれぞれのゴミ箱に放り込むべきらしい。当然である。
「あっちでどぞッス」
「……ありがとうございます」
ダンボールを運ぶ。がさりがさり。
通行人の邪魔にならないだろう道の隅に置く。ごとり。
重くもない、軽くもない箱の蓋を取っ払って、中身を全部を取り出した。
専門書、星座盤、天球儀、望遠鏡。
どれもこれも子供向けにデザインされたシンプルなものばかりだ。
使い込んだのだろう形跡が所々に見られるものの概ね丁寧に清掃されている品々。
……これらは全て、ファインドフィートにとっての"抜け殻"だった。
諦めた夢の痕跡の、寂れ切った成れの果て。
諦めた癖に手放せなかった、彼女の臆病さの象徴とも形容できるガラクタだ。
「本は、あそこ。天球儀は普通ゴミ……望遠鏡は、金属ゴミ……」
一つ一つ丁寧に手にとって、各々の居場所へと運んでいく。
そうしていれば、少しずつ身体が軽くなっていくような気がした。
少しずつ、少しずつ、荷物が解けて剥がれ落ちる。
……それは良いことなのだろうか。
ファインドフィートはきっと、良いことなのだろうと思った。
夢を叶えたいのならば、きっと必要なことなのだろうと思った。
「これは……ああ、家族写真ですか。
こんな所にあったんですね。わたし、もう無くなったのかとばかり……」
色褪せていて、紙質も古ぼけている。
しかし間違いなくファインドフィート達を写した写真だ。見間違えるはずもない。
「……懐かしい、ですね」
装蹄師の父。
ウマ娘の母。
そして──"青い目のウマ娘"だけが残った、偽りの家族写真。
三人家族を写した微笑ましい写真。見るものはそう捉えるのだろうか。
けれどファインドフィートにはそう見えなかった。
「燃えるゴミ」
──グシャグシャに握りつぶす。
もう復元できないように、思いっきり力を込めて。
圧縮に圧縮を重ねて磨り潰すように、しっかりと。
……ウマ娘の怪力を発揮すること数秒後。
単なる紙製ボールに成り果ててしまった哀れなそれを、十数メートル先のダストボックスに向けてシュート。
右手のしなりは抜群だ。綺麗な軌跡を描いてホールインワンである。
「……」
か細いため息を一つ。
滲んだ毒気をそのままに、再び段ボール箱に向き合った。
中身はもう殆ど空っぽだ。底の茶色が"こんにちは"とほぼ全面を晒している。
最後の最後にたった一つ残ったのは──またしても一枚の紙切れ。
くすんだ紙。褪せたインク。端が散り散りになった写真。
「……あぁ」
結ばれた像が示すのは装蹄師の父と、ウマ娘の母と──。
「これもまだ、残っていたんですね」
青い目の『弟』。赤い目の『姉』。ヒトとウマ娘。
文字通りの意味で血肉を分けた『双子』が、カメラのレンズを見つめていた。
つまり、ファインドフィートの瞳を覗き込んでいた。
──そう錯覚してしまう程度には活き活きと輝いていて、写真越しながらも微笑ましくなってしまう。
けれども次に彼女が思うのは──ただ、"こういう時期もあったのだなぁ"という望郷の念のみ。
今となってはもう何処にもない、
「……燃えるゴミ」
しかし、そんな貴重な写真であろうとも捨てる。逡巡無く──とは、言わない。
それでも、躊躇の後に捨てられる。
そしてまた手の平で握り潰してボール状に固めて、ゴミ箱に放り投げる。
何せ、ファインドフィートは失った後なのだ。
それならばこんな物に意味はないし、虚しいだけだった。
「……こんなもの未練でしかないんです。
もう、とっくの昔に諦めたものですから」
だから正しい。
本も、望遠鏡も、星座盤も、家族写真もすべて捨てる。これは正しい行いなのだ。疑いようもなく、一分の狂いもなく、火を見るよりも明らかに、正しい行いである。
自分に言い聞かせるための言葉が鼓膜を──脳髄の奥を揺さぶった。
……けれど心には響かない。
何故だろうか、と自分に向けて呟いた。
この問いに対する答えは簡単で、誰に言われるでもなく理解していた。
こんな言葉が白々しいと理解しているのは、他ならぬ彼女自身なのだから。
──そんな結論を口の中で転がす。ころころ、ころころ。
こんなもの"木の洞にでも吐き出すべきだった"と、一人自嘲しながら。
「さあ……これでゴミは捨て終わりました。
完了です。これが、最善です」
最後に残ったダンボールを丁寧に畳んで、紙用のスペースに詰め込んでおく。
これでファインドフィートの両手は空っぽだ。手に持つものは何もない。
勝手に揺れる耳に釣られてか、耳飾りの金具から軋む音が鳴る。
カチャカチャ、カチャカチャ。酷く耳障りだった。
「……どうも、お疲れさまです」
係の男に声だけかけておく。
それに対する返事を聞きもせず、逃れるように背を向けた。
蜘蛛が紡ぐよりも儚い未練の糸を逡巡と共に振り払って、じっと耳を塞ぐ。
こんな事をしても、音の源はすぐそこにある。当然無意味だと理解していた。
「…………」
それでも歩いた。また日常に戻る為に。
……果たして、胸の内は軽くなったのだろうか。
荷物を解いて、削ぎ落として、軽くなったのだろうか。
きっとそうに違いないはずだと、ひっそり呟く。
何故なら、胸にぽっかりと穴が空いたような気分だったから。
木の洞と、空洞の胸。果たしてどちらが軽いのだろうか。
──彼女は、どちらも大差無いだろうなと自答する。あまりにも無意味な懊悩だ。
「……姉さん」
……寮に戻る道中、ふと、ぼんやりと焦点の合わない瞳で地面を見下ろす。
視線の先の春を謳歌するバッタ達は相変わらずの能天気。
己達を見つめる少女の内面なんぞ気にすることもなく、ただ悠々と軽やかに飛び跳ねるばかりだった。
分かっています。
叶いもしない夢に未練を抱くのは無駄だって。
とうの昔に捨てたつもりの夢に思いを、後悔を馳せるのは無意味だって。
ぼくは、この胸に抱く
ぼくは分かっています。分かっているんです。
だから諦めました。だから、
過去に繋がる糸を、全部燃やしました。
それでいいじゃないですか。
それだけで、いいじゃないですか……。