【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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21話

"日本ダービー、菊花賞……あと、天皇賞?

わ、これって春と秋で別々にあるんですか?

最近のレースって色んな種類で別けられてるんですねぇ。

昔だったら何もかもが、もっともっと単純だった気がするのに……"

 

"単なる追いかけっこだったり、走りたい娘で集まるだけだったり"

 

"……あぁ、神事でもありましたねぇ。

走ることは、命の祈りそのものですから"

 

 

 


 

 

 

 空に日が昇ると同時に眠りから覚めて、敬愛すべき先輩と共に朝食を食み、学業をやり過ごし、放課後には自らの限界スペックを引き上げるための調練に励む。

 ファインドフィートの一日は何があっても変わらない。

 胸の痛みに苛まれようとも、過去の残花を棄て去ろうとも、在りし日に追憶をはせようとも、変われない。

 

「芝2000メートル、2分9秒と8。

 やるな、流石のタイムだ」

「……っ、わたしは、ファインドフィート、ですからね……」

「落ち着いて息を整えろ。

 次は1800メートルだ」

「了解、しました……っ」

 

 未だ空に掲げられた陽光に目を細め、額を伝う汗を乱雑に拭い取る。 そして湿り気を帯びる袖口を軽く捲りあげた。

 ここ最近のタイムは以前にも増して高水準であり、達成感にも似た情動がとめどなく尻尾を揺らした。

 本番ではない練習のタイムなのだから、本番以上に安定した走りを出来て当然である。

 しかもその上ファインドフィートは『姉』の心臓を受け継いでいるのだから、いい結果を出せて然るべきとさえ思っていた。

 

 ……とはいえ、それでも喜ばしい事に違いはない。

 身体能力が高まるという事は、『姉』のスペックを引き出せているという事実の表れでもあるのだから。

 

「ふっ……ふぅ……」

 

 ──"無駄な思考ですけれど"と小さく吐き捨てて、芝に爪先を擦り付ける。

 振動に合わせて脚に籠もった熱を少しずつ発散させながら、芝の青臭い香りを吸い込んだ。

 

 トレセン学園のレース場を覆う芝は香りだけではなく、非常に出来が良い。彼女らウマ娘の肉体にかかる負担を和らげてくれる程の一級品である。

 そのお陰もあってだろう、何度でも何度でも地を蹴り駆け抜けたところで脚の損耗は微々たるもの。

 こうして軽い刺激を与えながら深呼吸を繰り返せば、数分も待たずにまた走り出せる程度に回復していた。

 

「水分補給も忘れるな」

「はい……」

 

 彼女の身体に宿ったヒトの因子──つまり、哺乳類の中でもトップクラスの持久力を持つ生命体由来の回復力を一等強く残したままの彼女にとって、多少の休息だけで十分なものとなる。

 もちろん、尋常なるウマ娘とて()()という歴史の積み重ねによって獲得した回復力が存在する。

 血と歴史の積み重ねによってウマ娘達の身体能力の上限値──正確に言えば、成長力とも言いかえる事が出来るものを高めて次代へ繋ぐのだ。

 回復力とは、つまり傷ついた肉体を癒やすという事。

 以前よりも強く、以前よりも靭やかに、以前よりも大きく。

 そうして強くなった肉体を更なる訓練で追い込んで、高みへと導く。

 生命とはそうして緩やかに育つもの。

 

 ……だが、今の世代に限定したなら、ファインドフィートの回復力だけは他の追随を許さない。

 これのみが『彼女』が有する唯一の強みであるとも言える。

 代を重ね続けた先では没個性、という注釈付きではあるのだが。

 

「んぐっ……」

 

 ペットボトルの水を全部飲み込んで、空っぽになったプラスチックを握り潰してボール状に変形させる。

 彼女の握力は140キログラム、成長期だ。

 

「処理、お願いします」

「……あぁ」

 

 放り投げたボールが弧を描き、トレーナーの手の平へ着弾する。

 以前は肉付きが悪くて痩せ細っていた青年も、気付けばこうして反応できる程度には健康的な肉体へと回復していた。 生活習慣を改善した成果の表れだ。

 それをファインドフィートが気まぐれに用意(ド素人アレンジ)した手料理の効果と見るか、はたまた担当ウマ娘の手をわずらわせる訳にはいかないという大人の矜持か、あるいはまた別の要因か。

 

 何であれ、彼女に真実を知る由は無い。

 けれども己のトレーナーが健康であるのなら、心の底からとても良い事だと思える。

 健康な身体を失ってから大切にし始めるのではもう間に合わないもの。

 葛城トレーナーには事前に備えて貰って最後まで自分の担当をしてもらわなくてはと、仮面の裏側で一人呟いた。

 

「よし……もう一回、お願いします」

「……位置について、合図を待て」

 

 葛城トレーナーが手元のノートに何事かを書き込んでいる姿を横目に、呼吸をもう一度繰り返す。

 身体が十分に動く事を確認の後に所定の位置へ、揺るぎのない脚取りで移動した。

 スタート地点の中央で、右脚を前に、左脚を後ろに。

 上体を少しだけ地面に傾けて、両の手を身体の傍らでゆるく構える。

 

 額を流れる汗は既に乾き始めていて、僅かな湿りを残すのみ。

 ……とはいえ、またすぐに汗だくになるに違いない。

 春の風は暖かく、故に風邪を引く事は無い。 けれども不快感は誤魔化せないものだ。

 

 ──しかし、流した分だけファインドフィートは強くなれる。

 努力を積み上げた分だけ夢に近付く。

 研鑽を重ね続けた先にこそ、彼女の足跡を遺す栄誉が与えられる。

 

 それらが決して裏切らないなどとは、決して言えない。

 狂おしい程の勝利への渇望を燃やして、相応の血と涙と汗を流して。

 けれども結局、追い縋れもせず果ててしまったウマ娘なんて──それこそ、数え切れないほど存在しているのだから。

 

 彼女は"だからこそ"と、己の脚に鈍い活を叩き込んだ。

 非才のなり損ないでしかない自分が勝利を願うのなら、苦痛をも燃料に走り続けるしか無いのだと。

 

「スタート」

 

 ギラギラ輝く太陽の光。

 網膜を灼く刺激に目を細めている内に、葛城の合図が耳朶を叩く。

 気付けば、疾走が反射的に始まっていた。

 

 

 ◆

 

 

 ──それから、どれほどの時間を費やしたのか。

 星の傾きから知ることは出来ないかと頭上へ顔を向けてみた。

 ……が、残念ながら視界に飛び込むのは真っ白な天井のみ。

 現在地はロッカールーム故に、まったくおかしくない当然の話だった。

 

「ふぅ……ふっ……」

 

 ふらふらと揺れる身体を必死に律して、ベンチの上に腰を下ろす。

 トレーニングを終えたばかりであるためか、未だに荒立ったまま吐息が唇の潤いを奪い乾燥させていく。

 けれどそんな些事を気にする余裕さえなく、鈍重極まる動作で運動靴を脱ぎ捨てる。 汗で湿ったインソールがどうしようもなく不快だった。

 

 青い靴にケアスプレーを吹きかけ靴用乾燥機にセット。

 二本のノズルを挿し込みボタンを押すだけで後の処理は全自動だ。

 汗を拭って制服に着替えて、一息をついた頃には普段に近い状態までは回復してくれているだろう。

 

「……もう、七時ですか。

 早く帰って、ご飯を食べないと」

 

 ぽつりと、壁に掛けられた時計に向けて予定を伝える。

 当然、返ってくるのは規則正しく刻まれ続ける針の音のみ。

 他に聞くものは誰も居ないのだから順当な結果。 ……だとしても、もの寂しい気持ちにもなってしまった。

 

 普段は多くのウマ娘で賑わうロッカールームも今は無人だ。

 時間帯の関係もあってか、今の利用者はファインドフィートしか居ない。

 ただ、たった今起動したばかりの乾燥機の駆動音と蛍光灯による電気の呼吸音がチカチカ響くのみだった。

 

「はぁ……」

 

 ごうごう、ごうごう。チカチカ、チカチカ。

 そんな無機質な合唱で無聊を慰めていると、普段の喧騒が恋しくもなってしまう。

 

 夕暮れのカフェテリアで集まって、甘いものを食べて、おしゃべりをして、紅茶の水気で乾いた口を潤して、尻尾を揺らす。

 ……元々の彼女には、"そういった空間"なんて不慣れで、苦手なものでしか無かった。

 理由をあげるとするなら、"生来の気性として口が上手くないから"だろう。 これは変えようのない事実である。

 何かを語ろうにも、何を語るべきなのかが理解できていなかった。

 だから家族以外の人々と過ごす団欒の時なんて"恐ろしい"と忌避していたし、それを"楽しい"と胸を張る人の気持ちには全く共感できずにいた。

 

 ……その筈だった。

 しかし、今の彼女はどうしようもなくあの温もりを求めている。

 何故だろう、と首を傾げた。

 けれども重くなった脳漿にはあまりにも難解に過ぎる疑問であり、いくら悩めど無駄に尽きる。

 ついぞ、答えは毛の先さえも形にできないままだ。

 

「……」

 

 ぼんやりと気の抜けた様子で、乾いた唇を舌で舐める。鉄の味はしなかった。

 そうして一呼吸。吐息に疑問の尽くを混ぜ込み吐き出してしまう。

 更にもう二呼吸を置いて、肺の中を新鮮な空気で満たす。

 ただの虚無だった。

 

 ……しかし何時までもこうしてはいられないぞ、と一念発起しジャージの裾に指先をかける。

 早めに汗を拭いておかねば身体を冷やす。

 下手を打てば風邪を引いてしまうかもしれない。

 そんな事実程度は、一般常識として弁えているのだ。

 

 今日という日も一緒にトレーニングをこなした赤いジャージは、長い時間土埃に晒された事もあってザラザラのコーティングで汚れている。

 寮に帰ったら洗濯しなければいけないなと脳内の予定表に追記して、脱ぎ捨てた上下の赤布を綺麗に畳んで袋に詰めた。

 

 次いで手に持ったのはボディタオル。

 首筋、肩、背中、脇、胸元。

 少し持ち上げて胸の下まで、しっかり水気を拭い取る。

 限界ギリギリまで酷使された筋肉は熱く火照り、皮下で疲労に苦しんでいた。

 

 

 ──結局、身なりを整えるのに掛かった時間は二十分ほど。

 先程よりも大きく進んだ時計の針が現実を映す鏡のようにも感じられて、どこか寒々しい。

 

「……そろそろ、行きますか」

 

 誰に向けたわけでもない呟きを溢して、落としきれなかった埃が付着したままの芦毛を後頭部で結わう。

 運動後はどうしても熱気が溜まってしまう事もあって、こうして通気性を確保しておかないと不快になって堪らない。

 昔であればもっと短い頭髪だったから気にする事も無かったし、そもそも身綺麗であるか否かなんぞ気にするべき価値も皆無だった。

 

 ……しかし今となってはそうもいかず、長く伸ばされたこれに合わせた振る舞いが必要になる。

 運動の時には一纏めにしておかねば乱れるだろうし、湯船に浸かるときにはタオルで頭に固定していなければならない。

 それに毛艶を保つための手入れとて相応の労力を要する事だとか、ケア用品を仕入れる必要がある事だとか──様々な観点から評して、"まったくもって面倒極まる"などと感想を抱いた。

 

 とはいえ、髪を伸ばすと選んだのは他ならぬファインドフィート自身である。

 今になって本当に本心から嫌になった、などと言うつもりは無い。

 無いのだが、面倒臭いという感慨は拭えなかった。

 

「鍵、よし。消灯、よし。

 ……トレーナーも待っているでしょうし、早く行かないと」

 

 肩掛けカバンをもう一度持ち直して、ふらふら歩き出した。

 右へ左へ、上体の反復運動に合わせて両耳の飾りが小さく鳴いている。

 

 勿論、この疲労感もはじめの頃に比べて幾らかは慣れたもの。

 今では自力で歩けるようになり、足を引き摺るわけでもない。

 ……とはいえども、つらいものは変わらずつらいものだ。

 目的地である何時ものトレーナー室は同じ棟にあるおかげで、純粋な距離自体は然程でもない。

 それにしたってあまりにも遅々とした歩みだったが。

 

 一分、二分、三分。

 次いで四分、五分と歩行時間が延びる程、彼女の体力を加速度的に削り取っていく。

 そのせいでトレーナー室のドアを開けた頃には息も絶え絶えの有様だった。

 

「……来たか。

 ウォーターサーバーで水分補給しておくといい」

「…………」

 

 手元の端末に視線を落としたまま、青褪めた(かんばせ)が指示を出す。

 それを受けたファインドフィートは無言で、部屋の角の水回りへとふらふらの脚を差し向けた。 指示を出した主──葛城トレーナーのように血色が悪いという訳ではなくとも、覇気の無さではまったく同じ。

 それでも今日最後のタスクだけは終わらせねばならないのだと、疲労のみではなく思考さえも共有していた。

 

「…………じゃあ、来週分の修正案を共有しておく。

 疑問点があったら挙手……は、できるか?」

「出来るように、みえますか?」

 

 ──なんて呻きながら、備え付けのソファに倒れ込む。

 顔をクッションに埋める姿には、皐月賞ウマ娘としての威厳なんぞ欠片も宿っていなかった。

 

 過度なトレーニング……では無いものの、無理のない限界を狙いすましたメニューによって全身の活力を容赦なく叩き潰されていた故に、こうして脱力し切るのも無理のない事である。

 顔を持ち上げるのも億劫で、四肢を動かすのは不可能で、鈍い気怠さと胸の痛みという毒が彼女の身体に居座り続ける。 いっそ眠ってしまいたいなと欠伸をこぼして重い瞼で瞬いた。

 

「いや……まあ、そうだな。

 尻尾でも耳でも立てといてくれ」

 

 無言実行。 返事の代わりに尻尾が揺れた。

 砂埃で少しばかり汚れていたものの、白い毛並みは常と変わらず光を反射している。

 

 葛城トレーナーはそれを見てか、はたまた見ていないのか。

 意識の在り処さえはっきりと判別できない程億劫そうに頷き手元の資料に視線を落とす。

 幾十枚もの紙束に記載された情報群はファインドフィートの能力値をグラフ化したものや、過去との比較点に注釈点。

 そして今後の目標レースに向けたトレーニングメニューの構想を文字にしたものなど内容物は非常に多岐にわたる。

 ある意味ではプライバシーもへったくれもない紙面を丁重に捲りつつ、以前よりは肉付きのいい指先で文字をなぞった。

 

 そうして口から垂れ流すのは来たる日本ダービーという大舞台に向けた調整策だった。

 過去と現在のステータスを比較し、成長率を導き出し、細かな部分を煮詰めて微調整する。

 

 前はこうで、今はこうだった。だからここをこうしたほうが正しい。 断言系文言だ。

 ……つまり、先程の声掛けはさほど重要なものではなく、ただ形骸化しきった"説明義務"とやらを無機質に履行しているだけに過ぎない。

 ファインドフィートに対する解説というよりも、単なる確認行為に等しかった。

 

 故に不純物が混入することもなく、今後の先を定める指針が着々と堅固な形を獲得していく。

 それを欠片の疑いもなく、全霊を以て疾走することのみが彼女の役割である。

 

「まずは過去の実績まとめから始めようか。

 最初に着目するべきは心肺機能だな。

 トレーニング開始当初からキミの能力を計測していた訳だが──」

「…………」

 

 ゆらゆらと、何ら意図を持ち合わせずに尻尾を揺らす。

 しかし葛城トレーナーは目もくれず、気付きさえせず朗々と手元の文字を追いかけ続けていた。

 

 この通り、二人の間に意見交換なんてものは存在しない。

 当然、構想の材料はファインドフィートが提供するものだ。

 けれどそれらのデータをどのように組み合わせて料理するのかを決定するのは、葛城トレーナーの仕事だった。アスリートたるウマ娘の担当領域ではない事柄である。

 故に不満はなく、疑問もなく、ただソファに抱かれて束の間の微睡みに身を委ねるのみ。

 

 勿論、そんな彼女の姿は葛城トレーナーも把握している。

 だからといって彼女を咎める気はなく、むしろ休める時に休むという合理的な行動は好ましいとさえ判断している。

 その()()()()()()な様相に些か──そう、些か、年頃の少女としては如何なものかと呆れてしまうけれど。

 しかしここ最近はずっと()()()()()()()の担当ウマ娘が気を抜いているのだ。 多少品のない行動をしている程度で目くじらを立てるほど愚かでは無いつもりだった。

 

「……さて、ここの脚部駆動についてだ。

 深く沈み込むフォームは……そう、キミや、一部のウマ娘に見られる特徴的な形態だ。

 極端な前傾姿勢と柔らかな関節の駆動域によって支えられる走法だな。

 次回からはこのフォームの強みを補強するためのメニューも組み込んでおくから頭の片隅においといてくれ。

 ちなみにこの脚の運用方法が何故効果的なのかという話の根拠なんだが、これは先代桐生院トレーナーの論文が参考になる。

 まずウマ娘の骨格筋の部分から始まるが──」

「…………」

 

 連なる言葉は途切れること無く部屋に染みる。

 ひとつ、ふたつ、みっつとファインドフィートの耳朶を無意味に撫でて、脆く解けて消えてゆく。

 もはや彼女の頭脳にその中身に詰まった意味を解する気概さえもなく、単なるバックコーラスに等しい環境音として受け取っていた。

 

「そうだな、夜時間帯にサプリメントを追加しておこう。

 疲労回復効果を高めるために多少の間食も許可する。内容は後からLANEで送っておくとして──」

「……ぅ」

 

 滔々(とうとう)と押し寄せる波のようだ、と朧気な意識に感慨が浮かぶ。

 色はなく、変化もなく、単調で──何から何まで面白みのない解説。

 ある意味睡眠導入のホワイトノイズにも似通っていて、彼女の意識を強制的に鎮めてしまう。

 

 ──男の声の合間に小さな寝息が交ざるまで、大した時間は掛からなかった。

 

 

 ◆

 

 

 

「……ふぁ」

 

 漏れ出た欠伸を、歯を立てて噛み潰す。

 すっかり暗くなった空のおかげで、みっともなく広げられた口は目立たない。

 葛城トレーナーの講演を子守唄として眠りにつくこと30分程度。

 既に身体の動作を阻害する疲労の殆どが抜け落ちているおかげもあって、寮への帰路を踏む脚取りはとても軽い。

 とん、とん、とんと靴先から響く音が小気味よく、彼女の心に優しく伝播する。

 泥で汚れた青い靴は、きっと彼女にとってこれ以上無く上等な化粧だった。

 

「帰ったら、ご飯を食べて、早く寝ないと……」

 

 道端に立ち尽くす街灯の光を頼りに足を進める。

 前から横から、そして後ろからも照らされた事で幾重にも重なる影を引き連れて、ゆったりと。

 視線は地面に固定されて上にも横にも動かない。

 眠気と疲労の二重苦がぶら下がっている故に、そう簡単に抗えるはずもないのだ。

 

「あっ、フィートだ! 

 奇遇だねー!」

 

 ──が、声をかけられあっさりと視線を引き剥がされる。

 次に瞳が向かう先は、馴染み深い高音で駆け寄ってくるトウカイテイオー。

 彼女もトレーニング終わりの帰路に就いたところなのか、汗が滲む額に髪を貼り付けさせていた。

 

「テイオーさん……? 

 先輩も、トレーニングの帰りですか?」

「……うん、そうだよ! 

 ねね、せっかくだし一緒に帰ろ!」

 

 一瞬詰まった解答に、おや、と少し首を傾げる。

 常に明朗かつ快活なトウカイテイオーにしては珍しく、流れるような返答ではなかった。

 普段の彼女であればもっと喧しく反応を返すはずなのにと瞳を細めて、端正な(かんばせ)を覗き込む。 しかし底の抜けた柄杓(頭脳)では、明確な意味を汲み取ることなぞ一切不可能。

 

 ……とはいえ、だからどうしたという話ではなかった。

 ファインドフィートにとって気にするべき事でないのなら、それでいい。

 考えずにすむのなら何も考えたくはない。

 今の彼女が思慮を馳せるのは、そんな妥協の連続であった。

 

「……ええ、わたしでよければ」

 

 嬉しそうに頬を緩めたトウカイテイオーと連れ立ち、脚並みをゆるく揃える。

 一人では暗い夜道だった。 しかし二人ならば途端に華やかに見えて、ファインドフィートの道行さえも明るく見えてしまう。

 実際に増えたのは灯りではなく、音の発生源だけ。 そして電灯に揺れる影の主のみ。

 けれども一人ではないという事実だけでも安心感に満たされて、爪先に軽やかな高揚が宿ってしまう。 彼女の年齢を考慮したなら、然程変な話でも無いだろう。

 

「でさ、マックイーンったらまたトレーナーに怒られたんだよ! さすがにそろそろ食べ過ぎだ~! って、目をこ~んなに吊り上げてさ!」

「それは……その、大変そうですね」

「"パクパクしたいですわ~! "って落ち込んでたけど……流石にそろそろ我慢してもらわないとね。

 ほら、もうすぐレースもあるからさ」

 

 口ぶりはやや刺々しくも、対照的にその声音は柔らかかった。

 親友に対しての呆れを多分に含んでいても、"それでこそ"と受け入れている様子である。

 

 本人は甘い菓子が大好きなのに、彼女自身の体質によって制限される苦しみは同情に値するものだ。

 いくら食べても太らない体質のファインドフィートには共有できない悩みではあるけれど──彼女は、もしもメジロマックイーンと同じ境遇だったならみっともなく打ちのめされるに違いないという確信があった。

 

「……それなら、レースが終わった後にでも甘いスイーツを食べに連れて行ってあげたいです。

 マックイーンさんも、その頃にはカラカラになっているでしょうから」

「アハハ……確かに皺くちゃのミイラになってるかもね。

 減量末期のボクサーとかピラミッドの中のヒトみたいにさ」

 

 トウカイテイオーの表現を元に想像する。

 ひと目見ただけでも分かるモチモチのほっぺたがげっそり痩せこけて、ギラギラ輝く眼光でレース相手を睨みつけるのだ。

 ファインドフィートは、もしも己がその場面に遭遇したのなら無様に尻尾を丸めて一目散に逃げ出す自信しか無かった。

 

 

 ──そんな、風評被害でしかない会話であったり、学園前に出没するはちみーの出店であったり、最近発売された新型のスポーツシューズであったり、会話の内容は様々な方向に転がっていく。

 ころころ、ころころ、年頃の少女達の交流として考えたなら極々自然な一場面である。

 鉄仮面の乙女の表情は相変わらず微動だにもしないが、その浮ついた内心は耳と尻尾の躍動によって誰であってもいとも容易く看破できた。

 

「…………」

「……テイオーさん?」

 

 ……しかし、トウカイテイオーの目的は他にある。態々待ち伏せてまでファインドフィートを捕捉したワケが。

 確かに、こうして親交を温めるというのも素晴らしいことだ。それは誰にだって否定できないし、否定させない。

 ()()()()()、トウカイテイオーには尋ねたい事があった。尋ねなければならない事があった。

 躊躇いがちに唇を舐めて、喉を小さく震わせる。

 

「──ところでさ」

 

 ──続く語句は、掠れた音に成り下がる。途切れて解けて形を失う。

 淀んだ唇を閉じて、横一文字に結んで固まってしまった。

 

 だとしても歩く脚は止まらない。変わらないペースで、帰還を目指す。

 それはつまり、やがてはこの語らいも終わるということで、"何か"を口から吐き出すまでのタイムリミットでもあった。

 空に日が昇るように、月が海の向こうに沈むように、この世に鎮座する当然の摂理。

 ……しかし、そうと理解しているはずのトウカイテイオーは口を噤み言葉を失った。

 

「……?」

 

 ファインドフィートには横を歩く彼女の内心が分からない。

 ただ"何を言いたいのでしょうか"、と純粋な疑問に(かぶり)を振った。

 残念ながら、彼女がいくら考えようとも事の裏側を推測することなんて不可能で、何を原動力に瞳を揺らしているのかも理解できなかったのだが。

 

 それから更に一分か、はたまた十秒程度か。

 

 やや間を空けて、ファインドフィートの正面に素早く回り込む。

 青い瞳と青い瞳が向かい合い、互いの(かんばせ)を反射し合った。

 トウカイテイオーの瞳は普段通り、深く澄んでいる。

 

「……その、最近、変なこと無かった?」

「変なこと、とは……?」

 

 動作の鈍った唇を、鈍い困惑を宿した言葉で濡らす。 至極真っ当な反応だ。

 "まあこんな事急に言われても困っちゃうよねー!"と頭を抱えるしかない。

 

 勿論、トウカイテイオーとてこんな唐突に話を切り出すつもりではなかったのだ。

 もう少し場の空気を整えて話しやすい話の流れを作ってから──などと計画はしていた。

()()()()()していたのが……"どうやって場を整えるのか? "という現実的な問題が彼女の思慮を叩き伏せられてしまった。 現実は理想通りにいかないものとはこの世の常である。

 

 先輩振ろうと大人のお姉さんとやらを気取ろうとも、やはり所詮は中等部のウマ娘。

 近頃は()()()()()によって随分と成熟し始めた所ではあれども、まだ青い。 こればかりはどうしようもない話だった。

 

「あ~っとね……」

「……?」

 

 "あ~"とか、"う~ん"とか。

 意味をなさない、枕ですらない音を作って足りない知恵を必死に絞る。

 しかし悩めど悩めど、経験不足の脳味噌からは冴えた一言を引きずり出せず時間ばかりが過ぎ去るのみ。

 

 懊悩を真正面から受け止めるファインドフィートは仮面の裏側に混乱の心を押し込んで、じっとトウカイテイオーの二の句を待つ。

 トウカイテイオーが口を開いたのは、意外とすぐの事だ。

 

「最近のフィートを見てるとさ、不安になっちゃうんだ。

 普段はぽわぽわしてるのに、今のフィートは……何ていうんだろう」

 

 いつの間にか脚並みは崩れ、その場に縫い留められていた。

 電灯が生み出す影が幾重にも連なり、輪となって二人を囲む檻のように地を這う。

 

「自分を大切にしてない……みたいな?」

「────」

 

 四の句は告げられない。

 ファインドフィートからも、トウカイテイオーからも。

 

 暫しの沈黙を以て意味の咀嚼を行わせるつもりなのか、トウカイテイオーは沈黙を守るだけ。 道端の電灯と涼やかな風以外に奏でられる音色は皆無だった。

 

「表情は、変わっていないはずですが」

「そうかな? 

 フィートって、結構わかりやすいよ」

「……勘違いですよ、きっと。

 何もありませんでしたから」

 

 "何故そんな事を"と理解に苦しむ。

 "何故そう感じたのか"と、返したくもあった。

 いくらかの疑問が彼女の脳髄を揺蕩うけれど、トウカイテイオーによる問いへの答えは欠片さえも湧き出ない。

 

「……でもさ。

 友達がそんな顔してたら心配しちゃうよ!」

「友達……?」

「そ、友達!

 一緒にご飯食べる仲じゃん、当然だよ!」

 

 ──なんて。 輝く笑顔で、あまりにも綺麗すぎる意思を口にされてしまえば、無様な懊悩が更に重みを増してしまう。

 光が強くなるほど影が色濃く滲むように、無力感と羨望の念が心の奥底に澱んで積もった。

 ヒトは自己に無いものを羨む生き物であり、その狭間に絶対の差を見出す感性を持つ。

 そういった意味であれば、ファインドフィートはどこまでもヒトの子でしかないのだろう。

 

「テイオーさんは、すごいですね」

「えへへ……よくわかんないけど褒められちゃった」

 

 もしも、先輩である彼女が無邪気に友情を誇るのだとして。

 もしも、身を案じる彼女の言葉が真実だとして。

 ファインドフィートはそんな彼女に対して、どんな感情を抱けば良いのか分からなかった。

 『ファインドフィート』というウマ娘はなんと答えを返すべきなのか、分からなかった。

 他の誰でもない彼女のみが有するはずの答えであれども、他の誰でもない彼女だからこそ正しい答えを持ち合わせていないのだ。

 この世の誰にも聞こえないよう小さな意思を舌の上で転がして、自己を罵る言葉を呑み干す。 腐った苦味を受けてか、指先が小さく震えた。

 

「……ゆっくりで良いんだよ。

 ほら、マイペースにいかないと疲れちゃうからね!」

「わたし、は」

 

 しかし、彼女の舌は回らない。

 口は寸分さえも開かない。

 針金で固定されているのだろうかと下らぬ猜疑心を抱くほど。

 指先で唇を抑えてみれば、柔らかいだけの感触が返ってくる。

 

「わたしは……」

 

 動きが止まる。

 言葉が出ない。

 形にならない。

 

「何も、無いんです。

本当に大丈夫ですから」

 

 そもそも"それ"を形にするなんて不可能なのだと、鬱屈と奥の歯を噛んだ。

 彼女がどんな思慮を挟もうとも、未熟な心の澱みは喉の奥で詰まって欠片も出ていきやしない。

 偽りのない彼女の本音は、他でもない彼女自身が隠したいと願って止まない恥そのもので、夢を叶えたいのなら不要な言霊だから。

 

 

 ──故に、それは()()()()()

 行動指針は固定済み。道中で起こる多少のブレは見逃される。

 しかし道を逸れることは、決して許されない。

 ズキズキと痛む胸を抑えて、そっと地面を見下ろした。

 

「……ごめんなさい」

 

 故に答えは存在しない虚構へ成り下がり、単なる雑音を代役として吐き出すばかり。

 重みに耐えきれず伏せられた白いウマ耳。 つられて揺れる青の飾りが、代わりの如く虚しく鳴いた。

 か細く甲高い金切り音は、断末魔の余韻にも似て寒々しい。

 

「わたしは、大丈夫ですから」

 

 だから、この話は此処で終わりなのだと言外で語った。

 ファインドフィートに答えはなくて、帰るべき寮にも()()()()()()辿り着いていて、人の気もある。

 続ける意義は無く、己に答える口は存在しないのだと、背を以て無味乾燥に。

 

「……ねえ、フィート。

 泣いてるの?」

 

 返る言葉は、何もない。

 

 

 

 


 

 

 

"ダメですよぉ。

いい子だから、邪魔をしないでくださいね?"

 

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