【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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22話

 "まったくもう、頭の中まで縛るなんて酷すぎじゃあないかしら!"

 

 "でも安心してね、ファインドフィートちゃん。

 この私は──この『王冠』は、そんな無意味な事しないもの!

 あなたを何処までも走らせてあげる"

 

 "さあ、祝福(アイ)をあげるわ!"

 

 

 


 

 

 

 日本ダービー。

 それは数多のウマ娘やトレーナー、そして大衆が夢を重ねる大舞台である。

 人生に一度……正真正銘、たったの一度のみ参列可能なこのレースは、毎年必ず熱狂の渦を引き起こす。

 ウマ娘の中には自分の将来をチップに据え、文字通り命を燃やしてまで挑む者がいるというのだから……その冠の価値が察せられる。

 

 "けれど、それも仕方のない事だろう"と眼下のターフに視線を賜わせ、彼女、トウカイテイオー(無敗二冠ウマ娘)は一人頷く。 一年ぶりに味わう空気は否応なく彼女を疼かせた。

 

「日本ダービー、久しぶりだなぁ」

 

 走るのは世代最高の十八名。

 彼女等のドラマを見届けるために集った衆目、幾万人。テレビの向こうの人数まで含めたならば、もう数え切れないほど。

 ウマ娘達の祭典(レース)──トゥインクルシリーズは国民的エンターテイメントでもあるのだから、まったく不思議ではない。

 

 そんな()()いる観客達の中でも、一等恵まれた指定席こそがトウカイテイオーの現在地であった。

 建造物の高所に拵えられ、全面ガラス張りである故に見晴らしが非常に良い。

 レース場の端に視線をずらしてみれば、つい先程入場を始めたばかりである後輩達の姿がよく見える。

 鹿毛や青毛、黒鹿毛、中には桃色と見紛う極めて明るい栗毛までいる。 非常にカラフルな色彩は、芝の青に美しく映えた。

 

 そんな彼女等の中でも、仲のいい友人の──ファインドフィートの芦毛は光を反射してか、一際強く輝く。

 相変わらずの無表情は余人の推察を拒絶し、ただ無機質な美として佇むのみだったが。

 

「…………」

 

 ──観客席へ小さく手を振る彼女の青い瞳は常と変わらず。

 ぼんやりとしていて、仔犬のように無垢で、しかし何処か危うい色香が秘められている。

 

 そして思い出すのは先日の対話。

 痛みに苛まれ、震え、泣きそうな顔をしていた彼女の嘆きが脳裏で幾度となくリフレインして、トウカイテイオーまで泣きそうになってしまった。

 

 ヒトは彼女を無表情だと云い、だから感情が薄いのだと云う。

 "表情がない事"と"感情がない事"がイコールで繋がる筈もないというのに、無責任に囀っている。

 それらの色眼鏡がトウカイテイオーにはどうしても許せなかった。

 誰も彼も彼女そのものを見やしない。

 芦毛の怪物二世だとか、サイボーグ二世だとか、無敗の後継者だとか。

 当事者たちの意向の一切に思考を馳せずに騒ぎ立て、さも美談のように称賛するそれが何処までも腹立たしい。

 

 そして、それらの賛美が薄っぺらいせいなのか。 場に満ちた熱気は凄まじいのに、彼女そのものに向けられた情熱は薄く朧げで幽かな灯火のよう。

 ……トウカイテイオーが耳を後方に引き絞る様からして、現状に対する当事者の心象が伺える。

 

「確かにさ──みんながみんな、そんなヒトじゃないって知ってるけどさ。

 ……けどさ、こんなのあんまりだよ」

 

 それがファインドフィートの祈りを踏み躙る行為だとも考えず、無邪気に、純粋に、応援のつもりの舌で刺す。

 だとするならば、誰も幸せになれないではないかと、誰かが辛くなるだけではないかと、鬱屈と顔を伏せた。

 

 ウマ娘にとって、走るという行為は祈りそのものなのだ。

 本能のために、誇示のために、夢のために、生きるために。

 それらはどれも純粋で、自分が信じる存在に捧げられるもの。

 最も原始的で、最も無垢な祈り。

 

 ……それを穢されるのは悲しい。これじゃあ全く笑えない。

 色眼鏡による装飾越しの賛辞ほど虚しいものはないのだから、笑えない。

 そんなものを友人に強いるなんて、どうしても認められなかったのだ。

 

「……フィートは、どう思ってるのかな。

 ボクだったら嫌だよ。 誰もボクを見てくれないなんて、つらいから」

 

 心の内にモヤモヤと曇った苛立ちが立ち込めて、胸の底を焦がして舐める。

 いっそのこと鎌倉系武士の友人をけしかけてしまいたいとさえ願うほどだ。 彼女であれば()()()()()()()を対価に叶えてくれるかもしれないなと、いつか見たドラマのワンシーンを根拠に妄想してしまった。

 

「……はぁ」

 

 重く淀むため息が漏れる。

 なにせそれだけではなく他にも大きな問題がある。 もう山積みも山積みだ。

 スペシャルウィークの夕食よりも尚大きな山を作っているに違いない。

 せめて先日の失敗が無ければこれほど悩む必要もなかったのかもしれないな、と勢い任せの己を恨んだ。

 

 先程までの悩みのみならば、()()()()()()かもしれない。

 励まして、応援して、乗り越えることを信じればいい。

 ……それを簡単な事等とは決して言えないが、もう一つと並べたら比較的マシなのではなかろうか。

 

 だからこそ苦悩する。

 あの星空の下で、電灯に照らされた道で、手を掴み損ねてしまったから。

 

 もしかしたら、もっとうまい言葉があったのではないか。

 もしかしたら、もう少し入念に用意を整えるべきだったのではないか。

 もしかしたら、あの時強引に手を伸ばすべきだったのではないか。

 もしかしたら、もしかしたら、もしかしたら──―。

 

 ……なんて妄言が溢れてしまえど、どれもこれも今となっては意味を為さない()()()()の話だ。

 それが()()()()でしかない達成目標であることも知らず、トウカイテイオーは沈潜と項垂れていた。

 

 ──そんな彼女の内心を知ってか知らずか、軽やかな靴音が鳴る。

 

「どうしたんだ、テイオー。

 らしくないじゃないか」

「あっ……カイチョー。

 もう用事は終わったの?」

「勿論、万事抜かりなしだ。

 スタッフの方々が胸中成竹として備えていたおかげかな、私の方から特別何かをする必要は無かったよ」

 

 "カイチョー"と呼ばれた少女は肩を竦め、トウカイテイオーの隣で脚を止めた。

 長髪の栗毛といい、額に戴く三日月の環といい、纏う覇気といい、トウカイテイオーと不思議な共通点を有している。

 いいや、正確な表現はトウカイテイオー()似ているのではなく、トウカイテイオー()似ているのだ。

 それこそ姉妹と言われて紹介されても、殆どのヒトは違和感を覚えない程度に不思議な繋がりが見て取れる程に。

 

「チームの方は良かったのかい?」

「うん。

 スピカの皆は普通の観客席から見てるって」

「……そうか」

 

 彼女の名はシンボリルドルフ。

 中央トレセン学園の生徒会長であり、史上初の七冠ウマ娘の栄誉を掴んだ女傑。

 彼女を形容する言葉も、彼女を畏れる信仰も、それこそ数え切れないほどに存在する。

 

 そんな彼女とてあくまでも学生という身分ではあるのだが、やはりその功績と生徒会長という肩書故にか。 今回のように大規模なレースでは現地に出張って諸々の手続きを行う事があったのだ。

 それをフットワークが軽いと表すべきか、責任感が強いと賛辞すべきか。

 

 何であれども"レースに絶対はない"という常識を粉砕した皇帝はこの場に訪れ、アメジストの瞳をガラスの向こうに差し向ける。 淡い光を見つめるような優しい視線だった。

 ゲートに入り込み始めた後輩達は視線にも気付かず、緊張感を味わう事に専心している。

 

「そろそろ始まるようだな」

「……フィートは外枠かぁ、大丈夫かな」

「フィート……ファインドフィートか。

 入学式の時には中々()()()()な少女だとは思っていたが……正しく回山倒海。

 今世代で注目株の一角になったな」

「……そうだね」

 

 会話が途切れ、束の間の静寂。

 それから数度呼吸を数えた頃に──鉄の軋みと共にゲートが開く。

 

 合わせて飛び出す少女達と、弾ける歓声。

 それら全て薄いガラスで隔てられている故にか、まるで遠い世界の出来事のよう。

 二人が居る指定席だけが外界から切り離されてズレたままの時を刻みゆく。

 

「そういえばエアグルーヴはどうしたの?

 てっきり此処に来るものだって思ってたけど」

「ああ、彼女には彼女のトレーナーさんと行動してもらっているよ。

 集中して観察してみたい……とは聞いていたが、さて」

 

 ──思慮で瞳を淡く染めて、しかしすぐさま(かぶり)を振る。

 気になることは多くある。

 ……が、何も今この瞬間まで思い悩むべき物ではない。 それこそ不作法というものだ。

 

 声に出さず独りごちて、レースの動向へ意識を落とした。

 クラシックロードの主軸は皐月賞、日本ダービー、菊花賞。

 つまり今日のレースは冠の二つ目を奪い合う祭典であり、その世代の中核を成しうる傑物の芽を吟味する場でもある。

 

『キンイロリョテイ、後方から悠々自適と先を伺う!

 11番ミニベロニカ内を見る、13番パラディンソードは若干掛かり気味の様子か』

『もうすぐ中盤に差し掛かります。

 何処かで息を入れないと厳しいですね』

 

 先頭から最後方まで、団子状──と言う程では無いにしろ、中々に詰まり気味。

 ファインドフィートの現在位置は十番手、脚を溜めてライン取りに専念しているらしい。

 はためく青布を視界に収め、トウカイテイオーはそっと応援の言葉を口ずさんだ。 その言葉が彼女に届くはずもないが、()()()()()は勝手に出てくるのだから仕方がない。

 

「ところで、話したい事があるんじゃ無かったのかい?」

「あ~……っと、えへへ。 そうだった……」

「此処で相談したいと聞いた時には少々面食らってしまったが──今、分かったよ。

 ファインドフィートの事だろう?」

 

 傍らの椅子に腰掛けて、優雅に細い脚を組む。

 手の平で着席を促しつつも、その端正な(かんばせ)が薄い微笑みを形造っていた。

 それは安心感を齎すためにか、はたまた後輩の成長を喜ぶという感情の発露か。

 ただ、いつの間にか強張っていたトウカイテイオーの肩から力が抜けたことに違いはない。

 

 一度、ちらりと視線をレース場に彷徨わせた。

 中盤の向こう正面に到達したウマ娘等を視界の中央に捉えつつ、シンボリルドルフと並んで席に腰を沈める。 真剣味を帯びた青空の瞳と覇気に満ちたアメジストの瞳が、対話の如く厳かに絡み合った。

 

「んっと……何から言えば良いかな。

 ……まず前提の話なんだけど、フィートは走りたくて走ってるわけじゃない……気がする」

「……ふむ。

 それは……随分と、珍しいな」

「フィート自身から直接聞き出せた訳じゃないし、断片的に見えてる事を根拠に──ううん、根拠っていうよりも勘が混じってるかも」

 

 右手と左手それぞれの指を組み交わし、解けもしない悩みの代わりに戯れさせる。

 けれど視線だけはレースの展望に集中させたまま、思考の整理に尽力していた。

 

 青い瞳に反射するターフの上では血気盛んなレースの真っ只中。

 見慣れた芦毛と鮮やかな青布が風にたなびき、幽かな残影を描く。

 

「確かに最初から違和感はあったよ。

 その時は勘違いかなって思ってたけどね」

「……ふむ」

 

 思い起こすのは初対面の時。

 色の伺えない表情、真反対の如く感情豊かな体の動き。

 そして中々言葉を出さない不器用さ。

 

 ……最初は、ただ単に口下手なだけなのだと考えていた。

 

 新しい環境に来たばかりであれば、大なり小なり不安にかられるものだ。

 過去のトウカイテイオーとて──自信に満ち溢れていたものの、それでも"一切不安に思うことが無かった"かと問われれば嘘になってしまう。

 だから、新生活への不安ならまだ良かった。 普通に仲良くなって、一緒に楽しい学園生活を送るだけだ。

 

 ただ、彼女が不安気になっている時は決まって空を見上げていた。

 そこが陽光の下であれ、屋根の裏であれ、空を。

 陽光に照らされる彼女を見て、トウカイテイオーは何故だか恐ろしくなった。

 ファインドフィートを包む光輝が大きな手の平に見えてしまって、背筋が震えた事を今も覚えている。

 

「やりたくない事。やらなくても良い事。

 それを嫌々やっているみたいだった。

 泣きそうな顔で、怯えながら……そんなのおかしいよ。

 だってヘンじゃん、そんなの」

 

 今にして思い返すのは、段ボール箱を抱えたファインドフィートの姿。

 艷やかな尾を物悲しげにゆっくりと揺らしながら、一歩一歩を踏み締めていく。

 そして箱を、箱の中に詰まっている物を愛しげに──本当に、愛しげに抱きしめるのだ。

 

 ……トウカイテイオーはすぐ隣から彼女を瞳に映していた筈なのに、何故だろうか。

 あの宝物をゴミと断じた彼女の顔が、どうしても思い出せなかった。

 

「……多分、勝たないといけない理由はあの子じゃなくって、他の所にあるんだと思う。

 じゃないと……()()()()切り捨ててまで走るなんて、無理じゃないかな」

「外部……となれば、交友関係に由来するものか。

 あるいは……」

「あの子の才能に目をつけた誰かが、脅してる、とか……」

 

 "そうだとしても、なんであの子が"と吐き出した。

 少女の甲高い声で紡がれた言葉は、思いの外濁っている。

 

 複雑な感情が無秩序に飾り立てる音を"悲嘆"と取るか、"憤怒"と取るか。

 シンボリルドルフは"悲嘆"として解釈した。

 けれども一旦は傍らに避けておくべきもの。

 論理立てて一語一句の意味を解き明かし、事実を並べて整理して、その明瞭なる頭脳に読み込んでいく。

 

「……なるほど」

 

 件の少女にまつわる話を、単なる早とちりとして片付けるには些か性急だろうと思案する。

 形の良い顎に指先を添えそっと眉を(ひそ)めた。

 

 トウカイテイオーの憂慮が正しいとするなら、とんでもないスキャンダルにもなり得る。

 "出走者への脅し"、"皐月賞ウマ娘の複雑な事情"……現在は単なる勘モドキの推理ではあるけれど、しかし軽率な考えで手を出せる話ではない。

 最初は割と気軽な心境でこの場に脚を運んだ彼女だったが──予想外にも程がある大真面目な相談で、驚愕の意に満たされるばかりだ。

 

 シンボリルドルフは一通りの思考に区切りをつけて、小さく吐息を空気に溶かす。 観客席とは違って、随分と凍えた温度だった。

 

「……だから、根拠がほしいんだ。

 ただ手を伸ばすだけじゃなくて、ちゃんとあの子の事を理解した上で動かないと……」

 

 "今度こそ取り返しがつかない"。

 喉の奥に秘めた言葉を隠して見たのは正面。 ガラスに反射する顔は苦悶に歪んでいた。

 

「折角のレースなのにごめんね、カイチョー」

「いいや、問題ないとも。

 テイオー、君は私に見せたかったのだろう? 彼女が走る姿を。

 そして、その上で言葉にしたかった」

 

 ──何にせよ、事が重大だからといって尻込みする皇帝ではない。

 シンボリルドルフの夢は"全てのウマ娘が幸せであれる世界"の実現である。

 一個人が夢想するにはあまりに尊大すぎる理想を大真面目な目標として掲げ、実際に着々と歩み続けている傑物なのだ。

 そんな彼女が身の回りの、手を伸ばせば届く範囲の後輩達に助力しない筈もない。

 

「……しかし今はこの日本ダービーを見届けよう。

 今日という日に向けて修練に励み続けたウマ娘達の集大成を発揮するのがこの場だ。

 だというのに見もしないというのは、それこそ不作法というものさ。

 ……ファインドフィートくんだって、テイオーに見てもらいたいんじゃあないのかい?」

「……そうだね。

 今すぐに動ける話でもないんだし、しっかりフィートを応援しないと!」

 

 

 

 ──そんな二人の帝による対談を知らぬファインドフィートは、荒れ狂う心臓の脈動を求める方向に導くことに必死だった。

 ごうごうと風を切る彼女等は早くも第三コーナーに到達している。

 

 そしてレースは終盤戦へ。

 誰も彼もが各々の方法で仕掛け始めた。

 それは位置取りや、体勢、呼吸など多岐にわたるが──何であれ、当人が思う全力疾走に欠かせないパーツを丹念に整える。 余波で弾ける土埃は、あっという間に風に流され消えていった。

 

「ッ!」

 

 当然ながら、ファインドフィートの考えも同じだ。

 前を見つめ、青い瞳を輝かせ、適切なタイミングを選んだステップにより順位の数字を追い詰める。

 5位から4位へ、4位から3位へ──。

 

『第4コーナーカーブ!

 先頭はアグネスデジタル、チラチラ後方を伺いつつもまだ余裕か!

 二番手ブラックアネモネ、表情は苦しそうです。

 三番手ファインドフィート、攻めあぐねているのか脚が延びない!』

 

 ──しかし、それ以上先には進めない。

 ファインドフィート視点からしてみれば、どうにも痛い所を的確に突く実況だった。

 刻一刻と決着のラインが近付く中、微妙に攻めあぐねているのは事実。

 故に文句の気持ちは無いが──しかし、苛立ちの念は隠せない。

 

 焦りの熱や額を伝う汗の量にそぐわず、先頭との距離が縮まらないまま。

 いくら呼吸を繰り返しても詰めきれない。

 速度は上々、加速力は不足なし。

 ……しかし前方の進路は絶妙にブロックされて、どうにも踏み込みが甘くなってしまう。

 

「……まったく、信じますよトレーナー……ッ!」

 

 ここでファインドフィートも──否、葛城トレーナーがついに決断したのか。

 "ふわり"と軽やかに、ライン取りを切り替えた芦毛の影が独り目立つ。

 観客席の隅っこから覗く、細く骨ばった指先に従ったのだ。

 

 ──そのまま走り続けた所でブロックされることは見えている。

 下手を打てば後団に沈んで上がれずに敗北……なんてこともあり得るだろう。

 無事にどうにかすり抜けたとしても、削れた体力で先頭を駆け抜けるというのも少し厳しい。

 ファインドフィートはそもそも、他者の隣を躱して追い越すという行為自体が苦手で、余計に体力を消耗してしまうという悪癖さえあるのだから。

 

 故に、先の詰まった内側は諦める。

 ならば、いっそのこと大外から追い上げてしまえ。

 

 それこそが葛城トレーナーの策だった。

 観客席の最前列から指先を跳ねさせて、くるりと廻す。

 前もって決めていた通りのサインである。

 

「中々の、無茶を……!」

 

 大外に脚を踏み入れた直後から即座に姿勢を低め、土へ蹄鉄を打ち付ける。 弾けた土が風に巻かれて消えていった。

 教わったフォームを低く鋭く変形させラストスパートへ。

 八割に抑えられていた心臓を強引に締め上げて、十全の活力を引き摺り出す。 胸から鳴る唄が、酷く優しげにファインドフィートの心を包む。

 

 先頭のアグネスデジタルも、二番手のブラックアネモネも、彼女と同じく全身全霊を振り絞っていた。

 更に後方からはキンイロリョテイ達が迫っているのだから──ファインドフィートに余裕はない。

 

『アグネスデジタルとファインドフィートが横並びになりました! ブラックアネモネ落ちていく!』

『最終直線に入りましたね。

 ですが本番はこれから! まだまだ目を離せません』

 

 駆ける。駆ける。

 地を鳴らす脚の音が前方から失せても、尚駆ける。

 何故なら、すぐ隣に怪物が居るからだ。

 

 だからこそ更に激しく脚を前に突き出して、脆い空気を無粋に蹴破る。

 前を塞ぐものは何もなく。脚を止めるものは何もなく。

 ごうごうと空鳴る肺を膨らませて、大きく脚を振り降ろすのみ。 彼女の脚は鉈のように鋭くもあり、大槌の如き圧を伴っていた。

 

「…………ッ!」

 

 ──けれども、突き放すには足りない。

 現時点でクビの差か、或いはそこから更にハナの差を加えた程度に離れている。

 しかし、そこ止まりでしかなかった。

 既にトップギアに至っていながらも尚不足。 臍を噛んだ所で無意味だとしても、己を罵る言葉はいくらでも心の底から湧き出てしまう。

 

 東京レース場の最終直線は500メートルと少し。

 夢の灯りを目指して走って、今の残りは400メートル。

 ハロン棒が幾度となく風に揺れて、近付く終わりを健気に言祝ぐ。

 

 ……だというのに。 ゴールが近付いてきているというのに。

 隣を疾走するアグネスデジタルとは距離を離せず──。

 

「ここでっ、全力!尊みラストスパァァァーットォ!!

 ひょおおおおお!!」

 

 ──むしろ、差し返された。

 

()()()()()と目を剥く。

 あなたはそんなに速いウマ娘では無かったでしょうと、唇の端を震わせた。

 その圧はなんだと否応なく視線を吸い寄せられてしまう。

 

 加えて──垣間見えた謎の()()

 アグネスデジタルの周囲を取り囲んでいた幾枚かの紙面。

 それらを彼女が抱きしめた直後からその加速が始まった。 あまりにも理解不能な掛け声を伴って。

 

 少なくとも葛城トレーナーによる事前分析ではありえない、劇的な加速。

 そう、アグネスデジタルというウマ娘は──現時点でそれほどまでのスペックを有していない筈だった。

 

 しかし現実としてファインドフィートを差し返し、さらなる距離の壁を突きつけようとしている。

 

「ぐッ……!」

 

 残りは300メートル。もはや猶予はない。

 無理を承知で呼吸を深め、炉心の稼働率を更に向上させて。

 更に強く、更に激しく、ファインドフィートの心を焚べて血に満たす。

 

 ここで負ける?

 バカを言うな。こんな所で負けるなんてありえない。

 狂おしい怒りの炎が頭蓋を舐めて、焦がし、外部に出ようと圧を強める。

 そして囁くのだ。 そんな事、ありえないから許されない。

 この(未来)を失うなんぞ──そんな安易な逃げ道、ある筈無いだろう。

 

 だから走れ。

 とにかく走れ。どこまでも走れ。

 奥歯を噛み締め裂帛の唸りを漏らす。

 きっと、血の味はしなかった。

 けれども代わりにザクロの飴玉を想起させるような、濁った甘味が舌を焼く。

 

 "──再点火"

 

 だから嗚咽を吐き出したくて、大きく猛り口を開く。

 牙を剥き、抑えきれなかった闘争心を露わにして、言葉にならない絶叫で喉を裂く。

 

 当然、誰にも届かない。

 誰も聞かない。

 誰も理解しない。

 

 ──ファインドフィートの手を掴んだ()()以外は。

 

 "しょうがないわねぇ。

 まったく、世話が焼けるわ"

 

 甘くも厳かな声音が頭蓋を反響する。彼女の身体が勝手に呼応する。

 優しく首輪を締め上げるが如く、茨と、それを啄む()()()()が彼女に絡みついて離れない。

 ……茨の宿主は彼女ではなく、彼女の心臓だったのかもしれないが。

 

 ただ、灼熱の余韻を残して這い回って瑕疵を(かく)す。

 強制的に、激しい痛みを伴う故に彼女の正気を焦がしながら。

 開いた口から漏れたのは、息継ぎの吐息ではなく苦悶の喘ぎだった。

 愛情というには一方的で、祝福というには喪失を伴いすぎる。

 しかしそれでも、彼女を助けたのは()()()だったのだ。

 

 "でも、愛おしいの。

 健気なあなた。美しいあなた。 星のように、ささやかなあなた。

 ええ……だからこの私が、『王冠』を以て祝福しましょう"

 

 故に彼女は勝つ。勝たなければならない。

 ジリジリと大地を照らす太陽が空にある限り、彼女は永劫に走り続ける。

 夢の灯りを追い駆け続ける限り、彼女は永久に敗北を許されない。

 いっそ悍ましい"それ"を選んだのは、彼女だ。

 

 "……ねぇ、まだまだ始まったばかりなの。

 だから負けちゃダメよ、ファインドフィートちゃん"

 

 ──日本ダービーの勝者は、きっと始まる前から決定していた。

 誰も幸せになれない結末だろう。

 "無敗二冠ウマ娘"となった彼女も、冠を掴み損ねた乙女達も、大衆も、誰も彼もが掌の上。

 

 

 

 


 

 

 

 

 "……あら、『海』じゃないの。

 随分と久しぶりね"

 

 "んん……?

 ……あの子のことはそっとしておけ、ですって?

 全く、何を言ってるの。

 ダメダメ、私達が手を離したらしあわせに成れないじゃない"

 

 "……はぁ~、あのねぇ……私達が導かずしてどうするのよ?

 あの子が自分で立ち上がれるの?

 あの子が自分で前を向けるの?"

 

 "……いいえ、無理よ。

 だってあの子は、なり損ないで出来損ない。 この世界で独りきりの歪んだ命。

 そうでありながら、必死に足掻いてるのよ。

 泣き叫びながら、喪失に狂いながら。

 そんなあの子を愛して、何が悪いの?"

 

 "だから……ねぇ、邪魔しないで。

 ……不遜でしょう、お前"

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