祝福、呪詛。
憐憫、愛情。
安息。
あるいは、病毒。
七月を乗り越えて、ついに八月の終わりへ。
ハガキに書く見舞いの語句も"暑中"ではなく"残暑"と記す季節となった。
それはつまり、長い長い合宿の終わりを迎える言葉でもある。
潮騒の唄に満ちた青空をいくら愛そうと、何時までも留まるなど出来はしない。
ファインドフィートはあくまでもアスリート。 夢追い人のウマ娘。
故に必然として、夏が終わればトレセン学園に帰還しなければならない。
そのために、一ヶ月以上も居住スペースとしていた相部屋で荷物を纏めていた。
来た時と同じカバンに、少しだけ内容量の減った物品を詰め込んで。
──ある程度の所まで格納し終えるまで掛かったのは十分足らず。
少し面倒だなと感想を零し、薄ぼんやりと霞む視線を真横に逸らした。
窓の向こう側には憎らしいほどに青い空と、ぷかぷか浮かぶ白い雲。
その水蒸気の塊が何となく羨ましくなる。
ぷかぷか、ゆらゆら。
風に流されるまま空で踊る。
けれどその癖苦しみや束縛とは一切無縁で自由気ままに漂うばかり、なんて──とんでもない不平等じゃあないか、と。
見当違いな粘りを帯びた嫉妬を舌に這わせた。
「──フィートさん。
動作が停止しています。
何か問題が発生したのですか?」
「……いいえ、大丈夫です。
ただ、窓の外を眺めてただけですから」
とはいえ、それを実際に振るうことは敵わない。
声の主であるミホノブルボンに簡素な答えを返し、頭を振って窓の向こうで輝く空から目を離す。
抗ったところで何の意味もないのだからと、ファインドフィートも理解している。
そうしてそれ以上拘りもせず、そっと自分の手元に意識を戻すのだ。
細く白い手は、どこか頼りなかった。
「……ん、このブラシはブルボン先輩の物ですよね。
どうぞ」
「ありがとうございます、フィートさん。
……全私物のパッケージ化を完了しました。 お手伝いモードに移行します」
「いえ……わたしの方も、あと少しで終わりますから」
そうしてまた、荷造り作業を再開する。
中身は私服やタオル、下着類や尻尾用の香油、頭髪のケア用品──。
諸々の荷物をバッグに纏めはじめて五分程度。
綺麗さっぱりに物がなくなった部屋を見下ろし、満足気に一つ頷く。
部屋そのものは入念に清掃された後。
最後に行うべきは、たった今造り終えた荷物を持ち出す事だけだった。
それだけで元の無機質な状態へ回帰する。
夏の海を過ごした癖に、白いままの指先でカバンの取手を掴み上げる。
出発前よりは少しだけ軽くなった重みが、出発前よりも強く育った彼女の肩に縋り付いた。
ずっしりと沈む重みがあるのだから、きっと全部入っている。
もうこの部屋に訪れることはないだろう。
……あるいは、来年もまた同じ部屋に寝泊まりする可能性もあるのかもしれないが、少なくとも今年はもう目にする機会は無いに違いない。
「ブルボン先輩、荷物はまとめ終わりました」
「了解しました。
タスクを更新……目標を車両への乗車に設定します。
つまり、駐車場に向かいましょう」
「……ええ、そうですね」
ぱたりとドアを閉じる。
握りしめていたドアノブから、温度の欠片もない冷たさが纏わりついてきた。
五指折り曲げて、開いて、掴みそこねた何かに思いを馳せて──らしくもないと瞼を閉じた。
色を隠して、揺れる尻尾をくるりと巻いて。
「行きましょう」
青褪めた目を見開いて振り返る。
ミホノブルボンも彼女と同じく、トレセン学園の制服に身を包んで準備を終えていた。
それは学生としての日常に帰る為であり、また競走ウマ娘として走り出す為の支度でもある。
「また来年も来れると良いですね。
今年は──その、カナヅチを克服できませんでしたから」
「そうですね。
来年こそはフィートさんが泳ぎをマスター出来るように指導スキルを蓄積しておきます。
つまり、また一緒に来ましょう」
「……ええ。 また、もう一度」
今にして思い返せば、楽しい一時だった。
ファインドフィートとミホノブルボン、そして時折に襲来するゴールドシップや、何故か麻袋で運ばれてきたメジロマックイーンとトウカイテイオー。
けれどもそれはやがて過ぎ去るものであり、永久に続くなんぞあり得はしない。
ファインドフィートは、それをよく知っていた。 身を以て理解していた。
だからこの夏を惜しみはしない。
……けれど、どうしても空想せずにはいられなかった。
もしも"痛み"などない人生であったなら。
もしも"束縛"などない日常であったなら。
過去にあったはずの"あたりまえ"を克明に想起させられたからこそ、考えてしまう。
そんな妄想は無意味でしかないのに、ほんの少しでも願ってしまうのだ。
「……トレーナー達が、待っていますから」
──思考を放棄する。
後ろ髪を引かれる思いを振り払い、二人で連れ立って脚を前に進ませた。
ミホノブルボンのすぐ隣を、ゆっくりと、ゆっくりと。
廊下を歩み、階段を下り、玄関を通り抜け、雲ひとつ無い大空の下に身体を晒す。
遮るもののない日光が降り注ぐ地上はどこか蒸し暑い。
立秋を過ぎた8月の終わりとは言え、未だに夏の季節だ。
つまり、肌寒さには無縁でしかない。
「お~い! こっちこっち!」
駐車場から崎川トレーナーの呼び声が響く。
耳を反射的に揺らし発生源に脚を向けた。
着慣れた半袖の裾を風に揺らして、駐車場の奥へと。
「荷物はそれで全部?」
「はい、マスター。
私とフィートさんの荷物はこの二つで全てです。
……タスクを更新、後部スペースに格納します」
ミホノブルボンの荷物、ファインドフィートの荷物。
二つ合わせても大した面積を占領するわけでもない。
それこそトレーナー組の所有する機材のほうが余程多いだろう。
特に消耗品類──たとえばエネドリンクMAXという最近話題になり始めたウマ娘向け飲料であったり、ウマ娘向けのスイーツ類であったり、効果は十二分ながらも
それら全てを妥協もなく用立てたせいなのか、後部三列目の座席までもがカバンやアルミケースで埋まっていた。
「ブルボン先輩」
「……はい、よろしくお願いします」
もちろん車とはそう簡単に壊れる物ではない。
だが──万が一があるかもしれない。
そうそう起きるような現象ではないにしても、用心することに越したことはないのだから。
「ん、準備できたわね。
じゃあ行きましょうか……葛城トレーナー、準備」
「……あぁ、そうだな」
運転席へ乗り込んだのは崎川トレーナー。
そしてペーパー免許の葛城トレーナーは助手席へ、ウマ娘二人は後部席へ。
この合宿所へ来た時に使用した道を遡り、トレセン学園へと戻るために。
エンジンキーを挿して回せば、しっかりと腹に響く重低音が断続的に掻き鳴らされる。
かつてのガソリン車はとてつもない排気臭を撒き散らしていたというのは有名な話ではあるが──昨今ではそうでも無い。
技術力の発展により
そのおかげもあって、ファインドフィート等ウマ娘も大した負担もなく遠隔地まで移動できるようになったのだ。
何せヒトの1000倍近くもの嗅覚を持つのがウマ娘という種族。
そういった消臭技術は非常に重要なものである。
「ブルボン先輩、どうぞ。 はちみーです」
「ありがとうございます、フィートさん」
──そして、すっかり寛ぎモードに移行したウマ娘組を乗せて車が走る。
がたんごとん、と突き抜ける衝撃は未だ好きになれないファインドフィートではあった。
が、
がたんごとん、がたがたごとごと。
ざざぁ、ざざぁ。
海沿いの道をひた走り、さざめく海をガラス越しに見つめる。
太陽光に反射する水面の揺れは穏やかだった。
カップを膝の上に載せたまましばし惚けて、"潮騒の唄"に耳を傾けて。
そのまま一度二度と呼吸を繰り返す。
ぴとりと窓ガラスに当てた耳から夏の暖気が伝わって、ほのかな哀愁に胸を締め付けられるようだった。
「……来年もまた、ここに来たいです」
「そうだな。
心配しなくても夏合宿は毎年あるんだ、逃す手はない」
口元にストローを誘導し、何時かと同じはちみーを啜る。
じゅこここと口腔を黄金色で満たしてみれば、淡い幸福の味がする気がした。
きっと錯覚ではない。
それからは、暫く
徐々に遠ざかっていく潮騒の唄だけが時間の流れを克明に刻んでいく。
ざざぁ、ざざぁ。
ざざぁ、ざざぁ──。
──耳を安寧で満たして幾ばくか。
ふと崎川トレーナーが徐に口を開いたのは、海が殆ど見えなくなった後だった。
「ねえ、フィートちゃんはもうすぐ菊花賞だけど……どう? 心配事とかはない?」
「心配事……ですか」
なんて問われても、それに対して返すべき言葉は咄嗟に形にできず。
"はい"とも"いいえ"とも言い難い故に、少しだけ迷ってしまう。
今回の夏合宿では普段以上に過酷なトレーニングに打ち込んできた。
だからこそ"成長した"という自負も、"誰にも負けない"という自信もある。
「……勝てる、筈です」
しかし、だから"間違いなく勝てる"とは言い切れない。
"必ず勝たなければならない"と願いつつの体たらくだ。
これが姉さんなら迷わなかったのに、と、無条件の信頼にも似た自己嫌悪を籠めて指を組みかわす。
揺れる瞳を籠目で捉え、即断には程遠い答えで喉を震わせた。
「……確かに、それでも不安はあります。
もしもわたしの頑張りが足りていなければ、なんて、いつも思う事ですから」
「そっか……」
「フィートさんは毎日のトレーニングを乗り越えて、自己性能の拡張に努めています。
一年前の測定記録と比較してもその差は歴然です。
つまり、フィートさんは強くなりました。 ステータス『程よくリラックス』を維持さえできれば問題ありません」
無機質ながらも温かい深青の瞳がファインドフィートの瞳を射抜いた。
無邪気な応援がこそばゆく、静かな声が宥めるように心の内へ染み込んでいく。
それを、嬉しいと喜んでしまう。
けれども苦しいとも捉えてしまう。
いっそ、心の奥底の芯からウマ娘であればもう少しまともに飲み込むことも出来たのかもしれない。
しかし彼女は──どうしても、心底からは頷けなかった。
せめて正しいウマ娘の心根を備えていられたら良かったのにと、形にせぬまま嘯く。
指先の籠目を解いてミホノブルボンに少しだけ寄り添ってみても、何かが変わることは無かった。
「……けれど、ええ。 そうですよね。
そのために今日まで頑張ってきたんですから」
──いっそ白々しい。
なんて、籠もりかけた懺悔の念を深層に封じ込め、ただ臍を噛んだ。
そうして噛み締めていれば歯の隙間から心の色が滲み出る事もない。 いつも通りだ。
「安心しろファインドフィート。
俺が知る限りだとキミ以上に本番に強いウマ娘は居ない」
「ええ……そうです。
トレーナーが寝食を削ってまで育てたわたしが弱いなんて、ありえないですから」
「葛城トレーナーはちょっと削り過ぎだと思うけどね」
「うるさい崎川」
そうしていれば、この空間が穢されることはないのだから。
だから、口を噤む。
「このトンネルを抜けたらしばらく山道ね」
潮騒の唄が遠ざかれば遠ざかるほど、陽光が殊更強くに照りつけた。
それはつまり、痛みなど無い休息の一時が失われるということ。
陽光に身体を晒せば──再び、鎖が絡みつく。
茨と黄金で構成された鎖が心臓に祝福を注ぐ。
これを流血の茨と忌むべきか、あるいは破滅を伴う黄金と崇めるべきか。
──何であろうと手に
「……ッ」
ずきり、と胸に熱が奔る。
締め付けられた臓器が悲鳴を上げ、血潮にのって全身を駆け回る。
今となっては慣れた狂騒。
本来は慣れるべきでない筈の縛鎖。
胸元を抑えつけて無心で耐える。
ファインドフィートに許されたのはその果てに夢を掴むこと。
忘れるな、と何度も何度も自分に呪詛を吐きかけて、静かに瞼をおろして息づく。
抗うつもりは、毛頭なかったのだから。
「フィートさん?」
「……大丈夫です。
ただ、その……少ししゃっくりが出かけただけですから」
嘘を吐く事は心苦しい。
……もしも、相手が見も知らぬ誰かであったのなら比較的マシだった。
けれども、吐き出した先はミホノブルボンで。
『姉』によく似た心優しい少女で。
だから心に突き刺さる苦味はきっと、身勝手な親愛に等しい情を抱く故の──。
「……ブルボン先輩」
「はい、どうしましたか?」
──何も考えずに開いた口から飛び出る言葉は、何もない。
舌先は鈍いままで回転もせず、喉に言葉が昇ることもなく、脳髄の内側で思索がカラカラと空転するのみ。
「……いいえ、ごめんなさい。
何でもありません……」
──結局、ファインドフィートに何かを発する事は不可能なのだ。
"無様だな"と自分で自分を嫌悪して、しかし改めることは出来ない。
それを願うには、あまりにも遅すぎた。
けれども、そんな現実をどうにか誤魔化したくて。 そんな事実から目を逸らしたくて。
虚ろな思考をゆるゆると走らせ、ミホノブルボンの傍らまで尻尾をのばす。
毛の先さえ触れることはない。
それ故に、尾の先に熱を感じる事などはない。
しかしそれでも、"あたたかい"と安堵した。
たとえ痛みがあろうとも、親愛なる隣人はいつも居てくれる。
だから、ファインドフィートには違えのない救いだった。
誰にも届かない声は腐っていくばかりだというのに。
失われる安らぎ。
指の隙間からこぼれ落ちるぬくもり。
やがて消える事が確定した恵み。
……だとするなら、知らないままでいたほうが、良かったのかもしれません。
どうしても、考えてしまうのです。
わたしにも……ぼくにもある筈だった、あった筈だった素晴らしい日々に、醜くも縋ってしまうのです。
よりにもよって──羨ましい、なんて。