共依存の果てに至る病。
それを死に至る病と称して、
それを死に至らない病と称して、
いくら問い質したくともキェルケゴールは応えない。
故に鏡合わせの青い靴は独り、今も白痴のままだった。
薄暗い部屋の窓の外から、美麗な陽光が射し込んでいる。
一条の光であっても暗がりを切り裂くには十二分。
今の今まで眠りこけていたファインドフィートにしてみれば過度な刺激だ。
ほんの少しの苛立ちに任せ、白いウマ耳を震わせた。
……だとしても、朝になったのなら仕方がない。
ついでと言わんばかりに闖入してくる小鳥の囀りに少しだけ耳を揺らし、怠惰な四肢を駆使して起き上がる。
「……ん」
のっそりと上体を晒す。
寝起きでボサボサになった頭髪に光が反射して、きらきら、きらきら、星のように輝く。
暗闇を明るく照らす程でなく、さながら
なんとなしに指先を櫛代わりに通し、眠気が醒める時を待つ。
枝毛の無い艷やかな芦毛は同室のミホノブルボンに手入れされているおかげもあって、常に最高品質を保っていられる。
「……ブルボン先輩が起きるまでは、もう少しですかね」
その立役者は今も穏やかに睡眠中。
部屋の反対にあるベッドに潜り込んだ少女へ一瞥をくれ、音もなくするりと這い出した。
水玉模様のパジャマの皺を簡単に伸ばし、灯りもつけずに洗面所へ。
「……」
からり、と軽い音と共にドアを開く。
足を踏み入れた彼女の前には備え付けの鏡。
仄かな光を材料とし、アルミ膜の表層にファインドフィートの姿を造り上げた。
無表情を彩るのは青褪めた瞳。 耳には青と赤の飾りが居座る。
──そんな、代わり映えのない自分を
寝起きで乾いた喉を震わせる。
芯のない、弱く、薄く、細い声音。
鏡を湿らせたのは、呪詛にも等しい言葉だった。
「わたしが、『ファインドフィート』です。
わたしが……そう、わたしが『ファインドフィート』じゃないといけないんです」
深々と、自己暗示として内界に染み込ませる。
何度も何度も、飽きもせず。
毎朝毎朝、執拗なまでに幾重にも仮面を塗り固めていく。
それはある種の逃避にも似て、けれども夢を叶えるための機構としてなら理想的な解法。
頭蓋を偽る自分殺しはきっと、彼女にとっての本懐だった。
「そうですよね、姉さん。
わたしは正しいでしょう?
だって、姉さんが同じ立場だったなら。
わたしと姉さんが逆だったなら、まったく同じ答えに至ったはずなんですから」
鏡の向こうに映る『姉』が物悲しげに見つめ返してきた。
"赤い瞳"と"青い瞳"が絡み合う。
──けれど、言葉は何も無い。
触れ合うなんて出来やしない。
いくら求めようと、互いに依存しようとも、声を届かせることさえ不可能だ。
所詮は幻なのだから。
「……今日も、走らないと」
◆
トレーニングのために履き慣れた靴を装着する──前に。
蹄鉄の歪みを軽く点検し、靴紐の緩みが無いようしっかり確認する。
這わせた指先に返ってくる反応は良好そのもの。
齎された僅かな安堵と共に改めて履き、軽やかな挙動で立ち上がった。
「トレーナー、準備出来ました」
「……そうか、よし。
それじゃあスタート地点で合図を待ってくれ」
「はい、了解です」
「ああ、それと――」
「身体の不調があればすぐに伝える……ですね。
まったく、病院の検査結果は見たでしょう?
「……まあ、そうだがな」
あいも変わらず骨ばった痩躯の葛城トレーナーが発する疑惑の念を無視して、所定の位置へ脚を進める。
今日のトレーニングはアンクルウェイトなどの
そのお陰で特別に変わり種の負担も介在しない。
身を包む赤いジャージも体の成長に合わせて調整済み。
ほど良いサイズ感に変化した影響なのか、以前よりも多少動かしやすくなったようだ。
「……もう、一年と半分も経ってるんですね」
トレセン学園に入学してそれほどの時間が経過したのなら、身体の変化も当然の事だ。
しかし、少しだけ不思議な気分でもあった。
時間の流れによる変化とは至極まっとうな法則によるもの。
体の成長とは、それによって引き起こされるべき宿命。
……けれども、それが。
時間の経過によって成長するという、事実が。
その変哲もない摂理が、どうにも──。
「──スタート!」
「ッ」
──瞬時に思考を打ち切る。
反射的に駆け出す。
ハーフバウンド。回転襲歩。交叉襲歩。
ウマ娘の基本の歩法を正しくなぞり上げて血気盛んに風を切る。
芝2000メートルという距離を問題なく走りきれるだけの速度を心掛け、大きく肺を膨らませた。
ずきずきと胸を叩く鼓動の音が心地良い。
とうとつと身体を射抜く痛みには、もはや慣れたもの。
「は、はっ、は……っ」
痛みという機能は本来、生命の危機を察知するための本能だという。
それを無視するなんぞ健全な行為などとは誇れないだろうが──しかし、そんなものは今更だ。
故に、無視する。
見るべきは他にある。
「────」
傍らを見る。
頭を揺らさず、瞳の動きだけで視線を操作して。
そこには、少女がいた。 見慣れた芦毛を風に揺らす少女が。
全く同じフォーム。 全く同じ頭髪。 全く同じ姿。
違う事といえば靴の色彩と、瞳の虹彩程度の少女。
……しかし、彼女の足元には影がない。
全く同じ速度で走っているというのに足音さえもない。
ほんの数歩先の前を走る少女は、肉を持たなかった。
けれどただの幻影だと云うには、あまりにも真に迫った存在感で。
もしもの未来を正確に成形したと言われたなら、特に一切の疑問もなく納得してしまったろう姿だ。
「──ぁあ」
だから、ファインドフィートは仄かな救いを得たと錯覚できる。
走り続ける限り『姉』がそこにいるというのなら何処までだって駆けられる。
「はは……っ」
ファインドフィートにしか見えずとも。
ファインドフィート以外が覚えていなくとも──ただの幻影に過ぎないとしても、そこにいるのだ。
ファインドフィートの傍らを走り続けるだけの愛しい片割れは、今もいるのだ。
実在しないとしても、それで良かった。
たとえ幻でしか無いのだとしても、幻としての彼女なら間違いなくそこにいるのだ。
上手く騙してくれるのなら"それでいいじゃあないか"と、澱んだ涙を呑み込む。
それだけが真実だ。
そればかりの救いだ。
どうしようもなく哀しくて、泣きたくなってしまう。
──茨の冠を戴く少女は、嗚咽さえも置き去りにして。
たった独り、大地を蹴った。
くるりと舞う尾は靭やかで、ずきりと痛む胸の奥とは正反対の
「大丈夫、大丈夫です……。
『ファインドフィート』は速いですから……だから、大丈夫」
リズムを震わせ吐息を深めて、素敵に見事に
浮ついた心のまま
死がふたりを分かつまで。
いいや、死がふたりを分かつとも。
いっそ死んでしまえたらいいのにと、弱音に満ちた心へ仮面を被せて。
いっそ産まれなければよかったのにと、涙に濡れた後悔を殻で覆って。
ただ、走る。
『姉』の足跡を遺すために、全霊を賭す。
彼女は『姉』さえ消えないのならそれでよかった。
『姉』の夢が叶って、その中で眠れるのなら──きっと、"しあわせ"だ。 "しあわせ"なのだ。
……"しあわせ"でなければならない。
そうでなくては、何故生き長らえているというのか。
こんなにも無様な余生を過ごしているのか。
茨の冠を弄び、冷たい声で泥を吐く。
「どこまでも……一緒に、走りましょう」
ファインドフィートは知っていた。
現実は軽薄で、理想は残酷。
故に、ファインドフィートの本当の願いが叶うことはない。
だって、終わった後なのだから。
『彼女』の夢が叶うことはない。
それを捨てたのは自分自身だ。
当然、知っている。
それでも、ファインドフィートは走り続ける。
『姉』を連れて、訣別からの逃避行だ。
"……理解できない。
何故、この幼子は泣いている?
何故、何故、欠片も笑わぬままなのか。
鎖を解いた上での選択だというのに、何故"
"……本当に、眠らせるべきなのか?"
"……やはり吾には、ヒトを理解できない。
幼子の涙を止める方法が、理解できない。
おそらく、吾の選択は失敗していた"
"ヒトの習性から予測しようにも、その概念を言語として把握しようとも。
やはり……吾の手が、最善の結果を導き出せるとは信じられぬ"
"……再考しよう。再選択するべきだ。
しかしあの子に手を貸すべきは
吾は……他の子らに情報を伝え、促すのが最善手……か?"