【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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断章 / 空に沈んだカエルレウス
28話


 

 

 青い空。 果てのない天蓋。

 太陽の輝きに貫かれても尚、澄んだまま。

 

 それを見上げる少女へと、ぷかぷかと自由気ままに流れる雲が無邪気に語る。

 綿菓子のように白く、淡い姿のままで雄弁に。

 

 お前は私のようになれやしない。

 そんな(くさり)に覆われた身体で、どうして自由に憧れたのか。

 

 

 


 

 

 

 こつん、と靴音が反響する。

 小さな踵が廊下のタイルを蹴り、踏み付け、撫でる。

 閉じた空間の冷気を切り裂くように、少女──トウカイテイオーは、生徒会室を目指して脇目もふらずに足を進めた。

 入学以来何年間も通い続けた道というだけあって瞳の向き先に迷いはない。 何処までも透き通る、芯の根ざした青色だった。

 

 放課後とはいえ廊下には生徒の姿もそれなりに残っている。

 が、トウカイテイオーに意識を向ける者は誰も居なかった。

 学友達との交流に勤しむためか、アスリートとしての修練に励むためか。

 何であれ、みな自分達の事だけで精一杯だ。

 

 それ故に独り、窓の外から射し込む真っ赤な夕日に照らされる。

 淡く香る寂寥感(せきりょうかん)が凛々しい(かんばせ)を鋭く照らしていた。

 後頭部で結わえ、腰まで垂らした鹿毛の御髪(みぐし)が柔らかい印象を纏うのみ。

 

 ……ただそれでも、薄っすらと滲み出る緊張の念は隠せない。

 目尻が固く、引き攣って。

 その柔らかな鋭角から、腹の奥底が見え透いていたのだろう。

 

「……」

 

 こつん、と繰り返し靴音を響かせる。

 一定のペースで、規則的に踏み出される爪先。

 そんな代わり映えのないリズムとは対照的に、彼女の内心は焦りにも似たさざなみに満たされるばかりだった。

 その熱源を解消するために、愚直に足を進め──ようやく、目的地と通路を区切る扉の前に辿り着く。

 

 扉の上に掛けられた札には"生徒会室"の文字。

 トレセン学園における生徒の頂点、その拠点。 今回の目的地だ。

 

「ふぅ……」

 

 緩やかに、深呼吸で逸る気分を宥め(すか)す。

 肺を大きく膨らませ、焦りの熱を吐き出した。

 

 そして一通り心の準備を終え、小さな指先を取手に引っ掛ける──。

 

 

 ──寸前に、動きが止まった。

 

「っと、応接中……?」

 

 耳がピクリと震える。

 耳朶を叩くのは、扉の向こうから漏れ出す話し声だった。

 

 あっさりと出鼻を挫かれてしまった故の僅かな苛立ちが瞳に籠もる。

 ……それが自分勝手な八つ当たりに等しいものだとは理解していた。

 ボクらの事情も考えてよ~、と忌々しげに呟く様子を見てしまえば──その理解とやらも、些か疑問に思えてしまうが。

 

「タイミング悪いなぁ」

 

 震わせる音は馴染み深い生徒会長と、聞き覚えのある女性の話し声。

 話している内容そのものは不明瞭で、細かな判別はつかない。

 それこそ耳をピトリと当ててしまえば聞き取れるのだろうが……トウカイテイオーは、礼儀を欠いた行いを安易に実行しない思慮深さは獲得していた。

 

 まだまだ突入には早いぞと二の足を踏み、ぼんやり虚空を眺めて待ちぼうける。

 静止した彼女の横顔を夕日が灼く。 無遠慮で、どこか鋭い熱だ。

 

「……ブルボンのトレーナー、かな? 

 あまり話したことは無いけど……」

 

 扉横の壁に背を預け、尻尾をゆらゆらと垂らす。

 鼓膜を撫でる涼やかな声の主──崎川トレーナーとトウカイテイオーの関わりは薄い。

 が、随分と上品な振る舞いだったからか、記憶の片隅に残る程度には印象深かった。

 それにファインドフィートとも親交があると把握していた事も影響しているだろうか。

 

 他に理解している事といえば一般に知られている無機質な文言程度。

 ステイヤーとしては非才の身であるウマ娘を、ステイヤーとして大成させた常識破りの怪物である、なんて、可愛げのないものだ。

 中にはその輝きに嫉妬するものも多く居たのだろうかと、ぼんやり思いを馳せるのが精一杯。

 顔見知り以上の感慨を抱くほどの仲でもない。

 

「ま、ボクが気にすることじゃないよね」

 

 ──思考を打ち切る。

 

 トウカイテイオーが気にするべきはたったひとつ。

 シンボリルドルフの手元に届いたらしい、ファインドフィートの身辺調査の結果のみだ。

 彼女の心身を苛む"何か"の正体を探るための思索に心血を注がなければならない。

 

 彼女にはそれ以外の事情に首を突っ込むほどの余裕は無かった。

 

「……ん、終わったかな」

 

 唐突に調子が変わった話し声が鼓膜を撫でる。

 

 意味のある言葉として解釈できたのは、"ありがとう"や"今後もよろしく"といった両者の声音。

 僅かながら温かみのある論調で、やはり険悪な仲ではないらしい──お互いに苛烈な気性を持つわけでもない故に、当然の話ではあるが。

 

「失礼しました……っと」

 

 開いた扉の向こうから予想通りの顔が現れた。

 スーツに身を包む麗人が、ほんの僅かに意表を突かれて瞠目する。

 

 ……が、口を開くことはなく、静かに目礼だけを残して去っていく。

 淀みなく、音もなく。

 どこか浮世離れした背中を一瞬だけ追いかけて──すぐに視線を切り離した。

 

 そして、ようやっと生徒会室の扉をくぐる。

 授業終わりの教室を抜け出してからおよそ数十分後の事だ。

 夕日は未だに沈まずに、トウカイテイオーの背を鋭く照らしていた。 微かな粘性を宿して。

 

「やっほ、カイチョー」

「ん……よく来たな、テイオー。

 丁度やるべき事も終わった所だ」

 

 踏み出したのは、揺るぎのない足だった。

 まず最初に向けた視線の先は部屋の中央。

 木製の重厚な机が間に挟まるも、しかしこの場の主たるシンボリルドルフの存在は隠せなかった。

 

「すまないね、少しばかり立て込んでいた」

「カイチョーが忙しくないときってあるの? 

 もっとボクらを頼ってもいいのにー!」

「……私としては十分に頼っているつもりなんだが。

 エアグルーヴにも同じことを──いや、その話はまた別の機会にしようか」

 

 どこか、普段よりも硬い声だ。

 親しみやすく在る事を心掛ける皇帝にしては珍しく、強張った表情。

 トウカイテイオーはそんな彼女の様子を見て取り、逸る心を少しだけ鎮める。

 

「さて……例の──ファインドフィートの件だな」

 

 生徒会の主は眉間に二本指を添え、瞳を机の上で滑らせた。

 一つの紙束が無機質な存在感を主張している。

 

「手始めに学園側で保持している記録を取り寄せた。

 それが、これだ」

 

 そんなシンボリルドルフの声に吸い寄せられるかのように、机の前まで移動する。

 近くで見れば薄い紙束だった。

 表紙なぞ何も無い無地の白が無味乾燥に無害さを装っている。

 

 音もなく手に取り、もう一度シンボリルドルフに一瞥を向けた。

 

「他言無用だぞ」

 

 ──返ってきた同意に頷いてみせ、表紙に指先を這わせる。

 3枚程度のA4サイズ(約21cm×30cm)をホッチキスで纏めただけの資料だ。

 

 ぱらり、と一枚目を捲る。

 まず視界に飛び込んできたのは馴染み深い芦毛の少女の顔写真。

 トウカイテイオーが有する最新の印象と比較してみれば、今よりも幾らか幼い容貌にも思えた。

 

 もちろん紙に載る情報は写真のみではなく、入学後の経歴などを象る文字列も含まれる。

 名前、姓、入寮後の部屋番号、連絡先。 全て個人を表す上では一般的な情報群だ。

 

 ……もっとも、この状況そのものは一般的では無いのだろうが。

 いくら実績を残しているとは言え、トウカイテイオーはあくまでも学生でしかないのだから。

 

「……これって、完全に個人情報だよね……」

「その通りだ。 本来なら一般生徒に見せていいものではない。

 規則的にも、倫理的にも」

「でも、見せてくれるんだね」

「……次のページを見てくれ」

 

 明瞭かつ泰然な振る舞いを是とするシンボリルドルフには珍しい、濁した返答だ。

 おや、と眉を顰める。

 訝しげな眼差しを向け、小首を傾げた。

 

 しかしシンボリルドルフは黙して語らず。

 故に仕方なく言われるがままに指を這わせ──ぱらり、ともう一度紙を捲る。

 まず視界に映るのは、先ほどと似た構成の記入欄だった。

 

「……あれ? 

 空欄……?」

 

 けれども内容は異質。

 記入すべき要項が明示されるのみで、在るべき情報の一切が存在しない。

 例えば──元の住所、保護者の氏名、連絡先。

 文字のインクで彩られているはずの項目が、尽く無垢な白を保持していた。

 まるで、過去なんてものは存在しないと云わんばかりに。

 

「あぁ……その通り。

 ファインドフィートの住所、保護者への連絡先……入学に必要なはずの情報が欠けている。

 もっとも、戸籍謄本あたりの書類は提出されているから情報が皆無という訳でも無いんだが……」

「チグハグだね……普通にミス、とか?」

「さて、トレセン学園の事務方がそのようなミスを発見できていないとは思えないが……少なくとも、事実のみを鑑みるならその通り」

 

 表面上の回答を述べる。

 両手を組み交わし、肘を机の上に乗せた彼女の表情はどこか重苦しい様相だ。

 赤みが掛かった菖蒲(むらさき)の瞳をじっと細めて、疑念で錆びつく唇を震わせた。

 

「生徒会長という役職で調べられる範囲であればこの程度でしか無い。

 が……これ以外にも少々、気に掛かることがあってね」

 

 白い指先で、トウカイテイオーの手元を指さす。

 言葉に迷いはあっても、その身体の運びだけは過去の累積通り、揺るぎのない威厳を保っていた。

 

「ファインドフィート。今年で14歳になるウマ娘で、姓は"御供"だそうだ。

 私達ウマ娘の文化では姓で呼ぶ機会が少ない。

 だから気にする事も然程多くないんだが……今回は話が別だ」

 

 一度、言葉を区切る。

 言うか、言うまいか。

 事ここに至っても僅かな躊躇を宿して──しかし、その逡巡は時を無為に消費するだけでしかないと切り捨てた。

 乾いた唇を舌で湿らせ、言葉の滑りを取り戻す。

 

 一度、瞬いた。

 その菖蒲色の瞳から迷いは無くなっていた。

 

「4年前のニュースを覚えているかい? 

 軽自動車とトラックの交通事故だ」

「ん~……ごめん、覚えてないや」

 

 僅かに思案にする。

 ……が、生憎トウカイテイオーの頭脳にそのような記憶は存在していなかった。

 日本において交通事故の発生件数は一日で千を超える。 どれだけ痛ましくとも、数字が全てを物語る。

 ニュースになったらしいとはいえ、日々の記憶に埋没していくのは抗いようのない事だ。

 

 その回答を受け、シンボリルドルフは一つ頷きを返した。

 話を持ち出した彼女とて、偶然テレビで見ただけのニュースだった。

 しかも全国的に報道された訳ではなく……ただ、一つの悲劇として、一部地域で綴られた過去だ。 知らなくても無理はないだろうと言葉を続ける。

 

「軽自動車側には一家が乗っていたそうだ。

 両親と()()()の三人家族。 対するトラック側には一人の運転手。

 その内、生存者は一名のみ……と、悲惨な事故だった」

 

 ──内容を聞き入れて、おおよその過去を察する。

 トウカイテイオーは、件の少女の傷跡の所在は()()にあるのだろうと推察した。

 シンボリルドルフが行き着いた答えと同様に。

 

 しかし、明確な経緯を明瞭に示すために喉を鳴らす。

 ほんの僅かな認識の齟齬でさえも生じる余地を無くさなければならない。

 

 傷跡の残る心に触れようというのであれば尚更の事。

 シンボリルドルフは白亜に輝く蛍光灯の下、傷跡への道を開く。 青い罪悪感だけはどうしても隠しきれなかった。

 

「ファインドフィートは、その事故の生存者だ。

 この珍しい名字と年齢、住所から考えて……まず、間違いないだろう」

「……そうだね」

「その経験が彼女の内面に影響を与えていたとしても可笑しい話ではない。

 例えばPTSD(心的外傷)サバイバーズギルト(生者故の罪悪感)……幼い子供がそれらのダメージを負わなかったと考えるほうが不自然だ」

 

 "もちろん、可能性の域は出ないが"と一言を添える。

 そこまでを形にして、口を閉ざした。

 

 ありとあらゆる可能性を精査した上で結論を弾き出すしかないのだから、こういった個人の傷跡にも触れるしか無い。

 他人の事情に土足で踏み込むという事実に、じゅくじゅくと泡立つ寒気がシンボリルドルフの臓腑を(なぶ)る。

 

 ──しかし、彼女の信条がそれを是とする。

 

 全てのウマ娘の幸福のために。

 その為に心に触れ、苦悩の根源を解き明かす。

 物事の解決のためにはまずその根源となる何かを特定する必要があるのだ。

 

 だから、後悔はない。

 後悔はしない。

 

「……不要なお節介でしか、無いかもしれないが」

 

 背負った気疲れごと椅子に預け、眉間を抑えた。

 ぎぃ、と背もたれが微かに軋む。

 

 "さて、ダジャレ集の新刊が発売されるのは今日だったか"と、壁に掛けられたカレンダーへと現実逃避の幻を重ね合わせて、仄かに苦笑する。

 無論、幻は幻。 無意味に過ぎることはシンボリルドルフ自身にも理解出来ていたのだ。

 

「状況を、整理しようか」

 

 天井を見上げる。 シミの無い綺麗な天井だ。

 その清浄さに泥を吐きかけるように、猜疑心の塊で喉をこじ開ける。

 そして、口を噤んだままのトウカイテイオーだけが彼女の言葉を聞き届けた。

 

「事の発端はファインドフィートの異変からだったな。

 私自身は対面して言葉を交わせていない、が……テイオーからしてみれば、その精神状態が只ならぬと」

「うん。

 気付いてるヒトは余り居ないみたいだけど……」

「……テイオー、キミは何を見たんだ?」

「……」

 

 瞼を閉じれば今この瞬間でも思い返せる。

 トウカイテイオーが真っ先に瞼の裏に浮かべるのは、ファインドフィートの瞳の(うち)だった。

 青く澄んでいるようで、その実は何処までも淀み、歪んで、褪せている。

 そして、濡れていた。 悲嘆に濡れていると感じた。

 

「ずっと泣いてた。

 ボクらが気付いていなかっただけで、フィートも気付いていないだけで、ずっと泣いていたんだよ」

 

 何時かの月夜で、トウカイテイオーは見たのだ。

 迷子のように俯く子供と、その目尻を伝う淡い雫を。

 手を伸ばそうと震える指先を。

 あの日のあの場所で、ファインドフィートだけが気付いていなかった。

 

「……それだけ追い詰められているのかな。

 頬の熱に気付けないぐらいにさ」

 

 そして、その瞳は──どこか、見覚えのある色だった。

 二年前の雨天で、濡れそぼった心を知っている。

 誰かの泣き顔が網膜の裏で像を結びかけた。

 ……所詮は錯覚で、過ぎ去った記憶の残影でしかない。

 

 ファインドフィートの瞳は、その過去を想起させる色だ。

 絶望に折れかけて、掠れる、悲哀の色彩だ。

 

「自暴自棄、っていう言葉が近いのかも。

 諦められない何かのために、追い詰められてる……の、かな」

 

 今でもトウカイテイオーの脳裏に焼き付き、残り続けている雫。

 理由は彼女自身にも分からない。

 ただ、忘れるべきではないと思ったから、今まで抱え続けていた。

 

「心は疲れ切ってるのに、心の何処かは諦めたがってるのに。

 それでも、前を向くしかない。

 その矛盾が、きっと苦しいんだ」

 

 そして、その二律背反は酷く哀しいモノなのだと。

 痛ましい少女を想い、そっと胸を抑える。

 

 ──だとするなら、背負った荷物を分けて欲しいと願うのは悪いことなのだろうか? 

 無邪気に笑っていて欲しいと願うのは、悪いことなのだろうか? 

 

 言葉の裏に祈りをそっと滲ませて、鬱屈と俯く。

 

「……それに、この前の菊花賞。 カイチョーも見たでしょ? 

 あの後の検査結果は問題無かったって聞いたけど……でもさ、ヘンだよ。

 止めない大人も、止まらないフィートも」

「そう、だな」

 

 ヒトもウマ娘も、心を持つ命は何かしらの矛盾で苦しむものだ。

 実に難儀で複雑な在り方だが、それ故の輝きというものもある。

 だからこそ、その輝きとやらに万人が惹かれているのかもしれない。

 

 ……トウカイテイオーには、"だから素晴らしいもの"なんて感じ入ることは出来なかったが。

 苦しみ事そのものは美徳ではない。

 矛盾の中で足掻くことが美しいなどと、断じてありえない。

 

「だから、きっと……」

 

 ファインドフィートの瞳の色。

 それはきっと涙の色だったのだと、誰に向けた訳でもない理解を宙空に零した。

 本当に届けたかった相手は此処に居ない。 だから、無意味な独白だ。

 

「……往々にして、矛盾とは自己と外部との軋轢によって齎される事が多い。

 だが、その"外部"を何処と定義するのか。

 現在の何処かにある、"誰か"という外因か。

 あるいはその"外部"が過去に喪われた命だとするなら──」

 

 ──その先を明言するには些か憚られる、と。

 無言を以て雄弁に語り、しずしずと瞼を下ろした。

 

「随分と、根の深い……」

 

 それは、シンボリルドルフにとっても未知の領域だ。

 

 サバイバーズギルト(生き残ってしまった罪悪感)とは、時に"偉業を成す"ことを己に強いるという。

 たった一人生き長らえた事実に大いなる意義を齎すことで、家族の死を無意味ではなかった事にする。

 書物由来の知識と現在の状況を照らし合わせてみれば、一応納得は可能な推察であると言えよう。

 

 ……あるいは、そうではなく。

 彼女のそれに宿る意味が全くの逆で、未来を目指す故の決起なのかもしれない。

 前を向くための儀式というのなら、きっと素晴らしいことだ。

 過去を乗り越えようと足掻く故の苦しみというのなら。 傷を癒やすため、必死に奮い立つ若獅子の叫びというのなら。

 周囲の人々は、彼女を信じ、時折に背中を押せばいい。

 

「…………」

 

 ──斯様に推論を(あつら)えてみても、そのふたつの何方が"正しい答え"なのかは確定できない。

 もしくは第三の選択肢さえあるのかもしれないのだ。

 物事の解決まで、あまりにも遠い。

 

 瞼を押し上げ、深く、重い溜息を零す。 その癖に、疲労も苦悩も欠片さえ抜けやしなかった。

 

 それに、そもそもの話で。

 専門家ではない彼女等の力で、この複雑極まる事態を解決しようと手を伸ばすこと自体が危うい。

 正しさだけで論ずるならば、大人達を頼るべきだった。

 生徒会長であろうとも、高名なアスリートであろうとも、成人には程遠い少女達でしかないのだから。

 こればかりは変えようのない純然たる事実だ。

 

 ……けれども、事を大きくするには事情が事情。

 ファインドフィートは無敗三冠ウマ娘。

 そんな彼女の過去は格好の話のネタになってしまう。

 万が一、億が一、無粋な記者に情報を掠め取られたら──。

 

 ──その先の結末が良いものになると、断言できるはずもない。

 

「手詰まり、だな」

 

 発覚したのは学園によるチグハグなミスと、ファインドフィートの前歴。

 これ以上は当事者に直接聞くしか無いのではないかとある意味で当然の答えにたどり着く。

 

 ……ただし話がこじれてしまった場合の事を思案したなら、どうしても二の足を踏んでしまうものだった。

 

「もしも事故の傷跡が癒えた後であるにも関わらず、的外れな推論に従っていたとしたなら。

 ……それは、とてもじゃないが望む結果を出すことは不可能だろう。

 むしろ彼女の心をいたずらに傷つけるだけになりかねない」

「う~……カイチョーの言う通りだって分かるけど……」

 

 しかし、もどかしい。

 トウカイテイオーも分かっていた。

 "拙速は巧遅に勝る"とは、今回ばかりは間違っているに違いない。

 彼女は鬱屈とため息を零し、か細くうなだれるしか出来なかった。

 

「けど、納得出来ないよ~……」

「……そうだな。

 本当に、本当に……」

 

 背もたれを軋ませる。

 細く靭やかな体躯の少女さえ受け止めきれないのだと、見掛け倒しの椅子が無様な悲鳴を上げていた。

 

「また、日を改めようか。

 今日この場でこれ以上話し合っても……納得の行く答えを見つけるのは不可能だろう」

「うん……そうだね。

 でも何か分かったらすぐに教えてよね! 絶対だよ!」

「ああ、勿論だ。

 吉報を用意出来るよう力を尽くそうとも」

 

 

 ──。

 ──―。

 

 

 ──そうして、トウカイテイオーは去っていった。

 大きな音を立てて閉じられた扉を見やり、大きな溜息を吐き出す。

 鉛を含んでいるのではないかと懸念するほどに重く、硬い苦悩の塊だった。

 

「……まるで暗雲低迷だ。

 良い方向に進んでいられる自信が無い……。

 

 ……あるいは、崎川トレーナーに頼るべきだろうか。

 彼女ならば信頼出来るだろうし──どうしても、大人の力は必要だ」

 

 私がもう幾年か齢を重ねていればな、と。

 愚痴にも似た呟きを虚空に落とし、机に肘を突き立てる。

 

「家族、か」

 

 トウカイテイオーが置き去りにした書類には含まれていない、一枚の紙を引き出しから取り出した。

 本来ならばシンボリルドルフでさえも目にしてはならないモノだ。

 いってしまえば完全な個人情報の塊──戸籍謄本の写しに視線を滑らせる。

 

 名前と、本籍地と、家族構成。

 その内から読み取った文字列に曰く、続柄で『子』にあたる存在は一名のみ。

 

 それが、何故か視線を惹き付ける。

 まったく変哲のないインクの字が二重に滲んで見えた気がした。

 

 

 

 


 

 

 

 踏み出した先は薄氷(うすらい)の上。

 ぱきりぱきりとヒビ割れた。

 

 

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