【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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29話

 

 

 剥がれ落ちる。

 

 


 

 

「おっ、12インチ(フィート)じゃん! どーしたんだよ、んな重装備で! 

 無人島に村でも作んのか?」

 

 10時15分。

 天気は曇り、湿度は低く、からりと乾いた空気だった。

 

 そんな中に響くのは、ころころ笑うゴールドシップの声。

 甲高いそれが、晴々と澄んだ大気を伝う。

 

 ……しかし、対するファインドフィートは笑いもせず。

 喜色もなく、反応の鈍い表情で、淡々と受け止めるのみ。

 胸中を満たすのは随分と()()()性格の少女に対する戸惑いか。

 オブラートに包んで表せば、ファインドフィートには彼女のような存在に対する経験値が不足していたが為のものだ。

 それを知ってか知らずか、知ろうともせずか。

 ゴールドシップは流れるよりも尚なめらかに距離を詰め、背負ったリュックサックをぺしぺしと叩いた。

 

 ただし、彼女の手のひらに返ってくる感触は存外弱く、軽い。

 とてもではないが"無人島に村おこし"は不可能でしかない積載量だった。

 

「……あの、ゴールドシップ、さんは何故此処に? 

 今日のスピカはトレーニングの日では……?」

「当然サボったに決まってんだろ。ゴルシちゃんを無礼るなよ」

「そ、そうですか……」

「オメーは? やっぱ無人島に国造りか?」

「いえ、少しばかり私用で……」

「ほォん」

 

 ファインドフィートが身に纏うのは、確かに外出用の服装だった。

 上は如何にもふかふかな防寒着に身を包み、足は登山用の頑丈なシューズ。 もちろん、踏み込みを補助するために専用の蹄鉄も仕込まれている。

 そして背には大ぶりな黒いリュックサック。 安っぽい合皮の黒艶が、健気な自己主張を見せつけている。

 

 そんな出で立ちの彼女を見て──ゴールドシップは片眉を一瞬のみ吊り上げる。 ほんの一瞬だけだ。

 ファインドフィートが気付くよりも先に、平常運転に回帰する程度の微細な変化。

 

「ところでインチ」

「フィートです」

「そうか、センチ」

「…………。

 ……はい、なんでしょうか」

「たいやき、食うか?」

「えぇ……」

 

 ファインド()()()()が反論の口を開いた──直後に、二の句を告げるよりも先にたいやきを突き込む。 中身はこしあんだった。

 何処から取り出したのか、とか、そういった疑問が湧き出る余地も無いほどに鮮やかに。

 ……もっとも、今の彼女には味覚を気にする余裕も無いのだが。

 胸が痛くて痛くて、苦しくて、()()()()()を楽しむだけのリソースさえ払底されて久しい。

 いつから"こう"なって居たのかという疑問は、きっと無意味だった。

 それを明らめた所で何の意義もない。

 

「…………ほォん」

 

 もう一度、ぽつりと納得の声を零す。

 普段関わり合いの少ないゴールドシップであれど判別がつくほどに病的に白い(かんばせ)

 ともすれば蒼く見えてしまう程に、血の気が失せた顔色だった。

 

 ゴールドシップという少女は基本的に愉快犯であり、場を騒がしくかき乱す事に心血を注ぐ破天荒な存在である。

 その筈であったが──そんな彼女でさえ、引き摺り回そうとは思えない。

 むしろ麻袋に詰め込んで保健室に叩き込んでしまったほうが良いのではないかと、僅かながらに熟慮する。

 

「……」

 

 アメジストの瞳で、青褪めた少女を見やった。

 口内にある残留物の咀嚼を終えた彼女は、相変わらず血の気が失せた顔のままだった。

 

「──オイオイオイ、どうしたんだよまな板の上に打ち上げられたカツオブシみてぇな顔しやがって。

 ポンポンペイン(腹痛)か?」

 

 しかし、内心は(おもて)に出さず黙して語らず。

 代わりに普段の調子で舌を回し、騒がしくファインドフィートに絡みだす。

 

 手のひらで腹を叩く様は軽やかで、まったくいつもと変わらない調子者のそれである。

 ペシペシ、ぺちぺちと。

 ……実は、ゴールドシップという破天荒少女は子供相手ならば手心を加えられる存在であった。

 それは公園に居座る子供達やニシノフラワーが証明している。

 

「うわ、筋肉スッゲ!

 こう、へそ出しスタイルが似合いそうだな! スイーツ食うか!?」

「……いえ、その……わたしは用事があるので」

「用事だと!? そんな、このゴルシちゃんよりも面白い所があるなんて……!?」

「少し、家族の所に顔を見せるだけなので。

 面白いも何も無いですよ」

「おいおい、そんな辛気くせー顔を見せるつもりなのかよ~。

 ほれほれ、もちっと笑えや! うおっ、もちもちだなぁオイ!」

 

 荒っぽい言動とは裏腹に、手付きは何処か柔らかい。

 無抵抗で為されるがままのファインドフィートもそれを理解している故なのか、ただ淡々とゴールドシップを眺めていた。

 無邪気な童女が笑むのを、ぼんやりと虚ろな(まなこ)に映す。 どこか濁った瞳の色だった。

 

「……わらしになひをもほめへいふんでふか(わたしに何を求めているんですか)……」

「そらぁピカソレベルの顔面に決まってんだろ」

 

 そんな彼女の空虚な鼓動に気付いているのだろうか。

 気付かないまま、心底から巫山戯ているのだろうか。

 それは間違いなく前者であった。

 彼女は、周囲にいる大勢の人間が考えるよりも驚くほどに思慮深い。 本当に、驚くほどに。

 

 ゴールドシップは頬に当てていた手を引っ込め──代わりに、白い歯を覗かせる。

 ケラケラと甲高く、広場の空を駆け巡る。

 ただし聞き手のファインドフィートにとっては面白くもなかった様子で。 あるいは理解出来なかった様子で、首を傾げるばかりだった。

 

「面白き事もなき世を面白く、大事だろ?」

「分かりませんよ、そんなの」

「あぁ~!? ゴルシちゃんの至言を否定すんのかよ!? 

 おら! おら! 悔い改めろ! 仏陀に懺悔しろ!」

ふぁ()から……わらしになひをもほめへいふんでふか(わたしに何を求めているんですか)

 

 もう一度頬に手を伸ばす。

 強張った表情を揉みほぐし、単なる子供のように騒ぎ立てて。

 お前もこうすればいいのに──とは、言葉に出さなかった。

 

 

 

 ──それから、長々と遊ばれ続けるのかと思いきや。

 いよいよ本当に面倒に思い始める寸前であっさりと解放され、肩透かしを食らった気分になった。

 もちろん、それは良いことだ。

 しかしどうにも拭いきれない一抹の寂しさが心胆を掠めてしまって、僅かながらに尻尾が下がる。

 ……寂しさを感じてしまった事自体がおかしいというのに。

 

「……だってそんなもの、ただの余分でしかないのに」

 

 駅の改札を潜り、ぎこちない様子で電車を待つ。

 普段の移動であればファインドフィート自身の足で移動することもあって、電車に乗る事自体然程多くない。 それ故に些か不慣れでもあった。

 余程の遠方──例えばレース場に向かう時でもなければ、電車や新幹線に乗ることはないのだ。

 

「……」

 

 ひゅうひゅうと風が吹く。

 さらさらと、前髪が揺れる。 芦毛の銀が日光を反射して、ホームのコンクリートに光の斑点を散りばめた。

 そうして線路の上を滑り、無形のままで通り過ぎていく。

 

 その情景を網膜に焼き付けて。 ふと、空想を馳せた。

 己に身体が無ければ、それにのって何処までも自由に飛べたのだろうか──などと。

 無論、空想は空想。実現は叶わない。

 くだらない一人遊びだ。

 

 ……それでも、多少なりとも痛みを紛らわせることはできる。

 だから、無駄ではなかった。

 

「……あ、電車」

 

 そうして虚空を眺めていれば、ついに線路が軋む音を引き連れ鉄の箱が訪れる。時間通りだ。

 ホームで待機している彼女の目の前で、ぶしゅう、とドアの機構から空気が抜けた。

 

 機械的に開いたドアをゆっくり潜り、位置のズレたリュックを背負い直す。

 乗客は少なく、疎らに席が埋まっている程度でしかない。

 そうでありながらもにわかに集まった視線を意図的に無視してしまい、適当に誰もいない席を陣取った。

 菊花賞、或いは皐月賞の頃からか、ファインドフィートの周りはいつもこうだ。

 流石の彼女であれど現状に慣れてしまった。

 もっとも、彼女一人で居るときはまだマシな方だ。 ここにミホノブルボンやトウカイテイオー、もしくはメジロマックイーン等と同行している時は更に露骨な視線が四方から突き刺さる。

 

「…………」

 

 努めて無関心を装い席につく。

 尻に伝わるのは硬い座席の反発力だ。 包容力など欠片もありはしない。

 お前でさえも安らぎの場になってくれないのか、と忌まわしげに尾っぽで叩きつけた。 当然ながら反応が好転する筈もない。 仕方のない事である。

 

『──発車します。電車の揺れにお気を付けください』

 

 ぎぃ、と電車が軋んだ。

 頭上で吊り革が揺れる。それに合わせてファインドフィートの上体も振れる。

 家族の待つ場所へ──否、正しくは家族が眠る場所へ辿り着くまでの長い時間を、これと共にせねばならないのかと。

 小さく、棘交じりの溜息を吐く。

 ……快適な移動時間のみを求めるのならタクシーを呼べばいいのだろうが、彼女はそれを選ばなかった。

 

 ただ、車が怖かったからと。 それだけの理由で。

 だから、自己責任の末路でしかない。

 だから、この居心地の悪さを受け入れる以外の術を知らなかった。

 

「……はぁ」

 

 もう一つ、棘交じりの後悔を吐き出した。

 毎度の事ながら、止まらない。

 そもそも息をしているだけで後悔の念が溢れてしまうのだから、仕方のない事だ。

 

 

 ──そこで思考を切り上げて、やけに視線を感じる発生源──真向かいの席へと視線を向ける。

 親らしきヒトの女性がひとり。

 娘らしきウマ娘の少女がひとり。 きらきらと綺麗に輝く星を瞳に宿していたから、おそらく視線の主は少女だった。

 希望に満ちた幼気な瞳が、ファインドフィートの顔を見つめていた。『ファインドフィート』というテレビの向こう側に在った少女を見つめていた。

 

 少女は、そこに何を見出したのだろうか。

 彼女には想像もつかない。

 が──いつかの日の情景に残る、見覚えのある色だった。

 

 小さな子供へ手を振り返し、喉の奥をきつく締め上げる。

 それはきっと、ちっぽけな意地の、ちっぽけな見掛け倒しだった。

 

 

 ◆

 

 

 電車を降りて、人通りのない駅前から駆け出して十と数分。

 一般家屋や用途のわからない小ぢんまりとしたビルに挟まれた道路には、車の往来は殆ど無かった。

 精々、ウマ娘専用レーンを駆ける彼女の蹄鉄がアスファルトを削る音が寒々と響くのみ。

 騒々しいエンジンの音も、鼻につくガソリンの臭気も何も無い。

 

 それは御供の家が所有する山に辿り着くまで変化などなく、道中ではセピア色の風景が広がるばかりだった。

 

 そうして食事さえも忘れて走るうちに昼を過ぎてしまい、ほんのりと騒ぎ始めた腹の虫。

 それを気合で強引に黙らせ、舗装されていない山道を進み始める。

 用事を終えたら適当なコンビニに寄り、いい具合のゼリー飲料でも腹に詰め込む算段だった。

 

「……ん、歩きやすい」

 

 景観も山道も前回──去年の秋よりは入念な整備が行われていた。

 道にはステップとして木材(丸太)が埋め込まれ、砂利を敷くことで明瞭な体裁を整える。

 伸び放題だった草は一定の長さに刈り揃えられ、密度までも調整済み。

 それは陽の光を隠す程に繁っていた木々の枝葉も同じだった。

 

 右を見ても左を見ても上を見ても、どこもかしこも数理的で人工的な規則正しさを主張する。

 業者に依頼した甲斐はあったな、と淡い満足感を抱くに足るものだ。

 

「でも……前より、静かになりましたね。

 少しだけ、寂しいです」

 

 勿論、決して無音ではなかった。

 靴底が土を削る音が深々と響き、擦れる葉っぱのざわめきによる乾いた呼吸が鼓膜を撫でる。

 よくよく耳を澄ませば、星のざわめく声が瑞々しく雄弁に語らってくれる。

 

 ざりざり、こつこつ。

 ファインドフィートの蹄鉄が嘶く。

 ざあざあ、ざわざわ。

 木々が風に吹かれ、草の隙間から囁きを這わせる。

 

 しかし──人の手が入り、無駄な枝葉を剪定され、機能的な美を獲得した木々は以前のように大雑把な自然の唄を失っていた。

 それが成長に適した環境故の代償なのか。

 そうと考えれば、幾らかは納得の行く話ではある。

 

 ただ、ファインドフィートだけが幽かな寂寥(せきりょう)の情を覚えていた。

 そもそも彼女自身の選択で剪定の依頼を出したというのに。

 けれど、そのくせにどうしてか腹の底が凍てつくようだった。

 そんな彼女の感傷に引かれてなのか、靴音もほんの少し心細げだ。

 

 ざりざり、こつこつ。

 十分と少しも登れば終点がちろりと顔を覗かせる頃合いだ。

 常日頃と比べれば運動量は然程ではない筈のくせに汗がほんのりと滲む。

 頭髪の裏側でうなじを湿らせて、些か以上に不快だった。

 

「あぁ……」

 

 そうして歩く先。ついに見えた終点の輪郭。

 墓石の鎮座する広場が近付くに連れて、爪先に鈍りが生じていく。

 細く、長い怖気が、糸の如く絡みつく。

 それは実在しない。 それは幻影でしかない。

 そのくせに不思議と足取りは重くなる一方で、靴音の生じる間隔も徐々に広がっていく。

 

 その音が──あるいは、寂寥(せきりょう)の情そのものが。

 古い後悔による沈殿物だと理解出来たのは、薄汚れた墓の前に辿り着いての事だった。

 家族との別れから経過した時間の流れと、それによって齎された変化が、酷く悲しかったのだ。

 

 自分達が命を失ってこの世界から姿を消したとしても。

 世界は変わらず時を刻み、あるがままの日常を送るだけなのだと。

 そんな極々自然で当然の事実を思い知らされるようで、苦しかった。

 

「この墓場は、変わらないのに」

 

 時代に取り残されているようだ、とは言葉にしなかった。

 それを口にしてもただ惨めな気持ちに溺れるだけだと脳髄の裏側では理解していたからだ。

 ある種の経験に基づく確信だった故に、疑念を挟む余地は存在しない。

 

「……久しぶり、です。

 お父さん、お母さん」

 

 リュックサックを地面に下ろし、ぽつりと呟く。

 道中で乾いた唇を舌で濡らし、墓石の文字を視線でなぞって。

 

 土埃に塗れた表面は、時間の経過の割には薄い汚れだった。

 己以外にも訪れる者が居たのだろうか、という困惑はある。

 

 しかしおそらく、両親には両親の交友関係があったのだろう。

 その内の誰かが会いに来たに違いない、と適当な結論を見つける。

 何にせよ、ファインドフィートには関係のない話だった。

 

 リュックサックからたっぷりの水が入ったボトルを取り出し、清浄な中身を墓石の上から浴びせかけた。

 僅かな疑心ごと、土埃の表皮を押し流すように勢いよく。

 その後に多少残った残留物はあれども、適当なタオルを押し付けこそぎ落とす事ほんの数秒。

 あっという間に御影石の輝きを取り戻した。

 

「……綺麗に、なりましたね」

 

 少なくとも、四年前よりは、と。 小さく奥の歯を噛み締める。

 そのままノロノロと鈍重な動きで掃除道具をリュックサックに押し込んで、邪魔にならない位置に放り投げて。

 

 そしてためらいがちに、墓石の前にしゃがみ込んだ。

 何を言うでもなく手を合わせる姿は、どこまでも愚直に真摯だった。

 

「…………」

 

 ──しばしの間、無言に準ずる。

 ひゅうひゅうと吹く風が彼女の頭髪と耳を揺らし、儚く解けた。

 さあさあと草の囁く声が、白い尻尾を撫でて消えていく。

 

 そうして時が巡り、やがて風は止まった。

 それと同時に、唇を震わせた。

 自分達の両親に何を告げるかは事前に決めていたおかげもあって、喉が詰まることはなかった。

 

「……今日はわたし達の誕生日なんですよ。

 もう、誰も覚えていないとしても……わたし達の誕生日です」

 

 喉を通り、口腔を滑り、つらつらと零れ落ちる言葉。

 以前であれば何ら気負う事もなく吐き出せたであろう報告は、きっと何処にも届かない。 今はもう受け取る存在が居ないのだから。

 

 頭の片隅にそんな摂理が居座っていて、決して揺らぐこともない。

 ファインドフィートもそれを拒む気は無かった。

 

「普段はめったに来れないし、お盆は──その、合宿の為に使いたいですから。

 だから、今日、報告に来たんです」

 

 どちらにせよ関係ないのだ。

 届くとしても届かないとしても、親という存在に向かって告げられるのなら。

 

 だから、これは一種の儀式の為でしかない。

 彼女(生者)が前を向くための、前だけを見るための、弔いの儀式だった。

 それを止める権利など彼女にさえ存在しない。

 他の誰でもない彼女だからこそ、存在しないのだ。

 

「話したいことが、沢山あるのです」

 

 故に、絶え間なく記憶を綴る。 揺るぎない想いを綴る。

 言葉という形のない手紙に祈りを込めて、墓石に向かって投げ飛ばす。

 

 例えば、ミホノブルボンの事。

 何時も世話を焼いてくれる、泣きたくなるほど姉によく似た少女との思い出を。

 例えば、トウカイテイオーの事。

 近頃は一方的な気まずさを抱いてばかりの、気高い先輩へ捧ぐ感傷を。

 例えば、トレーナーの事。

 ズボラな生活を送ってばかりなだらしない大人に向けた愚痴を。

 ……けれど、そんな彼の手によって己の身に宿った無敗の三冠(王者)という栄光を。

 

 ──彼女には、話したい記憶が幾らでもあった。

 どれだけの時間を掛けても底が見えない程に、舌の根が乾くことさえ出来ない程に語り明かせる自信があった。

 どれもこれもファインドフィートの宝物であるからこそ、それを自慢したいという子供らしい情動もあったろう。

 

 

 ……しかし、時間はどうあっても過ぎ去っていくもの。

 ある程度の思い出を語り終えたところで、一度口を閉ざした。 薄い唇は未だに乾いたままだった。

 

 ファインドフィートにとっての本題は、思い出話ではない。

 それよりも歪んでいて、単純な物だ。

 

「ねぇ。 お父さん、お母さん」

 

 彼女の意に反して動きの鈍い唇をぺろりと舐めて、ゆっくり、ゆっくりと駆動を取り戻す。

 再び吹き始めた風に紛れぬように、己の声で岩を抉るように。

 

「聞きたいことが、あるんです」

 

 これに答えが返ってこないことは知っている。

 ただ質問を吐き捨てるだけになると、知っている。

 

 それでも、ファインドフィートは問いを投げつけたかったのだ。

 言葉にできなかった想いはじゅくじゅくと腐って澱むだけ。

 既に手遅れなのだとしても、無意味に過ぎないのだとしても、誰かに告げたかった。

 そしてその誰かは両親であるべきだと、そうであって欲しいと願ってしまった。

 

「……わたしの選択は、正しかったと思いますか? 

 わたしは、正しくあれたと思いますか?」

 

 鬱屈と顔を伏せ、墓石と雑草の隙間に視線を突き刺す。

 

 何に対する選択を指した問いなのか。

 そも、何を以て"正しさ"とするのか。

 明らかにすべき筈の具体性に欠けた問いかけに、後悔と、恐怖と、悲哀を混ぜる。

 佇むばかりの墓石に極彩色の毒が静かに染み込んだ。

 

「わたしは、義務を果たせていますか?」

 

 ちゃりちゃりと青い耳飾りの留具を鳴らし、更に深く顔を伏せる。

 極大に膨れ上がった恐怖に押し潰され、沈む重みに耐えかえて。

 ただ、小さく、小さく蹲る。

 

 尻尾を丸める様子には以前の傍若無人な無情の色はない。

 冷めた湿気も、強固な外殻も、ほつれた自我の淀みも、何もかも。

 そこには幼子の嘆きだけが存在していた。

 歯の隙間を通り抜けて深々と、仄かに溶ける。

 

「……答えては、くれないですよね。

 ええ、分かっています。

 あなた達は死んでいるから、此処に居ないから、答えてくれないのだと。

 だから、これは単なる一人遊びなのだと、分かっています」

 

 そうと自覚してしまったからには止まれなかった。 止まろうという逡巡さえもない。

 五指を地面に突き立て、爪で抉り、なおも唇を湿らせる。 きっと、懺悔と同じ苦味で構成された湿気だった。

 

「……ねぇ、お父さん。

 夢を追いかけることは、本当に正しいのでしょうか。

 こんなにも痛いのに、こんなにも苦しいのに、素晴らしいことなのでしょうか。

 もう二度と誰かに忘れられたくないというのは、悪いことなのでしょうか。

 姉さんを誰かに覚えていて欲しいと願うのは、悪いことなのでしょうか」

 

 その苦味に籠もっていたのは過日への望郷だ。

 自覚も定まらぬまま、父の穏やかな笑みを思い浮かべた。

 

 大きな身体、力強い体躯、ごつごつと骨ばった手のひら。

 どこか抜けた性格で、とても温厚な父親だったと記憶している。

 

 ファインドフィート達は、その大きな手に頭を撫でられるのが大好きだった。

 

「ねぇ、お母さん。

 わたしが走っていると、テイオーさんが悲しそうな顔をするのです。

 わたしが走っていると、ブルボン先輩が泣きそうな顔をするのです。

 ……わたしは、正しい道を選んでいるはずなのに。

 わたしの道を、正しくしてくれているはずなのに」

 

 その次に、母の勝ち気な笑みを思い浮かべる。

 艷やかな芦毛と深いアメジストの瞳。 その色を構成する赤と青を見事に分離させたものが『姉』と『弟』に受け継がれたと簡単に察せる程に、深く澄んだ瞳だった。

 その容貌も『姉』と『弟』に瓜二つ。

 しかしその性格は全くもって似つかず、見栄っ張りの性格だ。

 

 ファインドフィート達は、その両隣から母と手を繋ぐのが大好きだった。

 父と母に愛されていることを実感できた日々が、大好きだった。

 

 そんな二人の墓前に向けて、幾重にも連ねた疑問を投げつける。

 姉の命を継ぎ、夢を継ぎ、想いを継ぎ、名を継ぎ。

 そうして『ファインドフィート』となって走り続けたこれまで。

 

 それは素晴らしい未来を再現する筈のもので、決して誰かを悲しませる行いでは無かった筈だというのに。

 ……しかし、どうしたことなのか。

 悲痛に歪んだ二人の顔が脳裏にこびり着いて仕方がない。

 幾度となく引き剥がそうと忘却という爪を立てても、寸分たりとも離れてくれない

 

「……おかしいです。 訳が分からないんです。

 あの人達が悲しむなんて、変ですよ。

 だって、これではまるで……失敗してるみたいじゃあないですか。

 わたしの道が間違えてるなんて、あり得ないのに」

 

 そんな危惧、いっそ下らない雑音だ。

 思考するまでもない無駄で余分な憂慮でしかない。

 何もかもが無駄、無駄、無駄。

 女神という絶対者の導きに従う彼女が()()()()()を犯せる筈などないのだから。

 

 ──そう、断言できたのなら。

 ここまで揺らぐことは無かったろうに。

 

「わたしの全ては、死に損なったわたしの命は、姉さんを遺すために使う。

 それが正しい筈なのです。それだけがわたし達の慰めになるのです。

 ()の為に、願い(弔い)の為に、祈り(未来)の為に。

 ……それだけが、それだけを、願えばいいんです。

 そうしていればきっと、正しい道を()()()()()()()

 

 吐き出しても吐き出しても、疵となって精神にへばりつく毒素。

 それを排除するために傷口(過去)を抉り出し、流血(言葉)に乗せて絞り出す。

 

「だって、失敗してばかりの人生で……どうして、自分の選択を信じられるというのですか」

 

 ──だから、わたしは間違っていない。

 女神さまの心に従うわたしは、間違ってなどいない。

 わたしは正しい。正しくなければならない。

 そうでなければ何故、このような生き恥を晒しているというのか。

 

「産まれた時点で失敗していたわたしが、その先で失敗していないなんて、思えるはずないでしょう?」

 

 絶えず零れていく毒が口腔を傷つける。

 つらつら毀れる心が、月よりも暗く欠けていく。

 深く、深く、深く──。

 

「あの日、水族館に行きたいなんて言わなければみんな死なずに済んだのに。

 あの日、わたしが先に死ななければ姉さんを生かすことが出来たのに」

 

 ──流血(言葉)に滲む嘆きは、呪詛に等しかった。 腐りきって黒ずんでいる。

 ヒトとしての尊厳を踏み躙る蹄鉄。 ヒトとしての個我を嘲る無為な言霊。

 それを他の誰でもない彼女自身が是としたのだ。

 熱に浮かされた思考回路は、その解答を信じて疑わなかった。

 

「だから……。

 そう、そうです、わたしは、そもそも──」

 

 ちゃりちゃりと、青の飾りが悲鳴を上げる。

 あんまりにも煩くて、どうしてか苛立たしくて、そっと耳から取り外した。

 

 ──もう、音は出ない。

 

 青い天然石の耳飾り。 ノットイコール()の尖った輪郭。

 それを右手の内に隠して、茫洋と虚ろなままの瞳で見下ろして。

 知らず知らずに噛み締めていた唇から血を溢れさせた。

 生じる痛みは胸の奥に呑み込まれ、微々たる刺激を表皮に残すのみ。

 

 ……結局、舌の回転は鈍ることが出来なかった。

 

「わたしは、産まれるべきじゃなかった」

 

 顎を伝う雫が、ぽたぽたと土に落ち、つらつらと小川を作る。

 そして不思議なことに頬からも熱い雫が伝い落ちて、小川と合流し、極小の湖を象った。

 

 当然、空の向こうの河と比べるべくもない矮小な煌めきだ。

 けれど、等身大の煌めきだったろう。

 

「──ねぇ、女神さま、女神さま。

 それなのに何故、わたしの命を拾い上げたのですか」

 

 震える右手で胸を抑え、垂れた(こうべ)を持ち上げて。

 墓石の更に向こう、遥かな空へと青褪めた瞳を彷徨わせた。

 

 雲の切れ間から覗く太陽は何時だって変わらず輝いている。

 ぎらぎらと、きらきらと、ファインドフィートを見下ろしていた。

 

「……分かっています。分かっているのです。

 あなたはただ、わたし達の叫びを聞き届けてくれただけなのだと」

 

 染み込む先は空の果て。

 この疑問に答えは返って来ない。

 そうと理解した上で、か細く問い掛ける。

 

「そしてあなたは、わたし達を祝福してくれた。

 正しい道を示し、導き、遥かな偉業の先を見せようとしてくれている」

 

 決して、独力では辿り着けない夢だ。叶うはずのない夢だ。

 ……もしも、差し伸べる手の中にどんな思惑が在ったとしても。

『ファインドフィート』という存在をその高みへと導いてくれるのなら、全てを受け入れる心積もりだった。

 

 どれだけ苦しくても、どれだけ悲しくても。

 ファインドフィートは──嘗て少年だった少女は、『姉』を裏切れない。

 それは全て、一途な愛ゆえの献身だった。

 依存に等しい愛だとしても、愛は、愛でしかない。

 

「……ええ、分かっています。

 きっと、これが正しいのでしょう? 

 姉さんを残すための最適解は、ぼく(偶像)から、ぼく(無駄)を、削っていくこと」

 

 震える右手を持ち上げ翳す。

 手のひらには青色の──否。

 淡い"空色"に染まったノットイコール()の記号。

 

 かつての父からの贈り物で、ファインドフィートにとっては数少ないアイデンティティを証明する宝物。

 あるいは、人間性(家族との思い出)の象徴そのものだった。

 

 ──それに、指をあてがう。

 一本ずつ、一本ずつ、祈りを込める。

 関節を静かに折り曲げて──罅を以て軋ませる。

 

「だから、これで良いのです」

 

 そうしてまたひとつ、己の手で握り潰した。

 さらさらと、指の隙間から青い砂が零れ落ちる。

 ひゅうひゅうと、風に巻かれて空に溶ける。

 やがて、小さな青色は大きな空色の中に沈んで、何処にも見えなくなった。

 

 青褪めた、死蝋の空色(カエルレウス)。 死臭を纏う青色。

 

 ……最初は、何の変哲も無い耳飾りだったとしても。

 それに籠もる意味も意義も、結局は受け取り手次第で定まるのだ。

 

 ファインドフィートがこれを、大切な宝物として規定したように。

 女神がこれを、単なる無駄と断じたように。

 

「だから、これで良かったのです」

 

 手のひらに微かに残った砂を握り締め、指の隙間から逃れる青い煌めきを視線で追いかけた。

 ……けれども塩水に溺れる瞳ではすぐに見失ってしまう。

 

 それに嘆くでもなく、憤るでもなく。

 揺らす飾りを欠いた右耳だけがぴくりと跳ねた。

 

「……けれど、女神さま。

 ヒトは……それを、"呪い"と表すのではないでしょうか」

 

 残滓さえも失った右手で胸を抑える姿は、ひどく物悲しげだった。

 勿論、女神には届かない。

 

 独りよがりのか細い嘆きは行き場を失い、墓石の苔に吸われるばかりだ。

 

 小さく、小さく。

 浅く、淡く。

 

 

 


 

 

 一条の彗星。

 剥がれ落ちる残骸。

 蒸発した塵屑の尾が輝かしい軌跡を描く。

 

 地上から見れば、きっと美しい。

 

 

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