【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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シニア級 / 星に刻むライオンハート
32話


 

 

 ひたり、ひたり。

 ぴちゃり、ぴちゃり。

 頬を打つ雫の冷気を受け、眠気でぼやける視界を開いた。

 

 ……一呼吸。 また瞼をおろす。

 二呼吸。 もう一度瞼を押しあげる。

 半呼吸、やや落ち着かない焦点を強引に調律し、頬の湿り気を指でこそぎ落とす。

 網膜に癒着する眠気を刺激で削り剥がす。

 けれども、ふわふわと浮つく意識が定まる事は中々どうして難しい。

 

「…………」

 

 それでも、力ずくで瞼をこじ開けて。

 青褪めた双眸で最初には認識したのは、真っ暗な天井だった。

 

 照明も窓も無い、光の欠けた空間。

 そして横たえられた背に伝わるのは床板の硬く冷たい感触。

 じっと身体を床に押し付け、浅い呼吸を繰り返した。

 呼気を吸うと同時に押し上げられる胸だけが、彼女の肺の正常な駆動を保証する。

 

 ぴちゃり、ぴちゃり。

 そしてもう一度。 加えて合わせて二度の滴が頬を叩いた。

 天井から水気が染みだし、珠を作って滴り落ちて。

 ざあざあと床を伝って伝播する雨音と併せて、ファインドフィートの頭蓋を優しく揺らす。

 

 ──そこで疑念を覚え、"おや"と眉を顰めた。

 何故、明かりも何も無い空間でありながらも明瞭な視界を確保できているのか。

 外光を取り入れる窓も電気の流れる照明も、小指の先ほどのロウソクさえ無い。

 かといって光る苔が壁にこびり付いている訳でも無いし、曇った蓄光ガラスだって存在しない。

 

 ならば何故なのかと、漏れ出る僅かな逡巡を瞳に宿して──。

 

 けれど、それ以上の感慨は生み出せなかった。

 ただ朧気な自我のまま、瞳をすっと細めて停止する。

 もう一度、穏やかな眠気の到来を望みながら。

 

 だって、せっかく休んでいるのだ。

 せっかく眠っていたのだ。

 一時とは言え胸の痛みを忘れることが出来ていたのだから、もう少しぐらい目を瞑っていても良いじゃあないか、と。

 声にならぬ程小さく、不明瞭な呟きで唇を震わせた。

 

「……寒い」

 

 ──しかし、襲いくる寒気が彼女を包む。

 父よりも厳しく、母よりも苛烈に床を這いずり埋め尽くした。

 

 ただ寝っ転がるだけの怠惰は許さないと言わんばかりだ。

 横たえた身体をふるりと震わせ、存在しない熱気を生み出せないかと足掻いてみる。

 

 が、両足を擦り合わせようと不足。

 衣服を引っ張って露出を隠そうとしても無駄。

 上の制服はまだしも、スカートを変形させることは不可能だった。

 むしろ太ももの裏までずり下がって逆に寒くなる始末である。

 

 ……結局、室温の抱擁は簡単に振り払えるモノではないのだ。

 適した衣服が無ければいとも容易く柔肌を蹂躙し、温度を奪う。安眠を穢す。

 

 そうと理解したのは、目を覚まして数分後の事だった。

 

「はぁ……」

 

 ため息と共に体を起こす。 追尾する芦毛の頭髪が背を擽った。

 今となっては慣れきった感覚を背に、周囲をぐるりと見渡してみる。

 

 暗闇でありながら明瞭な視界。

 その隅々までを見つめて──もう一度、"おや"と首を傾げる。

 大きな青い瞳を幽かに揺らして、あちらこちらへ寄る辺なく彷徨わせて。

 

 壁に掛けられた大きなテレビは真っ暗だ。

()()はニュース番組を映していたはずの液晶は沈黙を守り、ファインドフィートの顔を反射させる。

 いつも通り、青い瞳の少女が無表情のままで睨み返した。

 

 その横には空っぽの本棚。

 嘗て存在していた天文学の本は一つ残らず姿を消して、代わりに伽藍堂の惨めな虚を晒していた。

 たくさんの夢を詰め込んでいた玩具箱も同じく空っぽ。

 望遠鏡も星座盤も、何処にも有りはしない。

 夢の(きざはし)の、何もかもが。

 右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても。

 表も裏も平等に無価値を語る。

 

 ファインドフィートが──否、『弟』が本当に大切にしていたモノは、夢の世界からも消え失せていた。

 学習机の上にあったはずの写真(四人家族)も、何もかもが。

 

「……くだらない」

 

 ──"夢だな"、と即座に直感した。

 "女々しいですね"、といつかと同じく自分を罵った。

 

『双子』が住んでいた子供部屋の、在りし日の姿。

 残骸ですらなくなった残り滓。

 その中央でぽつんと独りで、何をするでもなく居座った。

 以前は存在していた『姉』の残骸さえも欠いた空間に、ざあざあと伝う雨の音ばかりが虚しく響く。

 

「本当に、女々しいよ」

 

 空っぽの本棚を視線でなぞる。

 空っぽの玩具箱に哀愁の言葉を放り込む。

 

『ファインドフィート』という殻を被れども、この閉じた世界では無力な臆病者でしかないのだ。

 虚飾は無為。 強がりは無駄。

 少女に許されるのは不格好な言葉を吐き出すことのみ。

 他に出来る事は何もない。

 他に行うべき事は何もない。

 ファインドフィートは己を省みて、そう確信した。

 

 ……だって、現状は良い方向に向かっているばかりだ

 

 だから、今更削り落としたモノに意識を向けるべきではない。

 死に損なったくせに、託されたくせに、救われたくせに。

 

 だから、()()()は必要な行いだったのだと、小さな棘を吐いた。

 けれどそれは出血を伴い、微かな正気を与えてしまう。

 その正気こそが己を苦しめるのだと知りながら、己に痛みを強いる。

 

 ──本当に納得しているのなら、自己を削り落とす行為を正しいと信仰しているのなら。

 態々夢の中に沈んでまで、唇を噛む必要など無いというのに。

 

「けどさ、どうしようもないんだよ。

 今更こんな夢を見たって……ぼくには、どうしようもないんだ」

 

 痛みに煮えた頭蓋を揺らし、夢の欠けた虚空を見つめて。

 ただ、言い訳がましく口を開く。

 己の言葉こそが最も白々しいと自覚しながら、何度も何度も偽りを重ねて塗り固める。

 

「だから……そんな目で、ぼくを見ないで。

 鏡のくせに、ぼくを睨み返すなよ」

 

 だから、この夢を的確に表したのなら。

 この内界に向けた流血は自罰の戒めではなく、追憶の感傷でもない。

 透明な納得には程遠く、濁った後悔に近い。

 

「ぼくを見るな。ぼくを映すな。ぼくを見せるな。

 ……ぼくの中身を、暴かないで」

 

 そして、ヒトは。

 微かに澱むそれを指して、何と表すのか。

 ファインドフィートは、己が捨てたものに何を見出したのか。

 削り落としても尚、腐れた夢に見るほどの執着を何と形容するべきなのか。

 

「あぁ……ダメだ。 ちがう、ちがうんだ。

 はやく目を覚まさないと、はやく忘れないと……」

 

 自責を以て自己を封じ、己の傷口からは必死に目を逸らし続ける。

 子供が恐怖から逃避するように、両手で押さえて蓋をする。

 そうしてずっと己の本性を自覚しないまま、膝を抱えて蹲った。

 

 己は、間違えてなどいない。

 全てを委ねた己は間違えない。

 だから正しい。

 正しい。正しい。正しい。

 間違いなく正しい。

 正しいから、正しいのだ。

 

 鎖を巻き付け、盲目的な自己暗示を繰り返す。

 幾重にも幾重にも、何度も何度も。

 

 自縄自縛のそれは、やがて日が昇り、瞼の裏に意識が浮上するまで終わらない。

 そうでなければ、己を見失ってしまう気がしたから。

 

 


 

 

 

 シニア級。

 それはトゥインクルシリーズの出走者に割り当てられる等級のひとつである。

 初年度のジュニア級から始まり、二年目のクラシック級を走り抜けた者が到達する戦場。

 つまり、中央という激戦区で、最低でも二年間ものキャリアを積んだ者ばかりという事で。

 ファインドフィートの行く道が更に苦難に満ちた物になるという、ある種の必然を運ぶ事実であった。

 

 その上、彼女の最終目標は九冠ウマ娘。

 クラシック三冠に加え、春シニア三冠、秋シニア三冠を獲得することで九冠とする。

 

 前代未聞かつ前人未到の領域であり──当然ながら、彼女に課せられるハードルは青天井に高まっていく。

 加えてメイクデビュー以前より公言していたという事実と、実際に無敗三冠に至ったという実績。

 それら美しい色付きガラスが綺羅びやかなレンズとなり、勝ち取ったレースの熱狂が壮大な照明となる。

 そして太陽の如きそれが彼女を照らし、『ファインドフィート』という虚構の影を実像として結ばせるのだ。

 いっそ彼女自身と乖離しかねない程に、どこまでも大きく。

 

「けれど別に、悪いことじゃないんです」

 

 携帯端末の液晶を指で弾き、独り言ちた。

 ()()()()に悩まされた故にふらつく頭を右手で支え、平坦な声音で。

 

「……だって、わたしは間違えてない」

 

 日光を反射する青い虹彩が画面の遷移を見届け、メッセージアプリの起動を()めつける。

 レース練習用の運動場に向かう道中、冬の寒気で凍てつく午前の空気。

 ……しかし、ただ冷たいだけの外気では彼女の頭は静まらず、うなじを這い上がる苦味は消えること無く居座ったままだ。

 

「だから悪いことじゃ、ないのに」

 

 視線の先で踊る文字は、一言に要約してしまえば単なる謝罪文だった。

 昨年に続き初詣に誘ってきたトウカイテイオーに向けて、下唇を軽く噛み締めながらも(したた)めたそれ。

 つい二日前に送信された瞬間と変わらずに──無味乾燥で平坦な姿を保っている。

 

「…………」

 

 画面の下部に入り込んだ優しい返答からはそっと目を逸らし、雪解け水で湿った地面に視線を落とす。

 石畳の表層と昨夜の夢の床板が重なって見えた気がした。

 

 ……けれど、ファインドフィートが今更どう対応しようとも関係ないのだ。

 既読の表示はとうの昔に相手の液晶まで辿り着いている。

 だから結局、無意味な足掻きでしかなかった。

 

 

 ……だから、そう。

 だから平穏な初詣への未練なんぞ早急に切り捨てるべき雑念だ。

 今はそんな事を考えるべきではない。

 

 忘れるな、と自己の裡を戒める。

 間違えるな、間違えるなと幾重にも束縛する。

 ファインドフィートは『ファインドフィート』としての義務を果たさねばならないのだから。

 友人達との団欒を楽しむのは今日でなくても良い。

 また明日や明後日に回せば問題は無い。 問題は何も無いのだ。

 

 それに──その選択を祝福するかの如くに、今日も変わらず快晴の空だ。

 彼女が屋外でトレーニングをする予定の日、あるいはレース本番の日などは高確率の晴れ模様。 まさしく晴れ女というに相応しい。

 胸を反らして仰いだ先の日輪に目を細め、ひとつ頷く。

 気炎万丈(責務の為に) 意気衝天(弔いの為に)

 今日の天気だって笑い顔なのだから、己の選択は正しくあるに違いない、と。

 無垢で盲目的な確信を抱き、ジャージの裾を風に揺らした。

 

 ……ただ、葛城トレーナーが傍に居ない事は少しだけ残念だった。

 幸いにも自主トレーニング用のメニューは用意されており、何も出来ないなんて事故は起こらない。

 が、トレーニングとしての質の低下は免れず、適切な補助を受けることも不可能で──。

 ……独りでトレーニング、というのは、酷く心細く、寒いのだと、僅かな惰弱を胸中に零した。

 

「……わたしに、もっと優れた才があればこんな弱さは無かったのでしょうか。

 独りでも正しく自分を運用できる機能があれば、もっと強くなれたのか。 あるいは──」

 

 そのまま独りに耐えきれず、無様に壊れるのか。

 解の出ない問いに思慮を巡らせてみる。 解が出ない()()熟慮を巡らせる事ができた。

 

 まず、ファインドフィートというウマ娘自体は然程の才能に恵まれなかった"持たざるもの"だ。

 外部の動力(姉の心臓と女神の祝福)を受け入れることで無敗の三冠足り得るのが彼女であり、それ以外に優れたモノは宿せなかった。

 

 ……もしくは、その()()()()()という"器"としての機能を才能に含めるのであれば、"持つもの"として分類出来るかもしれない。

 彼女と彼女の『姉』が持つ、現代にあるまじき"神に訴えかける"という才。

 それを良いものと捉えるか否かは、また別の話になるのだが──ある意味で、天稟の権化と表すに相応しい。

 

 そうであれば意外と、トレーナー無しの自己運用も可能かもしれない。

 もし担当トレーナーを確保出来なかったとしても、能力の確保は啓示に頼れば良いのだから。

 ……ただし、その先に待つ日々が善いモノだとは欠片も期待出来ない。

 

 ──が、ともあれ、斯様に考察しようと現在は変わらない。

 ファインドフィートは専属のトレーナーを持ち、着々とトレーニングに励み、次のレースに向けた能力値を完成させつつあるのだ。

 その時点で考える意味のない、暇つぶし以下の思索だった。

 

「足りないものは……確かにありますが、環境としては満ち足りてますから」

 

 ステップを踏む。

 返る衝撃が足の骨を震わせる。 伝う重さは初年度よりも大きくなっていた。

 

 それこそ、他に必要なものは──意外と単純で、ファインドフィート自身の"慣れ"である。

 レース、即ち走ること。それ其の物への適応。

 他者とは違い、ウマ娘として生きた年月が圧倒的に短いのだ。

 その上、ファインドフィートは中等部への入学(自我の再獲得)直後からトゥインクルシリーズに出走している。

 本格化に数年掛かる者も珍しくないウマ娘達の中では、程々に早い方だろう。

 つまり彼女は十三年もの月日という経験(ねんれい)の差を埋める必要があり──その欠落は、高々ニ年の実践では補いきれないモノだ。

 

「……だから、とにかく走ること。

 勝つために、限界まで走ること……。

 それが、正しい。 わたしは正しい……」

 

 自己暗示としてぶつぶつ唇を震わせる。

 そうでもしなければすぐに()()()しまいそうで、不安が胸中を埋め尽くしてしまう。

 

 けれど心の内は顔にも尾にも出さないままで、こつりこつりと道を行く。

 蹄鉄の音が小気味よく反響し、人気の少ない往来をほんの少しだけ賑やかに彩る。

 彼女自身も装蹄師の(むすこ)なだけあり、日頃の手入れは入念かつ手際よく行われている。

 その日々積み重ねられた献身に応えるかの如く、こつりこつりと軽やかに反発した。

 高く澄んだ、機嫌の良い音だ。

 

 こつり、こつり。

 道中を共にする音を聞いている内に、ふと疑問を抱いて飾りを欠いた耳を揺らした。

 

 この音霊が包む中で新年の空気を肺に取り入れてみれば、多少は気も晴れるのだろうか。

 この胸の奥で燻る澱みも、涼風に溶けて消えてくれるのだろうか。

 

 そんな淡い疑問、あるいは仄かな期待を浮かべて深呼吸を繰り返す。

 鼻から吸って、口から吐き出す。

 胸を張って、大きく大きく。

 過去にあったラジオ体操を思い出してしまう程、真剣に。

 今は冬だというのに真夏の空を仰いでいる錯覚を得て、どうにもおかしかった。

 

 ──残念(とうぜん)ながら澱みは消えない。

 そも、何を由来とする澱みなのかすら自覚していないのだ。

 少なくとも、澱みを澱みとして認識している内は消える筈が無い。

 

 だとしても大真面目にバカみたいな事をしたおかげなのか。

 ほんのりと、あわく、僅かでも気分は晴れた──ような、気がした。

 

「でも姉さん。

 人生なんて愚行の連続なのでしょう?

 お父さんもお母さんもそうだったのですから。

 だからわたしは、きっとまともです。 たぶん、まともです」

 

 ……()()が錯覚なのか、そうではないのか。

 きっと空に御座(おわ)す女神でさえも知り得ない事だった。

 

 ──ともあれ、事実が何だろうと彼女の道は変わらない。

 茨は延々と傷を抉り、往くべき未来を啓示する。

 黄金の楔が祝福を重ね続け、痛苦の熱が頭蓋を炙る。

 

 ……そしてそれが。

 その愛が、ファインドフィートの新年という始まり(おわり)を定義する。

 三年越しの宿願を叶えよう。 三年越しの悲嘆を燃やしつくそう。

 それを以て"しあわせ"の成就とし、『約束』の結実を示す路標としよう。

 

 女神の玉音が、違えなく彼女の脳裏に焼き付いた。

 それが"正しさ"だと。 それが"救い"だと。

 それが、あなたの為なのだと。

 

……本当に? 

 

 狂い始めた太陽は未だ翳らず。

 眼下の少女を無慈悲に照らし、燦々と輝いた。

 ぎらぎらと、じりじりと。

 

 






ファインドフィート
 
 ミトモ ヒトミ
『弟』
 シニア級、無敗三冠ウマ娘。
 癒やされず、抉られ続け、ついには膿んだ心の傷口。
 今となっては隠しきれず、時折中身が零れ落ちる。
 じゅくじゅくと、どろどろと、からりと乾いた空の下に。

 トウカイテイオー
 シニア級、不屈の帝王。
 王道を往く彼女はある時、ひとつの気付きを得た。
 時には邪道へ踏み込む覚悟も必要になる。

 ミホノブルボン
 シニア級、坂路の申し子。
 信念の鎧を纏う乙女。
 ほうき星よりも鮮明で、すぐ傍らにある。

 ゴールドシップ
 ──級、黄金不沈艦。
 学年不詳、出身不明。



『太陽』
 私以外の神に、祈らないでください。

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