あんだって?
最近フィートが素っ気ない? 明らかに疲労が溜まってそう?
……なるほど、それで気分転換も兼ねて外に連れ出したい……と。
ほォン……。
正面から言ってもダメなんだな?
……ああ、もう既に失敗してんのか。
……。
よし……ブルボン、おめーに秘策を授けよう。
このゴルシちゃん様に海よりも深く山よりも浅く感謝しろ。
そのカワイイおくち開いてしっかり聴けよ?
いいか、まずは──。
「……ショッピング、ですか?
それは、その……お買い物、という意味で?」
「はい、そのショッピングで合っています。
つまり私と一緒にミッション、『放課後ショッピング』に勤しみましょう、というお誘いです」
「なる、ほど……」
「ちなみに、途中でライスさんも合流する予定です」
昼、カフェテリア。
ミホノブルボンと偶然遭遇し、席を共にしたファインドフィートへ。
淡々と、粛々と、一つのテーブル内のみで響いた誘い文句がするりと耳朶を撫でた。
一拍を掛けて、語句を解体する。
二拍を掛けて、意味を理解する。
その誘い文句には彼女の手を停止させる程の、あたたかな情の重みが込められていた。
ハンバーグを切り分けていた両手の食器は油に塗れたまま宙ぶらりん。
視線を上方に逸らし、うんともすんとも言わずに沈黙する。
対するミホノブルボンも口を閉じたまま。
合流時点で既に空になっていた食器をさり気なく横に避け、そのまま微動だにせず正面にある少女の顔をじっと見つめた。
「……なるほど。
それはとても、楽しそうです」
あらゆる建前を取り去った本心を語るのなら。
何も考えずに"はい、行きます"と同意したい気持ちはあった。
一年目であれば二つ返事で了承しただろう。
二年目であれば三秒程考えた後に、小さく尻尾を振っておずおずと頷いた筈だ。
……しかし、三年目となった今では、逡巡のみが彼女の脳内を埋め尽くす。
「ですが、わたしは」
枯れ果てた蔦が手足を縛り、安寧を遠ざけて。
義務に背を向け夢以外の為に時間を費やすことを、一切の慈悲も無く叱咤し続ける。
それはほんの数日前──初詣への誘いを断ったときと全く同じ、胸の奥から這い出る囁きによるものだった。
言葉、ではない。痛みともまた別のモノ。
"そうするべきではない"。
"夢の為には正しくない行いだ"と。
直感に酷似したナニカが、彼女の精神に訴えかけるのだ。
「今日は、今日も、練習しないと。
わたし、走るのが下手ですから」
「……それは」
つまり、答えの決まりきった逡巡である。
抗う気概など存在しない。
人間らしい精神の成長を獲得できる機会は、とうの昔に喪失済みだ。
故に本当のところ、返答は最初から決まっていた。
求められた通りに唇を震わせる。
小さく、掠れた声音で。
「だから、ヒト一番練習しないといけないんです。
せめて──もう少しでも、速く走れるように」
「昨日も、そう言いながらフラフラになるまでトレーニングしていたではありませんか」
「そうです。
だって、そうでもしないと勝てないじゃないですか。
たくさん、たくさん鍛えないと、休む時間は最小限で、最高効率にしないと──」
「──フィートさん……過酷なトレーニングは、必要なものではあります。
"つべこべ言わずに走る"べき瞬間が、確かに。
ですが、時折には……ほんの少しだけ、夢を遠ざける休憩時間も必要になるのです」
「……」
──ただ、喉の奥が、軽く抑えつけられた気分だ。
柔らかな指先で、小さな小さな力で、棘が突き刺さったままの患部を撫でるように。
彼女はこういう時、何と返すべきなのかを知らなかった。
言論には言論を以て対立する方が正解なのか?
しかし彼女には適切な語句選びなんぞ出来はしない。
そもそもの前提条件として、彼女はミホノブルボンの言葉を否定したい訳でも無い。
ただ、ファインドフィートにはファインドフィートの事情があって、偶々それと衝突事故を起こしている。
故に放課後の自由時間は使えない──ただ、それだけの事だった。
けれどそれは、言語化さえも難しい酷く複雑な事情だ。
どのように諭せば通じるのかは思いつかない。
再度、当初の問題に立ち返る。
悩めば悩むほど、知らず知らずの内に尻尾も耳も垂れ下がっていた。
……尤も、その状態を知らないのは当人ばかりであるのだが。
「ブルボン先輩。
わたしは、夢を叶えないといけないのです。
そのためには、休んでばかりもいられない。
……それに、ほら。
何もオーバーワークという訳じゃあないのですから、何も問題ないでしょう?」
「……」
「……ブルボン先輩?」
言い訳がましく舌を回した少女の
青褪めた瞳、白い顔。
それをミホノブルボンの瞳が鋭く射抜く。
まさか理論の欠片も介在しない弁明で矛を収めたのか。
……当然ながら、そうでもない。
ミホノブルボンは椅子に座したまま、ファインドフィートの肌を見つめた。
初めて出会った二年前と変わらない、白い肌だ。
少女らしく瑞々しい印象を与える柔肌をじっと見つめ──過去のデータと照らし合わせ、脳裏で計算を重ねる。
目は口ほどに物を言う、と表すには対象が些か違うけれど。
顔や身体を細やかに観察した方がより詳細で、正確に中身を推察できる事は実に正しい。
特に口下手な秘匿主義者に対しては効果的である。
事前にゴールドシップから受けたアドバイスを思い返した。
"口で聞くのではない。身体に聞くのだ"。
それを言われた通りに実践した上で確信する。
"なるほど、たしかにその通りでした"と。
対面の少女に悟られない程度の、小さく微かな納得の呼気で喉を鳴らした。
「──血色の解析を完了。 表情の解析を同時に完了。
測定した結果、平常時の平均よりもおよそ6%ほど青みが強いです。
また、目尻が平均より1ミリほど垂れ下がっています。
つまり……ステータス『疲労』の影響によるものと推測されます」
「……?」
「フィートさんの事を話しています。
今あなたの後ろにはゴール──いえ、誰も居ません」
訝しげに後方へと身体を回そうとするファインドフィートに鋭い指摘が入る。
その後方に誰も居ないという言葉は疑わずに信じた様子で、再び正面へ居直った。
が……それでも、己の調子に対する評価は想定外そのものだ。
怪我は無い。
食欲も旺盛。
夜だって、
だから、まさかそんな筈は無いだろうと疑念を抱いた。
頬に手を当てて、むにむにとほぐしてみる。
指先に伝うのはいつも通り、生者のあたたかい感触だ。
……無論、鏡でも見なければ顔色なんぞ判別つかない。
ミホノブルボンが言う『疲労』とやらが正しいのかを確かめるなんて出来やしないし、頬が無駄に変形するだけ。
……そもそも、毎朝鏡を見ているくせに特段の異変は発見していないのだ。
今更鏡を見たところで"これは疲れていますね"なんて理解できる訳がない。
どちらにせよ、無意味な行いだった。
「……だとしても、わたしの健康状態はトレーナーが管理しています。
「だから問題は無い、とは言い辛いでしょう。
それに……時間を最高効率で活用したからといって、結果も最上になるとは限りません。
定期的な気分のリフレッシュを行う事によって、日々のパフォーマンス向上とステータスの底上げに繋がるのです」
「ですが、わたしは──」
「──フィートさんは、私とのお出かけが嫌なのでしょうか」
「いえ、それは違います」
しょんぼりヘタレた耳を見て反射的に否定する。
まかり間違っても、それほど冷血な存在であるなどと認識されたくはなかった。
……何はともあれ、議論は平行線のまま。
けれどこうも続けて誘われてしまうと、芯がブレてしまいそうだった。
ほんの数分前の決意があっさりと、使い古したペンよりも簡単にへし折れてしまう。
だって、実に楽しそうで良いではないかと。
やっぱり少しだけなら一緒に遊んでも良いのではないかと。
毎週、どこかの放課後で、友人達と遊び呆ける──どうしても、そんな日々を夢想せずにはいられないのだ。
「……ですが、ええ。
何にしても、まずはトレーナーに許可をとってからでしょう。
そうするべきです、間違いなくそうです」
腹の底から湧き出る苦味は、罪悪感と称されるべき心の澱みだ。
いつになっても薄まらず、そのくせに致命的ではない、生かしも殺しもせずに染みる毒。
それをどうしても呑み干せず──結局己のトレーナーに逃げ道を求めてしまった。
血の通わない制度を振りかざすようで幾らか申し訳ない、とは思う。
しかし、彼女が知りうる限りでは他に道は無く、正当性のある回答も存在しない。
飾りのない耳を揺らし、右上に視線を彷徨わせる。
その釈明は、決して嘘ではない。
ひとりの競走ウマ娘としての偽りのない本心だった。
「はい、確かにその通りです。
基本的に、専属トレーナーの指示には従うべきですから」
「でしょう。 つまり──」
……その内心が何であろうと、時計の針は等しく回るもの。
安堵の情が喉元に絡まり、懺悔の念が臓腑に突き刺さる。
結果的に拒絶することを思えば酷く心苦しく、痛苦を伴った。
だからきっと、感じた"安堵"とやらは正しい意味での"安堵"ではない。
これ以上なく粗悪な代替品で、かといって振り払えもせず。
そうしてじわじわと喉を締め上げる様は、真綿の縄にもよく似ていた。
……しかし、それでも。
ファインドフィートは、己が正解を選ぶために自由を切り捨てた。
夢を追いかけるとは、多くを切り捨てること。
彼女は骨身に染みる程にそれを理解している。
──だからファインドフィート
けれど忘れてはならない。
そもそも選択権とは一個人にのみ存在するものではなく、この世に生きるすべての生命体に存在する極自然な権利の事である。
つまり。
ミホノブルボンの選択に、ファインドフィートは関与できない。
「ですので、事前に許可を頂いてきました。
マスターを経由し、フィートさんのストレスケアの名目で」
「……?」
思考が停止する。沈黙に準じる。
寸前まで巡らせていた熟慮が破断し、ファインドフィートの四肢から動きを奪い去る。
そして──ただ、"?"と。
一切の混じり気がない疑念を頭上に滲出させた。
訳が分からない、説明して欲しい。
そのような当然の追求も一切ひねり出せなかった。
「その結果、問題ないとの返答を受けています。
"そういった事に聡いキミ達がそう感じたのなら、それが正しいのだろう"……と」
「……?」
口を半開きにした芦毛の少女に向けて淡々と"決まりきった結果"を語る。
もはや過程を詰める行為さえ不要であり──ただ眼の前の
理論武装は不要なのだと、取り消し線を引いたスケジュール帳で無言に表す。
「はい、これで決定です。決定したので覆せません。
授業が終わり次第、校門前で集合しましょう」
強引だろうか?
……いいや、これが最も適正な押しだ。
別に無理を押し通しているわけではないのだから、まったくおかしくない。
「あの、ブルボン先輩、わたしはまだ──」
「──ステータス、『高揚』を検知……。
いわゆる、待ち遠しい心境です」
「…………」
なおも言い募ろうとしていたファインドフィートを
二の句を告げられる前に空っぽの食器をトレイの上で纏めてしまう。
事前にアドバイスを求めたゴールドシップ曰く、"これが最も効果的"。
前提条件さえ揃うのなら、ほぼ確実に成功するだろうと伝えられていた。
……もちろん、"今回に限っては"という但し書きがつくのだが。
ともかく、ファインドフィートという少女は押しに弱い。
だから"押してダメなら引いてみる"、ではない。
"押してダメなら、更に押す"のだ。
その上、このお出かけ自体はファインドフィートも嫌がっておらず、むしろ好ましいと感じている。
そういった内面程度、これまでに幾度となく交流を重ねていたミホノブルボンにはまるっとお見通しだった。
強情でありながら強情ではない少女の未来にほのかな心配を向けつつ、撤退の準備を整え終えた。
席を立ち、芦毛のつむじを見下ろす。
普段よりも小さく、あるいは、幼く見える。
だからこそか。
"もしも私に妹が居たら"と、あり得ざるIFを想像するのは思いの外簡単だった。
「……ではフィートさん。 また放課後、校門前で」
「あの──」
「待っています」
「……はい」
──背中が遠のく。
栗毛の長髪を揺らし、尻尾を振って。
少女の姿をぼんやりと見送って──ファインドフィートは、ゆるく、深く、長い溜息を吐き出した。
結局、予定は変更になるようだ、と。
ファインドフィートの意図した苦行から、意図しない安寧へ。
ここまで環境を整えられた上で断るなんぞ、そんな選択肢をとれるだけの精神性は彼女の中に存在しなかった。
ただし、ファインドフィートが求めていようと、ミホノブルボンが求めていようと、
夢に不要な
「…………」
紅茶を呑み干し、もう一つ溜息を吐き出す。
空になったカップの底を眺め、どちらになるだろうかと考えた。
白磁の器が照明の光を受けて屈折せずに輝いている。
単純な物理法則に従うそれらを眺めて、すっと目を細めた。
「しかし、これは……些か、無理があるのでは?」
ファインドフィートは、認められない筈だと予想した。
余計なことには手を伸ばさずに居たほうが効率的なのだから、女神は拒絶を推奨するはずだと。
時間は有限。 リソースにも限りがある。
ならば娯楽は可能な限り切り捨てて、訓練だけに励んでいたほうが着実に夢へ近付けるに違いない。
それこそが、女神の基準だった。
現実と理想と女神の基準と照らし合わせた結果が、ファインドフィートの現在に繋がっている。
……ただし、精神から余分を切り捨てるという思想が彼女の精神を守っているのか。
そもそもの精神状態を考慮しているのか。
根本的にヒトにとって正しい在り方なのか否かは、また別の話だ。
「…………」
もっとも、それをいくら考えようとも意味はない。
ヒトは神の御心を知ることなど出来やしない。
なにせ幾千年もの時間を掛けても尚解き明かせぬのだ。
ファインドフィートが数年考え込んだとしても、その内面を理解することは不可能に等しい。
──故に、裁決を待つ。
肩を縮こませて呼気を大きく吸い込んだ。
以前が許されていたのなら今回も大丈夫かもしれない。
そんな淡い期待も心の裡にあった。
望み薄であろうとも、"もしかしたら"を捨てきれない。
既に多くを捨てて身軽になった後なのだ。
もうこれ以上に心の殻を削り落とすのは不要なのではないか、と。
もう余分と呼べる余分は存在しない筈だと、喉を細める。
だって、あれもこれもと失い過ぎて──残りを数えるのに、片手の指で足りてしまう。
大切な宝物。 美しいもの。 今までの彼女を構成し、育ててきたもの。
それらが今の彼女を象る精神の外殻だ。
既に失ったものに対して後悔するのは正しくないのかもしれない。
けれど、まだ失っていないものに縋り付く行為は正しいに違いない。
執着などという酷く人間臭いモノから生じる情動なんぞ、正しいに決まっている。
……しかし。
そんな当然であるべき思想さえも疑うのが、ファインドフィートという子供だった。
喉首から溢れる薄氷の怯えは声にならず、空気としてひゅうひゅうと抜けていくのみ。
「……だから、女神さま」
呼吸を連ねる。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
肺の中を満たす空気は、やはり苦いまま。
むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とお。
「わたしは、今、正しさを守っています」
──
胸を押さえる手のひらを規則正しい鼓動の振動が跳ね返す。
とくり、とくり。
身体を動かす熱を血潮にのせ、鼓動が運ぶ。
しかし、ただそれだけだ。
それだけの茨だった。
今は、まだ。
「だから。
わたしをまだ、このぬくもりの中に──」
その"今"が、少しでも長く続いて欲しいと願った。
ちっぽけで、崩れかけの、ささやかな祈りで。
けれど吐き出した先は偶像でも何でもない、単なる白磁のティーカップでしかなかった。
……当然の如く言葉は返らず、無為に沈むばかりだ。
そんなものでは、何処かに届いた筈はなかった。
ただ、酷く優しい耳鳴りだけが鼓膜を撫でてくれる。
寄せては返す、波によく似た雑音が。
ざざぁ、ざざぁと、幾重にも。