生剥。逆剥。
トウカイテイオーは腹を括った。
少なくとも、口ではそう言える程度に。
「……そうか、じゃあアタシには後で教えてくれ。
一緒に読んでペース合わせてちゃ時間が掛かっちまうしな」
「ん、わかった」
「じゃ、ゴルシちゃんが誰も来ないように警戒してっから泥船に乗った気持ちで安心しろ」
ドアの傍に向かうゴールドシップを見送り、ボロボロに傷付いた青い本を机の上に置く。
厚さは3センチ程度。
ハードカバーの部位を除いてもそれなり以上に紙の厚さがある。
嘗ては鮮やかだったろう色彩は褪せ、所々の青は剥げている。
その中身を幾百枚のページで構成された日記帳は──しかし、それらの薄汚れた外観のせいで、酷く矮小に見えた。
ちっぽけで、傷だらけ。
少女の心の今までを書き記しているだろう過去からの手紙。
青空の瞳をゆるやかに伏せ、小さな指でそっと表紙を撫でる。
「……ふぅ」
呼気で肺を膨らませ、細い指を伸ばした。
小さく、柔らかく、少女らしい白魚の指で──ゆっくりと、表紙を捲る。
僅かに鼻孔をくすぐったのは過去から漂う
けれどそれを受けて眉を顰めるでもなく淡々と、紙の上に視線を落とす。
経年劣化のせいか、最初のページは少しだけ黄ばんでいた。
11月15日。
お父さんに日記帳を買ってもらった。
誕生日プレゼントにしてはあまりセンスが無いような気もする。
でもあんまり使わなかったらちょっとだけ可愛そうなので、今日から習慣付けてみようとおもう。
最初の一枚目は、そんな黒インクの文字から始まった。
ページの端に書かれた年度は七年前のもの。
つまり年齢を逆算すると、八歳当時のファインドフィートによる作文だ。
若干崩れた字体ではある。 が、ペンの主は小学二年生だ。
そこを踏まえて見れば……まぁ、整っていると表現しても差し支えはない程度に洗練されている。
その上で父親に対して容赦がない様は、"らしい"と言えば"らしい"と感じられた。
トウカイテイオーが知る彼女も元々はそういう気性を備えていたのだから、なおさらに。
普段はしっかりしている
トウカイテイオーが思うに、それはある意味での"甘え方"というモノだった。
……今はもう、それを見る機会さえ失われかけているけれど。
けれど、この頃の彼女はもっと素直にその気質を発揮していたようだ。
幼くもふてぶてしい様相を空想し、小さく微笑んだ。
11月19日。
忘れてた。
明日から書く。たぶん書く。きっと忘れない。
「うーん、やっぱりポンコツだぁ」
……肩透かしを食らった気分だった。
どうにも気が抜けるような微妙な心境を面持ちに滲ませつつ──しかし、だから何が悪い訳でもないと納得して。
もう一度、ページを捲った。
最初の一枚目の隣、二枚目にはよく分からない落書きが書かれていたから仕方がない。
そういう自由な使い方も、まぁ……ありといえばありだろう。
彼女にも覚えのある行為だったが故にそれを否定する事はできなかった。
11月19日。
今日のおやつはおはぎだった。
丸くて大きい甘いやつ。
やっぱり定期的に食べないと気分が悪くなる。
もちろん、姉さんと半分こした。
11月20日。
今日は姉さんと一緒に星空を見てた。
家の屋根に登るのはちょっと大変だけど、その甲斐はあったと思う。
すごくきれいだった。
11月21日。
姉さんと一緒に近所のスーパーまで買い物しに行った。
お買物リストはお母さんに用意してもらった。
今日はたくさん歩いたから疲れた。
11月22日。
お母さんにお小遣いをもらってお出かけした。姉さんも一緒に。
寒いけど、手を繋いでいたからあったかい。
11月23日。
今日は姉さんと一緒に──。
綴られるのは、何てことはない日々だ。
特別な出来事は何もない。 特殊な事情は何もない。
ただ、ありきたりな風情だけが日記を構成している。
……けれど、それでも、この子は本当に幸せだったのだろうな、と。
きっと、"姉さん"という存在が大好きだったのだろうな、と。
トウカイテイオーにそんな確信を抱かせるには十分なほど、やわからな文字が連なっていた。
2月3日。
お母さんの尻尾にリボンをまいた。かわいい。
姉さんの尻尾にもリボンをまいた。仕返しに髪の毛をリボンで結ばれた。
さすがにちょっと恥ずかしい。
2月4日。
お父さんがくさかった。
姉さんと同時に言っちゃったせいで、すごく悲しそうにしてた。
よく分からないスプレーを自分に振りかけたり、庭でバケツの水を頭からかぶったりしてた。
ごめんなさい。
2月5日。
毎日牛乳飲んでるのに身長がのびない。姉さんも同じらしい。
双子って成長のペースも似るものなのかもしれない。
じっさいは分からないけど、とりあえず身長も体重も殆ど同じだった。
2月6日。
姉さんと入れ替わってお父さんにイタズラしてみた。目の色の違いですぐバレちゃった。
お父さんにヒゲじょりじょりされたせいでまだ頬がヒリヒリする。
「……そっかぁ」
一、三、六、九ページ。
ぱらぱらと乾いた音をお供に、数カ月分を一気に斜め読みする。
そして一度手を止め、細い顎を擦った。
読み取れた過去の姿が意外かと言えば、まぁまぁ意外だった。
ファインドフィートの嘗ての一人称であったり、双子だったという明確な記録であったり。
それは
……特に、『姉』と呼ばれる少女が具体的な人物像をともなって出現した事は大きい。
盗聴器越しの不自然な情報しか把握できていなかったからこそ、なおさらに思う。
「ってことはあの書類のミスなのかなぁ。
いや、でも……ニュース記事にも、三人家族としか書かれてなかった。
……だから、フィートにはお姉さんが確かに居て……盗聴器越しの、あの言葉は──」
思案を巡らせる。
唯一の生存者、記録には存在しない『姉』、不透明な思想の源泉。
どれもこれも
──つまり、何にせよ、結論を出すにはまだ早すぎるという事だ。
熱を持った額をおさえ、ゆるく細く、長い息を吐き出した。
不慣れな探偵もどきをしているせいか、ここ数日の疲労が今になって出始めているのか、それとも両方が原因なのか。
非日常的な空気感がトウカイテイオーを刺激し、疲労を蓄積させていることは間違いない。
盗聴器だの家探しだのと、一般的な経歴──とは言えないが、あくまでもアスリートでしか無い彼女にしてみれば未知の領域だ。
それこそテレビの向こう、ドラマの景色でしか知り得なかったのだから。
……現実は創作より華も艶も何もなかった事は、ほんの少しだけ残念だった。
……一度、思考回路に冷水を振りかける。
逸る気持ちを強引にねじ伏せ、大きく深呼吸を繰り返す。
芳香剤の甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
そしてまた、日記のページを何度も何度も捲り続ける。
時間を気にして、瞳の動きを幾らか早めながら。
「……」
書かれているのは、今日はつかれた、とか。
今日は楽しかった、とか。
要約してしまえばたった一行で済ませる事も可能なモノばかり。
だからこそ、内容自体は努めて無視する。
表層だけを視線で撫でて、それ以上は頭の中に詰め込まない。
だって、何から何まで全てを暴くのは、酷い冒涜でしかないのだ。
……今さらの事かもしれないが。
だが、だからといって。
恥も何もなく指で突き回すのは、悍ましい外道の行いでしかない。
トウカイテイオーは、強い理性で己を律していた。
そしてまた、ページを捲り──文章の表面だけをさらりと眺め、春を迎える。
またページを捲る。夏を過ごす。
またページを捲る。秋を巡り。
またページを捲る。冬に至る。
──何度も何度も、ページを捲った。
一、四、八。
十二、十六、二十。
そうして瞳を彷徨わせること数分間。 否、それでは足らずに十分程か。
延々と読み流していれば、四季をぐるりと一周するのもあっという間だった。
けれど、その僅かな時間で巡った季節にはそれぞれの日常があって。
何処にでもあるようで、普遍的で、面白みに欠けていて、あたたかく──。
「……ん、これは……」
そこで終わっていればいいのに、と思わずにはいられなかった。
最初から最後までこのままで良い。
……が、そうでは無いから彼女がここに居るのだ。
木漏れ日にあるぬくもりからの変化は、徐々に始まった。
3月2日。
最近、うまく足が動かない。息切れも激しい。
お母さんに抱えられながら病院に行ってきた。
先生いわく、原因は疲労のせいらしい。
ほんとに?
3月3日。
気晴らしに姉さんが付き合ってくれた。
支えてもらいながらの本屋めぐり。大漁。
3月4日。
まだ歩けない。
たぶん一過性? とかいうやつだと思う。
あまり運動は出来ないので、今日は部屋の中で工作をがんばった。
木をいい具合に削って、像みたいなのを造ってみた。意外と楽しい。
3月5日。
昨日よりも少しマシになった、気がする。
お父さんにプラネタリウムまで連れて行ってもらった。
きれいだった。またいつか、行ってみたい。
「…………」
5月2日。
最近、また息切れすることが多い。なにかへんな気がする。
5月3日。
お母さんに抱えられながら病院に行ってきた。
何か大きなベッドの上で寝てるだけで終わった。威圧感がすごい。
5月4日。
今度、検査のために入院することになった。
一週間も病院にいないといけないらしい。
でも、いやだ。姉さんと離れたくない。
お父さんに向けて姉さんと一緒にねばってみたけど、ダメだった。さみしい。
──つまり、病だ。
あるいは、歩行障害を伴う何かである。
しかし、少なくとも今のファインドフィートには関係ない筈のモノだ。
今はしっかり自分の足で走っているし、彼女をよく知るトウカイテイオーから見ても虚弱とは無縁に思えた。
それに、病弱な者だって居ない訳では無い。
例えば、メジロアルダン。
例えば、ツルマルツヨシ。
過去をも対象にするのであれば、嘗てのオグリキャップも関節が悪かったというのは一部で有名な話。
だから、その過去の境遇を踏まえた上でふと思った。
ウマ娘にとってそれは、本能に根ざす程の根源的な恐怖である。
好きとか嫌いとか、そういう範疇では無い。
それこそ──歩けなければ死んでしまうのではないかと錯覚してしまう程に、あって当然のものだった。
ならばこそ、その過去が彼女の精神形成に何らかの影響を与えていても可笑しくはない。
「……ん、名刺が挟まってる。
循環器内科、かぁ」
日記帳と同じく変色した名刺を手早く検め、念の為に写真として残しておく。
あとから必要になる可能性だって皆無ではないのだから。
5月12日。
退院した。けど、お父さんとお母さんの様子が変だった。
姉さんだけは変わってないけど、少し不安。
何か病気なのかもしれない。
5月13日。
でも、何があっても、姉さんは一緒にいてくれる。
約束したから間違いない。ぼくらはずっと一緒。
6月21日。
日に日に体が弱っていってる。
たぶん錯覚じゃなくて、実際に身体能力がおちていってる。
かといって食欲が衰えているわけでもないし、他の症状がある訳でもない。
なんだか、ひどくチグハグだ。
6月22日
お父さんに肩車してもらった。たのしい。
けど、せつない。
6月22日。
あんまりにも歩けないせいで足が細くなってきた。
姉さんとの見た目の違いが出来たの、初めてかもしれない。さみしいけど、ちょっとだけ新鮮だ。
そして、それから。
漂う無力感を眺めるばかりの幾枚かを越え、やがて辿り着いた11月の半ば。
一枚目から数えて、丁度二年間が経過した事になる。
……この年の11月半ば、とは。
ファインドフィートが10に齢を重ねる月という意味以外にも、もう一つ重要な意味合いを持つ。
それは、境目だ。 喪失を伴う、大きな境目だった。
11月14日。
明日はみんなで水族館に行ってくる。久しぶりのお出かけだ。
たのしみ。
「……」
無言のまま、ページを捲る。
この先の事は、既に知っている。
テレビ越しに、あるいは新聞越しに。
けれどそれは血の通わぬ情報でしかない。
第三者による事実の羅列。意味のない憶測。
それらばかりが彼女の知り得た概要だ。
……しかし今の彼女は、当事者による、剥き出しの吐露を求めていた。
これが墓を荒らすような、酷い冒涜的な行いだとは理解している。
"しかし、それでも"と。
確証を求め、ぱらりと過去を覗き見る。
くしゃくしゃで、深い皺が刻まれた紙面の裏を。
12月21日。
ぼくらの車と、トラックがぶつかった、らしい。
12月22日。
お父さんもお母さんも、姉さんも家に帰ってこない。どこに行ったの?
12月22日。
まだ帰ってこない。どこかで迷子になっているのかもしれない。
12月23日。
まだ帰ってこない。
12月24日。
まだ帰ってこない。
しばらく玄関の前に座ってたらお医者さんが様子を見に来てくれた。
普段からぼくの担当をしてくれてる先生だ。
姉さんたちが何時帰ってくるのかも聞いてみたけど、先生も知らないらしい。
12月25日。
まだ帰ってこない。
12月26日。
まだ帰ってこない。
12月27日。
まだ帰ってこない。
12月28日。
まだ帰ってこない。
12月29日。
まだ帰ってこない。
12月30日。
まだ帰ってこない。
12月31日。
帰ってこない。
1月1日。
さみしい。
「……」
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一。
過ぎた日数と、綴られる心の動きは比例しない。
ただただ深い失意のみに染まっていて、無為で空虚な日々ばかり。
1月15日。
ひとりはさみしい。
ひとりはさむい。
みんな、なんで帰ってこないの?
1月24日。
良い子にしてたら助けてくれるって、言ってたのに。
なんで。
1月26日。
さむい。
1月30日。
さみしい。
2月12日。
ぼくが悪い子だったから?
2月15日。
約束したのに。
2月17日。
約束をやぶるの?
飾り気はなく、剥き出しの黒。
歯抜けになった日々を、ふやけたインクがものぐさに語る。
家族を欠いた日常は酷く薄っぺらとでも言いたげに。
そして、空虚になったそれを埋め尽くすのは深い深い失望だった。
過去を目にして、けれど何かを言葉にしようとも思えず──ただ、ぎゅっと口を噤んだ。
抱くべきは同情か、憐憫か、はたまたやりきれぬ現実への怒りだろうか。
それを明確な形で感情に変換するには、彼女はいまだに若すぎたのだ。
3月31日。
全部ぼくのせいだった。
あの日、態々外に出ようだなんて言わなければこんな事にならなかった。
なんで、なんで、口だけは自由だったのさ。
どうせなら、足も目も、口も、何も無ければ良かったのに。
「……」
……そこで終わり。過去は途切れ、何もない。
続きを求めて何度かページを捲れどずっと真っ白だ。
程々の所で諦め、伽藍堂のそれを机の上に安置した。
最初の頃の、穏やかな日常。
それも事ここに至っては──幽かな残り滓が付着しているだけの、淡い夢でしかない。
その事実を呑み干して、奥の歯を噛み締める。
身近な少女の過去はほぼ予想通り。
幸せな日々からの転落。
ずっとある筈だった世界の崩壊。
──なるほど、それは年端も行かぬ子供の価値観を打ち砕くには十分だ。
瞼を閉じ、眉間を指で押さえつける。
「……ボクらだけだと厳しいかなぁ。
もう専門家のヒトに頼ったほうが……」
しかし、それはきっと──否、間違いなくファインドフィートの意に反することだ。
事情を知らぬ人間達が非難の声を上げるかもしれない。
あるいは、根も葉もない噂を流す愚か者があらわれたって可笑しくはない。
「──けど、今は夢よりも身の安全の方が大事だよね。
あのまま走り続けてたら骨折か……もっと酷い事になるかも」
ウマ娘の全力疾走とは、最大で時速70キロメートルにも及ぶ。
短距離走に限れば時速84キロメートルを記録したウマ娘さえ存在しているのだ。
生身でそれほどの速力を持つ生命体が、まかり間違って事故を引き起こしてしまえばどうなるのか。
……その先は火を見るよりも明らかだ。 想像する事さえ、酷く恐ろしい。
「……こうなったら、簀巻きにしてでもターフから引き離す。もうそれしか無い」
結論を胸に抱く。
それをゴールドシップにも伝えるため、呼び寄せようと振り向いて──。
──その直後。
机に置かれた青い本の表紙がパラリと開いた。
「んぇ?」
乾いた音だ。
敏いウマ耳で聞き取り反射的に視線を戻した。
パラリ、パラリ。
冷たくも柔からな風がトウカイテイオーの頬を撫でる。
それは本の表皮をも撫で、さらりと小さく震わせた。
「窓、何時の間に空いてたっけ……」
疑問の呟きは冷気に飲まれて消えるのみ。
何であれ、下手に本が傷んでは困ってしまう。
故に少女の心の具現である、青い本を閉じようと手を伸ばし。
4月1日。
姉さんが帰ってきた!
ぼくの中にいる。 ずっと一緒にいる。
ずっと一緒にいる。 ずっと、ずっと、一緒にいる。
消えかけでも、ここにいる。
夢や名前しか残っていなくても、ここにいる。
「なに、これ」
──が、すぐに停止した。
仰向けになった腹の中を見つめて、そっと目を見開く。
唐突に変じた雰囲気は……些か異質だった。
薄気味悪いと感じる程に、脈絡がない。
一面の青々と茂る草のなかに、ぽつんとひとつだけ異物が混ざってしまったかのように。
澄んだ水の中に、一滴の赤い着色料を混ぜてしまったかのように。
しかし、それでも──吸い寄せられるように、ふらふらと指先を伸ばす。
ぴとりと触れた紙の端は不自然なほどに湿っている。 そして、凍える室温の影響もあってか非常に冷たい。
トウカイテイオーは皮膚を伝うそれに眉を顰めながら、右から左に指を滑らせた。
4月2日。
ぼくらはもう、これだけで良い。
だって、一緒だ。 一緒になった。
だから、これ以上は何も望まない。
だから、姉さんを消さないで。
女神さま。
──その先は、また空白を以て断絶していた。
ある筈のインクはなく、薄い黄色に変じた紙面があるのみ。
諦め悪く次へ次へと確認を進めるも、やはり日記に続きはない。
辿り着いた裏表紙の裏を眺め、長々と苦悶の唸り声を漏らす。
「……まって、余計に訳わからなくなっちゃったよ……?」
いくらなんでも理解が追いつかない。
道理が通らない。 脈絡が無さすぎる。
……が、何とか噛み砕こうと解釈に努めた。
改めて──今日新たに得られた情報は、大きく分けて三つほど。
顔の前に三本指をピンと立てた。
『姉』と呼ばれる存在の確証。
過去の病への言及。
そして、女神と呼ばれた何か。
ひとつ、またひとつと指折り唱える。
簡潔な分類分けだけなら、そう難しい事ではない。
……が、しかし。
日記の最後に現れた女神という何かだけは、これっぽっちも意味が分からなかった。
女神。
比喩か、隠喩か、それともそういう名字の誰かなのか。
──まさか、神話の
トウカイテイオーは夢想家に見えて、実は現実主義者である。 故にその案は深く考えないまま破却した。
錯乱の果てに女神という架空の存在を生み出したのか。
はたまた弱った心を女神を名乗る不審者に付け込まれたのか。
……トウカイテイオーは、前者だろうと考えた。
流石にピンポイントでそんな謎の存在が現れるよりは余程納得できる。
「つまり──」
ひとつ。
曰く、『姉』なる存在はファインドフィートの中に居る。
おそらく比喩だが、少なくとも彼女の中ではそれが真実だ。
夢や名前しか残っていない、という言葉の解釈は──ひとまず後回しにする。
ふたつ。
ファインドフィートという少女は、過度のストレスによって女神を名乗る幻覚を生み出している。
消さないで、という言葉の真意は不明なのだが。
何であれ、トウカイテイオーは次にとるべき一手を理解した。
まず為すべきは──ファインドフィートをターフから引き剥がすことだ。
「……ぁれ?」
──。
くらり、と思考がぼやけ、視線がブレる。
二重に増える家具の輪郭。 僅かな陶酔感。
額を抑え、違えた焦点を再度合わせた。
そのまま二度、肺の中身を入れ替えれば次第に収まる程度のもの。
……もしかすると少し疲れているのかもしれない。
己の状態を簡潔に判断し、細いため息を吐く。
だが、そう──何であれ、推論を元に答えを弾き出したのだ。
ファインドフィートの精神ケアのため、レースという概念そのものを遠ざけなければならない。
キャリアという意味では多少のダメージが入ってしまうのかもしれないが、取り返しがつかなくなる前に行動するべきだ。
「……っ」
くらり、くらり。
再び思考に
強まった陶酔感が瞳の運動を狂わせる。
が、しかし、それが何だというのか。
トウカイテイオーが弾き出した結論は変わらない。
あのままでは身体が持たないから、可能な限り早急に休ませなければ。
色々と面倒事はあるだろうが、そのあたりは彼女のトレーナーに任せてしまえばいい。 きっと否とは言わない筈だ。
「──」
──頭が、思考が、知性が、
どろり、どろりと融解する。
だから、だから、隔離しなければ。
事ここに至っては夢も何もない。 背中を押すなんて、出来るはずもない。
だって、彼女はそもそも、本当はそんなものを求めていない筈なのだから。
──意味も、意義も、求めていた事も、片っ端から解けていく。
トウカイテイオーは手を差し伸べなければならない。目指した理想の姿はその先にある。
こんな訳の分からない所で立ち止まるなんてありえない。
だから足掻く。 屈しない。 顔を上げる。
それが、諦めないという事で。
この選択こそが、最も冴えた 。
「──おいテイオー、大丈夫か? ぼーっとしてんじゃねーよ」
──ぱちり。
泡が弾けるように、張り詰めていたナニカが消えた。
ほんの数瞬前までのモヤさえ、跡形もなく。
「……んぇ?
ああ、うん……大丈夫、だよ?」
「よだれ付いてんぞ」
「えっ、嘘!?」
「嘘に決まってんだろ~?
っと、んなことよりもフィート達が帰ってきた……さっさとずらかるぞ」
「え、もう? それじゃあ早く戻ってフィートを──。
……フィート、を」
小首を傾げた。
胡乱げな
「あれ、なんだっけ」
しかし……はて、今まで何を考えていたのだろうか?
疑問のままにもう一度、逆方向へ小首を傾げた。
唸り声で喉を鳴らし、頭蓋に残った曖昧な断片をかき集めてみる。
……しかし、その何れもが指の間をすり抜けていくばかり。
砂のように、
するりするりと一切掴めず、何の答えも結べない。
うんうんと唸る。
時間に余裕がないにも関わらず、たっぷり五秒間も考え込んだ。
そして思い出したのは──そもそも己は、
「あれぇ……?
さっきまでのボク、何考えてたんだっけ……」
「ホントに大丈夫か? 乳酸菌足りてないんじゃねーか」
「毎朝飲んでるよ!」
薄っぺらな響きの語句にさしたる感慨も持たず、青い本をパタリと閉じた。
表紙には、ほんの少しの
けれどそれは僅かな時間で掻き消える程度の、些細な痕跡だった。
そして、引き出しを開く。
本を収納する。
再度引き出しを閉じる。
「全部片付け終えたな? おら、いくぞ!」
言葉とは裏腹に、さしたる音も立てずに。
きぃ、という
そうして二人揃って、すまし顔で部屋の外へ抜け出した。
右を見る。左を見る。
ミホノブルボンにも協力してもらっている以上、万が一にもありえないことだが──部屋の主達の姿は未だない。
つまり、撤退にはベストタイミングだ。
「一旦スピカの部室に戻るか」
「ん、分かった」
不自然にならない程度の速さで小走りだ。
もちろん、尻尾は巻かずに。
「──あれ?」
……けれど、今になって。
降って湧いた違和感を口に漏らした。
"何か、やり残したことがある気がする"なんて、今更すぎる言葉だった。
ある日の『少女』はペンと本を手に取りました。
使い古され、細かな傷が目立つ黒いボールペン。
破れて千切れ、ほつれながらも本来の役目に殉じる青い日記帳。
どんよりと痛苦に瞳を曇らせ、失意に満ちた記録を残すためにペン先を走らせます。
……きのうもあしたも、いつだって苦しい事ばかりだというのに。
そこに一体、どんな意味があるのでしょうか。