【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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37話

 

 喉首に絡みつく。

 手首を蝕む。

 

 赤くてきれいな、六条の──。

 

 


 

 

 そして月がのぼり、天蓋の外に堕ちて。

 やがて陽が半日振りに姿を見せてから、さらにおよそ6時間程。

 

 トウカイテイオーはたったひとり、チームスピカの部室に居座っていた。

 そのくせにトレーニングに勤しむ訳ではなく、器具の準備をするでもない。

 

 普段通りの装い──トレセン学園の冬服に身を包み、パイプ椅子に腰掛けて。

 ただ、眉間に深いシワを寄せるばかりだった。 秀麗な面立ちに似合わぬ、深い憂悶の相だ。

 落ち着かぬ様子で腕を組み、耳をピクピクと四方へ向け、大きな唸り声を上げる。

 

 うぅん、うぅんと、たった一人の独唱だ。 カエルよりはよほど綺麗な音が響く。

 

 ……が、唸り声は唸り声。

 十分そこらも延々と続けていれば、付近の人間をおびき寄せてしまうのも仕方のない事である。

 

 

 ──ふと、建付けの悪いドアが"ぎぃ"と悲鳴を上げた。

 

 闖入者はチームスピカのトレーナー。

 外気と共に男を迎え入れ──少女は、肩を小さく震わせた。 いくら冬服とはいえ、寒い事に変わりはないのだ。

 

「──で、一体何やってるんだお前は……」

「トレーナー。

 どうしたの? 今日のスピカは休みじゃなかったっけ」

「ああ、まぁ……そりゃお前らは休みなんだが……」

 

 男──沖野の発言は、どうにも歯切れが悪かった。

 首の後ろを指で掻き、気まずさを必死に誤魔化そうとしているよう。

 

 けれどそれを見たトウカイテイオーは、ただ"ふぅん"と息を漏らすのみ。

 気のない相槌とも、純粋な納得とも取れる軽さだ。

 今はそれよりも重要な問題が発生しているのだから、まったく仕方ない事である。

 

 少女はまたひとつ、唸り声を上げた。

 そしてそのまま頭を横に向け、安っぽい机の上に視線を固定する。

 

「ねぇねぇ、トレーナー」

「どうした?

 っと、足を組むのはやめとけよ」

「ちょおっとこの画面見て欲しいんだけど……時間、あるよね?」

「それは構わないんだが……いや、何でもない」

 

 青い瞳が見つめる先は机の上の携帯電話だ。

 開かれているのはフォトアプリ(写真の一覧)

 収められているのはどれもこれも日常風景を切り取った物ばかりである。

 

 ……別に、可笑しなモノは何もない。

 駅前で飲んだはちみーのカップ、マヤノトップガン(相部屋の少女)とのツーショット、ゴールドシップに絡まれるメジロマックイーン、ミホノブルボンに肩車されているライスシャワー、ファインドフィートにも肩車されているライスシャワー。

 ウオッカ(ほぼ男子小学生)と相撲するダイワスカーレット(一番大好き娘)、大食い大会に飛び入り参加したスペシャルウィーク(大食らいの田舎娘)サイレンススズカ(一般通行被害者)、メジロマックイーンに踏みつけられるゴールドシップ……。

 

 どれもこれも何の特色もない日常風景。

 幾年も掛けて、意図せず記録しただけの写真達だ。

 

 ──けれど、そのリスト達の先頭。

 最も新しく撮影した()()()、一枚の色褪せた名刺の写真。

 唯一の異色を有するそれが、彼女の悩みのタネだった。

 

 無論、それ単体であれば可笑しさとは無縁のものである。

 しかし──トウカイテイオー自身には、この名刺に対する見覚えが存在しなかった。

 その前提があるだけで(たちま)ち異物と変わり果ててしまうのだ。

 

 だって、自然に考えればあり得ないのだ。

 写真撮影者であるトウカイテイオーが知らないなんて──理解不能にも程がある。

 

「──っていう訳で、こうして頭を悩ませてるの」

「……本当に、覚えてないのか?」

「うん。

 けど強いて言えば──背景の"青い本"だけは……見覚えがある、ような……?」

「はぁ……」

 

 手前に映し出された名刺の陰に隠れて見えづらい。

 だが……その後方には、開かれた本があった。

 

 内容は一切読み取れないものの、前からでも背表紙の最端は見える。

 そのおかげで色の識別だけは可能だ。

 逆に言えば、それしか把握できないという事でもあるのだが。

 

 しかし、それでも──。

 

「──うん。確かに見覚えはあるんだよ。

 けど……何処で、見たんだっけ?」

 

 液晶を指でつつく。

 ケースの角に括り付けられたキーホルダーが衝撃に引き摺られる。

 メジロマックイーンの小さなぱかプチ(ぬいぐるみ)が、不機嫌そうにトウカイテイオーを見上げていた。

 

「……それにさ、この時間は……」

「……この時間は、どうしてたんだ?」

「あー……ゴルシと一緒に魚釣りに行ってたんだよね」

「道理で見ないと思ったぜ……」

 

 写真のデータとして残されたタイムスタンプ(撮影時刻)を確認する。

 そして再度、頭を抱えた。

 

 トウカイテイオーの記憶が正しければ──本当は、ゴールドシップの船に乗っていたわけではない。

 丁度、ファインドフィートの部屋に()()()していた頃合いだった。

 正確に言えばファインドフィートとミホノブルボンの部屋である。

 相部屋のサイボーグ少女に協力を取り付け、借り受けた鍵を用いての家探し。 酷い背徳の念は今でも、彼女の脳裏で反響し続けていた。

 

 ……けれどトウカイテイオーの海馬には、この時間帯に携帯を取り出したという記憶さえ存在していないのだ。

 覚えているのは、友人の身の回りにある品々を検めたこと。

 そして結局、()()()()()()()()()()()()という……苦い、失敗の記憶だけが刻まれている。

 他に覚えていることなんて──そう、何もない。 何もなかった。

 

「じゃあ、これは……?」

 

 ……ともかく。

 日常の細部を忘れるならまだしも、写真を撮ったという行動そのものを忘れるなんぞ滅多にある事ではない。

 

 その上、よりにもよってファインドフィートの部屋での事。

 それが──その一点だけが、大き過ぎる気掛かりだった。

 

「……でもダメだ~、なんもわかんな~い」

 

 ジリジリとうなじを焦がす不快感が、彼女の精神を逆撫でる。

 熱く、冷たく、蛇のように絡みついて離れない。

 

 椅子の上で脱力し、手足をだらりと投げ出す。

 その姿には二冠の帝王としての威厳も何もなかった。

 

「──アグネスタキオンに頼んだら、頭が良くなる薬とか貰えないかな……」

「ちょっと待て、それは」

「スカーレットも"タキオン先輩はすごい"、"なんでもできる"とか言ってたし……これ、意外といい案かも」

「あー……とりあえず落ち着け、な?」

 

 アグネスタキオン。

 高等部に所属する栗毛のウマ娘である。

 彼女は皐月賞を取得したG1ウマ娘としても有名だが──それだけではなく、所謂マッドサイエンティスト(狂気の科学者)的な意味合いでも一定の知名度を獲得していた。

 一応、公序良俗に反しない程度の──彼女のトレーナーは頻繁に発光しているともっぱらの噂だが──良識を兼ね備えている、らしいとも。少なくとも、薬物実験を無理強いはしない程度に。

 何か被害を被るとしても、それは彼女のトレーナーか彼女の友人であるマンハッタンカフェ程度のものである。

 

 それにトウカイテイオーは、チームメイトのダイワスカーレットからもある程度の話を聞いていた。

 曰く、理想の先輩。曰く、タキオン先輩の薬は万能。曰く、心優しい知恵者。

 その他大勢の噂話とは酷く乖離しているが……きっと、後輩には優しいのだろう。

 

 つまり、困っている自分(後輩)の相談にも乗ってくれるに違いない。

 トウカイテイオーは非常に()()()思考で結論付けた。

 

 半ば現実逃避でもあるのだが──何時までも存在しない記憶に悩まされるというのは、あまりにも生産性がないのだ。

 考えたって無駄で無意味。

 どうせなら、何だろうと動いたほうがまだマシだ。

 

「──じゃ、行ってくるねトレーナー!」

「ちょっと待て、テイ──」

 

 迅速果断だった。素晴らしい行動力だった。

 けれど沖野は、そんな彼女を引き留めようと口を開き──。

 

 ──口を開けど、その頃に既に風となった後。

 恵まれた脚力を遺憾なく発揮してのスタートダッシュは惚れ惚れとする程に流麗だった。

 

「……」

 

 口に咥えた棒付きアメが、からりと虚しく転がった。

 伸ばしかけた手は宙ぶらりんだ。

 気まずげに幾度か空気を鷲掴んで、あっさりと解かれる。

 

「……ま、大した事じゃない。

 巻き込むのも野暮だな」

 

 棒付きアメをもう一度、舌で転がす。

 いちご味の赤色が、控えめな甘さを主張していた。

 

 

 ◆

 

 

「っていう訳なの。おねがいタキオン、物忘れが治る薬出して!」

「いやキミィ……それは病院に行きたまえよ」

「やだよ。 注射されるかもしれないじゃん」

「判断基準が随分と個性的だねぇ……」

 

 所変わって、アグネスタキオンの私室──では、なく。

 アグネスタキオンの私室かと見紛うほどに改造された()空き教室である。

 友人兼保護者であるマンハッタンカフェと共同で占領する、謂わば第二の私室のようなものだった。

 

 ……本来はマンハッタンカフェの趣味の品を置く場として、特例で生徒会から貸し与えられていた場所だ。

 しかし諸々の()()()()()()()()によって、アグネスタキオンも相乗りすることになったのだ。

 

 結果として生まれたのが、部屋の半分を構成するアグネスタキオンの研究室。

 もう半分はマンハッタンカフェの私有グッズスペース。

 半々で異なる様相を見せる教室は……誰の目から見ても、学校施設の一部などとは思えぬ程の異彩を放っていた。

 

「ああ、向こうのスペースに無許可で触れるのは止めておいた方がいい。

 研究資料が突然燃えたり調合中の薬品が急に泡を吹き始めたりするからね」

「えぇ、なにそれぇ……!」

「中々に恐ろしい現象だろう? 勿論、私は泣き()()になったよ」

 

 大きな机の上に所狭しと積まれた精密機器や薬品の瓶、雑多な書類の山。

 それらを適当に払い除けたアグネスタキオンに勧められ、ひっそりと存在していたパイプ椅子に腰掛けた。見た目に反して意外と清潔な椅子だった。

 

 そんな彼女を横目で気にかけつつ、手元のフラスコを揺らす。

 緑色に発光する液体がとぷりと波打つ。

 

「事の経緯は把握したけどねぇ……それは、私よりも先に頼るべき機関(びょういん)があるんじゃないかい?」

「でもスカーレットの疲労をポンって取ってくれたって聞いたよ?」

「いやキミ、それとは程度の差というものがね……」

「ねー! おねがーい! カワイイ後輩の頼みでしょー!」

 

 駄々を捏ねる彼女を見て、茶色のくすんだ瞳を細めた。

 ここまで押しが強い相手は初めてかもしれないと、微かに。

 アグネスタキオンにしては珍しく、それなりに困惑していたのだ。

 

 けれども、だから"はいどうぞ"と薬を出すわけにも行かない。

 そもそもそんな薬を造った事もない。

 ……つまり、前提から破綻しているのだ。

 

「はぁ……」

 

 オフィスチェアに背中を預けて息を吐く。

 "ぎぃ"と、背もたれが悲鳴を上げた。

 

 ……そして数秒後。

 

「よし、良いだろう」

 

 ふと、机の棚に片手を勢いよく突き込んだ。

 上に積みあげられた本の塔がぐらりと揺れる。

 

「──仕方ないなあテイオーくんは。

 はい、記憶力が良くなる薬だよ」

「わぁい! 

 ……って、ただのDHAサプリじゃん!」

 

 ──残念ながら、子供だましは通用しなかった。

 敗因は差し出した瓶のラベルに商品名が書かれていたことだ。

 

 ……とはいえ、意図して事前に備えるのにも限界がある。

 それが叶うのであれば未来予知能力者としてやっていけるに違いない。

 

 半ばヤケクソ気味のアグネスタキオンは、ただ肩を竦めた。

 

「あのねぇ、私は何でもできる魔法使いじゃないんだ。

 専門分野は別にあると理解して欲しいモノだよ」

「うっ……」

「それに脳機能に関連する部分はデリケートだ。

 そう簡単に薬品でどうこう、なんてのは厳しいのさ」

 

 そうしてトウカイテイオーに返ってきたのは至極まっとうな正論だ。

 斯様に滔々と諭されてしまえば、さしもの彼女とて返答に窮してしまう。

 出るとしても"んぇー"とか、"なんでぇ"とか、くだらない鳴き声程度のものである。

 

 ……発言者の日頃の行動を思えば、その言葉に説得力など欠片も存在しないのだが。

 

「……まぁ、頻繁に起こるようなら診察を受けることをオススメするよ。

 私とて、万能には程遠いのだからね」

「はぁい……」

 

 何はともあれ、"お大事に"と気休めの言葉で締めくくられた。

 

 そして、それからほんの数秒後。

 教室の引き戸がからりと鳴いた。

 冷たい空気がするりと通り抜けて、少女ふたりの前髪を揺らす。それは新しい顔ぶれの登場を示す合図でもあった。

 

「……ただいま、戻りました……」

 

 風と共に訪れた少女は青鹿毛──ほぼ純黒色の長髪を携えていた。

 淡く、ほの暗い……何処か、浮世離れした空気を纏う少女だった。

 

「……今日は、珍しいお客様がいらしてるようですね」

「おや、カフェ」

 

 黒い、暗い。 明瞭な形を得た影のようだ。

 相対した印象を、そう脳裏で評した。

 そんな彼女の名前はマンハッタンカフェと云う。

 この空き教室の主、その片割れを表す記号でもあった。

 

「お邪魔してるよ、カフェ先輩」

「……こんにちは、テイオーさん……」

 

 そして、"本当に珍しい客だ"と。

 小首を傾げてぱちりと小さく瞬いた。

 

 蛍光灯の光を黄金の瞳が反射して、薄っすらぼんやりと輝いている。

 影の中に浮かぶそれらは、まるで朧月のようだった。

 

「取り込み中なら席を外しますが──」

「ん……、もう終わったから気にしないで」

 

 トウカイテイオーがひらひらと手の甲を泳がせる。

 "終わった"というのは、"諦めが付いた"という意味合いでの発言だ。

 

 その姿を見て、ようやく教室の入り口から身体を引き離す。

 向かう先は研究室エリアの反対側──小洒落た調度品で彩られている、マンハッタンカフェお気に入りのグッズスペースだ。 革張りの大きなソファが主の帰還を待ち受けていた。

 

「ですが……タキオンさんに何の御用が? 

 ……まさか、また何か騒動を……」

「え、カフェ?」

「いやいや、ちょっとした相談事に乗って貰ってただけだよ。

 ちょぉっとだけ困ったことがあってさぁ」

「……人選ミスでは……?」

「カフェ!?」

 

 さもありなん。

 日常的に被害を被っている彼女としては、至極真っ当な感想だった。

 不本意ながらも保護者として認識されている身であるが故に、尚更不安を感じるのだ。

 

 大げさに驚いている様子の友人を横目でみやり、小さく嘆息した。

 

 ──それから。

 "こんな問題児に話す相談事とは……? "と、純粋な疑問に満たされるのは存外すぐの事。

 仄かな好奇心を宿す瞳がトウカイテイオーを見つめる。

 

 ……そして少女には、それを隠そうという意思は無かった。

 なにせ日記帳()を暴いた記憶も自覚もないのだ。

 結果として抱いた感慨を取りこぼしたのだから、簡単に舌が滑ってしまうのも仕方のない話である。

 

 ──────。

 ────。

 ──。

 

 

 三度目の説明。三度目の困惑。

 半分慣れ始めた反応を受け、まぁそうなるよね、と乾いた笑い声を漏らす。

 

 けれど、今回は少しだけ流れが違った。

 次に浮かんだ表情は訝しむものではなく、呆れるものでもなく。

 マンハッタンカフェは、渦中にある少女の(かんばせ)を眺めて──そして、僅かに視線を滑らせた。

 

 上へ。

 より正確に言えば、トウカイテイオーの()()へと。

 ……けれど、そこには何も無い。

 空気を貫通して天井に到達する事しか出来やしない──筈だ。

 

 しかし、少女は。

 虚無の中に不確かな()()を見つけて、猜疑の籠もった光を瞳に混ぜた。

 僅かに剣呑で、幽かな憂いを含んでいる。

 

「……その写真、見せていただいても?」

「え? ……まぁ、良いけど……」

 

 けれど、その姿を見せたのはほんの一瞬だけ。

 周囲の少女達が違和感を感じる程の時間も無い。

 

 ……そして、一歩を踏み込まれた。

 マンハッタンカフェとの物理的な距離も無くなった。

 

 二面性を有する教室の蛍光灯が、チカチカと点灯する。

 影の少女を双方から照らし合わせる。

 

 光と光が絡み合う境目。 そこが彼女の立ち位置だった。

 

「え、っと……あった、これこれ」

「……拝見します」

 

 両手に抱える液晶に映るのは、誰も知らぬいつかの写真だ。

 背景には本。

 手前には本の中身を覆い隠す名刺。

 

 伏せられた瞼と長いまつげが幾度か上下する。

 見え隠れする黄金の瞳を対面から見守りつつ──トウカイテイオーは知らずのうちに、呼吸を浅く留めていた。

 

「……青い装丁。傷だらけの、小さな本……」

 

 小さな囁きが耳朶に沈み込んだ。

 深々と、幽かに、薄い唇で言葉を紡いで、一言一言が細く響く。

 

 込められた感情の色は──。

 ……残念ながら、トウカイテイオーには理解出来なかったけれど。

 ただ……不思議な音色だと、淡い心証を抱いた。

 

「ど、どう……?」

「…………」

 

 青い本の輪郭を指でなぞる。

 白い指が過去を泳いだ。

 

 そして、面を上げて──。

 

 

 ──寸前に、アグネスタキオンが影の後ろから身を乗り出した。

 顔の横から"こんにちは"と栗毛の耳が揺れていた。

 

「……タキオンさんはまず、テイオーさんに断ってからにしてください」

「まぁまぁ、堅いことは言わずに」

「ボクは別に良いけど……」

「ほら、テイオーくんのお墨付きだ! 安心したまえ!」

「……はぁ、調子のいいひと……」

 

 しかし結局、"知らない名前だねぇ"と口に出すのみ。

 簡素な感想だけ置き土産にあっさりと身を引いた──。

 

 ──そんな、当たり障りのない結果になるのかと思いきや。

 アグネスタキオンはまず、目を丸く開いて静止した。

 彼女の表情はむしろ、"心当たりがあるねぇ"と言わんばかりの露骨なモノだった。

 

「ふゥン……この名前は……」

「知ってるの?」

「ああ、いや……以前、彼が発表した論文を見たことがあるだけさ」

 

 それにしては随分なオーバーリアクションだ。

 特に、付き合いの長いマンハッタンカフェにはそう感じられた。

 

 故に、無言で続きを促す。

 黒い耳でアグネスタキオンの頭を軽く叩くだけの、優しい催促である。

 

「あー……確か、ウマ娘の心臓をヒトに移植する手法の考察。

 それと……"因子"と呼ばれる概念との関連について……だった、かな」

「……?」

「平たく言えば臓器移植の論文さ。

 内容は……少しばかり、特殊だったけどね」

 

 なるほど、医者としては一定の知名度を有する人物だったらしい。

 マンハッタンカフェも、そしてトウカイテイオーも納得の意を込め頷いた。

 

 ……しかし内容自体はさておきとして、それはそれでまた別の疑念を生じさせるモノだ。

 何故、斯様な人物の名前がトウカイテイオーの携帯の中にあるのか? 

 唐突に生えてくるにしても、あまりにも接点が無い存在だ。

 少なくとも、彼女()()()()()()欠片も無かった。

 

「……テイオーさん、申し訳ありませんが……私達から言える事は特に無さそうです……」

「あ、ううん! ごめんね、色々と無茶ぶりしちゃった!」

 

 何はともあれ解決はならず。

 しかし、だからと謝意を口にされてしまえば、途端に申し訳無さが勝る。

 

 ダメ元だった上にそもそもが相談内容として意味不明なもの。

 もはや彼女自身としても何故わざわざ此処を訪れたのかも分かっていないのだから、なおさらに謝罪は受け取れなかった。

 

「そうとも、気にすることはないさ。

 理解に苦しむ現象なんて日常茶飯事だろう? 

 ……そう、急にラップ音(心霊現象)が鳴る事だってあるわけだしねぇ」

「それは、アナタが勝手に余計なことをするからです……」

 

 ……正直、謝罪云々よりも"勝手なことをすると心霊現象が引き起こされる"という発言のほうが余程関心を引いた。

 

 世の中は存外オカルトチックな概念が蔓延っているらしいとしても──まさか、これほど身近に実在していたとは。

 半分あきらめの境地で、あいまいに頷く。

 

 ……とはいえ、オカルトだの何だのは今さらの事柄だった。

 そもそもウマ娘という種族が余程オカルトチックである。

 身体能力然り、外見的特徴然り、種族の起源さえも未だ未解明。

 それを自覚している彼女としては、頭から否定しようなどと思えなかったのだ。

 

「だからテイオーくん、今は妖怪の仕業とでも納得しておくといいさ。

 そう、例えば……直前までの行動を忘れさせる妖怪とかね」

「そうだ、ね……?」

 

 だから、そう。

 妖怪だって実在してもおかしくはない。

 妖精でも良いし幽霊でも良い。

 なんなら()だろうと構わない。

 無為に悩むのなら、そういった理解の及ばない物のせいにしておけば良いのだ。

 

 研究者としてではなく、ひとりの先輩として、おどけた様子で淡々と語った。

 しかしそれほどピンポイントな害を加えるなんぞ、中々理解に苦しむ化生だが──。

 しかし存外、あり得るのではないか。

 

「…………。

 ………………ん?」

 

 どこか、引っかかりを覚えた。

 忘れさせる、という言葉に。

 あるいは、その概念に。

 

「……んん?」

 

 ふと、脳裏から追憶が滲む。

 写真を取った時刻は、ファインドフィートの机の付近を漁っていた頃。

 その時は結局、何の成果も得られなかったのだが──。

 本当に何もなかったのか? 

 

「うーん……?」

 

 記憶の中に、ズレがあった、気がするのだ。

 行動と行動の間が抜け落ちている、ような。

 唐突に、コマ送りにされた瞬間が存在している、ような。

 その歯抜けになった何処かで、重要な何かを取りこぼしたような。

 

 ……そんな錯覚を、覚えてしまった。

 

 けれど、しかし。

 その何かとは、何だったか。

 一体何を、取りこぼしたのか。

 

「…………。

 ……ああ、なるほど。だから、それが……」

 

 ──唐突に頭を悩ませ始めた少女を見て、マンハッタンカフェが瞼を押し上げる。

 網膜に蛍光灯が反射する。仄暗い空間の中で、一対の金がぼんやり浮かんだ。

 

「カフェ……?」

 

 視線の先には何もない。

 目に見える物質は存在せず、無味の空気が漂うばかり。

 ……けれど、彼女の意識は揺るぎなく固定されていた。

 

 トウカイテイオーが知らずとも。

 アグネスタキオンに見えずとも。

 

 マンハッタンカフェの目だけは、厳かに揺らめく『赤い糸』を認識していたのだ。

 

「……そうだね、そっちのほうが良い」

「カフェ? どうしたんだい、カーフェー?」

「…………」

「おやおやおや、前が見えないねぇ」

「タキオンさんは、少し、静かに……」

 

 茶色い頭を右手で押さえつけつつ、真反対の自分の隣に顔を向けて。

 白い喉を震わせぽつりとささやいた。

 他のふたりに向けたものではない、小さな言霊だ。

 

「…………」

 

 そして、それを聞き届けたのは『お友達』だ。

 ずっと昔から共にあって、しかし誰にも見えない『お友達』。

 

「……それはきっと、あまり良くないモノだから」

 

 彼女のみ知る後ろ姿が、こくりと頷いた。 見えざる右手の五指が開く。

 トウカイテイオーの頭上から──細い喉首と繋がる、『赤い糸』を目掛けて。

 

「……テイオーさん、これは深い意味の無い、浅いアドバイスですが……時に、あれこれと考えない方が上手く行くこともありそうです」

「えっと……そ、そうなんだ……?」

 

『赤い糸』を握りしめる。

 ついでに左手でトウカイテイオーの喉首付近を押さえ、根っこの部分を固定した。 糸がぴんと張り詰める。

 

「……忘れてしまったものは……また、知れば良いだけですから」

 

 耳を後ろに引き倒した『お友達』からは敢えて視線を逸らし、己の持論を言い聞かせる。

 ゆっくりと、沈む音階で。

 

 ──この世の中には、理解できない物は意外と多いのだ。

 大事なのは、ウマく付き合う手段を模索すること。

 あるいは受け流すための術を知ること。

 

 マンハッタンカフェの持論とは、経験論とも等しかった。

 

「……だから、そうですね。

 まずは、手始めに──何も考えず……コーヒーを一杯飲みましょう。

 のぼる湯気を見つめて、心安らかに……」

 

 そして、『お友達』が右手を後ろへ引き絞る。 糸が限界を超えて張り裂けた。

 

 祈りが千切れ、無音の悲鳴がコダマする。

 ぶちりと、あっけなく空虚に。

 

 


 

 

 女神さま、痛恨のミス。

 致命的な見落としでした。

 

 ……けれど、糸を引き切られた事には気付いていません。

 まったく、見向きもしていません。

 

 つまり実質無傷みたいなモノなのです。

 良かったですね、女神さま!

 

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