【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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39話

 

 靴紐がほつれてしまった。

 女神さまは、また結んであげました。

 

 蹄鉄が歪んでしまった。

 女神さまは、その手でしっかり直してあげました。

 

 脚が震えてしまって、止まらない。

 ……女神さまは、不思議そうに小首を傾げました。

 だって、それはなおせません。

 原因が分かりません。 患部が分かりません。

 

 どこを切り開けばよいのでしょう。

 どこを削り落とせばよいのでしょう。

 どこを焼けばよいのでしょう。

 どこを付け足せばよいのでしょう。

 

 ああ、なんてこと。

 何も分かりません。

 

 ……だから女神さまには、なおせないのです。

 

 


 

 

 風船が飛んでいた。

 ぷっくり膨らみぷかぷか浮かぶ、色鮮やかなスカイブルー。

 垂れた糸は誰の手にも握られないまま、根無しの身体で風に吹かれる。

 

 けれどその持ち主だったろう少女は諦めていない。 小さな身体で必死に風船を追いかけていた。

 空に手を伸ばして──己こそが所有者なのだと、身振りを以て証明する。

 

 ……そこに問題があるとするなら、それは少女が上しか見ていない事だ。

 アーモンドのように形の良い瞳には地の様相など欠片も入り込んでいない。

 人混みだらけ。 道路もすぐ傍にある。

 当然ながら付近は"安全"などと口が裂けても言えない環境だ。

 そんな中での大爆走なぞ、何時事故にあっても可笑しくないというのに。

 

 

 ──だから。

 それを視界の端に捉えてまず、危ないな、と感じた。

 そう感じてから両足が動き出すまでは、本当にすぐのことだった。

 

 鍛え抜かれたトモが瞬間的に収縮する。

 重心は流れるように前方へ傾き、地の底へと滑っていく。

 

「ふぅ」

 

 前傾する上体に引き摺られ、長い栗毛が追いすがった。

 そして少女は無表情のまま風船の真下へ駆け寄り、長い脚でぴょんと跳ねた。

 目標の高さは2メートルと少し。 ウマ娘である彼女にとってはそう大した高さではない。

 

 滞空しながらもそれなりの余裕を以て手を伸ばし──簡単に糸を掴んで、そのまま軽やかに着地する。

 彼女の後方で、本来の持ち主である少女が高い歓声を上げた。 幼く無垢な声だ。

 

「さぁ、どうぞ。

 次は手を離さないよう気を付けて」

「ありがとう、お姉ちゃん!」

「どういたしまして」

 

 "お姉ちゃん"と呼ばれた少女、つまりミホノブルボンが顔に浮かべたのは、淡い微笑み。

 そして風船の少女は今度こそ、手離さないよう手綱を両手で握りしめて駆け出した。

 どこか親近感を覚える灰の芦毛が、ふわりと風に揺れている。

 

 そんな、未だ幼い背中を見送った。

 

「お疲れ様、ブルボン」

「ステータス『高揚』を感知……。

『高揚』、『高揚』……マスター、私は良い『お姉ちゃん』を遂行出来たのでしょうか」

「ええ、バッチリね。 安心して?」

 

 その様子を見守っていたらしい崎川トレーナーと合流して、ぽやぽやと温かな雰囲気を尻尾で振りまいた。

 私服姿であることも相まってだろうか。 普段よりも殊更に子供らしい様相だった。

 とはいえ、実年齢を思えば極々自然なふるまいである。

 

 そしてその穏やかな表情のまま、周囲の雑踏に紛れて歩みを進める。

 人々の流れは巨大なレース場、阪神レース場へと続いていた。

 

 今日は4月の初頭。

 つまり、かの春シニア三冠の一つ──大阪杯の開催日だからだ。

 

 しかも、出走者の中には無敗三冠王者まで存在している。

 不遜にも九冠を目指しているという少女は、今では民衆にも広く知られていて──故に今年は、例年よりも更に多くの観客を引き寄せることに成功していた。

 

 ……その"少女"、ファインドフィートは、ミホノブルボンの後輩でもある。

 故に先輩たる彼女が応援のために現地に訪れるのは、全くおかしい事ではない。

 それに、彼女にとっては『妹』のようにも思える存在で。

 だからこそ、純粋に、勝って欲しいと願っていた。

 

「……そういえば、あの子って良バ場以外で出走したこと無いのよね。

 運が良いのか悪いのか」

「それは、一体」

「多分、なんだけど。 あの子の走り的に重バ場のほうが向いている気がするのよね……。

 言語化は……少し、難しいのだけれど」

「……なるほど」

 

 頭の片隅でメモ帳を開く。 思考のペン先で書き記すのは"逆さてるてる坊主"。

 重バ場が得意な者を応援する際の作法、あるいは伝統の一種である。

 ぼんやりとした考察を疑いもせず、次のレースは雨が降るといいなと無邪気に祈った。

 

 そんな会話を交わしつつも入場したふたりを大きな液晶が出迎えた。

 電子のウェルカムボードが順々に出走者を映し出す。 誰もが高い知名度を持つ一流アスリート達だ。

 

 当然ながら、その中にはファインドフィートの姿も混入している。

 彼女だけは全体的に真白い印象を与える容貌だ。

 ……ただし左耳の赤い耳飾りだけは、少し系統を外れていてよく目立つ。

 

「……フィートさん」

 

 そんな少女の名を、か細く呼んだ。

 以前にもまして、トレーニングに没頭するようになった彼女。

 寝ても覚めても、どこか危うげな色を浮かべるようになった彼女。

 

 ミホノブルボンはそんな彼女の事が心配で。

 ……そんな彼女を縛る苦悩の正体が、酷く気になっていた。

 けれど、ミホノブルボンとてバカではないのだ。

 彼女の精神が非常に危うい均衡の上にあることは把握している。

 

 ……だからこそ、トウカイテイオー達に協力したのだ。

 もちろん、考えなしに暴いてしまえば後々にまで彼女を苦しめる後遺症となるだろうと理解していた。

 感覚的に──カエシの付いた釣り針に近しいモノだろうと、理解していた。

 

『最速は、わたしです』

 

 けれど、考えてしまう。

 電子で描かれた少女の顔を見上げて、ぼんやりと瞬いた。

 

 それでも、話してくれたって良いではないかと。 頼ってくれても、良いではないかと。

 何を恐れているのか、何を見ているのか。

 たとえ……その答えが何であろうと、栗毛の彼女は全てを受け入れる心積もりであった。

 

 疑いなんてしない。

 だって、ファインドフィートは嘘をつける程器用ではない。

 ミホノブルボンはそうと確信できる程に同じ時間を共有していて。

 ファインドフィートがそういう気性なのだと確信できる程に、彼女の幼い精神性を理解していた。

 

 だから、頼ってくれたら良いのにと願っていた。

 けれど液晶の向こうにある少女は変わらず無表情のまま。

 空回りだった。

 

「マスター……」

 

 手提げかばんを揺らし、隣の女性に視線を投げた。

 普段と同じスーツ姿の崎川トレーナーはその一言だけで彼女の言いたいことを理解したらしい。

 薄く微笑んで、怜悧な顔をあたたく緩める。

 

「ん、りょーかい。 先に場所取ってるわね。 ……っと、連絡どうしようかしら……」

「ありがとうございます。 場所は匂いを追いかけますので問題ありません。 では、また後ほど」

「え、私くさいの? ちょっとまってブルボン、それは──」

 

 残念ながら、乙女の悲嘆は届きやしない。

 既に少女は背を向けて、勝手知ったる様子で関係者入り口を探していた。

 幸いにも、というべきか。

 その()()のおかげもあって、不審者として拒否されることはない。

 

 

 ◇

 

 

 指関節でドアをノックする。 軽い音が突き抜けた。

 それは控え室の仮初の主たる少女の耳にも不足なく届いたらしい。 身動ぎの音がミホノブルボンに応答を返す。

 次に続いたのは靴音。

 硬く高く響いた鉄の音色は蹄鉄のそれだ。

 故に姿を見るまでもなく、彼女が勝負服に着替えている事を判別できた。

 

「……ブルボン先輩?」

 

 ややあって、開かれた視界を白が埋める。

 ただ、衣装の長布と瞳の青が印象的で。

 それらと赤い耳飾りだけは白に隠されること無く自己主張していた。

 

「こんにちは、フィートさん。

 ミッション『応援』の為に急行しました。

 ……今、お時間はよろしいでしょうか」

「大丈夫、です。

 中へどうぞ……とは言っても、わたしの部屋ではありませんが」

「今はフィートさんが利用者ですから」

 

 通された部屋は殺風景そのものだった。

 選手が一時的に利用するだけの滞在場所なのだから当然の事である。

 

「何か、飲みますか?」

「いえ……お構いなく」

 

 視線を壁際の棚に向ける。

 温かい飲み物を用意できるほどには給湯機能を有しているらしい、が。 生憎と、そういう気分ではなかった。

 

 中央に設置された長机の周囲、挟んで置かれた椅子に座る。

 対面で、鉄仮面と鉄仮面を見合わせた。

 

「調子は、どうですか? 顔色は……過去半年の平均と比較して、11%程白く見えます」

「……それは、冬だから……日焼けせずに白くなっただけだと思いますよ。

 調子は良いですし、身体だって良く動きます」

「…………」

 

 なんて嘯く顔を見やった。

 ……率直に、"やっぱり白すぎる"と感じた。

 青褪めた、と形容しても過言では無いほどに。

 

 ……きっと純粋に、血の気がないのだ。 唇だって乾いているし、青味が強かった。

 

 だというのに"体調は良い"、だなんて。

 ……ミホノブルボンにはそうとは思えなかった。 納得もできない。

 今がレース前でもなければ布団に括り付けていた。

 

「無理は、していませんか?」

「していません」

「本当に、ですか?」

「……本当です。

 わたしは、大丈夫ですから」

 

 尚も語る顔を見つめた。 黒い瞳孔が細かく揺れ動く。

 そして向いた先は、ミホノブルボンから見て左上。

 当人から()()を目掛けて、せわしなく宙を泳いでいた。

 

 ──"嘘ですね"と、直感的に理解した。

 あまりにも稚拙な嘘だった。

 

 彼女があまりにも物事を知らずにいた数年前ならいざ知らず。

 今の彼女には見破るという意図さえ不要なほどに、明らかに見え透いた嘘だった。

 

 ……けれど、これを嘘だと判じたとして。

 その次はどうするのか。

 "体調が悪いのなら無理をするな"と引き摺り倒すのか? 

 

 ふと、考える。 ほんの数秒の間に思考を詰め込む。

 無理をしていると問い詰めたとして、抜本的な解決は不可能だ。 出走の取り消しも出来ない。

 なぜなら、それは彼女のトレーナーと──他の誰でもない、彼女自身が選んだことだからだ。

 

 ミホノブルボンは、そう信じた。

 無理を通すことが可能と判断されたのなら、きっと大丈夫なのだろうと。

 あくまでも、()()は彼女の杞憂に過ぎず、通せる範囲の無理でしかないのだと。

 

 ミホノブルボンは、そう信じていた。

 それは親愛故の盲目であり、同種として示した理解である。

 絶不調でも走らねばならない時はある。

 それが今だというのなら、その道を邪魔することなぞ誰にも出来ない。

 

 ミホノブルボンはそうして、信じる事しか出来ない。

 

「フィートさん。

 頭を出してください」

「……?」

「おまじない、です。

 サクラバクシンオーさん……ジョブ『学級委員長』の方から教えていただきました」

「じょぶ……?」

 

 件の学級委員長への理解は及んでいない様子だ。

 少女達のあいだに関わりは無かったのだから、無理らしからぬ事である。

 

 ともかくファインドフィートは言われるがままに頭を差し出した。

 長い芦毛が前方へ、さらりと流れる。

 ふわりと舞った香りはミホノブルボンが選んだ香水のもの。

 柑橘系(シトラス)の爽やかな香りが、彼女の鼻を優しく擦った。

 

「失礼します」

 

 その香りを手のひらでかき分けて白い頭へ乗せる。

 そしてそのまま、左右へ優しく滑らせた。

 つまり『おまじない』とやらは単なる頭を撫でる行為。 ある種もっとも純粋で、伝わりやすい応援(エール)だった。

 

「怪我はしないように留意してください。

 油断大敵です、フィートさん」

「……はい、気を付けます」

「それと──」

 

 ──"それと"。 その先は何と言うべきか。

 言葉の連なりが一瞬絶える。

 

 楽しんで、と言うべきか。

 あるいは、頑張って、と言うべきか。

 

 舌先が鈍る。

 ……どうしてか、"楽しんで"とは言うべきではないと感じた。

 けれど"頑張って"と伝えてしまうと、必要以上に気張りそうだ。

 半ば確信染みた予想だ。

 

 故に、彼女が願うべきはひとつ。

 

 至る経緯がどうであろと。

 ひとりの友人として願うべきは──。

 

「──どうか、勝利を」

「……ありがとうございます、ブルボン先輩」

 

 耳の根本を指で軽く揺さぶった。 ふわふわだ。

 そしてほんの少し瞳を細めたファインドフィートは、幾分か穏やかな様子で……長い、長い息を吐く。

 

「ええ、きっと大丈夫です。

 ……『ファインドフィート』が、一番速いですから」

 

 ……けれど。

 それを告げる少女の顔が酷く痛ましく思えたのは、どうしてか。

 ほの暗く、影に溺れているように見えたのは、何故だろうか。

 ミホノブルボンには皆目見当がつかなかった。

 

「見ていてくださいね、ブルボン先輩。

 きっと、証明し続けますから」

 

 何も、返せなかった。

 

 チカチカと蛍光灯が点滅した。 白い光が二人を照らす。

 そしてまた、足元の影が色濃く深みを増す。

 

 それらは決して繋がりもせず、床に染みるばかりだった。

 

 

 ──―。

 ──。

 

 

 そしてミホノブルボンは、ようやっと己のマスターとの合流を図り始めた。

 警備員の男性に軽いお辞儀を一つ残し、再度会場内──ヒトの流れが目まぐるしい河口の中へ足を踏み入れる。

 本当に、凄まじい人波だ。 少しだけ酔いそうになった。

 

「マスターの匂い、は……」

 

 少し、顔を持ち上げる。

 驚くほどに煩雑な人混みである。

 しかし彼女は積み上げた経験則と直感により、見事己のトレーナーに繋がる匂いの足跡を嗅ぎ分けて──。

 

 

 ──と、なれば良かったのだが。

 非常に残念ながら。 まったくの想定外で、痕跡の発見に失敗してしまう。

 ヒトの1000倍の嗅覚如きでは、幾千万のヒトの中からたった一つの匂いを発見するには不足だった。

 つまり、何事にも限度があるという事だ。

 

 ……しかし、幸いにも。 あるいは、崎川トレーナーの先見の明による必然か。

 携帯端末が着信音と共に震える。

 

 表示されたメッセージ曰く、現在地は観客席の最前列。

 液晶を眺めて小さく頷き、迷いなく一歩目を踏み出した。 もちろん、携帯端末は懐にしまい込んだ上で。

 

「……おや、この匂いは……」

 

 そうして人混みをすり抜けていく最中。

 

 ふと、鼻腔を甘い香りが擽った。

 とろける小豆やカスタードクリームの、とろりとした重い香りだ。

 無意識的に視線を吸い寄せられて横を見やれば、いくつか出店が並んでいた。

 甘い香りの発生源は、その中の一つから垂れ流されているモノだった。

 

 ……知らずの内に視線のみならず、足取りまでも吸い寄せられてしまう。

 しかしそれも仕方のない話だ。 このような公共の場で甘い香りを垂れ流している方が悪いのである。

 

 そして、もしも美味しければ、レースの後に差し入れとして持っていこうか──なんて、無邪気な打算も混ざっていた。

 

「なるほど」

 

 きつね色の生地がくるりと回ってひっくり返り、ふかふかの腹を見せる。

 今川焼き、回転焼き、二重焼き、あるいはまんまる焼き。 この場(レース場)ならG1焼きとも呼ばれる。

 ……正しい呼び名の是非はともかく、その多さは日本有数の焼き菓子だ。

 

 ともかく、彼女は()()に釣られた。

 熱された鉄板に挟まれて、次々と()()が生産されていく。 いい香りだ。

 ……口腔によだれが溢れてしまった。

 

「なるほど……」

 

 財布を取り出した。

 パンパンに膨れ上がったがま口財布が緑の身体を見せびらかす。

 

「すみません、この……まんまる焼きを2つ。

 ……いえ、20個……30個お願いします」

「さんじゅっ……分かりました。 少々お待ち下さいね」

「承知しました。 待機モードに移行します」

 

 ……折角なので()()()購入していく事にした。

 決して、ミホノブルボン自身の食欲に従ったわけではない。

 あくまでもか弱いヒト娘であるトレーナーのために仕入れたもので、レース後に腹をすかせるだろう後輩のための下調べだ。

 

 なんて自己弁護を図って店の横に陣取り、ぼんやり虚空を眺めて待った。

 

 それから三分か、五分か。 いいや、もっとだ。

 少なくとも、鉄の型がフル稼働して二周できる程度の時間だった。

 それだけの時間を要した後、ようやっと大振りな紙袋を受け取った。 あったかい。 焼き立てだ。

 

「……ステータス『わくわく』を確認。

 冷める前にマスターと合流しなくては……」

 

 そしてまた後で買いに来ましょうか、と。

 脳裏に芦毛の少女を思い浮かべて、小さく口ずさんだ。

 

 紙袋がゆらゆら揺れる。 ずっしり詰まったあんことクリームの重さで、大きく揺れる。

 その重さは幸福の量とイコールだった。

 尻尾を大きく振って、己のトレーナーの元へ凱旋する。

 

 人混みを華麗に縫い歩くこと十分と少し。

 そして、夢の11R(メインレース)が始まるまで十分と少し。

 

 最前列の柵がミホノブルボンを出迎えて、通行止めと目的地への到達を同時に報せた。

 

「……マスターは……」

 

 左右に首を振って見渡す。

 最前列に来たのだから後は右か左しかありえない。

 指定された座標は、向こう正面の大きなターフビジョン(実況用テレビ)から見て右ナナメ30度のあたり。

 それは彼女の現在地と大凡合致するが、多少の誤差は避けられない。

 ……つまり、彼女のトレーナーが迷子になっているということだ。

 

「…………」

 

 黒髪、黒スーツ、黒い革靴、青とピンク(ブルボンカラー)の綺麗なネクタイ。

 そして、ピンと張った背筋の女性。

 少女の尋ね人は存外個性的な装いだ。 程々に目立つ筈である。

 

 記憶にある女性の姿を求めて、柵に沿う形でゆっくり歩みを進めた。

 幸いにも、探す範囲はそう広くない。

 そのおかげもあって、合流にはさほど手間取らなかった。

 

 夢の11R(メインレース)が始まるまで、あと十分だ。

 

「マスター」

「おかえりブルボン……って、どうしたのそれ。

 大きく膨らんでるけど」

「おやき……いえ、まんまる焼きです」

「まん、まんまる……? 

 今川焼きでも大判焼きでもなく、まんまる焼き……?」

「まんまる焼きです。 スペシャルウィークさんがそう言っていました」

「そうなの……」

 

 崎川の隣に立ち、(ターフ)の表層に視線を投げる。 青々と艷やかに茂っていて、状態の良い芝だった。

 

 その少し先では発バ機(ゲート)の準備が最終段階に入っている。

 レース場の端っこには、既に幾人かの出走者たちが姿を見せ始めていた。 ……残念ながら、目当ての少女は未登場ではあるが。

 

「マスター、冷める前に食べましょう」

 

 ──それならば、今のうちにまんまる焼きを消費してしまおう。

 ヒトの胃袋を考慮もせずに決定し、ぱんぱんに膨れた紙袋を開く。

 上から覗き込めばきつね色の生地と、その表層の焦げた焼印──見覚えのある少女達のイラストが見つめ返してくる。 デフォルメされていてとても可愛らしい。

 

「どうぞ。

 中身はあんこと白あん、クリームとチョコと抹茶とチーズです。

 在庫(おかわり)もありますので、どうぞ遠慮なく」

「あぁ、うん……そうね……ありがとう」

 

 崎川トレーナーが3個のまんまる焼きを確保したことを確認し、自分の分も一気に取り出す。

 5個のまんまる焼きがほかほかと、高温の湯気を立ち昇らせた。

 

 左手に4個を積み重ね、右手に持った1個を口元へ運んだ。

 ……生地に触れた唇が、とても熱い。

 

「あつ……っと、ファインドフィートちゃんも出てきたわね。

 今回の枠は大外(18番)……だけど、問題は無さそうね。 順当に行けば1着になる可能性が高いわ」

「そうなのですか?」

「ええ、あの子の適性(逃げ)と能力値が噛み合ってる。

 ……元々の差しも合っていないわけじゃ無いんだけどね、G1を取れてるわけだし」

「……なる、ほど」

 

 生地を噛みちぎる。 熱い。 舌を火傷しそうだ。

 少しだけ顔を離して、手の中に視線を落とす。

 

 焼印に刻まれた少女の顔が、ミホノブルボンの鉄仮面を見つめていた。

 ファインドフィートのイラストだ。

 もはやトレードマークとなってしまった無表情のまま、ぼんやりと(まなこ)を開いている。

 

「……そういえば」

 

 それと見つめ合って、ふと思う。

 そういえば──自分は、ファインドフィートの笑った顔を見たことが無いな、と。

 

 なんてことはない気付きだ。

 けれど、レース中も、ライブ中も、日常の最中でさえ。

 ただの一度でさえ笑った顔を見たことがない。

 

 ……少しだけ、寂しいと感じた。

 

 手元のまんまる焼きを見つめる。

 当然ながら、焼き付いた絵の表情は一切変わらない。

 

「ブルボン、そろそろ出走だって」

「あ……」

 

 ──視線を上げた。

 

 いつの間にやら、ターフの上の少女達は準備万端の様子だった。

 続々とゲートに向けて足を進めて、思い思いのルーティンに従って集中を深めている。

 

 天を仰ぐもの、風を全身で浴びるもの、手のひらに"あ"の字を書いて飲み込もうとするもの。

 それらはどれも十人十色だ。

 

「んむ」

 

 手に持った一個を一気に口の中へ詰め込む。

 時間経過のおかげもあって、今度は我慢できる程度の熱さだった。

 

 広がる甘味とやわらかな口当たり。

 ミホノブルボンの好みから外れておらず、美味しいと形容するに不足のない品質だ。

 

 ……しかし、不思議と気分は上がりきらない。

 何故だろうか、と疑問に思う。

 何故だろうか、と疑問を投げる。

 

 ……何故なのですか、とターフの上の大外枠に視線を送った。

 

 青い瞳が日光を反射した。

 ちりちりと、光芒を散らしている。

 

「……どうか、悔いのないレースを」

 

 青褪めた瞳が観客席を向くことはない。

 しかし、それでも。

 想いは届いたのだと願いたかった。

 

 ……もし、仮に。

 彼女の足が震えていて、それがまったく止まらない事に気付いていれば……もう少し、別の情を向けるのだろうが。

 ともかくこの場にいる誰もがそれに気付けなかったのだから、それはこの場に関係のない。

 ただの無意味な事実に成り果てた。  

 

『三番人気の紹介です──』

 

 刻一刻と迫りくる開始の時間にあわせ、少女達が姿勢を整える。

 利き足を前に突き立て、ゲートの開封を今か今かと待ち構えた。

 

 響く実況の声は、既に意識の隅へと追いやっている様子だった。

 

『一番人気はこの娘、ファインドフィート。

 無敗三冠の威光を見せつけることは出来るのか?』

『今回は大外枠です。

 良いポジションを取れるか否かが勝負どころですね』

 

 ゲートの端から端までを眺めつつ、2個目のまんまる焼きを口に含んだ。

 今となっては食べるのに困るほどの温度は残していない。

 

 それを噛みしめると中身のクリームが皮を破って、口内を蹂躙し、舌先に纏わりつく。

 どろりと、重りのように。

 

『各ウマ娘、出走準備が整いました』

 

 そんな少女を余所に、実況の機械音声が反響した。

 観客達のざわめきが加速的に静まり、息を潜め、口を閉じ、ついには衣擦れさえも抑圧し始める。

 示し合わせた訳ではない。 教わったわけでもない。

 しかし自ずと、それぞれが同じ行動を取っていた。

 

 それはきっと、彼女らの様相があまりにも真摯だったからだ。

 僅かな間だけは一切穢さず、邪魔をせず、見守るだけのカカシとなる。

 無意識下でそう思わせるほどの舞台だった。

 

 そして満ちる、束の間の静寂。

 各々が浅く、細く、呼吸する。

 

 ──無音の中を風が泳いで、数秒後。

 

 前触れもなく、ガコンと鉄の扉が駆動した。

 

『ゲートオープン、出遅れた娘はいないようですね!』

『最初の位置取り争いです。 ここの結果がレースに与える影響は大きいでしょう!』

 

 出遅れた者は誰もいない。 そろって好調なスタートだ。

 堰を切ったように弾ける歓声に背中を押されて、ぐんぐんと加速する。

 特に──逃げの戦法を選んだものは、顕著に目立っていた。

 

「良い位置取りね」

「はい、正しく」

 

 まずハナを取ったのはファインドフィートだった。

 今回、彼女を応援しているミホノブルボンにとっては理想的な展開である。

 

 一応──同じ逃げ戦法を究めてきた身であるがゆえに、その重要性は骨身に沁みている。

 逃げである以上はペースを握られてはならない。 むしろペースを作る側に回らなければ。

 

 その観点を踏まえた上で、最初の直線を抜けた少女達を見やった。

 レース展開はやや縦長。 大まかな位置取りはほぼ決定している。

 速度としては──例年と比べて、若干速めだ。

 先頭に立つファインドフィートがペースメーカー(旗持ち)となっている影響であることは明確だった。

 

「……ブレ無いわね。 あの子、ラップ走法も出来そう」

「そうなのですか?」

「ええ、ただ……気性は少し、向いてないかもだけど」

「なるほど……」

 

 第二、第三コーナーを抜けて向こう正面。

 大きな大きなスクリーンに一人ひとりの姿が映し出される。

 

 周囲の観客からも、その大きさに負けないほどの大きな声援が飛び出していた。

 ……彼女には、少しばかり音が大きすぎる。

 ミホノブルボンはぺたりと耳を伏せつつ、順々に映される姿を目に焼き付けた。

 

 対象が変わるたびに、その名が周囲の何処かから叫ばれる。

 それぞれが、それぞれのファンと、その想いを背負っているのだ。

 ()()()()()誰だろうと知っている。

 

『最終コーナー、先頭は未だ変わらずファインドフィート。 後方の娘達はここから巻き返せるのか!』

 

 厳しいわねと、少女の隣で小さく呟かれる。

 厳しいという感想は最後方の少女に向けられたモノだった。

 そしてそれは事実であり──未だに減速しないファインドフィートに今から追いつくには、ゴールドシップやグラスワンダー等の名うての差しウマでなくば難しい。

 

「──目測、計算完了。

 リードは6.2バ身です。 阪神競馬場の最終直線、距離は356.5メートル……ここから後方に差される可能性は微小かと」

 

 残された難所といえばゴール前の急坂のみ。

 それでさえ、坂路でのトレーニングを日々熟している先頭の少女には大した障害にならない。

 慣れというのはかくも偉大だった。

 

 そしてそのまま、風となって走り抜けて。

 最初から最後までブレることなく、一着となった。

 

 

 "おぉ"、と気の抜ける声が喉から漏れ出る。

 あり得ざる必然の勝利を、必然のモノとして掴むような、安定感の極まった走りだった。

 見るものによっては"何かよくわからないけど白い娘がすごい走りで勝った"、としか感じられないような。

 そんな、安定感の極まった走りだった。

 

「ステータス『高揚』……ミッションタスク、『お祝い』を設定します」

「場所も考えなきゃね」

「はい、ですが……そこも含めて、『楽しい』です」

 

 ともかくミホノブルボンは、誰もケガをすることなく終わってくれて嬉しかった。

 

 微かにゆるむ口を開いて、冷めかけのまんまる焼きを頬張った。

 ほんのり、僅かなぬくもりしか残っていない。

 しかし変わらず甘くて、しっかり美味しい。

 それはきっと、後輩の勝利を喜ぶ気持ちに由来するモノだ。

 

「マスター、おかわりをどうぞ。 冷めてても美味しいですよ」

「そうなの……」

 

 ややあって掲示板に数字が並び始めた。

 数字はとても正直だ。 偽りなく結果だけを語ってくれる。

 数字はひどく残酷だ。 たったひとりの勝者以外の心情を、まるで汲み取ってはくれないのだから。

 

 ……そしてそのまま時の針は進み、色とりどりの紙吹雪が飛んでいる。

 ざぁざぁと風に吹かれて舞っている。

 

 健闘を称えるなどという、無慈悲な現実を見せつけて。

 

 


 

 

 その中央に立つ少女はただ、奥歯を噛み締めていた。

 その中に、喜びの情なんて欠片も無い。

 

 からっぽの心と青褪めた瞳で、掲示板の数字を見上げるばかりだ。

 

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