【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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41話

 

 

 山道を登る。

 

 ゴツゴツとした岩が転がる起伏の激しい道だ。

 他にも土と落ち葉と小枝、それと多様な雑草達が無造作に埋め尽くす。

 一つ一つは小さくとも、数が増えればいとも容易く足を絡め取るもの。

 

 それらに捉われぬよう、両の足でしっかりと踏み締めて。

 ファインドフィートは空を目指して歩みを進めた。

 

 この行いはあらゆる意味で、普段とは違う感覚を彼女に齎していた。

 重力の束縛が強い。 脚腰への負担が大きい。 肺が激しく縮まる。

 どれもこれも身体を苛むものばかりだ。

 

 ……けれど存外、決して"イヤ"ではない感覚でもあった。

 結い上げた髪を揺らす涼風や、それが運ぶ木々の香り。

 枝葉の隙間をすり抜ける木漏れ日。

 常日頃にターフの上で浴びるそれよりも遥かに淡く、優しく、小さなぬくもり。

 

 瞼の上を撫でる温度が心地よくて、身体を苛む負担がまったく気にならない。

 まったく不思議なものだった。

 

 

 ──ただ、欲を言うなら。

 背中に突き刺さる視線がなければ、もっと良い気分になれたに違いない。

 

「……あの」

「はい……どうかしましたか、フィートさん……」

「いえ」

 

 振り返った彼女の青。

 それを一対の黄金が射抜く。

 

 その黄金は木漏れ日の下で深い輝きを放っていた。

 当人の黒い──真っ黒い青鹿毛の長髪も相まって、どうにも浮世離れした印象を醸す。

 

 身を包むのは一般的な登山服で、背負っているのも一般的なリュックサック。

 故に、その浮世離れした印象は当人由来である事は明白だ。

 

「カフェさんは……その……」

「はい」

「……いえ、何でもありません……」

 

 声が消え入る。 言葉は溶ける。

 そうして口を噤んだ彼女の唇を貫くように、喉首へ食い入るように。

 マンハッタンカフェは、ファインドフィートの姿を凝視しているばかりだった。

 それはつい数十分前──山の麓で現地集合し、初対面の挨拶を交わす前から変わらない。

 

 それなりに長かったバス旅を終えた頃には正午過ぎ。

 バス停前に足を地につけて、道中を共にした友人三名と前を向いた。

 その時、すでにマンハッタンカフェは到着していて。

 

 ……そして、初めて目があった瞬間だ。

 黒い彼女が浮かべた様相は、ファインドフィートの語彙ではなんとも名状し難いモノだった。

 

 夜に凍てつくような、熱に魘されるような。

 ひどく強張った表情を浮かべていた様は、今も強く印象に残っている。

 

 その表情の根源は分からない。

 互いに面識などない。 故に過去の何某かによる軋轢ではない。

 だからきっと、ファインドフィートに知り得る由はない。

 

 それでも、きっと。

 互いに悪感情を抱いていないのなら、関係性として必要十分である事に違いないのだ。

 

 だから、これで良い──筈だ、と。

 まるで信用ならない自己の内界へ向け結論を投げ飛ばす。

 ……手応えは、皆無に等しかった。

 

「…………」

 

 ──小さな石ころを蹴り飛ばす。

 眼の前を歩く友人三名からは大きく逸らし、殆ど真横の草むらへ。

 

「……はぁ」

 

 ため息がこぼれる。

 葉が擦れるざわめきに溶かされる程度の、小さな熱で。

 

 そしてひとり、鈍い感慨を晒した。

 近頃は分からないことが急に増えてきたな、なんて。

 

 すぐ真後ろのマンハッタンカフェ然り。 すぐ前方のトウカイテイオー然り。

 日頃からやたらと纏わりついてくるゴールドシップもそうだ。

 親戚の子供を構う叔母さんのような、随分と力の入った振り回し方で……どうにも、参ってしまう。

 

 そんな彼女等を順々に視界の端っこに捉えて、本当に、本当に──分からないことが急に増えてきたな、と。

 淡く滲む感慨を零した。

 

「…………はぁ」

 

 ため息がこぼれる。

 瞬きの内に、風のざわめきへ溶けてしまった。

 

「…………」

 

 ──いつかの彼女は。

 否、いつかの彼は。

 

 歳を重ねれば自ずと理解できる事が増えていくのだと夢想していた。

 まったく的外れのひどい勘違いだとしても、無邪気に夢想していた。

 

 背丈が伸びれば伸びるほど見える世界は広がっていき、手が届く範囲も大きくなっていく。

 そういうものだと盲目的で、愚かに、根拠なく信じていた。

 成長するというのは、大人に近付くというのは、()()()()()()なのだと。

 

 ……だというのに、今はどうか。

 無理解を受け入れてばかりの体たらくだ。

 

 背丈は大きくなった。 大人と変わらないほどに。

 視界も高くなった。 数年前とは比べ物にならない。

 

 それでも何も見えてこないのだから──まったく的外れの、ひどい勘違いだったに違いない。

 

「……あの、カフェさん」

「どうか、しましたか……?」

 

 視線を背後にずらす。

 前方の友人三名は……あいにく、後方二名の様子に気付いていない。

 

 それはきっと、醸す空気に刺々しい物など何もなかったからだ。

 目を引く悪感情など介在していない、普遍的な間柄の中にあるからだ。

 

 ……彼女は、そうと信じる他ない。

 自分は信じられずとも、自分以外の基準であれば盲信すべきに値する。

 

 今までと変わらず、学ばずに。

 今までは()()でうまく行っていたのだ。

 

 ……だからこれからも信仰を続ける。

 そんな、ちっぽけな思考回路だ。

 

「その……ご趣味は、何ですか……?」

「……そうですね、リラックスできる空間に浸ること、でしょうか。

 例えば……一杯のコーヒー、燻る豆の香り、ふかふかのソファー……──」

 

 そのおかげで今回も間違った道を選ばずにいられた。

 

 会話の出だしはぎこちないけれど、彼女は確かに会話を始めようとしていて。

 黒い少女は、それに応じたのだ。

 

 ……だから、間違った選択では無い。

 ぽつりぽつりと言葉が交わされ始めた現在が、その証明である。

 

「……コーヒー、あまり飲まないですね。

 わたしは……基本的に紅茶を選んでばかりですから」

「……なるほど……。

 であれば……折角です。

 今夜は私がご馳走しましょう、コーヒーだって良い物ですから……」

「……ありがとうございます。

 少し、興味があったんです。 挽いた豆って、すごくいい香りがしますから」

 

 ゆっくり、ゆっくりと。

 道を歩くよりも遅く。

 踵を磨り潰すよりも重く。

 

 互いに口が上手くないせいもあってか、話の展開はとても遅い。

 そもそもの比較対象である歩幅は子供のそれと大差ないのだから、舌の遅さは推して知るべしだ。

 

 

 ■

 

 

 ──登山開始後、2時間。 現時刻は15時。

 先と変わらぬ晴れの空で、日は西側へ傾いている。

 

 それだけの時間を費やした五名の少女達は、ようやっと目的地たるキャンプ場へ到着した。

 

 ……そう、今日の目的は登山ではない。 あくまでもキャンプだ。

 故に登山と比較したなら……それなりに早い終わりである。

 

 もし本格的な山であればこれほど早くに終われない。

 早くて三時間、長ければ八時間。

 登山とはそういう非常にハードな行事なのだ。

 

 しかしそれでも、一般的なキャンプ以上には労力を消費してしまうもの。

 何せ舗装されていない道を通るのだ。 身体への負担もそれなりに大きい。

 ファインドフィートも墓参りのために山を登った経験がなければ、今よりも更に苦しかったに違いない。

 

「ここ、が……」

「……はい、今回予約しているキャンプ場です……。

 ここは……空気が澄んでいますから、夜は星がよく見える、そうです……」

「それは……楽しみです」

 

 綺麗に整備された木々が点々と茂る、広々とした開放感のある空間だ。 ひんやりと湿った空気が心地良い。

 人工物といえば隅っこにある受付小屋と、その周辺の発電機等の設備、こじんまりとした炊事場程度。

 

 とにかく、ようやく辿り着いたのだからまずは荷物を下ろして一休み──。

 ……と、いう訳にはいかない。

 

 マンハッタンカフェによる"早めにチェックインを済ませてしまいましょう"という号令に従い、疲れ切った四肢にムチを打つ。

 慣れた様子のマンハッタンカフェとミホノブルボン以外は額に汗を滲ませていた。

 

 溜まりに溜まった乳酸がファインドフィートの疲労を代弁していた。

 足はフラつくし喉はカラカラ。

 早く休んでしまいたいと。

 

 けれど中継地点の受付の、立て看板さえも恐ろしく遠い。

 芦毛の裏に熱気がこもってしまう程に労力を費やして。

 

 無心で交互に足を踏み出して──およそ一分足らず。 実測値はそうだ。

 

 からり、黒い少女が代表者として引き戸を開く。

 ふわり、古い材木の香りが鼻腔を擽った。

 ……とにかく、不快な香りでないことは確かだ。

 

「……失礼します。

 チェックインは……こちらでよろしかったでしょうか」

「ようこそ、左山キャンプ場へ……ご予約の団体様ですね?」

 

 受付の主人は老年の男。

 カウンター越しに氏名の確認と料金の支払いを済ませてしまう。

 

 その間にファインドフィートに出来ることと言えば──皺の深く刻まれた額を薄ぼんやりと眺めつつ、代表者たる黒鹿毛の少女の声に耳を傾けるだけだった。

 他に気にすることは……精々、たった今しがた支払った料金の出処である。

 つまり、己のトレーナーへ抱く極僅かな罪悪感が脳裏にチラついてしまう。

 

 長い芦毛を手ぐしで整え、気を紛らわせようと努力する。

 が、腹の据わりはどうにも悪いままだった。

 

「──では、以上で確認を終わります。

 どうぞ、ゆっくりなさってください」

「……ありがとうございます。 明日まで、お世話になります……」

 

 そうこうしているうちに代表者のやり取りが終わった。

 ゆるゆると右へ左へ視線を彷徨わせつつ、他の四名と共に小屋を後にした。

 

 そして再度広場を横切り──今回の設営地へ、ようやく足をつける。

 マンハッタンカフェが足を止めた事でそれを理解し、いつの間にか長い付き合いとなった荷を肩からおろした。 大きな青いリュックサックだ。

 

 地に着いたそれの中から"がしゃん"と金属同士のこすれる音が響く。

 勢いが強かったせいだ。 そのせいで土ぼこりまで舞い上がってしまう。

 

 ともかく、一区切りは一区切りだ。

 たった今から主目的のキャンプが始まる。

 

「…………では、設営を始めます……。

 皆さん、杭とハンマーの使い方は分かりますか……?」

「ったりめぇよ! ゴルシちゃん様を舐めてんのかオメー! 舐めるんなら飴ちゃんでも舐めてるんだな!」

「……ゴールドシップさん以外はご存知なさそうなので、簡単にレクチャーします……。

 さぁ、こちらへ……」

 

 ……出だしは、少しばかり混沌としていたけれど。

 

 何であれ、鞄の中から引きずり出した一人用のテントを地面に広げた。

 そして言われた通りに杭を打ち込んでいく。

 

 こんこん、がんがん。

 手に持った専用のハンマーに力を込めすぎないよう、慎重に。

 

 何せ──ほんの少しでも調整を誤ってしまえばたちどころに杭が歪んでしまう。

 彼女にはこの数ヶ月での身体能力の成長が著しい自覚がある。

 故に尚更、特に重視すべき課題だ。

 

 そうして固定した緑色の大きな布地。

 その隅っこにある専用の通り道へ幾本もの棒を通し、折らないように手加減しつつ上部へ張り上げ、内部の空間を作り上げる。

 

 撥水性のあるコーティングがてらてらと、木漏れ日を受けて輝く。

 簡素ながらも一人用テントの完成だ。

 確かな高揚で尻尾の先を揺らし、仄かに熱が籠もった息を吐いた。

 

 作業量というコストと得られる達成感というパフォーマンス。

 そのバランスは非常に優良である。

 世の中にあるワンタッチ(一瞬)で展開完了、などという合理的なテントではこうも行くまい。

 

「……ところで、後は何をするのですか?」

「……さぁ? 

 川遊び、とか?」

「ツチノコ探そうぜ!」

「太陽光発電など如何でしょうか」

「……このまま、焚き火を眺めるのも一興かと……」

「………………なるほど」

 

 結局、彼女が選んだのは山道を活用してのトレーニング──。

 

 ──になる筈だったのだが、ミホノブルボンに押さえつけられ休むように指示されてしまった。 当然ながら拒否権はない。

 故に、彼女はそのままキャンプ地で休養である。

 

 そうしてあっという間に、マンハッタンカフェを除いた三名で早々に旅立ってしまった。

 まったく、酷い先輩達だ。

 

 ……お土産に期待してほしい、という言葉には、少しだけ胸が高鳴ったけれど。

 

「……ところで、キャンプとは何をするモノなのですか? 

 休養、とはいえ……」

 

 何をしたら良いのかと、ぽつりと零す。

 否、零しただけのように聞こえるが、実際はマンハッタンカフェへ向けたものだった。

 経験者を頼る発想は全く悪くなかったのだが、あいにくと彼女自身の語りが悪い。

 

「……特に、決まっていませんよ。

 あとは自由に……例えば、焚き火を眺めたり、暖を取りながら本を読んだり……などですね」

「……自由、に?」

「参考になるのかは分かりませんが……私は、コーヒーを飲むのが好きです。

 夕暮れの空の下、焚き火と共に昼と夜の切り替わりに浸る……とても贅沢で、穏やかな一時……」

「……なるほど」

 

 そこで一言だけ断って、焚き火を囲う穏やかな一時へ相席させて貰う事にした。

 

 焚き火台はマンハッタンカフェが既に設置している。

 あとは薪と火を用立てるだけ。 文明の利器のお陰で負担は皆無だ。

 

 ごとり。 持参の薪を置いた。

 ぱちり。 ライターで火を点けた。

 そうするだけで簡単に。

 ごうごうめらめらと、か細い煙を伴い燃え上がる。

 

 薪を()んで、熱を齎して。

 顔の薄皮を炙る熱が眼球の水分を奪っていく。

 ……けれどその感覚はどこか優しい、ぬくもりを含んだものだ。

 

「……では、私がコーヒーを淹れましょう。

 フィートさんは座ってゆっくりしてください」

 

 歯の間を通り抜ける風の音が返事だった。

 否、モドキでしか無いのが──ともかく、彼女にとっては精一杯の誠意に等しい。

 

 幸いにも黒い少女に気にした様子はない。

 ただ淡々と、道具類を並べて準備を始めていた。

 

 簡易テーブルの上に並べられたのは鈍色のポットと2つのカップ。

 並べる度にことりことりと卑金(アルミニウム)の空洞音を響かせる。

 

 無機質に響くばかりのそれに、耳を傾けつつ。

 燃え上がる薪に視線を据えたまま、こじんまりとした椅子に腰を落ち着けた。

 折り畳みで小さいけれど、彼女の体躯を支えるのには必要十分だ。

 

「ふぅ……」

 

 きぃ、と軋む音。 ぱちぱちと薪が火に弾ける音。 ポットに水を注ぐ音。

 寮の一室でのそれには及ばないにしても、大自然の中で寛ぐ空気感は……存外、好ましいものだった。

 

 それはきっと、ファインドフィート個人としての価値観ではない。

 大昔から受け継がれてきた本能に由来する、原始的な安堵である。

 

「……もう、日が沈みますね。

 ブルボン先輩方ももうじき帰ってくる頃合いでしょうか」

 

 西の空へ視線を泳がせる。

 もう一時間もあれば日は山の向こうに姿を隠してしまうだろう高さだ。

 真っ赤な光が青い虹彩に溶け込んで、裏の網膜を焼いていく。

 

 ゆるゆると。

 日が落ちていく。

 

 ……それから、どれほどの時間空を眺めていたのか。

 ふと、差し出されたカップに気付き我に返る。

 焚き火の明かりを頼りに覗けば、黒い水面が静かに波打っていた。

 

「……砂糖は、こちらに」

「ありがとうございます……」

「これでかき混ぜてください」

 

 一本、二本。

 スティックシュガーをさらりと流す。

 そこを(マドラー)でくるくるくるりとかき回せば、カップの底へと吸い込まれて見えなくなった。

 

 そして、一度口をつけた。

 甘い。 そして熱い。

 火傷しそうだ。

 

「……でも、おいしい」

「良かった……」

 

 焚き火の弾ける音が鳴る。

 ぱちぱちと。

 

 決して無音ではない。

 しかし、静寂に満たされていた。

 

 身じろぎで椅子が軋む。

 けれど、静寂に満たされている。

 

 木々がざわめけど、鳥が鳴こうとも、静寂に満たされている。

 ……それは白い彼女と相対する黒い彼女が口を開くまで、延々と、破られる事は無かった。

 

「……フィートさんは」

 

 ──呼ぶ声に反応して顔を上げた。

 鋭い青の双眸と、まんまるな黄金の双眸が絡み合う。

 黒の中で輝く綺麗な瞳。

 周囲が暗くなり始めている事もあって、浮いた色彩とも感じられた。

 

 ……ファインドフィートは、その黄金が──何処かを見透かすように澄んだ瞳が、少しだけ恐ろしい。

 

「──」

 

 だって、そういう瞳をしているひとはやけに勘が良いのだ。

 

 彼女が隠そうとしていた事を、まるでイカサマをしているかのような正確性で見抜く。

 手に持った5枚のトランプをそのまま上から覗き込まれているような、背丈に物を言わせて強引に覗き見ようとするような。

 

 だから、そう。

 彼女には出来ないそれが、彼女の理解が及ばないそれが、少しだけ恐ろしい。

 

「…………。

 ……いえ、コーヒーのおかわりは、如何でしょうか」

「あり、がとうございます……頂きます」

 

 けれども黄金は左右上下へウロウロと彷徨って、それだけだ。

 結局、何を言いたかったのか。

 

 得たものはコーヒーのおかわり。 今日の二杯目。

 ……今から、夜が不安になってしまう。

 

「…………」

 

 その癖に何度も何度もファインドフィートの首元を見る。

 そして、その度に小さな息を吐き出すのだ。

 

 歯の間をすり抜けて、唇という筒を通り抜けて。

 いかに鈍感な子供であろうとあっさりと気づいてしまう程に明瞭な、小さな息とやらだった。

 

「…………。

 ……あの、フィートさん……」

「……何でしょうか」

 

 また息が抜ける。 細い風がしゅるりと踊る。

 けれど今度は──飾りのある耳元が発生源だった。

 

 ──耳元で? 

 

 一瞬、思考に空白が生まれる。 次いで疑問が埋めた。

 息を吐いて鳴るのなら相手の少女からであるべきだ。

 あるいは、彼女の口元で鳴る事しかありえないというのに。

 

 「……ごめん、これは無理。 千切れない」

 

 ──風の音が続く。

 

 ただ、風と言うには複雑な音階を象っている。

 煉瓦を揺らす振動のようだ。

 否、肩で風を切り裂く悲鳴のようだ。

 

 少ない語彙を動員し、あるべき形容詞を探した。

 

「……これは、執着? 偏愛?

 呪いか、それによく似たナニカ……すごく、気持ち悪い」

 

 それは雑踏で耳を塞いだもの。

 それは教室で聞き流したもの。

 それは──。

 

「──あ、失敗した。 まさか、この子」

「あ、手が滑りました」

「っ」

 

 ──ごとり。 コップが落下した音。

 ぱしゃり。 水分が弾ける音。

 

 鼓膜を揺さぶるそれに応じ、思考の渦から我に返る。

 

 ブレた焦点を対面の黒い少女に合わせてみれば──コップを取り落とした後だった。

 厚手の服に黒いシミを作っている。

 

 もちろん、その黒いシミの元になったコーヒーは高温の液体だ。

 

「……っ」

「だ、大丈夫ですかっ。 少し待っていてください、今手ぬぐいを出しますから……」

「あ、りがとうございます……」

 

 ──そこまで思考が至れば、寸前までの追憶はあっという間に消え失せた。

 今の彼女の脳内を占めるのは眼の前の黒い少女の安全ばかりだ。

 

 すぐ傍らの鞄に素早く取り付き、あれやこれやと衣料品を取り出す。

 数々の品は彼女のトレーナーによる教育の賜である。

 

 だからこそファインドフィートは自然に、()()()先程までの姿をやり直す。

 まったく同じように再生する。

 

「次は……もっとうまくやる」

「……うん、そうだね」

 

 彼女の背後で為された会話には、これっぽっちも気付けないままで。

 

 


 

 

見ざる。言わざる。聞かざる。

 

 

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