夜空を見上げるのが大好きでした。
夏も冬も、春も秋も、夜空を見上げてばかりでした。
屋根の上にはしごを掛けて、懐中電灯の光を頼りに登っていって。
姉さんと一緒に、ふたりして寝っ転がるのです。
そうしているとすぐ目の前が全部夜空に染まる。
でも、顔を横に傾ければ隣の姉さんが見える。
だからまわりが真っ暗でも……自分がひとりじゃないって、実感できたんです。
怖がりなぼくでも、夜を大好きになれるぐらい。
夕暮れの向こうから3つの影が伸びてくる。
林の隙間、草の上。 土の中や石ころの裏。
小さな影と中くらいの影、そして大きな影がぬるっと伸びる。
はたして、その主は見慣れた顔の少女達だった。
太陽はおよそ半分程を山の影に隠した後。
小さな探検は素晴らしいモノだったらしく、各々充足の念に満ちていた。
そんな彼女らが焚き火の明かりを縁として、吸い寄せられるようにゆっくり集まる。
焚き火に照らされる傷一つない姿を認めて、やっと安堵の吐息を漏らせた。
ああ、夜になる前に帰ってこれて良かった、と。
足元が暗いと危ない故、事故が起こる可能性だって皆無ではない。
身体能力に優れているだとか、運動神経がヒトを超越しているだとか、未だ退化せぬ野生の勘だとか、それだけで怪我なく過ごせるほど単純ではないのだ。
三人分のカップを追加で取り出して、ゆるく瞳を細める。
青色の虹彩に、チリチリと炎の赤色が混ざり込んでいた。
「……お帰りなさい。
散策は……楽しめました、か?」
「……先輩方も焚き火を囲いましょう。 あたたかいですよ」
「まずは……ええ。
コーヒーを、淹れましょうか」
黒と白の少女等は論調はどこか近しい。
表面的な気性が多少似通っている故のモノだ。
淀みなくポットに水を入れて火にかけて、インスタントコーヒーの袋を取り出す。
その間の互いの動作に淀みはない。
普段のファインドフィートを知る者がそれを見たなら、双方共に多少の交流を重ねていると想像するのは簡単だった。
そのまま手早くコーヒーを用立てて幾分か後。
示し合わせた訳でもなく、全員で焚き火を囲んだ。
均等間隔に設置した5つの椅子で小さな円を作って、カップを手に持って──。
「おー、夜になると中々寒いぜ……。
こんな時マックちゃんがいりゃ湯たんぽにするんだがなぁ」
「なんでボク見ながら言うの?」
「ゴルシちゃんは思いました。
テイオーちゃんはマックちゃんより小振りでも、サイズは割りと良さそうじゃねえか、と」
「あっ、カフェ先輩もちょうど良くてオススメだよ」
「……!?」
──すると当然の帰結のように、あっという間に騒がしくなる。
他にも数組の客も居るのだから最低限の節度は守っているけれど──やはり、騒がしかった。
日頃のそれよりも数段大人しい喧騒を眺めて、軽く尾を揺らす。
確かに騒がしい。
けれどもファインドフィートはこの喧騒を、非常に好んでいた。
そんなもの、
しかし、団欒とはこういうモノなのだ。
過去の食卓の光景を瞼の裏に投影して、虹彩の奥に現在を重ねて是とする。
昔の騒がしさもこうだった。 だから良いものだ。
昔のお父さんやお母さん、姉さんと自分でこういう輪を作った。 だから素晴らしいものだ。
そうして天秤を指先で弄り回し、自分が居る今を好ましいモノとして扱う。
彼女が有する好悪の基準とは全て過去に由来していて、故に
「……ふぅ」
素知らぬ顔でカップに息を吹きかける。 黒い水面が波を打つ。
そして、焚き火を見つめた。 揺らめく赤色がまばゆい。
「そういえば商店街に新しい喫茶店が──」
「当該店舗のカロリーは比較的高めで──」
「今度マックちゃんも誘って行ってみよぜ、例えば──」
「……彼処は紅茶の評判がいいそうですが、実はコーヒーも──」
なんて、雑多な会話を耳朶で受け止めながら、ただ焚き火を見つめた。
……極論を言ってしまえば、ファインドフィートは会話の内容そのものなんて欠片も重視していない。
ただ、この場に居られればそれで良いのだ。
そうして無為に浸っている内は──ひどく、ひどく、時の流れが穏やかだった。
停滞している、と言い換えても良い。
大きな刺激は何もない。
大した変化は何もない。 精々、複数人の予定表が書き換わる程度。
故にただ淡々と、時間だけが過ぎていく。
それはとても優しくて、とても望ましい。
「……ここ、いい場所ですね」
カップの中身を啜って、外気よりもなお高熱の息を吐き出した。
久方ぶりの白い息だった。
その声は存外通る声で、マンハッタンカフェが反応して振り返った。 挽いた豆の香りと共に。
彼女の黄金が向く先はファインドフィートの背の裏の、更に向こう側である。
「……ええ。 設備はそこそこ綺麗だけれど……ひとは、そんなに多くない。
だから……一部の愛好家から、人気なんです」
「なるほど……道理で」
キャンプ地として経営している割には──なるほど、確かにテントの数が少ない。
彼女ら五名を除けば二組程度が設営している密集具合。
キャンプ地の面積と使用率を比較してしまうと後者は1割にも満たない。
……それで経営が上手くいくのか、なんて疑問にも思ってしまうけれど。
実際のところ、この場の管理者は趣味道楽の類で切り盛りする人種だった。
ファインドフィートが考えている以上にゆるやかな営みで、休養地として機能しているのだ。
「……それなら、あのお爺さんに感謝しないといけないですね。
わたしは……ヒトが多いところが、苦手ですから……」
「あー、フィートってば人混み苦手だもんね。
尻尾もよく股の下に入り込んでたし」
「私のログでは耳も垂れていたと記録しています」
「…………」
口を噤む。
……間を補完する友人二名の言葉は、非常に残念ながらこれ以上なく正しい。
彼女とて己のそれを良いモノと考えている訳ではない。
けれど、多数の情報を同時に受け取る事はどうしても苦手で、あっさりと目が回ってしまいそうになる。
「わたし、ヒトがこわいんです。
……なんでこわいのか、自分でも言語化出来ないんですけど」
それは不慣れというだけの問題ではなく、どちらかといえば生来の気性が由来だ。
臆病な性質が、悪い意味で前面に出すぎている。
……けれど、現状は理解しているだけだ。
だからといって改善しようとするつもりはなく、改善を行うだけの余剰リソースもない。
そもそもそれを行った所で大した意義を持たないのだ。
故にこの堕落は、あるがままの通理に従う判断だった。
「でもよォ、そんなこと言ってたらレース中とかどうすんだあ? ウイニングライブは?
「それは……少なくとも、レースの時は意外と大丈夫なんですよね。 なんというか、そもそも視界に映らないと言うか……」
──もし、レース中にも視線が気になるなどといった弊害が発生しうるのであれば。
それこそ何が何でも己の気性を変えようと奮闘しただろう。
プライドだの拘りだのを全て無視して、どんな手を使ってでも。
けれども幸いながら、彼女はそうでもなかった。
ゲートに入ってしまえば他の一切を意識から省いてしまえる。
目的地や、自分の身体、そして障害物を認識するだけの機能さえあればそれで十分なのだと、心底から切り替わる。
過度な集中──というより、一種のトランス状態であった。
……それは、何物にも代えがたい、ある種の資質でもある。
良いとも悪いとも形容し辛い物であれど、稀有な資質だ。
「……だから、これで良いんです。
わたしは、これで……」
ぱきり。 薪が割れた。
乾いた木の断面から赫灼の熱が漏れ出す。
ゆらゆらと、熱気の向こうの景色が歪んだ。
「……ですから、カフェさんのお陰で助かりました」
「それなら……ええ、ここを選んだかいがあったという物です。
……先週、急にゴールドシップさんに声をかけられた時は警戒してしまいましたが……」
「ああ!? なんでだよ!?」
「日頃の行い……ですかね。
タキオンさんと同じぐらいのトラブルメーカーですし……」
また話が逸れる。
すぐ隣のトウカイテイオーが若干、ほんの少し引き攣った苦笑を浮かべているが──いつも通りの事である。
……つまり、良いことだ。
日常の景色からは若干外れてしまったけれど、紛うことなき延長線上にあるモノなのだから。
これこそファインドフィートが望むモノ。 望んでいたモノ。
手のひらの内にあるべきモノ。
だから、ここにある彼女は満足している。
来れてよかった、などと強張った肩から力を抜いて、指先から張りを奪う。
「……ああ、それと──ここは、星空もよく見えるんですよ。
ほら、空を見てください」
「────」
そして、それから。
マンハッタンカフェに言われるがまま、首を上方へ向けた。
頭の上、木々の上、雲の向こう、空の果て。
……言われて思い出した。
星が良く見える場所だと最初の最初に聞かされていたな、と。
「雲一つ、ない」
……空は真っ黒だ。
けれど真っ暗ではない。
まんまるな黄金が、ぼんやり柔らかな輝きを纏って鎮座している。
卵の黄身よりも艶めかしく、パンケーキよりも香ばしい。
小麦の黄金よりも、なお純朴。
その綺麗な綺麗な月が、ファインドフィートの青の中に沈み込んできた。
「……あぁ」
綺麗だな、と率直な声を漏らす。
つい数刻前に想起した通り、マンハッタンカフェの瞳にも似た流麗な光。
「確かに、綺麗です……」
いつかの空に似ている。
いつもの空と同じだ。
少し首を傾ければ、すぐそこに友人たちの姿がある。
真っ暗な世界でも、己は決してひとりではない。
ファインドフィートは、そんな空が大好きだった。
首を上に向けて固定して、ぽつりと囁く。
「……それに、いつもよりも、昔よりも星がよく見えて……すごく、懐かしい」
それは風に乗って尚溶けることもなく。
少女達の耳朶へと淡く染みる。
つられて見上げた彼女らの姿が、その証明である。
ミホノブルボンもまた首を上方に傾けて──深い深い青に染まった瞳の中に、きらきら煌めく小さな星々を閉じ込める。
いつかの彼女や彼と、まったく同じように。
──ほんの少しの時間を、そのまま空に費やした。
冷たい風が微かに吹く中、静謐に満たされる。
「……フィートさんは」
如何ほどの時間を過ごしていたのか。
時計を見なかったファインドフィートには把握できていない。
けれど、今度のささやき声は彼女の物ではない。
空を見上げたままのミホノブルボンによって発せられた物だった。
静まり返っていた輪の中に、平坦な声音が細々と響く。
「フィートさんは……その、昔は、星をよく見ていたのですか?」
……それを、首の動きで肯定した。
長い芦毛がぱさりと揺れた。
そして、カップの側面を軽く撫でる。
空洞に響くのは乾いて芯のない音。 卑金の悲鳴だ。
「……昔は、よく……というよりも。
毎晩見ていました。
姉さんと一緒に、屋根の上で」
思い返すのは、黄金の如き日々。
空を眺め続けていた日々、家族と共にあった日々。
未だ何も失わず、完全であった頃の思い出。
それを胸の中で反芻して、胸の重みに耐えかね椅子の背もたれに寄りかかった。
けれども所詮は小さな椅子モドキ。 折り畳み出来る簡素な品。
きぃきぃと無様な悲鳴を上げて、腰の主に抗議の意を叫んでいる。
「……わたし、小さな頃は"星になりたい"なんて言ってたんですよ。
おかしいでしょう?」
けれども嘘偽りのない夢だった。
あの小さな星々は、あの大きな月よりもなお──輝かしい。
そうと感じた。 故にそうと信じた。
だから、憧れた。
「へぇー! ちょっと意外……でもないかも! すっごく良いじゃん!」
「そ、そうでしょうか……」
「そーそー! すごいロマンを感じるね!」
……それを褒められて悪い気などする筈もない。
トウカイテイオーの素朴な声が彼女の鼓膜を撫でる度に、僅かながらに心が踊る。
それが少しだけ照れくさくて、指先で唇を擦る。 口角を抑える。
当然のようにこれっぽちも上がらない口端を、意味もなく。
未だに無邪気だった昔の話だ。
そんな過去を思い出すために、ずっと色褪せない記憶のフィルムを再生した。
それはもう、網膜の裏側だけにしか存在しないけれど。
いつまで経っても捨てきれない、大切な記憶だった。
「……ここに居ると、懐かしい感覚になってしまいます」
……そうして過去に浸ってしまえる。
昔を思い出せる。
だから、なのか。
ふと考えてしまった。
「……ずっと、続けばいいのに」
──ひどい、妄想だ。
まったく無意味な妄言でしかない。
熱に当てられた脳髄だけで、己を強く罵る。
当然、その一連の流れに生産性など欠片もない。 惨めなだけだ。
……もっとも、そんな事は今更でしか無いのだが。
「けれど……このまま明日が来なければ──」
すぅ、と鼻から息が抜ける。
視界がブレる。 指先が脱力に震えた。
きぃきぃと鳴る椅子の悲鳴が、少しずつ遠ざかる。
「フィートさんより睡眠欲求の高まりを検知しました。
早急なお昼寝を推奨します」
「今は昼じゃねーぞ」
「……お夕寝を推奨します」
「……わたしは、まだ寝ませんよ。
気にしないでください……」
……けれど、瞼が重たい。
気が抜けてしまっているのか、はたまた知らずのうちに溜まっていた疲労が表出したのか。
否、そんな事はどうでも良い。
今はそれより、この時間の中に浸っていたかった。
いっそこの瞬間を現在の千倍も溺れる事ができたなら、どれだけ素晴らしいのか──なんて、夢想してしまうほど。
もちろん、それも無意味だ。
夜は巡る。 日は昇る。
時間とは何があろうと前に進むもの。
明日にはまた、日常へ帰らねばならない。
けれど、ほんの少しの時間ぐらいならば。
こうして、無意味に消費しても良いのではないか。
この
ファインドフィートは──そんな、淡い期待を抱いてしまっていた。
だって、胸が痛くならない。 規則正しい呼吸を刻めている。
だからきっと、これは正しい筈なのだと、愚かにも信じたかったのだ。
「……だって、このぬくもりが……こんなにも……」
眠気が更に強まる。
指先の感覚はすでに殆ど消え失せた後だ。
繋がっているはずの神経は信号の伝達を放棄して、宙ぶらりんの切れ端が無意味に散逸する。
「ねぇ……テイオーさん」
けれど、そんな今を過ごすからこそ、思うのだ。
満足しているのだと盲信し、後悔など無いと嘯く故に疑心を抱く。
現在を変える必要なんぞ何処にある?
別に良いではないか、"このまま"で。
"このまま"に満足してしまえば、それで良いじゃないか。
「……なのに……何故、墓暴き、などと……」
──隠された真実を覗き見てまで、何を望むというのか。 その先に何があるというのか。
蒙昧なる彼女には──とんと見当がつかなかった。
その上、何故、対峙する必要がある。
祈りを
軽くなった口の戸からぽろぽろと零れ落ちる。
眠気か、はたまた別の理由なのか。
けれど──零れ落ちたそれこそが、紛うことなき本心だった。
「……わたしは、きっと……」
──鼻から息が抜ける。
深く、長く。
そして数週間も避け続けてきた瞳に、自分から合わせて。
「これさえ、あれば……」
深く、長く、息を吐いた。
長い息が途切れる頃には、まぶたがすっかり下りきった後。
青い瞳を隠して、穏やかな様相を形作って。
「──おやすみ、フィート」
その顔は──表情というフィルターを除いた故に、どこか幼い。
トウカイテイオーは、そんな彼女へ嘯くように唇を震わせた。
「……おやすみなさい、フィートさん。
晩御飯には起こしますから……どうか、いい夢を」
ぱきり。
薪の割れる断末魔が、どこか遠くで鳴っている。
……そう。 最初は、きっと。
姉さんと一緒にいたかっただけ。
けれど、あの夏の空が、あんまりにも綺麗だったから。
だから、憧れた。
空の何処かに新しい星を見つけて、ぼくの名前を新しく刻んで。
そうしてだれかの瞳の中で息づく事が出来たのなら、どれだけ素敵なんだろうって。
そうしてだれかの瞳の中に、ぼくの名前が残り続けたのなら──どれだけ救わるんだろうって。
後になって捨てるぐらいなら、こんなもの要らなかったのに。