【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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4■話

 

 

 じりりりりり。 じりりりりり。

 目覚まし時計が鳴っている。 喧しく無責任な金切り声だ。

 

「ぅ……」

 

 仄暗い一室の中央で小さな呻きが垂れ流された。

 その主は薄い毛布に包まったまま、僅かな隙間から手を差し伸ばす。

 音の発生源を文字通り手探りで見つけ出し、止める。

 寝起きの頭では、たったそれだけの作業でさえも一苦労。

 

 ……どうにか眠気の束縛を乗り越え、時計の上部をぱちんと弾いた。

 

 ……。

 ……途端に訪れた静寂が、停止命令の完遂を証明する。

 

「……くぁ」

 

 大きなあくびで一つ。

 布団の中で大きな伸びをして二つ。

 そしてカーテンの隙間から伸びる一条の光を受けて三つ、ゆっくり瞬く。

 青の虹彩に、薄っぺらな朱色が混ざる。

 

 ……。

 

 そして僅かな空虚な時間を経て、ふらりと頭が揺れた。

 残念ながら、眠気は未だに晴れていない。

 布団の魅了から抜け出せなかったのだ。

 

 故に眠気を払うため、もう一度瞬く。

 ……まだ視界が朧気だ。

 

 更に二度、三度と瞼を往復させる。

 右目を擦る。 左目を擦る。

 

 ……そこまでして、ようやく両目の焦点が定まった。

 けれども頭の何処かは未だに夢うつつな様相で、上体を起こす行動さえ僅かに覚束ない。

 

 結んでいた頭髪を解きながら、どうにか脳みその回転を速めていく。

 

 幸いにも──体の調子そのものはやや()調()だ。

 己自身を斯様に評し、手元のリモコンを弄り回してカーテンを開いた。 全自動式である。

 金具がレール上を走って両開きとなり、朝の陽光を部屋に採り入れる。

 

 流石の高級ホテル仕様。

 身の回りのちょっとした備品まで質がいい。

 元が一般市民の出であるファインドフィートには……未だに、まったく慣れぬ待遇であった。

 

 とはいえ、彼女は()()()()以上の実績を残すアスリートだ。

 国全体が注目する祭り事の参加者。 ゆくゆくは国家の代表格に到れるかもしれない。

 それに対するモノと考慮したなら、極自然な費用のかけ方だった。

 

「……はやく身支度を、して……控室に入って……あと、そうだ。

 早く勝負服に着替えないと……」

 

 明るくなった部屋。 自然と覚めた視界。

 そこまで整えてようやっと最低限の活力を得る。

 

 そしてベッド脇のスリッパにつま先を差し入れた。 ふかふかだ。

 脚が資本である彼女等の事をよく考えた、細やかな造りの品だった。

 

「ん」

 

 立ち上がる。 白い長髪と長い尾が揺れた。

 歩いてみればパタパタと軽い足音が弾む。

 

 そのまま洗面台へ向かい、蛇口のレバーを押し上げた。

 水の柱が流れ落ちる。 飛沫が散る。

 

「……あと、あと……。

 ……何だっけ」

 

 底抜けの白磁の台に手を突いて鏡を見る。

 睨み返してくるのは、やはり無愛想な顔だった。

 瞼を細めて冷ややかな色で沈黙している。

 

 まず血の気がない。

 表情もない。

 覇気もない。

 つまり、いつも通りの顔だ。

 

「……ひどい顔。

 まったく、ほんとうに……」

 

 ぴくりともしない表情筋を指先でなぞった。

 

 顔の造形そのものは『姉』と全く同じ。

 眉の形、目の形、鼻の形、唇の形。

 違うのは精々が瞳の虹彩程度だ。

 

 ──わたし達は一応一卵性ですから、まぁ……こういうものでしょう。

 なんて、鏡に向けて呟く。 なんてことはない独り言だ。

 

 ……だというのに、やはり何処までもぬくもりが欠けた顔だった。

 双子だとしても内面の何処かには違いがあって、そこを所以として雰囲気に差が生まれている。

 ファインドフィートも原因を自覚していた。

 

 だけれど、簡潔な言葉だけで説明できてしまえるそれが、少しだけ悲しかった。

 

「……こう? 

 ちがう、こう……こうして、こう」

 

 鏡を見る度に、何度も何度も、飽きもせず考えてしまう。

 

 片割れにさえその姿を真似出来ないのだとしたら。

 それは……『姉』の姿が、この世界から完全に消え失せた事と同義であると。

 

 今はもう『弟』の記憶の中にしか残っていないのに、表出させる事が出来ない。

 それは、酷くもどかしかった。

 時折垣間見えた太陽のような笑顔も、手を繋いだ時の優しいぬくもりも、沢山もらった柔らかい言葉も、全て、全て──。

 

「……はぁ」

 

 ──無意識の裏でさえ求めるそれらを思い浮かべて、鏡の向こうに重ねて。

 

 垂れ流したままの水を掬い上げて、顔を洗い流した。

 滲むように湧き上がる悲嘆を振り切りたかった。

 

 水気が頬を伝う。 ぽたぽたと滴り落ちる。

 

 ……顔は冷えた。 意識も冴える。

 それでも、やはり淀んだ腹の奥は欠片も晴れない。

 誤魔化すという行為を頭の何処かで冷徹に捉えていて、その何処かが彼女の現実逃避を嘲っている。

 

「……」

 

 そして滴る水気を拭いもせず、それ以上に水を浴びる事もせず、ただ……"はやく帰りたいな"と、小さな呟きを漏らす。

 蚊の鳴くような細い声で、子供が漏らす寝息のように。

 開けっ放しの蛇口の音で掻き消える程度の、ちっぽけな弱音だった。

 

「……準備、しないと」

 

 指先で首を撫でる。

 滑らかな感触があるだけの細い首だ。

 

 ……そして、それから。

 目に見えない何かに急かされる様子で、鏡の前から姿を消した。

 

 

 ◇

 

 

『それでは改めまして、本日の見所を紹介しますね。

 現地の相模(さがみ)さ~ん』

『はい、相模です。

 わたくしはですね、現在京都レース場に来ております。

 そう、天皇賞春です! 見てください、このヒトの数! 凄まじいでしょう!』

 

 ──携帯端末のディスプレイをぼんやり眺めつつ、椅子に背を沈めた。

 量産品のくせに安っぽい造りでないおかげか、軋む音はまったく出なかった。

 控室の備品というだけはある。

 

「……わたしなら酔いそうですね、こんなの」

 

 ファインドフィートは目の前……つまり机の上に置いた小さなディスプレイを眺めて独りごちる。

 液晶に映るのはレース場の光景だ。 同じ敷地内の同時刻の姿である。

 

 例えば、売れっ子のアナウンサーが通路のど真ん中で高らかに声を張っている様子。

 例えば、道行く観客の様子。 例えば、出店の店員や、湯気が上る小麦色の焼き菓子。

 ……例えば、親子連れの一家の姿。 四人家族の笑顔。

 平和を物語るそれらを、目を細めながら見つめて微動だにもしない。

 そのまま、続く画面を見送るばかりだ。

 

 ファインドフィートはただ、それだけの行いで時間を浪費していた。

 

 幸いにも時間に余裕はあった。

 それこそ今はまだ9R(第9レース)が開催された所だ。

 故にこうして興味も無い事に時間を浪費できてしまえる。

 

 そもそも他にできることは終わらせた後。 故に、有意義な時間の使い方など存在しない。

 どんな行動であっても浪費にしかなり得ないのだから、どうしようもない事実だった。

 

『──先頭抜けた! 一着はオオヤマライデン! オオヤマライデンです!』

 

 そんな彼女の時間を満たすべく実況者の絶叫が響く。

 喧しさと活気が混ざり合う声音だった、が。

 ──ふと、僅かな興味で耳を揺らす。

 

「……オオヤマ?」

 

 どうしてか、鼓膜をするりと抜けることなく僅かに留まる。

 舌の上で転がしてみれば──ほんの少しだけ懐かしい、引っ掛かりを覚える味をしていた。

 

 画面に映る少女へと焦点を定める。

 祝福の紙吹雪の中央で棚引く鹿毛の長髪。 キラキラ輝く勝気な表情。

 

 ……しかし、さて、誰だったかと。

 ゆらりと小首をかしげた。

 

 思い返す。 思い返す。 思い返す。

 思い返して……いくら思い返せど、まったく思い出せない。

 

 ……ならばきっと、錯覚だ。

 この少女に感じた既視感に意味はない。

 そう深く考え込みもせず、きっと違いないとあっさりと結論を出した。

 

 そんな()()の笑顔を眺めて、薄い息を吐いた。

 そして生中継の画面を切って天井を仰ぐ。

 心の何処かがささくれて、腹の底が少しばかり淀んでしまう。

 

「……レースに、集中、集中しないと……」

 

 伽藍堂の胸をおさえて、椅子に背を沈めた。 更に深く。

 

 そのまま、蛍光灯の真白い光に目を細めるばかり。

 ……が、焼き付く光が眩しくて、白色から逃れるために瞼を下ろす。

 瞼の裏では網膜に焼き付いた幻影が泳いでいた。

 

 しかもそのうえ、瞼とは薄っぺらいだけの肉だ。

 光があっさりと貫通して眩しさを強引に叩き込んでくる。 幻影が、色濃く染まる。

 

 ……とはいえ、それだけ。 態々姿勢を動かしてまで逃れる意義を感じられない程度。

 だからぴたりと動作を止めて、首を固定して。

 そのまま、呼吸だけに没頭した。

 

 動じずに、変わらずに。

 意識するのは一定のリズムと、定期的に反復する呼吸だけだ。

 そうしていれば──時間の流れさえ停滞するような、淡い錯覚に浸れてしまう。

 

 吸って、吐いて。

 吸って、吐いて。 吸って、吐いて……。

 

 …………。

 ……。

 けれど、それは。

 

「──もしもぉ~し。

 フィート~、開けて~」

「……っ」

 

 "外部からの刺激が入るまでは"という、無慈悲な注釈がついてしまう物。

 思考停止の海で微睡んでいた彼女を呼び覚ましたのは打鍵音だった。 規則正しい二連続の音だ。

 つまり外部の刺激とは、入室の意思を表現するノックの音である。

 

「…………」

 

 耳を伏せ、身体を捩って背後のドアに視線を向ける。

 ……もう一度、二連続の音が響いた。

 

「フィート、いないの?」

 

 ずきり。 胸が痛む。

 空虚で満ちていた筈なのに、棘だらけの何かで串刺しにされる。

 

 ……無視するべきだ、と。

 脳裏の奥の、懐疑的な理性が重々しく囁いた。

 

 応じてどうする。 何になる。

 あのひとは裏切ったじゃあないか、と。

 そんなみっともない惰弱な論理が、ずっと背中に縋り付いているのだ。

 

「……。

 ……いま、出ます」

 

 ……けれども身体は動き出す。 静かにドアへと歩み寄る。

 取手を握る指が、少しだけ強張った。

 

「……なにか?」

 

 そしてドアを開けば──やはり、と云うべきか。

 

 来訪者はトウカイテイオーだった。

 身にまとうのは見慣れた学生服ではなく、いつかテレビの向こう側で見た赤い勝負服。

 

 曰く、不死鳥をモチーフとしたという装束。

 再起を果たした彼女にはピッタリの代物だ。

 今となっては疑いようもない程、似合っている。 彼女は心底からそう感じた。

 

「んぇっ、どしたのフィート? 不機嫌?」

「そんなことは……ありません。

 まったく、いつも通りです」

 

 ……だがその輝きは、目に毒だった。

 きらきら、ぎらぎらと輝いていて、直視しているのも苦しい。

 

 故に相対する少女を透かして、向こう側の壁を見つめる。

 そうして、どうにか努めて平坦な声を作り出した。

 

「それで、御用は」

 

 時間は、まだ余裕がある。

 時計の分針がもう一周しても問題ない程度だ。

 

 だから別に、用がなくても良い。

 ……否、その表現は正確ではない。

 ファインドフィートにしてみれば、用などない方が良い。

 

 互いに競って、何方かが勝つ。

 それが必要十分というもので、それ以上なんぞ不要なのだ。

 

 ──ただし、"必要十分を満たしている"と認識しているのは……彼女だけだったのだが。

 

「ま、センセンフコク……みたいな?」

 

 残念ながら、その内心を知らない様子のトウカイテイオーが軽やかに口を開いた。

 胸を張って自信満々に、芯のある強い瞳で。

 

「今日はボクが勝つよ!」

「そうですか……」

「でね、どっちが勝つか賭けようよ。

 ボクが勝ったら……そうだね~。

 ……聞かれたことを包み隠さず言う、みたいな!」

「……」

「真正面から逃げずに会話……って感じで……ダメ?」

 

 下から覗き込む友人の顔。 唇がへの字に曲がっている。

 ……そんな彼女に否定の言葉を告げようとして。

 唇を開いて──しかし、喉から声が出なかった。

 

 ……唇が乾いている。

 舌先でちろりと舐めて、潤して──けれどやはり、否定が出来ない。

 

「…………。

 ………………無理のない、範囲なら」

 

 結局、小さく細い、空気の揺らぎと同程度の産物が漏れ出してしまった。

 

 けれどもトウカイテイオーの優れた聴覚はそれさえ聞き逃さない。

 しっかりと意味を拾い上げ、したり顔で大きく頷いて見せた。

 

 ……ファインドフィートにはその決定を覆すだけの気力はなく、振るえる弁舌もない。

 だから仕方ないのだと自己弁護を裏に込めて、ただ曖昧に頷き返して。

 

 そこで、ふと疑問を抱く。

 

「……ところで、わたしが勝てばどうするのですか?」

「あ~っと……そうだね~。

 じゃあボクもフィートとの知りたいこと、なんでも教えてあげる!」

「……そう、ですか」

 

 別に、大した賭け事ではない。

 金銭だとか、尊厳だとか、そういったモノが絡むような──そういう薄汚さとは無縁な無垢なもの。

 

 ……その筈だ。

 その筈だけれど、何故だろうか。

 少しだけ、背筋が凍てつくような錯覚を得る。

 

「……約束です」

「うん、約束」

 

 ……だとしても、果てに待ち受けるものが何であっても関係ない。

 だって、ファインドフィートは裏切れないのだ。

 約束は絶対に守らなければならない。

 何があっても、絶対にだ。

 

 それが、正しいという事なのだから。

 

 

 ◆

 

 

 そこは僅かに薄暗い。

 窮屈で、腹の据わりが悪くなる。

 鉄の香りが充満している。

 

 そんなゲートの中に、そっと身体を収めた。

 

 やはり、居心地は悪い。 しかし慣れという物は偉大だった。

 彼女がゲートという概念に触れてから経過したのは……2年と少し。

 文字に表せば矮小な年数ともとれる。

 

 たかが2年と少し。

 されど、2年と少しだ。

 濃密に過ぎる経験を積み重ね続けた彼女にとっては十二分。

 このゲートいう概念は束縛という分類から除外されるべきモノだった。

 

 

 ……ファインドフィートはそう、信じて。

 大外の檻の中から、3つ横の檻の中へと視線を滑らせる。

 知らない顔を通り越して、知らない顔を通り抜けて、見知った顔の少女へと。

 

 その少女──トウカイテイオーは前だけを見据えていた。

 横から見られているとも知らず、知ろうともせず、一切の余分を排除して専心している。

 

 ……それはきっと、レース前の行動としては理想的な精神状態だ。

 ただの一つに集中するというのは大前提の精神状態であるけれど、同時に最も難しい精神状態の一つでもある。

 

「……でも、勝たないと」

 

 精神を制御するのは難しい。

 しかし制御せねば肉体が精神に引き摺られてしまい、発揮できる性能も出せなくなってしまう。

 ……だからファインドフィートは、集中という状態を定型化した。

 肉体が精神に引き摺られるのならその逆もまた然りだ。

 

 定めた通りに呼吸を重ねる。

 定めた通りに胸を抑え、空を仰ぐ。

 定めた通りに、定めた通りに、定めた通りに。

 定めた通りの行動を遵守する事で、自己を最適化する。

 

 ……そこまでして、精神を御すことが叶う。

 そこまでして、ようやく怯えを隠せるのだ。

 

 音もなく踵を浮かせて前を向き、長い吐息を垂れ流した。

 その吐息に怯えは混ざらなかった。

 

『各ウマ娘、ゲートインが完了しました』

 

 春風が吹く。

 それに乗って、名前も知らない男の声が反響する。

 

 音の波、風の波。

 二つの波が合わさり、鉄の檻を微かに揺らす。

 鉄が擦れて、きぃきぃと不格好な嘶きを上げた。

 

「──」

 

 それから──無言で目を見開いて、解錠の瞬間を待つ。

 秒数は数えない。

 

 ただ、その場に居る幾人かの呼吸が何度か重なった後。

 ほんの一瞬、須臾の時間だけ電気が導通する。

 それがゲートを閉ざす磁力をかき消し──抑圧を失ったバネが強く弾んだ。

 

 ──ガコン、と硬質な解放の音色が響く。

 一瞬のうちに視界がひらけて、一面の緑がファインドフィート達の目の前に広がった。

 

「──!」

 

 瞬間、反射の領域で駆動した。

 脊髄の深奥に定着するほど訓練された理想的なスタートダッシュだ。

 

 左足で後ろを蹴り出し、右足を前へ突き出す。

 姿勢は前傾、軸は不動。 以前と同じだ。

 最初からハナ(先頭)を奪うための戦法で──つまり、今回も逃げるための足運び。

 

 それを以て、すぐ目の前の幻影を追いかける。

 白い髪の、己の似姿を。

 

 ただし、問題が一つあった。

 

 それは今回のコース。

 芝、3200メートル──未だ経験したことのない長距離だった。

 長い外回りの一周半で、合間には二度の坂越えを必要とする。

 現在では天皇賞の春でしか用いられることのないコースである。

 

 ……もちろん、練習としてならば経験している。

 飽きるほどに走り続けて、ペースの配分を研究し尽くしている。

 作戦なんて、数え切れないほど詰め込まれて。

 幾重にも、幾重にも、幾重にも、熟慮に熟慮を重ねて道を作りあげた。

 

 とはいえ、あくまでも対策段階の事だった。

 その全てを活用できる訳でもなく、本番の舞台ではそれらの殆どが無用の長物となってしまう。

 確かに、その準備があるからこそ前に進む事が叶うのだが。

 

「……っ!」

 

 ファインドフィートのすぐ後方に三名、少し遠くに四名。

 更に後方に中団の七名があり、遅れて──あるいは、最後の最後で全てをかっさらうつもりの三名。

 

 その集団の先触れとして、轟く蹄鉄の絶叫に追い立てられる仔羊のように、脚の回転を一定のリズムに制御した。

 ……けれども一バ身先を幻影が走っているのだから、厳密な意味では先頭ではない。

 彼女だけの認識で語るのならば、という前提が必要になるのだが。

 

 

 ──まず最初に第一の関門として立ちはだかるのは、スタート直後にある淀の坂だった。

 高低差は4.3メートル。 難所として名高い急坂だ。

 眼前に聳える芝の山を速度を落とさず駆け登り──痛む肺に、奥歯を噛み締めた。

 事前の()()()も無しの坂路は少しばかり負荷が大きい。

 

 とはいえ知識豊富なトレーナーによる指導を受けた身だ。 可能な備えは十全に行っている。

 つまり、坂路対策の走法の会得だ。

 腕を振る位置は低めで、歩幅は小刻み。 可能な限り少ない体力消費で、可能な限り最大の速度を獲得するためのモノだった。

 

 そのお陰もあってか、想定よりも多少はマシな消耗で坂を登り終える事が出来た。

 普段通りの走行フォームに戻し、つま先を芝に突き立てる。 土の匂いが鼻腔を満たした。

 

『先頭は18番ファインドフィート、すぐ後方13番オリノコリエンテ、続く5番リボンスレノディ、内に9番ローズフルヴァーズ。

 一バ身離れて15番トウカイテイオー、その外に──』

 

 そして続くコーナーカーブ。

 実況の声を可能な限り意識から排除し、眼の前に集中する。

 ウマ娘の速度で走りながら曲がるというのだから、かかる遠心力は非常に重たい。

 

 ぎしり、ぎしりと背骨が軋む。

 しかし、揺らぐことなく負荷を往なし、体幹への影響を減じた。

 

「……っ」

 

 それに加えて風圧も強い。

 先頭を走るのだから仕方のない事だ。

 後方とは違い、撹拌されていない空気の中へといの一番に駆け出すのだから。

 

 故にただもう一度、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。

 堪えて、堪えて、堪えて。

 風に負けず、痛みにも負けず、前だけを見据える。

 

 それのみを肝に銘じて坂路を下る。

 直線を抜ける。

 そして、再びのコーナーを走った。

 

「は、は、はっ」

 

 ──視界の端を通り抜けたのは一周目の終わりを指し示すハロン棒(残り1200メートル)

 先頭を基準とする瞬間的なレース時計は2分と7秒。

 遅くはなく、早くもない。

 

 荒い呼吸を繰り返しながら、二度目となる直線につま先をめり込ませた。

 蹄鉄が軋み、芝が抉れ、土が捲れる。

 

 体力は、まだ尽きていない。

 尽きていないが、底は見え始めていた。

 

『ここで一周を越えました! 改めて先頭から確認していきます。

 先頭は変わらずファインドフィート、少し苦しいか! 

 続けて9番ローズフルヴァーズ、まだ余力がある。

 そして三番手に15番トウカイテイオー、余裕の表情です』

 

 ──だから実況の声は、確かに現実を語っていた。

 

 痛みに震える肺から古くなった空気を絞り出し、鋭い呼気を吸って。

 僅かな休息で気力を回復させて。

 しかし、痛みはその瞬間にも襲いかかって来る。

 胸の奥がぐつぐつと煮え滾るように、痛み続ける。

 

「ふぅ……ッ」

 

 故に心臓を締め上げて、不足分の活力を捻出する。 僅かな加速を得る。

 ただ、それだけだ。 痛みは消えない。

 結局、苦しいという状況に変わりはなかった。

 

「……これで、二度目……っ!」

 

 続く勾配、高低差は4.3メートル。 つまり、先程と全く同じ坂を登る。

 一歩を踏み出す毎に、ぎちり、ぎちりと両脚が軋んだ。

 衝撃は足首の関節から脛骨を経由し、膝関節を越えて大腿骨へ、そして骨盤へと伝わる。

 時速にして60キロメートル程度……その分、地面からの反発も激しい。

 

 けれど、じっと堪えて、大きく息を吸って。

 小刻みな歩幅で、姿勢を低く保つ。

 腕の振り方でバランスを確保して、坂を登り。

 

 そして登り終えた後の──更に向こう、下り坂を経た最後の加速に向けて準備を整えた。

 

 肺は今にも張り裂けそうで、心臓は常に痛みを訴えている。

 つまり想定の範囲内。 まったく、普段通りの有様だ。 大した問題ではない。

 

『淀の坂を下りて最終直線へ! 後続も追い上げていく!』

 

 ……とはいえ。

 その想定の範囲内というのは、ファインドフィートという個体に焦点を当てた途中経過だ。

 他者の中には理想的な経路を経て、理想的な巡り合せで、理想的な消耗具合で乗り切った者も存在しうる。

 

 たとえば──絶好調で今日を迎えたトウカイテイオーのように。

 

『ファインドフィート更に伸びる! 

 しかしトウカイテイオーも上がってきた! 

 やはりこの二名が一騎打ちか!』

 

 ぞわり、と背筋が栗毛立つ。

 本能が、すぐ後方に迫り来る気配を察知する。

 

 蹄鉄の音が断続的に去来して、位置関係を迂遠に伝える。

 それは──通常ならば他多くの蹄鉄の音や観客の絶叫の中に紛れかねない程度の音だ。

 けれどファインドフィートは、それを巨大な音だと感じた。

 大きく、重く、そして熱い。

 

「まだ、まだァ!」

 

 後方から轟く。

 普段の朗らかなぬくもりを拭い去った叫びだ。

 心胆を震わせるそれは、雄叫びと表すに相応しかった。

 

 ──たまらず、一瞬振り返る。

 鹿毛の彼女が、真っ赤な衣装を纏って跳んでいた。

 

「──ッ!」

 

 ──痛む肺と心臓に檄を飛ばす。

 口の端から泡がこぼれた。

 

 だって──すぐ後ろから聞こえる息遣いが、こんなにも恐ろしい。

 

 だから前へ。

 更に前へ、とにかく前へと奮起する。

 蜘蛛糸の先にある勝利を目指して、大きく前に踏み込んだ。

 芝が抉れ、僅かな間重力の軛を離れる。

 そしてそのまま風に乗り、後方へ流れて置き去りにされていく。

 

 

 残り三百メートル。

 

 先頭は変わらずファインドフィートだ。

 しかしトウカイテイオーはすぐ半バ身後方に居る。

 

 すぐに埋まりかねない差だ。

 簡単にひっくり返っても何らおかしくない差だ。

 けれどこの間隔を保持出来なければ……負けるのは、『ファインドフィート』だ。

 

「ぐ……ッ!」

 

 更に心臓を締め上げる。 加減もなく、慈悲もなく。

 そして両脚の筋肉が瞬間的に拡縮し、僅かな距離を引き離した。

 

 ──が、瞬きの後に埋まってしまった。

 

「なんで……っ!」

 

 更に、更に、心臓を締め上げる。

 茨で、杭で、締め上げる。

 蓄積された疲労の一切を強制的にリセットし、活力を前借りして──それによって得たリソースをこの一瞬に注ぎ込む。

 そうしてしまえば、更に加速しているという結果を得る事が出来た。

 

 ──にも関わらず、どうしたことか。

 

 引き離せない。 望んだ通りにならない。

 むしろ──差が縮まり始めていた。

 

「うそ、でしょう……!」

 

 そして。

 そこにあったはずの差は簡単に踏み潰された。

 流れるように、あっさりと。

 

 トウカイテイオーが横をするりと抜ける。

 並ぶのではなく、追い越して。

 彼女等の立ち位置はあっさりと逆転したのだ。

 ついには色のない幻影さえも追い越して、ファインドフィートの限界の先へと。

 

「は、はっ、はッ!」

 

 嘘だ、と思いたかった。

 負けるはずがないと、信じていた。

 そんな未来は想像することさえ許されないと、腑の底まで刻まれていた。

 

『────! ──、────!』

 

 鼓膜の奥で喘鳴が泣き叫ぶ。

 それは彼女自身の喉から鳴っている。

 

 ──だとしても、止まれない。

 そんな事では止まれない。

 そんな事は許されない。 止まってはならない。 勝たなければならない。

 

 肺が張り裂けてしまいそうな程に大きく息を吸って、脚を前に差し込んで──。

 ──しかし、届かない。

 

 前へ跳ぶ。

 届かない。

 

 加速する。

 届かない。

 

 前傾する。

 届かない。

 

 知りうる限りの技巧を凝らす。

 届かない。

 

 心臓を締め上げ、強制的に稼働率を高める。

『ファインドフィート』の最高速度に到達し続ける。

 

 ……それでも届かない。

 

 届かない。

 届かない。

 届かない! 

 

 何をやっても届かない。

 辛うじて、けれど明確に、届かない。 絶対的に速度が足りていない。

 この局面から覆すには、単純な基礎スペックが足りていない。

 

 あるいは、この局面に至る前までが違えば届いたかもしれない。

 ファインドフィート自身の状況か、あるいは相対するトウカイテイオー自身の状況か。

 

 ボタンの掛け違いのようなちっぽけな差で良い。

 経過にほんの少しでも違いがあったなら、ここから至る結果もまた違った物になる筈だ。

 

 

 ──けれど、そうはならなかった。

 前と後の位置関係が今ある現実を物語る。

 だからファインドフィートは、こうして必死に足掻いている。

 

「はっ、はッ、ぁ!」

 

 残り二百メートル。

 脚は伸び切った後だ。 ここから更に速くなることはない。

 もし仮に、すぐ目の前のトウカイテイオーも同じように脚が伸び切った後だとしても──それは、ファインドフィートが更に加速できる事と符合しない。

 必然として、今の力関係を覆すことは不可能だ。

 

 

 つまり、そう。

 ファインドフィートは、トウカイテイオーに追いつけない。

 

 残り百メートル。

 足りない。

 

 残り七十メートル。

 届かない。

 

 残り四十メートル。

 遅すぎた。

 

 残り十メートル。

 ファインドフィートは、届かなかった。

 

 残り、0メートル。

 ファインドフィートは──。

 

「負、け?」

 

 ──息を、切らした。

 膝に手をついて、酸素を求めて何度も喘ぐ。 苦痛に沈む。

 滴る汗と鼻出血を拭う事さえ出来ない。

 

 ……そんな状況だろうと現実はお構いなしだ。

 舞い散る紙吹雪がレースの終わりを宣言した。

 

 喝采が降り注ぐ。

 向かう先は──彼女のすぐ前方。

 受け止めるのは真っ赤な後ろ姿の少女だった。

 

 その姿を以て、勝者と敗者を決定付ける。

『ファインドフィート』が敗北したという事実を、証明する。

 

「負け、た」

 

 掲示板の頂点に輝くのは15番だ。

 18番の居場所は下の枠である。 一着とはクビ差だった。

 

 勝ち時計の3分14秒とコンマの3の数字が真っ赤に、誇らしげに光っていた。

 

「わたし、が、負けた」

 

 呆然と、震える。

 声に出して、認識を芝に転がして、現実をなぞる。

 みっともなく掠れた声だった。 無様に湿った声だった。

 それは、涙に濡れた声だった。

 

「わたしが、負けた。

 わたしが、わたしの……ぼくの、せいで?」

 

 焦点が、茫洋と綻んで。

 足場の緑が真っ白に染まっていく。

 ぐらぐらと、足元が揺れている。

 

 ……もう幻影さえ見えない。 全部真っ白だ。

 

 白く、白く、白く、白く、白く、白く。

 どこまでも、夢つつの非現実な白へ。

 染まって、染まって、染まる。

 

 これが現実だなんて、認めたくなかった。

 くらりと、頭がふらついた。

 

「フィート!」

 

 ──けれど。

 彼女にはそんな現実逃避さえ許されはしない。

 

 彼女のすぐ眼前に手が差し伸ばされた。

 知らずの内に俯いていた視界を、友人の手が上へと引き戻す。

 

「ちょっと、鼻から血が出てるじゃん! えっと、えーっと……とりあえず裏に行こう! 

 ……あっ、係員さん! フィートが──」

「──」

 

 その小さな手を見つめて。

 深く考えることも出来ず、茫洋と遠ざかる眼差しも変わらず、己の手を重ねた。

 

 もう何も、考えたくなかった。

 

 

 

 ■

 

 

 

「フィート……ねぇってば、フィート?」

 

 残響が、耳朶を撫でる。

 それはどこか遠くの音だった。 幻想の繭に籠もって、不鮮明に歪んだ響きだった。

 夜道の向こうの鈴虫の、細やかな寂寥感を思い出させるような……そんな綺麗な声だった。

 

「フィート」

 

 それが影と外灯の壁に阻まれて、夢うつつな霞の衣を纏って。

 ゆるやかに、しかし鋭く飛来してくる。

 

 鋭く、冷たく。

 鈍く、熱く。

 耳朶を揺さぶって、脳みそに染み込んで、意識の根底に寄りかかって──。

 

「フィート!」

「……ぁ」

 

 ──そんな呼び声を受けて、我に返った。

 

 呼吸が荒い。 視界が定まらない。

 自身が置かれている状況が様変わりしている事に、気付くのが遅れてしまう程に。

 

「ここ、は」

 

 どうにか頭を回した。

 そこは殺風景な部屋だった。

 ホコリをかぶった机。 それを挟むパイプ椅子。 積み重なったダンボール。

 つまり、選手用控室の──どこか、使われていない一室の様相だった。

 

 ドア横に立ち尽くしたまま、呆然と息を吐く。

 そして相対するトウカイテイオーを見て、未だに酸欠でふらつく頭を抱えて……そこで漸く、自身のつい先程に意識を向かわせる事が叶った。

 

「やっと気付いた……ねぇ、身体は大丈夫なの?」

「……ええ、はい……。

 わたしは、大丈夫、です」

 

 鼻の下を擦る。

 流れていた筈の血は既に止まっていた。

 処置をした記憶は無かったが──彼女には、そんな事どうでも良かった。

 

 ファインドフィートにとって重要なのは、己が負けたという事実のみ。

 ただ、それだけだ。

 

「……ここなら誰も来ないよ」

「そう、ですか……」

 

 トウカイテイオーがドアに歩み寄り、鍵をかけるツマミに指を掛けた。

 回転方向は右へ、角度は90度。

 金属同士の噛み合う音が聞こえる。

 

 その行いがファインドフィートに対する配慮なのか、はたまた逃さないための対策なのか。

 ……両方だろうなと、その横顔を眺めてぽつりと零す。

 

 とはいえ、そもそも彼女には逃げるだけの余力も残っていない。

 真っ直ぐ立つ事さえ負担となっている程なのだから、どう足掻いたって不可能だ。

 

「……約束、だよね?」

「あぁ……」

 

 ……少女の声音を反芻する。

 重々しい言葉で連ねるのは約束──そう、約束だ。

 負けた方はなんでも一つ、聞かれたことを答えること。

 そんな子供染みた賭け事の、清算。

 

「そうです……。

 約束、約束は、まもらないと……絶対に、そう」

 

 朧気な思考回路のまま、薄ぼんやりと霞む視界のまま、小さく微かに頷いた。

 己に言い聞かせる言葉さえ、どこか遠くの残響に近しい。

 

 背中を壁に預けて──。

 否、預けることさえ出来ない。

 ずるずると滑り落ちて、尻を床につける。

 擦れる青布と蹄鉄の音色が、みっともない不協和音を奏でていた。

 

「……いや~、びっくりしちゃったよ。

 まさかボクが負けそうになるなんて!」

「でも、勝ったじゃないですか。

 あなたは、わたしに」

 

 背が曲がる。 脱力しきった様相だ。

 そうして疲れ切った老人のように、潰れかけの舌で現実を象った。

 細々と、鬱屈と綻ぶ遠吠えが一室に染み込み、微かな静寂を飾り立てる。

 

「……そう。 わたしは、負けた」

「うん」

「なら、従わなくては……」

 

 そっと俯き膝を抱える。

 左の踵を床にこすりつけて勝者の沙汰を待つ。

 それが彼女にとっての、精一杯の服従の証だ。

 

「そう、だね」

 

 眼の前でこつりと響く靴音。

 そして見下ろす彼女の息遣い。

 それらを粛々と鼓膜で受け止めて、耳を揺らす。 音は鳴らない。

 

「……ずっと聞きたかったんだ。

 キミは、どうして走っているのか」

 

 そして、口火を切る。

 その瞬間が訪れるのは、存外早かった。

 

 ……が、そのくせに歯切れが悪く端々が曖昧だ。

 語る本人でさえ内容を決めあぐねている様子は、俯いたままのファインドフィートにも簡単に把握できてしまえる。

 

 しかし彼女はそれを笑わない。 笑えない。

 故に沈黙を保ち、続く言葉を待ち続けた。

 

「何を求めているのか、何の為に、何を見て、走っているのか……」

「……一つでは、無いのですね」

「そんな事いってないし〜」

「それは、通理です」

 

 明るい声音でおどけている。

 反面空気は重々しく、軽さとは無縁だ。

 

「……でも、何故そんなことを。

 あなたは……わたしの本性を、知っているのでは……」

「……その本性っていうのが何に対してなのか、はさておき」

 

 そこで、言葉を切る。

 無言で膝をつき、青い靴に守られた足首へ触れる。

 壊れ物を扱うやわらかな手付きだ。

 

 それはファインドフィートの予想していなかった感触で、ほんの僅かに肩が跳ねる。

 

「──その脚、痛いんじゃないの? 

 あんな無茶な走り方をして、全く無事な訳がないのに。

 そうまでして走るのはなんで?」

「……それは」

 

 ──誤魔化さなければ、と直感的に言い訳を吐き出そうとした。

 "違います"。 "気の所為です"。 "ちょっと体調が悪いだけです"。

 なんて、子供でもそう言わない拙さ極まる戯言(たわごと)を。

 けれど不思議な事に、望む物がまったく出てこない。

 

 あー、とか。 うー、とか。

 そういった意味を為さない繋ぎの言葉さえ湧き出ずに、口を噤む。

 何も話せなかった。

 

「……ゴメンね、単刀直入に言う。

 キミは走るのを辞めるべきだ。

 ……うぅん、辞める事そのものは、無理かもしれない(否定できない)……けどね、休むだけなら良い筈じゃないかな」

 

 ──だから、当然のように結論を告げられて。

 必然の如く、それはダメだと喉が震えた。

 

 故に、今度こそ言葉を吐き出そうと顔を上げた。

 目の前には見慣れた少女の顔で──。

 

「キミはどうして、走りたかったの?」

 

 その瞳を見ると、どうしてか。

 喉奥が詰まって、何も言えなくなってしまった。

 

 彼女は憐れむ顔をしている訳ではない。 同情的でもない。

 ただ見透かすような瞳で、ファインドフィートを見下ろしている。

 

 ひゅ、と。

 喉が引き攣り、空気の漏れる音だけが零れてしまう。

 

「どうして、立ち止まれないの?」

 

 ──見透かす瞳と鋭い言葉が、傷口を切り開く。

 無遠慮に思えて、その実繊細に。

 丁寧に心を暴いて、清水で洗い流そうと指先で触れる。

 

 唇が震えた。 瞼が震えた。

 けれど、そう。

 ──約束の為に、なけなしの勇気を振り絞る。

 問われた事を答えるというだけの行いが、酷く難しい。

 今度は不思議と、簡単に言葉を紡げた。

 

「……許されない、から。

 だから……だから、わたしは。

 これからも変わらないというのが、わたしの結論。 わたしの答え」

 

 ──ああ、恐ろしい。 恐ろしい。

 その瞳が、その言葉が、どうしても恐ろしい。

 

 そして、忌まわしい。

 相対する友が、ではない。

 感じた恐怖を上回る程に、惰弱に染まる己の心が忌まわしかった。

 

「わたしは、止まってはならない」

 

 けれどその情の源泉は、間違いなく眼の前の友人だ。

 だから……今すぐにでも離れたかった。

 

 気力を絞り出し、背中を壁に擦り付けながら立ち上がる。

 ずりずりと乾いた音と共に、震える脚を必死に伸ばした。

 

「……っ」

 

 頭がふらつく。

 血流が足りていない。 酸素が足りていない。

 だとしても立ち止まる事は無理だ。 選べない。

 

 ……故に友人を視界から追い出すため、鍵を外そうと手を伸ばした。

 義務も義理も果たしたのだから十分だ。 もうたくさんだ。 許容量を超えてしまう。

 これ以上は、もう耐えられない。

 

「……だから退いてくださいよ、ねぇ。

 わたしはこのままで良いんです」

 

 ──しかし、外野に止められる。

 トウカイテイオーが、ファインドフィートの手首を握り締める。

 

 鍵を開けようにも右手はぴくりとさえ動かない。

 僅かに走る痛みが、その力の強さを物語っていた。

 

「退いてください」

「いやだ」

「──」

 

 ……その返答は予想していた。

 ここまで来て"じゃあ良いよ"、"また明日"と話が終わる筈など無いのだと。

 そんな事、彼女とて分かっていたのだ。

 自分を疑って、傷口を特定して、切り開いて、その上で踏み躙ろうとして居ることぐらい。

 

 けれど、けれど──理解が出来たから心構えも万全になる、などと、等号で繋がる訳がない。

 

 震える唇で、"何故"と問うた。

 彼女自身で判別がつく程の、くだらない愚問だった。

 

「そこまでして何を求めてるのさ。

 そうやって足掻いて得たものに見合うの? キミが諦めてきたモノは」

「何を、言って」

「……ずっと前、ダンボールの中身を捨ててた所ね、見てたんだ。 後ろから」

「…………っ」

 

 手を振り払えない。

 力いっぱい右手を振ればそれで済む。 解放される。

 ただそれだけの話だというのに、硬直したまま動かない。

 

「退いて、ください」

 

 ──それでも、逃げなくては。

 早く逃げて、逃げて、それから──。

 

「じゃないと、わたしは」

 

 それから、どうするのか。

 何をするのか。 何に対して、何をするのか。

 そもそも、何から逃げようとしているのか。

 そんな、まったく当たり前の疑問がふつと湧き上がってしまう。

 

 前提の前提。

 事の頭にあるべき定義だ。

 根拠とするべきはファインドフィートの内側にある核心の部分。

 

 それは──。

 

「諦めたコト、後悔してないの?」

 

 ──考えてはダメだと直感した。

 

 肩が震える。 喉が跳ねる。

 腹の底が凍えてしまう。

 

 それを直視してはならない。

 避け続けた臓腑の中身を、見てはならない。

 

「これっぽっちも?」

「……当然です。 わたしは間違ってない。 だから後悔しない。

 ……それが全てです。 だから、退いてください」

「いやだ」

「だから、あなたは何故──!」

 

 視界が白んだ。

 鼓動を刻む間隔が、徐々に狭まっていく。

 喧しい耳鳴りが響く。

 あらゆる障害を以て目を逸らそうと、彼女の身体が必死に足掻く。

 

 ……ならば、本当に逃避を目的とするのならば、その手を振り払えば良い。

 すぐに部屋から出て、全部忘れてしまえば良い。

 

 彼女の内心には──トウカイテイオーは追いかけて来ないという、奇妙な確信があった。

 故に罰があるわけではない。 故に咎があるわけでもない。

 あらゆる免罪符を得て、その上で逃げ出さないのなら。

 きっとそれは、ファインドフィート自身の選択による物だった。

 

「じゃあ、なんで泣いてるのさ」

「……ちがう」

 

 ……指先から、力が失せて。

 手首も、肘も、肩も、欠片も力が入らない。

 それを脱力を察知した友が彼女を解放して──けれども、再び力を込める事は不可能だった。

 ドアノブからずり落ちて、宙ぶらりんのまま動かない。

 

「本当に、後悔してないの?」

「……わたしは、後悔していません」

 

 声が掠れている。 視界も朧気だ。

 まるで、水中から見る世界のように。

 

「そんなに泣いてるのに」

「……やめて、ください」

 

 そして動けないまま、鋭い言葉に切り刻まれる。

 傷口を切り開いて、ついに、膿の塊に手を掛けられて。

 

 溺れたままの視界の中、自分の身体をかき抱いた。

 そうしていなければ……伽藍堂の頭が今すぐ宙を泳いで行ってしまいそうだ。

 くらくらと、くらくらと、くらくらと。

 思考がぼやけて、足元から歪んで、綻んで──。

 

「これまでも沢山捨ててきたんでしょ?」

「やめて……」

 

 その向こうから、本当の彼女がひょっこりと顔を覗かせる。

 ……けれど、それでも、ファインドフィートは自分の顔を隠せない。 その場から逃げ出せない。

 

「……これからも、そんな顔して生きていくの?」

「…………」

 

 逃げ出せない。

 

「後悔、してないの?」

「後悔、なんて──」

「本当に?」

 

 逃げ出せなかった。

 

「……後悔なんて」

 

 だから、もう、限界だった。

 ズタボロに膿んだ心が破裂する。 拙い防衛本能の論理を破綻させる。

 ずっと行き場を失くしていたのに、だから考えないようにしていたのに。

 

 こうも傷口を抉られてしまったのなら、もう限界だった。

 

「後悔なんて、そんなの、してるに決まってるじゃないですかッ!」

 

 ──叫ぶ、絶叫する。 抑えきれないほど大きな感情を込めて。

 

 それはいつかの墓石に吐き出した、たったひとり生き延びた事に対する怨恨ではなく。

 それはいつかの墓石に染み込んだ、産まれて来た事に対する懺悔でもなく。

 それはいつかの墓石で祈った、己が女神への嘆きでもなく。

 それは彼女の内で閉じた筈の──そのまま表に出ない筈だった後悔。

 過去に捨てた宝物達に捧げる、後悔だった。

 

 ……信じていたのだ。

 どれだけ辛くても、悲しくても、苦しくても、正しい行いである筈だったと。

 だからファインドフィートは己の内心を切り離す事を可能とし、夢を追いかけるだけの機能を保持出来ていた。

 

 けれど、本当の彼女は。

 捨てたモノに対して一切の感慨を抱けないほどに成熟していなかった。 むしろ未だに愛着を感じてすらいる。

 それでも己は正しいと必死に言い聞かせて、幾重にも自己暗示して、目を逸らし続けて──ようやく、一見して正常な精神を保っていた。

 

「ぼく、だって……本当は何も捨てたくなかった! 

 何も諦めたくなかった。 全部全部、大切な宝物だった……!」

 

 だというのに、その小さな努力の積み重ねは無為となった。

 自己暗示で防衛出来る範囲外から頭を掴まれ、強制的に目を合わせられて。

 

 故に、もう止まれない。

 震える唇が乾ききって、喉がカラカラに痛んでも尚止まれない。

 舌の根までは乾いてくれない。

 

 そして──トウカイテイオーに向き直って、腐りきったはらわたを晒す。

 正面から相対する。 瞳と瞳が、意思と意思がぶつかり合う。

 これが今までに避け続けたこと。

 これが、対話のカタチだった。

 

「苦しいことなんて嫌いだ、痛いのはイヤだ……っ」

「……そうだね」

「でも、そんな事よりも。

 姉さんを遺したかった。 無価値なままで終わらせるほうが、ずっと怖い……!」

 

 縋り付くように、泣き喚くように。

 ただ、ただ、溜まっていた膿を吐き出し続ける。

 吐き出す先もなかった言葉は腐りに腐って淀んでいた。

 

 そうして相対する少女の肩に縋りついて青褪めた瞳を見開く。

 仮面は無い。 剥ぎ取られてしまった。

 有りの儘にみっともなく泣きわめいて、偽りのない喉を震わせる。

 

「だって、他の生き方なんて、そんなの知らない。 そんなの誰も教えてくれなかった。

 ひとりで生きていく方法なんて、誰も教えてくれなかった……っ!」

 

 そして、そうして語った呪いこそが、紛うことなき本心だった。

 

「信じて、縋ったって良いじゃないですか! 

 だって、ぼくにはそれしか無かった!」

「そうして、キミを残したかったの? 忘れられないために」

「だって、何も次に繋げなかったら……そんなの命じゃない。

 それじゃあっ、姉さん達の命が無価値だった事になる……!」

 

 いっそ純粋で、狂信にも似た思想。

 あるいは彼女自身の歪んだ過去がそうさせる呪いなのか。

 

 トウカイテイオーは澄んだ表情を動かさず、肩へ寄りかかる少女を受け止めた。

 背に手を回して軽く叩く。 何度も何度も、肺を押す。

 

「だからぼくは姉さんになった、次に繋げるために!」

 

 ……それには、小さく眉を顰めて──しかし、淡々と受け止める。

 少なくとも、ファインドフィートの中ではそれこそが真実で、今までの支えとしてきた信仰だ。

 ずっと信じて来て、そのために他の多くを犠牲にしてきた。

 

 厳粛に贄を捧げ続けたというのに……その過程の時点で過ちだったなど。

 そんなこと欠片も考えたくもないのだ、誰だって。

 だから、血を吐き出すように絶叫している。

 

「……でも、これが間違いだったのですか? 

 それなら、ぼくが正しくないのなら、ぼくが間違っているのなら。

 他に、どうすればよかったんですか……っ!」

「……フィート」

 

 涙が頬を伝い、顎から滴り落ち、悲嘆を形にする。

 歪んだ真円が床の上に寝そべりながら、少女等ふたりを見上げていた。

 

 それを青い靴で踏み潰し、相対する少女に寄り掛かる。

 どうして、どうして、どうしてと、譫言(うわごと)のように何度も何度も繰り返しながら。

 

 どうして、こんなにも苦しい。

 どうして、捨てなければならなかった。

 どうして、自分は他の道を選べなかった。

 どうして、どうして──。

 

「……誰も、誰も教えてくれなかったのに。

 ひとりで生きていく方法なんて、誰も教えてくれなかったのに。

 誰も、ぼくを見てくれなかったのに。 ぼくを、見つけてくれなかったのに」

 

 "他に、何ができたの?"

 "ぼくはあの時、終わっていれば良かったの?"

 ファインドフィートはそう牙を剥いて、苦悩のままに口を開閉する。 喉の奥が拡がる。

 

「……だからぼくは、女神さまに捧げたのに。

 ぜんぶ、ぜんぶ、何もかも」

「……っ」

「まちがい、だったの?」

 

 力なく、跪く。

 立っているのは苦しい。 呼吸しているのも悲しい。

 

 もう八方塞がりだった。

 ファインドフィートの未来は、あるいはファインドフィート達双子の未来は、とうの昔に潰えていた筈だったけれど。

 ……けれど、そのあった筈の死を覆した事が罪で、今の苦悶を心身に刻みつける事が罰なのだとしたら。

 彼女は、この苦痛から逃れる方法を知らなかった。

 

「でも、こんなの、あんまりじゃあないか……」

「……フィート」

 

 沈痛に歪んだ顔で、トウカイテイオーを見上げる。

 青色の瞳に反射する己を見て問いかけた。

 ……その姿は夜闇に惑う幼子にも似ていて、トウカイテイオーの臓腑を小さく逆撫でる。

 

「……キミが、キミの姉さんの為に、自分を捨てて来た事も。

 キミが、自分を蔑ろにした理由も……それを間違いだって決めつけるのは、出来ない」

 

 だと、しても。

 言いたいことは山程にあった。

 伝えたいことが山程にあった。

 そんなもの、胸の奥底からいくらでも湧き出てくる。

 ……しかし、それらに敢えて蓋をして。 青い靴の少女に真正面から向き直る。

 

「だけど!」

 

 視線を合わせて屈み込んだ。 そして、肩を掴む。

 喉がカラカラに乾いていた。 真冬の朝日の中を全力で走り抜けた時のような、鋭い痛みを感じるほどに。

 けれどそれは、彼女の舌を鈍らせる要素にはなり得ない。

 ここが正念場であると、薄っすらと、直感的に確信していた故に。

 

「ボクが友達になったのはキミなんだ! 

 今目の前にいるキミだ! 

 真っ白でポンコツで、抜けていて、寂しがりやな『キミ』なんだよ!」

「────」

「だから、お願いだよ。

 どうか……もう、走らないで。

 キミが何を見ているのか、教えてよ……」

 

 それが、呪いにも等しい祈りだと理解した上で。

 それが、目の前の少女に消えない傷を与えるのだと理解した上で。

 

 彼女はその願いと共に、右手を差し出した。

 いつかの夜道では取られることのなかった手。

 それがまた、ファインドフィートの前に姿を晒す。

 

 トウカイテイオーにとってそれが、友情のカタチそのものだった。

 

「……ぼくは」

 

 じっと口を噤んで、青褪めた瞳で指先を眺める。

 

 正しいことなんて結局分からないままだ。

 彼女には、積み重ねた今までを覆すだけの勇気はない。

 その上に、捨ててきた宝物を思えばこそ──なおさら、止まれないのだと、未だに心底から考えている。

 

「ぼくは、きっと、このまま目を逸らしているべきだった、のに」

 

 もし仮に間違っていたのだとしても、失い切った先に求めるものがないのだとしても。

 それでもそこに救いがあるのならと、疲れ切った頭蓋で盲信している。

 失ったものが取り返せないのなら、せめて──なんて、今でも縋っている。

 

「あなた達が、触れようとしてくれるから。 ぼくを見てくれるから。

 ぼくは、こんなにも……」

 

 ……けれど、けれど。

 ファインドフィートは弱くなってしまった。

 

 手を差し伸べているのは友人だ。

 ファインドフィートの瞳を見つめる友人だ。

 ──考えてしまう。 その想いを裏切りたくない、なんて、今更に。

 

『姉』への願いは変わらない。 信念は歪んでいない。

 けれど、一時の気の迷いだとしても、この瞬間の『彼女』は確かに──そこに、救いを垣間見てしまった。

 

「……テイオー、さん」

 

 今更だ。 今更なのに、手を重ねようと持ち上げた。

 差し伸べられた小さな右手へと、ちっぽけな右手を伸ばして──。

 

「……テイオーさん?」

 

 しかし、それが重なることはなかった。

 

 

 それは唐突だった。

 唐突に、だらりと脱力した少女の身体を全身で受け止める。

 疲労しきった身体がぎしりと軋む。 両脚が痛みを受けて無音のままに絶叫した。

 

「ぐ……ッ」

 

 勢い余った身体をとっさに壁にこすりつけて衝撃を和らげ、ずりずりと床に落ちる。

 胸の中に抱きとめた少女は意識がなく──深い眠りについていた。

 

「テイオーさん」

 

 声を掛ける。 目覚めない。

 肩を叩く。 目覚めない。

 頬を触る。 目覚めない。

 抱きしめる。 目覚めない。

 目覚めない。 目覚めない。 目覚めない。 目覚めない。

 

「テイオーさん……」

 

 いくら起こそうとしても目覚めない。

 そこで──あぁ、と呻きを漏らした。

 

 眠る彼女を見て、察してしまった。

 現実にあり得る筈だったけれど。

 現実にあるべきではないと定義された、夢の終わりの到来を。

 

『──ごめんなさいねぇ。

 少し遅れちゃいましたぁ』

 

 甘い声が響いたのは、目の前。

 そこに美しい女が立っていた。

 裸足で、滑らかな白布を纏った女だ。

 ニコニコと、花より可憐な笑顔を浮かべている女だった。

 

「女神、さま……」

 

 その姿を茫洋と見つめて、喉を鳴らす。

 ひたりひたりと冷たい足音と共にやって来る女に対して、それ以上の何を言うべきなのか。

 鈍く錆びついた思考回路が軋みを上げて駆動して。

 

 ……真っ白に染まった脳内はちっとも変わらない。

 ただ恐ろしいのだと本能が悲鳴を上げて、それ以上先に進めない。

 

 恐ろしくて、恐ろしくて、尻尾を巻くことしか出来ないのだ。

 ほんの数年前の、真白い病室で目覚めた瞬間、自分が消えた瞬間──朝日を浴びた瞬間を、今も覚えているから。

 歩み寄る女の姿を見ているばかりだ。

 

『でも大丈夫。

 私が来たからには──全部、夢だったことにしてあげますから』

 

 女が青褪めた顔を覗き込む。 亜麻色の髪がさらりと流れた。

 けれどそれ以上に言葉を交わすことなどせず、ファインドフィートの瞳の……その奥底を見つめる。

 女のそれは少女の物とは対照的で、無機物のように透明な、仄かな熱を宿す目だった。

 

『燃料は……っと。

 うぅん、感情の方は流石に……効率が悪いですね。 記憶のリセットも含めると負担が大きい……なら、省いちゃいますか。

 そうですねぇ、それが良いでしょう。 今回はそこには手を加えずに……っと』

 

 語る言葉は一方通行。

 返答を期待するものではない。

 ただ事実を確認するだけの、意味を有さない音源再生に等しい物だった。

 

『自己だけで完結する再起はともかく、やり直しの再帰はとても難しい……仕方のない話ではありますが、なんだか腑に落ちませんねぇ。

 昔はもっと簡単に出来たような気もしますが──』

 

 小首を傾げて静止する。

 そのまま過去に追憶を馳せようとして……しかし、次の瞬間にはその一切を切り捨てる。

 

『──いえ、関係ありませんね。

 それよりも……と、(こえ)は流石に重たいですかぁ。

 (しりょく)は言わずもがな。

 なら(しょっかく)か……こちらですかね』

「ぁ……!」

 

 指を伸ばす。 少女の唇へ。

 そして力を込める間も与えず強引にこじ開ける。

 

 ほんの一瞬、瞬きの間だ。

 するりと口腔に侵入して、そのまま舌先を摘み上げた。

 

「ぉ、ぁ……ぅっ」

『ごめんなさいね……。

 これから少ぉ~し大変な事になるかもしれませんが……』

 

 口を閉じることは出来ない。

 後ずさることも出来ない。

 他の経路でも離れることは無理だ。

 

 だって彼女の胸元には、友人がいる。 眠ったままの友人が。

 だから彼女に出来ることは──。

 

『でも大丈夫ですよぉ。

 夢は叶います! 諦めなければ、()()()!』

 

 ──ただ、祝福という名の苦痛を享受することのみ。

 たったそれだけが今の彼女に許されたことで。

 白紙の小切手を差し出した彼女へ、与えられるべきモノだった。

 

()()()()()()()()()()()()! 

 ()()()()()()()()()()! 一緒にがんばりましょうね!』

「ぎ……っ!」

 

 灼ける。 溶ける。 削られていく。

 舌先から、何かが失せる。

 ……それが何かは、分からなかった。

 

 それでも、きっと大事な物だったのだろうと、ようやく自由になった身体で苦悶にえずく。

 忘れかけていた呼吸を必死に繰り返して、破れかけの肺に空気を取り入れる。

 それから落ち着くまで、数分の時間を浪費した。

 

 ……顔を上げる。 胸元の少女を慎重に抱きかかえ、静寂に満ちた一室を見渡す。

 女の姿はいつの間にか消え失せていたが──それはどうでも良かった。

 

「……あぁ」

 

 胸中を満たすのは喪失感だった。

 それはやがて溢れ出し、ファインドフィートの総身を空虚な感傷として這いずり回る。

 失ってしまった物を求めて。 己の舌先にあった物を探して。

 

「そうだったの、ですね」

 

 ……けれど、見つかるはずもなく。

 全身から力を抜き取り、壁に凭れ掛かる。

 不明瞭な耳鳴りが──遠くの空からやって来ていた。 尾を引きながら、滔々と。

 

「前も、きっと、こうして……無くなって」

 

 あり得た筈の未来も、そうして。

 

 ……じっと痛みを堪える。

 奥歯を噛み締めて、胸元の友人をかき抱いて、心臓に奔る熱にただ耐える。

 聞こえてくる穏やかな寝息だけが、ほんの僅かな救いだった。

 

「…………」

 

 ──じりりりりり、と、耳鳴りが聞こえる。 少しずつ、時間を掛けて鮮明になっていく。

 響くそれが金属同士がぶつかり合う音なのだと気付くまでに幾度の呼吸を重ねたのか。

 拍子の狂った呼気を数えるなんて、今の彼女にはあまりにも難しすぎた。

 

「……こうして、消えていく。

 また、()()()、未来を踏み躙って」

 

 ──そしてふと、これが何度目なのか、なんて。

 今となっては意味を成さない疑問を浮かべてしまうけれど。

 当然、今までにどれだけの()()を失ったのかなんて知る術はない。

 失ったことさえ忘れたというのにどうしてそれに理解が及ぶ等と思い上がれるのか。

 

「……ごめんなさい、テイオーさん」

 

 そもそも、それが何であろうと関係ない。

 何があろうと無為な夢に貶められていく。

 

 あった筈の対話も、あった筈の理解も、あった筈の決意も。

 そしてあり得た筈の手を取り合う未来さえ、何もかもが。

 故に思考や思推に意義は無い。

 諸共奪われてしまうのだから、リソースの無駄になるだけだ。

 

 忘れかけていた──あるいは、忘れたかったそれを、思い知らされてしまった。

 

「ごめんなさい……っ」

 

 じりりりりり。 じりりりりり。

 目覚まし時計が鳴っている。

 喧しく、無責任な金切り声で。

 

 

 


離さない。私の子。いとしい子。たいせつな子。私の子。

だれにもあげない。渡さない。絶対に。

あぁ、あいしてる。あいしてる。あいしてる。

 

あいしてる

 

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