じりりりりり。 じりりりりり。
目覚まし時計が鳴っている。 喧しく無責任な金切り声だ。
仄暗い一室の、カーテンの隙間から射す朝日。
その光が突き立つ先に、延々と鳴り続ける目覚まし時計があった。
じりりりりり。
上部のベルが振動する。
連結された二つのそれが、眠る少女の鼓膜を責め立てる。
起きろ、起きろ、はやく起きろと音を鳴らす。
騒がしく、騒がしく、騒がしく、騒がしく──。
「……うる、さい!」
──ばん、と。
少女の手が時計の上部を叩き付けた。
布団の隙間から伸び出た肌は、血の気が薄い白色に染まっている。
その手によってガラスが割れた。 プラスチックが砕けた。
フレームの金属部分が歪んで折れて、中身の部品がばしゃりとまろび出る。
それはさながら弾けた肉の臓物にも似ていて。
……否。 素材が無機物であるだけで、紛うことなき臓物だった。
薄っぺらな朱色が青い虹彩に混じり込み、幽かに輝く。
「……うるさい、うるさい、うるさい……」
そして、頭を抱えた。
ありもしない騒音から耳を塞ぎ、暗がりの中に蹲る。
うるさい、うるさいと虚ろな
鳴り止まない時計の音から逃げ続けた。
耳を塞ぐ。 けれど聞こえる。
頭を抱える。 止まらない。
自分の声で掻き消す。 鼓膜の裏から響き続ける。
じりりりり、じりりりり、と、止まること無く延々と。
つまり、それは幻聴だった。
「やりなおしなんて、こんなの、知らない。
こんなのいらない、ちっとも欲しくない……」
か細い苦悩が零れて。
存在しない時計の音が脳髄へと浸透し、泡立つ恐怖が神経を侵す。
四肢にまでじわじわと伝播していく。
それはやがて、彼女を非現実の海から引き摺り上げて──強制的に、現実の地に立たせてしまうのだ。
正気になって、我が身を見て、自らの
身を捩っても、耳を塞いでも、瞳を覆っても、何をしようと逃げられない。
やり直しという悪夢が、彼女に逃避を許さなかった。
『後悔、してないの?』
「……こうかい、なんて。
ぼくはそんな物のために、死に損なった訳じゃないのに」
『本当に?』
「ぁあ……そうじゃないと、そうじゃないと、ぼくは何なの?
こんなにも……っ」
友の言葉が、彼女の心に石を投げ続けるのだ。
今この瞬間の出来事かと錯覚してしまう程の現実感を伴って、薄っぺらに再生されて。
滔々と、心根に染み渡る。
「……こんなにも……何の、ために?」
忘れなかった。 今回は、忘れなかった。
交わした約束。 勝負の行方と、透き通る青い瞳。
その果てにあるみっともない懺悔は
『そうして、キミを残したかったの?』
『ボクが友達になったのはキミなんだ』
『ボクは──』
鋭くもあたたかい、情の感触。
それが今も彼女を刻み続けて。
しかし、時計の音がそれを掻き消す。
じりりりりと、横から喚いて冒涜する。
何度も何度も何度も何度も何度も、悪夢の色で上塗りして、罪の形を作り上げ──。
「ぅぷ」
横隔膜が、痙攣した。
罪悪感や嫌悪感を感じる度に、吐き気がする。
悍ましい現実の中で呼吸をする度に脳髄が捻れて。
ファインドフィートは、それに抗えなかった。
「ぉ、ぐ」
こぽり。
喉の奥から水音が響く。
こぽ、こぽ、こぽこぷりと、熱い液体が断続的に迫り上がる。
──それが登り切る寸前。 咄嗟に口元を抑えた。
青白い手に汗が滲んでいる。 湿り気を帯びる冷たさが、ひどく悍ましい。
そして、喉頸で堪える為に背中を丸めて──直後、跳ねるように、裸足のまま洗面所へと駆け出した。
「ぎ、ぉぇ……っ」
もう、限界だった。
胃袋の中身を流出させる。
溢れる吐瀉物が喉をこじ開けた。 酸で粘膜が灼け、酷く痛む。
寝起きだからか固形物は何もなく──ただの胃液だけが流れ落ちる。
その最中に酸味も苦味も
それでもその汚濁には、無形の後悔と、失意と、恐怖と、悲嘆が混ざっている。
ぐちゃぐちゃでドロドロ、腐りきった心の膿。
全部全部を吐き出してしまおうと、必死に
「ぁあ……ッ」
吐いて、吐いて、吐いて、吐いて、吐いて、吐いて。
腹の奥底に溜まった何かはどうあっても追い出せやしないのに、延々と吐き続けて。
──今、どれだけの時間が経過しているのか。
ほんの十秒程度の事か。 あるいは十分以上の間か。
今の茹だった頭では簡単な時間の判別さえ付かなかった。
その曖昧な感覚の中、只管に汚物を吐き出し続けて──。
「 、 」
ついには、内部の何処かから漏れた血まで混ざった頃。
ようやく精も根もが尽き果て、嘔吐が止まる。
荒い息で、必死に呼吸を繰り返す。
深く、大きく、長く。
けれど──かつての平静は欠片も戻らない。
そんなモノは無駄だ。 無意味だ。
定型化した動作を繰り返した所で何が変わるというのか。
ファインドフィートはそれを理解しながら何度も口を開閉し、喘鳴を零す。
深く、深く、深く。
何度も、何度も、呼吸をして。
その度に、罪悪感が肺を焦がした。
「……ぁあ、ぅ」
……故に、逃げ場なんて何処にも無かった。
今更の逃避行なんて出来やしない。
生きているだけでもそれらが纏わりついてくる。
その現実が、確かな実感を伴って背中にのしかかった。
形の無いそれは耐えきれない程に重い。
いっそ、信念の背骨が歪んでしまいそうだった。
ぎしりぎしりと音を立てて。
だから、均衡が保たれたのはほんの僅かな間のみだ。
数秒の苦行に耐えかねて──果てには、とさりと軽い音と共に膝をついてしまった。
その勢いのまま倒れそうになって、けれども最低限の理性が身体を律する。
寸前で腕を伸ばし、洗面台にしがみついた。
「…………っ」
止まる。 倒れなかった。
けれど顔が洗面台に近付いてしまった。
故に当然の流れとして、吐瀉物の饐えた匂いが鼻孔を満たす。
鼻をつんと刺激する、精神を穢す匂いが。
……その匂いを嗅いでいると、どうしてか。
どうしようもなく、惨めな気持ちになってしまって。
「ぉぇ」
──そして、また吐き出す。
今度の吐瀉物には、胃液の搾り滓すら混ざっていない。
口の端から垂れ落ちるのは単なる透明な唾液。
粘性を持つそれだけが、てらてらと、長い糸を引いていた。
◆
……それから、それから。
僅かな時間をそのままの姿勢で過ごした。
呼吸がある程度落ち着くまで、惨めな心を抱えて。
それでも殆どの体力を消耗していたから、平常の姿には程遠い。
それでもいつの間にか、ファインドフィートの脳内は静寂を取り戻していた。
少女の声も時計の音も聞こえない。
まったくの無音だ。
「……気持ち悪い……」
……だから、なのか。
ようやく言葉を発した。 か細く、震える声で。
その事実こそが生理的嫌悪感に気付けるだけの──最低限の精神状態を保証する。
必死に身体を動かして、蛇口をひねった。
流れる水を片手で掬い、口に運んで綺麗にゆすぐ。
清潔な水が歯の裏を数度往復し、未だに引き攣る喉頸を抑えて、水を吐き出す。
清潔だった筈の水の中に、僅かな朱色が混ざっていた。
「……」
そして、ぷかぷかと浮かぶ朱色ごと排水口に吸い込まれる姿。
それを無心で見送って、ようやく、長い息を吐いた。
頭の中は未だに晴れていない。
何度も何度も、夢に追憶を重ねてばかりだ。
目が覚めてもなお、吐き出し尽くしてもなお、今この瞬間も色褪せない。
自然な面構えで堂々と、当たり前のように存在を主張している。
……その恥知らずな情は、
「こうかい」
──舌足らずで柔らかな音を発し、単語を彩る。
鼻の裏に空気がぶつかり、透き通るソプラノボイスが微かに響く。
漢字にして後悔。
後になって悔いる事。 決して先に立たない後腐れ。
その、手遅れの有様を表す単語だ。
「こうかい」
透き通る声で舌先を震わせる。
こうかい。
覚えたての単語を繰り返す子供のように、言葉の意味を知らずに用いる愚か者のように。
ファインドフィートが口にする柔らかいそれは、実際のところ、そういう物でしかなかった。
こうかい。
ただ、知ったか振っているだけだった。
何度も何度も、ずっとずっと目を逸らしていたから、本当のところは理解できていなかった。
……理解したくなかったのだ。
排水口の先へ向けて再度、喉を震わせる。
乾ききった唇を、舌先でちろりと湿らせて。
「後悔」
──硬質な音だ。
相対する友の青い眼差しを想起させる、角張った声音。
その言葉の輪郭が確固たる像を結び、音の器を意味が満たした。
「……どうして、こんなにも」
後になって悔いる事。
後になって、手遅れになって、本当はああしていればよかったと悔いる事。
転ばぬ先の杖を持たず、果てを見渡す視座も深慮も有さなかった故の後悔。
それを舌先ではなく、身を以て味わう。
実感と共に理解して、胸を貫く痛みを抱き締めて──。
少女は、逃れることの出来ない熱に身を捩った。
そして、願う。
あの、透明な視線さえ知らなければよかったのに。 見なければよかったのに。
無知なままで、
そう、声にならない絶叫を上げた。
歪んだ願いが叶わないと知りながら、胸を抑えた。
……だから本当に、今更なのだ。
こうして手遅れになって、ようやく気付くなど。
彼女は、その後悔の根源を取り除く事が出来ない。 失ったものを取り戻す術を有さない。
「……ぼくらが望んだ物、なのに。
どうして、こんなにも……」
そして。
自身の脚をそっと見下ろす。 己の命と等価の脚だ。
細く、しなやかで、儚く──それ故に、あっさりと折れてしまいそうな脚。
「もう……終わってしまったほうが、良いのでは?」
虚ろな声音で囁く。 疑問符で結ばれた言葉は淀んだ猜疑心を孕んでいて。
その言葉が表すのは……つまり、自分の手で脚を圧し折る事。
彼女自身の意思で、手渡した白紙の小切手に無効通知を叩き付ける事。
約束を、破る事だった。
「せめて、あるべき姿に……」
足首を片手で掴む。
伝わる感触はやはり、どこか頼りない。
ガラス細工のように脆く、氷のように溶けてしまいそうだ。
故にファインドフィートは仄暗い確信を抱いてしまえた。
"今までに幾度となく過ってしまった思考は酷く正しい物だった"と。
……"今の自分の力であれば、簡単に握り潰せてしまう"と、考えてしまう。
……そんなものは何処までも腐れた思考だ。 彼女はそう自戒していた。
けれど、自戒しながらも……脚を掴んだ。
彼女が今、考えている事は──周囲の誰しもが"どうしてそんなバカな事を"と激怒してしまう愚行だ。
あるいは"周囲"というスケールでなく、"世界"という基準に変更しても同じ事。
それほどまでに、これ以上なく、救いようのない愚かな行いである。
だとしてもファインドフィートは、そんな行いを心底から吟味してしまった。
味覚を失った舌先に転がして──そして、指先に力を込めて。
「……だから、もう」
"ここで全てを投げ棄ててしまったほうが丸く収まる"。
"少なくとも、今ある友をこれ以上は傷付けない"。
"きっと、巻き込まずに済む"。
"何よりも、疲れてしまった"。
──喉の奥底で、そんな弱音が絶叫した。
今までずっと無視してきた想いだった。
どれもこれも単なるノイズで、紙くず以下のゴミだった。
だというのに後悔の情を自覚した彼女は──その弱音を、単なるノイズとして破棄する事が出来ずにいる。
「…………」
それと同時に、理性も囁いた。
"為した所でどうするのか"。
"また無かった事にされるのではないか"。
"また
"それならば、また前に進んだ方が良いに決まっている"。
"だって、自身に偽りなどなく。本当に、夢を叶えたいのだから"。
なんて、いっそ冷酷に。 いっそ無慈悲に。
甘えを否定し踏み躙り、彼女の初志を突き付ける。
「……でも、まだ、消えていない……」
指先が、小さく震えた。
青い瞳を微かに伏せて、胸の鼓動に耳を澄ませる。
一定のリズムで拍動を続ける、大切な
……彼女の初志とは、つまり夢の為に走る事にあった。
走る為の両脚は、二度と消えない名前を刻む為にあった。
"誰でもない誰か"、ではなく。
唯一無二の個として、彼女等が存在した証を残す為に。
「だから、ぼくは、消えたくない。
まだ……消えてないから、消えたくない、消したくない……」
脚を掴んだまま、長考する。
慣れない思考を巡らせる。
終わりたいという思いは、偽りではなかったけれど。
……夢を叶えるために、過去を犠牲にするとして。
ファインドフィートはそれを受け入れられるのか。
見え透いた自問を己に投げかけて──声もなく、是と自答した。
夢を叶えるために、己の傷を抉り続けるとして。
ファインドフィートはそれを受け入れられるのか。
続く自問を己に投げかけて──僅かな
夢を叶えるために、
……ファインドフィートは、それを受け入れられるのか。
そんな、更なる自問を己に投げかけて──是とも否とも、答えを出せなかった。
それが楔だ。 愛おしくも罪深い異物だった。
あるいは……彼女に情が無ければ、迷いという無駄なぞ存在し得なかったのだが。
けれど現実は異なっていた。
だからこうして、天秤に掛けてしまえるのだ。
指がぴくりと跳ね、細い筋が痙攣する。
……そしてまた、考えて。 脚を掴み──。
「……諦められるワケ、無いじゃないか。
そうじゃないと、ぼくは、テイオーさんを……友達を、また……」
──指先から、力が抜けた。
両目の焦点がズレて、指先の輪郭さえ曖昧にぼやけてしまう。
薄闇の中で浮かぶ白に寄る辺など無く、ただ、ふやけたクラゲの如くに佇むばかりで。
「……だから、勝つしか、ない。
でも、じゃあ、それは……どうやって?」
そして、壁に打ち当たった。
当然の流れとして現実という壁が雄々しく立ちはだかるのだ。
「勝つ、方法。
ぼくが、一番になる方法……」
……故に、その現実に勝つ方法を求めた。
基礎スペックの絶対値で劣り、経験で劣り、精神力でさえ敵わない彼女が。
"それでも"とあらゆる障害を踏み越えて、勝利を盗み取る方法を求めるのなら。
それは、何か。
未だにぼやけた視界の中で、言葉の輪郭をなぞった。
足らぬ頭で僅かに考え、浅い思慮を馳せる。
「どう、やって。
どう、したら」
どうやって、どうしたら。
なにを、どうして。
迷いのままに、ぽつりぽつりと呟いた。
どう走れば勝てる。
勝利の道筋はどこにある。
破綻から逃れる、最も冴えた方法とは何か。
……なんて、愚考を重ねて。
思慮を連ねて。 深慮を求めて。
そうしていくら思索を重ねようとも、今のファインドフィートは──どうしても、勝てる気がしなかった。
今日の身体は
間違いなく、過去
「しょうりの、ために……」
けれど、彼女の内心は常に曇りを帯びていて。
それ故に勝利という盃を幻視する事は叶わない。
一番最後に、一番前を走り抜ける姿を想像することさえも。
今は、まだ。