そして結局、ファインドフィートは止まれなかった。
だから、きっと。
未来の為に過去があるのではなく、過去の為に未来があった。
──青が瞬く。
瞳孔が揺れる。 光を受けて拡縮を繰り返した。
そしてもう一度瞬き、ピントを補正して、視線の先の図形を見つめる。
「これは?」
「……右」
「これは?」
「上」
こつり。
響いたのは硬質な音。
細棒がホワイトボードの表面を叩いた音だった。
雑多な書類で溢れたトレーナー室であれど、所詮は書類。
多少積み重なった程度の紙の束では、音を吸収しきれないのだ。
しかし部屋の主たるトレーナーも、その教えを受ける少女にも、両名共に気にした様子はない。
ただ、トレーナーの声に合わせて細棒が踊り、また甲高い音が突き抜けた。
「これは見えるか」
こつり。 幾度目かの音が響く。
棒の先の板には、大きなコピー用紙が貼り付けられていた。
「……右、ですかね」
「よし」
棒が指し示すのは、黒の単色で描かれる図形。
切れ目の入った大小様々な
それに対し、ファインドフィートが切れ目の方向を答えた。
つまり彼女は、視力検査を行っていた。
普段とさして変わりのない、涼やかなソプラノボイスが淡々と響く。
そうしてトレーナー室には二人の声と、細棒による打鍵音が鳴るのみだった。
他の音は何もない。 精々、窓の外から届く風の音程度である。
だからか、ふと思う。 今が夏であれば、もう少し騒がしくなったのだろうか──なんて、ぼんやりと。
例えば、風が窓を揺らす音。 虫の鳴き声。 クーラーの振動音。 扇風機の駆動音。 アイスを齧る、涼やかな音。
それらがこの部屋を満たす空想を浮かべて、ほんの数秒の余暇を潰してみた。
とはいえそんな事をした所で現実では無音のまま。 変化は決して訪れない。
やはり、ファインドフィートのそれは意味のない空想だった。
「……二段下。 これは?」
「…………ん」
こつり。 また別の図形を指し示される。
今度のそれは一段小さい。 それこそ小指の先よりも小さかった。
故に、中々答えを見つけられない。
が、諦めずに片目を隠したままでじっと睨み付けて、目を凝らした。
見て、見て、見て……しかし、定まらない水晶体のピント。
遠近調整の精度がとにかく鈍い。
瞼を三分の一ほど下ろして青の面積を狭めつつ、口の端を引き締める。
それでもやはり、輪郭はおぼろげだった。
「左……?」
「ふむ……次が最後だ。 これは何だ?」
「下……いえ。 左、ですかね」
「よろしい。
左目の視力は1.4……少し、悪くなったか。 とはいえ、まだ平均より上だがな」
左。
それは半ば当てずっぽうの回答だった。
より正確に言えば、当てずっぽうにならざるを得なかった。
だからなのか、ほんの少しの罪悪感と、ほんの僅かな居心地の悪さを感じてしまう。
それらが胸の奥で混ざり、合わさり、ふつふつと、微妙な冷ややかさを醸し出していた。
「少し待っててくれ。 パソコンのほうにも打ち込んでおく」
「……ええ、はい。 分かりました」
目隠しを下げる。 数分振りに両目の視界を取り戻した。
そこはやはり白い部屋。 あるのは雑多な資料やホワイトボード。 そして多様なトレーニング器具。
去年よりも、さらにその前の年よりも彩りを増した空間だ。
……しかしその視界は、細部が微かに霞んでいた。
以前、一週間前と比較すると輪郭が曖昧で、空気と物質が溶け合っているのだ。
「……」
指を伸ばす。
机の上の、コップを撫でた。
きれいな白磁のマグカップ。 青い鳥のマークがお気に入りの一品だ。
すぐ目の前にあるそれは、やはり輪郭が曖昧で。
しかし、感触だけは以前と一切変わらない。
だから、そのマグカップが変化していない事が証明された。
そして、ファインドフィートの視力の変化が立証されてしまった。
実感を伴うそれは、実感を伴う故に疑う事を許さないのだ。
「……トレーナー、どうですか? その……わたしの、目は」
「ん……あぁ、まぁ、特に大きな問題は無いんじゃあないか。 少なくとも、致命には程遠いと断言できる。
どちらかというと各メディアの対応が面倒なだけで……いや、これはキミが気にするべきじゃないな」
「そういうもの、なんですか」
「そういうものだ。 またどこかのタイミングで元気な姿を見せておけば、それで丸く収まる」
「元気な姿……」
求められたのはきっと、最後に見せた姿が
原因は一週間前の天皇賞。
彼女にとっては
優勝を飾ったかと思えば、突然血涙と共に意識を失った彼女へスポーツドクターが駆け寄り、容態の確認を僅かな時間で済ませ、数人がかりで担架へ載せて迅速に運び出して。
そんな無敗王者の様子を生中継で見ていた大勢の人々や、ミホノブルボンたち親しい人々の心境たるや。
ともかく、それ故に話題の中心となっていた。
もしくは、現在進行系で話題の中心となっている彼女はやはり、病院に検査入院する運びとなってしまった。 当然である。
そして、一週間の検査を終えて。
では何故、今もこうして視力検査なんぞに励んでいるのか。
もちろん病院で行われた検査の結果はトレーナーにも伝わっている。
病院で発行された書類をファインドフィートがその手で横流ししたのだから、実際なところ、この視力検査に大した意義はなかった。
「ヘモラクリア……原因は高血圧? たったそれだけで血涙が出るのか?
腫瘍ではなく、ホルモンバランスの崩れでもなく?
そんな事があるのか? いや、あったからそうなんだろうが……しかし、なんとも……」
「……トレーナーでも、分からない事があるんですね」
「当たり前だろう。 トレーナーを何だと思っているんだ……。
……あぁ、しかし本当に問題ないのか? 鼻出血は
しかし、それでも。
トレーナーはどうしてか──嫌な予感が拭えなかった。
言葉にできず、明確な形を持たない、曖昧な感覚が騒ぎ立てている。
その嫌な予感とは、鼻出血の原因も含めての憂慮であった。
「別に、良いじゃあないですか。 細かい事は気にしなくても」
「その細かい事を気にするのが俺の仕事だ」
その鼻出血の原因とは、大まかには二種類に分別できる。
まず、外傷性。
この外傷性であればまだマシだ。
頭部をぶつける等の打撲を原因であり、適切な治療さえ行えば対処できる物。
だが、もう一方の内因性であったなら話は別である。
原因は気道粘膜の毛細血管が破綻であったり、激しい運動による血圧の変化による肺出血など。
その出血は気管を経由し、鼻孔や口腔から流出する。 故に鼻出血と呼称されるものの、実態は言葉の印象よりもなお重篤だ。
特に肺出血──
……トレーナーは、その後者の可能性を危惧していた。
確かに検査結果では外傷性だったと診断されている。
だとしても、それでも、他の要素が手放しで安心させることを許さない。
もしもの万が一が、億が一があっては困るのだ。
彼には彼の目的はあったが……だとしても、子供を踏み台なんぞにしたくはなかった。
「……今の体調は問題ないんだな?
目だけじゃなくて、身体全体でも、だ」
「ええ、はい。 何も……そう、
けれど彼女は、何も問題ないと云う。
平坦な声音で事もなげに返すばかりだ。
少なくとも身体的にはそういう事になっているから、反論することは非常に難しい。
そしてファインドフィートは未だ健康体であるのなら、常と変わらず無敗を目指してゆける。
トレーナー目線で感ずるものがあろうと何であろうと、変わらない。
彼女はその結論を得られただけでも十分だった。
「……無敗、か」
──その目指すべき称号は、もはや皮肉にも似た響きを有しているのだが。
「…………っ」
ぎしり、と奥歯を噛みしめる。
ずんぐりと、喪失の重みが腹の底を貫いた。
それは日を重ねても、寝ても覚めても、ずっと消えずに居座ったままだ。
くらくらと頭の中をねぶる感傷が、ただ、ただ、悍ましかった。
……もちろん、だからといって
今の彼女は紛うことなき健康体だから、膝を折る事なんてありないのだ。
もう疲れたから、とか。 気の迷いで、とか。
そんな子供染みた言い訳は一切使えない。 吐き気がする。
「ん……何か言ったか?」
「いいえ、何も」
「そうか……いや、なら良い」
そして、そうして、表面だけの平常を取り戻して。
後方に置き去りにしたものから、必死に目を逸らして殻を被り続ける。
薄っぺらい虚飾で、簡単に剥げてしまう暗示で、ほんの一時の日常へ回帰するのだ。
「じゃあ続きをやるぞ。
次は逆の、左目を隠してくれ……準備はいいな?」
「……どうぞ」
言われるがままに、左目を閉じる。視覚が半分になった。
半分だけの世界は先程よりも更に酷くぼやけている。
ともかく、これで現実の半分からは目を塞げるということだ。
……そんなものでは、僅かな慰めにすらならないのだが。
「これ、必要なんですか?」
「……必要だとも。 退屈かもしれんが、しっかり頼むぞ」
「これもそういうもの、なんですか」
「そういうものだ。
それじゃあまず、これの方向は?」
こつり。 細棒が乾いた音を打ち鳴らす。
示された通り、視線の先の円環を見た。
ランドルト環がぱっくりと薄い口を開いている。
それは一番上の一番大きな環だ。
である故に、視界のにじみは許容範囲内だった。
「右」
「流石に此処は大丈夫だな……よし、これは」
次に指し示されたのは二段下の環。 半分以下の直径。
……この時点で既に、切れ目の境界が曖昧だ。 陽炎よりは明瞭で、湖面の月より朧げだった。
「…………左、ですか」
「合ってる。
が、見えづらいか」
「少しだけ……そう、少しだけ、見えづらいです」
「そうか」
そんな言葉は、単なる見え透いた強がりである。
彼女自身でも自覚していた。 自覚した上での発言だった。
しかし、彼は敢えて何も触れない。 ただ淡々と口を開くばかり。
正直な所、これはファインドフィートにとっては過ごしやすい温度感だった。
それを意図してなのか、否か。
内面はまったく不透明だが、男は淡々と澄ませた顔で、手元の用紙に文字を連ねる。
そしてまた、棒の先で環を叩いた。
「……上?」
「ん……まぁ、そうだな」
何にしても淡白である。
合っているのか否か、それさえも答えない。
とはいえ、そんなものは今に始まったことではない。 むしろこれが平常運転だ。
だから深くは気にせずに、棒の先の動きを見つめた。
「じゃあこいつはどうだ」
「………………」
──指し示される。
そこにあったのは
……否、実際には切れ目がある。 円環としては成立していない。
それでも彼女の眼に映る物は──確かに円環だった。
「…………………………?」
小首を傾げた。 ゆるりと耳を伏せる。
目を細めた。 光量を絞った。 網膜の像を補正する。
「…………」
けれど、やはり。
どうしても……明瞭なカタチを獲得できない。 歪んでいる。 滲んでいる。
つまりそれは、紛うことなき円環だった。 彼女にとっては。
「……だからドーナッツ、ですかね」
「切れ目はあるんだが……見えないか。
……じゃあ一段上のこれは?」
「…………左?」
「残念、ハズレだ」
しかし現実はいつだって非情なもの。
彼女の視覚と現実の姿をイコールで結ぶことは不可能なのだ。 当然である。
「……右の視力は0.8……と。 病院での検査結果と変化はナシ。
ある意味当然だが……うぅむ」
結論。
ファインドフィートの視力は低下している。
決して致命的ではないけれど、かと言って楽観視は出来ない程度に。
……低く、皮と骨の喉が鳴った。 音の質は呻き声に近い。
手元の書類に視線を落とし、眉間にシワを寄せる。
その真剣な横顔をなんとなしに眺めて、髪の先を指で弄んで。
吐き気が限界に達していたから、何となくを装って椅子に腰掛けた。
そして膝の上に尻尾を乗せて、中空を眺めて時間を潰す。 この状況で彼女にできることなんて何も無いのだから、きっとこれが最適解だ。
およそ三分間。 それはうんうんと呻きはじめてから、呻きが止まるまでの時間だ。
トレーナーはようやく自身の思考を整理し終えた様子で、大きなため息を吐いた。 重く、長く、深い。
……そんな苦悶を聞いていると、どうしてか。
少しだけ居心地が悪くなってしまった。 尻尾を軽く跳ね上げて、ぱさりと膝の上を叩く。
「……やはり、左右差が心配だな。
これは疲れ目を生じさせるだけではなく、平衡感覚にまで影響する……つまり、転倒のリスクが発生しかねないということだ」
「そうなんですね」
彼の声音は普段通り。
淡々と告げて、ペンを机に転がした。
コロコロと、カラカラと。 机の端から中央へ。
その一部始終を見送って──やっと面倒事が終わったな、とため息を吐いた。 開放感を感じる。
なにせ、せっかくトレセン学園へ帰ってきたというのにこれだ。 ここ一週間全体で見ても検査だの何だのとやけに面倒事が多かった。
鬱陶しいそれらが終わったというのなら、実に素晴らしい。
そんな内心を僅かに表に出しながら意気揚々と立ち上がる。
「それでは、トレーニングですね。
病院の先生曰く、運動行為そのものは特に問題ないそうです。
ただし……十全に、慎重に、入念に、準備運動するようにと、すごく念押しされましたが……」
「あぁ……まあ、それはそうかもしれん」
「ともかく、ジャージに着替えて来ます。
あんまりにも動かないと身体が鈍ってしまいますから──」
弾むように、というほど明るい論調ではない。
しかしそこはかとない高揚のこもる言葉を続けながら、学生鞄を手に取った。
ずしりと重たいそれが手首へ微かな負荷をかける。
中身はもちろん着替えとタオルとスポーツドリンク。 トレーニングの必須用品だ。
元々、検査が終わり次第トレーニングを開始するつもりだったから、事前の準備は入念だった。
「いや、待ってくれ。 今日はもうこれで終わりだ。
早めに帰って休んでおいてくれ」
──しかし、その所作を咎めるように。
彼は無機質な声で、宥める言葉を口にする。
今日の用事は済んだのだ。 あとはこちらで調整するから、と携帯端末を手に取った。
「……それは、何故?」
「まだ疲労が残っているだろう。
肉体的にも、精神的にも。
だから……そうだな、今日と明日は何もせずにゆっくり休むと良い」
その言葉は、きっと、正しい意味で構成されている。
彼はファインドフィートの身体を労っている。 彼女にも理解できた。
彼は無意味に遠ざけようとしている訳ではない。 彼女にも理解できた。
……理解できた、けれど。 だからといって許容はできない。
理屈は理解できるが、しかし。
その理屈に納得できるか否かは、全く別の話だった。
「休み、なんて……そんな物、いらないです。 だって、この一週間は何も出来ていないじゃあないですか。
ですからはやく、トレーニングにいきましょう」
──そうでなくては、また負けてしまう。
それは忌むべき物だ。 それは恐ろしい物だ。
言葉もなく、鉄仮面の裏で静かに絶叫して。
故に彼女は、休息を拒むのだ。
そうした言葉の後にしゃっくりが零れて。 焦燥感が滲み出して。
それらに釣られた罪悪感が、ひょっこりと顔を覗かせた。
「……もしも、手が空いていないのなら、今日は自主練習をしますから。
だから、簡単にでも良いんです。 練習用のメニューをください」
「いや、ダメだ。 今日は休み。 休養日だ。
疲労はしっかり取らないと──」
「──イヤです。 メニューをください」
「だからな、今日はもう」
「お願いします」
もう休息は十分だ。 ファインドフィートは健康体だ。
だから走れる。 だから走らなければならない。
彼女は心の底からそう信じ切っていたし、その選択が必要なのだと強く確信していた。
頭を深く下げて、視線を床に固定した。
そして、血を吐くような声音で願う。
「わたしは、このままでは勝てない。
勝たないといけないのに、勝てないんです……」
つまり、彼女は恐ろしかった。
負けてしまえば誰かを踏み躙る。 そんな未来が、酷く恐ろしいのだ。
「わたしが、一番速くなければ、きっと」
「……キミは勝ったばかりじゃないか。 なのに何故?
何故このままでは負けると思った? 何を焦っているんだ?」
「それは……」
確かに、今までファインドフィートは勝ち続けてきた。
それは、何故出来ていたのか。
もちろん、今まで走り続けてきたからだ。
だというのに、備えもせずに停滞する?
ありえない。 そんな事、出来る筈がない。
走らなければ、きっと腐ってしまう。
四肢の先から血流が停滞し、熱を失い、淀み、腐る。
それはやがて毒となり、心臓までもを焼き尽くす。
そう、彼女はそんな錯覚まで抱いていた。
甘えは、脆さを導く。 脆さは、弱さを表す。 そして、弱い者は親しい誰かに縋ってしまう。
決して許されない事である。 だから走らなければならないのだ。
そして、何処までも逃げなくては。
逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。
敗北から、喪失から、逃げて。
──次こそは、何も失わずに、なんて。
願うことすら烏滸がましいのかもしれないのだとしても。
誰の耳にも聞こえないほど小さな声で、微かに囀った。
「……いいえ。 何かがあった、訳じゃないんです。
何も、何も、ありませんでした。
けれど、だから……今のままじゃ、足りないのです。
お願いします。 わたしは、走らないといけない。 もっと速くならないとダメなんです」
更に深く、頭を下げる。
彼女に知識はない。 今までのトレーニングだって全てトレーナー任せだった。 自主練習のメニューなんて作成できない。
これは、そんな彼女の初めての口出しだった。
故にトレーナーも、ほんの僅かな動揺を表に出していたけれど。
しかしその訴えを受け入れるか否かは、また別の話で──。
「…………ダメだ。
今日は休み。 変更はなし。
ほら、これで甘いものでも買ってきなさい。 ミホノブルボンの分にも使っていいから」
「トレーナー……っ!」
「今後のプランは追って連絡する」
至極まっとうな倫理観で、自然な流れの考えで、いともたやすく棄却する。
その選択は正しかった。 一面から見れば、確かに正しかった。
「……トレーナーは、なぜ」
けれど反対側の彼女から見れば決して認められない決定である。
別に、ささやかな物でも良い。 "少しずつでも速くなっている"という実感さえ得られたなら、それで良い。 常と比較したら些細な、それっぽっちの実感で納得できたのだ。
だから否を唱えたい。 彼の決定を認められない。 認めたくない。
……であれば、言葉を尽くすべきだ。 意思をぶつけ合うべきである。
求める結果は明瞭で、あるべき過程も明らかなのだから。
──しかし、それでも。
彼女は、そのための言葉を持ち合わせてはいなかった。
「……わたしは、それでも……」
喉が詰まる。 舌鋒はなまくらだ。
吐息としゃっくりが漏れるばかりで。
故に彼女は、説得できない。
何も言えない。 何も、言葉を有さない。
つまり、トレーナーの意思を覆すことは出来ないということで。
自主練習を禁じられたという結果に、変化はないままだ。
「まぁ、色々と焦る気持ちはあるのかもしれないが……そんな今だからこそ、しっかりと休めよ」
「……はい」
◆
──そして一度、帰路へついた。
同胞達で賑わう玄関を越え、階段を登り、自室のドアを開いて、鞄をその場に下ろす。
……それから一呼吸を置いて、ただいま、と言葉を放り投げてみた。
しかし、おかえりとは返ってこない。
それは当然だ。 そもそも部屋には誰もいない。 空っぽなのだ。
相方たるミホノブルボンは地方へ出張中。
それは病院で見舞いに来た本人の口から聞いたのだから、疑いの余地はどこにもない。
故に、今日と明日のファインドフィートはひとりぼっちだ。
その癖に懲りもせずにもう一度、ただいま、と言葉を放った。
行く先は想定していない。 受け取る者は誰もいない。
だから無意味に消え失せるだけ。 ほんの僅かな時間だけ滞空し、一瞬の痕跡を残すのみ。
それだけだった。
「……はぁ」
ため息を、一つ零す。 目を瞑る。
……そして一呼吸の後、目を見開いて、自分用のクローゼットを開いた。
中にあるのはレパートリーの少ない私服と替えの制服、多くの運動着。
そのうちのワンセットを手にとり、ベッドの上に放り投げ、手早く衣服を脱ぎ去った。
そしてスポーツ用の運動着へ着替えてしまう。
もちろん、スポーツ用といえば赤いジャージ。
すっかりと、私服より着る機会が多くなってしまった。
それから続けて手に取ったのは、青い運動靴。
普段遣いではない予備の品だ。 ピカピカの合皮が靴の年齢を無言で、誇らしく語っている。
これを手に取ったのは、何のためか。
無論、走るためだ。
「…………よし」
シューズ袋に入れて、鞄も一緒に抱えて。
寮の玄関口へ移動して、万が一にも顔見知りと鉢合わせないように手早く靴を履いた。
足の甲が少しだけ苦しい。 しかしそれを誤差の範囲として許容する。
普段であれば多少の調整を行ったのだが──その違和感を気にする間すら惜しい。
とにかく、早く移動したかった。
それはトレーナーへ何も告げていないから、でもある。
何も言わずに自主練習へ赴こうとしているから、人伝に伝わることを恐れていた。
そして、それに加えて──正直なところ、トウカイテイオーにも会いたくなかった。
否、正確には顔を見せたくなかった。
会いたい、という思いはある。 また言葉を交わしたいと思う。
しかし、それでも、罪悪感が彼女の顔を奪い取るのだ。
「…………」
そろり、足を差し伸ばす。 こつり、蹄鉄の音が鳴る。
周囲にいるのは複数名の女学生。 幸いながら、親しい人は誰もいない。
誰も彼も、精々が会釈を交わす程度の仲だった。
だから今回も軽く会釈をして、それだけ。
うまくやり過ごせたことに胸を撫で下ろして、外へと足を踏み出した。
これは言ってしまえば、ささやかな──本当にささやかな、微かな反抗だ。
産まれて初めて、誰かの意に逆らっている。
……ひどく、恐ろしい。
未知は何時だって目を塞ぎ、見えざる恐怖を幻視させる。
そしてこの選択もまた──やがて、失意の手で肩を叩くのかもしれない。 振り返った先の顔がどんな形をしているのかなんて、想像することすら恐ろしい。
「……ふぅ」
知っている。 理解している。
自身の行いは、いつだって、正しくあれない事を理解させられた。
けれどファインドフィートはこれを選んだ。
それは何故か。
答えはきっと、敗北という記憶を持ち越した故に──勝利への執着が、恐怖を、罪悪感を捻じ伏せていたからだ。
トウカイテイオーに刻まれた記憶が愚かな堕落を許さない。
だってファインドフィートは、差し伸べられた手を振り払ったのだ。
友情を、献身を、無償の愛を踏み躙った。
それをなかった事にして、"無駄な行いだった"と忘れる、なんて。
そんな愚行を許せる筈がない。
だから、この喪失をも糧にする。 更に大きく飛躍しなければならない。
あの喪失は無駄な物ではなかったのだと、必要な事だったのだと、胸を張って誇れるように。
向こう見ずな
何時だって、未来は過去への貢ぎ物だ。
置き去りに
故に彼女は決して止まれない。 決して変わらず、変えられずに。
そうして、芝を蹴る。 大きく加速するために。
あまり使わないシューズだからか、足元の感覚が中々馴染まない。
足の甲が僅かに窮屈で、生地が若干硬すぎる。
……けれど、それだけだ。
その程度は時間が解決すると確信していた。
何せこの靴は、とてもいい靴なのだ。
いつかの日、ミホノブルボンとトウカイテイオーの友人二人と共に選んだ青い靴。
メーカー製の量産品であれども、僅かに安っぽい作りであれども、
そういういい靴は、いい場所に連れて行ってくれると云う。
ヨーロッパの古い言い伝えだが、もちろん根拠はない。 科学的でもない。
しかしそういう迷信じみた信仰が現実にあって、ファインドフィートも知識として知っていた。
だから、という訳ではないけれど。
彼女にも、いい靴を履いていたいという拘りがあるのだ。
それは何も装蹄師の
……いい靴は、いい場所に連れて行ってくれると云う。
とても素晴らしい言葉である。
そもそもいい場所とは何処なのか。 連れて行ってくれるとは何か。 そんな事も分からない。
しかし何であれ、いい場所へ辿り着けたのなら──逆説的に、この靴は"いい靴"なのだと保証される。
その結果さえあれば過程の尽くを価値あるものに変えられるのだと、はるかな過去が保証してくれるのだ。
──ならばそれは、人生とて同じこと。
良い結果さえあれば失った過去も、夢へ消えた想いも、無価値では無くなる。
正しくなかった彼女でも、正しくなれる。
「ふ……っ」
だからこうして、鋭い呼気を吐く。 痛い。
また大きく息を吸う。 苦しい。
そして、一歩を踏み出した。
"いい靴"を履いて、もっと前へ。
靴に合わせて、身体を歪ませて、どこまでも、どこまでも。
ファインドフィート
消えたくない。 報いたい。
その一心だけで走ってきたけれど、なんだか疲れてしまった。
生きていても苦しい事ばかり。 つらい事ばかり。
……けれど、それでも。 あの日、みんなに置いて行かれてしまったから。
だから、前へ。 もう一歩、崖の先へ。
ミホノブルボン
止めなければ、と思う。
自分達は強い身体を持つが、それに釣り合うほどの頑強さを有さない。
スーパーマンのような超人にはなれないのだ。
だから、本当に壊れる時はあっという間。
……しかしだからと言って止めてしまえば、心が壊れてしまう。 壊してしまうのだと、半ば確信していた。
つまりこれは、その先は、身体を取るか、心を取るかの二択である。
その究極の二択を選ぶには、彼女は未だに幼すぎた。
トウカイテイオー
究極の二択を選んだ。
しかしその結末は夢と消え、少女の心へ癒えない亀裂を刻み込んだ。
ゴールドシップ
面白きこともなき世を、面白く。
ただ、それだけ。 それだけを求めていた。
バカみたいに笑って怒って泣いて、また笑う。
いつもそういうバカでいられるぐらいが、イチバン丁度いい。
『王冠』
三女神とは三女神。 三柱揃って三女神。
一つが腐れば他も腐る。 一つが堕ちれば、他も堕ちる。
だから元々空っぽだった彼女には、あまりにも刺激が強すぎる。
けれども、与えることは出来たから、彼女は正しく女神だった。
『海』
三身同体。 三位一体。
故にこそ、引き摺られて力を失う。
空には帰れず、海底にも還れず、石像にすら戻れない。
しかし、それでも義務はあったから、彼女は正しく女神だった。
『太陽』
愛している。
ただそれだけの感情を理解した。
ただそれだけのために、ヒトに歩み寄った。 灼熱の指先を伸ばした。
そうして女■は、初めて欠陥品になった。