日を重ねるたびに、少しずつ視界が広がっていく。
手を繋げる先を欠いたままだというのに、異なる時間を過ごす。
異なる物を目にする。 異なる世界を生きていく。
だから結局のところ、ファインドフィートはひとりなのだ。
"一緒にいる"なんて言葉は、比喩以上の意味を有さなかった。
けれど、それでも、なんて。
愚かにもそう願ってしまったから、今がある。
朝が来た。
目を覚ましたファインドフィートが最初にすることは、枕元を見ることだった。
瞼を押し上げて、眠気がこびりついたままの頭を持ち上げて、右ななめ後方へぐるりと視界を回す。
そして、そこにある物が何の変哲もないただのデジタル時計であることを確認する。
青色のフレームと、黒いディスプレイ。 そこに浮かぶ、薄暗い緑色の数字。
本当に何の変哲もない、ただのデジタル時計である。
たったそれだけの事実を確認して──彼女はようやく、呼吸を再開できる。
何せ、デジタル時計には秒針がない。 ベルもない。 だから金切り音は鳴らせない。
その事実が、強い安心感を齎してくれるのだ。
「……くぁ」
こうしてまた、一日が始まった。
ファインドフィートが退院して、トレセン学園へ帰還してからの二日目。 ミホノブルボンは未だに居ない。
起き上がりながら横のベッドに視線を向け、その事実を確認する。
そして、知らずのうちにため息を吐き出した。
けれどそれは、どうしようもない事である。
ミホノブルボンという少女はアスリートとして不動の地位を有しているが、故にこそ、多くの
それは持つ者になったが故の義務であり、責務であり、生業のようなもの。
そう、軽く頭を振って自分を納得させた。 ぱさりと、白い髪が顔を叩く。
しばらくの間先輩の手入れを受けていない故に、少しだけ痛んでいるようにも見える。 微かに心がささくれた。
……だからと言って、今すぐどうこうできる物ではないのだが。
それでも夜の行動予定にヘアケアを組み込んだのは、せめてもの足掻きだった。
「……はぁ」
──しかし、こんな事にかまけてばかりではいられない。
朝というのは存外やることが多いのだ。
手始めに寝巻きから制服へと着替えて、黒いニーソックスを膝裏まで引っ張り上げる。
次に顔を洗い、髪を梳いて、歯を磨き。
鏡の向こうの自分を、
それからようやく、朝食を済ませに掛かった。
「今日は……まぁ、これで良いでしょう。 何を選んでも大差はありませんし……」
収納棚を開いた。 大胆な両開きとして内部をざっと見渡す。
それから大して時間を掛けずに目当てのものを見つけ出し、ひょいと拾い上げた。
それは所謂、ブロック型の食品だ。
片手で持てるサイズの箱に入っていて、箱一つにつき個包装の袋が二つ。
分けて食べることも可能であり、サイズ的に持ち運びも便利。
忙しい日々を送るトレセン学園生には大助かりの素晴らしい品である。
「……」
ぱさりと、軽い音を立てて開封する。
ひょっこりと顔を覗かせたのは、分厚いビスケットのような──茶色で長方形のブロックだ。
見た目からして味気はないが、その代わりに栄養満点。 二つ合わせて3000キロカロリー。
朝食としてはやや物足りないが……不可という程ではない。
ひとつ残念な点があるとするなら、それはビタミンバランスは微妙な事か。
色々と都合が良いことは確かだが常食には向かない。
「ん……」
それを、口いっぱいに頬張る。
そして中の水分をまるごと奪われながら、もそもそと咀嚼する。
パッケージに曰く、チョコレート味だ。
それは彼女の好む物だったが……やはり、味はしない。 固形の空気を
とにかく、時間を掛けて食べたい物ではなかった。
つまりある程度まで噛み砕いたら、コップ一杯の水で胃の中へ流し込んでしまうのが一番良い。
「んぐ……っ」
コップ一杯の水と共に、こぽこぽと食道を通る。 そして間を置かずに胃袋へ到達した。 少し重たい。
完食するまでに同じ工程を四度繰り返すのは、それなりの手間だった。
それからようやく登校を──とは、いかない。
次に、一日の予定を立てるために携帯端末を確認する。
授業の準備やライブのレッスンはもちろんだが、何よりも重要なのはトレーニングだ。 というよりも、トレーニングの予定を立てる事さえできるのなら他はどうでも良い。 最終的にレースで結果さえ残せば、多少の粗は補えるのだから。
そう勇みながらもメッセージアプリを開いて。
そして己のトレーナーから伝えられたスケジュールが"休養日"であることに、強く落胆した。
……故にファインドフィートは
そうと決めてからの行動はとにかく早い。 メッセージアプリを開きながら目当ての名称を探し出し、併走トレーニングを申し込む。
幸いにも、近過ぎず、遠過ぎもしない、丁度いい距離感の相手が存在していたが故の行動速度だ。
なにせ、1ヶ月後には宝塚記念。 手前には
加え、前回出ることのできなかったウイニングライブの補填──イベント事にも出る必要があった。 レースには直接的な関係はなくとも、必要な行事である。 彼女の心情はともかくとして。
……何にせよ、無駄にしていい時間は何処にもない。 ファインドフィートは、それを是と出来るほど
少なくとも、彼女の目線ではそうだった。
「……もう、こんな時間ですか。 授業には遅れないようにしないと……」
だから、学校の授業というのは無駄な面倒事の代表例である。
ファインドフィートに必要なのは最低限の知識のみだというのに、学園側はあれもこれもと学習の機会を押し付ける。
一般的なカリキュラムで学んだ所でどうしろというのか。 それが何の役に立つのか。
やれ因数分解だの、古典だの、生物学だのと……使うタイミングをまったく想像できないのだ。
けれどヘタに拒否してしまえば、それはそれで面倒事に発展する事も理解している。
補習であったり、追試であったり、どれも練習時間を奪うイベントばかりだ。
だからこそ、彼女は辛うじて──本当に辛うじて、最低限のモチベーションを保って授業に臨むことができていた。
その状態でも平均付近の成績は有しているあたり、頭が悪いという訳ではないのだが──。
「……意味なんてないのに」
──その内面を明らめたとしても、これから先の動きに変化はない。
ともかく、朝の身支度はそれで完了だ。
今日の予定は午後の三時まで一般教養の授業。 それから自主練習。
そして夜にはとある相手と併走トレーニングを行い、夜が更ける寸前には眠りにつく。
完璧なスケジュール管理だ。 誰に誇るでもなく、小さく胸を張る。
そうしてひとり、教室へ出発し──。
「っと……忘れる所でした」
──出発、する前に。
いそいそと部屋の中央を横切り、窓辺に置いたじょうろを手に取った。 小振りな青色のじょうろだ。
ついで傍らのペットボトルを掴み、中身の清水をじょうろに注ぐ。
水量は──数字としては決めておらず、とりあえず軽く揺らして"とぷり"と鳴ればいい塩梅の合図だった。
とく、とく、とくと水柱を立てる。 その間、数度の深呼吸を繰り返す。
その回数に五を掛ける鼓動を重ねた頃が、大雑把な頃合いを示す目安だ。
そして、じょうろを軽く揺らす。 "とぷり"と、小さく腹を鳴らした。
つまり、厳密な意味合いでもいい塩梅である。
「……はやく、大きくなってくださいね」
声をかけながら、水をやる。
受け止めるのは窓辺に置いた植木鉢。
植えられているのは白いアネモネ。
それを毎日の習慣として、丁寧に世話を続けていた。
そのおかげもあってか、白く優雅で大ぶりな花弁を開いたのだが……今となっては、少しばかり水々しさを失っている。
が、そもそものアネモネの開花時期は二月から五月まで。
そうと考えればまったく不自然ではなく、ある種の寿命として納得できる。
……それにこの花が枯れたとしても、そこで終わりではない。
ファインドフィートは、このアネモネを増やすつもりだった。
所謂"分球"と呼ばれる手法を用い、球根を分けて、増やす。
今となっては数少ない、楽しみにしている目標だ。
しかし、さて。
この花も、知識も、
水を注ぎ終わってから、ふと考え込んだ。
彼女は、自ら進んで花を育てる気質ではない。 他ならぬ彼女自身が知っている。
当然、それにまつわる知識なんて有していない、筈だった。
……けれど今のファインドフィートは花を育てられている。
だから急に、気になってしまったのだ。
何故、どうして。
誰が、何のために。
それらの断片を求め、記憶の海を探せど探せど見つからない。
ぽっかりと穴が空いたように、何も思い出せない。 空白地帯はあまりにも広すぎた。
そして生憎と、その理由には心当たりがある。
自身の首筋を撫ぜ、舌先──つい最近失ったばかりの味覚の残骸で、唇をちろりと舐めた。
……つまり、
「なら尚更、しっかりと増やしてあげないと……」
そう、自分の中で疑問を出して、自分の中で完結させて。
ファインドフィートは、白い花びらを視線でなぞった。 それは枯れかけでありながら、美しい生命の息吹を感じさせてくれる。 だからこの花はきっと、ここで生きているのだ。
「……。
よし……これで本当の本当に、準備万端ですね」
惜しむでもなく、滔々と囁いて、少女は再び鞄を取った。
そしてドアへ歩み寄る。 取手を握る。
一呼吸の後にまた、僅かに振り返って──小さく、微かに、唇を震わせた。
「……行ってきます」
行ってきます。 それと対になる言葉は"行ってらっしゃい"、だろうか。
当然、そのような返事は掛けられない。 そんな物がある訳ない。 この部屋で目覚めたのはファインドフィートだけなのだから。
その幼いソプラノボイスがただ、壁に染みて。 床に染みて。 棚を撫でて、ベッドを舐める。
……それだけだ。
それだけが現実だ。 返ってくる物は何もない。
だからここは、彼女の家ではなかった。
◆
──そして、昼。 教室にて。
「──であるから、メンデルが遺伝の規則性を発見したわけなんですねぇ。
では45ページを開いてください……ええ、45ページ。
開きましたね? 結構……ではまず、最初の見出しを見てください。
エンドウ豆の写真があるあたりですね。 メンデルはこのようなエンドウ豆を何世代にも渡って観察し──」
窓の向こうから日差しが射す中、目を細めて黒板を眺めた。
視線の先ではチョークが踊っている。 縦横無尽に走り回り、あれやこれやと規則的に停止と始動を繰り返す。
そうしてカツカツと音を立てて、白い文字を綴っていた。
合わせて垂れ流される講釈をノートに書き記して、教師の声に耳を傾ける。
ベテランの女性教師である彼女は年若い女学生の相手も手慣れている様子だ。
可能な限り飽きさせないよう工夫を凝らしていることは、受ける側のファインドフィートでさえもよく分かる。
例えば、話のテンポ。 例えば、合間に挟む小話。 例えば、とある教師のちょっとしたミスの話──というのは、少しばかり可哀想だったが。
……だから、申し訳なく感じる。
彼女にとってはそれでも、眠くなりそうなほど退屈な時間だった。
こんな知識があった所でどうしろというのかと、また大真面目に考え込んでしまった。
例えばこれがスポーツ生理学であったり、栄養学であったり、そういう
けれど一般教養に関しては、使う場面をとんと想像できなかった。
「──」
指の背にペンを乗せて、くるりと回す。 集中できない。
授業は進む。 時間も流れる。 彼女が何を考えていようと止まらない。
ならば、どうせなら自主練習のメニューでも組んでしまおうかと、ふと思いついて。
経験則だけを頼りに、ペンをぎこちなく走らせ始めた。
書いて、止まって、書いて、止まって。 幾度となく停止と再開を繰り返しながら思考を凝らす。
教師の声と、ペンの芯が削れる音。
黒板にチョークがぶつかる音と、時折交ざる少女たちのささやき声。
静寂の中に微かな喧騒が混在する曖昧な空間。
ファインドフィートもそれを構成する一片となり、黙々と手を動かしていた。
見つかれば叱られてしまう可能性はあるが、しかし、結果さえ良ければそれでいいのだ。
結果さえあれば、その過程の正当性を主張できる。
だから、何も問題はない。
◆
夕方になった。
12時間制で表すと午後の6時。
24時間制で表せば18時。 いわゆる逢魔ヶ時である。
授業終了後、自室へ荷物を置いて運動着へ着替えて。
ファインドフィートは最低限の荷物だけを抱えて、学園外へ続く校門の傍らに立ち尽くしていた。
そこは物陰にあたる部分である故に、然程目立たない良いポジションだった。
それからは特に何をするでもなく、薄ぼんやりと空を見上げた。 美しい、黄昏色の空だ。
姉の瞳の
少女は、この混ざり合う空の色が好きだった。
そんな空を仰いで、胸を張って。
背中を外壁に預け、僅かな時間だけ立ち止まって──ふつふつと、脳裏を焦がす熱に蓋をする。
必要な事であるなら、私心の一切は踏み潰すべきなのだから。
「……まだ、ですかね」
携帯端末を取り出し、メッセージアプリを開いた。
履歴欄の一番上からは意図的に目を逸らし──二番目にある名前を叩く。
メッセージの最新発信日時は今日の朝。 内容は併走トレーニングのお誘い。
その指定時間は今から十分後だ。 故に、相手は未だ表れず。
つまり今の彼女は、完全に手持ち無沙汰だった。
出来ることと言えば、空を仰いで流れる雲を眺める程度。
自由なそれらを視界に収めて、何もせずに立ち尽くす。
──立ち尽くして、それからほんの数分後の事だった。
がさり、と土を踏む音が鼓膜を叩く。
断続的に連鎖するそれは発生源を変えて、少しずつファインドフィートのもとへと近付いてきた。
反射的に耳を揺らして、音の質を検めてみる。 それは待ち合わせ相手──マンハッタンカフェのものだ。
思っていたよりも早かったな、とか。 最初に何と言おうか、と、つらつらと考えつつ、音の発生源へと視線を向けた。
「……?」
……しかし、どうしたことか。 その先には、誰もいない。
そこには普段通りの光景……つまり、道の脇の茂みがあるばかりだ。
探していたマンハッタンカフェの黒い姿は、どこにも見当たらない。
聞き間違え、だったのか。
あり得ない事はではない。 もしかすると、何処か疲れが溜まっているのかもしれない。
そう考え、ため息を一つ吐いた。
そして視線を元の真正面へと差し向け──。
『こんにちは』
──ひゅ、と喉がひきつった。 単純な驚愕で。
いつの間に近付いていたのか。
すぐ目の前から声を掛けてきたそれは、驚くほどに黒かった。
一瞬、影がヒトの形をとったのかと──ヒトではない怪物が現れたのではないかと、心の底から冷え込んでしまうほどに。
が、次の瞬間には肌の白色を見つけることができたから、辛うじての平静を取り戻す。
ただ、腰よりも長い
頭頂部には白色の髪の毛が垂れているし、肌は白く、制服の色は紫系統で、装飾も黒ばかりではない。
だからそれは決して、黒一色の人形ではない。
そこに気付いてしまえば、すぐにそれが少女の形をしていて、見知った人物の装いである事も理解できた。
……しかし、胸の動悸は中々収まらない。
「こん……にち、は……?」
それに、どうしてか。
その姿を見ても──記憶の中にあるマンハッタンカフェと、等号で結びつかない。
何故だろう、と首を傾げる。
そしてもう一度、黒い姿を見た。
その足元を見て。 ほんのちょっと視線を上げて、顔に視線を向けて。
そこでようやく──"ああ、お月様が見えないからか"、なんて。 口の中だけで小さく呟く。
綺麗に輝く双眸の金。 それが前髪の黒に隠されて、ちっとも見えなくなっていたから。
だから目の前の少女と記憶の中の少女が結びつかない。
「……いえ、失礼しました。
ええと……その、今日は急なお願いをしてしまって申し訳ありません」
それでも。
事の流れからして、目の前の少女はマンハッタンカフェの筈だ。
『…………』
「えっ、と……カフェさん……?」
──が、相対する少女は何も言わない。 動きもしない。
暗がりの中に立ち尽くすばかりだ。
ひゅうひゅうと風が吹いているのに、その長髪さえ微動だにしていない。
毛量には大差のないファインドフィートの髪が、揺れているにも関わらず。
「…………カフェさん?」
その、事実に気付いてしまって。 ひやりと、背筋に冷たい熱が籠もる。 尻尾の毛がほんの少し逆立つ。
無意識のうちに腰を低め、歩幅を大きく開いてしまっていた。 すぐにでも駆け出せる体勢だ。
それを何故か、と疑問に思いはしない。
ただ、大きな吐息を漏らした。 くるる、と喉が鳴る。 まるで獣のように。
つまりこれは、本能的な恐怖による防衛反応だった。
『────』
そんな警戒を。 否、怯えを知ってか知らずか。
その黒い少女はただ、ぬるりと足を踏み出した。
力強く、有無を言わせぬ圧を伴って。 しかし、そこにあるべき足音が存在せず──。
──
流れるように後方へ身体を投げ出し、体幹の力で強引に姿勢を整えて、初動から最高速へ到達する。
『顔、よく見せて』
否、不発だ。
そうして逃げ出そうとした彼女はしかし、肩を掴まれ封じられた。
行動の起点を潰し、過程を遮断する。 そうしてしまえば誰であろうと動けなくなる。 まったく道理である。
「……っ」
が、道理も通理もどちらだろうと、それらを解する余裕など今の彼女に存在しない。
頭の中が真っ白に染まる。 思考が停止した。
ファインドフィートはその場に縫い止められ、固唾をのんで、見えない顔を見つめ返すことしか出来なかった。
ずい、と寸前にまで寄せられた顔を。
こんなにも近付いたのに、まったく見えない顔の中を。
「……あな、たは」
ただ、見つめ返す。
相対する少女がどんな顔立ちで、どんな目をしているのか、欠片すら把握できないのに。
これは誰なのか。 何故、マンハッタンカフェと見紛うたのか。
分からない。 分からない。 分からない。
これが良いものなのか悪いものなのかも分からない。
これが未知の存在である事しか、分からない。
理解できないままで時間が流れる。
理解の及ばぬ内に、理解の及ばぬ少女が、ファインドフィートの顔を覗き込んで。
できるのは、ただ、蛇に睨まれた蛙のように固まることだけ。
『娘、孫……違う。
……たぶん、ひ孫?』
「…………は……?」
──けれども、危害を加えられる様子はない。
その黒い少女は風のような声音で語るのみだ。 ひゅうひゅうと、少女の鼓膜を撫ぜている。
言葉の意味は──確かに、理解できた、けれど。 その真意は一切理解できない。
『ひ孫』
そして、その断定的な語調が困惑さえも置き去りにしてしまう。
そうして動きを止めたファインドフィートの肩から手を離し、さらりと首筋を掠めて。
先程までとは別種の恐怖が、腹の底から湧き上がった。
『ねぇ、ひ孫。 それと付き合っていても、良いことなんて何もないよ』
「ま、ってください。 あなたは、何を」
『……いま、言っても聞こえないだろうから。
とりあえず出来ることだけしておくね。 対症療法、だけど……いまは、まだ』
何を言っているのか。 何を知っているのか。
考える。 考える。 しかし、思考速度が追いつかない。 現実感が欠けるほどに。
『……本当に、何故、こんなにも……』
けれど掴まれた肩に感じる圧力が、ファインドフィートの現在を保証していた。
肩が重く、沈み──。
「……フィートさん?」
──すぐ後方から、足音が鳴った。 はっと、息を呑む。
真っ白に染まる脳内に真隙を生む刺激だ。 それを受けて咄嗟に振り返った。
そこにあるのは黒い少女の姿。
ただし先程までとは違い、丸い黄金の双眸がぼんやり煌くのがよく見える。
「カフェ、さん?」
かひゅ、と喉が鳴る。
それは正常な呼吸を再開する寸前の呼び水だった。
「……はい。 マンハッタンカフェ、です。
少しだけ、夜の散歩へ向かおうとしているだけの、無害なウマ娘ですよ」
「本、物……じゃあ、さっきまでのは」
また、元の方向へ視線を向けた。 何も居ない。
まるで煙のように影も形もなくなった。
だから当然肩を掴むものは何もなくて、また普段通りに動き出せる。
それを理解してようやく──少女は、ようやく正常な呼吸を取り戻した。
「……幻覚? いえ、まさか……」
夢。 あるいは幻。 白昼夢。 存在しないもの。
つまり、ファインドフィートはそういったものを見ていたのだと、今ある現実が斯様に語っている。
足跡は特になく、周辺に異変もない。 あるかもしれない痕跡は、彼女の頭の中にしか存在しないのだから。
「……疲れが、溜まっているのかもしれません」
「それは……あまり、良くないですね。
今日のトレーニングは──」
「いえ、そこに関しては問題ないんです。
ただ、こう……気疲れ、というのでしょうか。 そういったものが溜まっている、ような……」
「……でしたら、トレーニングが終わったら……小さな、お茶会を開きましょう。
コップいっぱいのコーヒーと、二切れの甘いカステラ……心を癒やすための、特効薬です」
「…………そう、ですね」
大きく、深い溜息を吐き出して。
指先で瞼をこすり、普段通りの平常を装う。 一週間と少しほど前であれば、喜んでいたに違いない。
彼女は、甘いものが大好きだった。
甘いものは無条件に心を解きほぐしてくれる。 甘いものはあの日のぬくもりを思い出させてくれる。 母親がころころと笑う声。 父親が困った様子で肩を落とす姿。 姉と共に、いちごのショートケーキを分け合った食卓。
甘味はその過去に通じていて、故に記憶の導線である。
歳を重ねても色褪せぬそれは、ある種の安らぎの象徴だった。
……けれど。
今となっては、もう。
「……いえ、失礼しました。 何でもありません」
痛みを、飲み込む。
これ以上横道にそれるべきではないと、己を強く律する。
そもそもファインドフィートは、あくまでもトレーニングを求めていた。
とはいえ単独でのトレーニングは限界がある故に、さらなる質の良さを求めてマンハッタンカフェに依頼までして、寮の自室を抜け出した。
再度、今までの過程を思い浮かべて脳内に叩き込む。
先程までの光景は、恐怖は、その根源は──きっと、考えるべきではないことだ。
「……カフェさん。
実は双子のご姉妹がいらっしゃったり、しませんか?」
「────」
……それでも、口を開いてしまった。
忘れるべき感慨から漏れ出した残滓を、ぽつりと。
実際のところ、大して深い意味を込めた訳ではない。
事の裏を考察しようというつもりもない。 今の彼女に、それほどの余剰リソースは存在しないのだから。
だから隣の息を呑む音を聞いて、何かしらを考え込みはしない。
しない、けれど。
もしもあれが、あの少女が。
ファインドフィートが思っていたような存在であれば──もしかしたら、
出来損ないの感傷を、ほんのちょっぴり抱え込むだけ。
実際は違う様子だったから何の意味も無いのだが。
「……なる、ほど。
私は……今も昔も、一人っ子ですよ」
「そう、ですか……」
──道の脇。 緑の茂み。 黄昏色の光が届かない奥の暗がりへ、なんとなしに視線を向ける。
そこには誰もいない。 誰かが居た痕跡もない。
ただの、影溜まりがあるだけだった。
『青い日記帳』
ボロボロの日記帳。 もう何年間も使い続けている物。
故に当然ながら、残りの白紙は殆ど残っていない。
けれどきっと、それで十分だった。
完成するまで、あと──。
『木の棒』
握りやすいだけの、ただの棒切れ。
野外に転がっていただけのこれに、大した意味はない。
意味があったとしても、思い出せない。
『白いアネモネ』
艶のない白い花。 ファインドフィートの数少ない私物。
誰に貰ったのかは、思い出せない。
『車』
普遍的な文明の利器。
これのお陰で、人々はウマ娘にも頼らずに移動できるようになった。
ウマ娘よりも速く、ヒトよりも長く走り、どこか遠くへ連れて行く。
だから家族を連れて行ったこれは、紛うことなき恐怖の象徴だった。
『目覚まし時計』
チックタック、チックタック。 カチ、コチ。 カチ、コチ。
時を刻む。 音を鳴らす。 くるりくるりと針を回した。
秒針は軽やかに、分針は重々しく。 時針は、老人のように鈍間な動きで。
チックタック、チックタック。 カチ、コチ。 カチ、コチ。
そうして時を刻みながら、静かに出番を待っている。
そして、時計の上部で二つのベルがピカピカに輝いていた。
それらはきっと、さぞ喧しい音を奏でるに違いない。