目を隠した少女へ向けて、地を跳ねる虫が語った。
俺は自由に生きている。
自由に産まれ、勝手に草を
そして俺の子も同じように生きて、子の子を残してやがて死ぬ。
俺の子の子も同じだ。 俺の子の子の子も同じだ。 俺の子の子の子の子の子の子の末の子まで同じだ。
俺の命はそうして、世界の何処かに残り続ける。
なあ、お前はどうだ。
何かを残せるのか。
ファインドフィートが思うに。
人生における正しさとは、最後の最後の瞬間にようやく確定するものだ。
過程の好悪、正否、価値の高低。 それらは結局、生み出した結果次第で如何様にも変化してしまう。
故に完成品になるまでは、その過程の真価を推し量れない。
では、それを推し量る正しさとは何か。
正しさと過ちを分ける基準点はどこにある。
数字では示せない。 重さを量ることもできない。 故に定数で表せないそれは、どこにあるのか。
それは、どこにあるべきなのか──。
──なんて。
朝食のブロック食品を頬張りながら、そんな事をつらつらと考える。
そんな彼女はパジャマ姿のままで、瞼は半分ほどまで下りていた。
誰の目で見ても、先日の疲労が癒えていない様子は明らかだった。 肉体的な疲労も精神的な疲労も、両方の意味で。
とはいえ、
しかしこうして食事をしている今は、拭いきれない眠気が頭の中に残留したままである。
そして、だからこそというべきか。
思考回路が眠気によって、不規則な軌道を描いていた。
あれやこれやと無関係な事柄まで、水底からふわふわと浮かび上がる泡のように。
……とはいえ、簡単に弾けてしまう思考のノイズでしかない。
完全に目を覚ます頃には記憶の中から消え失せている、儚く脆い泡だ。
その思考を言葉として外に出すでもなく、頭の中だけで自由に遊ばせる。
ふわふわ、ぷかぷかと、やがて正気になるまでの一時で。
「……んぁ」
こくり。 首が船を漕いだ。
頭頂部の寝癖がつられて揺れて、第三の耳の如くに振る舞った。
なにせ今日は土曜日。 多少は気が抜けてしまうのも仕方がない。
……などと、眠気で霞む頭のまま、簡潔な自己弁護を図って。
そしてもう一度、こくりと船を漕いだ。 随分と進みの良い船である。
半ば無意識の状態で、しかし口だけはもそもそと咀嚼を遂行していた。
そこからある程度噛み砕いたら水で流し込み、胃を満たして、またブロックを頬張る。 それなりに小慣れた動作だった。
「食べたら、着替えて……今日は、ライブの、レッスン……に……」
こくり。 船を漕ぐ。 首を傾ける。
有り体に言えば、今の彼女は寝不足だった。 トレーニング強度の調整に不慣れである故の弊害。
根本的な原因は──トレーナーにも隠れて自主練習を行っているからこその、不器用な足掻きの結果だ。 なのだから、彼女はこの眠気を忌まわしく思うだけの正当性を有さなかった。
「……はやく、進まないと」
それでも、必死に足掻いて眠気を振りほどく。
目をこすり、身体を伸ばす。 背筋を反らし、首を傾け、体中の筋を伸ばして血の巡りを早める。
そうする内に無駄な泡が何個も何個も弾けていった。
そしてまた咀嚼を繰り返し──最後に水を飲んで、一息をついて。
その工程を完全に終える頃には、ファインドフィートの目は完全に覚めていた。
「今日も、無駄にしないために」
パジャマを脱いで制服へ。
歯を磨いて髪を梳かし、鏡を通して自分を調整する。
もちろん今日も忘れず花の世話を済ませて、ようやく朝の準備を完了とした。
ここからまた、彼女の一日が始まる。
腹の底から湧くほんの少しの気怠さを必死に振り払い、白い指先で鞄を取る。
今日はファインドフィートが学園に戻って三日後。
つまり、ミホノブルボンが出先から帰ってくる日だ。
だから……どうせなら、何にもケチをつけないままで、彼女の出迎えに臨みたかった。
この過程の良し悪しでさえ、結局は、結果次第で変わるのだけれど。
◆
「ステップ、ターン、ステップ、ステップ……そこで右回転!」
「つ……!」
「表情硬いよ!もっと笑って!」
「……っ!」
女性講師の声が、広いホールへ響き渡る。
鋭く、凛々しい叱咤がファインドフィートの総身を叩いた。
その指摘の意味を咀嚼し、噛み砕き、理解できる範疇に落とし込んで自身の動作に反映する。
そうして完成度を増した動作へと、講師の声が幾度目かの指摘を叩き込んだ。
足を踏み込みサイドステップ、くるりと舞って左向き。 手を伸ばして指を振るう。
動きにつられて一本結の白髪が、尻尾のように大きく揺れた。
「ステップ、ジャンプ、左を見てハンドサイン!」
「く……っ!」
「っと、ちょっとストップ。 音楽止めるよ!」
矢継ぎ早に告げられる情報は濁流のごとく。
知識が未熟な頭蓋に余さず詰め込まれ、指導によって半ば強制的に理解させられる。
レッスンという時間は、そういう繰り返しの研鑽に満たされていた。
その上、このダンス専門の講師は、時に抽象的な指摘さえ投げ込んでくる。
それが今のファインドフィートにはひどく難解であり、山よりも高い壁にさえ等しいというのに。
「そこのステップは柔らかに、力強く!床を蹴るんじゃなくて踏んで飛ぶ感じで……ほら、見てて!
こう、して、こう!」
「……ん。 こう、足首を、緩めて……こう?」
「違う違う、力を抜くだけだと転んで怪我しちゃうよ!
ちゃんと芯を残して……はい、お腹に力を込めて、床を踏んで!」
「ん……っ!」
「いいよいいヨっ!そんな感じ!」
とはいえ正直な所、彼女自身には大したやる気がない。
歌だの踊りだの、トークショーだの何だのと。
それらに向ける熱意なんぞ殆ど有さず、興味だって然程ない。 彼女にとってはあくまでもテレビの向こう側という意識が強く、それは3年目となった今でさえ拭いきれていない。
……無論、ファインドフィートもこれが必要なことだとは理解している。
大舞台で走る上での義務であると、理解はしている。
声援を送ってくれる存在への感謝は有しているし、その為の、応報の場である事も。
が、しかし、大本の気性のせいか。
他人の前でそういった芸事を披露するという行為に、形容しがたい忌避感を感じてしまうのだ。
その忌避感は、戸惑いや、羞恥心と言いかえても語弊はない。 この一点においてはどちらもほぼ同じ物だからだ。
ともかくそれ故に、彼女自身にやる気はなかった。
……けれど、これも必要な事だ。
少しでもより綺麗な『ファインドフィート』の姿を見せるために、必要な事。
そうと思えば、四の五の言わずに研鑽を積み重ねるべきである。
己に言い聞かせて、また教えを乞うて実践を続けていく。 踊って跳ねて、表情を捏ねて──少しでも多くの瑕疵を取り除いていく。
その姿が後の世へ残るのだと思えば、やる気はなくとも真摯に練習できる。
「……っと、もう終わりの時間ね……じゃ、クールダウンを済ませましょうか。
その間にあなたのトレーナーに連絡しておくからネ」
「……っ、ええ、よろしくお願いします……」
──レッスン終了の合図の訪れは存外早かった。 少なくとも、彼女の想定よりは。
休めの指令を四肢へ送り、ゆるゆると長い息を吐く。
高い体温で熱せられた吐息は白い蒸気となり、不定形の柱となって立ち上った。
ダンスという運動は普段とは別種の疲労を与える物である。
それこそ、彼女としては長距離走のトレーニングを終えた後よりも疲れてしまう程だ。
「はぁ……」
髪を解く。 白の芦毛が、ぱさりと大きく広がった。
そのまま頭を左右へと軽く振り、大雑把にまとめて。 そして一度大きな伸びをする。
ぎちり、ぎりりと進展する筋繊維が開放感に打ち震えた。
そうして、熱を持った身体を丁寧に解きほぐしながら脈拍を穏やかに鎮めて──もう一度、長い息を吐く。 肺の中身を空っぽにして、新鮮な空気へ入れ換えて。
くぅくぅと、腹が鳴る。
「……」
……咄嗟に右手のひらで押さえ付ける。
ついで、横目で講師の姿を確認した。
電話に集中している様子でファインドフィートの方は見ていない。 それを認めて、ほっと息をつく。
けれど変わらず、腹は減っていた。 我慢はできる程だが、しかし空腹だ。
それはつまり、単純な面倒事だった。 不快感さえある。
何せ今の彼女には味覚が存在しないのだから、以前までのように食事を楽しみにする余地は存在しない。
ただの、面倒な作業に成り下がっていた。
──なんて、愚痴ですらない独白を心の裡だけに零して、生ぬるい空気を
だからそれよりも、今はただ、外に出たかった。
あと二時間でミホノブルボンが帰ってくるから、出迎えたい。
もちろん、出迎えるというのなら対面で待ち構えてこそである。
帰って来た人物を、外に出て迎える。 彼女が望むのは何ら変哲のないそれである。
出迎える事が出来るのは、それが無駄とならないのは。
彼女にとって、これ以上ないほどの
◆
待つ。
ただ、待つ。
黄昏色の空の下、寮の玄関脇──建物の側壁の陰で、聞き慣れた足音を待ちぼうける。
視界は通っていないが、別に姿は見えなくとも問題ない。
必要なのは足音だけだ。 それさえあればミホノブルボンの帰還を察知できる。
いわゆる歩容認証……と称するほど大仰な物ではなく。 獣じみた感性と、高度に発達した聴力、そして個人の記憶力によって支えられる、ちょっとした小技だった。
「……17時、34分……」
左手首の裏側、デジタル式の腕時計へ視線を落とし、悠々と息を
今日の彼女がやるべきことは、全て終えた。
自主練習もレッスンも済ませた。 勉強だって、予定通りに修了している。
だから、今の彼女にこれ以上出来ることは何もなく。
殉じるべき必要な事は既に
……とはいえ、これから使えるのはほんの一、二時間程度。
夜になれば明日以降に備えて
彼女の一日とはその為にあって、彼女の気力はその為に費やされるべき物だった。 なのだから、やはり、優先順位は設けざるを得ない。 仕方がない事である。
息が詰まりそうだ、とは思っている。
苦しみも痛みも、全て正常に感じ取っている。 麻痺なんてしていない。
けれど、それを選んだのはファインドフィートだった。
失ってきた過去が、彼女の背を後押しするのだから──否定なんぞできる筈がない。
「……」
視線が腕時計を通り越す。 建物の陰の湿気った雑草に向けられる。
時間が時間だ。 日光は殆どさしていない。
けれど小さな虫達にとってはお構いなしの様子で、薄暗い中を元気に跳ねていた。
矮小な身丈でありながら、一丁前にかさりかさりと草を踏み。
「……バッタ。 お前は、自由ですね」
緑色がぴょんと跳ねる。 小さいバッタだ。
跳ねて飛んで、一際太い後ろ足で元気に強く飛び跳ねた。
そしてそのバッタが到達したのは、ファインドフィートのつま先の五寸先。
矮小な身体でありながら、存在感を誇示する緑のバッタが、無機質な眼でファインドフィートを見上げていた。
無論、ファインドフィートはバッタよりも遥かに大きい。
そんな少女を見て、しかし動じることはなく、ぷいと視線を逸らして──また、自由気ままに草の間を飛んでいった。
「お前が……少しだけ、羨ましいです」
緑の背中を見送る。 視力が衰えていたせいで、あっという間に見失ってしまったけれど。
それでも芝の緑の中に消えるまで、消えた後も見つめていた。
そんな彼女等の事情はお構いなしに、光は変わらず落ちていく。 少しずつ、着実に、夜の時間が迫り来る。
時計の針とは止まらず進んでいくものだ。 正しい通理である。
「ぁ……」
──そしてついに、聞き慣れた足音を捉えた。 思わず耳が揺れてしまう。
音の発生源は、玄関へと続く道の向こう側だった。
物陰からひょっこりと顔を覗かせる。
次いで機敏に──ではなく、もたついた動きで歩き出した。 疲労感が機敏な動きを封じてしまった。
けれど足音は変わらず、こつこつと鳴っている。
規則正しいリズムにズレはなく、機械のように緻密な連なりだ。
その音の主が姿を見せる前に、どうにか玄関前を陣取った。 彼女が思う出迎えとはそういう物だった。
こつこつと靴音が鳴る。 こつこつと、こつこつと。
それから凡そ20歩程度。 距離にして約15メートル。
一歩の音を捉える度に耳を揺らし、逸る心を落ち着かせ、待つ。
そして一秒が十倍に引き伸ばされるかのような感覚を経て──ついに、見慣れた栗毛の長髪を認めた。
「……おかえりなさい、ブルボン先輩」
「おや……フィートさん」
静かな出迎えの声は、不足なくミホノブルボンのもとへ届いた様子だ。
玄関口の代わりに姿を晒した少女を見て、ぱちくりと瞬く。 薄暗い空の下でも変わらぬ青が、微かな喜びを表していた。
「はい、ミホノブルボン、ただいま戻りました。 ……フィートさんも、おかえりなさい」
「……ええ。 ただいま、です」
おかえりなさい。
ただいま。
何気ない言葉のやり取りだ。
けれどファインドフィートにとって、おかえりと言えるのはとても素晴らしい出来事なのだ。 いっそ、魔法に等しいとさえ感じる程に。
おかえりが言えるのであれば、つまり、相手も自分も揃っているという事。
口から出た言葉が届いて、そしてただいまと返ってくるという事。
それが、何よりも嬉しかった。 普遍的で平凡なこのやり取りが出来る事そのものが、どうしようもなく。
「さぁ、部屋に帰りましょう。
今日のために色々と揃えたんですよ。 ……トレーナーのカードで、ですが」
「なるほど……ステータス、『高揚』を検知。 つまり……ありがとうございます。
カードは後で返しに行きましょうね」
「えぇ……まぁ、あのひとはあまり頓着しなさそうですね。
……お礼も兼ねて、ついでにご飯でも持っていってあげましょうか」
何気ないやり取りを交わしながら靴を脱ぐ。
そしてスリッパに履き替えて、階段を上り、通路を抜けて。
行き着いた先の自室のドアを静かに開いた。 こうして一週間以上の間を空け、部屋の主たる二人が揃う。
ミホノブルボンが鞄を置いた。 大きなため息の音が染みる。
そんな彼女を労るために、ファインドフィートが温かい飲み物を揃えるのだ。 もちろん、ついでに茶菓子も付け合わせて。
彼女がほんの一手間を掛けて用意したのは……甘いミルクティーや、それによく合うバターたっぷりのクッキー。 雰囲気を彩る、品のよい白磁のティーセット。
今の彼女に味覚はないから、それら全てが相手の為のものだった。
しかし、揃えたカップと皿は2セット。
それらを机の上に置いて──また、とめどない話を続ける。
話題といえば、出張先、もとい地方のイベントの出来事。
優しいスタッフの事や、迷子の子供を助けた話。
たまたま立ち寄った甘味処で食べた饅頭が美味しかっただとか、道端で見つけた猫が可愛かっただとか。
そういう大した起伏のない話を聞いて、耳を揺らし、飽きもせずに相槌をうつ。
とはいえ、ファインドフィートに大袈裟な反応は出来ない。
喜んで見せることも、嘆いて見せることも、怒って見せることも、何も出来やしない。 情動を表せるのは耳や尻尾が精々だ。
だとしてもミホノブルボンにとっては十分な情報源であって、不足などは何も無い。
「……その、フィートさん」
3年間という月日は──互いの内面を理解する時間として、十分すぎた。
その耳や尻尾の動きだけではなく、視線の動作や、指先を擦り合わせる癖。 意味もなく唇を舐める仕草。
多岐にわたる仕草を統合し、内面の情緒を推測する事さえ可能としていた。
そんな彼女だから、平常時との差異に気付ける。
白い少女の白い顔は常よりも尚翳っていて。
裏にある濁りは腐敗を重ねて、今にも外殻のヒビから滴り落ちそうで。
「……」
──その理由には思い当たる物があったから、これが錯覚ではないと確信できてしまえる。
繊細なバランスの上で成り立つ精神が、破綻を迎えかけているのではないか、と。
薄々抱いていた予感が明瞭な像を結び、ぬらりと口を開く。 そして、生ぬるい臭気が肩を舐めた。
「その……。 一つ、聞きたいことがあります。
天皇賞の春が終わって以降、テイオーさんと会いましたか?」
──では、どうするべきなのか。
目線を合わせながら、鉄仮面の裏で思考を回す。
あの日に何があったのか──なんて、そんな事は知っている。 事の起こりも事の終わりも、他ならぬ当人から聞いていた。
曰く、失敗してしまったと。 己は負けて、約束の縄で縛り上げることも出来ず。
むしろ追い込む結果になってしまったと、トウカイテイオー自身の口から聞いていた。
それは電話越しであったから、詳細部分にあるはずの細やかな情動のやり取りは拾い上げられなかったけれど。
しかし音に滲んでいた後悔が、拭いきれない嫌な予感を大きく育ててしまって。
「……テイオーさんとは、その……少し、気不味くて。
決してテイオーさんが悪い訳じゃないんです。 悪いとしたら、それはわたしだけ。
あのひとは間違っていなくて、わたしが間違えていて……だから、結果で正すまでは会えないんです」
──だから、その結実がこれだった。
独白を聞いて、あぁと、僅かに天を仰ぐ。
囁くような声音に深い濁りが纏わりついている。 どろどろと、ぐずぐずと、腐臭を放つ後悔が。
件の少女は机の上のカップに視線を落とし、疑いもなく自分が悪いと語るばかりだけれど。
しかし、無機質な表情の裏にあるものは明確だ。 そこで煮詰まった想いまでは隠せない。
もはや整えた外面や纏った殻では不足である。 腐りかけの中身がどろりと滲んでいるではないか。
そう、栗毛の少女はほんの少しだけ目を伏せて、微かな感傷を漏らした。 向かう先は、胸の内だけだ。
別に、どちらが悪いという話ではない。 その筈だったのに。
「わたしは、あのひとを冒涜してしまっているから。
きっとわたしは、会うべきではない」
トウカイテイオーはただ、無理はしないで欲しいと思っただけ。
義務に縛られないで欲しいと。 過去に囚われるのではなく、未来を生きてほしいと、そう願っていただけなのだ。
……そうでなければ、死んでしまうのではないか、なんて。 恐ろしくなってしまったから。
日を追う毎に薄まっていく生気が、その疑念を確信に変えてしまって。
「けど、いつかは。
謝りに、行こうと……思っているんです。 だからブルボン先輩はあまり気にしないでください」
では、どうするのか。
どの手を選べば破滅を回避できる。
レースを、家族を、過去を、生命を、自分
どうやって、止めるのか。
「きっと、いつか」
考える。 考える。
友愛の情を抱いているからこそ、目の前の少女の破綻の道を考える。
走るも走らぬも何かしらの破綻へ繋がるのならば、せめて、と。
より良い破綻を選ぶために、幼い頭脳で考える。
「だから……大丈夫。 まだ、大丈夫……」
……そして悩んで、ついに、彼女が思いついてしまったのは。
今まで幾度となく、脳裏を掠めた一手だった。
──いっそ、両足を縛り付けてしまうほうが良いのかもしれない、と。
鎖でも、鉄格子でも、何でも。 とにかく、物理的な拘束こそが最適解だ。
そう、考えた。
必要ならばURAへ申告してもいい。 世論を味方につけるのも簡単だ。 正当性は、間違いなくミホノブルボンの側にある。
いっそ実力行使でも構わない。 取っ組み合いの喧嘩になってしまっても仕方がない。
確かに、心は大事だ。 もしかすると魂の殺人になってしまうかもしれない。
ミホノブルボンはウマ娘であるからこそ、その未来を予測できる。 これほどまでに一途な存在を止めてしまえば、半ば確定した未来となるに違いない。
けれど彼女は、それでも、生きていてほしいと願ってしまった。
──自分達は、あまりにも死が近すぎる。
発達した身体能力を有する故に、ほんのちょっとの誤りが生死に直結している。
転べば容易く骨を折り、跳ねれば簡単に臓物を失い、そうしてあっという間に崖の向こうへ真っ逆さま。
鉄の
だから、だから──ミホノブルボンは、身体を生かす道を選ぼうとした。
それが白い少女の終生の後悔へ繋がるとしても、
「……ブルボン先輩。 わたしは……わたしだって、分かっています」
選ぼうと、したのだけれど。
「わたしの行いを、愚かだと思いますか?」
けれど、挙げられた顔を見て。
濁りきった瞳の青を見て、思わず固まってしまった。 焦点さえ合わぬその目が、怜悧に貫く視線が、ミホノブルボンの口を縫い留める。
「わたしの弔いが、間違っていると。
姉さんの夢を叶える為に生きるのは……この道が正しくないと、そう思いますか?」
ファインドフィートは──本当のところ、分かっていたのだ。
自分の裏を覗かれていることも、過去を探られていることも。
そこを通して、致命的な破綻の未来の訪れを予見されていることも。
本当に、全部分かっていた。
目は、逸らせない。 それを良しとするだけの正当性はすでにない。
加害者たる彼女は、多くを踏みつけた彼女は、今の自分にそれだけの価値がない事を確信していた。
そもそも、死人である己が今も生きている時点でおかしい話であって。
だというのに、今を生きている者達を踏み躙るなんぞ──あまりにも罪深く、許されない行いである。
そう、彼女は確信していた。 彼女だけが確信していた。
「……わたしはね、きっと、脆くなってしまったのです。
わたしにとって、夢と弔いは等価で、わたしにとって残された唯一の義務でした」
ファインドフィートは、そんな自分自身を心底から軽視している。
だというのに姉は彼女へ命を託した。 友人達は、そんな彼女を大切に想っている。
それに対して喜ばしいと感じることは嘘ではないが、しかし。
「だからきっと、わたしはあの時、あなた達を理解できなかった。 互いを尊重しあえるあなた方を、理解しようと思うべきではなかった。
だから……わたしは、こんなにも……こんなにも、あなた達を」
だからこそ彼女は、
それは冒涜なのだと理解できるようになってしまった。
成長して、高い視点を獲得して。 自分と自分の半身以外にも視線を向けられるようになって。
故に、ファインドフィートは懊悩する。
愛されたからこそ、愛したからこそ、湧き出る罪悪感によって引き裂かれそうになる。
自分の願いと姉の想いが、乖離していく。
自分の願いと友の想いが、乖離していく。
自分の願いが、大切な人々へ向ける想いによって、限りなく矛盾していく。
信念の背骨が、捻れて。
「──いえ、忘れてください。
まだ少し、疲れが溜まっているのかも、しれません。 ええ、きっとそうです。
だから……すみません。 外で、空気を吸ってきます」
──吐き気がした。
湧き出る罪悪感が彼女を責め立てた。
姉の夢を叶えて、名前を遺す為に生きている。 その目的は揺らいではならない。 この足を止めてはならない。
白い耳を震わせながら何度も自分に言い聞かせて、ふらりと立ち上がった。
ドアに向かって足を伸ばし、落ち着かない主軸を強引に締め上げる。
そうして、ドアの取っ手を握って。
けれど、そんなファインドフィートの白い背へ──縋るような、淡い請願にも似た声が投げかけられた。
「……ステータス、『疑問』。
あなたのお姉さんは、本当に……あなたの無理や無茶を、望むような方なのですか」
失意、ではない。 失望でもない。
だってミホノブルボンは、後輩たる少女を妹のように想っていた。
……それだけの時間を共に過ごしてきたと、信じていたのだ。
そう感じたのは自分だけではないとも、信じていた。
「あなたが、それほどまでに愛する方は、あなたの痛みを良しとする方なのですか」
そんな彼女が思うのは、純粋な疑問だった。
ファインドフィートに姉がいた事は明確で、その、名も知らぬ少女が死者である事も明確で。
ファインドフィートがただひとり生存した故の罪悪感を抱き、それによって突き動かされている事は誰の目にも明らかで。
けれど、そもそもの話で、弔うべき相手は犠牲を許容できる人物なのか。
自身の片割れが破滅する姿を、認められる人物なのか。
ミホノブルボンには──そんな事、露程にも思えなかった。
なにせファインドフィートが姉の事を語る声は驚くほどに穏やかだ。
心の底から愛している事が、誰でも分かってしまうくらいに。
それほどに慕われる少女が破滅を望むなんて、ありえる筈が無いだろうと。
「……望まない、でしょうね」
なら、止まっても良いではないか。
その選択を責める存在など誰もいない。
……否、もし仮に誰かがいようと関係ない。 そんな物は黙らせる。
ミホノブルボンには、それを全うするだけの覚悟があった。
──けれど、そんな想いを跳ね除けるかのように。
ファインドフィートは振り返りもせず、口を開いた。
「姉さんは、きっと、望まない。
だって、わたしが逆の立場なら、重荷になんてなりたくない。 わたしの願いが足を引っ張るくらいなら、忘れてほしいとすら思います。
……ですから、姉さんも間違いなく同じ事を思うでしょう。 わたし達は双子ですから、分かります」
「なら……っ」
「
愛している。 愛されている。
互いの幸せを祈っている。 祈っていた。
けれど、彼女はそれさえも理解した上で──前に進む以外の選択肢を喪失した。
「──
わたしはこれから正しくなる。 たとえ間違えていても、わたしが、これから正しくするのです。
なのに……今更止まるなんて、許されないでしょう」
全ては、愛ゆえに。
「そう……そうです。
姉さんが許すとか、誰かが許すとかじゃなくて……そんなの、わたしが許せない」
「────」
つまり。
責め立てる誰かとは、他の誰でもない彼女自身だ。
ファインドフィートは──中にある少年が、少年自身を許さない。
踏み躙った物に、失った物に、過去に、背を向けることを許せない。
それはつまり、家族にも背を向けるという事だ。
愛する家族の消失を認めて、姉の存在をも否定すること。
姉が生きた痕跡を、今を生きるファインドフィートが塗りつぶすということ。
──それが、許せない。 許せなかった。
「わたしは、繋がなくてはならない。
最後に残ったわたしは、何かを残さなければ……」
だから、地続きの記録が必要だ。
可能であれば、遺す足跡は大きければ大きいほど良い。
そしてそれが、消えない記録となる。
次へ繋がる。 次を産む。 『ファインドフィート』が夢を育む礎となり、誰かの指標となる。
『ファインドフィート』の名は、姉が遺した唯一は──永遠となる。
その永遠を以て、『ファインドフィート』は完成する。
「……だから、お願いです、ブルボン先輩。
わたしを、見ていてください」
──"夢"が叶うまでの間だけで良い。
彼女は今ある現実へと、"今まで通り"が変わらないことを望んでいた。
ずっと、ずっと、ずっと。
あたたかなひだまりの中に、居たいのだ。
「そしてただ、そこにいてください。 わたしには、それだけで十分なのです」
だから、確かに。
ミホノブルボンの想いは、決して一方通行ではなかった。
姉妹のように感じた事は偽りではない。
ファインドフィートも同じものを見出していたのだから、明確である。
そして、ミホノブルボンは知らない。
こうして思い立ったのも、決意を抱いたのも、これが
なのだから、その
外へ出る。 空は暗い。 真っ暗だ。
しかし街灯の光が闇を切り裂き、空間のうちのほんの一部だけを昼間のように照らしている。
その下へ、ふらりと歩み寄った。
五月とは言え、夜は少し肌寒い。
肩を小さく震わせ温度を誤魔化しながら、街灯の下で屈み込む。
幸い他の人影は存在しなかった故に、彼女の様子が悪目立ちすることはなかった。
「……はぁ」
尻尾を両手で保持して、鼻先にあてがいながら、大した意味もなく草むらの隙間に視線を踊らせる。
……悩んでいる、という訳ではない。
罪悪感と喪失感がずっと、胸の中で叫んでいるだけ。 そこに、悩みを抱けるほどの余地は存在しない。
けれども溢れるため息を留めることは出来ずに、夜風の中へ居座っていた。
そしてまた、ため息を吐く。 ため息を吐く。
ため息を吐いて、その時間と等価の幸せがあちらこちらへ逃げていく。
そうして、鬱屈と俯いて。
そんなファインドフィートの視線の先が、ぴょいと小さく揺れだした。
揺れの正体は、彼女の悩みを素知らぬ様子のバッタだ。
悠々自適に、自由気ままに空を泳いでいるただのバッタだ。
草を
「ねぇ、バッタ。 お前は……お前は、自由ですね」
囁くように。 か細く、呟く。
ファインドフィートには──その虫のあり方が、ひどく眩しかった。 いっそ、妬ましいと感じてしまう程に。
矮小でちっぽけな命でありながら、どこまでも自由だ。
そこに柵はなく、義務もなく、ただ生きて、子を遺し、やがて死ぬのみ。
彼らは彼らとして生きているだけなのに。
けれどあるがままで、あるがままを世界に認められているその姿が。
ただ、ただ、どうしようもなく妬ましいのだ。
……だから彼女は、そこに美しさを見出してしまった。
バッタが蜘蛛の巣に絡め取られて、無様な繭となり、一方的に捕食される姿を見ても──
耳を塞いだ少女へ向けて、首なしの虫が語る。
死んだとしても、俺は何かを残したぞ。
俺は繋いだぞ。 俺は、虫としての一生を正しく終えたぞ。
なあ、なあ。 お前はどうだ、にんげん。