【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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48話

 蹲る少女へ向けて、道の脇に茂る草木が語る。 地を這う蟻が語る。

 枯れ落ちた木の枝が語る。 明かりの無い街灯が語る。

 

 自由に見えてもその実不自由。 お前のことだ。

 失った物へ後付の価値を求めた、通理を弁えない蒙昧なる者。 お前のことだ。

 終わるべき時に終われず、恥も知らずに呼吸をしている者。 お前のことだ。

 自分自身の価値さえ見失った大馬鹿者。 これもお前のことだ。

 

 そう、石の目が語る。 川の脚が語る。 風の背が語る。 雲の指が語る。

 音も無く、この世のあらゆる全てが責め立てる。

 

 つまり、お前は罪深いのだ。

 

 


 

 

 ──重い瞼。 ふわふわと落ち着かない頭。 不明瞭に響く声音。 不規則に伝わる振動。

 

 それらを一つずつ知覚したファインドフィートは──まず、自身が夢の中にいる事を把握した。

 粘性を帯びた世界はその手足を絡め取り、彼女が把握している普段通りの出力を封じ込む。

 そして何よりも、胸の奥に痛みがない。

 なのだから、これは紛うことなき夢だった。

 

 意識の連続性は変わらずあって、思考能力は自己認識を可能するほど。

 身の回りを観測するだけの把握能力だって有している。

 けれど地に足付かない感覚が、この場が夢でしかないと無言で突き付けてきた。

 

 では、この夢はどんな夢なのか。

 至極真っ当な疑問を抱き、視線の動きだけで周囲を軽く見渡す。

 

 ……まず目に入ったのは、一際大きな食卓だ。 赤褐色のテーブルにいくつかの大小の皿や、色とりどりの箸が乗せられている。

 そうして配置された食器は四人分で、周囲の人影は三人。

 目の前には青い箸──ファインドフィートの物が置かれていたから、合わせて丁度の四人になる。

 

『…………』

 

 次いで、自身の身体を見下ろした。

 着用しているのは無地の白いシャツと青いハーフパンツだ。

 袖や裾の向こうからは白い肌が見えている。

 それはいっそ病的なまでの白さで、幼子のように細く──故にこの身体は、彼女が認識する"現在"のそれと著しく乖離していた。

 

 否、それだけではない。 景色も、匂いも、明度も、重力も、何もかもが違う。

 ……そして彼女は、それらの要素から解を導き出せぬほどの愚者には成れなかった。

 

 つまりこれは、ずっと昔の出来事の、過ぎたあの日の夢である。

 ファインドフィートが夢を継ぐ前の、命を繋がれる前で。

 『ファインドフィート』になる前の──少年だった頃の夢だ。

 

 身体の大きさと椅子の大きさを比較した限り、年齢は九歳頃。 窓の外の明るさからして現時刻は夕方。

 服の装いから察するに、おおよそ春の過ぎ。 夢の外と同じ時季だ。

 この頃は未だに、矮小で無力な少年だった。

 

どうしたんだ、ヒトミ

ちゃんとナスも食べれるようにならないとね……。 ほら、ちゃんと甘いよ?

『……これ、ホントに食べなきゃダメ?』

 

 ──しかし、湧き出るそれに意味はないのだと釘を刺すように。 胸の底で熱を持ちはじめた感傷を、形にする間もなく蓋をされて。

 

 口が勝手に開いて言葉を紡ぐ。 意に反し、記憶の通りに身体が動く。

 所詮は記憶の再生(リプレイビデオ)に過ぎないのだと見せつけるようだ。

 

 そうして身体が勝手に、皿の中身──黒塗りの影で潰された何かを()む。

 夢の中であろうとも……あるいは夢の中だからなのか、その味が何を由来とする物なのかは分からない。 食感でさえ不明だ。

 歯や舌の感覚が脳髄と結びつかず、あらゆる一切の理解を阻んでいた。

 ……とはいえ、味覚が無いのは現実と変わらないのだが。

 

『うわ、ぶよぶよしてる……』

 

 ただ、()()に曰くこれは"ぶよぶよ"とした食物であるらしい、と。

 表層の振る舞いとは別の領域で、言葉もなく納得の意を示した。

 が、ぶよぶよとした食べ物なんていくらでもある。 正式名称のヒントになる筈もなし。

 得られる情報がこれだけでしかないのなら、正体なんぞ分かる筈がなかった。

 

『……これ、にがて』

 

 過去の少年は、それを苦手だと言う。

 さぞかし嫌いな様子で、舌をべっと出す動作はとても幼稚だ。

 

 けれども、この時間が愛おしかった事は間違いない。

 

 穏やかな喧騒の温度。 色褪せた生家の姿。 これが愛しい過去のひだまり。 今となっては何処にもない宝物。

 過去(夢の中)の少年も、現在(夢の外)の少女も。

 ほんの一時、夢の中で再会出来るだけで──報われていると錯覚できてしまえる。

 だからこれは、良い夢だった。

 

ははっ、そうか。 その食感がイヤか! まぁ仕方がない……父さんも昔はそうだったからな! 

『お父さんもダメだったの?』

ああ! それに実は、母さんだってな……

おとうさ〜ん?

『でも、お母さんは食べれるようになったんだね』

ええ……まぁね。 私の時もお母さん……つまり、あなた達のお婆ちゃんに食べさせられてね〜

『ふぅん』

 

 ……とはいえ、父の姿も母の姿も見えない事は残念だった。

 愛していた筈の両親は、記憶の中から消えている。

 この夢の中には僅かな残滓を残しているけれど、所詮は残骸。 掠れ切った断片のそれでしかない。

 夜明けの終わりには消えているような──薄霜よりも儚い幻だ。

 

『────』

 

 記憶の中から逸脱しない程度の、小さな動きで両親を見る。

 二人共、真っ黒な絵の具で塗りつぶされていた。

 

 顔も、髪も、声も、衣装も、体格も。

 振るう指先の動きも、言葉をつくる舌先も、生者の熱を宿す瞳の色も。

 個性を持たせる要素の尽くは、何もかもが削り取られた後だ。

 

 だから少年は──()()()()()でさえ、かつての日常を再現することができないのだ。

 どれだけ耳を澄ませても、どれほど思い悩もうと、彼らの温度を思い出せない。

 何を話しているのかさえ思い出せない。 この場面の前後だって理解不能だ。

 

 もちろん、食卓に置いてある皿だってよく見えない。

 母の手料理であるらしきそれが、どんな彩りだったのかも不明。

 "今"の少年は自分の振る舞いや発言内容から、辛うじて周囲の状況を逆算する事しかできなかった。

 

 このときの自分は、何かの食べ物が嫌いだったようだ、とか。

 母も父も子供の頃は、その何かが嫌いだった、とか。

 右前方に居るのが父で、左前方に居るのが母であること。

 

 そして、あとは──すぐ右隣には、未だ色褪せぬ姉がいることだ。

 芦毛のセミロング。 透き通る赤色の瞳。 幼くも怜悧で、過去の少年とも現在の少女ともまったく瓜二つの同じ顔。

 互いが互いの生き写しである。 幼さが故に、性差を見出す事すら困難だ。

 しかし種族の違いによる差異はあったから、双子を見分けるのは存外容易い。

 

 ウマ耳と尻尾を有するのが姉で、ヒト耳を有して尻尾を持たないのが弟。

 前に立つ者が姉で、後ろをついて歩くのが弟。

 静かに笑うのが姉で、柔らかく笑うのが弟。

 この双子は、そういう小さな違いを有していた。

 

 ……あるいは、そういう小さな違いを作ることで互いの個我を認識していたのか。

 

『……姉さん』

『ダメですよ、自分の分はちゃんと食べないと。 そうでなければ農家さんに失礼です』

『姉さんも端っこに避けてるよね……?』

『そうとも言えます。 しかし、そうじゃないとも言えます……。

 良いですか、ヒトミ。 物事とは見える物が全てではありません。 肝心なのは、今のあなたがナスを避けている事であって──』

『で……結局、姉さんはどうなのさ』

『…………』

 

 その双子の片割れたる少年の問いに対して、もう半分の片割れである姉は、はいともいいえとも言わずに黙りこくる。

 そしてあらぬ方向へ視線を彷徨わせ、箸を持たぬ右手の指が机を軽く叩いた。

 そんな少女の姿を認めた彼は、良いともダメとも言わず──二人揃って、皿から例の()()を弾き出す。 向かう先は父の皿だ。

 

あっ、コラ! ちゃんと食べないとダメでしょ?

『……これ、ヤダだから』

『私も……』

まぁまぁ、良いじゃないか。 フィートもヒトミも何時かは──

 

 ……ともかく。

 いつだって、双子が嫌うものは同じだった。 双子が好むものも同じだった。

 そしてそれらに対する行動もまた、全て同じである。

 

 少年は"今"もそれを覚えている。 己の姉の気性を克明に記憶している。

 姉の内面は少年自身と紐付いていて、故に忘却する事はありえない。

 姉を構成する要素は、彼自身にも備わっているのだから。

 

 ……けれど。

 互いの個我を知覚できる程度の差はあった。

 故に、共有していた筈の好悪の中にも幾つかの例外が混入している。

 

『……姉さん?』

 

 例えば、走ること。

 例えば、語ること。

 例えば、歌うこと。

 

 姉たる少女は好んでいたけれど、弟たる少年はそれに価値を見出だせない物。

 共有できない概念。 ズレを生み出す好悪の差。 紐付かない要素。

 だから双子にとって、これらの価値観とは──外面よりもなお明白に、自身達を隔てる壁だ。

 

 その原因は何か。

 それは夢の中でも、夢の外でも、幾度となく悩まされた難問だった。

 しかし同時に、そうして考える度に、まったく同じ答えに行き着いてしまう程に簡単な思索である。

 

『あぁ、テレビ……ドキュメンタリー番組やってるんだね』

『えぇ……一言でいえば歴史のお話、でしょうか』

『ふぅん』

 

 原因があるとするなら、それはつまり産まれだった。

 最初の最初の原点で、種族()を違えた事だった。

 

 少年は考える度に、そんな答えを弾き出した。

 そしてその答えを否定しようと頭を悩ませて、しかし、破綻無き回答は発見できない。

 もしも答えが確定してしまえば、どうしようもなく埋めがたい差異を認める事になる。

 だから来る日も来る日も考えて、悩んで悩んで悩み抜いて。

 

 それでも、結局答えを否定できないままで、一日が始まってしまうのだ。

 

 だからこの頃の少年は、姉の有する感慨を理解できなかった。

 理解したくとも、理解できないままだった。 それは夢の外ですら変わらないのかもしれない。

 血と肉と魂を分けた写し身たる少年は、終ぞ同じ視座に立てなくて──だから双子は、双子のままで固定された。

 同一の存在には、成れなかった。

 

『……シンザン

 

 その目の輝きを何と呼ぶ。 その声の熱を、何と表す。

 声もなく、疑問を紡ぐ。

 

 その情の激しさを何と称する。 それは一体何なのか。

 少年は──目を逸らせずに、個を隔てる壁を見た。 片割れは、壁の向こうにいた。

 

五冠の王者戦後初めての王……』

 

 ……この壁をつくる熱の名は、きっと、当時から知っていた。 言葉だけならば知っていた。

 辞書で引けば、悲しくなるほど簡単に出てくる言葉だった。

 

 けれど、その意味は芯の部分で理解できない。

 少年が理解可能な尺度に落とし込む事ができなかった。

 視点が違う。 故に得る情報も違う。

 情報が違えば、それを素に生じる感情も別物にしかなりえない。

 

 それがどうしようもなく、寂しくて。 寒くて。

 だから少年は姉を通して同じ熱を抱くことで、同じ景色を共有しようとしたのだ。

 

 

 あなたがそれを素晴らしいと思うのなら、きっと、ぼくにとっても素晴らしいものなのだろう。

 あなたがそれを愛するのなら、ぼくも同じようにそれを愛そう。

 あなたがそれを抱きしめるのなら、ぼくも愛を以て抱きしめよう。

 そうしていれば何時かは、同じ景色を共有できる筈だと心から信じて。

 

 そして少年は、最後の瞬間までその想いを抱えていた。 大事に大事に、延々と。

 

 ……それは、同じ視座に立ちたかっただけなのか、と。 "今"になっても時折に考える。

 同じ視座を獲得したところで、何にもなりはしないのに。

 だって、共有したかった相手はもう居ない。 置いていかれてしまった。

 

 だから、あるいは……同一の存在になってしまえば、忘れるという概念すら無くなると信じていたのかもしれない。

 大切な過去を忘れるのは、酷く恐ろしい。

 しかし同時に忘れられる事ほど残酷な行いはそうそう無いのだと、身を以て理解していたからこそ。

 

『……ねぇ、ヒトミ。 このひと、かっこいいですね……』

『うん……そう、だね』

 

 その為に共有したかったもの。 つまり──憧れの起点。 夢の原点。

 ある意味では、この双子の行く先に指針を示した原風景。

 

 こうして熱を向けられる彼女の名前は、さて。

 一体、何だったか。

 

『かっこいいね。 キラキラ、輝いてる』

 

 思い出そうと考えて、悩んで。 夢の中のほんの僅かな時間を、追憶に費やして──。

 

『私もこうなれたなら……。

 きっと、あなたに誇れる私になれる。 そうでしょう?』

 

 

 ──じりりりり、と。 その思索の起点を潰すように、金切り声が邪魔をした。

 甲高く、無遠慮に。 明快な疑問に対し、意気揚々と答えを叫ぶ子供のように。

 

 赤い目の少女の輪郭が大きくブレる。

 髪の先も、椅子も机も、テレビも。

 世界の尽くが霞んで、ぼやけて、曖昧に成り果てて。

 

『大丈夫。 私は……私が、お姉ちゃんですから』

 

 この時の姉は、どんな心持ちで、この言葉を吐いたのか。

 少年には──ファインドフィートには、"今"も昔も理解できないままだ。

 あの壁をどうしたかったのか、それさえも。

 

 けれど、それも当然の事である。

 視点が違えば、思う情も大なり小なり違うもの。

 

 姉という立場と、弟という立場。

 前に立つ者と、後ろに立つ者。

 手を引く者と、手を引かれる者。

 

 だから結局のところ、始点はそこにあったに違いない。

 双子を隔てた薄っぺらい壁が、僅かな差異が、姉に自己犠牲を決意させたキッカケなのだから。

 

 つまり、抱いた想いのカタチは姉も同じだった。

 ずっと一緒にいたい。手を繋いでいたい。ずっと、手を引いていられる己でありたい。

 始まりはそんなちっぽけで、些細な意地でしかない。 その後の誤算は、いくつもあったけれど。

 

 

 ──じりりりり。 じりりりり。 目覚まし時計が鳴っている。

 飽きもせずに鳴っている。

 喧しく叫んで、脳髄を揺らして──。

 

「ぁあ……」

 

 直後、枕元。 右上。

 その方向へ目を開ける間もなく手を伸ばす。

 伸ばして、そして手のひらが衝突した冷たい物体を、力いっぱい握り締めた。

 

 ぎしり、と鉄が軋む。

 そして撓み、微かな悲鳴を上げてファインドフィートに反抗する。 無様なほどにささやかな反抗だ。

 

 手のひらの中で微細に振動している身体も。 必死に音を鳴らす二つのベルも。

 何もかも、何もかもが忌まわしい。 悍ましい。 吐き気を催す。 存在すら気持ち悪い。

 結果を否定するその存在の尽くが──彼女の心を、無遠慮に逆撫でた。

 

「……なんて、こと」

 

 目を、薄っすらと開く。

 掠れて濁る青が、さめざめと泣く時計を見る。

 

 そうしてガラスに反射する青を見つけて──苛立ちは、瞬時に限界を超えた。

 瞬息の間すら置かず、煮え立つ情が憎悪の域にまで到達する。

 

 つまり──ファインドフィートが持つそれは、普段通りのデジタル時計ではない。

 立派なベルと立派な文字盤を持つクラシカルな目覚まし時計だ。

 これこそが、やり直しを強いる愚者の為の魔法の杖だった。

 

 ──指先に、力が籠もる。

 

「……っ」

 

 ぴしり、と。 前面のガラスにヒビが刻まれる。

 ぐにぃ、と。 全体のフレームが大きく歪む。

 少女の手のひらでは覆いきれない程のサイズだけれど、そんな些事は知らぬと言わんばかりに──強引に、握り潰していく。

 軋んで、歪んで、そして割れて。

 

 大した音も無く、外殻が弾けた。

 そうして時計の息の根を止めて──ようやく、大きな息を吐き出す。 今日はじめての呼吸だった。

 

 こうして少女は目を覚まし、現実への帰還を果たす。

 寝ぼけ眼であれども、夢と現実の区別をつけることは簡単だった。

 何せ、胸の痛みが現実である事を証明していたからだ。 無慈悲なそれのおかげで、疑念を抱く余地は存在しなかった。

 だからファインドフィートの一日は、この瞬間から始まる。

 

「……何度重ねても、最後はこうなる。

 わたしはもう、止まろうなんて思えない。 停止した先に、必要性を見出だせない。

 なのに、どうして、あなたは──」

 

 けれど晴れやかな心持ちは何処にも無い。

 鬱屈と沈む悲観が彼女を満たすのみだった。

 

 そして、独白の言葉を漏らしてそれっきり。

 乾いた唇を引き締め、口を閉ざし、ゆるりと頭を振って。

 

 次いで、反対側のベッドに視線を投げる。

 視線の先で眠る栗毛の少女は──目覚まし時計の音に巻き込まれたのか、やや苦しげな形相だ。

 しかしそのまま眠りに沈むでもなく、一度二度と瞼を開閉する。

 ファインドフィートとは異なる青の虹彩は、どこか朧げに霞んでいる。 更に幾度か、ゆっくりと時間をかけて瞬いて、ゆるゆると、長い息を吐き出した。

 

 ……それの原因の在り処を、ファインドフィートは知っていた。

 故に酷く苦しげに歪む顔を見て、深い罪悪感を抱いてしまう。

 皺の刻まれた眉間と、キツく細められた瞼、苦悶に歪む口の端。

 

 その表情を作り上げた自覚があるからこそ、罪悪感は濯がれないままだ。

 また胸の奥に沈殿して、何度も何度も降り積もる。

 それはやがて、傷口を腐らせる病毒となるというのに。

 

 けれども、ファインドフィートはこの苦しみを憎めなかった。

 もし憎むことができたなら、と夢想しなかった訳ではない。

 だって、それが叶うのであれば楽になれるには違いなかったからだ。 きっと残酷なほどに容易く、彼女の膿は溶けて消える。

 

 ……だとしても、それが出来たなら彼女はこの場に居ないのだ。

 それが出来なかったから、彼女の傷口は延々と腐り続けている。

 

 結局、彼女は何処までも自罰的だった。

 その性質は生まれ持っての(さが)か、はたまた後天的な変質か──なんて、どちらでも良い事ではあるが。 根源を突き詰めた所で意味はない。

 ともかく、彼女はそういう愚かさを有していて、それに違和感を抱かぬ程度に自身を軽んじている。 身近な存在であれば、容易く気付ける程には。

 

「……おはようございます、ブルボン先輩」

 

 ファインドフィートがその中身が既に露呈しているとも知らずに、無意識のままそっと蓋を閉じて。

 上体を起こした栗毛の少女へ、囁くような声を投げる。

 挨拶の締めはどこか固い。 後から続く言葉に栓をしてしまうような、不自然な固さを有していた。

 

「おはよう、ございます……」

「……寝癖、ひどいですよ。

 わたしがコーヒーを淹れていますから……そうですね、ブルボン先輩は顔でも洗ってきてください。 きっと、目もすっきり覚めますから」

「オーダー、了解、しました……。 ミホノブルボン……発進……」

 

 が、ミホノブルボンはその音色に気付かない。 気付くだけの余力がない。

 常の彼女(頑強性)を思えば可笑しいほどにふらついた足取りで、洗面所へと歩いていった。

 歩行に合わせてふらふらと、栗毛の耳が右へ左へお辞儀をしている。

 発光する耳飾りを欠いている事もあってか、"サイボーグ"じみた無機質な印象はすっかり鳴りを潜めていた。

 

 そんな普段よりも子供らしく見える彼女の背を見送ったファインドフィートは──自身もベッドから起き上がって、宣言通りにコーヒーの用意を始めた。

 電気ケトルに水を注ぎ、電源を入れて、コップとコーヒーフィルターを取り出して。 パジャマ姿のままゆったりと手を動かす。

 彼女も目覚めたばかりだからか、どこかぎこちない動きだ。

 

 ──そうしてあれやこれやと四苦八苦しながらも、二人分のコーヒーを用意し終えた頃。

 洗面所からひょっこりと、栗毛の少女が顔を出した。

 顔は未だに湿ったままで、前髪の幾本かが額や頬に張り付いている。

 その少女へファインドフィートが声をかければ、ふらふらと頭を揺らし、目をこすりながら席に着いた。

 

「……ステータス、『寝不足』を検知。

 つまり、非常に眠たいです……」

 

 ……その内面は、語る必要もないほど外面へ表れていた。

 そして、無言で差し出されたコーヒーを口にして──うつらうつらと、船を漕ぐ。

 青い瞳は半開き。 耳はへたりと垂れている。

 それでも口はしっかりと閉じているだけまだマシだった。 もし口まで半開きであれば、お気に入りのパジャマは黒いシミに塗れていたに違いない。

 

「……顔、まだ濡れていますよ。 えっと、タオルは……」

 

 それ程までに眠気を堪える姿を見かねてか、珍しくファインドフィートから世話を焼き始めた。

 昨日洗ったばかりのタオルをタンスから取り出して、ミホノブルボンの横に回る。 白いふわふわの生地が軽やかに跳ねた。

 

 次いで、柔らかな手付きで顔を拭った。 ゆっくり、撫でるように。

 その間の少女は脱力しきって成されるがままだった。 それを信頼の証と取るべきか、怠惰な姿と表すべきか。

 

「わたしも、傍から見ればこんな感じだったのでしょうか……」

 

 少なくとも──ファインドフィートは、信頼の証として受け取る。

 なにせ他ならぬ彼女も信頼の証として同じ振る舞いをした事があるからだ。

 

 これも言ってしまえば、犬が腹を見せるような物。

 無防備な姿を見せる事は彼女なりの愛情表現だったから、相手も同じに違いないと信じていた。 盲目的なまでに。

 

「……水気はほぼ無くなりました、が……。

 大丈夫、ですか? もう少し、眠りますか……?」

 

 やはりミホノブルボンは未だに眠気を払えぬようで、何度も船を漕いでいる。 うつらうつらと、こくりこくりと。

 瞼の開閉の間隔は変化し、いつの間にか閉じられている時間が長くなっていた。

 呼吸の早さも緩やかとなり、深く大きく繰り返される。

 試しに肩を軽く叩いてみるが、反応は中々返ってこない。

 

 そうなると困ってしまうのはファインドフィートだ。

 今日はこのミホノブルボン(ねむりひめ)と共に、早朝の併走を行う予定だった。

 時計の短針は真下よりも前にあって、外は未だに薄暗く、故にタイミングとしては最適である。 筈だった、けれど。

 

 ……しかし、無理を押してまで連れ出そうとも思えない。

 質の良し悪しはともかくとしても、トレーニング自体は一人でも行える物。

 ファインドフィートは──この数日間でそれを実感していた。

 

 だから、別に良かった。

 眠りかけの先輩をベッドに誘導しようと肩に手を当てて──。

 

「……ブルボン先輩?」

 

 ──その白い手を、ミホノブルボンが掴み取る。

 微かに震える指先で、強く握り締めて。 肘の先を抱え込む。

 

 とはいえ、加減はされているから痛みはない。

 当人を支配する眠気のせいなのか、驚くほどに体温が高いだけ。

 

「何か……夢を見ていたような、気が、するのです……。

 メモリ内には、残っていません。 けれど……『苦しい』が、ありました。 『悲しい』が、ありました。 『痛い』が、ありました。

 それが、それらが……胸の奥のどこかに、残留している、ようで……」

 

 その熱に浮かされた様子で、口ずさむ。

 つらつらと、頭の中身を変換せずに出力する。

 

 常日頃の彼女が見せているような、硬質で理路整然とした面影はどこにもない。

 そこには、なんら変哲のない、ただの少女の顔があるだけだった。

 

「……ねぇ、ブルボン先輩。 まだ少し時間がありますから、ちょっとだけ目を瞑りましょう。

 ほら、こっちへ……」

 

 ──そんな彼女から逃げるように、そっと目を伏せて。

 ゆっくりと、ベッドへの移動を促した。

 

 一歩一歩を慎重に、転ばぬように注意を払う。

 自分の足元よりもなお厳正に、姉の如き少女の足元を安全に整えて。

 ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと──。

 

 時間をかける毎に湧き上がる焦燥感を捻じ伏せながら、誘導した先のベッドへ横たえる。

 そうして、軽い音と共にベッドへの帰還を果たした少女は……既に、半分以上は夢の世界へ旅立っていた。

 

「大丈夫です……。 時間になったら、わたしが起こしてあげます」

 

 そしてファインドフィートが腰掛けたのはミホノブルボンの隣。 頭上の付近。

 あっという間に眠りに就いた少女の髪を、さらりと撫でる。

 常日頃から丁寧に手入れを行っている成果なのか、とても柔らかい。

 

 その柔らかさは、彼女の手入れを受けているファインドフィートも同一で。

 故に、その感触(つながり)の中にぬくもりを垣間見る事が叶う。 全身を包む寒さが、薄れたような気がした。

 

「もう、悪夢は見ませんから……ゆっくり眠ってくださいね」

 

 吐息にも似た声音で、そっと呟く。

 それから手のひらで瞼を押さえて、カーテンの向こうから射す僅かな日光を遮断した。

 ただ置くだけの物だ。 力は一切籠もっていない。

 けれど、彼女の人肌のぬくもりで安らぎを与えるのには十分だった。

 

 他人の体温とは深い安心感を齎し、安寧の眠りを作り上げるものだ。

 ファインドフィートは、己の身を以て理解していた。

 

「……おやすみなさい」

 

 僅かな抑揚の籠もった言葉を告げて。

 

 そして、ふと思う。 子守唄でもあったほうが良いだろうか、なんて。

 自身の体験から何気なしに思いついてしまって──つい、そよ風に似せた声音のハミングを歌おうとした。

 

 ……が、口を薄く開いたきり、そこで止まってしまう。

 舌が回らない。 より正確に言えば、回す軌跡が分からないのだ。

 どんなメロディーで、どんな歌詞の唄だったか。 音圧は、彩りは何だったか。

 

 記憶の中を漁るために少しばかり考え込んで……また、口を閉じた。

 

 彼女は、その体験とやらの詳細を思い出せなかったのだ。 聞いた筈だった歌声のカタチでさえ、雲の輪郭より朧げだ。

 子守唄というからには──順当に考えて、母に由来するものであろうと推測できる。

 が、解答である思い出は既になく、真相は未確定のまま。

 記憶の痕跡がこれから消えゆく残骸なのか、母以外の記憶だから残っているのか、はたまた消しきれない不純物でも混入しているだけなのか。

 

 ……もっとも、いくら考えたとしても詮無きことである。

 結果には、子守唄を歌うことさえできない彼女が残るばかり。

 それが今ある現実で、疑いようのない真実だった。

 

 だから仕方なく、ただ、少女の両目を手で覆うだけ。

 視界を閉ざして光を隠す。 これから眠る彼女には不要なものだと、言葉ではなく行動で示した。

 そのまま、ゆらゆらと尻尾を揺らす。 ベッドの上で跳ねる白が少女の栗毛に混ざり込んだ。

 

「……フィート、さん」

 

 けれど、ミホノブルボンは寝苦しそうに呻きを上げている。

 ファインドフィートの名を呼びながら、夢うつつに、苦しみを訴えかけていた。 悲しみを彩っていた。 痛みに、形を与えていた。

 

「ごめん、なさい……」

 

 ──そして、瞼の裏から雫が溢れて。

 眠ったままの少女の目尻から、つつーと流れる。

 置くだけの手のひらでは堰き止められず、柔肌の上を静かに走っていた。

 

 眠る少女のそれが、何に対する謝罪なのか──なんて、疑問に思うことはしない。

 所詮は寝言である。 故に、ファインドフィートはそれ以上の感慨を抱くべきではない。

 これ以上は何もしなくて良い。 何かをするという変化は不要だ。

 手のひらで少女の顔を隠しながら、ぎゅっと奥歯を噛みしめる。

 

 

 けれど、その涙が。

 無視できない程に熱かったから。

 

「……ブルボン先輩、それは……違うでしょう。 償うべきは、わたしであって。 決して、あなたの口に在るべきでは、ないはずですから。

 だから……許しを乞うべき誰かが居るなら、それはきっとわたしです」

 

 火傷しそうなほどに、熱かったから。

 

「だって、それでも……どうあっても、わたしは変われない。 変わりたいと、思えない。

 わたしはそれを、許されない。 許されては……ならない、から」

 

 だから、間違いなく、彼女は救われていた。

 

 目的に至るまでの道すがらには、ささやかな報いがあって。

 到達するべき目標も明らかで、走るべき道は舗装されている。

 そこに過ちなんて何処にもない。 あったとしても、最終的には濯がれる。

 だから必要な事だ。 必要な選択だった。 このやり直しは必要な犠牲である。

 

 ファインドフィートは、今回が何度目の朝なのかさえ知らない。

 思い出の欠損さえ、完全には理解できていない。

 忘れた事をも忘れてしまえば、記憶を辿る事さえ不可能なのだから。

 

 ……それに失ったものが何であれ、走る理由を見失っていない事は明確だ。

 故に何処までも走っていける。

 

 少女は、自分の心を捻じ伏せながら嘯いた。

 

「あぁ……でも」

 

 ──そして、そんな彼女を貫くように、涙の熱が手を焦がす。

 

 それは手首をたどり、腕を伝い、首から昇る。

 果てに行き着いた先の脳を侵して、ついにはあらぬ幻影まで見せつける。

 

 ぼんやりと、脳裏に浮かんだのは青い瞳だ。 ファインドフィートをじっと見詰めて来る、透き通る青色達だった。

 涙に塗れた青色。 青色のくせに何処までも熱い、生者の瞳。

 やり直しの波に飲まれて消えていった、何時かの友の眼差しが。 二色の青の眼差しが。

 

「……でも、確かに。

 少しだけ、ほんの少しだけ、あの終わり方が……」

 

 続く言葉は、吐息に溶かして包み隠した。

 

 だって、目が熱かった。 喉が引き攣って仕方がない。

 寒くない筈なのに、指先が微かに震えていた。

 こんな状態で言葉を話せるハズがないと、誰に向けた物でもない言い訳を盾にして背を丸める。

 

 それらがやがて、小さな悲痛を象って。

 不意にぽたりと雫が弾けた。 救われている筈なのに、涙が零れてしまった。

 白い頬からするりと落ちて眠る少女の頬を打ち、二種の水が混ざり合う。

 

 ファインドフィートはその涙の理由を理解したくなかった。

 そのくせに未練たらしく、無くなってしまった結末を想って──悼むように、唇を引き締める。

 矛盾し、相反する想いを胸の奥に抱え込んでひとりきり。 静かに、静かに、音もなく。

 

 それこそ、小鳥の鳴き声のほうが余程喧しい。 窓の外でちゅんちゅんと、朝の到来を告げる声が。

 なのだからきっと、その矮小な喉は鳥にも劣る能無しのモノである。

 

 

 ◆

 

 

「……こんにちは、テイオーさん。 隣に……お邪魔しても?」

「わ……っ。

 って、カフェ先輩かぁ。 今日も良い天気だねぇ」

「……その、雲は重たいですし……もうすぐ、雨も降りそうですよ」

「あ~……そっかぁ。 ホントだ、気付いてなかったや」

 

 くんくんと鼻を鳴らして、確かにもうすぐ降りそうだね、と。

 先ほどまでと変わらずベンチに腰掛けたまま、か細い声音で呟いた。

 正面の中庭に視線を固定したまま、首の上だけを小さく揺らして。

 

「……昼休憩の時間はもう少しありますが……今日は早めに、教室に戻ったほうが良いかと」

「うん、そうだね……」

 

 時刻は昼だというのに空は暗い。 陽光は重厚な雲の後ろへ隠れている。

 その鈍色の下にある故なのか、トウカイテイオーの瞳でさえも暗く沈んでいった。

 

 それを見た青鹿毛(真っ黒)の少女は、さて、どうしたことかと瞬いた。

 いつぞやの自信満々なおてんば娘の面影はなく、深い懊悩に沈む少女があるばかり。

 

 後頭部で結わえた髪も、心なしか萎んでいるようにさえ見える。

 それは外気の湿度のせいなのか、はたまた当人の心情を反映したものなのか。

 物理法則を考慮すれば、前者の事象でしかあり得ないが──マンハッタンカフェには後者のオカルトとしか思えなかった。

 

 二人並んでベンチに腰掛けて、中庭の全体像を視界に収める。

 生徒の数はまばらだ。 天気の変遷を予測してか、校舎へどんどんと避難して行った。

 

 しかしこの場の二人は変わらず腰を据えたままで、うんともすんとも言わない。

 やがて、沈黙に耐えかねた様子のトウカイテイオーが口を開く。

 

「……あ~、そろそろ戻ろっか。 ほら、次の授業も始まっちゃうし!」

「えぇ……そうですね。 おっしゃる通り……早めに戻るのが最善でしょう」

 

 そう言って、しかし。 口ぶりとは裏腹に腰を上げずに黙りこくる。

 黄金の双眸を微かに伏せて、口の端を横一文字に引き締めていた。

 

 それから一度、ふと真横を見て。

 誰もいない筈の()()へと頷いて。

 マンハッタンカフェは──居住まいを正し、トウカイテイオーへと顔を向けた。

 その瞳の黄金は月のよう。 冷たく、鉄よりもなお堅い意志を滲ませる。

 揺るぎなき視線を受けた少女は、己の背筋がぴんと伸びた事を自覚した。

 

「ですが、その前に」

 

 けれども、意外なほどに穏やかな音色だった。

 雨のように優しく、泥よりも暗く、夕暮れの面影を覗かせるほどに静謐な声で。

 影の少女は、そっと、耳の底に囁きかける。

 

「ひとつ、お聞きしたい事があります」

 

 マンハッタンカフェは知っていた。 逃げ場は全部潰すしかないと、知っていた。

 猟犬のように追い立てて、崖の先にも行けないよう押さえつけるしか無い。

 

 そして次に必要なのは、ファインドフィートという少女の心をへし折る為の釘である。

 加えて当人に()()()()()為の大槌も拵えなければ。

 

 それらを以て、心の芯を砕く。 そもそもの、走る理由を封じ込める。

 その先に垣間見える筈の、祈りという心の空白さえ埋めてしまえば──あんなモノに縋る必要は無くなるはずだと確信していた。

 

 あんな、誰とも知らぬ存在に縋るなど。

 

 


 

 

 何があっても折れることのできない少女へと。

 艶のない白い花が、嘲るように語り出す。

 お前はどうして産まれてきた。

 お前は、何になりたかった。

 お前は一体、何なのか。

 

 

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