今日は取材を受ける日だ。
記者に向かって意気込みを語り、
目標だとか、現在の調子だとか、個人の思想や趣味、私生活の話まで。
それからカメラへ向けて二本指。 後々のために必要だから協力するけれど、まったくもって気に入らない。
だって、成り損ないの記録しか残せない我が身が、こんなにも忌まわしい。
白昼の途上。 公道の端。 そこをゆくは四人の少女。
栗毛と鹿毛と青鹿毛と、そして芦毛。
各々、普段と些か異なる装いに身を包み、ぽつぽつと会話を交わしながら前を向く。
そしてつい先日の取り決め通り、仲良く病院を目指して歩いていた。
「……いいかい? もうすぐ目的地に着く訳だが……基本的に、名乗るのは私だけだ。 特にブルボンくんは名乗らないように」
「オーダー、承知しました」
「ボクも黙ってた方がいいの?」
「ああ、そうしてほしい。 カフェもだ」
「……ええ、何か考えがあるのでしょう?」
「もちろん……ああ、とはいえ場合に応じて、で頼むよ。 何もかもが計画通りにいくとは思ってないからねぇ」
「計画……たしかに、かなり大雑把ですから……」
「仕方ないさ。 今回ばかりは」
周囲は栄えているわけでもなく、寂れているわけでもない微妙な様相。
駅から降りて徒歩10分の距離であるが、その道中は多少飲食店や雑貨店が点在する程度の町並みだ。
土曜日だというのに出歩いている人影は少なく、いるとしたら余生を楽しむ老人か、友人と連れ立ってどこぞかへ遊びに向かう子ども達程度か。
普段過ごしている府中とまったく違う空気感が、否応なく日常との乖離を意識させてくれる。
その中をアグネスタキオンが先導し、目的地への道程を消化していく。
別に走っているわけではないから到着予想は当初の想定と変わらず、ヒト基準での徒歩10分後。
ただ歩くだけの時間に大きなイベントは何もなかったから、ごく自然に景色が後方へ流れていく。
そうして歩き続ける少女達の前にやがて見えてきたのは、白塗りの塀だった。 それと塀の奥には駐車場があって、その真横に総合病院が建っている。
規模はそれなりに大きく、複数の棟に分かれた建造物が堂々とした姿を晒していた。 これが今日の目的地である。
正面にたどり着いたかと思えば、口を半開きにして建物を見上げ始めた芦毛の少女──もとい、
「……思っていた以上に、大きい病院ですね……」
「目視にて計測。 おそらく、この近辺で一番大きいかと」
「んぇ、あれで計測してたんだ……」
「ヒトも多そうだ。 ま、土曜日だからねぇ」
自動ドアを越え、備え付けのアルコール消毒ジェルをワンプッシュ。
各々譲り合いながら綺麗に消毒を済ませ、ぞろぞろと連れ立って大きな正面ホールへ入場を果たす。
事前の予想通りヒトの数はそれなりに多く、座席の7割が埋まる程度。 それらから多少向けられる奇異の目を受け止めながら、天井から吊り下がる看板達へと視線を彷徨わせる。 アグネスタキオンがまず知りたかったのは総合受付の場所だった。
それからやや間を空けて目的地を把握し、先導するため歩き出す。
先頭を行くアグネスタキオンのすぐ後ろには長髪を一本結にしたマンハッタンカフェ。 その次続いて髪を下ろしたトウカイテイオー。 最後尾には芦毛に染色したミホノブルボン。
そして全員、服装を普段とは違う方向性に変えている。
別に、変装、というほどではない。 しかし、雰囲気は明確に変わっている。
ほんの少しの観察と、瞬きを三度する程度の時間さえあればすぐに普段の彼女らと今の彼女らが結びつく程度の、微妙な変化。
しかし十分である。 その"ほんの少し"の観察を要する事実こそが必要なのだから、何も問題はない。
「……ふぅン、一人だけみたいだね。 丁度いい」
「なんだか悪役みたいですね、言ってること……」
「失礼だねぇ。 こんな善良ウマ娘を捕まえて何てことを言うのさ」
「……昨日。 私のお気に入りのコーヒー豆が薬品みたいな匂いに変わっていたのですが──」
「──おっと。 こんなところで話してたら迷惑になってしまう。 早く要件を済ませるべきだねぇ。 いやはやいやはや、こればっかりは仕方がないんだよ」
「本当に、このひとは……」
ともかく、最初のステップだ。
代表者であるアグネスタキオンが一歩、カウンター前へ踏み込んだ。
「んんッ……。 失礼、少々よろしいでしょうか」
しかし、担当者は手元を見下ろしながら作業中。 受付の殆どを自動化してる影響か、来客への意識が少しばかり疎かになっているようだ。
もう一度少々強めに呼びかけてみれば、慌てた様子で顔を上げて、いそいそと居住まいを正した。 声を掛けてきた人物へ、ほんの少しの驚きを向けながら。 その表情はどちらかといえば、既知の人物を目視した故の感嘆の意を含んでいた。
前後の流れはさておき──アグネスタキオンは、都合がいいと内心でほくそ笑んだ。
顔を見るだけでそういう驚きの表情を浮かべるというのであれば、相応の要因があるという事で。
「こちらに循環器内科医の田島先生がいらっしゃるとお聞きしたのですが……」
「ええっと……はい、たしかに当院の先生ですが……。 失礼ですが、あー……お名前をお聞きしても?」
「これは無礼を。
名前を口にした途端、ピクリと。 担当者の眉の端が小さく跳ねた。
もちろん相手も仕事人だから決して表に出しはしないのだけれど、それでも最低限判断できるだけの情報は得られる。
早い話、この担当者の女性はアグネスタキオンというウマ娘を知っていた。
事実、トゥインクルシリーズの様子は生放送される物であり、出走者というだけでも誰かの視界に入り込むもの。
その中でもG1の格付けを受けているのであれば、やはり知名度は抜群のものとなる。
後ろ手で他三名を呼び寄せつつ、注意深く唇を湿らせた。
必要なのは納得させることだ。
納得させると言うからには、相手に納得できるだけの情報と道筋を与えてやらなければならない。
人間というのは、ただ分かりやすい回答を与えられるより、自分で導き出した回答の方を強く信じ込むものである。
それの正否がどちらであれ。
自分で導き出したという事実故によく脳に定着し、自分で考えたからこそ疑惑が生じる隙間が発生しない。
故に推理するための材料を与え、雰囲気という指向性を与えて。 しかし、結果に誤差が生じないよう求めている回答だけは明確に提示する。
あとはその至るべき回答に向け、相手が勝手に考えて、勝手に納得できるだけの肉付けを行うだろう──という、まぁまぁ苦しい方法だ。
……正直なところ、正当な権利を持たない身からすれば苦しくない方法なんて何もないのだが。
ともかく
……念のため、予め用意していたプランBからDまでは一旦保留としておく。
「ええ、それで──個人的な事情により、少々お話を伺いたく。 申し訳ありませんが、取り次いでいただけますか?」
「しょ、少々お待ちください……あの、そちらの方々はお連れ様でしょうか?」
「それは、ええ。 もちろん」
「承知、しました……?」
小首をかしげながら、少しだけ後ろの面々を眺めて。
それからちょうど瞬き三つの時間の後──急に、何かしらに納得した様子で頷く。
呼気を吐き出して、納得を面に出し、ようやく慌ただしくカウンター裏に引っ込んでいった。
「……まぁ、概ね想定通りだねぇ……」
何はともあれ、最初のステップは問題なく乗り越えた。
次のステップはこの"なぁなぁ"の状態のまま目的の医師に面会することである。
……が、せっかくいい具合の状況で進んでいるのに横や後方から視線がビシバシと突き刺さる。 ちょっとだけ鬱陶しい。
何か言いたいことがあるんなら直接言い給えよ、と隣の黒い少女を睨んでみた。
「……失礼かもしれませんが……タキオンさんって、敬語を使えたんですね……」
「はぁ~? 本当に失礼なことを言うねぇキミぃ。 失礼マイスターなのかい? もちろん私だって最低限のTPOは弁えるさ」
「そういうのであれば……普段からもっと、TPOに則した勧誘を行っても良いんじゃないでしょうか」
「そんな事したらモルモットくんとスカーレットくん以外協力してくれなくなるんだが」
「……はぁ……この性格さえ直してくれれば……」
さもありなん。
当人の視点ではどうであれ、他者から見たアグネスタキオンはそういう問題児だった。
……そもそもトレセン学園自体が問題児ばかり──といえば、些か語弊があるかもしれない。 が、そのトレセン学園にあっても、彼女ほど癖の強い存在はそう多くない。
そうして、アグネスタキオン視点ではまったく不当な物言いをされつつも。
頃合いを見計らっていたらしき担当者が顔を見せ、おずおずと口を挟んだ。 これは正当な発言である。
「……ちなみに、用件をお伺いしても?」
「あー……それは必要な事柄でしょうか」
「はい。 一応決まり事ですので……」
「……横からすみません。 今回の件は、その、デリケートな要件ですので……伏せたまま、というのは無理でしょうか」
「……申し訳ございません。 こればかりは私の一存では……」
つまり、理由も告げずに面会、なんていう無理筋を通すことは出来ないということで。
表面上は穏やかな顔を取り繕いつつもひっそりと歯噛みした。
このままするりと通してくれれば理想的であったが、正しい事を言っているのは向こう側だ。 これを否定することはできない。
「……ふぅン」
──おもむろに、ぺしりと尻尾を跳ねさせ内腿を叩く。
軽やかに響く音は、背後に立つ二人の少女へ向けられた合図だった。
「……その、以前……ここに、ファインドフィートという方が訪れたと聞きました。 その方について、相談させて欲しい事があって……」
殆ど間を置かず前に足を踏み出した少女は、芦毛に装いを変えたミホノブルボンは。 意図的に、か細い声で、ささやくように語りかけた。
その容貌や纏う雰囲気は後輩の彼女に瓜二つといっても過言ではないほどだ。 髪色とふるまいを変えただけなのに。
しかし髪色は同じ白で、瞳は同じ青で、肌も似た色白で、背丈に体型に至るまでがほぼ同一。 顔のパーツだってどことなく似通っている。
だから今の彼女は、浅からぬ血縁を錯覚させてしまうほどに真に迫っていた。
その完成度は見る者の表情が証明している。
「……。
……入院患者のあらゆる情報は保護されています。 開示できるのは本人か、本人の依頼を受けた代理人や親族の方であって──」
──そして担当者は拒絶しながらも、"入院患者"と言った。 その発言が出るのであれば、つまり。
ファインドフィートという少女は患者として存在していて、この病院に入院していたという事実までもが確定する。
アグネスタキオンは飄々とした顔の裏で、脳裏の計画表を突き回した。
「お願いします。 どうしても、どうしても、あの子の過去を知りたいのです」
「あなたは……」
「同居している者、です。 最近、様子がおかしくて、だから先生に知見をお借りしたくて……」
「ですが、その、規則は規則ですので」
嘘、ではない。 何一つ嘘はついていない。
この行動は本心からの行いであって、嘘など欠片も介在していない。
故に芦毛の少女のそれは、演技というにはあまりにも気迫が籠もりすぎていて──見る者に、後ろにある背景を推察させずにはいられない。
苦悩があるのだろう。 苦労があるのだろう。 そしてきっと、近しい少女の力になろうとしているのだろう。
多くの友人を引き連れてまで、こうして無理筋を押し通すしかない苦境にあるのだろう。 それほどまでに深い愛情があるのだろう。
だろう、だろう、だろう。
どれもこれも"きっとそうだろう"という妄想に近い仮定だ。
そういう仮定まみれの要素を散りばめた仮説であったが、しかし担当者の彼女に同情を抱かせるには十分だ。 彼女は、なんら変哲のない普遍的な感性を持っていた故に。
だからそれらが、彼女の善良な心に訴追する。
同情心と庇護欲。 道徳と通理を遵守できる立ち位置。
その上都合よく言い訳できる要素まであるのだ。
患者本人の承認があるかどうかはさておきとして、少なくとも、親族らしき存在がいるのなら。
ここで何事もなかったかのように協力しても、別に仕方がないじゃあないかと──そう思えてしまう。 それを美徳として、解釈できてしまう。
「…………。
……体調管理のために、ファインドフィートさんの承認を受けた親族の方がカルテや入院時の記録などを請求している。 そういう事ですね?」
「……! はい!」
──グッド。 後ろ手に握りこぶしを作る。
アグネスタキオンが想定していた流れとの乖離は然程ない。
担当者のヒト耳へにっこりと、よそ行きの笑顔を向けた。
「ええと、それでは……応接室の方にご案内しますね。 こちらです」
「はい、よろしくお願いします」
後ろ背を追いかけながら、左手首の時計を見る。
針が指し示す時間にいわく、未だに白昼の半ば。
つまり、時間はまだたっぷりとある。
◆
四人が通されたのはごくごく普通の応接室だった。
もちろん外部の人間を受け入れるために相応に華美ではあるが、あくまで一病院の一室だ。
どこぞの令嬢方の実家のように金の匂いを感じさせるほどではなく、適度に気品のある調度品で彩られている。
中央の応接テーブルを挟むようにして設置されたソファーを四人で陣取りつつ、担当者に言われた通りに目的の人物を待ちぼうける。 お誕生日席だって空席のままでは寂しいに違いない。
それに雑談を楽しめる雰囲気でもないのだから、なるべく早くに来てほしいものだった。
用意された茶と菓子で口寂しさを誤魔化すのも限界があるのだ。
なんて、各々似たような事を考えているうちに消費したのは五分程度か。
ともかく、アグネスタキオンがただ待つだけの時間に飽きるのに妥当な程である。
とりとめのない思考をぐるぐると回しているばかり。
明日の実験はどうしようか、実験は誰に協力してもらおうか、今日の晩ごはんは何だろうか、などと。
しかしそんなもの、ドアが開かれるまでの間の事だ。
蝶番の悲鳴につられて顔を動かした頃には、寸前までの思考は綺麗サッパリ消えていた。
「やぁ、やぁ。 初めまして。 私が院長です……なんていっても、イマドキの子には通じないかな。 はは」
肩書が町長だったらもう少し格好がつくんだけどね、と。
皺くちゃの顔に、好々爺然とした笑みを浮かべて。
「田島先生──ファインドフィートさんの執刀を担当した私の息子なんですが、彼が来るのはもう少し時間がかかりそうです。 それを伝えに来たのと……まぁ、あの子にも良いお友達が出来たようなので、ご挨拶にと」
「感謝します。 私は──」
「アグネスタキオンさん、ですよね。 そちらはマンハッタンカフェさん、トウカイテイオーさん……」
そして、芦毛の少女を見て。
ほんの少しだけ目を細めて、眉の端を困った風に垂れさせた。 目尻の皺が深まる。
「ミホノブルボンさん。 今日は……普段よりも大分雰囲気が違うようだ。 いめちぇん、という奴ですかな?」
「そ、れは……」
「ああ、いえ。 別に何かを追求しようとは思っていないんです。 だってあなたはただ、いめちぇんをして当院を訪れただけなんですから。 何か、間違いでもありましたかな?」
「……いいえ、いいえ。 何も間違いありません」
そうでしょう。 そうでしょう。 老人は何度も頷いた。
それからもう一度、くしゃりと破顔して、少女達の顔をぐるりと見渡す。
「あの子は、本当に良いお友達に恵まれたらしい。 入院していたころはあんまりにも酷い様子だったから、とても心配していたんですがね」
「……あの、酷い様子っていうのはどんな感じだったの……どんな感じだったんですか?」
トウカイテイオーの質問は好奇心というより、単純な疑問をさして考えずに口にしたものだ。
しかしそれだけの疑問にも答えに窮した様子で、うぅむと唸って黙りこくる。
「……まぁ、活発な子とは言えませんでしたなぁ」
「あ、そこは昔からなんだ……」
そんな、当たり障りのない事だけ。 老人が口にしたのは、たったのそれだけだ。
本当に見たものは一切言葉にせず、煙に巻いて、それだけだった。
もちろん、言ったことは嘘ではない。
ただ、その活発ではないという表現の深さを明確にしていないだけで、間違ったことは言っていない。
……いくら友人であるとはいえ──かつての彼女はただの抜け殻であった、なんて。 そんな事をぽんと言えるほど図太い神経を有していなかった。
「……おお。 もうじき息子が来ます。 今回の目的は体調管理のための相談だそうですが……えぇ、それはあやつに聞いてくださればよろしい。 事故以前の主治医はあやつですからな」
「感謝いたします。 お話を聞けて幸いでした」
「……幸い、ね。 そもそも、こうしてある今を幸いと言って良いのかも分かりゃしませんが」
今この瞬間を良いものと表すか、悪いものと表すか。 特に意味を持たない疑問だ。
それがどちらであったとしても、この老人にできることは何も無い。
所詮は外野。 関係が完全に途絶しているわけではないが、しかし薄いものでしかないのだ。
どうしようもない状況でそれでもと足掻くのなら、せいぜい祈りを奉じる程度が限界である。
この老人は、そういう身の程というものをよく弁えていた。
「あの子を、よろしくお願いします」
下げられた頭。 そこからふわりと、線香の匂いが漂う。 それに包み隠された甘い匂い。
嗅覚によく優れた存在であれば気付ける程度の、微妙な腐臭。
「……あぁ、そういう事か……」
その原因に、その理由に、気付いたところで何ができる訳でもない。
世の中には力の及ぶ範囲と、それ以外の範囲外が明確に存在している。
今の老人がそうであるように。 これからの少女達がそうであるように。
世界とは所詮、そういうものである。
まったく面白みのないことだ。
◆
──今日の目的の人物が現れたのは、老人がいなくなってすぐだった。
三度のノックの後、ひょっこりと覗く青白い顔。
それを見た瞬間、ほんの少し尻尾の毛が逆立ってしまうほどに血の気がなかった。
老人が言っていた不健康そうな顔という表現は確かに当てはまっている。
田島医師。 齢は……些か老け気味であれど、顔立ちからして三十代前半か。
背は高くも低くもなく、少し心配になる程に痩せている。 どこぞの痩せぎすのトレーナーよりマシではあるが、一般的な感性を持つ者からすれば病を疑ってしまう程。
「やぁ、初めまして。 遅れてしまって申し訳ない」
「初めまして。 アグネスタキオン、です……。 本日はお時間を作っていただき──」
「ああ、いいんだ。 そう畏まらないで。 僕はそんなに偉ぶれる人間じゃないし……もうすぐ、この病院も辞める事になってるし。
……まぁ、何だ。 鶏ガラが喋っているな、程度に捉えておくれよ」
なんて殊勝な事を語りつつ椅子へ着席するが、その道中の足元がひどくふらついている。 見守る側としては気が気でなかった。
不健康そう? 一体何の冗談なのか。 不健康そうではなく、不健康そのものである。 歩く医者の不養生だ。
アグネスタキオンに医者としての見識は無いが、しかし。 そんな素人目に見ても"いや~これはキツイねぇ"と言いたくなってしまった。
常日頃から引きこもっていて、己がトレーナーがいなければ食生活も乱れきり、日常生活も要介護気味である彼女に言えた義理は無いが、しかしそれにしてもあんまりな様相である。
「……顔色がよろしくないようです。 ステータス、『睡眠不足』、『過労』と判断します」
「それって大丈夫なの……んん。 大丈夫、なんですか? 日を改め、ますか?」
「いや、いいや。 これは普段通りだから気にしないで。 それに、今日の夕方からは早めに休む予定だから」
「そ、そうなん、ですか」
「……敬語、外してもいいからね」
「えっ、ホント? ありがとー!」
途端に調子を良くするトウカイテイオー。 まったく無邪気なものだ。
「……」
青年に視線を向けて、それで、と、話を切り出そうとしてみた。
もちろん、先駆けとなるのはアグネスタキオンだ。
そうであるべき理由は特に無いが、自然とそういう流れになってしまったのだから仕方がない。
が、二の句を告げる前に手を翳され、押し留められてしまった。
青年はもごもごとほんの少しだけ言い淀んで──また、口を開いた。 線香の香りがする。
「……ああ、まぁ。
今日、聞きたいことは分かっているよ。 そして僕はきっと、君たちが求めている答えも知っている……と、思う」
そして、回り道もせずに本題を口にした。 願ってもない事である。
知りたいことを早くに知れるのならそれに越したことは無い。
しかし、どうしてか。
少しだけ寒気がするような、何となく薄気味悪さを感じるような、微妙な居心地の悪さを抱いてしまう。
居住まいを正しながら、そっと眉を顰めた。
「僕は、僕が知っている限りを垂れ流す。 全部、嘘偽りなく……ね。 そうじゃないと、あぁ……なんというか、頭がおかしくなるような話なんだよ。 話そうとするだけでも頭がおかしくなりそうだ。 いや、いや、もしかすると既に、おかしくなってるのかもしれない」
とはいえ彼にはそんな事お構いなしだ。 どんどんと話を先に進めるために言い募る。
何故そうも念押しするのか。 理由は欠片もわからないが、しかし。
その容貌と同じく、心までもが病んでいるように思えてしまう。
それは落窪んだ瞳のせいなのか。 鉄板を引っ掻くような甲高さを含む語調のせいなのか。 その正体までは判別つかないけれど、少しばかり恐ろしい。 狂気を感じる。
しかし、その語りを突っ撥ねるほどの理由はない。
アグネスタキオンのみならず、各々が納得したように頷いて見せ、一旦その"知っている限り"を聞くための姿勢を整えた。
「ああ、そうだ。 まずはこれを見せないと……」
青年が持ち込んできたカバンを開く。
そして中の紙束を、机の上に無造作に放り投げた。 ぱさりと紙と空気のこすれる音がした。
コピー用紙は印刷されたばかりなのか、まだ新しいインクの匂いを漂わせている。
「これがカルテだ」
それから、事もなげに宣った。
カルテ、個人情報の塊。 それを本当に単なる紙切れのように放り出され、反応に困ってしまった。
「……。
……いや、待っておくれよ。 そう簡単に見せて良いものなのかい? そんなポイッと放り投げて良いものなのかい?」
「ああ、本当は良くない。 が、これは偽物だからね」
「……はぁ?」
「いや、すまない。 これは正確ではないな……そう、これは、確かに本物だ。 けれど中身は、本来のものとは違う……違う筈の、何かなんだ」
なんて、言い直された。 言葉の意味を咀嚼してみる。
偽物であると言い、しかし本物でもあると言う。
なんだそれは、矛盾しているじゃないか、と小首をかしげて見れば──青年は、重々しいため息を吐きながら、ソファーに体を沈めていった。
記されている名前は『ファインドフィート』。
年齢、十歳。 性別は女。 血液型がO型。 身長は143cm。
そういった詳細な情報に至るまでを赤裸々に綴った紙を、各々が視線だけでなぞる。
しかし青年はそれを、本物と偽物というそれぞれ真逆の言葉で表現した。
……彼自身、支離滅裂なことを言っている自覚はある。
一体こいつは何を言っているのかと、そう詰られても仕方がないと考えている。 むしろ青年自身が自分をそう詰っていた。
けれどそれは、誤りではない。 偽物であって、同時に本物である。
それらは両立する。 両立してはならないのに、両立してしまう。
「前提から話そう。 そう、最初は……あの子が交通事故にあった後。 あの子の……あの子達の執刀を担当したのが僕だった。 ここの病院は事故現場から近いし、元々僕があの子を診ていたからね。 まぁ、役回りとしては順当だろう」
「……疑問。 元々、というのは。 何を指しているのでしょうか。 フィートさんは、以前からこの病院に掛かっていたという事ですか?」
「あぁ、そうだ。 あの子は産まれつき心臓が弱かったから……ずっと、ここに通っていた。 そうだ、そうだね。 前提というからにはあの子自身の話をしなくては。 そうだ、そうだった」
また、長いため息を吐く。 純粋な息継ぎだ。
青年の身体は疲労を溜め込みすぎているせいで、こうして話すだけでも体力を消耗してしまう。 長々と話し続けるだけで負担になる。
医師を辞める理由というのは、つまりこういう事だった。
その理由は何なのか。 今日出会ったばかりの面々に理解が及ぶはずはない。
……それに、何であれ。
今日この日、この場所、この面々で語るべきは弱りきった医者の中身ではない。
必要なのは、答え合わせの時間だ。
ただひとり、他の誰とも違う視点を持つ漆黒の少女がそっと身を乗り出した。
「そう。 あの子は心臓が弱かったんだ。 成長する体を支えられない程に。 だから……歳を重ねていくたびに、歩行能力は損なわれていった。
八つになる頃には杖無しには歩けず、九つになる頃には車椅子での生活を強いられていて……そう遠くないうちに、寝たきりの生活になることも予見されていて。 だからあの頃は、心臓移植のドナーを待つばかりの日々だった」
遠い過去を懐かしむように、しみじみと語る。
瞳には淡い寂念が滲んで、あの頃と口ずさむ声音には隠しきれない憐憫が混入していた。
「それに加えて、あの子は世にも珍しい準一卵性双生児。 世界でまだ片手の指で足りるほどにしか発見されていない……本当に珍しい、子供達だった」
「……なるほど。 その片割れが……お姉さん、なんですね」
「マンハッタンさんはお姉さんの事を知っているんだね……あぁ、キミ達もかな? けどまぁ……細かいところは気にしないでいいんだ。 ただ、あの子はこの病院に通う必要があった事と……僕があの子達を覚えている事を、理解してくれたら十分だ」
そして、ひゅっと息を吸う。 不器用な呼吸は、彼の性根にも似ていた。
ひゅっと吸って、すぅと吐いて。 風船から空気が抜ける時のような、ひょうきんな音をこぼす。
疲労が溜まっているのだろう。
その視線はぐらぐらと揺れていて何処を見ているのかも定かではない。
額には冷や汗が滲んでいる。
明確に、ほんの数分前までよりも顔色が悪くなっていた。
ミホノブルボンは、休みますか、と声を掛けてみた。
しかし青年は、何も問題ないよ、と返してくる。
まるで何処かの誰かみたいだ。 少しだけ腹立たしくなってしまう。
「それで……ああ、ごめんね。 話が逸れちゃった。 あの子の、事故の事だ。 事故の後、執刀したのが僕だった。 あの子達を、執刀したのが僕だった」
口を開くたびに血の気を失いながら、何かに急かされるように、記憶を掘り起こして言葉にする。
急かされて、急かされて、急かされて、急かされて。
「あの子のお姉さんは……そう、両足の損失と、腎臓、胃を失っていたんだったか。 そしてあの子は──そう、心臓だ。 綺麗に心臓だけを失っていた。 直ぐそばの内蔵も骨も傷つけずに、ただ狙いすましたかのように心臓を、鉄杭が貫いていた。 即死、だった」
それでは。
まるで今いる彼女が、一度死んでいるみたいではないか、と疑問を抱く。
そうであれば、己達の知る彼女は一体何なのかと。
ミホノブルボンはか細い声で、疑問を投げかけた。
「まるで、じゃない。 あの子は一度死んでいる。
双子の片割れの、幼いほう。 小さな子だった」
「……まるで、理解が追いつきません。 あなたが何を言いたいのか、論理が破綻しているようにしか思えない」
「僕が君の立場だったなら、きっと同じことを言うだろうなぁ」
一度息継ぎをする。 二度咳払いを挟む。
そして、三度目に口を開いた。
「だから、僕は……ああ、ごめんよ。 何を言おうとしたんだったか……。
そう、そう……そうだ。 僕は、あの子を生かすために、あの子のお姉さんと約束したんだ。
僕が。 そう、僕が。 あの子を生かすために、心臓を移植するって、約束したんだ」
「……待ってくれ。 キミ、まさか……生きている側の臓器を、遺体に移植したのかい? 私の聞き間違いでもなく?」
「そう、言ったよ」
思考の起承転結が理解できない。 約束に至る過程も理解できない。
死んだ、と明言した存在に対して、しかし心臓を移植するのだという。
が、心臓を移植したとしてどうするのか。
心臓が動くだけで死者が蘇るのであれば、今頃世界の死者はもっともっと減っていた。
やがて死は単なる病に貶められて、生の価値も暴落していたに違いない。
だというのに、夢物語でしかない筈のそれを大真面目に検討するのであれば。 それはきっと、狂人の思考回路と言い表す他ない。
しかし、それを実行したから今がある。
ファインドフィートという少女は、その狂気の上に成り立っていた。
「……どうして、なのさ。 だってさ、フツーに考えたら無理だって思うじゃん。 なのに、どうして?」
「どうして、か。 どうして、そう……何故、わざわざ生きている方をドナーにしたんだろうか。
実は僕自身さえ、分かっていないんだ。 あの子に請願されたから? 死者蘇生なんて、ありえないことが実現されるとでも信じていたのか? あるいは……その死者蘇生が僕の手に叶うかも知れないなんて、そんな事を妄想していたのか? そう囁かれた事を、本当にできるかも知れないと信じてしまったのか。
……今となってはもう、僕にだって分からない」
「ちょ……ちょっと待ってください。 囁かれた……というのは、一体だれから? 何を囁かれたのですか?」
「さて……何だったかなぁ。 ごめんよ、もう覚えていないんだ。
けど僕は結局、あの子の胸にメスを入れた。 信じられるかい? まだ生きている子供の胸を切り開いたんだぞ。 それは、そんなの、許されないだろうに、それでも僕はメスを振るったんだ。 それを、助手も誰も咎めない。 僕の良心も咎めない。 だから僕は、心臓を移植した」
トウカイテイオーの疑問。 マンハッタンカフェの猜疑。
それらに彼なりの真摯な回答を返して、また何度か咳をする。
幾らかの時間を呼吸の安定化に費やして、喘鳴の音を押し潰す。 もはや単なる病人だ。
けれど舌の根は乾かないままで、歯の裏を叩き続けていた。
「そして、遺体は、あの子は、蘇った。 今はもう誰も覚えていないあの子は……確かに蘇った」
「……覚えていない、というのは?」
「文字通りの意味……の、筈だ。
だってあの子は、ファインドフィートじゃない。 ファインドフィートは、あの子の姉の……ドナーの名前だ。 なのに、あの子はファインドフィートになった。 ああ……じゃあ、あの子は何処に行ったんだ? あの子は、あの小さな子は何処に行ったんだ?」
あの日の青年は、そうして禁忌を犯したのだ。
それが善意によるものか、悪意によるものか、虚栄心によるものかも判別がつかないのに。
……その動機が何であれ、今の彼女はそうして生まれた。
それそのものの良し悪しは、まだ分からない。 だって、まだ結果に辿り着いていないのだから。
「なあ、なあ。 ごめんよ、僕に教えてくれないか。
僕は、誰を殺したんだ? あの子は誰なんだ? 僕は、あの子から何を奪ったんだ? 僕は、あの子を何にしたんだ?」
「それ、は……」
「僕は、こんな事のために医者になった筈じゃないんだ。 僕はただ、命を救いたかっただけなんだよ。 僕は、あの子の過去を消したかった訳じゃない。 なのに思い出せない。 あの子の名前が、思い出せない……」
そして、骨ばった指先で机の上のカルテに触れる。
指し示したのは、名前。
「どうして、あの子の名前まで忘れたんだ」
そこはドナーの名前があるべき場所だった。
けれど今は黒塗りの面で潰されて、あった筈の文字を隠されて、過去の痕跡が鎮座するばかり。
「……これは、どういう事なんですか。 何故名前が消されて……」
「コピーエラー、という訳では……無いみたいだねぇ」
「僕にも、分からない。 誰も教えてくれないんだよ」
「分からない、なんて言ったってさぁ……」
そうして、消されていた。
その男が忘れるべきではなかった記憶が、残すべきだった記録が、全て黒に侵されていた。
何も、個を特定する要素は読み取れない。
「どうして」
──ミホノブルボンもつい、白い手を伸ばしかける。
けれどカルテに触れるでもなく、そのままゆらゆらと彷徨わせて。 結局行くべき先が分からなかったから、ただの中空でぎゅっと握りしめた。
彼女に出来たことと言えば、それだけだった。
そして、それが答えだ。
忘れ去られた誰か。 蘇った誰か。 『ファインドフィート』の名を継ぐ誰か。
その誰かがやがて求めたものは、栄誉と証明。 それによって成る償い。
共に過ごした今までと過去の姿をすり合わせれば、自ずと見えてくる解答だった。
あれはそれを求めて生きているのだろうと、核心に近いところまで足を踏み入れる。
そして以前、マンハッタンカフェが口の中に吐き出した疑問は解消した。
良くないものと称した『あれ』がいつ憑いたのかといえば、つまりその手術の時から始まったのであろうと簡単に予測できる。
……しかし、けれど。 また新しい疑問を抱いてしまった。
蘇生をキッカケとして憑き始めたのであれば──あの某は、いま、何のために憑いている?
何のためにああも絡みついているのか。 そも、あの首の糸は何なのか。 意図は一体何なのか。
それだけが、未だに見えてこない。
何故執着しているのか、その理由が。 だから、足りていなかった。 今もまだ。
「ああ……なんてことだ。 こんな僕が、どうして人を救えるなんて思い上がったんだ。
罪深い、あまりにも罪深い。 どうしようもなくて、もう、消えてしまいたい……」
そして、その思索を齎した人間は背を丸めて嘆くばかり。
酷く矮小な背だ。 ちっぽけで、みっともなく、消え入りそうな声だ。
けれどそれが、どうしようもなく誰かの姿に重なるから。
「どうせならせめて、裁いてくれよ」
ただ、ただ、胸が軋んでしまう。
◆
──帰宅に向けた道中。 来た時と同じ道を逆順に歩く。
周囲は同じ景色のはずだったが、しかし顔の向きと時間が変わったせいなのか、程々に寂れた町並みは表情を変えていた。
例えば仕事終わりのサラリーマンだったり、夕飯の材料を買い込もうとしている主婦だったり。
人波は増え、道を照らす色彩に朱色が混ざり、穏やかな雑踏が遠くからも鳴り響いてくる。
この数瞬だけを無限に繰り返しているような、ほんのりと停滞した雰囲気。
夕暮れという寂寥感と、幾らか溜まった気疲れまでもがぐちゃぐちゃに混ざり合って、ある筈のない"懐かしい"という錯覚さえ生み出していた。
そんな空の下を、大した会話もなく歩む。
こつりこつりと足を進める。
そして、目的の駅にたどり着くまであと数分となった頃。
アグネスタキオンがふと、思いつきのままに口を開いた。
それまで長いこと喋っていなかったせいで最初の一音だけ少し上擦っていたけれど、仕方のないことである。
「思ったんだが、カフェ」
「はい」
「これは、例のオカルト絡みかい?」
「……はい」
「そしてキミのいう『お友達』より、ずいぶんと話が通じないタイプと見た」
「……はい。 まさに」
あくまでも、事実の確認だ。 疑問とするには強い確信を含む語調だった。
故に肯定を受けて、ただ、納得した様子で頷く。
「……これはあくまでも、私が部外者だったからこそ考えることだ。
キミ達みたいにフィートくんの性格や個人の内面をさして知らないからこそ、考えつくことだ。 だからそこは履き違えないで欲しいんだが……」
こつり。 歩みを止めないまま、前方から視線をそらさず、周囲の三名へ思考の中身を垂れ流す。
言って聞かせている訳ではない。
アグネスタキオン自身でも整理がついていない様子のまま、ささやき声にも近い控えめな独り言を口にした。
舌の根も乾いているのか、声の芯が少しだけ掠れる。
「あまりにも、都合が良すぎるんだよ。
カフェ、キミのいうオカルトチックな某がフィートくんに関わっているとして……その某は、きっとフィートくんに助力しているんだろう」
「助力……?」
「正直、こういう言い方は好まないんだけどねぇ……そっちのほうが納得できるのさ」
普段と何も変わらぬ温度感だ。
そのまま人差し指を立てて、空中をくるりくるりと掻き回す。
「助力。それが指すのは、フィートくんが求める物を与える手助けだとしよう。
で、フィートくんが求める物は何か。 九冠だ」
「ま、結構有名な話だよね。 あの子ったらしょっちゅうアピールしてるんだもの~」
「……では何故九冠に拘っているのか、知っているかい?」
「それは……申し訳ありません。 明確な解答は、メモリに存在しません」
「もちろん私も知らないねぇ」
そして、温度感が変わらぬアグネスタキオンという少女だからこそ、見えるものがあった。
声音は変わらず。所作も変わらず。
冴えた頭脳でパズルのピースを嵌め込んでいって。
「思うんだが……栄誉、という面から考察するのであれば、既に達成されている筈だ。 だって五冠だぞ。 栄誉は十分の筈だ。 結果は十分の筈だ。
もちろん、メジロ家のように特定の栄誉に価値を見出しているのであれば話は別だが──何故、九冠なんだい? そこに拘る意味は何だ? それ以上が無いから……等とは言わないだろうに」
そうして導き出した仮定を、仮定のまま放り出した。
アグネスタキオンは個に由来する物を殆ど知らない。
『姉』なる者の存在を表層だけしか把握しておらず、かつての『あの子』が抱いた感傷を知る由もなく、受け継いだ夢としての概念にも思考が及ばない。
しかし、だからこそ、『あの子』の内面に囚われる事もなく、乖離した現実を客観的に俯瞰する事が叶うのだ。
「まるで、そう。 フィートくんを使って、バカでも分かる物語を作ろうとしているみたいだ。 冠を単純な数に変換して積み上げてみれば、それで偉業の完成だ、とね。
テーマは古典的な英雄譚か、はたまた童話のたぐいか……」
──これを真実として確定させるには、少しばかり根拠が足りないけれど。
けれど、それもあり得るなと。
マンハッタンカフェは、やや間を空けて頷いた。
人間を使って、物語を作る。
都合の良い過程を経て、用意された苦難を乗り越え、求めた結果を手にする。
が。 言うは易し、行うは難しどころではない。 不可能だ。 それは人生そのものを操る事と同義である。
そもそも都合が良い過程とは何か?
冠さえも過程に貶めて、あったはずの苦悩を大衆から隠し、個人の自我すら封じ込めるそれを、どうやって実現させる?
だから、これは不可能だ。
不可能でなくてはならない。 その筈だったけれど。
「……なんだか、少し腹が立ってくるねぇ」
ひとりの人間を、ひとつの人形へと堕として。
そして好き勝手にレッテルを貼り付けて、造る者としての都合を押し付けて、機械的に苦行と栄光を与え、掌の上でころころと、命を転がす釈迦ならざる行い。
そんな事、あってはならない。
故にこの場の誰もが、これを真実として扱いたくなかった
なんて、悍ましい。
油性ペンを握る。 指先でくるくると回してみる。
そして自分のハンモックを占領する女を見下ろしながら、ゴールドシップはやや呆れを含んだため息を零した。
「何時まで寝てるんだよオメーは。 ゴルシちゃんのパチもんのくせによぉ……」
その女はゴールドシップによく似た風貌をしていた。
その女は現代日本では早々見ない装束を着ていた。
その女は、その女のつま先は、薄っすらと透けていた。
その女を見下ろしながら、油性ペンの蓋を外す。
「……寺生まれでも探すか? テイエムオペラオーとか実質ティーの字で通るだろ、たぶん」
……ただまぁ何であれ、色々と手間を掛けさせられているのだ。
可愛げのあるイタズラ程度、許されるに違いない。
『院長』
元主治医。 もうすぐ辞める予定。
かつての少女の、抜け殻としての姿を知っている。
だからこそ友人に恵まれたらしい今をとても喜んでいるし、かなり浮かれている。
余命は残り半年。
『田島』
院長の先任の主治医。 医者としては極めて優秀だが、もうすぐ辞める予定。
御供の家の墓参りの供え物を考える時、頼られているのはこの男。 カクテルという発想もこの男に齎されたもの。
けれど本当は、恨まれたかった。 憎まれたかった。
そして、裁かれたかった。 そうであれば、今の自分を認められる気がしたから。