【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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51話

 

 はらっぱを駆ける夢を見た。

 右手の先には自分の片割れがいた。 駆ける先には顔のない両親がいた。

 どちらも、自分達を抱擁しようと両腕を大きく広げている。

 

 だから、これが夢だとすぐに気付くのだ。

 もし走ることができる身体なら、あの大きな腕で抱き締めて貰えたのに。 こんなにも、惨めな気持ちになることもなかったのに。

 

 最後に抱き締めてもらえたのは、いつだったろうか。

 

 


 

 

 朝が来た。 朝が来た。 朝が来た。

 目を覚ます度に、新しい朝が来た。

 目を覆いたくなるような、美しい朝が来た。

 変わらない日々を重ねて、重ねて、重ねて。

 ある筈の無かった今を過ごす。 片割れを欠いたまま、目を開く。

 呼吸をしながら、地に足をつける。 暖かい朝だった。 つま先は冷えとは無縁で、血の気がよくよく通ってくれる。

 

 ベッドから身体を起こして顔を洗って。

 そうして、今日も一日が始まった。

 

 それを素晴らしい、なんて。

 これっぽっちも思えない。 感謝なんてない。 ただそうあるものと受け入れる事すらしたくない。

 

「……また、間違えてるのかな」

 

 しとしと、睫毛の先から雫が落ちる。 つつーと、頬の水気が小川をつくる。

 たったそれだけのことすら、どうしようもなく忌まわしい。

 目を覚ますのも、呼吸をするのも、水を飲むのも、何もかもが罪深いのだと。 罪悪感が突き刺さって、腹の中身を遠慮なしに掻き乱した。

 吐き気がする。

 

「前に進めば進むほど、誰かを傷付けてる。 誰かを裏切ってる。

 これが、本当に正しいの? 正しく、できるの……?」

 

 そもそも、こうして悩める時点で可笑しいのだ。

 

 本来であれば、こんな現実をあれやこれやと心に留める必要なんて無い筈だった。

 誰かと共に歩むこと。 誰かの言葉に応えること。 朝を迎え、夜を越えること。

 本当に、彼女が求めた通りを形にするのなら。 こういう味気のない日常を極限まで単純化し、尽くを一文のみで評価し、価値なきものは記憶すらしないべきだったのだ。

 今日も一日が終わった、とか。 今日も頑張った、とか。

 そういう一言で全部を括ってしまえば良いはずだった。

 

 ……だというのに。

 困ったことに、ファインドフィートはこれに価値を感じているから。

 目にしたもの、全てを愛おしく感じてしまうから、余計に苦しくて、未練の鎖が増えていく。

 忘れても忘れても、その端から大切なものが増えていく。

 いっそ、地獄だった。

 

「……もう、忘れたくないなぁ……」

 

 そして叶うなら、これ以上はもう背負いたくない。

 舌の根っこにそんな真意を留めて、胸元にそろりと指先を伸ばした。

 胸の奥の心臓は今日も元気だ。

 とくり、とくり、とくり、とくり。 規則正しく丁寧に鼓動を刻んでいる。 与えられた命は昨日と今日を繋いでくれている。

 たったそれだけの事実が重たくて、息苦しい。

 

 

 ◆

 

 

 今日は土曜日だ。 さんさんと日光が降り注ぐ、未だ麗らかな白昼の途上である。

 世の学生達は休日を楽しんで、あるいは家族や友人と仲良く過ごしているのだろう。

 

 けれども、ファインドフィートには無縁の話だ。 少なくとも、今日は。

 身に纏うのはおしゃれな私服ではなく赤ジャージ。 手にするのはお出かけ用のカバンではなくトレーニング用のバッグ。 つまり、休日はトレーニングに時間を費やすつもりだった。

 それはもちろん、直近のレース──目黒記念が近付いているからで、ひいてはその先の宝塚記念にも備えてでもある。

 加えて今日は、仲の良い先輩方が何処かへ外出している。 ファインドフィートを置き去りにして。 その理由は薄っすらと把握しているけれど、それだけだ。

 当然ながら追いかけようとは思わないし思いたくない。

 故に、態々自室で過ごす意味が皆無だったのだ。

 

「……タオルよし、ドリンクよし、蹄鉄ハンマーよし、シューズよし。 身体の調子は……」

 

 諸々の備品を詰め込んだカバンを横に置き、立ち上がって、左右のつま先をぎゅっと伸ばす。

 右足を前へ差し出し、筋を伸ばす。 痛みはない。

 そのままトンと軽やかに着地して、振り子のように左の足を前に差し出す。 そしてまた、つま先をぎゅっと伸ばしてみる。 足首を軽く反らして──緩慢な動きで、左足を引き戻した。

 

「良くない、か。 あんまり」

 

 痛みは、無かった。 けれど、ずんぐりと重い。

 骨の髄から左足全体に纏わりついてくる、嫌な重さだった。

 それを認めて、なんて面倒なと、苛立たしげに舌打ちを零す。

 

 仕方なく一度椅子に座って、ミホノブルボンと共用の棚の中から茶色い小箱を取り出した。

 その小箱は両手のひらほどの大きさで、蓋を開けてみれば、大小様々なテープが収められていた。 ぐるぐる巻にされた人肌色のテープだ。 それらは多少使用された痕跡はあるものの、残量は十分。

 所狭しと並ぶそれらの上にすっと視線を滑らせて、目的のサイズを探す。

 25ミリ、38ミリ、50ミリ、75ミリ──ファインドフィートが手に取ったのは50ミリ幅のテープ。 足首に巻きつけるには丁度いいサイズ感だ。

 

 これはいわゆるテーピングに使用されるもので、キネシオロジーテープという種類だった。

 身体の保護や補助を目的としたそれは伸縮性であり、筋繊維と同等程度の効率で伸び縮みする。

 ……詳細な原理はともかくとして、これが足首の違和感を軽減してくれるのだ。

 

 記憶の中にある教本通りに手順をなぞらえ、手際よく足首に巻きつけて。

 ズレが無いことや、動いてもしっかり保護される感覚がある事を確かめて、再度すくりと立ち上がった。

 そしてカバンを手に取り、ジャージの裾を揺らす。 ドアノブに手をかける。

 

「…………」

 

 そしてドアの前で振り返って、それだけ。 "行ってきます"、とは言わない。

 だってこの部屋には誰も居ないから、帰る場所でも何でもない。

 無音でドアを開いて、パタリと閉める。

 

 引っ越して来た当初は小煩かった蝶番。

 それも何時しか修理をされたおかげで、悲鳴も何も上げやしない。

 時間の流れを証明するそれが、今更、少しだけ寂しく思えてしまった。

 

 

 ◆

 

 

 部屋を出たファインドフィートの目的地は、トレーナー室だった。 近頃は少しだけ使用頻度が減ってしまった拠点である。

 が、辿り着いたは良いものの、部屋の主たる痩せっぽちの男はまだいない。

 仕方なく備え付けのソファーに腰を下ろして、ぼんやりと天井を眺めて待ちぼうけていた。 窓の外では木々の葉っぱが優しく揺れていた。 風を受けている割には穏やかで、精々そよ風程度である。

 この状態で外を散歩したらさぞかし気持ちが良いのだろうな、なんて思いつつ、自分の尻尾で"そよ風程度"を再現してみた。 毛の先ほどには似ている動きだった。

 

 そうして暇を潰しながら思うのは、"なんだか懐かしい感じがするな"という、なんとも奇妙な感傷だった。

 三年目になってから色々な出来事があったせいかもしれない。 実際の月日で見れば久しぶりという程でも無いはずだけれど、錯覚というには明確すぎる。

 そもそも潰せる暇がある事実が違和感の塊だ。

 

 特に、天皇賞の春を終えた後。

 あの頃からファインドフィートも、ファインドフィートの身の回りも、随分と落ち着きをなくしてしまっていた。

 それは春シニア制覇が近いから、という事もある。 そこに加え、友人達との関係もそうだし、トレーナーとの関係もそうだった。

 

 友人達。

 特にトウカイテイオー。 彼女との関係は今も冷え込んだままだ。

 とはいえファインドフィート側から勝手に距離を置いているせいなのだから、冷え込むという表現は正しくないかもしれない。

 が、どちらにせよ以前のように仲良く団らんを──なんて事は、めっきりと無くなってしまった。 逃げているのだから当然だ。

 

 そして、トレーナー。

 病院に搬送されてからというものの、急に歯切れの悪くなった男。

 その上、以前までのようなトレーニングメニューを組んでもらえなくなってしまったから、多少の不満がある。

 前までは限界ギリギリの、効率だけを考えた過酷なトレーニングを立案してくれていたというのに。

 そのくせに今はダンスだとか歌のレッスンだとか、そういう優先順位が最下位クラスのものばかりを指示されている。

 そして週に数回程度トレーニングの予定が入ったかと思えば、やれ体幹トレーニングだの、馴らし程度のランニングだの、何故か合間に差し込まれるヨガだの、そういう負荷の少ないメニューばかり。

 言うなれば、露骨に気遣っているのだ。 負担を与えないように。

 

 当然、不満だった。

 だからそれに対する不満を足りない言葉で言い募ってみれど、迂遠に宥められるばかり。 歯痒かった。

 少女はその現状に納得できなかったのだ。

 

(別に、今まで通りで良いのに)

 

 丁重に扱われること。 それ自体が悪しき物とは思わない。

 だってそれは、あくまでも善意に拠るものだからだ。 それを否定できるほど、ファインドフィートの面の皮は厚くなかった。

 怪我をしないように、と願われると、胸の奥がじんわりと温かくなる。 それは決して嘘ではなく、本心から湧いたものだ。

 

(……今まで通りが良かったのに)

 

 けれど、どうにも物悲しくなる。

 ぬくもりを宿す言葉を告げられる度に、とたんに居心地が悪くなる。

 胸の奥のぬくもりは急速に湿り気を帯びて、背筋に這い出し、ぞわぞわと神経をいたぶって。

 そして、うなじのあたりから冷たい汗が滲むのだ。

 

 それの感情を、何と言い表すべきか。

 最も近いもので言えば──それは、惨めさ。 ファインドフィートは、惨めな気持ちになってしまった。

 そうさせている自分が、酷く憎たらしい。 足りない自分が、何処までも情けない。

 やり場のない気持ちだった。 それを今も、ずっと抱えたままで。

 やがてその先に、まったく良くない考えまで浮かんできしてしまうから、それを振り払うのも一苦労だ。

 

 

 ……それから、ほんの少しだけ時間を置いて、ようやく部屋のドアが開く。

 姿を見せた足音の主は、やはり痩せぎすの男。 葛城だった。

 目の下の隈は相変わらずで、どす黒い化粧を施している。 そんな彼の姿を見て、僅かな安堵と共に立ち上がった。

 

「トレーナー。 遅かったですね」

「……ん、あぁ、悪いな。 大した用事じゃなかったんだが……まぁ、思ってた以上に長引いてな」

「いえ」

 

 その血色の悪い顔色に、もう少し寝てても良いですよ、と言いたくなる。

 今さら口に出したところで改めてくれるような男でもないから、この場で言及はしないけれど。

 ……しかし、貴重な睡眠時間を削ってまで会いに行ったとは、いったい誰のところなのか。 それは少し気になった。

 

 男に近付き、すんすんと鼻を鳴らす。

 そうして香ってきたのは……この痩せっぽちには似合わない、華やかな香水の匂いだった。

 

「あぁ、なるほど。 崎川トレーナー、ですか」

「……イヌ娘に名乗りを変えたほうが良いんじゃないか? まぁ、それだけ鼻が利くんなら将来も安泰だな……。 ほら、今どきは麻薬探知とか、がん探知とか、色々活躍の幅が広がってるらしいじゃないか」

「流石に犬には勝てませんよ。 嗅覚受容体の数はわたし達の方が多いですけど……それでも、彼らほど細かく嗅ぎ分けることは出来ません」

 

 葛城とて、随分と失礼な事をのたまった自覚はある。 が、対するファインドフィートには苛立つ様子がまるでない。 むしろ、このやり取りさえ楽しんでいた。

 それを半ば直感的に理解して、葛城は長い長いため息と共にソファーへと沈み込んでいった。 酷く疲れ切った様相だ。

 

「その……もしお疲れなら、そのまま休んでいてください。 メニューを頂けたら、こちらでやっておきますから」

「ああ、いや……大丈夫だ。 今寝るほどじゃあない。 それに……大事な話をしておきたくてな……」

「……はぁ」

「まぁ、座ってくれ」

 

 多分に吐息を含んだ声は、やや重苦しい。

 聞いているだけでも腹の中がきゅっと重くなってしまうような、そんな声音だった。

 だから無意識に耳を垂れさせて、言われたとおりにソファーの対面に座る。

 その彼女の顔を見る視線があんまりにも真剣だったからこそ、相対する側までもが引き摺られてしまうのだ。

 何か悪いことでもしていただろうか、とか。 隠し事が知られてしまったろうか、とか。

 ついつい、そんな心配までしてしまう。

 

「あー……念のために言っておくが、これは悪意あってのことじゃあない。 それだけは分かって欲しいんだが」

 

 けれど現実は、彼女の予想の斜め上をいくもので。

 

「レース活動は、休止にしよう」

 

 その言葉は、まさに寝耳に水だった。

 ファインドフィートはまず、怒るでもなく、反論するでもなく。 ただ、この男の発言の真意を掴み損ねてしまった。

 は、と。 疑問符を付けることさえ出来ず、成り損ないの吐息を絞り出すのが精一杯だ。

 まず、意図するものが理解できない。 そんな発言をする意味がない。

 彼の発言は今まであった土台をひっくり返すだけのもので、そこに何かしらの意義なんて欠片も存在しない。

 

 だって急に、地に足つける事をやめようだとか、そんな脈絡のない事を言われて納得できるだろうか。

 水を飲むことを一切やめようと言われて、それに粛々と従うだろうか。

 ……いいや、ありえない。

 まず、それには現実味がない。 あんまりにも生産性のない、無駄な発言だ。

 ファインドフィートにとって、葛城の勧告は、そういう次元にある意味不明な音の塊でしかなかった。

 

 ゆるりと小首をかしげて、葛城の目を覗き込む。

 真っ黒な瞳は常と変わらず、硬質な光を宿しているばかり。

 期待していたような、おふざけの色もからかいの色もない。 相変わらず、この男は真剣な様相のままで。

 

「……ああ、もしかして。 まだ、寝ぼけているんですか? 

 もっと寝ていてもいいんですよ。 トレーナーは……その、目の下の隈も濃いですからね」

「寝ぼけてはいない。 今日は9時間も眠ったぞ。 万が一の、気の迷いを無くすためにもな」

「……では、お腹が減っているのでしょう。

 頭に血が上っていないんですよ、きっと」

 

 だからまったく、本当に、理解できないのだ。

 だってこの葛城という男は、チンケな欲のためにファインドフィートの共犯者(トレーナー)になった筈である。

 金が欲しい、名誉が欲しい。 なるほど、大変結構。 ビジネスライクであることは実に素晴らしい。

 その人柄を誰でも簡単に判別できるに、個人のパラメーターを最初から開示している事は実にいい、と。

 ただその一点だけで、ファインドフィートはそれを信頼した。

 間違いなく、本心から、この男を信頼していたのだ。

 

「ファインドフィート。 俺はな──」

「ねぇ、気の迷いじゃないなら何だって言うんですか?」

 

 だというのに、訳の分からぬ世迷い言を垂れ流すこの男。

 まったくもって、ありえない。

 あんまりにも訳が分からなかったから、怒りや悲嘆よりも先に呆れが前に出てしまう。

 ふぅと細い息をついて、少女は男に向けて居住まいを正した。

 

「そうです。 ありえないでしょう、それは。 そんな世迷い言を何故今更、あなたが? だってあなたがここまで連れてきたんじゃあないですか。 なのにそれは、ありえない。 ありえてはならないんです」

「……今更、なんて言われると反論できないがな。 そんなに可笑しいか、これは」

「おかしいです。 当たり前ですよ、ねぇ」

「俺が……お前のトレーナーだからか。 それは。

 それとも、俺個人の気質を指して言っているのか」

「両方です。

 だって、あなたはわたしのトレーナーです。 あなたがわたしを裏切るなんて、ありえない。

 それに、あなたはわたしの脚に価値を見出したはずです。 わたしはまだまだ走れる。 わたしはまだ、あなたが求めていたものを生み出せる。

 なのに、その言葉は……ありえない。 だから……えぇ。 きっと……あなたは、疲れているだけです」

 

 そして、ゆるりと立ち上がる。

 合間の机を迂回して、トレーナーの真横に立った。

 そしてじっと見下ろしながら、薄い唇を震わせて。

 

「そうでしょう、トレーナー」 

 

 そうして発せられた言葉は、まるで縋るような響きをしていた。

 上から見下ろしているくせに、その実は下から見上げる幼子の視線と同じもの。

 

「なぁ。 なんで、俺が崎川に会ってきたか分かるか?」

「……そんなこと、今はどうだって良いじゃないですか」

「まあ聞いてくれ。

 俺と崎川は、キミの知っての通り仲が悪い。 とはいえ、俺が一方的に嫉妬しているだけなんだが──まぁ、あいつはそれだけ優秀なトレーナーだ。 それで、あいつに聞いてみたんだよ。 キミのトレーニング中のデータと、レース中のデータを比較してもらって。

 キミの能力からして、この結果はありえるのか……と」

 

 少女の顔を見上げもせず、手元に視線を下ろしてぽつぽつと。

 組んだ指先は枯れ枝にも似ている。 声音の重さを絡みとることも出来ない程度の、酷く細っこい指だった。

 ファインドフィートであれば、指一本でその十指を纏めてへし折ることは簡単であろう程に。

 

 しかし当然、手を出すことはせず。

 淡々と、男の言葉を聞き留める。 続く先にあるものは、うっすらと予想できたけれど。

 

「……無理、だそうだ。 あぁ、俺と同じ見解だよ。

 それは、精神力でどうこうという範疇を超えている。 火事場のバカ力を意図的に用いる術を弁えているのか、自己暗示でのリミッターの解除か……いや、そんな技術が実在するのかは知らないし、何でも良いんだが」

 

 男がようやく顔を上げた。

 くたびれて、気力を欠いた顔。 痩けた頬。 病の気配を漂わせる輪郭。

 それがファインドフィートへ、疲れ切った笑みを見せる。

 

「──とにかく、それは駄目だ。 駄目なんだよ。 俺も少し前まで、多少なら目を瞑るべきじゃないかと思っていた。 お前を信じたかったからだ。

 けどなぁ……今のお前は、駄目なんだよ。 俺はあの日に見た、しょうもないポンコツと勝ちたいだけだった。 が、今のお前は迷子のガキだ。 そんなガキをだまくらかして夢を見るなんて、そんな欺瞞許されないだろう」

 

 お前、と呼ぶ声が、少女の鼓膜を優しく叩く。 葛城にしては珍しい呼び方だ。

 普段はキミとか、フルネームで呼ぶのに。

 何故かそういうクッションを省いて、そのくせ音の輪郭はひどく柔らかい。

 

「俺なんて……そう、大した人間じゃない。 特別な過去は無いし、強固な信念があるわけでもない。 自分の人生に義務も責任も持てなかった人間だ。

 俺という言葉を表すために必要なのは、それこそ原稿用紙の半分ぐらい……いや、一行そこらでも十分だ。

 ……"才能に溢れた従姉妹に嫉妬して、醜く足掻いている凡人"、ってな。 俺はそういう、くだらん男だ」

 

 そして、そんな声でそんな言葉を連ねるのだ。

 まったくもって救いようがない。 反吐が出る。

 

「だが、それでも俺はトレーナーだ。 どれだけちんけでも、ひとりのトレーナーだ。 才能がなくても、俗物でも、俺はトレーナーなんだよ。 俺にだってそれぐらいの責任はある。

 綺麗な夢だけを見せてそれ以上は知りませんなんて、そんな事をする詐欺師じゃない」

 

 何せそこには悪意がない。 せめて悪意があればよかったのに。

 そうであれば簡単に跳ね除けることができるのに。

 少女は、そんなくだらないもしもを空想してしまった。

 けれども現実はそうでないから、尚更に苦しい。 心が、引き千切れてしまいそうだった。

 

「……ふざけ、ないで」

 

 ──だって、悪意が無いのであれば、なんでそんなことを言えるのか。 まるで分からないではないか。

 悪意がないのに、何故そんな事を言える? 

 悪意もなしに、何故ひとの根底を否定できる? 

 悪意を持たず、何故言葉のナイフを振りかざせる? 

 

 こんな意味の分からない存在に、いったい何を言えば良いのか。

 そんなのと意思の疎通なんて出来よう筈もないのに、どうしろというのか。

 

「ふざけないでよ」

 

 まったくもってふざけている。

 それを──よりにもよって、トレーナーが言うのか、と。

 ファインドフィートは示された現実を噛み締めて、ただ、ただ、頭の中を真っ白に染めた。

 それを怒りと呼ぶべきか、悲しみと呼ぶべきか。 そんな単純な事すら切り分けられないほど、ぐちゃぐちゃに溶け合った激情が心を侵す。

 

 耳を引き絞り、口の端を震わせて。

 それでも辛うじて、対話の体を取り繕って。 本当に、本当に、見せかけだけの自制心で言い募る。 声の震えは、隠しきれていなかった。

 

「取り消して、ください。

 確かに、あなたにだって責任だとか、義務だとか、そういう物があるのでしょう。 けど、それはわたしも同じです。

 これが、わたしの義務なんですよ。 途中で止めるなんて、そんなの許されない。

 ……だから取り消してください。 今なら聞かなかったことにできますから」

「いいや、取り消さない」

 

 葛城は、相対する少女の激情を受け止めて。 その心の根っこを薄っすらと推測した上で。

 しぃと、歯の間をすり抜けるように、細く鋭く息を吸った。

 

「なあ。 その義務とやらを背負い込むことを、亡くなったご家族は望んでいたのか? 

 お前はそうであれと、望まれたのか? お前が大切にしていた人達は、そういう事を望むのか? 

 その夢に……それだけの価値があるって?」

「──ッ!!」

 

 ──そして、地雷を踏み抜く。

 瞬間、少女の顔が"怒り"の一色に染まる。

 訪れた沈黙はほんの一瞬にも満たない。 僅かに我慢という工程を挟めど、すぐに決壊した。

 

「それを、知っているくせにッ! どうして分かってくれないんですか!?」

 

 絶叫。 怒号。 咆哮。

 表情が幼く歪む。 ごちゃまぜになった中身を曝け出す。

 叫んで、吐き出して。

 その勢いのまま男の襟首を掴んで、そのまま持ち上げ怒りを全てぶつけてしまう。

 

「わたしが、どんな思いで死に損なったと思っているんですか? 

 わたしがどれほど惨めな気持ちで呼吸していると? こんな生き恥を晒してまで、なぜ生きていると思っているんですか? 

 何度も自分の足をへし折ってやろうと、何度も自分の首根っこを握りつぶそうと、そう考えていたのに! そのくせにどうして、こんな無様なカタチになってまで生きていると思っているんですか!?」

 

 自分が何を言っているのか、なんて。 そんな事をさして深くも考えず。

 ただ、心の中に土足で踏み込んで来た男へと怒りを叫ぶ。 そこには軽蔑さえ、籠もっていた。

 

 ファインドフィートはここに至るまで、多くの物を擲ってきた。

 それは自身の過去そのものであり、抱いていた夢であり、過去を想起させるほんの僅かな残留物さえも含まれる。

 つまり、『ファインドフィート』の前身となった少年の、アイデンティティの尽くを喪失して。

 そこまでしてようやく掴んだチャンスだったのに、こともあろうか自身のトレーナーが踏み躙ろうというのだ。

 

 そんな事、許せるはずがなかった。

 許されるはずがなかった。

 

「よりにもよってあなたが……いまさら他の道を選べ、なんて。

 ねぇ、ふざけないでくださいよ。 他に何を選べたっていうんですか」

「ぐっ、お」

「誰もわたしを見つけてくれなかったくせに、他に何を選べたっていうんですか!?」

 

 だから怒っている。 だから、悲しかった。

 この男だけはきっとこの道を否定しないと、そう思っていた。 そう信じたかった。 信じていた。

 

「答えて」

 

 ──信じていたのに。 信じていたのに。

 友の誰もが引き留める道だったとしても、あなただけは背中を押してくれると信じていたのに。

 

 なんて、そんな、盲目的な祈りを言葉の裏に貼り付けて。

 涙混じりの目を見開いて、男の身体を壁際に押し付ける。

 

「答えろッ!」

 

 どん、と。 痩せっぽちの背中が壁に衝突した。

 膂力の差が故に、葛城では抗うことはできない。 手足がぽぉんと放り出されて壁の左右を叩いてしまう。

 とはいえファインドフィートにも最低限の理性は残っているのか、それで身体が粉砕されるなんて事は無かった。

 

 それを不幸中の幸い、と呼ぶには人為的にすぎるけれど。

 ともかく、ファインドフィートの気が動転しているのは明確だった。

 元来の臆病な性質を塗りつぶす程の怒りに呑まれているのであれば、やはり、そこは決して触れてはならぬ領域だったのだ。

 葛城はそんな事実を再確認して──スプレー缶を腰のポケットから取り出す。

 

「すこし……! 落ち着け、ポンコツ娘!」

「ぅ……っ!?」

 

 手首の動きだけで射出口を少女の顔に向けて、どうにかワンプッシュ。 白い霞が一瞬で目標に到達する。

 

「なん……ッ、けほっ」

 

 効果は劇的。 それまで殺気立っていた様相が途端に打ち崩される。

 腕で顔を隠してももう遅い。

 この世の終わりを表現した刺激臭が鼻腔を貫き、脳天をかき混ぜて。

 涙が勝手にぽろぽろと流れて床のシミを増やす。

 いっそ床をのたうち回りたくなるような、名状しがたい地獄。

 

 ──が、しかしそれは不自然なほどあっという間に効果が薄まっていき、十数秒も数えた後にはすっかりと残り香まで失せていた。 攻撃を受けた側の少女も困惑してしまうほどに早かった。

 

「……落ち着いた、か? なんだ、意外と効果がある物だな、対ウマ娘用催涙スプレー。 もちろん後遺症だの過度な負担は一切なし……各方面に優しいな。

 まったく、あいつの助言通り色々と身に付けておいて助かった……」

 

 壁に背を預けて独りごちる。

 が、気が抜けてしまっているせいなのか、ずりずりと服と壁を擦りながら床へ座り込んでしまった。

 

 やっと落ち着きを取り戻したファインドフィートが、その姿を呆然と見守る。

 見守って、困惑と共に一歩、二歩と後ずさって。

 それから視界に入り込んだのは骨の浮いた手の甲の、色濃い青あざ。

 

 血の気が、さっと引いた。

 

「ぁ。 そ、それ……」

「あー……俺は気にしなくてもいい。 ほら、他は無傷だ。 俺としてはもう少しダメージを負うことも覚悟していたんだが……なんだ。 意外とブレーキを掛けてくれたんだな」

 

 原因は、明白だ。

 だというのに、座り込んだままの男は手をぶらつかせて無事をアピールする。

 声音は普段通り。 論調にも責める色は何もない。

 

 けれど、その傷から視線が離せない。

 

「わたしの、せいで?」

「……おい、ファインドフィート」

「ち、ちが、ちがうんです。

 わたしは、そんな、つもりじゃなくて」

「落ち着け」

「わたしは、ただ、あなたには認めてもらいたくて。

 それだけ、だったんです……」

「分かってるから」

 

 ふらふらと、ゆらゆらと。

 覚束ない足取りで、男の目の前にきて。

 そしてぺたりと座り込む。

 

 呼吸は浅く、早く。 視線は傷に囚われたまま。

 

「ご、めんなさい。

 ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 あるいは責めてくれたら、罪の意識は薄まったのだろうか。

 糾弾されたなら、もっと心は軽くなったのだろうか。

 そんな妄想を頭の片隅に浮かべて、しかし瞬きの後に洗い流された。

 

 ファインドフィートに出来るのはもう、謝ることだけだった。

 

「でも、だから、ごめんなさい。

 わたし、は……()()()()、走らないといけないんです。

 だって、わたしが諦めたら姉さんが消えちゃう」

 

 トレーナーの決定に異を唱える姿勢はついぞ変えられない。

 

「おねがいします。 もう、これしか残っていないんです。 おねがいします。 おねがいします……」

 

 縋るように請願して、たった一つを守るために背を丸める。

 どうか、どうか、どうか。

 この殻を剥ぎ取らないで欲しい。

 義務を果たさせて欲しい。 この心に溜まる汚濁に、腐り切った膿の塊に、正当性を与えて欲しい。

 

 だからどうか、お願いします、と。

 必死に頭を下げて、祈りを奉じた。

 

「とらないで」

 

 そして。

 葛城は──常の無機質なそれではなく、穏やかで、血の気の通う微笑みを浮かべて。

 首を振り、少女の言葉を切り捨てる。

 

「……俺はひとりの大人として、それを認められない。 トレーナーだから、とか。 そういう理由を抜きにしても、いまお前の目の前にいる人間として。

 こんな俺でも、お前の夢を否定しなければならない」

 

 所詮、葛城は人間だった。

 願われたからといってそれを叶えるなんて事はしない。

 それは情を持つ者の特権であり、度し難い欠陥でもある。

 

 だから、それが。

 今この瞬間だけ、狂おしいほど疎ましくなった。

 

「……どうして。

 どうして、分かってくれないんですか……?」

 

 負い目があるから、ファインドフィートは逃げられない。 誠意を向ける他はない。

 

 ……けれど。

 所詮、それだけなのだ。 だから"はい分かりました"と頷く事などありえない。 そう簡単に変われない。 己の中の罪悪感を、軽んじることが出来ない。

 

「ダメ。 なんですよ。 この三年で全部を終わらせないと。

 だって、長く燃え続けるよりも……流れ星みたいに、あの一瞬だけ強く光ったほうが、みんなの記憶に残るでしょう……?」

 

 だからファインドフィートは、逃げられないけれど。

 意志を曲げることもできないけれど。

 それでも──()()()()、この平行線を打破する救いはあったから、やはり、至るべき先は変わらないのだ。

 

『どうしてもダメだっていうんなら……もう、やり直すしかないですねぇ』

『全く持って仕方がない事よ。 だから、ねぇ。 あなたは悪くないのよ』

 

 するりと。 舞台装置の女達が這い出る。

 次いで、男の意識が閉ざされる。 茫洋と目と口を開いて、それっきり。

 

 だって、ここでトレーナーが壁になるのは都合が悪い。

 であるなら、()()()()納得してもらわなければ。

 ここに至って歩みを止める? ここまで頑張ってきた子供からチャンスを奪うというのか? 

 

 いいや、いいや。

 そんな事はあってはならない。 そんな事は認められない。 それではあまりに報われない。

 それが、どうしても乗り越えられない障害であるなら、その根っこから燃やし尽くそう。

 諦めなければ夢は叶う。 前に進み続ける限り、いつかきっと辿り着く。  

 いつか『ファインドフィート』という物語を完成させるために。

 

 幸せにする方法なんて、他に知らない。

 それが正しいのか否かに思考を馳せることもしない。

 故にただ、疑うことも知らずに、彼女等が思う愛を押し付ける。

 この女達には、それが全てだった。

 

『ねぇ、前に進みたいでしょう?』

 

 亜麻色の頭髪を揺らす女が、真横に回り込む。 お日様の()()を纏う女だった。

 そして、首筋を撫でる。 頬に手を這わせる。

 まるで我が子を可愛がるかのような、優しい手つきで。

 そこに嗜虐の情なんて欠片もなく、当然性愛の念もない。

 けれどファインドフィートは、だからこそ怖気を感じてしまうのだ。

 

(……あぁ)

 

 目を見る。

 黄金色の、綺麗な真円。 記憶の中の夕焼け色にも似た、悍ましい黄昏。

 

(ビー玉、みたい)

 

 その目に宿っている物は酷く平坦だ。 起伏などなく、さざなみは立たず。

 ただ、ただ、無機質な目。 けれどもそれは同時に、粘着質な何かに染まっていた。

 ……もしも無機質なだけであれば、なんて空虚な存在なのだろうと思う。 そして、そういう人でなしなのだと理解できる。

 

 けれど、違うのだ。

 そこに粘性が宿るのであれば、もっと波があるべきだ。

 もっと違う色が、ぐちゃぐちゃに混ざり込むべきなのに。

 喜びとか、怒りとか、哀しみとか、楽しみとか、ほんの少しでもそういう物が染み付いているべきなのに。

 もっと矮小で、浅ましく、気高く穢れた色を持つべきなのに。

 

 けれどその女の目はまるで違う。

 宿っているのはただの一色。

 それは"愛"。 混じり気のない、相互理解する機能さえも排した純粋な"愛"。

 それだけ。 それだけが、ファインドフィートを見つめている。

 

『バカな子ですねえ。 愚かしくて、か弱くて、純粋で。 でも、だからこそ一途で。 諦められないから、何度でも立ち上がる』

 

 それを、愛と呼ぶべきなのか。 現実逃避する頭の片隅で薄っすらと考え込む。

 そして、これは愛と呼ぶしかないなと、時間を掛けずに自答する。 自答できた。

 

 そも、愛なんてものは感情の一面をカテゴライズした物でしかない。

 怒りも喜びも悲しみも、感情の特性で切り分け、理解できる言語でラベルを貼り付け、人間同士でやり取りするために規格を統一したもの。 もちろん愛だって同じだ。

 だから個々人の愛の形は個々人によって異なり、曖昧なそれを完全に定義することは難しい。

 

『あぁ、なんてかあいらしい』

 

 亜麻色の女がころころ笑う。 すりすりと、頬を撫でる。

 

『本当に、本当に、いとしいですねぇ』

 

 確かに、目の前の女が抱く愛は人間のそれと比較にならない。 そんなに生易しい物ではなかった。

 だってそもそも、女のそれと人間のそれは基準が違うのだから。

 

『かあいらしい。 かあいらしい。 いとおしい』

 

 指先を顎に滑らせながら、くすくす笑う。

 

 たとえファインドフィートが泣いたとしても、その意味は理解できない。

 たとえファインドフィートが苦しんだとしても、その意義を理解できない。

 精々困惑するのが関の山。 その根源を無くそうとは思わないし、そもそもそれに思考が及ぶことさえない。

 

 つまり、根っこから違う。 理解しようとする事こそ間違いであるべきだ。

 結局、それらは人ではない。 故に称するべきは、人でなし。

 我が子を思う口振りでありながら、徹底的に個我を無視するばかり。

 それ以上の機能は無い。 人でなしにそんな贅沢品を持つことはできない。

 

 だから人形遊びの延長に酷似しているそれが、この女にとっての無上の愛なのだ。

 ファインドフィートはあんまりにも歪んだそれが恐ろしくて、ずっと目を逸らしていた。 この女は女神なのだから、ただ()()()()()()でしか無いと、理屈も理由も何も考えないようにしていた。

 いつからそこに居たのか。 どうして自分の三年間は奪われたのか。 どうして過去の尽くが喪われたのか。 どうして、祝福という呪いを授けるのか。

 

 何も、考えたくなかった。 だからファインドフィートは、何も知らない。

 けれど今、逃げ場を失って、現実を突き付けられて、抑えきれない恐怖が湧き上がる。 目を閉じることさえできやしない。

 

 

『いじらしいわねぇ』

 

 そんな彼女の左隣。

 金色の女がくつくつ笑った。 そして、髪にふわりと触れる。

 

『あなたは裏切ることもできないのね。 なんて不自由なのかしら』

 

 対するは、黄金の長髪を持つ女。 亜麻色の片割れ。 三分の一であり、二分の一でもある女。

 この女の中身はある意味、とても分かりやすかった。

 

『それなら……ええ。 それなら。 私はそれこそを愛しましょう。 私の役割ですもの』

 

 空っぽなのだ、つまり。

 ただ、そういう者であると自分を定義しているから、そういう者として我が子を愛している。

 ファインドフィートにはよく分かった。

 自分に向けられている目は、その実何処も見ていない。

 この女はただ、誰かを愛したかっただけなのだ、と。 そんなふっと湧いた文言が腑に落ちてしまうほど。

 ただ、己の役割に準じているだけなのだ。 そうと思って見れば、存外あっさりと納得できた。

 その方法はさておきとして。

 

 

 ……何であれ、どちらにも共通している事はある。

 それはただ、己なりの道理に従って、そうして幸せを与えたかったこと。

 人間の言う幸せを理解できなくとも──代用品だったとしても、己達で"しあわせ"という何かを作りたかったこと。

 

 まったく、酷い悪夢だ。

 与えようとしているものを欠片も理解していないくせに、それでも無理くりに生み出そうとしているのだから。

 そんなもの、歪んでしまうに決まってる。

 無変換の情を押し付けたところで一体何になる。 一方的に施す祝福が幸せに変換されることなどあり得ない。

 だから、土台無理だったのだ。 神なるものがひとに寄り添うなど。 人でなしは人でなしだ。

 

『そうだ。 この男……いっそのこと、頭の中を弄るのもいいですねぇ。 これからはファインドフィートちゃんの言うことには絶対服従! 深いことは考えないし考えられない! ふふ、私のオススメです』

『もちろんそれが蓄えた知識もちゃんと使われるわ。 立ち回りも、トレーニングも、あなたの都合がいいように言う事を聞くの。 ねぇ、素晴らしいでしょ?』

「…………ぁあ」

『しかも燃料なんていらないから、あなたを削る必要はないわ。 だってほら……その男だって、使えるものは溜め込んでるもの』

 

 だから。 こうなる。

 

 彼女等はひとの情緒を解さぬ故に、過程に対する捉え方でさえも異なる。

 あまりにも、価値観が違いすぎた。

 苦しみや、悲しみや、喪失の虚ろ。 それに対する価値と重みは、いっそ鳥の羽より軽い。

 

 だからこうして、愛情のナイフを振り翳せるのだ。

 

『どっちがいいですかぁ?』

 

 にっこり、ではなく。 にたり、と形容する方がよく合う笑顔が、ファインドフィートに語りかけた。

 どっち、という言葉が果たして何のことを指しているのか。 薄々勘付いていながらも、沈黙を保って言外に説明を促す。

 幸いその機微を解する程度の機能はあったのか、どちらも揃って笑顔を浮かべながら口を開いた。

 

『時計と、首輪。

 やり直して次の回に賭けるか。 その男に首輪をかけて逆らえなくするか……』

『選びなさい。 もう制限は解かれているのだから、あなた自身が選ぶの。 ねぇ、どっちがいい?』

 

 この女達にしてみれば、別にどちらを選んでも良かった。

 その先にある結果。 それを今のファインドフィートが受け止められるのであれば、それだけで十分である。

 

 もし現実を前に心が折れたのなら、この脆く臆病な少女は全てを投げ出して逃げるのだろう。

 抱えていた義務や執着も全部失って、あらゆるレッテルを剥がして。 そしてあるいは、舌を噛み切るのかもしれない。 ……もちろん、女達がそんな事をさせないけれど。

 けれど心が折れないのであれば──この先の憂いはなくなる。 それで、完成だ。

 

『どっちがいい?』

 

 故に、選択を強いる。

 自身を犠牲にするか。

 

『どっちがいい?』

 

 トレーナーを犠牲にするか。

 

『選べ』

 

 示された二択。

 それらを前にして、ひゅっと息を切らした。 へたり込んだまま、肩を震わせる。

 

 

 もしこれから、やり直すとして。

 巻き戻った先で専属の契約をこちらから破棄してしまえば、このトレーナーによる口出しは不可能になる。

 そして新しく()()()()()トレーナーを見繕えば、問題は解決するのではないか、と。 そんな可能性を真面目に考察してみる。

 嘗てであればともかく、今のファインドフィートには知名度がある。 実績だって十二分だ。

 こちらから多少の不都合には目を瞑れる賢い人間に声をかければそれでよい。

 ファインドフィートは今まで通り出走して、最初の三年間を終えるのだろう。 葛城という男にわだかまりをのこして……それだけだ。

 差し出すことになるだろう対価を気にしなければ、一番丸く収まる。

 

 そうだ。 どうせなら記憶以外を対価にしてもらえば良い。

 例えば、この右目。 どうせ視力は衰えているのだ。 いっそ自分から差し出してしまえば良い。

 今の彼女には、そう考えてしまえた。

 答えを口にするまでの逡巡は、僅か数秒程度だ。

 

 ──首輪を選ぶ道は検討さえしない。 一瞬で破棄した。

 

「な、なら……わたしの右目を対価にして、やり直させてください。 次こそ、正しい道を選びますから。

 ……だからこのヒトは、今まで通りで居させてください」

 

 だからきっと、()()が正しい。 ファインドフィートはそう確信していた。

 記憶は欠けず、他者を害することもなく、自身は()()のハンデを背負う程度。 感覚の違いを擦り合わせる必要はあれども、パフォーマンスに直結するほどではない。 故に最善だ。

 まさか、まかり間違っても、トレーナーに首輪を掛けるなんて、意志を奪って人形にするなんて、とてもじゃないが許されない。 それを強いるなんて耐えられない。

 嘗てのファインドフィートがそうだったから、確信していた。

 

 

 ──だと、いうのに。

 トレーナーの顔に、急速に生気が宿る。 呆然としていた表情に力がこもる。

 決定が下される寸前になって、男は少女の両隣に視線をやった。

 ついで、困惑が面に出る。 しかし然程の間を置かずして同量の怒りが沸き出る。

 そして瞬きの時間を越える度に怒りは増し、ついには額に浮かぶ青筋。 ファインドフィートが初めて見る表情だった。

 

「待て……。 さっきからお前達は何を言ってるんだよ。

 なぁ、それは俺の教え子だぞ。 誰の許可を得て土足で踏み込んでる」

 

 その"お前達"と呼ぶ声は、つい先程まで聞いていた"お前"という言葉よりも鋭かった。

 そして少女が今まで聞いたどんな声よりも冷たくて、限りのない怒気を孕んでいて。

 ヒトという生物はこんな声を出せるものなのかと、つい恐ろしくなってしまう程だった。

 

 男の目を見た。 冷たい目だ。 けれど同時に多大な熱を宿している。

 少女は、その目が己を見ていないことに、深い安堵を覚えてしまった。

 

『……お前、私達が見えるのね。 口がきけるのね。 この前の子はきちんと眠らせることが出来ていたのに……』

『ええ、驚きましたねぇ。 けど……ええ。 きっと私達が、これに見える程度には退化しているのでしょう。 私が愛を知って……もう、六年ぐらいですかぁ。 劣化は必然ですねぇ』

『私は三年目ねぇ』

「意味の分からんことを言うな。 妖怪か何かか、お前達は」

『あら酷い。 私達、これでも由緒正しい三女神なのに』

「……はぁ?」

 

 片眉を吊り上げる。 男が納得していない事は傍から見ても簡単に察せられる。

 怪訝そうな雰囲気を隠すこともせず、金色の女を見た。 そして亜麻色の女を見た。

 

 そしてつい、首を傾げた。

 

「……いや、ありえないだろう。 三女神ってのは単なるおとぎ話の産物であって……この現代では石像の事を指す固有名詞だ。

 というかそもそも……神だって言うんならなんで俺たちと目を合わせられる。 なんで言葉を話してる。 なんで俺と会話が成立してる。 それは、違うだろう。

 神というなら……せめてもっと、化け物らしくあれよ。 もっとドン引きするぐらい清廉だったら納得できるし、もっと悍ましいぐらい理解できない怪物だったら分かる。

 けど、なぁ、お前達は違うだろう」

『本当に酷い事を言いますねぇ、お前。

 ……ああでも、それでもきちんと愛さなければ。 だってファインドフィートちゃんを育てているヒトなんですもの。 だから、ねぇ。 あなたは何が好き? あなたは何がほしいですかぁ?』

「……部分的に意思の疎通が出来ないやつか。 随分と、タチが悪い……」

『ねぇ、愛しい子。 綺麗な芦毛の子。 あなたは何が良いと思う? これは何を欲しがってるのかしら。 栄誉かしら。 財宝かしら』

「…………」

 

 急に問われた、葛城の求めるもの。

 少女はそれに対し答えを返すでもなく、ただ沈黙を保つ。 口を開けない。

 男はそんな彼女を一瞥して。 そして、震える肩を見てとり、眉間に深いシワを寄せた。

 

「……はぁ。

 おい、聞かせろ。 どちらでもなく……一年間の休養は、無理なのか。 何が何でも、次に出なけりゃならんのか」

 

 質問の意図。 それは第三の選択肢の、有無の確認。

 口では散々に礼の欠いた物言いをしているけれど、しかし、この女達を軽んじているわけではない。

 

 むしろ逆だ。 これ以上なく警戒している。

 そもそも、人間でも何でもない存在が無から湧いてくる時点で常識なんて通用しない。 その人間味の薄い性質と言い、透けた足先と言い、危険視しないほうが無理だった。

 

 故に、最悪の一線の在り処を自身の体一つで測り、ギリギリのラインを見極める。

 そしてもし叶うのなら、何事もなかったかのように"さようなら"と行きたいところであった。

 それからまた、教え子との交渉を続けたい、と。

 ……けれど、土台無理な話だ。 それは。 ファインドフィートが罪悪感に縛られている限り、未来永劫変われない。

 

『……? 何故期間を空けないといけないんですか? そんなのダメに決まってますよぉ』

『この三年間だけで全てを終わらせないといけないのよ。 そのために頑張っているんですもの』

「どうしても、か?」

『どうしても、ですよ。 だって……ほら。

 長く楽しめる物語より、一瞬で全部の冠を簒奪する物語のほうが綺麗でカッコイイですよねぇ?』

『キラキラ星を眺めているのも良いけれど、ねぇ。 結局はほうき星のほうが記憶に残るのよ』

「そう、か……」

 

 いくら騙くらかそうにも限度がある。

 そのうえ互いの力関係は明確だったから、葛城に選べる手はほとんど無かった。

 

「……手詰まり、か。 クソだな」

『ええ。 ええ。 ダメですよぉ、この子の邪魔をしたら。 この子は夢を叶えるんですから』

『だから……まずは、選ばないとね。 先に進むために』

 

 そして回帰する先は、結局それだ。

 選択肢。 犠牲の二択。

 

 拒否したらどうなるのか──なんて、少しだけ考えてみたけれど。

 まず間違いなく、じゃあ仕方ないから解散とはならない。

 そして切り捨てられるのだ。 葛城が。

 女達の抱く偏執的な愛がそれを確実な未来とする。

 そんな事、傍から見ているだけの葛城にさえ理解出来た。

 この女達は狂っているのだ、と。

 

「……なぁ。 俺が操り人形とやらになれば、そいつの対価とやらは不要なんだな」

『ええ、もちろん。 まぁ、あなたの中にある思い出とか、そういうものは多少消えるかも知れないけど……誤差みたいなものでしょう?』

「余計なお世話だ。

 ……だがまぁ、正しいな。 俺を使え」

『……あなたが選ぶんですかぁ? いったいどうして?』

「俺がトレーナーだぞ。 それの選択に口を挟む権利は俺にだってある」

 

 だから、男は精一杯の虚勢を張った。

 

「それは、まだ幼いからな。 こういう時ぐらい、大人が矢面に立つべきなんだよ」

 

 それ。

 その言葉の響きは、字面とは裏腹にどこか柔らかい。

 お前という呼び方と同じで、どうにも擽ったくなってしまう。 ファインドフィートは微妙な感傷に惑いながら──それでも、勇気を振り絞って声を上げた。 みっともなく、恐怖に震えた声だった。

 

「まっ……まってくださいよ。

 どうしてあなたが選ぶんですか? しかも、そんなの……どうしてあなたが。 だって、あなたはそんなヒトじゃない……っ」

 

 頭を振る。 きかん坊が駄々をこねるように、男の真意への戸惑いを口にした。

 ファインドフィートが知る彼は、もっと冷淡で、もっと淡白で、もっとデリカシーが無くて。

 まかり間違ってもこんな、思いやりを表に出せるような人間では無いはずだったのに。

 

 けれどその顔を見ると、どうしても混乱してしまう。 ほのかな懐かしさを伴って、頭の芯が真っ白になる。

 知らないはずの父が、目の前にいるような。 そんな錯覚さえ感じるようで──。

 

「……なあ、覚えておけよ。 ポンコツ。 ヒトも、ウマ娘も、お前も、一面だけじゃあ語れんのだ。 たったひとりの人間でさえ多くの側面がある。

 どうしようもない屑が人命を救うことだってあるし、どうしようもない善人が取り返しの付かない悪を為すこともある。 しょうもないバカが世紀の発見をすることも、偉大な天才が愚行に溺れることもある。

 人間ってのはなあ、万華鏡みたいに見る角度で様変わりする物なんだよ」

 

 ──ひどく、気味が悪い。

 

「俺だってそうさ。

 俺はどうしようもない屑で、チンケな欲ばかりがあって、才ある従姉妹に嫉妬してるような、そういうみっともない奴だ。

 慕われるような要素なんてないし、誰かの大切になれるほどの価値もない」

 

 この葛城という男が求めていたものは、名誉であり、地位であり、金銭である。 酷く矮小で、どうしようもない俗物だ。

 そう告げながら勧誘してきた姿を今でも覚えているし、だからこそ隣に居ることを受け入れた。 これ以上なく分かりやすい存在だったから、ファインドフィートは恐怖も抱かずに関われたのだ。

 

「けどなぁ。 お前の礎になれるならそれで満足できるぐらいの、ちっぽけな人間性はあるんだ。

 それでチャンスが生まれるんなら全部を賭けられるぐらいの、握りこぶしぐらいの執着だってあるんだ」

「そんなの、わたしは望んでないのに。 あなたは、そんなヒトじゃない……筈、なのに」

「そんなヒトじゃない、って言ったってな」

 

 そう、思っていたのに。

 男は初めて見せる顔で、口の端を小さく歪めた。

 知らない顔だった。 知らない声だった。 こんな男の事、何も知らなかった。

 

「お前はそもそも、俺のことを理解出来ていなかったろうに」

 

 ──ファインドフィートは、葛城のことを何も知らなかった。

 まるで心を読んだのか。 そう疑わざるを得ないほど、言葉が胸の奥を貫いて。

 悪事を叱られた幼子のように、肩を小さく縮こませていた。

 

「分かりやすいのが良かったんだろう? お前はきっと、理解しやすい相手であればそれで良かった。 理解できる人間性を有しているのなら、それで十分だった。

 能力がどうこうじゃあない。 お前自身から言葉を掛けられるか、否か。 それだけだ」

 

 冷たい目が青を射抜く。

 それも知らない目だ。 何もかも、知らないところばかりだ。

 これはいったい誰だ。 いったい、何を言っている。

 

「……何でもかんでも怖がり過ぎなんだよ、お前は」

 

 ただ、怖かった。

 ファインドフィートは、初めて見るその男が、どうしようもなく怖かった。

 

「もしもお前がこれに罪悪感を覚えるのなら、ちゃんと知っておけ。

 お前が家族の死に痛みを感じたように、お前の周りに居る奴らも同じように心を痛める」

 

 その葛城に向けて、女達が掌をかざす。

 美しい微笑みはそのまま。 ビー玉は変わらず輝き、人でなしの性をあるがままに剥き出している。

 

 それを見て、咄嗟に腰を浮かせて、止めて──。 止めてどうなる。 どうする。

 むしろ、どうやって止める? 

 

 ファインドフィートはたった今、この男の事を何も知らなかったと思い知らされたというのに。

 この男を説得する方法が、何も思い浮かばない。 この女達を止める方法が、何も思い浮かばない。

 

『……まあ、想定とは違いましたが。 どうせなら何も失わない方が良いですからねぇ。 こういうのを何と言うんでしたか……そう、エコの精神? えすでぃーじーず……? ともかくそういうことなんですねぇ』

『安心なさい、お前。 この三年目が終わったらきちんと戻してあげるから。 だから──ファインドフィートちゃん。 よく見ておきなさい』

「……本当にこんなのに頼って良いのか? なぁ、白いの」

 

 そして、傍の女に縋り付くという道さえ閉ざされて。

 

「……けどまぁ、そうだな。 せめて、健やかであれよ、お前」

 

 その、顔が。 初めて見る穏やかな微笑みが。 優しい声が。

 あんまりにも、知らない筈の父と被ってしまうから。

 

 また新しい後悔が、ファインドフィートの背にのしかかるのだ。

 癒えない傷が、またひとつ。

 

 

 ◆

 

 

 女達は去った。

 現れたときと同じように、瞬きの内に姿を消した。 その間際、交わされた言葉は何もなかった。

 

 そして、ファインドフィートはひとりぼっちの部屋の中。

 何もしない訳にも行かないから、倒れ伏した肉人形を拾い上げて、ソファーの上に転がしてみる。

 脱力しきった四肢は抵抗の意志さえ見えない。 ぶらんと垂れた手足は、糸の切れたマリオネットと何も変わらない。

 

 ……そして思うのは、今みたいに何も言わない人間であれば、きっとこんなことにはならなかったのに、という自虐交じりの現実逃避。

 声を上げたからこうなる。 自我を出したからこうなる。

 そう、言い募るのは簡単だ。

 けれどもこの男は、身の丈に合わない善性を持っていただけなのだ。

 それに対し、少女は加害者の側に立っている。 そう思っている。

 故に、嘲りの視線を向けることは出来なかった。 それを向ける先があるとするなら、鏡だけである。

 

「……おやすみなさい」

 

 肉人形はうんともすんとも言わない。

 目を閉じて、浅い呼吸を繰り返すだけ。 乾ききった肌は砂漠と同質。 ぱさぱさで、触れるだけでも崩れてしまいそう。

 いっそ死んでいるのかと勘違いしそうなほど、生気の欠けた姿だった。

 

 目を覚ましたら、また皮肉交じりのからかいを投げかけてくれるのだろうか、と夢想してみる。

 本当は何も失っていなくて、この男も普段通りの痩せっぽちの身体で、何事もなかったかのように日常を取り戻すのだ。

 ……そうであればどれほど素晴らしかったろうか。

 けれども簡単に手に入らないからこそ、それは素晴らしいものなのだ。 簡単に手に入る物はそれ相応の価値しか宿らない。 逆もまたしかり。

 だからきっと、もう手に入らない物だった。 それは。

 

「あなたは、そんなヒトじゃないと思ってたんですよ。 あなたはもっと単純で、もっと俗物で、もっと……身近な人間なのかと、そう思っていました。

 ねぇ、トレーナー。 わたしがあなたを信じていたのは、そのせいだったのかもしれません」

 

 ソファーの前に膝を付き、頭を抱えて白髪を垂らす。

 

「それでもわたしは、あなたのことを信じていたんです。 本当に、本当に……」

 

 けれど、あぁ、と。

 駄目だった、これはと、声にならない悲鳴を上げる。

 

 知りたくなかった。 こんな理解できない人間だなんて、知りたくなかった。

 だって、背負いきれないではないか。 こんなの。

 家族だけでも精一杯なのに。

 お父さんとお母さんと、姉さんだけでも限界なのに。

 

「なのに、こんなの、背負うしか無いじゃないですか。

 わたしが巻き込んだのに、置いていくなんて。 できるわけ無いじゃないですか……」

 

 その目には、憐れみがこもっていたのだろうか。

 その口には、悲嘆がこもっていたことのだろうか。

 腫れ物扱いは嫌だったのに、それでも本当は遠巻きにしていたのだろうか。

 この一ヶ月の甘さは、そのせいだったのだろうか。

 そうと思えば、悲しくなるほどすとんと腑に落ちた。

 

「……嘘つき。 嘘つき。 大人はみんな嘘つきだ。 みんなみんな、嘘ばっかりだ……」

 

 きっと、この男も同類だった。

 

 そんなもの、欲しくなかったのに。 なのにどうして押し付けてくるのか。

 もう容量オーバーだ。 許容限界だ。 このちっぽけな背中にはあんまりにも大きすぎる。

 なのにそれでも背負わせるなんて、まったく、ひどいヒトだった。

 

 少女はひとり、そんな恨み言をつらつらと吐き出して。

 雫をひとつ、砂漠の上にぽつりと落とした。

 

 


 

 

 腫れ物を扱う手付き。 憐憫の籠もる眼差し。

 それが、嘗て与えられた物だった。

 脆かった身体に。 死にゆく身体に。

 与えられて、愛されて、壊さないよう丁重に扱われるばかりの日々。

 

 ぼくは別に、痛くても良かったのに。 苦しくても良かったのに。

 それでもただ、お父さんとお母さんに抱きしめてほしいだけだったのに。

 どうせ後先のない命だ。 どう足掻いたって待ち受ける結末は変わらない。

 

 ……ならせめて、お父さんとお母さんに、抱きしめてほしかった。 愛してほしかった。

 傷付けられてでも、愛してほしかった。

 

 

 でも、姉さんだけは。

 姉さんだけは、ぼくを理解してくれた。

 強引にでも手を引いてくれた。 引っ張り上げて立たせてくれた。

 ぼくがそれを求めているって、姉さんだけが理解してくれた。 痛みを、与えてくれた。 愛してくれた。

 

 だから。

 あの頃、姉さんは、ぼくにとっての神さまだった。

 

 

 

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