あの後。
目を覚ました葛城トレーナーは、やはりただの肉人形になっていた。
確かに、声を掛ければ反応を返す。 日常会話も行える。 生活だって問題ない。
けれども、目に意志は宿っていない。
もしも以前のままであればあれやこれやと軽口を叩いてくれる筈なのに、いまや肯定しか返さない。 悪夢を見ているようだった。
つまり葛城がマリオネット。 吊り糸を持つのがファインドフィートだ。
本来はまったく逆であったはずの関係性は、いびつにくるりとひっくり返っている。
そして、どんな時でも時間は変わらず進んでいくもの。
白昼は終わり、黄昏時を越え、遠くの空から夕闇色が染み出して。
太陽の代わりに月が昇り、一日が終わりゆく。
その月下を歩いた時間のことを、きっとファインドフィートは忘れられない。
トレーナーと共に歩いた時間は、罪の総量と等しかった。
胸を締め付ける罪悪感の寒気も、背負った人間の熱も、頬に伝う湿り気も。 どれもこれも臓腑に刻まれる罪そのもの。 忘却とは悪である。
せめて裁かれたなら、と何度も夢想した。
しかし、所詮は夢想。 叶わぬ夢。 人形に裁かれる事はありえない。
裁くべき人間は、その瞬間から今の今まで──ひと月後の今に至るまで、ずっと眠ったままだったから。
故にファインドフィートは、表面だけの日常を続けられていた。 葛城との関係以外はまったく普段通りの生活だ。 本当に、何も変わらない。
彼に入れ知恵をしたらしい崎川トレーナーからのアクションは何もなかったし、ミホノブルボンなど友人達との関係も変わらない。
ミホノブルボンはやはり優しいひだまりだったし、トウカイテイオーからは全力で逃げ続けている。 ゴールドシップは急に現れてはからかって来て、マンハッタンカフェは時折コーヒーを淹れてくれる。
あとは、暗がりから探るような視線を感じる程度だ。
……なんて言えば、いささか怪しすぎるかもしれないが。
しかし視線の主は、少女の事を『ひ孫』と呼んでいる黒い誰かである事は分かっていた。 つまり、仮称『ひいお婆ちゃん』だ。 『ひいお婆ちゃん』はその暗がりから見ているだけで、何をしてくる訳でもない。 ただ、見ているだけ。
だから結局、大した変化は何もなかった。
強いて言えば、結果的にトレーニングの密度が増した事が変化らしい変化だ。
より負荷の高い、密度の詰まった修練。 より速く、より遠くまでを走る機能を限界まで高めるための物。
それが四肢を傷付けるたびに、強い安堵に満たされる。
ああ、まだ速くなれるのかと。 まだ遠くを目指せるのかと。 裏切らずに済むのかと。
今のトレーナーに求めて、与えられたものは、今の彼女にとっては何よりも心強い支えとなっていた。
あるいはそれが、裁きの代償行為を兼ねていたかもしれない。
そうして、既に破綻しかけている日常を続けて。
目黒記念は"やり直し"もなしに勝ち切る事ができたから、それもファインドフィートの背を押す追い風だった。
ただ、そのレースの最中に見た誰かの顔が、今もほんの少しだけこびり着いていて酷くもどかしい。 心が落ち着かない。
……なんて、もう今更だけれど。
ファインドフィートとてバカではない。 それが嘗て関わりのあった誰かなのだろうとは薄々察している。
けれど、思い出せないのだからどうしようもない。
どんな言葉を交わしたのか。 分からない。
どんな顔を見せられたのか。 分からない。
同じ時間をどれほど過ごしたのか。 分からない。 何も分からない。
ここに至るまでのファインドフィートが何度も負けたせいで、それらの記憶は燃料として燃え尽きた後だったから。
しかし燃料となるからには、それなり以上の思い入れがあったのだろう、と。 そうして推察するのが関の山。
ファインドフィートの手が届くのは、そこまでだった。
そして結局、その事実でさえも重荷のひとつに成り下がってしまう。
◆
「ねぇ、トレーナー。 ご飯はちゃんと食べていますか?」
次の次の次の週。 宝塚記念が開催される、前の週。 金曜日の夕方。
我が物顔でトレーナー室に居座る少女はふかふかのソファに座り込んで、己のトレーナーにそう聞いてみた。
鈴の縁を擦り上げるような、高く掠れた声音だった。
そんな声を受けたトレーナーは手元の端末からのっそりと視線を上げて、少女の顔をぼんやりと眺めた。 焦点の合わない瞳に生気はない。 薄っぺらい理性だけを宿していた。
「……あぁ」
「そう……なら良いんです。 あと、今日も早くに寝てくださいね。 トレーナーには健康になってもらわないといけないですから」
「あぁ」
「健康っていうのは本当に大事なんですよ。金銭には代えがたいほど大切です。
ねぇ、トレーナー。 あなたは……その、崎川トレーナーに勝ちたいのでしょう? なら、そのあたりもちゃんとしてくださいね」
「あぁ」
「……でも、そうですね。 もしわたしがブルボン先輩にも勝てれば……一応ある意味で、トレーナーの方が優秀ということになるのでしょうか」
「あぁ」
勝ちたいですね、と口にする。 肯定が返ってくる。
盛大にお祝いしましょうね、と言葉にした。 肯定が返ってくる。
何を言っても肯定、肯定、肯定ばかり。 否定は一度たりとも存在しない。
言葉のキャッチボールは成立しておらず、故に、これは会話ではなかった。 ファインドフィートが語るだけの、ただの独り言だ。
「ブルボン先輩だけじゃなくて……宝塚記念にも、勝たないといけないですね」
「あぁ」
「このまま無敗で……なんて願うのは、烏滸がましいにも程があるのでしょうけど」
けれど、彼女が為すべきは変わらない。
背負うものが増えて、背骨が今にも砕けそうになっているけれど、ギリギリの所で耐え続けている。 耐え続けてしまえる。
つまり、これからの旅路に何ら支障はない。
むしろそれを弾みにして、より遠くまで跳ねなければならない。 少女は自分自身に、そう必死に言い聞かせていた。
「勝たないと。 報いないと。 今までの全部に、正しさを……」
窓の外から差し込む赤い日光の中へ、暗示を込めて。
そこで、言い淀む。 数ヶ月前までならすらすらと言えていた筈の言葉だった。
だというのに喉の奥に栓をされてしまったように中々頭を出さずに、胸の中に引っ込んでしまう。
それはきっと、あの日のトレーナーの言葉が胸に残っているせいだ。
「……ねぇ、トレーナー」
男の痩せこけた顔を見て、少女は思った。
本当にひどいヒトだ、と。 あんな時に、あんな顔を見せられたせいで、無意味なものとして忘れることが出来ないのだと。
夢を追うことを止めろと言うのなら、これから何に縋れば良いのか。 何のために生きろというのか。
その答えはもう何日も考えて探しているけれど、切っ掛けさえも掴めないままだ。 それでも考えることを止めることができない。
そうさせてしまう程に、トレーナーの献身はあまりにも強い毒だった。 ファインドフィートには効きすぎる毒だった。
目を覚ませばいつの間にか過ぎていた時間。 勝手に成長していた身体。 精神と肉体の齟齬。 世界に置き去りにされたかのような、現実味のない疎外感。
その苦しみを味わった彼女は、その重みがよくよく理解できてしまうからこそ。 だから、無視する事ができない。
「あんなこと、知りたくなかった。 見たくなかった。 聞きたくなかったのに」
最後に選んだのはトレーナーであるけれど。
しかしそこに至るまでの道程を作ったのは、作ろうとした起点にあったのは、間違いなく彼女だったから。
実行したのは女達であっても、最初に始めたのはファインドフィート自身だったから。 罪の形を今この瞬間もさめざめと見せつけられているから。
逃げ道が、どこにもない。 足掻くことすら難しい。
「……わたしはいま、間違えているのでしょうか」
「あぁ」
「これが、あなた達にも捧げる行いだとしても?」
「あぁ」
「……あなたの結論は、そんな有様になっても変わらないんですね」
そして返ってくるのはやはり肯定、肯定、肯定だ。 バカの一つ覚えのように繰り返される。
それを、白い耳で受け止めて。 少女は、緩やかに眉の端を垂らした。
「……ひどいヒト。 やっぱり、大人なんてきらいだ。 だいっきらいだ」
啜り泣くように。 静かに怒るように。 微かに笑うように。
ごちゃまぜになった感情を織り交ぜて、軽やかに謡って。
それっきり。 口を噤んで黙りこくる。
それでも、部屋の中は静寂には程遠い。 窓の外から蝉の鳴き声が延々と響いてくる。
彼女が黙ろうと何をしようと自然の声は止まらない。 時間の流れも止まらない。
たかだか二週間の寿命で、掌よりも小さな命で。 それでも懸命に叫ぶのは求愛の唄だった。
みーんみんと鳴くだけの単調な唄だったが、少女は存外それを好んでいた。
どこまでも原始的であれど、だからこそ美しい唄だったから。
それに聴き惚れながら、ソファーの上にごろりと寝転ぶ。 靴下は脱ぎ捨て、素足を端からぶらつかせた。 今日は既にトレーニングを終えた後。 意識を保つだけでも中々大変だ。
故にこうして寝転べばそれだけで、少しずつ着実に眠気の泥に呑まれていく。 少しずつ、少しずつ。
……やがて、完全に眠る前にふと思ったのは。
せめて夢の中ぐらいでは全部を忘れてしまいたいな、なんて。 そんな、隠しきれない本音だった。
◆
──新幹線が大阪へ着く。 鉄の箱がレールを滑り、大きな車輪がゆるゆると停止した。
振動が完全に収まったことを確認して、手荷物を抱えて立ち上がる。
住居のある府中とは全く違う土地であるのに、彼女の服装は私服ではなく学生服のままだった。
が、目的を考えたなら今日の彼女が身に纏うのは正装であるべきで、彼女にとっての正装とは学生服である。 故に、これで正しかった。
「……トレーナー。 早めに移動しておきましょう。 その……ほら、わたしはタクシーに乗れないですから」
「あぁ」
「車は、怖い物です。 あんなに速く走れるうえに、大きくて、重たくて、そのくせ急には止まれない。 そんなの、危険に決まってるじゃあないですか」
「あぁ…………そうだな。 だがまぁ、キミも電車なら大丈夫だろう」
「……それは、はい。 一応は」
「行くぞ」
目的。 正装を必要とする目的。 それはつまり、宝塚の舞台。 冠の六である。
最後の一年、その前半分。 総決算がもうすぐそこにあった。
……そうと思えば、やる気を奮い立たせるべきだけれど。
しかし、どうにも気分が落ち込んだままだ。 せっかく二文字以外の返事を貰えたのに、うまい返しが何も出来ない。
前を行くトレーナーの背を追いかけながら、背負ったリュックの紐を握り締める。 が、気持ちの糸は引き締まらない。
その原因は何か。 なんて、考える必要すらない。
思い当たる物は一個や二個ではなく、両手の指では足りない程度に多すぎた。
多くの人々に"お前の道は間違っている"と突き付けられてきたけれど、それでもこの道を肯定したくてここまで来た。
……けれどその肯定のために、多くの大切を踏み躙ってしまった。 幾重にも連なったその事実こそが、背中に重くのしかかっている。
そして結局、進むべきと思っているのはファインドフィートと、彼女が縋る女達と、何も知らない大衆だけ。
急速に土台が綻び、グラついていくような、そんな浮遊感さえ感じてしまう。
時には、悍ましい感覚を振り払おうと走り続けた事もあった。
が、効果は何もなかった。 むしろ焦燥感が強まる始末だ。
解法が分からない数式を前に、頭を抱えている時のような、酷くもどかしい感覚。 うなじがかっと熱くなって、頭の回転が徐々に鈍くなっていく感覚。
ファインドフィートを悩ませる物は、そういう感覚によく似ていた。
まるでほどけてくれないそれはまさに呪縛。 夜を越えても、何度越えても、決して消えてくれない重しだった。
「……ねぇ、トレーナー。 公式の分からない計算問題に突き当たったとき、どうしますか?」
「公式を調べる。 教科書でもインターネットでも、何処にでもあるだろう」
「その公式を調べられない時……たとえば、試験の時に突き当たったら、どうしますか?」
「後回しか、当てずっぽうで答えるか……」
電車に乗り込んで、ロングシートの席に座って。
少女は、すぐ隣の大人に教えを乞うてみた。
視線はまっすぐ。 真正面の窓ガラスへ向けたままだ。 空は雲がかかっていて、外の景色は少しだけ薄暗い。
「諦める。 無駄だろう、考えた所で」
「……そう、ですよね。 だって、出来ることなんてたかが知れてますよね」
ガラスに映る自分自身へ、そっとため息を飛ばす。
賢しい大人はそうやって前に進むらしい、と。
では、大人と同じように解答を諦めた上で苦しんでいる今は、一体何なのか。
諦めたことが悪いのか。 だとするなら、この苦しみが与えられた罰なのか。
……なんて、ファインドフィートはそんな疑問を誰に向けるでもなく吐き出す。
しかし、隣の大人から肯定が返ってくる事はなかった。
なんとなく、ちらりと真横を盗み見る。
男の顔についている眼は何処を見ているのかも定かではない。 ファインドフィートを見ておらず、空も見ておらず、窓ガラスに薄く反射するばかり。
少女は、それに深い安堵を覚えてしまった。
惨めだ。
「……ここで降りるぞ」
「あぁ……そう、ですね。 ここからは歩いていかないと」
朝と変わらず、浮遊感に魘されながら。
一歩一歩を踏みしめて、道程を越え、ついに阪神レース場へ足を踏み入れる。
綺麗に清掃された関係者向けの通路を通り、事務処理を済ませ、流れるように控室へ通されて。
それから数時間後の本番に向けて、逸る精神を落ち着かせた。
──今日の朝は"目覚まし時計"が何処にもなかった。 だから大丈夫。 まだチャンスは残されている。
今となっては、自己暗示が大した意味を持たないことを知っている。
そのくせに悪足掻きの如く、何度も何度も自分に言い聞かせた。
「……わたしはまだ大丈夫。 まだ走れる。 まだ、負けていない。 今日はまだ、負けていない」
それから、大きく深呼吸をして。
強引に、形だけでも気持ちを落ち着かせて。
一度、控室からトレーナーを追い出した。
それから制服や下着も全部脱ぎ去り、染みひとつない勝負服のセットに着替える。
身だしなみを簡単に確認した後、トレーナーを再度招き入れ──ドアの横で立たされている姿が可哀想だったから、次からは部屋の中で壁を見ていてもらう事にする──靴を履き、蹄鉄の点検を済ませた。
諸々の準備を終えた頃には、第9レースの"舞子特別"が開催されている所だった。
つまり、時間が余ってしまった。
とりあえず起動した携帯端末で中継映像を見ながら、残り時間を浪費する方法を考える。 何もしない、というのは無理だった。 とにかく気分が落ち着かない。
まず、レースを観戦するという案はあっさりと破棄してしまう。 今見た所で内容が頭に入ってこない事は明らかだった。
それに刻一刻と出番が近付くほどに身体中が疼いて仕方がないのだ。
身体をぶるぶると軽く震わせてみてもまったく拭い取れない。 どうしようもなかった。
だから、必死に身体を動かす。 興味もない本を読む。 あれやこれやと策を弄して時間を潰す。
が、あんまりにも落ち着かない。
そのせいで、うなじが今にも焦げ付きそうだった。
チックタックと時を刻む時計を時折に確認しながら、潰して、潰して、潰して。
何度も、大げさにため息を吐いた。
「……やっと、時間ですね」
何度も中継映像を見た。 同じ回数を断念した。
何度も本を開いた。 同じ回数だけ本を閉じた。
そこまでしてようやく経過した時間を確認し、少女は重々しく頷く。
「トレーナー、わたしの準備は出来ています」
つま先を床に打ち付ける。 音の調子はいつも通りだ。
少女はもう一度頷いて見せ、すぐ傍らのトレーナーへ視線を向ける。
その青色には淡い焦燥が滲んでいて、普段の冷静に見える様子とは程遠かった。
「スタッフさんがもうすぐ来るでしょうから、応対は任せました」
「あぁ」
「わたしのコンディションは、別に問題ないですよね?」
「……あぁ」
対し。 男の表情は、やはり変わらない。
生気を欠いたままで、少女の言葉に肯定だけを返す。 どこまでも都合のいい男だった。
「わたしが走るところ。 ちゃんと、見ていてくださいね」
「…………あぁ」
それでも、何度でも繰り返し言葉を投げる。
噛んで含めて、言い聞かせるように。 まるでいつか、前みたいな軽口を叩いてくれるのではないかと期待するように。
……が、それは無意味である。 いくら言葉を投げたところで、この男は三年目が終わるまでただの肉人形である筈だからだ。
他の誰でもないファインドフィート自身が、身を以て知っていた。
「だって、わたしが『ファインドフィート』なんですから。 あなたにはわたしが走るところを見届けてもらわないと」
「…………」
「わたし達はもう二度と、消えたくない。 忘れられたくない。
……だから、トレーナー。 どうか、裏切らないで、くださいね……」
そして、のたまう。 彼女自身も忘れた側でありながらも。
自覚があるのか、ないのか。 その二択であれば間違いなく前者に当て嵌まるけれど、しかし、それを承知した上で舌の根を湿らせる。
その傲慢な在り方は、ついぞ捻じ曲げられなかった。 譲れなかったのだ。
たとえ誰が相手であろうとも譲ることが出来なかったから、今のこの瞬間がある。
もし、対立する相手が姉であろうと関係なく、ここにある彼女は頑固なままで変わらない。
信じているからこそ、愛しているからこそ、変われない。
「……お父さん」
やがて、ぽつりとこぼれ落ちた弱音を残してドアを開く。 地下の道を通り、ターフの上に行くために。
その弱音の正体は一体何だったのか。 何を思って口にしたのか。
思考を巡らせることはせず、口の端を結ぶ。 どうせいくら考えても分からない事だと、ファインドフィートは諦めていた。
それに、仮に答えを得たとしても意味がない。 彼女のこれからに影響を及ぼすことは、ありえなかった。
◇
阪神11レース。 宝塚記念。 春の冠、そのひとつ。
それを求めて辿り着いたのは、曇り空の下だった。 空の鈍色が故に、芝の緑が普段よりも色褪せて見える。 が、普段と比較したなら当然の事だ。
だってファインドフィートは晴れの日以外のレースに出たことがない。
今の今まで、一度もだ。 それが数回繰り返される程度であれば、ままある事だろう。
けれども三年間だ。 その間、ただの一度も雲が掛かった事さえ無いのは相当に珍しい。
一年を通して雨が降る日数は約120日。 三分の一近くは雨が降っている計算になる。 もちろん、曇り空になる頻度は更に多い。
そうでありながら今日に至るまで日光と共にあったのは、幸運の一言だけでは片付けられない何かを感じさせる。
──
そっと首筋を撫でて、何時かの悍ましい感触を思い出す。 あの純粋に濁った愛を思い出す。
その愛の主は、退化を重ねているという。 役割を放棄したから退化が始まったという。
だからだろうな、とターフの端で微かに思った。
順当に考えてありえるのは、時間経過によってそれだけの機能を失ったこと。 あるいは、リソースを節約するための縮退運転に移行したこと。
正直、どちらでもよい事だ。
ひとつ明確なのは、ファインドフィートは今後、更に厳しい挑戦を強いられること。 それのみだ。
以前は日光さえあれば際限なく活力と気力が湧いてきたものだったが──その補助が何もないせいか、やる気を測る指標は絶不調をマークしていた。
もちろん、だからレースに出ないなんてことはありえない。 やる気は所詮やる気。 精神の調子だ。
肉体の調子は万全だったから何も問題はない。
『各ウマ娘、続々とゲートに入っていきます』
ゲートに向かう。 その道すがら、横を見た。
そこには、芝の上を悠々と歩く同胞がいた。
アグネスデジタル、グラスワンダー、マヤノトップガン、メジロライアン。
そして、ミホノブルボン。
本来はスプリンター、あるいはマイラーであった彼女も、今となっては
今回の出走者はみなG1タイトルの獲得者ばかり。 パワーインフレーションが起こっていると評しても過言ではない。
時折、有力チーム間で開催される
そんな彼女等に、身体ひとつで挑戦する。
自信なんて欠片もないのに、それでも全力を振り絞る。 そう考えるだけで、身体が震えて仕方がない。
武者震いなどという勇ましさではなく、緊張や恐怖という矮小さで。
『3枠5番、ファインドフィートが最後にゲートイン』
それでも、必死に殻を被って取り繕う。
手は、胸元へ。 心臓に祈りを詰めて。
その祈りを捧げる先は片割れたる姉。 遠い日の、神さまだった女の子へ。
勝利を捧げるために、両足の筋肉に神経を通した。
そして響く、鋼の音。 ゲートが開く瞬間。
土の弾ける音が、呼吸の悲鳴が号砲となる。 十六の気魄が、曇り空へと。