本をめくる。 小さな白い手を、紙の上に滑らせる。
光源は机の横の小さな卓上照明。 紙幣もなしに購入できる程度の安物だ。
「足りない」
光量が、なのか。 情報が、なのか。
対象は口にしなかったが、視線の先はページの端っこに載った四行や五行そこらの文章。
故に状況からは、後者を指しているとも推察できる。
「足りない」
その本は、一応医学に関連する書籍だった。
とはいえ厚みはそれなりに薄く、文体もさほど堅苦しくないもの。 つまり一般層向けのライトな書籍である。
少女が見ていたのはその本の中の、一枚のページの、その端っこの一角。 "準一卵性双生児"に関する記載を睨みつけていた。
それは世界全体で見ても片手の指ほどしか確認されていない非常に稀有な症例である。
だから、なのか。 専門書でも何でもない本には大層な情報は何も載っていない。 むしろ、その存在を載せているだけ十二分かもしれない。
「足りない」
その
準一卵性双生児とは、過受精した卵子が
主な特徴は、一個体の中に異なる遺伝子が
発生原理が故に多少の遺伝子の欠損を伴うこと。
そして通常の一卵性双生児ではありえない、一つの卵子から男女の双子が産まれること。
簡素かつ大雑把ではあるが、おおよそは間違っていない。
……彼女が何故それを調べているのかと言えば、自分たちがそれだったから。 だから状況ぐらいは詳細に知りたかったのだ。
とはいえ、過去に発見された症例とは多少状況が異なる。
なにせ姉と弟は種族すら違うのだから、どれほど参考になるのかすら不明だ。
姉の中にはヒトの細胞が混ざり、弟の中にはウマ娘の細胞が混ざっている。 規格の異なるそれを宿したまま、成長しているのだ。 間違いなく珍しい──少なくとも、インターネットにより世界が繋がって以降は初の事象である。 そもそも発見することが難しい故に、本当に世界初なのかは疑問が残るけれど。
けれど、それを初めて知った時。
それが自分達を指す症例であると知った時、とてもとても大きな衝撃を受けた。
まず弟は、その時点で兆候があったから納得をした。 身体の脆さの原因を理解できた。
そして、そのうえで、姉から血肉を奪って産まれた事を後悔して。 狂おしいほどに、後悔して。
姉という
もちろん、悲しくない訳ではない。
彼も大人になってみたかったから、それを許されないというのは悲しいし、悔しい。
まだまだ見たいものがたくさんあった。 まだまだ行きたい所がたくさんあった。 叶えたい夢だってある。 あるいは、いつかはどこかの誰かに、素敵な恋をしてみたかった。 これからの未来に希望を抱いていたのだ。
それが無理だとすると、胸が抉られそうになってしまう。
……けれど、それよりも気になったのは自身の片割れ。 姉のことだった。
やがて置いていく事になるであろう、もう半分。 愛しき片割れに何かを残したいと、そう思うようになった。
そして、対する姉は。 産まれた瞬間から──否、産まれる前から共に育った弟を想う彼女は、初めて運命を呪った。
彼女は、弱り始めた弟の姿を知っている。 いつの間にか追いかけっこすら出来なくなった弟を知っている。 いつの間にか、自力で立ち上がれなくなっていた弟を知っている。
いつの間にか、死臭を漂わせ始めた弟を知っている。
だからある日、その原因を両親の会話から盗み聞いて。 心底、本当に、本当に、自分自身を嫌悪した。 許せなかった。
より良いパーツを譲り与えなかった胎児の己を、純粋に、どこまでも憎悪した。
何故、弟は弟なのか。
より
なんて、呪って、呪って、呪った。
だから、それが差異だ。 双子の自我を隔てたものだった。
姉は、弟すら知らない顔で、ひっそりと執着を募らせて。
そして"それ"が、たったひとつの"それ"こそが、姉と弟を完全なる別個の存在として確立させる。
好悪も価値感も全て同じ? 同じ方向だけを見ている?
確かに、過去はそうだった。 全く同一の存在だった。
けれども姉は、先に産まれたから姉なのだ。 その自負こそが少女に成長を促してしまった。
その少女は、本の紙片を握りしめた。
くしゃくしゃのシワが刻まれた紙を、インクごと。
やがてちぎり取られた塵屑を
「時間が、足りない……っ」
──そして姉は、『姉』として獲得した価値感に従い、己の弟を生かす手立てを模索し始める。
タイムリミットは、精々三年。 それが未だ十歳の彼女達に与えられたもの。
ただそれだけの、ほんの僅かな時間だった。
ただそれだけを与えられたのが、いつかの少女達だった。
◆
身体を前へ
傾いた身体を膂力で強引に制御し、まず先頭を奪うための態勢を整えた。
そして、この序盤戦で必要なものは何か。
速度が大事であることは間違いない。 ゲートに即時反応することも大切だ。
が、それらだけでは不足。 本当に必要なのは他先行ウマ娘をねじ伏せるだけのパワー……つまり、加速力。 立ち上がりの速さ。 ファインドフィート自身が持つ数少ない強みである。
それらを以て先行争いに挑み──当然のようにかち合ったミホノブルボンと追い比べる。 栗毛と芦毛。 ほぼ同体格の少女二人がせめぎ合う。
が、しかし。 それもほんの数秒。 数十メートルの間だけだった。 肝心の栗毛がすぐに進路を譲ったからだ。
故に大した駆け引きもなく、あっさりと先頭が確定した。
その先頭となった芦毛──ファインドフィートは、すぐ真後ろについた少女の所在を足音で把握し、ほんの少しの疑念を挟んだ。
が、そもそもミホノブルボンは
つまり、気にするだけ無駄だった。 そう一人で納得し、後方から意識を外す。
そのまま風の壁を身体ひとつで引きちぎり、空気の層を撹拌して。
ある程度定まった順序の先頭を、無心でひた走った。
『最初のコーナーをカーブ、先頭は5番ファインドフィート、1バ身後方に8番ミホノブルボン、続けて2番マヤノトップガン──』
遠心力で外に流れる身体を筋力で引き止める。
びゅうびゅうと風が吹き、耳をさらう。 髪をさらう。 けれどそれには気を取られずに、自分自身のリズムを保つことに専心した。
……そうして可能な限り理想的なレース運びを目指しているけれど、身体の状況は理想的には程遠い。
一歩一歩を踏み出す度に、左の足首がぎしりぎしりと軋んだ。
『向こう正面、メインディスプレイ前に先頭が到着。 タイムは例年よりもかなりハイペースですね。 解説の半田さん、こちらはいかがでしょう?』
『先頭の子に掛かってる様子はありませんね。 おそらく、彼女の作戦でしょう。 後続もそのつもりで着々とペースを上げて行っている模様』
外野は知らない。 彼女の事を何も知らない。
故にこれまでの実績と能力値から現状を分析し、おそらく目的通りだろうと太鼓判を押す。
今までも似たような状況下で結局問題なかったから、とか。 出揃っているデータ的にこの速度で適正だから、という、様々な要因を含めて勘案した結果だ。 彼らが間違えているわけではない。 ただ、前提の認識に齟齬があるだけだ。
今のファインドフィートは、以前ほどの際立ったスタミナを持たない。
だから、走れば息が切れる。
息継ぎは粗く、心臓の動きは鈍いまま。 脈拍が必要な基準まで上がり切らない。
ある意味それが普通の状態であったけれども、しかし。 日光に灼かれた時間に慣れすぎていたから、その"普通の状態"における走り方が些か拙い。
故に彼女は、逃げてから差すという普段の走りが再現できないまま。
すぐ後続の少女から、距離を引き離せなかった。
(あぁ)
そのうえ空気は生ぬるく、重たい。 気温は高く、湿気ている。 身体にへばりついてきて、振り払うのも一苦労だ。 まるで世界そのものがファインドフィートの邪魔をしてくるよう。
しかしそれが本来のあるべき姿だと、今更ながらに思い出す。
本来、世界が味方してくれるなんてありえない。
世界は味方ではなく、敵でもない。 ただそこにあるだけの物で、そこにあるための物。
世界があるから、ファインドフィートは呼吸できている。 それ以上でも以下でもない。
普遍的なそれが嘗ての日に望んでいたもので、今はそこに立ち返っただけの事だ。
そうと思えば──心の底から、ほんのちょっぴりの勇気が湧いてくる。
だからまた、大きく口を開いて吐息を漏らした。
風の中を突き抜けながら、白んでくる頭を必死に持ち上げ続ける。
最後のコーナーカーブの入口が、ぱっくりと口を開いて待ち受けている。 その入口めがけて、土を飛ばした。
(喉が、渇いたなぁ)
次いで思うのは、ゴールまで後どのくらいなのかという疑問。
100秒が1秒に圧縮される感覚の中で目減りしていく体力が、正常な思考能力さえ奪い去ってしまった。
……とはいえ自身の状態を判別できるだけの思考能力は残っていたから、"考えるだけ無駄"という結論を出す事は出来た。
故に、答えも出せないくせに湧いてくる思考はすべて置き去りにする。
宝塚記念は2200メートル、右回り。 二分間の夢の舞台。 たったそれだけしかない僅かな時間を無駄にできる余裕なんて、何処にもないのだから。
(苦しい)
そして駆けて、大した加速もなしに三番手以降をどうにか5バ身ほど引き離して、ついに最終コーナーに差し掛かる。
タイミングを見計らい、左のつま先の角度を内転させた。 途端に横殴りで襲いかかる遠心力を受け、苦悶を吐き出す。 唾は出ない。
乾燥しきった舌で喘ぐように浅い呼吸を繰り返して、必死に内ラチのギリギリを攻める。
後方の足音だって一層激しさを増していたから、ファインドフィートが速度を緩めることは許されなかった。 十分な息継ぎを行う余裕さえない。
……けれど、まだそれだけだ。 足は動く。 前に進める。
太陽がないから何だというのか。
体力の不足? なんだそれは、そんなもの関係ない。 気力で補え。
速力の不足? くだらない、そんなものは根性で振り絞れ。
自分を激しく叱咤して、更なる加速を試行する。 姿勢を低く、低く沈めて。 両手の振りでバランスを確保し、身体の柔軟性に物を言わせて可動域を確保して
意図的に、大きく息を吸って。 深く息を吐きながら、姿勢を低く沈める。 ぎちぎちと、ぎりぎりと、背骨と足首が悲鳴を上げていた。
けれど、身体が上げる悲鳴を全て押し殺して。
そして、最終直線へ至る。 最後の追い比べだ。
ついに後方の足音も彩りを変え、激しい地鳴りを引き連れて土煙を巻き上げている。
芝が抉れて土が露出する。 その土はあっという間に剥げた。 そして吹き飛ぶ。 蹄鉄で削られる。 それが意図的でなくとも、勝手に後方へ飛んでいく。
飛んで、飛んで、飛んで。 16の蹄跡で地を均していた。
その姿はずっと昔の、1000マイルを走った祖先たちにも似ていた。 特に血気盛んな眼光が瓜二つだ。
ギラギラ煌めく瞳で、開き切った瞳孔で前を見る。 普段の気性が荒くれだろうと、温厚だろうと気弱だろうと関係ない。 ただ、昂りに身を任せている姿こそが今ある真実だ。
もちろん、ファインドフィートも同じだった。
誰よりも血走った目。 眉間に寄った皺。 こめかみに浮かぶ青筋。 口の端から流れる白霧。 どれを取っても理知的には程遠い。
これが元はヒトだったなど、誰に言っても戯言として一笑に付されるに違いない。 靴に合わせて歪んだ結果が、これだった。
「捉え、ました……!」
「────」
……しかし、だからといって、完全に知性が振り切れている事はなく。
上がってきたミホノブルボンの声を受け止め、無言で耳を引き絞るだけの知覚能力は残っている。
それに、ここで上がってくるのは想定していた。
ファインドフィートにとっては数少ない、深い信頼を向けているのが彼女だ。 その感情は盲信と言っても過言ではない。 姉によく似た彼女を、しかし姉とは違う彼女を、深く信じていた。
もし仮に、いつか誰かにとどめを刺されるとして、その相手を選べるのなら、なんて考えてしまう程度には。
『三番手が入れ替わりグラスワンダー上がってきました! さらに外からメジロライアン! ここから先頭を取るのは厳しいか!?』
『先頭はファインドフィート、二番手はミホノブルボン、差は二分の一バ身程度か。 しかしミホノブルボンまだ伸びる。 まだ加速。 差がじわじわと縮まっています』
けれど、その"もしも"は今ではない。
まだ、負けたくない。 負けたくなかった。
だから前へ進むために、蹄鉄を以て芝を抉る。 太ももは乳酸が溜まりきってぱんぱんだ。 肺の中身は空っぽだ。 ひどく苦しい。 次の瞬間にでも倒れ込んでしまいそうだった。
が、残りは200メートル。 あとほんの少し。 ほんの少しの苦行を越えるだけで報いが待っている。
自分をそう騙して気力を振り絞り、ひゅうひゅうと吹く呼吸もどきで足掻きながら、ゴールラインを目指して。
すぐ真後ろから響く友の蹄鉄の音を受けて、追い立てられて。
ファインドフィートは、赤味がかった視界のままで幻を追いかけた。
そして、残りの100メートル。
痛烈に軋む左足首を、黙殺する。
ぎしぎしと、ぎしぎしと、ぎしぎしと、歪みゆくそれを妄執のみでねじ伏せる。
もう折れる、と身体が悲鳴を上げている。
まだ行ける、と精神が絶叫を上げている。
相反する二相を抱えたまま、奥歯を噛み潰して。 一歩、三歩、六歩と跳んで。
「こひゅ」
白む頭のまま、ゴールを越える。 越える筈だった。 後ろとの差はおよそ
ゴールラインを越える寸前のほんの一瞬に、多くの感傷が湧き出てきた。
それは夢を裏切らなかった安堵であり、他の15名に勝ち切った充足感であり、死に損ないが冠を取った事への罪悪感であり。
己のトレーナーに対して、ほんの少しは恩を返すことが出来るのではないかという僅かな期待だった。
ミホノブルボンに勝つことでトレーナーの能力を証明できたなら、幾らかは報われるのではないかと。
ファインドフィートは、そんな期待でほんのりと胸を膨らませた。 子供らしく無邪気な夢想だ。 全部全部がうまくいくと思い込んでいる。
彼女はその勢いのまま、右のつま先を前へ蹴り出して。
そしてただひとりのまま、最後の一線を越えて。
──次いで着地した左足から、ぼきり、と。
太い枝を折ったような生乾きの音が、頭の中に反響する。
その衝撃は腹を通って、頭を揺らした。
その衝撃は、腹の前には股関節にあった。 股関節の前には左の太ももにあった。 太ももの前にはふくらはぎにあった。 ふくらはぎの前が、衝撃の発生源だった。
つまり、左の足首から。
「ぁ」
もう黙殺なんてさせないぞ、と身体が主へ反逆する。
まず、前傾姿勢が歪んだ。 維持できない。 急速にバランスを失う。
反射的に四肢に力を込めたけれど、左の足は身体を支えられなかった。 そして、右の足は地面に届かないままで。
故に身体が、ぽぉんと跳ねる。 支えをなくして宙ぶらりん。 風を切って地面と並行に飛ぶ。
浮遊感に包まれて、内臓が重みをなくす錯覚を得た。
そして当然、その瞬間が永遠になる事なんてありえない。
芝の緑は少しずつ、顔へ近付いてくる。 時間感覚がスローモーションに変化するけれど、あくまでそれはスローモーション。
現実味が遠ざかっても、音が消えても、時間は前に進んでいくものだ。
すぐ眼前、40cmに地面が迫る。 一面の緑だった。
そこに、両腕を突き出す。 芝に突き立てる。
「ぅ」
しかし、ぐしゃりと。
途端にひしゃげて潰れた。 前腕の中ほどで骨が砕けた。
視界の中で変形していく腕を青褪めた瞳で見送りながら。 少女は、真反対の赤に意識を奪われていた。
そして、ぴしゃりと。
飛び散った赤色の血が芝よりも早く、頬に衝突する。 それは生暖かいぬめりを伴っていた。
反射的に、悍ましいと感じる。
真っ赤な飛沫。 両親と姉にもらった血肉の血。 ザクロのようなモドキとは違う、本当の赤色。
最後にあの飴玉を食べたのは何時だったろうか、と思い出す。
ザクロの味と血の味はどの程度違うのだろうか、とくだらない疑問を抱く。
けれど今の彼女に味覚は無いから、ザクロの味も血の味感じ取れないし、比べることも当然出来ない。 それは少しだけ寂しかった。
そんな、刹那の間の現実逃避だ。
当然、何の意味も持たない。 少女もそれを知っていた。
だから、それ以上抗うことはせずに、砕けた両腕で頭を抱え込む。
未だ空中。 時速70kmの空の旅。 地面に衝突するまで残りゼロコンマ1秒。
本当に、僅かな時間だ。
その僅かな時間には、すぐ真後ろから響く親しい誰かの絶叫で満たされていた。 きんきんと耳をつんざく声は子供の泣き声にそっくりだ。
そして、緑へ衝突する寸前に
それっきり。 結末は変わらない。
そうして、地面に衝突する。 芝の上を転がり滑る。
あっという間に意識を絶やして、血色の轍を作り上げた。
芝の上を真っ赤に濡らして。 両腕を砕かれ、左足まで折れたまま芝の上に倒れ伏して。
彼女は知らない。
轟く悲鳴や、ただ見守っていただけの人々の青褪めた顔も、遅れて到着した少女達の動揺も。
そして、すぐに追いついた少女の、喘鳴を零す姿も。 震える手で止血を始める姿も。 涙にまみれた顔も。
何も知らないまま、ファインドフィートは無責任に眠りこくる。
しかし明日のファインドフィートはきっと、悪夢を見ないに違いない。
だって少なくとも、勝ってはいるのだから。