【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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6話

 いつかどこかの、夏の夜空の下。

 "リーンリーン"と鈴虫の鳴き声が響くばかりの騒がしい(静かな)夜です。

 

 こんな時間のとある一軒家の屋根の上に、二人の子供の姿がありました。

 2階建てで、白い塗装の外壁。タイル張りの屋根は赤色。

 人が踏み入ることを前提とした屋上ではありません。

 

 子供たちはお揃いの芦毛を揺らして、野外シートに寝っ転がって(そら)を指差しています。

 視線の先にはキラキラ輝くお星さま。

 『双子』はあちらこちらに視線を彷徨わせていて、とっても楽しそうです。

 

 『あれがアルタイル』

 

 『……ベガとデネブは?』

 

 『……あのへん、じゃないですか?』

 

 『んー……。

 ………あっ、あったよ』

 

 ()()()の子供が淡い笑顔で指を向けました。

 その先には一際強く輝く星々――夏の大三角形。

 それを()()()の子供が感心したような声音で、大きく大きく頷きます。

 頭頂の耳がつられてピコピコと揺れました。かわいいですね。

 

 『なるほど。

 これでミッションコンプリートです。お父さんに報告しましょう』

 

 『あっ、じゃあ写真取らないと……!』

 

 シートの傍らに佇むかばんをゴソゴソと漁り、デジタルカメラを取り出しました。

 それは二人の父親が趣味で購入した高級品です。

 実際の値段は知らないのですが、慎重に慎重に、大事に大事に扱います。

 

 まだまだ小さな指先でカメラのボタンを押し込み――パシャリ!と響くシャッター音。

 

 背部の液晶を眺めた青い目の子供は、ご満悦そうな表情を浮かべていました。

 幸せそうで、キラキラと輝いています。

 

 『■■■(削除済み)、フィート!見つけたか~!?』

 

 『あっ、お父さんだ……下に降りなきゃ』

 

 『手を繋いで降りましょう。

 一人は、危ないですから』

 

 『ん……分かった』

 

 ギュッと手と手をつなぎ合わせます。

 子供特有のあったかい手のひらが、お互いの存在を確かめる(よすが)のようでもありました。

 

 『一緒に行こう』

 

 『うん』

 

 全く同じ顔を鏡のように見合わせて、小さく笑っています。

 しあわせそうで、きれいな笑顔。

 

 ええ。二人とも"しあわせ"です。

 本当に、本当に――"しあわせ"だったのです。

 

 

 


 

 

 

 窓の外に広がる夏の夕暮れ。

 何処か遠くから響く"みーんみーん"と鳴くセミの声。

 この求愛の唄はトレーナー室の窓を容易く貫通し、葛城トレーナーとファインドフィートの鼓膜を騒がしく震わせていた。

 

「……夏だな。

 このセミの声を聞く度に実感するよ」

 

「鳴き声を聞くだけでも暑いですね。

 あの、あれです。きょ、きょう……」

 

「共感覚だ。

 お構いなしに体を冷やしてくれるクーラーが有ってよかったな」

 

 ──今は8月第1週。

 ファインドフィートの知り合い達の多くが合宿で集中トレーニングに勤しむ時期でもある。

 

 夏特有の熱気を含んだ赤い陽光と天井からの白い蛍光が混ざり合い、窓際に飾られたプルメリア(夏の花)を華やかに照らす。

 貞淑な白と黄色で構成された花弁が誇らしげに輝いていた。

 

「さて、次の目標を改めて確認しよう」

 

 しかし夏だろうと秋だろうとも二人の調子は変わらない。

 普段通りの様相で、葛城トレーナーの無機質な声音がトレーナー室に響く。

 

 そしてそれを聞くのは赤いジャージ姿のファインドフィートである。

 いつもの定位置──ふかふかのソファーにうつ伏せで寝っ転がり、力のこもらない両手脚を投げ出したまま耳だけを彼へと向けた。

 

 ちなみに、普段は右手に鎮座している筈のはちみーはない。

 ソファーの目の前にある机の上で空っぽの体を晒し、虚しげに佇んでいるばかりだ。

 甘味の余韻を楽しむファインドフィートとは対象的な姿であった。

 

「メインはホープフルステークスである事に変わりはない。

 だが……9月後半の芙蓉ステークスにも出走することにした。

 目的はあくまでもレース経験の補完程度で認識してくれ」

 

「はい」

 

「そこまでを前提として、だ。

 これまでのトレーニングで成長したキミに合わせてスケジュールを修正した。

 今回はそれの共有ミーティングというわけさ」

 

 ホワイトボードにぺたりと貼られたのはA2サイズの紙。

 クーラーが生み出す涼風に当てられ、ぺらぺらと大きく宙に舞った。

 そうしてはためく白を眺めていると、視覚的にも不思議と涼しくなったようにも思える。つられて尻尾も揺れてしまうというもの。

 

 ──が、すぐにマグネットに依って封殺されてしまう。

 

「諸行無常。出る杭は打たれるとはこの事ですか……」

 

「違うぞ。アホやってないでちゃんと見てくれ」

 

「賢いですが」

 

「はいはい、賢い賢い」

 

「おのれガイコツ」

 

 仕方なくソファーに沈んでいた顔を横へ逸らし、机の向こう──壁際に設置されたホワイトボードに視線を向けた。

 首には大した負担もなく見ることの出来る位置だ。残り僅かな体力を消費しないように、ぼんやりと瞳だけを揺らし文字を追いかける。

 

 網膜に踊る情報はファインドフィートの今年いっぱいの詳細スケジュール。

 部位ごとに設定された筋力トレーニングの項目と、筋肉の疲弊具合を予測した上で合間合間にスピードスタミナの底上げトレーニング──有酸素運動。

 パズルを組み合わせるように複雑に構成された生活プランだった。

 

「……なるほど」

 

 瞳をスッと閉じる。

 

 赤青緑の蛍光ペンでそれぞれの情報を分かりやすく整理しているらしい。ありがたい事だ。

 赤色が無酸素運動(筋力トレーニング)

 青色が有酸素運動(持久力トレーニング)やフォーム矯正、レース走法。

 緑色が栄養管理を始めとした私生活プラン。

 

 少しでもファインドフィートの理解を助けようとした工夫が随所に見受けられて、葛城トレーナーの苦労が偲ばれるというもの。目元の隈が出来たのはこの所為だろうか。

 

「…………なる、ほど?」

 

 ──だが、しかし。

 どちらにせよファインドフィートにはその細かな気配り全てを理解しようとする気はない(にも賢さG)

 なんせデジタル世代の産まれ。アナログは不慣れ。

 これらをスケジュール管理アプリに叩き込んだほうが余程便利なのである。

 再度目を開くが、既に視線はあらぬ方向へ旅立っていた。

 

 ……ほんの少し申し訳ない気もするが、きっと葛城トレーナーも織り込み済みだろう。たぶん。

 

 なんとなし(気まずげ)に視線が逸らされるさまを見ていた葛城トレーナーが、"まあそうだろうな"と呆れた笑いを零す。

 つまりは、ただ単に葛城トレーナーが凝り性なだけであった。

 

「で、これに従って生活することに専念するだけでいいんですよね」

 

「そうだ。

 余分な負担を無くすために作ったものだからな」

 

「了解しました」

 

 肯定の意を込めて手をふる──のは無理だったので、尻尾でふりふりと返事を返した。

 全身から脱力しきった体勢を正そうにも、無様にプルプルと痙攣するばかりなので仕方がない事である。

 

「ところでトレーナー」

 

「何だ」

 

「普段よりも回復が遅いです。

 それにさっき迄はある程度動けていたのに、もう起き上がれなくなりました」

 

「それはそうだろう。

 強度や刺激方法を調整したからな」

 

 そう言いながらもタブレット端末をかばんから取り出す。

 

 黒ずんだ隈に囲まれた瞳を手元に落とし、骨ばった指先を液晶上に踊らせ──表示された画像をファインドフィートの目の前に寄せた。

 左には以前までのトレーニングメニュー。右には今回実施したトレーニングメニュー。分かりやすく内容の比較を行うための絵図だった。

 パチクリと目を瞬かせて2つを見比べる。

 

「なんと……」

 

 今回はそもそもトレーニングに利用するマシンの時点で全くの別物──らしい。

 それにフォームも重量も違えば、掛けた時間も違う。

 

「なるほど……」

 

 ──ところで、それにどんな意味があるのだろうか?

 何故、疲労回復速度の低下と関係があるというのか。

 ……ファインドフィートには人体に関する知識なんて殆ど無い故に、よく分からなかった。

 こういったものは全部トレーナーに任せておいた方が良いだろうと学習を諦めた弊害である。

 

 が、しかし。

 "全くわかりません"と答えるのは何となく恥ずかしかったのでしたり顔(無表情)で頷いておく。虚勢を張ったともいう。

 

「なるほど……」

 

「ま、要するに──今回行ったのはマンネリの解消さ。

 適度にトレーニング方法を変えないと停滞してしまうからな」

 

「なるほど……」

 

「……。

 

 ……なあ──」

 

「賢いですが」

 

「まだ何も言ってないんだが」

 

 葛城トレーナーがいつもの呆れ笑いを浮かべる。

 ファインドフィートとは違い、意外と動く表情筋を所有しているのがこの男だ。

 

 ……そんな顔で見られているせいなのか、そこはかとなく居た堪れなくなって、顔を元の位置──ソファーとの顔面埋没姿勢へと調整する。

 決して負けたわけではない。

 肩がプルプルと震えているのは単なる疲労故である。少なくとも、彼女にとってはそうだ。

 

「こんな状態でさえ無ければ……」

 

「疲労による精度劣化の程度はあれども、知性そのものに対する変化は発生しない。

 その事はキミも知っているはずだが」

 

「……喧嘩、売ってますね?」

 

「非売品と言う事にしといてくれ」

 

 思わず舌打ちを零した。

 

 ファインドフィートとて、この葛城トレーナーに口論で勝てないことは遺憾ながら──()()()()、遺憾ながらも自覚している。

 しかし腹の底から湧き上がる鬱憤は止められない。

 

 だから仕方なく──代わりのぶつけ先として、一向に力の籠もらない四肢へ恨めしそうな視線を注ぐ。それもこれも十全に動き回れない手足が悪い。

 罪状は疲労困憊罪。今決めた。

 

「……実際の所、動けないのは問題ですね」

 

「それはそうだ。

 現状だと()()()弊害があるだろうな。

 たとえば……はちみーを飲めなくなったりとか」

 

「………!!」

 

 試しに右手を机の上のはちみー(空)へと伸ばす。

 

 ──当然、肩も上がらず二の腕がぷるぷると震えるばかりで動かない。

 関節部分に痛みがあるわけではないし、不快感があるわけでもない。

 ただただ、力が籠らないだけ。

 はちみー(空)の方向に指先を向けるだけで精一杯だった。

 

「…………くッ」

 

 不快感が無い?

 いいや、前言撤回だ。

 精神的な意味では不快感しか無い。

 殺意の赴くまま、視線の先に佇む空のカップを忌々しげに睨みつけた。カップにしてみればとんだとばっちりである。

 

「……なるほど。私生活に支障が出すぎるのも問題だな。

 あまりにも影響が大きいと精神衛生上にも良くない事だ」

 

「その通りです。

 はちみーを思うがままに貪れないというのは、とても辛いことですから」

 

「そこは同意しよう」

 

 もしもここにトウカイテイオーも居たのなら、"ボクもそう思うよ"と賛同したことだろう。

 

 高カロリーの物体を好むのはアスリートとして如何なものか?

 ──なるほど、それは正論だ。

 しかしそんな正論には敢えて目を瞑る。それはそれ、これはこれだ。

 栄養バランスやトレーニング内容を加味した上で計算、摂取しているので一切問題はない。はず。

 

 ……ちなみに、飲んだ量に応じて食事内容やトレーニングメニューを再修正するのは葛城トレーナーの仕事である。目元にこびりつく隈も納得の労働量だった。

 

「だがまあ……これまでのキミの回復力から考えると、1時間そこら寝ていれば大丈夫だろう。

 すぐにまた普段通りの生活が出来るようになるはずさ……たぶん

 

「なるほど。

 それまでは此処で休むべきですね」

 

 "じゃあもう寝ます"と響く即決の声。

 云うやいなやさっくりと諦めて肩肘から力を完全に逃し、瞼を下ろしていた。

 

 ──この間僅か数秒の出来事。

 早く休んで可能な限り早く私生活を送れるようにならないと、またミホノブルボンに手間を掛けさせてしまう──そんな危機感がファインドフィートの睡眠欲を煽っていたのかもしれない。

 

 ……手間を掛けている事に関しては今更か? ……今更かもしれない。

 だがやはり迷惑をかけている自覚はあるし、恥ずかしいものは恥ずかしいというのも真実。

 

 寝起きで荒れた髪を梳かされたりしているし、風呂上がりは尻尾に香油を塗ってもらったりしているが──それはそれ。

 ファインドフィートにだって申し訳程度の"男のプライド"は残っていた。きっとそう。

 

「オッケー葛城。1時間後に起こしてください……」

 

「俺は何時の間に音声アシスタントになったんだ?」

 

「今からです」

 

「わがままなお嬢様だ」

 

 葛城トレーナーからの()()()()を聞き届け、満足げに尻尾を一振り。

 拭いきれなかったらしい、首元を苛む汗の感覚はちょっぴり不快ではあるが──まあ、動けないのなら仕方がない。

 

 しかしこのトレーナー室には最低限の生活用品以外にも、ロッカー内部には下着や肌着、着替えなども完備している。

 動けるようになったらシャワールームでも借りよう。

 それで問題解決だと、得意げに尻尾をもう一振り。香油の甘い香りが仄かに漂った。

 

「俺は少し用事があるから此処を出ている。

 何か有れば連絡してくれ」

 

「了解、です……」

 

 睡眠宣言から十数秒。

 早くも、"くぁ"と小さなあくびが飛び出していた。

 

 寝る態勢に入ってしまったからだろうか──途端に襲いかかってきたのは抗いがたい眠気だ。

 あっという間に全身を巡り頭蓋を満たした毒気は、ファインドフィートの瞼を引きずり降ろそうと躍起になっていた。

 本当に、驚くほど早い。

 

 その上、とくり、とくりと規則正しい鼓動の音が子守唄のようにも聞こえて──また尚更に思考回路の回転が鈍っていく。

 

 ……きっと、体は正直に休息を求めていたのだろう。

 ただ、ファインドフィートが見栄を張って眠気を遠ざけていただけ……なんて言えば子供のようだから、彼女は当然のように否定するけれど。

 実際に子供なのだから、否定したところで仕方のない事──口から出かけた言葉をとっさに飲み込んだ葛城トレーナーの判断は、まさしく英断だった。

 

「…………では、また……」

 

 指先、肘、肩。

 つま先、膝、太もも。

 じわじわと感覚が薄れ、残ったのは体の下のソファーから伝わる柔らかい感触だけ。

 

 いつしか耳も尻尾も重力に従ってたらりと伏せられた。

 つられて青と赤の耳飾りが白髪に埋もれる。カチャカチャと鳴る金具の音も何処か遠い。

 

 ──そしてそれに気付けない程には、意識がぼんやりと輪郭を崩していた。

 

「……また、様子を見に来る」

 

 朧げに聞こえた声音に対し、小さく尻尾を動かして応えを返した。

 

 ──ああ、いや。小さく動かしたつもりだっただけで、本当は全く動いていなかったかもしれない。

 

 眠気に自我を支配されたファインドフィートにはまるで分からない。

 自分の体の下に広がる寝床の感触とクーラーの冷気。

 これらだけが停止間近の思考回路すべてを占領していたのだから、当然だ。

 

 だけれど。

 すぐ傍から届いた呆れ笑い。それと、背中から太ももの裏までを覆うやわらかい布。

 これらの暖かい感触が答えだったのだろうか。

 

 

 

 □

 

 

 

「……戻りました」

 

 "キィ"、と蝶番が鳴る。

 疲労困憊の体で寮まで辿り着いたファインドフィートはスカートの裾を揺らし、のろのろとドアを潜った。

 玄関部分に置いたピンク色のマットを踏みしめる感触さえも朧げで、霞んだ瞳はどこか夢うつつ。

 先に部屋に帰っていたミホノブルボンが驚いたように目を瞬かせたのも無理はない。

 

 普段はピンと張っている背筋も疲労の重みで丸まっているし、一切トレーニングで使っていないはずの耳や尻尾でさえもヘタリと垂れていた。

 体の上下に合わせて力なく揺れる尻尾からは、そこはかとない哀愁を感じてしまう。

 

 ミホノブルボンが流れるように肩を支える所作も、最早手慣れたものである。

 

「大丈夫ですか。

 前回のトレーニングよりも30%多く疲労が溜まっているようですが」

 

「……はい。

 普段よりも変化球な感じで……その、とりあえずハードな感じだっただけですか、ら」

 

 口はそう嘯きながらも体は正直だった。

 起床した後、一人でシャワーを浴びる事が出来たのは最早奇跡。あるいは偉業と言っても過言ではない……かも、しれない。

 

 そんな一仕事を終えた後のファインドフィートは当初の危惧を忘れ、ミホノブルボンの支えの下足を進めた。

 ふらふらと上体をよろめかせている姿は、生まれたての子鹿とそう大差ない有様。

 それでも必死に草臥れた筋繊維に活を入れて部屋の中枢を横断し、カーペットを踏みしめ、ベッドへと向かう。

 彼女にはつま先を持ち上げる気力さえも残留していないのか、足の裏と床が並行に擦れ合っていた。

 

 寮の一室というそれほど大きくない範囲の移動──たったそれだけ。

 だがしかし、それだけで断崖絶壁を駆け上る以上の労力を奪っていった。

 無論錯覚だ。

 

「……すみません」

 

「謝らないでください。

 先輩とはこうして後輩を助けるものだと、お父さんにも教えてもらいましたので」

 

「そう……なんですか?」

 

「そうです」

 

 ──ようやく辿り着いたベッドへ、ぽすりと倒れ込む。

 衝撃につられて広がった白髪に気を使う余力さえ無く、シーツに顔をうずめる姿は死体のよう。

 

「はぁ………」

 

 ファインドフィートを優しく包んでくれるシーツに顔を埋め、大きく深呼吸。

 洗濯したばかりの柔軟剤のいい香りが鼻腔を擽る。

 そのまま胸の内までを満たすほんのりと甘い香りが、ファインドフィートの荒んだ心を癒やしてくれた。

 

「食事は?」

 

「摂取済み、です」

 

「そうですか。

 つまり、後は眠るだけのようですね」

 

 返事を返そうと口を開きつつも、既にファインドフィートの目は閉じかけだ。

 必死に意識を覚まそうとして、しかし徐々に徐々に瞼が降りていく。

 眠気との格闘している姿こそがミホノブルボンへの答えでもあった。

 

 ……そう遠くないうちに意識を落とすだろう──そう察したミホノブルボンが手にしたのは髪紐。

 ファインドフィートの机の上に置いていたそれは、学園に入る際に持ち込んだ数少ない私有物だ。

 品のいい赤色を揺らし、テキパキと髪を指で纏め上げる。

 

 うなじの部分でゆるく三つ編みに結ばれた髪が、ファインドフィートの呼吸に合わせて小さく揺れた。

 ミホノブルボンが"やはりよく似合っていますね"と姉面で満足げに頷く。

 

「完了です。

 この状態であれば入眠後、頭髪に対するダメージが大きく軽減されます」

 

「あ……ありがとうございます」

 

 ふやけた声だ。

 目はほとんど閉じかけの有様である。

 きっと、既に意識は殆どの部分が夢の世界に沈み始めていることだろう。

 それでも後頭部に指を伸ばし、三つ編みに触れる。

 纏められた髪をサラリと撫でつけ、柔らかい感触にじっと目を細めた。

 つまり、もう1ミリの視界さえも開けていない。

 

「…………」

 

 ──そうして夢うつつのまま、うっそりと口を開く。

 ぼんやりと霞んだ頭の中を過るのは過去の残照か──あるいは幻か。

 意味のない虚像であることに違いはない。

 けれどそれを判断できるだけの思考能力は、すでに蕩けてしまっていた。

 

「………約束」

 

「……?」

 

「約束、なんです」

 

 

「『姉』と一緒に、髪の毛を伸ばして……おそろいの髪型にしようって」

 

「……そうでしたか」

 

 ……得心したように頷く。

 とはいえミホノブルボンは一人っ子である故に、実感の熱が籠もっているわけではない。

 それでもどうにか推理するのなら──嘗ての彼女が抱いた熱である"ロマン"とはまた違った、ファインドフィートにとっての仄かな憧れ。

 あるいは、未来への希望──きっとそういうものか。

 

 ミホノブルボンはファインドフィートに対して素直に、"きれいで素晴らしい"と口にする。

 純粋な、彼女らしい返答だ。

 

 ……むしろ、これ以上に気の利いた返しなど土台不可能。

 コミュニケーション機能のアップデートに期待すべきだ。

 開発担当者は崎川トレーナーか──あるいはそれ以外の誰か。

 これもまた、未来への希望と言えるだろう。

 

「素敵なお姉さんですね」

 

「……ありがとうございます」

 

 ──そこが限界。

 

 ぷつりと糸が途切れたように、全身から力が抜け落ちる。

 さほどの間を置かずに聞こえ出したのは"すぅ、すぅ"と空気の抜ける音。

 

 すぐ傍らに立っていたミホノブルボンは、目の前の彼女が眠りについたことを察知した。

 そして極めて自然な流れで傍に畳まれていた薄手の毛布を広げ、ファインドフィートの腰に掛けてやる。

 夏の夜とは言えお腹を冷やしてしまうかもしれない。それは身体に良くないもの。

 ……これも、ミホノブルボンが崎川トレーナーに教えてもらったことである。

 

 先人に教えてもらった智慧を後輩にも──そう考えると不思議と気分が高揚し、尻尾もご機嫌そうに揺れてしまう。もちろん音は立てていない。

 

「おやすみなさい、フィートさん」

 

 机の電灯を残し、部屋の明かりが消える。

 ミホノブルボンにとってはまだ眠るには早い時間だからか、しばらくの間書籍を読み漁るつもりらしい。

 パラパラと捲られたのは最近流行りのロボットマンガ──その第一巻。これから全巻制覇の予定である。

 ……明日の崎川トレーナーは、きっと苦労する事だろう。

 

「なるほど……。

明日使用するメカジョークのヒントを取得しました。メモリへの書き込みを実行します」

 

 ──こうして、各々の夜が更けていく。

 部屋に沁み込むのはファインドフィートの寝息と、ミホノブルボンが本をめくる音。

 あとは、窓を貫通しリンリンと響く鈴虫の鳴き声ばかり。

 

 三色の合唱が、夏の夜に溶け込んでいた。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 ――けれども、現在(いま)となってはウタカタの夢。

 もう何処にもない光景。すでに失われてしまった宝物。

 

 『彼女』が本当に欲しかった"しあわせ"は、きっと彼処(過去)にあったのでしょう。

 だからもう、何処にもありません。

 

 何処にも。

 

 

 

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