55話
走っている。 芝の上を走っている。
曇り空の下で、強い風の中を掻き分けて。
切れる息と弾ける汗、跳ねるつま先、浴びた土埃。
それらの上等な化粧で着飾って、ミホノブルボンは少女の背に追い縋る。
誘うようにひらひらと舞う白布と青布までの距離は、あとほんの数メートルだ。 なんて言っても、その数メートルを縮めるのが酷く難しい。
体力は既に限界を迎えているし、足は乳酸が溜まり切ってパンパンだ。
しかしそれでも限界を超えるために気力を振り絞って、一歩と一歩の間隔を広げて足を回す。
一歩分の距離を縮めて。 半歩分の距離を離されて。
二歩分の気力を一歩に凝縮して、再度の駆け引きに挑む。
互いの距離は1メートル以下。
ゴールまでは20メートル以下。
先頭はファインドフィートで、数歩遅れてのミホノブルボン。
酸欠気味の脳味噌で、この距離と今の残り時間を考える。
ここから差し返せる可能性はあるのか。 勝ち筋はどこにあるのか。
……そんな事を何度考えても、導き出される答えは変わらない。
つまり、今回はこの順位が覆ることはない。
感情はさておきとして、理性的な部分が薄っすらと確信していた。
どうしようもなく悔しくて、悔しくて、悲しくもなってしまう答えだ。
けれど、間違いなく全力を出した。
今までに獲得した全てを振り絞った。 言い訳の余地が介在しないほど、全てを出し切った。
だからミホノブルボンは、訪れるだろう結果に納得はしていた。
残りの距離は、2メートルと少し。
ゴールに至る寸前に、この後何を言おうかと考えてみる。
別に今考える必要はない──なんて、事の順序を理解できるほどの思考能力は残っていなかった。
酸欠でぼやける思考のまま、浮つく考えを回す。 くるくるくるりと言葉を捏ねる。
それに、思考の最中であっても入念に鍛えた身体は変わらず全力を振り絞り続けていた。 だから何も問題はない。
足は大丈夫ですか、だろうか。
楽しかったですね、も良い。
今日は早めに寝ましょう、とも言いたい。
──けれど、何にしてもまずは互いの健闘を称えるところから。 そう思い直す。
言いたいことはいくらでもあるし、次こそは活動休止の意思を引き出したい。
しかし頑張ったのだから、小言も
そう、一秒にも満たない刹那で思考を完結させて。
前方に意識を向けた少女の耳に、ぼきり、という。
そんな、生乾きの音が聞こえた。
「ぇ」
眼前の背中が、不意に跳ねる。
スローに変化した視界の中で、折れ曲がった足を見つけた。
鳴った音の原因は一目瞭然で。 それが致命的なものだとすぐに気付いて、ぞわりと、背筋に怖気が伝う。
骨折。 そして、転倒。
その先にあるものなんて、考えずとも分かる事で。
答えを導き出すと同時に、喉の奥から悲鳴が溢れた。
けれど当然、その声では少女の身体を繋ぎ止める事はできない。
両腕で受け身を試みる。
そして失敗する。
ぐちゃりと、両腕の肉が花開いた。
それでも辛うじて頭部を守る姿勢をとって地面に衝突し、芝の上をごろごろと転がっていく。
血の轍を撒き散らして、芝の緑を染め上げながらの七回転半。 赤色の軌跡が刻まれる。
「まって……っ!」
その身体を追いかけて。
追いかけて、追いかけて──数秒を駆けて、ようやく追いついて。
脱力しきった肢体と処女雪を穢す赤色に、引きつった喉で吐息を漏らした。
「……嘘、嘘、嘘です。 こんな、事、計算外です。 だって、こんな事ありえては──」
現実逃避だ。 現実逃避でしかない。 つまり無意味だ。
そんな事、ミホノブルボン自身が他の誰よりも分かっていた。
必要なのは泣き言ではなく行動。 迅速な救命措置。
それをミホノブルボンと、ミホノブルボン以外の人々が、世界が望んでいる。
たとえ、救命対象に望まれていないとしても。
それでもまだ、終わりは許されない。
「──ぁあッ!」
横向きに倒れていたファインドフィートを仰向けにする。
振動に対する反応はなく、瞼は下ろされたまま。 つまり、意識レベルはかなり低い。
状況確認を迅速に済ませた後は、両腕の上部を抑えて、どうにか間接圧迫止血を試みる。
左足も折れているけれど、それよりも腕の出血──特に右腕の出血が酷い。 開放骨折しているせいだ。
白い皮ふを突き破って、赤色をまとった橈骨がひょっこりと顔を覗かせている。
ともすれば、この骨が動脈を傷付けている可能性さえあった。
「大、丈夫……大丈夫です。 出血量はまだ致死量では、ありません。 だから、だから……」
それでも、出血量さえ少なければ大丈夫の筈だ。 少なくとも、命は。
……命は、大丈夫だけれど。
けれど、ふと、考えてはならないことを考えてしまう。
両腕を抑えながら少女の身体に視線を滑らせて、歪んだ左足を盗み見て。
骨が折れているなら、あるいはここでもう、止まってくれるのではないかと。
そんな妄想を抱いて──すぐに顔を俯かせて、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「……どうして、こんな事に」
そしてただ、医療スタッフの到着を待つ。 担架を担いでいる女性達はもうすぐそこだ。
抑えた両腕からの血は勢いを弱めているけれど、しかし流血は止まらない。
「どうして……っ」
とくり、とくり、とくり。
少しずつ、血が抜けていく。
とくり、とくり、とくり。
抑えていた手に伝わる鼓動が、緩やかになっていく。
嫌な予感がもう一度、背筋をずるりと舐めた。
手から伝う感触を信じたくなくて、倒れ伏す少女の顔を覗き込む。
表情は虚ろで呼吸は浅く、死者の顔と見紛う程に生気がなかった。
しかし、目がゆっくりと開かれて。
それから焦点の合わない目でミホノブルボンを見つめ返して、唇を小さく震わせた。
「……ご、めんなさい。 ごめんなさい、ねえさん……」
懺悔。
ファインドフィートが口にしたのは、ただそれだけ。
受け取り手なんて居ないのに、それすら理解せぬまま、自分勝手に放り出して。
純粋に安心しきった顔で瞼を下ろす。
それからすぅぅ、と、長い息を吐ききって。
長い長い息を、全部吐き出して、肺の中身を空っぽにして。
いつしかゆったりと、胸の動きが、少しずつ──。
「──待ってッ!」
──叫ぶ。
布団を蹴飛ばす。 薄い毛布が壁にぶつかった。
衝突の後にずりずりと床に落ちていくそれを見送って、少女は、汗にまみれた顔を俯かせた。
髪の毛が額に張り付く。 首筋が冷たい。 背筋もぐっしょりと濡れている。 薄手のパジャマは肌に張り付いていて、身体中を不快感が覆っていた。
「……ゆ、め?」
呆然と、自分の手を眼前に翳す。
彼女が口にしたのは、ただそれだけの状況確認だ。
窓の外の真っ暗闇が現時刻を表して、ベッドの上にある事実が寸前までの状況を物語っている。
「夢。 夢、あれは、夢……」
だから、彼女を苦しめた景色は夢の産物。 夢に見た結末も幻だ。
現実のファインドフィートは、今も病院で治療を受けている真っ最中。
結局、夢の中の想像は杞憂でしかない。
「夢の、はずなのに」
けれど、あの時感じた恐怖は、確かに存在したものだったから。
口の中の苦味を中々飲み込めなかった。
流れていく血と、薄まっていく生気と、輪郭を帯びる喪失感。
その何れもがあの時のミホノブルボンに、ありえざる結末を予感させるものだったから。
だからその感覚だけは、決して幻にはなってくれない。
現実であろうと、夢の中であろうと、いつになっても。
「……ぅぷ」
両手を見る。 両手を見た。
真っ白い肌に映える赤色と、ぬめりを伴う感触が、今も消えてくれないままで。
◆
看護師が、ドアの前から振り返る。
白髪交じりの女は目尻をほんのりと垂らして、病室の中央の、白い少女に向けて口を開いた。
「それでは、なにか御用があればそこのナースコールを押してくださいね。 どんな些細な事でも構いません。 暇、という理由でも良いですから」
「……どうも、ありがとうございます」
「ああ……それと、冷やしたタオルを持ってきます。 少しだけ待っていてくださいね」
はい、と返した彼女が寝っ転がっているのは白いベッドの上だった。
今のファインドフィートの世界は、ただのそれだけ。 それだけで完結している。
両腕と左足はギプスで固定されていて、寝返りをうつ事さえ容易ではない。
そんな彼女が外を出歩けるがないのだ。
だから何もかもが人任せ。 食事も着替えも、何もかもだ。
排泄さえ自力で出来ないのだから筆舌に尽くし難いものがある。
恥ずかしい、というよりも、ただただ惨めだった。 無様だった。
また、自分の首をへし折りたくなる程に。
「……みんなは、どうしてるのかな」
少し赤く腫れた目で、窓の外の空を見上げる。
現実逃避の視線の先では、鳶が悠々と飛んでいた。
視力が衰えた今の目ではおぼろげな輪郭しか見えないけれど、鳴き声が特徴的だったから分かりやすい。
「うらやましいなぁ……」
零したのはささやき声。 ベッドの上に染みるだけの物。
だから、その言葉は誰かに向けられた物ではなく、ただの雑音に等しい。
「
……そんなの、わたしよりもよほど上等じゃないですか」
やがて口にしたのは、そんな羨望だった。
とはいえそれに意味はなく、ファインドフィートにできるのは精々視線で追いかける程度。
鳶になることはできないし、虫になることもできない。 彼女はファインドフィート以外の形になれない。
その程度であれば、彼女も理解している。
しかし、あるいはだから、綺麗なものに近付いてみたかったのだと。
何も知らずに、何も知らないから、愚かな願望を口にする。 いつもと同じだ。
「そう……そうですね。 せっかくだしナースコールで屋上へ……いえ、流石にこれで呼ぶのも悪いですか……。
そもそも、わたしの身体で屋上に連れて行ってもらえるのかも分からないですし」
うぅん、と唸り声を上げる。
理由は気晴らし。 くだらない羨望によるもの。 つまり、大した意味のない移動だ。 ファインドフィートにとって、それで他者に負担を強いるのはまったく良くない考えだった。
とはいえ、通常は"気晴らし"というだけでも十分な理由として成立する。
……残念ながら、彼女はそれを許せるほどの自己肯定感は有していなかったけれど。
だから、頭の横のナースコールを睨みつけて、それっきり。
ボタンを押して、ヒトを呼び出す所まで辿り着けない。
『……何を、してるの』
そうして幾分か後。
何もせず黙りこくったままの彼女を見兼ねてか。 ドアをするりと
突然の遭遇。 が、驚愕の声は出ない。
ファインドフィートは大したリアクションを返すことはせず、頭の向きをくるりと反転させて、ドアの側へ向ける。 正直なところ、ここ最近の
それが良いのか悪いのかといえば判断に困るが、少なくとも良くないことは明らかだった。
「こんにちは、ひいお婆ちゃん。 今日は物陰にいないんですね」
『……』
視線の先の少女は、やはり顔が全く見えない。
マンハッタンカフェからすると『お友達』。 ファインドフィートからみると『ひいお婆ちゃん』。
今回は後者の二人称で呼ばれる少女は、小柄な身体で呆れたような身振りを取る。
顔が見えない事を彼女自身も理解しているからだろう。 やや大げさな意思表示だった。
『別に、いつも好きこのんであそこに居るわけじゃないけどね』
「……そうなんですね。 じゃあ、ゆっくりしていってください。 もてなすことは出来ませんが……」
『うん、勝手にいる。 ひ孫は気にしないで』
どちらも年若い。 あるいは、まだ幼いと言い換えてもさほど齟齬が無い容姿だ。 三世代を隔てる呼称を用いるには違和感が大きすぎる。
が、どちらもそれに触れることはなく、極々自然にやり取りを成立させていた。
それにファインドフィートには、黒い少女を疑う理由も、拒絶する気力も無かった。
ヘンテコな存在には慣れていて、なにか害をなされる訳でもない。
ならば嫌うより、好んでいる方がよほど気楽である。
受け入れる理由はそれだけで十分だった。
『で、何しようとしてたの? ケガ、まだ治ってないでしょ』
「いえ、その……大した理由は無いんですけど、屋上に行きたくて」
『そっか……』
『ひいお婆ちゃん』がベッドの真横の椅子に座り込む。 その動作に音はない。
纏う制服の揺れる裾を、視線で追いかけて。 ファインドフィートはふと、未練がましい自分を自覚した。
それが日常と共にあったからか、自身の身分を証明する基盤だからか。
そんな理由を思い浮かべる度に、また、少しずつ虚しくなってしまった。
「ここは、退屈ですから。
自分じゃ何もできなくて、ただ時間が過ぎるのを待つだけで。 看護師さんは優しいけど、いつも忙しそうですし。
……あと、今までと違うから、気分が落ち着かないのもあります」
これをくだらない感傷だと吐き捨てるのは、中々難しい。
学園で過ごした時間が少し長すぎたせいだ。
縋る先の日常を思い浮かべると、舌の先に苦味が染みるのを自覚した。 それがくだらない錯覚であるとも、理解していた。
「だから……ええ。 きっと、わたしは寂しいのでしょう」
『……そっか。 私達は、寂しがりやな生き物だからね』
寂しさを埋めてくれる誰かのぬくもりを知っているから、ひとりぼっちである事を寂しいと呼んでしまう。
誰かのぬくもりを愛するほどに、寂しさはより一層深くなっていく。
少女は、それを身を以て知っていた。 寂しさを癒やす方法も、また同じく。
『とにかく、ちゃんと治さないとね。 あと、そのうちカフェ達もお見舞いにくる予定だから……その時にはちゃんと元気な姿を見せられるように、頑張ろう』
「……」
『ね、ひ孫。 みんな、あなたを心配してたよ』
「そう、ですか……」
けれど、また顔を合わせた時、何を話せば良いのか。 どんな顔をしたら良いのか。
いくらか考え込んでみたが、答えが全くわからない。 合わせる顔がないとはまさにこの事だった。
もちろん会いたい気持ちはある。 それは偽りではない本当の気持ちだ。
しかし顔を見せれば、それが負担になってしまうのではないかという、ちっぽけな怯えも存在している。
故に悩む。 故に苦しい。
矛盾の中でもがいて、もがいて、口を開いて。
「……そういえば、ひいお婆ちゃん。 転んだ時に助けてくれて、ありがとうございました」
そして結局言葉にしたのは、非常に下手な話題転換だけだった。
椅子に座ったままの『ひいお婆ちゃん』の見えない顔を見つめて、夢が続くことを喜んだ。
「あなたのおかげで、まだ走れます。
あのまま転んでいたら……たぶん、もっと酷いことになっていましたから。 だから、ありがとうございます」
『……そ、う』
もしも普通に転んでいれば、またやり直すハメになっていたから。
故にファインドフィートには実に有り難い手助けだった。 忘れたい記憶なんてひとつもない。 無くしたい身体機能だって存在しない。 何も欠けずに済むのであれば、それが一番いい。
なんて、『ひいお婆ちゃん』の願いとは裏腹に。
『ひ孫』に向けた善意を逆手に取られた形になっていたから、当人にしてみれば堪ったものではないけれど。
別に、走ることは良いのだ。 夢を追いかけるのも良い。
その、絶対に負けたくないと願う心も。 誰に望まれなくとも、己の道を貫く意志も。
何があっても立ち続けるという覚悟も、実に好ましい。
けれど死者に全てを委ねて、心の有様まで捻じ曲げるのは、とてもではないが見ていられなかった。
個人的な心情からしても『ひいお婆ちゃん』には看過できないことで、だから必死に知恵を絞っているのに。
しかし、中々どうしてうまく行かない。
そう、見えない顔で臍を噛んで。
熱を帯びる気持ちを落ち着けるために、大きく息を吐いた。
『……もう少しケガが良くなったら、屋上に連れて行ってあげる。 だから今は何も考えずに、ゆっくり休んで』
そして結局、『ひいお婆ちゃん』は何も追求しなかった。 何も問い詰めなかった。
ただ、ベッドに横たわる子供の額をさらりと撫でて、手のひらで両の瞼を軽くおさえた。
「……ひんやりして、気持ちいい」
『そっか。 良かった』
会話も、それっきり。
その後の病室に響くのは、少女の寝息と、窓の外の鳥の声だけになる。
窓ガラスのお陰でくぐもってはいるけれど、まったく、やかましい鳴き声だった。
ぴーひょろろ、ぴぃひょろろ、と、どこか遠くの空から。
◆
それから。
ファインドフィートの入院生活は相変わらずで、とても退屈なものだった。
本は読めない。 携帯は弄れない。 ペンも持てない。 当然運動もできない。 出来ることはなにもない。
……否、両手を使えなくとも出来る趣味程度はあるのかもしれないが、彼女はそういう趣味を知らないし、これから持つ気力もなかった。
だから結局出来るのは、ベッドの上で寝っ転がる程度。
あとは精々、看護師が気休めとして設置したラジオの音楽を聞き流すぐらいだ。
とはいえ、最低限の教養としての知見はあれど、音楽そのものにはさして明るくない。 だから楽しむことは出来ず、本当に、単なる気休めでしかならなかった。
それでも、どうにか時間を浪費する。 怪我を治すために、退屈をラジオの音で塗りつぶす。
日が昇り、東から西へつつーと滑り、また空の果てへ落ちていく。
ファインドフィートが観測できるのは窓枠のうちに収まる範囲だけではあるが、それでも可能な限りを視界に収めて。 白と白と、時折まざる赤の中に包まれる。
それがここで目覚めてからの4日間。 レースの日から数えて5日後にある、尊厳を失い続けるだけの新しい日常である。
そんな日々の中、6度目の太陽が中天に坐した頃だった。
その時のファインドフィートも、ラジオに耳を傾けて、意識を半分ほど手放していた。
考えることがあるとするなら、ギターの音が少し大きいな、とか。 ボーカルの音量はもうちょっと大きい方が良いんじゃないかな、とか。
そういう、特に説得力のない、無責任な感想を抱くだけ。
それをたっぷり10曲分ほど吐き出したタイミングで。
ふと、ドアの向こうの廊下から足音が響いた。
半ば反射的に耳をぴんと立てる。
そして放り投げていた意識の半分を拾い上げ、音の質に意識を向けた。
看護師や医者の巡回の時間はまだ先の出来事。 『ひいお婆ちゃん』であれば、そもそも足音を鳴らさない。
では、一体誰の足音なのか。 あいにくと心当たりがなくて、寝っ転がったまま小首をかしげる。
こつん、こつん。 足音が響く。
規則正しいリズムは、非常に良く耳に馴染んだ。
「……あ、ブルボン先輩……?」
困惑した。 だって、彼女が今日来るなんて聞いていなかったから。
しかし当然ながらドアの向こうに伝わる事はなく、足音は止まらない。
こつりこつりと近付いて、音の主がドアの前で停止した。
そして訪れる静寂が、五拍と半の虚無を満たして。
ノック、ノック、ノック。 規則的に三度鳴る。
それを聞いて、少女は。 ただ、"あぁ"と、か細い溜息を零した。
「…………」
考えていなかった訳では、無いのだ。
遅かれ早かれ、対面するのだろうとは思っていた。
けれど、後回しにしたかった。 遠ざけたかった。
合わせる顔が無い。 顔を見せたくない。 だから、ひどく焦ってしまう。
ファインドフィートは、あの日の悲鳴を覚えていた。
泣き叫ぶような、心臓をきゅっと引き締めるような、いっそ聞き手の彼女が泣いてしまいたくなるような。
そんなどうしようもない悲鳴が、鼓膜の奥に残留している。
だから、ああ、嫌なものを見せてしまったなと、愚かしい罪悪感を抱いてしまって。
みっともないそれ故に、面会謝絶を願っていた。
……けれど、どういう訳か。
少女の願いは叶わなかったのだと、今ある現実が物語っていた。
「……ど、うぞ。 開いてます」
──ここに来たならもう仕方がない。 逃げ道なんてない。
そう、自分の心をどうにか宥めて。 おそるおそる、ドアの裏に声をかけた。
そして、そこから更に一拍の間。
僅かな静寂を挟んで、ゆっくりとドアが開く。
次いで、こんにちは、と声が響いた。 栗毛の少女が顔を覗かせる。
馴染み深い少女の顔は薄っすらとやつれていて、目の下には隈まで出来ていた。
それに対し、こんにちは、と返した。
かくいう彼女の顔も少しやつれていて、目の下には涙の跡が垣間見えていた。
つまり、二人揃って酷い顔だった。 かたや隈。 かたや腫れ。
ほんの数日前の凛々しい姿とは、天と地ほどもかけ離れている。
さりとて、それを笑い合うことは出来ない。
ただ、互いに互いの隠しきれない喪失感の香りを嗅ぎ取って、また胸の痛みを強めるだけ。 和気あいあいとした再会にはならなかった。
そして訪問者であるミホノブルボンは、部屋に入って後ろ手にドアを閉じた。
それから、ためらいがちに口を開いて……また、口を閉ざした。
まず、目を覚ましていることに安堵した。 だから、それを喜ぼうと思った。
しかし嫌でも目につく両腕と左足の包帯を見て。 現実味を増す喪失感の前に、喜びの情が失せていく。
その様相を見たファインドフィートも気を利かせようとしたが、どうにもうまい言葉を見つけられない。
彼女が口にできたのは、当たり障りのない挨拶の言葉だけだった。
「……なんだか、久しぶりな感じがしますね。 少し前までは一緒にいたのに、不思議です」
「私、も……同意します。 現実に経過した日数と……体感の日数に、ギャップがあります。 つまり……『色々な事』があったから、体内時計に誤差が生じているのでしょう」
「そう、ですね。 そうなのでしょう。
わたしも……ここに来てから、時間感覚が狂ったような気がしてますから」
なら、その影響です。
彼女はそう言って、手荷物を揺らした。 大きなボストンバッグだ。 ファインドフィートは見たことがない代物だった。
中身が何かと問いかければ、ファインドフィートの日用品や、ちょっとした雑貨、衣服や下着などの品々だと答えが返ってきた。
そこでやっと合点が行く。
つまり彼女が訪れた理由は──面会謝絶状態の少女に顔を見せることが出来た理由は、同居人としての立場があってこそだった。
もちろん、ファインドフィートの
「ありがとうございます。 荷物に関しては……たぶん、そこの机のあたりに置いてくれれば良いかと。 あとで看護師さんが回収してくれると思います」
わかりました、と返事をひとつ。
ベッドの上の少女とは違う無傷の両腕でバッグを抱えて、舌先で示された机の上に運んだ。
それから軽い音と共にバッグを置いて、小さな息を吐いて。
ベッドの脇に設置された椅子に、肩を小さくして座り込む。
そして、向けられた目と目が合う。
どちらの青も鏡合わせのように、不安気に揺れていた。
「……フィートさん。 その……怪我は、大丈夫ですか」
やがてためらいがちに告げられたのは、また当たり障りのない言葉だった。
慰めるでもなく、能天気に励ますでもなく、感情的表現を努めて排した現状確認。
たったそれだけの言葉を口にするのが、今のミホノブルボンにとっての限界だった。
なにせ、頭の中が一杯一杯だ。
怪我を痛ましく思う気持ちはある。
心配に思う気持ちだって、これ以上要らないほどにある。
快復を願う気持ちはいっそ溢れてしまいそうだった。
けれど、それらの中にたった一粒の気持ちが混ざり込んで。
思考の収拾がつかないほど、ぐちゃぐちゃにかき回されていた。
「ええ、まぁ……左腕は早めに治りそうです。 右腕も──多少は後遺症は残るかもしれませんが、その程度。 感染症の不安もありましたが、特に問題は無いと。
足は──」
そこで一度、唇を噛み締める。
そっと、ささやき声で傷口を舐めた。
「足は、治します。 だから、大丈夫です」
その声音を聞いて"じゃあ大丈夫ですね"と納得できる筈がない。
不純物だった一粒の気持ちを、確固たる物に変わってしまう。
だから、つまり、この怪我は治さなくても良いんじゃないか、と。
そんな思いが混入して、また、頭の中を痛烈に掻き回すのだ。
「……そう、ですか」
ファインドフィートという少女は、夢を叶えるために走っている。
夢を叶えるために必要なものは何か。 それは身体だ。
もちろん、他に必要な物はいくらでもある。 労力や金銭、時間、学力だって欠かせない。
しかし土台として必要なのは、身体である。 身体ひとつを張りさえすれば夢を目指せる。
逆に言えば、それがなければ何も始まらない。 永遠にゼロのままだ。
ミホノブルボンはその前提を踏まえた上で、逆を考えた。
夢を叶えるために身体が必要なのであれば。
逆に夢を諦めさせるために必要なものは、何か。
それは、喪失である。 夢の真逆。 獲得の反対。 それこそが喪失である。
たとえば、その足。 夢を駆けるための足だ。
もしそれを失えば、夢を諦めるしかない。
足とは夢へ繋がる手段であり、切符であり、権利であり、尊厳である。
それを失う事と夢を諦める事は等号で接続できる。 過去との地続きを破断させて、強制的に区切ってしまえる。
そこまでしてようやく、あるべき道を選べるようになるのだ。
だから。
このまま、二度と走れないようになってくれたら。
これ以上、苦しまなくても良くなるのではないか。
ならばもう、治さなくても良いのではないか、なんて。
ミホノブルボンは、縋るように考えてしまった。
その可能性に縋る以外の道が思いつかなかったのだ。
……もちろん、その祈りが少女に届く事は無いけれど。
「……諦めませんよ、わたしは」
手を使わずに、腹の力だけで身体を起こす。
白い長髪が遅れてついて来た。 ともすれば芦毛ではなく、白毛と見紛うほどに色の薄い髪だった。
入学当初は今より銀の風味が強かった筈だけれど、今は殆ど見えなくなっている。
……芦毛とは
そのせいで芦毛のウマ娘は色素細胞が枯渇する時期が特に早く、年嵩を重ねるほど白毛のそれに近付いていく。
だがそんな芦毛事情を踏まえても、彼女の変化は些か早すぎた。
単なる体質として、他の芦毛よりも枯渇するのが早いだけか。
あるいは強いストレスを受けている事の影響で色が抜けているのか。
詳細な理由は不明だったが、とにかく、彼女の白色が強まっている事だけは明らかな事実だ。
そのせいでより一層、浮世離れした色香が病室の中に溶け込んで見える。
「あとみっつ。 あとみっつあれば、わたしの夢が叶うんです」
そして、薄い桜色の唇に、確かな輪郭を得た破滅願望をのせて。
ミホノブルボンが抱いた不安感を、正しいものとして肯定する。
「ですから……秋の天皇賞に出ます。 来年なんかは待ちません。 今年の秋には、必ず」
「……警告、します。 骨折からの復帰は、容易ではありません。 年単位を掛けても、結果が伴うとは限らないのです。 ですから──」
四年目にまわしても良い筈だ。
引退理由としては実に真っ当なのだから、もう諦めても良い筈だ。
ここで無茶を重ねるほうがよほど悪い結果に繋がる。
なんて、言い連ねるだけの説得材料はいくらでも思い浮かんだ。
正当性はミホノブルボンにあって、妥当性もまた同じく。 間違っているのは、この期に及んで諦めないファインドフィートだけである。
「……ねぇ、ブルボン先輩。 これは、わたしが選んだ道なんです。
他の誰でもない、ここにあるわたしが決めた事なんです」
だからそれは、覆るべき指針だった。 けれど。
「わたしだけは諦めちゃいけない。
わたしに、諦める権利なんてない。 そんなこと、許さない」
──続く言葉と、目を見る。
返す言葉の代わりに、"あぁ"と、掠れた呻きを零した。
いっそ対面の白い少女にも聞こえない程小さな声で、結んだ唇の端っこから。
死んだ人間に囚われるとは、こんなにも惨い物なのかと、失意を込めて。
「だから、ブルボン先輩。 わたしを、そんな目で見ないでくださいよ」
けれども、ファインドフィートにはこれが真実だった。 これが、正しい命の使い方だった。
だから対面の彼女へか細く請願して、小さく薄く微笑んだ。
にこり、というより、ふわり、と表現するべき淡いもの。
いつかの面影を色濃く残す、柔らかい笑顔だった。
「せめて、怒ってくれたら良かったのに」
これが。 未だに幼いこれが、ミホノブルボンが初めて見る笑顔。
ずっと見たかったはずなのに。 いつか笑わせてみせると、意気込んでいたはずなのに。
だというのに。 いざ見てみると、どうしようもなく虚しくなる。
心のなかにぽっかりと、底なしの穴が空いてしまったようだ。
そして、いつかの日に夢見た幸福が、砂になってほどけていく。
さらさらと、ざあざあと、風に吹かれて飛んでいく。 あっさりと遠ざかる。
少女の未来と等価の重さは、ひどく軽かった。
「……怒る、なんて。 理由がありません。 それに、私は……フィートさんに会えて、本当に嬉しかった。 今日、あなたの顔を見て、本当に安心したのです」
だから。 それでも。
生きていて欲しいと願うことは間違っていないのだと、ミホノブルボンは、心の底から信じていた。
その願いを過ちと断ずる権利は、この世の誰も有さない。
それさえも許さない世界であれば、こんなに美しい筈がないのだから。
だから、信じていた。
まだ手遅れではないのだと、信じたかった。
ファインドフィート
星に願いを掲げてみる。
お星さま、お星さま、どうか裁いてくださいな。
ミホノブルボン
寝ても覚めても、真っ白い子の赤と泥で汚れた姿が瞼の裏に浮かんでくる。
赤色が、赤色が、赤色が、あの子の平穏を奪っていく。 いっそ、嫌いになりそうだ。