【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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56話

 

 女神さまは愛情深い存在です。 だから己が子を愛しています。

 たとえ神さまじゃなくなっても、愛しています。

 愛しています。 愛しています。 愛しています。

 我が子の心も、自分自身を削ってでも、愛したいのです。

 

 


 

 

 ミホノブルボンとの再会から二週間が経った。

 これをたったの二週間、と表すべきか。 はたまたもう二週間、と表すべきか。

 ファインドフィートの所感としては、どちらかと言えば後者の表現が適切だった。

 真白い病室で過ごす時間は思っていたよりあっという間に過ぎていき、怠惰に興ずるほどの余暇もなかった。

 ……もちろん、楽しい時間だから短く感じただとか、そんな優しい理由ではない。

 ただ、眠る時間が長くて、起きている時間もプカプカと浮かぶ夢見心地だったから、時間感覚が狂っていたというのが本当の理由だ。

 そしてその生活が気楽なモノかと言えば、当然ながら否定する他ない。

 

 左右の腕も左足も骨折済み。 痛くない筈がない。

 特に右腕ときたら、皮ふの上から折れた骨を固定しているのだから、異物感もかなり酷い。 本格治療の再手術が始まるまでの一週間は、それなりに苦痛だった。

 そして手術後は──プレートを()()()固定した後の右腕と、左腕と左足をギプスで保護して、骨が繋がるまで休息と治療の反復横跳び。

 休む。 電気を流す。 食べる。 超音波を当てる。 眠る。 それに炎症がある程度収まってからは湯治も始まった。

 もちろん自力で入浴は出来ないから、基本的に看護師、中でも体力的に優れたウマ娘の手を借りることが多かった。 流石の彼女にも羞恥心はある故に、ただ普通の生活を送るだけでも大きなストレスになってしまう。

 そうして怪我を治すだけの生活に従事するだけの二週間だ。 やはり、気楽には程遠い。

 

 しかし、医師も驚くほどの早さで繋がった骨がその生活の正当性を保証する。

 少しずつでもリハビリに取り組めるほどに快復しているのだから、成果としては十二分だ。

 それを指して、素晴らしく良好な経過だ、と喜ぶ医師もいる。 コップを自力で持った彼女へ、良かったね、と喜ぶ看護師もいた。

 

 けれど、ファインドフィート自身の感慨としては。

 どうしてか、周囲の人々の意と反して、素直に喜べないでいた。

 顔は以前までの仏頂面で、ミホノブルボンに見せた微笑みはすっかり鳴りを潜めている。

 望みが叶った事に安堵はしていても、中々喜びと結びつかないのだ。

 

「……ぬか喜びするのが怖いから、でしょうか。 骨が繋がったと勝手に舞い上がって、また折れる未来もありうるから、かもしれません。

 ……不思議ですね。 わたしの事なのに、わたし自身が、これっぽっちも分からない……」

 

 呟きひとつ。 疑問もひとつ。

 包帯まみれの左手でベッドの手すりを掴み、のそりと起き上がる。 微かに震える手の筋に、負担をかけないよう慎重に。

 そして机の上に視線を向けて、小さく首を傾げてみた。 僅かにくすんだ長髪が窓の外の日光を反射する。

 

「お前は、どう思いますか?」

 

 なんて、虫かごの中に。

 ()()()()()()わざわざ見舞いに訪れたエアグルーヴ副会長が置いていったそれへ。

 

「こんな事だれにも聞けないですからね。 ただでさえ負担を掛けているのにこれ以上、なんて……そんなの許されません。 ……そうでしょう?」

 

 そして、しばしの沈黙。

 ラジオの電源は切られていて、窓はきっちり閉められている。

 空は無風で、鳥も飛んでおらず、故に自然の音は何も響いて来ない。

 

 だから返答があればすぐに判別できるのだけれど、それはつぶらな瞳で黙りこくるだけだった。

 赤色の身体と黒色の斑点もあわさって何処となく可愛らしい雰囲気をしていても、所詮は虫。 言語を解する知能はない。

 

 ……もちろん、ファインドフィートとて知っている事である。

 が、それはそれ。 せっかく机の上を間借りしているのだ。

 ちょっとぐらい暇つぶしに付き合ってくれても良いじゃないかと、そんな無理難題を突きつける。

 しかし無意味である。それはみーんみんとも鳴かないし、カナブンのような羽音も出さない。

 所詮は、ただのてんとう虫だった。

 

「ほら、見てくださいよ。 ギプスがやっと外れたんです。 ご飯もじぶんで食べれますし、お風呂も自分で入れるようになりました。 だから少なくともそれは喜ぶべきだと思うんですよね」

 

 このてんとう虫を連れてきたエアグルーヴは3日後には回収するとも言っていた。

 実際、ここに置かれた所で世話なんて出来ないし、一時的に置くのはさておき、長期になると病院側の規則的によろしくない。

 だから一定期間で持って帰るというのは、実に正しい選択だ。

 故にこそ、ファインドフィートは何も気にせず頭の中を吐き出せた。

 バッタ(仮初めの自由)セミ(限りある生命)に向けたものと同じ羨望を、よりにもよって囚われのそれに向けて。 悪意もなしに、虫かごの中を羨んだ。

 

「どうしてでしょうね。 思っていた以上に……そう、現実感みたいなものが、無いんです。

 そのくせに頭がふわふわと浮ついて、これっぽっちも落ち着かなくて……ねぇ、不思議じゃないですか?」

 

 そしてもう一度、"どうしてでしょう"と、軽い口調で問いかけた。

 自身の本性を言葉にしてしまったのだから、むしろ地に足つけた現実感に囚われるものかと思っていた。

 言葉にするとは、曖昧な思考に形を与えるということだ。

 だから、これ以上わき見する必要は無くなって、裁かれるために全てを費やせば良いのだと。

 結局、その先で全てが叶うのだと、そう信じているから。

 

 けれど存外、そういった重荷を感じない。 むしろ逆に意識が軽くなるばかりだ。

 ふわふわと、プカプカと、頭の中身が落ち着かなくて、いつになっても夢見心地。 現実の輪郭が日に日に曖昧になっていく、奇妙な落下感。

 ファインドフィートの脳内はそうして、いつになく混沌としたモノに満たされていた。

 

 

「これだって、そうです」

 

 ──枕元の雑誌を手に取る。

 表紙に記された名前は月刊トゥインクル。 名前の通りトゥインクルシリーズを取り扱うメディアであり、世間一般での知名度も特に高い。

 それは扱う内容の質が良いというのもあるし、熱量のある記事を提供することで知られているのもある。

 

 その表紙を色のない表情で、ぺらりとめくってみた。

 最初に数ページの目次、そしていくつかの広告。

 そこから更にページをめくって出てきたのは、あらゆる意味で忘れられない宝塚記念の特集記事だ。

 未だに動きの悪い指先をうまく操りながら、指先で文字を追いかける。

 

 

 まず、最初の見出しが"大波乱"、"勝者不在のウイニングライブ"。 始まりからして不穏な言葉だ。

 そのせいでそれ以降の全体の雰囲気に至るまで、若干の薄暗さを匂わせていることは否めない。

 いくら格式高いレースであれど──否、だからこそ、生まれた瑕疵が大いに目立つのだ。

 九冠を取るなどという大言壮語を吐いていたくせに、神聖なターフを穢した愚か者の姿がくっきりと。

 

 それこそ記事の中で手ひどく扱われるのかと思いきや──その当事者を責める文言はどこにもなく。

 不運だったとか、芝の質と合っていなかっただとか、レース間隔に無理があっただとか、事前の検査が粗雑だった可能性があるとか、文面に踊るのはそういう問題提起ばかり。

 そういう細やかな配慮も、月刊トゥインクルの特徴のひとつではある。 けれど、しかし。

 もっと責めてくれた方が気が楽になったのにと、無責任な感想をこぼしてしまった。

 

 だって、挙げられた理由がどれも違うのだ。

 事故の原因とはつまり、以前から存在していた予兆を黙殺していた事に他ならない。 故に責任があるのは他の誰でもない彼女自身であって、紛うことなく彼女自身の行いの結果である。

 どうあがいても超人にはなれやしないのに、惰弱な現実逃避で傷を大きくした罪は大きい。

 

 そう、心に溜まる罪悪感を噛み締めながら。

 ゆっくりゆっくり、ページをめくった。

 

 次に顔を覗かせたのは、数ページにわたる16名それぞれの来歴。

 そこに加えてレースに向けた取り組みや意気込み、その後に得た教訓まで全て余さず載せられている。

 中にはもちろんファインドフィートの姿もあって、取材時の写真もある。

 正直なところ、彼女自身はこの取材の事を殆ど覚えていないが──カラー写真の青い瞳を無愛想に細める姿も、いささか険のある表情を浮かべているのも、間違いなく彼女自身だった。

 

 それを見て、愛嬌が無いなと自分自身の顔に評価を下す。

 多少の人生経験を得たとはいえ、初対面の人物に対する恐怖感は中々どうして消えてくれない。

 だから、ではある。 それ以上の理由は存在しない。

 が、これでは『ファインドフィート』という殻の功績の面に対してはともかく、ファインドフィートという個への感情はあまり良くないだろうな、ともぼんやりと考えていた。

 

 ……とはいえ、それはそれ。

 ミホノブルボンとセットで写っているモノでは随分柔らかい雰囲気を醸し出しているおかげで、そういう愛嬌もそれなりにはカバー出来ていたのだ。

 見栄えの良い外面に価値を見いだせる性格であれば気付けたのかもしれないが、そんな事は今更でもある。

 

『──筆者個人の所感としては、無理のない道を歩んで欲しいところだ。 来年以降のレースに出走するでも良し、タレント系やアイドル系の道を志すでも良し。 今後も氏の活躍に期待したい』

 

 結びの言葉を、軽く読み流す。

 それからぽぉんと、雑誌を枕元に放り投げた。

 

「……ブルボン先輩のあれだって、仕方のない事です。

 けれどわたしは……それでも責めて欲しかった。 そう願ってしまうのは、烏滸がましいのでしょうか?」

 

 否。

 烏滸がましいのか、ではない。 疑問を挟む余地すらなく、烏滸がましいのだ。

 何時も何時も頭の中にへばりつくその願いは結局叶わないまま。 誰もが同じだ。 ファインドフィートを責めない。

 本性を知らないのだから当然であるけれど、その上にある現在こそが矮小な愚かさを証明する。

 

「そうですね、例えば……"上ばっかりを見ていたせいで転んでしまったバカやろう"なんてどうですか? 

 ほら、わたしにピッタリです」

 

 どうでしょう。

 小首をかしげて、小さな小さな虫の甲めがけて息を吹きかける。

 が、当然返事は返ってこない。

 

「まったく、お前は冷たいですね。

 ちょっとぐらい鳴いてくれたって良いじゃないですか」

 

 そもそもの話だ。

 まず、てんとう虫は鳴くという機能を持たない。 それは種としての特徴であって、冷たいも何も関係ない。

 無知とはそういう愚かさを内包する物である。 誰かに糺されたかったにしても、多少は相手を選ぶべきだったろうに。

 ファインドフィートは悪びれもせず、尻尾で布団を叩いて。

 

 おもむろに顔を上げ、ドアの方へと舌の向き先を変えた。

 

「ねぇ、テイオーさんもそう思いませんか?」

 

 こつり。 ドアの向こうで物音が鳴る。

 発生源は足か、指先がドアにぶつかった音なのか。

 それは定かではないが、しかし、てんとう虫よりはよほど分かりやすい意思表示だった。

 

「……どうぞ、入ってください。 まだ、面会終了の時間まで余裕はありますから」

「──」

 

 暫しの逡巡。 少しの動揺。 一つまみの歓喜。

 ()()気まずい関係が続いていた故の感慨は、相手の少女に少なくない躊躇を与えた。

 何せ最初の発端は、ファインドフィートが一方的に避け始めた事にあるのだ。 拒絶でも無視でもない急な方針転換は、少しばかりの違和感を匂わせるモノだった。

 

 ……けれど、ただのそれだけだ。

 ドアの向こうの少女はその感慨をあっさりと胸の奥に引っ込めて、かわりに、おずおずとドアを開いた。

 活発な表情は鳴りを潜めていたけれど、紛れもなく、友人であるトウカイテイオーのかんばせだった。

 

「お久しぶりですね。 すこし、痩せましたか?」

「……うん、ちょっとだけ。 フィートも……ちょっと痩せたみたいだね」

「ん、目で見て分かるほどですか。 わたしの目では……さほど、体型は変わっていないように見えていましたが」

「ホントにちゃんとご飯食べてるの〜? うりうり~……わ、お腹ほっそ……」

 

 ──そして、切り替えてからは早かった。

 明るい振る舞いで距離を詰めてスキンシップを図る姿は以前とまったく同じもの。

 なすがままで脱力しながら、安堵と罪悪感を抱く。

 考えなしに遠ざけるには同じ時間を共にしすぎたのもあるし、ファインドフィートの精神構造からして耐えられなかったというのもある。 どちらにせよ、彼女の弱さが招いた状況だった。

 

 ……それに対するトウカイテイオーは。

 少女の健康診断も兼ねて腰に手を回して、半ば素で驚いていた。

 実際、ひと目見た時点で少女らしい脂肪が薄れている事は察していた。

 僅かに細くなった──元々細かったが──首周りから、おおよその減少量は予測していた。

 事実、その見立てはさほど間違っていなかった。 全体の印象にちょっとした変化を与える程度の僅かなものだが、確かに肉は減っている。

 が、その下にある筋肉がさほど衰えていない事は予想していない。 腹に顔を埋めつつ、少女は密かに瞠目していた。

 

 人体もバ体も同じだが──寝たきりの状態は恐ろしい速度で筋力の劣化(廃用性筋萎縮)を招くもの。

 それが身体のメカニズムである以上仕方のない話ではある。 が、一週間で十パーセントもの筋力が失われると思えば、とんでもなく恐ろしい現象だと言わざるを得ない。

 もちろん、その劣化を防ぐためにマッサージを施したり、電気刺激を与えたりはする。

 あの手この手で筋肉に役目を与え、筋肉による自殺を予防する。

 とはいえ、やはり限界はあった。

 現代の技術力では克服できない仕組み(システム)。 それが、アスリートにも恐ろしい怪我の予後だ。

 

 だから、筋肉も相応に痩せているのかと思っていたが……実際のところは、想定外に状態がいい。

 骨さえ治ればすぐ日常生活に戻れるのではないかと期待してしまうほどに。

 

 うぅむ、と唸りながら腰から手を離す。

 そして肩まわりや背中、無事な範囲の二の腕や太ももを撫でて、腹と同様にしっかりと筋肉が詰まっている事を確認する。

 

「フィートってさぁ、なんか謎の治療受けたりした? 注射打たれたりとか、カラフルなカプセル飲んだりとか……」

「痛み止めの注射をうけたり感染症対策の抗生物質を貰ったぐらい……ですかね。 別に変わった治療は受けていないと思いますが」

「えぇ~、ホントォ?」

 

 であれば、体質か? 偶然、この病院の環境とファインドフィートの身体の相性が良かったのか? 

 否、そんな真っ当な理由で説明できる訳がない。

 異常だ。 異質だ。 奇跡でもなんでもない、ただの怪奇現象だ。

 生物としての仕組み(システム)を克服するなんぞ、そんなこと出来る筈がない。

 

 ……故に、尋常ならざる怪奇現象としての原因へと、思考の手を伸ばす。

 返ってくる答えは、意外なほどあっさりと手の内に収まった。

 

「…………」

 

 歯を食いしばる。

 もっともあり得るのは、(なにがし)。 仮称として、そう呼んでいる何か。

 病院に訪れて以降、ある程度明確な輪郭を帯びてきた存在だったが──もし本当に、今までにもあった違和感の正体であるなら、今回の異常現象の原因においても第一候補として挙げられる。

 

 というより、正直なところ。

 

 トウカイテイオー自身の予想としては、まず間違いなく某の影響だと考えていた。

 だって、そうでなくては説明の付かない事が多すぎるのだ。

 むしろ他の原因を探す方が非効率的かつ非合理に思えて仕方がない。 某以外の可能性なんて何があるというのか。

 

 だからさっさと相応の対策を取ってしまえばいいとも思うのだが……実に歯がゆい事に、その肝心の対策が思いつかない。

 仮にぱっと思いついたとしても、それを実行に移す前に"失敗する確信"を得てしまう。 まるで()()()を伴っているかのような生々しい確信だった。

 それを理論ではなく本能の段階で忌避してしまうから、結局動けず何も解決しないままで──。

 

「あの、テイオーさん……?」

「っとと、ゴメンゴメン」

 

 困惑の声を受けて思考を打ち切る。

 少女の身体から離れ、トウカイテイオーは浅い溜息を吐いた。

 そして"今考えることじゃなかったなぁ"、とちょっとした反省を胸中に述べて、椅子の上に戻って──誤魔化しを込めて"意外と居心地が良くって"と茶化す。 案外冗談ではない。

 戸惑いと羞恥の混ざる尻すぼみの相槌を受け止めて……今の時間ぐらいはただの友人として在ろうと結論を出す。

 

 それから、暫しの年頃の少女らしい雑談を経て。

 何気なしに病室を見渡した視線をふと、机の上に留める。 その正体はそれなりに馴染みあるものであった。 が、故に困惑を込めて眉の端を吊り上げた。

 

「虫かご、って……いやいや、お見舞いに持ってくる物じゃないでしょ。

 誰さ、こんなセンスない物持ってきたのは~。 ゴルシかゴルシ、それともゴルシ?」

「ああ……それですか。 エアグルーヴ副会長が持ってきてくれた物です。 真っ白な部屋に彩りを与えるために、だそうですよ」

「嘘でしょエアグルーヴ……花はともかく虫って。 誰かに毒されたの……?」

 

 もちろん病院の許可は貰ってますよ、という補足は頭に入らない。

 ファインドフィートが語った行動とトウカイテイオーの知るエアグルーヴ像が中々噛み合わないのは一体どうしたことかと、そればかりが頭の中を占めているせいで余裕がなかった。

 エアグルーヴという少女は実にお堅い人物で、真面目であり、才色兼備な生徒の鑑である。 少なくとも、トウカイテイオーはそのように記憶している。

 それこそ冗句もあまり通じないような、特にマナーや礼儀に拘るタイプであったと記憶していたが──。

 はて、随分珍しい事をするのだなと、驚き半分感心半分の声が漏れた。

 

 実際のところ、このてんとう虫というチョイスは嘗てのファインドフィートとのやりとりによって決められた物なのだが──生憎とトウカイテイオーはその過去を知らないし、ファインドフィートも覚えていない。 あるいは、当のエアグルーヴでさえも。

 花壇の前で薄ぼんやりと交流を重ねた時間も、今となってはひだまりに溶けて消えた後。

 あるとするなら、思い出の残りカスぐらいのものだった。

 

「本当に、助かってるんです。 多少手は動かせるようになっても暇なことに変わりはないですからね。

 その子には、ちょっとした話し相手になってもらってます」

「そう、なんだ。 そんなに話し相手がほしいならボクに電話してくれても良かったのに」

「……ええ、そうですね。 次からはそうさせて貰っても良いですか?」

 

 話し相手がてんとう虫とは中々もの寂しい絵面だが、事実として大いに役に立っていたのは違いない。

 暇つぶしの相手だけではなく、病室の代わり映えのない景色に変化を与えたり、今のようにトウカイテイオーと会話する口実を作ったりと。

 まったく、小さな体躯には見合わぬ活躍ぶりだった。 図体ばかり大きくなったファインドフィートとは随分違う。

 

 羨ましいなぁ。 羨ましいなぁ。

 ほんの一瞬だけの嫉妬を視線に練り込んで、虫かごの中、葉っぱの隙間を盗み見る。

 ……否、盗み見ようとしたけれど、片目の機能を殆ど失った視界では、その身体を見つけることが出来なかった。

 

「……虫かご、近くに持ってきてもらえますか?」

「いいよ~……っと、はい。 っていうかこれ待てるの?」

「はい、これぐらいなら大丈夫です」

 

 微かに震える両手で、しっかりと受け取る。

 そして膝の上にのせて、真上からかごの中を見下ろした。

 そこまでしてようやっと見つけられたてんとう虫は、やはり矮小な身体をしている。

 赤い甲と、黒い斑点。 それ全てをあわせても、小指の先にも満たぬ大きさ。

 そのくせ少女の羨望を一身に受け止めているのは、憐れむべきか、称賛するべきか。

 

 ……どちらであれ、ファインドフィートの主観による羨望が少々歪んでいる事は明らかだった。

 それを自覚している故に悟られぬよう内に秘めて、またくだらない雑談に興じる。

 

 つもりは、なく。

 

「ねぇ、テイオーさん」

 

 ところで、と。

 ふと、普段通りの論調で、何気なく口を開いた。

 虫かごから視線をあげて、対面の顔に目を合わせる。

 そして明日の天気を予想する時と同じ温度で小首をかしげた。

 

 気付いたことがあるのだ。

 ミホノブルボン、マンハッタンカフェ、ゴールドシップ。

 訪れた少女達のうち、この数人だけが、まったく同じ色の顔をしていること。 それと、その色が少し見慣れた物であること。

 それは一体何故なのか。 一瞬の疑問を挟む必要すらなく、答えはあっさり弾き出された。

 

「また、墓を暴いたのでしょう?」

「……ぇ?」

 

 故に、言葉も飾らず直接的に問を投げて。

 対面。 受け手の少女は、ほんの一瞬だけ思考を停止させた。

 

 その後に、喉を引き絞って、どうにか声をひねり出す。 ひどく情けない、疑問符を言語化しただけの鳴き声だった。

 吐息と大差ない物でも最低限の役目は果たせたのか、飾りを欠いた白耳がぴくりと揺れる。 そして疑問の意味をしっかりと汲み上げる。

 一度、二度と頷いて、比較的動かしやすい左手で顎を撫でつけ、ぱちりと瞬いた。

 

「だって、行ったのでしょう? あの病院に。 ブルボン先輩と……カフェさん、ゴールドシップさん、でしょうか。 少し珍しい組み合わせだ」

「……あ、あ~……何か勘違いしてるんじゃないかな? それにほら、あの病院っていうのはどの病院の事かなぁ。 病院って言ったって沢山あるし、なんならここだって病院だし──」

「──わたしが、姉さんの心臓を移植された病院です」

 

 ひゅう。 もう一度吐息が漏れる。

 

「わたしが死んだ病院。 わたしが死に損なった病院。 姉さんが死んだ病院。 わたしが産まれた場所……あのお医者さんは、まだ元気でしたか?」

「……え、と」

「わたしが最後に見たのは──確か、ここに来て一年目の頃でしたか。 お墓参りのお供物を相談させてもらった時です。 あの頃から、ずっと泣きそうな顔をしていて、気になっていましたが……どうやら、変わりはないみたいですね」

 

 真っ黒い隈も、痩けた頬も、光のない瞳も、どこぞのトレーナーにそっくりだったと思い返す。

 ただし向けてくる感情はまったく違ったから、その差が互いの存在感を別の物に変化させていたとも思う。

 

 そんな男の眼差しを頭の片隅に置きながら、すぐ側の少女の目を見つめた。

 かすかに暗く、ぬるい湿度の光。 快活な光を隠した目。 それはどこか、あの男の物に似ていた。

 

「わたしの命を救ったくせに、いっつも罪悪感にまみれた目でわたしを見てくるんです。 別に、あのヒト()何も悪いことをしてないのに」

 

 その罪悪感に満ちた瞳は、医者の主観によるもので。

 その罪悪感の否定するのは、ファインドフィートという少女の主観によるものだった。

 この衝突に善も悪もありはしない。

 ……そう割り切れていたなら、傷はもう少し浅くなっていただろうか。

 

「知っていましたか? ヒトの思いって、伝染する物なんですよ。

 たとえば、あのヒトの陰気な感じとか。 その、罪悪感のこもった眼差しとか……ふふ、よく似てますね」

 

 そして、薄い笑顔を浮かべて。

 相対する少女の目に人差し指を向けた。

 自分自身にも当てはまっている事すら理解せぬまま淡々と、目と目の熱を交換する。

 しかし視線と視線の交差は、ほんの束の間のことで、トウカイテイオーが先に目をそらした。

 

 少女が言うように罪悪感を感じている自覚は無かったが──ただ、居た堪れないと感じてしまった。

 だって、そう語る少女の目こそが。

 

 

 ……続く言葉は、悟られぬうちに飲み込んだ。

 

「……ごめんね」

「ああ……いえ、わたしは怒っているわけでも、謝ってほしいわけでもなくて……。

 一個だけ、あなたに聞きたい事があるだけなんです」

 

 けれど、何と言うべきものか。 視線を下げてうぅん、と唸る。

 本題は、未だ言語化出来ぬこれだ。

 正直、墓を暴いた事そのものは()()()()気にしていない。

 家族の墓を暴いたのなら流石の彼女も動転せずに居られないが、そうでないなら問題は無かった。

 

 だから、気にしているのは墓を暴いた先。

 暴いた結果に見た物。 そして感じた事。

 

 視線を上げる。 少女の背にある白いカーテンが、茶色い頭髪を際立たせていた。

 

「……わたしのこと、嫌いになりましたか?」

 

 そして、ぽつりと呟く。

 この場に限った疑問ではない。

 ずっと前の天皇賞の頃から、抱え続けていた物だった。

 

 あの、負けた筈だった天皇賞を、トウカイテイオーは覚えていないだろう。

 春風の中で駆けた先頭の景色も、初めてぶつけ合った本音も。

 与えた傷も与えられた傷も、全て目覚まし時計の騒音にかき消されてしまった。 だからファインドフィートと、女達──某だけが覚えている。

 微かな残滓を頭の片隅に残していたとしても、所詮はそれだけだ。

 

 地続きの罪悪感を抱くのも、それを罪深いと罵る事が叶うのも、もはや彼女だけなのだ。

 

 故に暴かれた墓の土でコーティングして、言葉のカタチに丸めて投げつけた。

 "わたしのことを嫌いになりましたか"。 "わたしの墓を嫌いになりましたか"。 "わたしの願いを嫌いになりましたか"。

 

 ……とはいえ、である。

 トウカイテイオーの視点からしてみれば頓珍漢な問いかけでしかない。

 長々と考え込むほどの深みを持たず、ある意味では答案付きの問題用紙にも等しかった。

 

「どうして?」

「……何も聞かずに、教えてください。 わたしは……あなたの、答えを聞きたい」

 

 だからそう言われても、一番困るのはトウカイテイオーだった。

 他の問いであれば、そう簡単に答えを出すべきではないと考える。 真摯に向き合い、その上で言葉を紡ぐ心掛けはある。

 

 しかし、嫌いになったのか、と問われても。 彼女は答えをひとつしか有さなかった。

 

 うぅん、と語尾の伸びた呻きを上げて、尻尾をぷらりと垂れ流す。

 さて、さて、さて。 何と答えた物だろう。

 適当に返すと下手な受け取り方をされかねず、しかし深掘りしても意味はない。

 であるなら──結局、トウカイテイオーが知る範囲で、ありのままを答えることしか出来なかった。

 

「……嫌いになってないよ。 っていうか嫌いも何もさ、そもそもフィートは何も悪いことしてないじゃん。

 ボクらが勝手にフィートの過去を探りに行って、勝手に、キミの傷を漁っただけで……」

「それ自体は、ええ。 もう、良いんです。 今のわたしにとって、昔のわたしの墓は大した意味を持ちませんから」

 

 本当に聞きたかったのは。

 墓の中にあった自分の、傷を与えた自分の。 偽りのない姿に対する、偽りのない本音だった。

 

「……だって、ほら、気持ち悪いじゃないですか。 死んだ人間のくせに、こんなにも浅ましく生に縋ってる。 姉さんの死さえも利用して、わたしは目を覚ましてる。

 そんなわたしが、あなた達を傷つけて、誰かの夢を踏み躙ってる。

 だからわたしは、わたしの事が嫌いです。 そうです……どうせなら、あの日にあのまま──」

「フィート」

 

 なんて、許されざる願いを口にしようとして。

 自制する間もなく、名前を呼ばれて蓋をされる。

 

「それ以上言ったら、ボクでも怒るよ」

「……ごめんなさい」

 

 論調は、驚くほどに強かった。

 そしてそれ故に、ひとつの納得を齎す。

 

 つまり、逃げて楽になる選択を許さない人物が、少なくとも一人はいる。

 この一人というのは、もっと突き詰めれば幾人かは増えてしまうだろう曖昧な数字だ。 世界は優しいけれど、それ以上に残酷な顔も持っているのだ。

 たとえば、罪の在り処である痩せっぽちの男も許さないだろう。

 あるいは、初めての友達であるミホノブルボンも許さないに違いない。

 その事実を抱きとめて、また、困ったふうに眉をたれ下げた。

 

 

 ──もしかすると、この"裁かれたい"という本性さえも否定されてしまうのでしょうか。 この愛の形は、否定されるモノなのでしょうか。

 

 そんな予感を抱いてしまえば、胸がちくりと痛んでしまった。

 理解されたい、とまでは思っていないけれど。 ただ、()()()()()()として許してほしいと願うのも、罪深いことなのか。

 ファインドフィートが彼女に求めているのは、いつまでも、変わらずにいて、日常というひだまりに居させてほしいだけだった。

 

 そう願う事すら、今となっては。

 

 

 ──アラームが鳴る。 弾かれたように時計を見やった。

 示された時刻は16時。 トウカイテイオーが訪れた時からカウントすると、ピッタリ15分。

 

「もう、面会終了の時間、ですね……。

 ……テイオーさん、今日は来てくださってありがとうございました。 また後でLANA送りますね」

「……うん。 ボクからも送るから、今度はちゃんと返信してね?」

「ええ、もちろん。 話したい事が、たくさんあるんです」

「ほほー、言うようになったねぇ。 あのフィートが……!」

 

 そして、あぁ、もう終わりなのかと、手のひらいっぱいの寂寥感と、小指の先ほどの安堵感を抱く。

 

 対するトウカイテイオーはそんな彼女の内心を知ってか知らずか、ただ残念そうに耳を垂れさせていた。

 それから何を言うのかと思えば、ただ頭をわしゃわしゃとめちゃくちゃに撫でて、髪を乱して、僅かな体温だけを残して身体を離していく。

 あとは"ばいばい"と"またね"を交わして、今日はそれっきり。

 

 

 がらり、ドアを開ける。

 ひょい、廊下に躍り出る。

 そして元気よく振られた手に向け、緩慢な動きで振り返す。

 それから漸く帰路についたトウカイテイオーの姿を、ドア越しに見送って。

 

「……あ、虫かごを戻してもらうの忘れてました」

 

 ……ふと気付いたそれを見下ろした。

 膝の上に乗せたままの虫かごは、先程までと変わらずてんとう虫の居城として機能している。

 少しだけ溢れた水に申し訳なくなるけれども、しかし今の彼女にはどうしようもない。

 確かに虫かごを持ち抱えることはできるが、持って歩くまでは出来ないし、中身を整えるのも中々難しい。

 今の状態で細かな作業なんて出来ないし、力加減を誤りかねない。

 せっかく治り始めている所を自分の力でまた破壊するのは、彼女とて望んではいなかった。

 

「……ねぇ、お前も困りますよね。 わたしの膝の上よりは、葉っぱの上にいるほうがよほど心地良いでしょうに」

 

 同意を求めたとしてもてんとう虫は何も返さないし、何も解さない。

 無機質な瞳で、少女の顔を見上げるのみだ。

 

 


 

 

 ファインドフィート

 左目の視力の喪失の代わりに、次のレースに出場できる程度の回復力を得た。

 それらが対価に釣り合うのかは、さて。

 彼女はそれに頓着できるほどの余裕を持っていない故に、答えはきっと出てこない。

 

 トウカイテイオー

 逃げることを許さなかった。

 

 エアグルーヴ

 何も覚えていない。

 けれど、花壇の前のぬくもり程度はこの手のひらが覚えている。

 何時かの日の、ちっぽけな約束も、きっと。

 

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