【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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57話

 

 だから、女神さまは思いました。

 "私がこんなにも愛しているのだから、きっとこの子も愛してくれるに違いない"。

 

 だから、女神さまは信じています。 無邪気に幼く、信じています。

 "これも全部あなたの為なの"。

 "私があなたを裁きましょう、私があなたに与えましょう"。

 "あなたの為に、あなたの為に"。

 

 そこに間違いがあるなんて、露ほどにも思っていません。

 だって、愛の前には全てが等しく塵芥。 命の価値は不平等。 愛は全ての免罪符。

 "人間って、そういう物でしょう? "

 

 


 

 

 そして、ついに一ヶ月が経過した。

 やっと一ヶ月が経った。 もう一ヶ月が経った。

 どちらの感覚が適切かと問われれば、少し考え込んでしまう程度の、実に微妙な長さだった。

 

 ただ、その一ヶ月で骨は歪みもなく繋がり、退院できる所までこぎ着けたのだ。 たとえ頭がおかしくなるほど退屈な一ヶ月だったとしても、少女は別に構わなかった。

 かつての有様を思えばまさに奇跡。 左目を差し出した甲斐はあったろう。

 神経系に異常なし。 筋繊維も難なく動く。 関節の可動域は……多少狭くなったが、まだ許容範囲内。 今後のリハビリ次第で回復できる筈だ。

 つまり、骨の強度以外はかなり良好な経過だった。 寝たきり生活ゆえの劣化はなく、元の姿に限りなく近い。

 ……とはいえ、その為に捧げた対価が相応なのかと言えば。

 

 ──やはり、少し考え込んでしまう程度の、曖昧な重さである。

 適切か、否か。 妥当か、不当か。 この喪失が正しいのかと言えば、さて、どうだろう。

 

 差し出したものは目。 その視覚。

 外界の情報源のうち80%を占める感覚器官、五覚のうちの最重要パーツの半分。

 それが、骨折からの()()()()()()()復帰のために失われた。

 

 ……納得は、している。 諦めを多分に含んだ物だったが、受け入れている。

 たとえ、対価そのものの重さが不当であったとしても──それでもと、不条理を願ったのはファインドフィートだ。

 であるなら、他の選択肢なんて存在しない。

 砂漠で水を買うのと同じように、不当は妥当に成り果てる。

 ただ、自己の感情という要素も含めて、得た物と失った物がつり合っているのかを考えると。

 ファインドフィートは、途端に何も言えなくなってしまった。

 

 記憶の喪失よりも直接的で、味覚の消失よりも明確。

 ある意味で()()()()()代償であるからこそ、生々しい実感を伴っていて。

 

 

「……あぁ、いけない。 早く準備を進めないと……」

 

 ──そこで、思考を打ち切った。

 こんな事、いくら考えてもキリがない。

 答えの出ない問題用紙の前で頭を抱え続けて何になるのか。 時間の無駄。 資源の無駄使いだ。

 

 ……であるなら、無視した方がいい。 何にせよ、やっと退院できるのだ。

 さっくりと準備を済ませて、はやく寮に帰りたい。

 

 そう頭を揺らして気分を入れ替え、ぽっかりと内部を晒したカバンを見て。

 入院中に使っていたタオルや衣類、櫛や香油など諸々を詰め込んでいく。 もちろん、使うのは自分の両手だ。

 

 

「……まぁ、こんな所ですね。 大した量じゃない。

 忘れ物は……大丈夫でしょう。 無くなった所で困るものじゃないですし」

 

 最後に呟きを吹きいれて、ボストンバッグのジッパーを閉める。

 荷物を持ってきた際にも使われたそれをまたパンパンに膨らませて、傍らに置いた。

 

 退去するまでの時間は、残り30分。 微妙な時間だ。

 今から移動しても何もできない故に、ベッドの上で時間を潰す。 妙に疼く手首とうなじをしきりに擦りながら、深々と腰を沈めて。

 

「……そう、だから大丈夫。 あとはリハビリも全部終わらせて、トレーニングに向けて仕上げるだけですから。 だから、大丈夫」

 

 その声音は胡乱な響きをしていて、子供の寝言にも似ていた。

 

 大丈夫、大丈夫。 まだ走れるから大丈夫。

 誰であれ、何であれ、信じて擲った物が意味を成さない物だったなど、可能性すら考えたくないに決まっているから。

 だから夢の道は続くのだと、信じていられる。

 

 

 ……けれど。 大丈夫の筈なのに、バッグの持ち手を握った手が震えていた。

 手の甲までを覆う包帯と、剥き出しの肌の境目を眺めて、ただ不思議そうに目を瞬かせる。

 

 怪我、ではない。 今までこんな事はなかった。

 では心因性か? 否、今この瞬間に不安はない。 不信もない。 だから心も問題ない。

 問題ない筈なのに、震えがまったく止まらない。

 だから仕方なく逆の手で押さえて、微かな鈍痛ごと握りしめた。

 

 止まらない。 何故だろう、と考えてみる。

 分からない。 五文字の答えを出す。

 

「……わたしの前には、道がある。 前だけには、道がある。 隣には大好きな人達がいて、何もかもが満たされている。 なのに、どうして……」

 

 思考を何度もループさせて。 毎回同じ答えだけを弾き出して。

 何度も何度も何度も、堂々巡りを繰り返す。

 まだ走れる。 だから大丈夫だ。 まだ走れる。 だから大丈夫だ。 まだ走れる。 だから大丈夫だ。

 

 ただそれだけの言葉を吐き出す。

 そして目の前に、もう一度自分の手を翳してみた。

 

「……どうして?」

 

 ……けれどもやはり、指の震えは落ち着かないままだ。

 鉄の香り、土の匂い、心臓の音、くもり空、割れた貝殻。

 それらが混ざって、幾重にも重なったせいで、真っ白い病室にも溶け込めない。

 

 腐った赤色が、にっこりと笑っていたから。 きっと。

 

 

 ◆

 

 

 車椅子の車輪が回る。

 くるくるくるくる、音もなく。

 

 真新しいアルミのフレームに身体を乗せて、そのままエレベーターを降り、エントランスを目指す。

 膝の上にはボストンバッグと己の尻尾。 頭上には赤い耳飾り。 服装は学園の制服。

 すぐ背後には、車椅子を押す中年頃の女性看護師。 ファインドフィートの病室にラジオを置いてくれたのもこの女性だった。

 

 そのままゆっくり目的地に近付く度に、いまさら、退院する事への実感が湧いてくる。

 ……もちろん、退院したからといって、すぐに以前と同じ生活に戻れる訳ではない。

 リハビリは必要だし、念のため暫くは車椅子──または松葉杖で生活しなければいけない。

 しかしそれでも、家に帰れるという事実だけで気分が高揚する。

 

「今日は、人が少ないんですね」

「ええ、珍しいわぁ。 普段だったら暇を持て余した方々が……って言ったら悪いわね。 ともかく、もう少し()()()()()んだけど……どうしたのかしら」

 

 些か閑散とした通路を通り、腰の曲がったお婆さんを横目に総合受付前を通過する。

 そこまで来たらエントランスまで10メートルもない。 少女の半分だけの視界には、十名足らずの人影が見えていた。

 

「あらま……トレーナーの方が来てるみたい。 思ってたよりも結構誠実──っとと、ごめんなさいね。 あなたの前で言うことじゃなかったわね」

「いえ……まぁ、あのヒトは誤解されやすいですから」

「あら、そうなの……いえ、でも私が悪かったわ。 あんな記事を見たもんだから、てっきり──」

「……てっきり、何ですか?」

 

 続きを問うたけれど、看護師は歯切れの悪いごまかしを口にするのみだった。

 少しだけ振り返って視線を投げても、気まずげに視線を逸らす。

 少女自身は特に変なやり取りをした記憶もなかった故に、ただ疑問符を浮かべて小首を傾げることしか出来なかった。

 

 ……とはいえ、己のトレーナーの人相の悪さが関係しているのだろうな、と。

 前後の流れから薄っすらと推測して、やや大げさに溜息を零した。

 

「……トレーナー、本当に優しいヒトなんですよ。 ぶっきらぼうな顔ばかりしてるのに意外と優しいですし、真正面から向き合ってくれますし……。 ああ、もうちょっと愛想が良ければ完璧だったのに」

「へぇ……ちょっと意外。 そういうタイプなのねぇ」

 

 沁み沁みと語る看護師の態度に"その通りです"と胸を張る。

 子供が己の親の功績を誇る様にも似て、無邪気な内面がちらりと尻尾の先ほど見せていた。

 

 しかし、ファインドフィートは彼の過去を知らない。

 何が好きで、何が嫌いなのかも知らない。 何のために名誉や金を求めるようになったのかも、何も知らない。 あるいは彼を構成する何れにも大した重みはなく──本当に、嘗ての彼が吐き出した通り、特筆するべき要素が欠片も無いのかもしれない。

 けれどもファインドフィートはその真偽を判ずる事も出来ないほど、何もかもを知らなかった。 それを諭されて、ようやく自覚できる程に何も知らなかった。

 

 知っているのは、ただ、ああ見えて情に深く、信頼に値するような、数少ない大人であること。

 そして何よりも、偽りなく向き合ってくれたこと。

 ただそれだけ。 ただそれだけであっても、少女が慕うには十分な理由だった。

 

 ──そうして尻尾を跳ねさせているうちに、エントランスに到着した。

 己のトレーナーの姿を認めて、悟られぬうちに居住まい、特に尻尾を正す。

 無関係な人間に見られていても然程気にしないが、当人に見られるのは流石に気まずい。 今の彼女であっても、その程度の機微はまだ備わっている。 少なくとも、今はまだ。

 

「まぁでも、頼れる人間だっていうなら安心だわ。 本当に、退院おめでとう」

「……ありがとうございます」

 

 くるくるくるくる、車輪が回る。

 エントランスの中央、玄関口、退院の場に近づいていく。

 

 出迎えてくれたのは()()()()()()主治医と、幾名かの看護師。 生活介助をしてくれた(ウマ娘)も居る。

 各々がにこやかに歩み寄ってきて、口々におめでとう、と祝福の言葉を投げかけてきた。

 そのうえ花束まで受け取って、嬉しいような、恥ずかしいような。 そのどちらもが微妙に混ざりあう、曖昧な気持ちになってしまった。

 

「今日まで、お世話になりました」

 

 彼らの隙間から見る景色の中にはトレーナーも居て、彼はやはり仏頂面のままでファインドフィートを見つめていた。

 そこに意志が宿っていないのだとしても、この場に居るという事実そのものが喜ばしかった。

 

 くるくるくるくる、車輪を回す。

 周囲の人々と会話を交わしながら、ゆっくりゆっくり中央に近付いて、通り過ぎて。

 

 玄関側のトレーナーとの距離を縮める。

 近くで見た男の身体は前よりも更に肉付きが良くなっていて、ようやく"病的"な細さから"やや一般的"な細さに近付いていた。

 あともう一年ほど健康的な生活を続ければ、おそらく"普通"の太さになれるだろうペースだ。

 

 そんな彼にお久しぶりですね、と挨拶してみた。

 返ってきたのは極めて素っ気ない同意だけ。 ……正直、ちょっとだけ残念だ。

 けれども自発的に車椅子のハンドルを握ってくれたから、それで全てをよしとする。 もちろん、ここまで連れてきてくれた看護師にもお礼の言葉は忘れない。

 

 

「焦らずゆっくり、ね。 これから先、まだまだ沢山の出会いが待ってるから」

「うんうん、早く復帰したい気持ちも分かるけど急がば回れって言うからね。

 ……そうだな、何と言うんだったか……あぁ、Take it easy(気楽に行こう)、だね。 うん、それが良い。 人生、それぐらいの心構えで居るのがちょうどいい塩梅なんだ。 けど……何かあったら、またここにおいで」

「まぁ、先生ったら何言ってるんですか。 来る機会がないならそれに越したことは無いんですよ。 ね、フィートさんも健康には気をつけて」

 

 それから、実に大人らしい注意事項諸々を受け取って、上っ面だけの素直な頷きを返す。

 

 つまり、彼らが言いたいのはこういうことだ。

 たくさん食べて、たくさん眠り、よく遊び、よく学べ。

 焦らずゆっくり、遠回りで、生ぬるい日常に浸っていろ、と。

 それが健全というもので、あるいは、『ファインドフィート』という少女ではなく、単なる怪我人である少女に向けられた物だった。

 

 ……けれども、考えずにはいられないのだ。

 何を食べても味はしないし、寝ても悪夢ばかりだし、遊ぶ余暇はなく、学んだところで無為になる。

 焦らずゆっくり? 急がば回れ? あまつさえ、気楽に行こう、などと。

 そんなものに、一体何の価値があるというのか。 必要なのは結果だ。 無意味な過程に価値はない。

 ファインドフィートにはそうとしか捉えられず、故に、彼らの意に反する道しか選べない。

 

「……はい、そうですね。 また何かあったら、ここで診てもらいます。

 その時はまた、よろしくお願いしますね」

 

 だから、必然。

 ひどく薄っぺらい社交辞令を舌先に乗せるのが、いま出来る精一杯だった。

 

 

 ◆

 

 

 ことり。 街道の端、歩道の段差で身体が跳ねる。

 合わせて白髪がさらりと揺れて、太陽の光を淡く乱反射した。

 車椅子を押してもらいながらの帰路は、およそ快適とは言い辛い有様だ。

 

 なにせ、季節は盛夏。 時刻は真昼。

 天から差す光は強く、網膜と肌を焦がしながら這い回る。

 当然ながら熱も相当なもので、汗がじっとりと滲み、前髪が額に張り付いてしまう。

 こめかみに浮かぶ雫は珠のように膨れ上がって、時折、重力に負けては顎を伝い、胸元まで落下していく。

 

 せめて風が吹いてくれたらもう少しマシだったのに、と額を拭う。 包帯が水気を吸って、少しだけ重くなった。

 生憎と、今日の天気はほぼ無風。 通行人は皆無で、車も殆ど走っていない程だ。 それこそ、セミの鳴き声すら聴こえない猛暑である。

 耳をすませばアスファルトの歪む音が聴こえてくるのではないか。 なんて、妄想してしまうほど、茹だる熱気がこの街を呑み込んでいた。

 ファインドフィートは相当に我慢強い質ではあるが、あくまでも単なるひとの子。 この熱と汗の不快感は疎ましくて仕方がなかった。

 

「お父さ──トレーナー。 暑いです。 日傘とか無いんですか?」

「……悪い、持ってきてない。 あと五分でバス停につくから我慢してくれ」

「む……そうですか……。 なら、仕方がないですね……」

 

 ……そもそも最初は、車で移動しようという話があったのだ。

 なのにそれを嫌がったのは、他ならぬファインドフィートである。

 彼女自身にワガママを言った自覚があるだけに、あれやこれやと文句をつける気はなかった。

 

 だからそこで、口を慎む。

 唇の端を掠めていく汗の軌跡もそのままに、薄い桜色を引き締めて。

 

 それ以外に出来ることと言えば、アスファルトの上を滑りながら熱気に歪む町並みを眺める程度。

 ただ目を開いているだけで後方に景色が流れる様は新鮮で、いくらか無聊を慰めてくれる。

 

 

「それで、身体に問題はないか。 必要に応じてリハビリメニューを調整するぞ」

「……なるほど、問題。 問題ですか……」

 

 そんな彼女の様子を退屈していると見做したのか。

 男は愛想の欠片もない顔で、今後の話を口にしだした。

 

 ……こういう時ぐらいは世間話から始めても良いのではないか、と思わなくもない。

 今の寮の様子とか、トレーニングシューズの新作とか、男の過去の話とか。

 

 どうせ時間は余っているのだ。 今からあれやこれやと脳味噌をこねくり回して育成プランを練ろうにも、実行に移せるのは暫く後のこと。

 今の少女が努力を重ねた所で、あっという間に努力の範疇を超えてしまう。

 つまり、それが正真正銘の破滅だ。 自滅、と言い換えても良い。

 

 焦って怪我の治りが早くなるのなら幾らでも焦る。

 とにかく努力を重ねた分だけ復帰が近付くのであれば寝食の時間だって惜しんで励む。

 けれど必要なのは努力と休息のバランスであって、努力の絶対量ではない。 そんな事ぐらいは、今のファインドフィートでも理解できた。

 ……だからたまには、余分な話に耳を傾けてみたかった。 けれど。

 

「……今のあなたは、確かにそうですよね」

「何がだ」

「いえ……気にしないでください。 ただ……わたしのバカさ加減に、呆れてるだけですから」

 

 ……ともかく、内容自体はひどく真っ当だ。

 身体の問題。 リハビリメニュー。 復帰に向けた現実的なプランの立案。

 それに対して何と言ったものかと、眉間に小さなシワを寄せて考える。

 

「それで……身体について、でしたか。

 こうして車椅子に乗っている時点で今更な質問だと思うのですが……いえ、あなたが聞きたい事は分かっています。

 言語化し辛い異常、今後に後を引きそうなもの……それらも含めて何も問題ない、と言えれば、良かったのかもしれませんが」

「問題、あるのか」

「…………」

 

 指を持ちあげて、額に張りつく前髪を払いのけた。

 汗に濡れた糸束がまぶたから離れて、生ぬるい新鮮な空気に触れる。

 

 けれど、視界は晴れずに半分のまま。

 眼前を覆う物は何もなくとも、少女の世界は一切変わらない。

 その現実と、今後訪れる障害を意識して──明確な実感を伴い始めたそれに、気怠い溜息を漏らした。

 

「左目が見えなくなりました。

 この状態でもうまく走る為の練習をしないといけません」

「……怪我のせいか?」

「いいえ、無関係です。 ……少なくとも今のトレーナーが気にするべき事ではありませんから、詮索は無用です」

 

 まず、遠近感が狂っている。

 これによってレース中の位置取りの難易度が急激に上昇し、下手をせずとも彼女以外にまで悪影響を及ぼしかねない。

 そして、左右の三半規管と視覚のズレのせいで平衡感覚まで失われている。

 結果的に真っ直ぐ走行する事さえ難しくなり、フォームも崩れやすくなる。

 これは、ただ"走る"という行為そのものにもダメージを与えてしまうモノだった。

 以前のように柵スレスレの内ラチ(インコース)を攻める事はできないし、際どい駆け引きを仕掛けることもできない。

 時速70キロメートルの世界では、あまりにも重たいハンデだった。

 

「新しいトレーニングメニューの考案、お願いします。

 最低限、事故の危険性を無くすぐらいには慣らさなければ」

 

 それでも、せめてもの救いがあるとするなら、それはファインドフィートが大逃げを可能とする脚質であることだ。

 とにかく最初から最後まで一番前を走っていれば、自分以外に危険は及ばない。

 

 これでもし追い込みや差しでしか走れない脚質なら、夢を諦める羽目になっていたかもしれない。

 たとえば、片目界隈の先駆者──タニノギムレットのような空間把握能力でもあれば話は違った可能性はあるが、ファインドフィートには関係ない。

 事実として、少女には対応できるだけの技能がなかった。 だから今あるのは基礎スペックでのゴリ押し戦法だけ。 あまりにもか細い希望だったが、しかし、辛うじて夢の先に繋がる蜘蛛の糸程度の役は果たせていた。

 

「それと……。 ……トレーナー。 次の目標レースは京都大賞典です。 あと三ヶ月ぽっちしかありませんので、可能な限り最速でプランの構築をお願いします。

 ……あなたには、随分と無理をさせてしまいますが……」

「了解、した。 プランは来週までにまとめておく」

「ありがとうございます」

 

 それっきり、会話が途切れる。 同時に車輪も止まった。

 ひとまずの目的地、バス停に到着したからだ。

 幸いにも屋根がついている形式で、日陰に潜り込んだおかげで若干涼しくなった気がする。

 そこでようやく人心地がついて、少女は額を乱雑に拭った。

 精々五分と少しの移動だったというのに既に汗だくで、レースの後の余韻にも似た疲労感を感じてしまう。

 

 車を拒否したのはファインドフィート自身であったとはいえ、流石にこれ程の負担になるとは思っていなかった。

 己の浅慮を後悔してしまうぐらいには、今日の夏の日差しは堪えた。

 

 では、単に巻き込まれただけのトレーナーはどうなのか。

 緩慢な動きで背後を見上げた。

 男も少女に負けない量の汗を流していて、顔も真っ赤だ。 炎天下での行軍は、運動不足の体躯には負担が大きすぎたらしい。

 そしてそれもまた、己の選択のせいなのだと理解して、へたりと耳を垂らした。

 

 

「……トレーナー、水ぐらい飲んだほうが良いのでは? ほら、ここ自動販売機ありますよ」

「ん、あぁ……そうだな。 熱中症に、なってしまうな……少し、待て。 今買ってやる」

 

 少女が示した先。 バス停のすぐ傍らにある自動販売機。

 男はそこに鈍い歩みで近付いて、水がたっぷりと入ったペットボトルを購入した。 残念ながらスポーツドリンクの類は扱っていなかったらしい。

 それをまた鈍い歩みで持ち帰る姿を見守って──自然に差し出されたそれを、溜息とともに突き返した。

 

「トレーナーが先です。 今のあなた、わたしよりもよほど死にそうな顔していますよ」

「そうか……?」

「そうです。 だからはやく飲んで、ベンチに座っていてください……どうせ、バスはもう暫く来ませんから」

 

 少女自身、喉の乾きはまだ許容範囲内だった。 少なくとも、相対する男を休ませた後でも問題ない程度だ。

 そして男に拒否権など無く、故に少女が望んだ通りに動き出す。

 ベンチに座って、水を飲んで、額の汗を拭いもせずに呆けて。

 そんな死人じみた姿を、横目で眺めていた。

 

「……トレーナー。 あなたが、わたしのトレーナーで良かったと思います。 あと……ごめんなさい」

「そうか……。

 ……少し待て、キミの水も用意する」

「ああ、もう少しゆっくりしていても……いえ、ありがとうございます」

 

 男がまた水を買う。

 水気の滴るボトルのキャップを開けて、しっかりと少女に手渡した。

 

 ひとくち水を飲めば、それだけで喉や胃がひんやりと冷える。 心地よかった。

 舌先で唇に残った水滴を舐め取り、日陰と日向の境界線に息を吹きかければ、その吐息でさえも冷気を含んでいるように思える。 無論、錯覚だ。

 

 ──それからやがて、道の向こうから大きなバスが身体を見せるまで、二人揃ってじっと黙りこくっていた。

 その静寂は居心地の悪さを含まない、優しいものだった。

 

 夏の暑さこそ大変だが、不快感に慣れている少女にとっては差し引きでプラスに傾く。

 そう。 それこそ舌の先を摘まれた時の、名状し難い感覚を思えば……大体すべて無視できる気すらしている。 アレに勝る恐怖なんてそうそう無いに違いない、なんて、無意味な自信を持てる程に。

 

 

「……バスが来たな、やっと」

「ええ……やっと、ですね。 思っていた以上に、長い道のりでした」

 

 右方を見やればバスが走っていた。 一般的な市民バスだった。

 重苦しいエンジン音を引き連れて、車線の上を潰していく。

 近付いてくる排気ガスの匂いは、いっそ鼻がひん曲がりそうになるほど臭い。

 

 じわじわと姿を大きくしていく鉄の箱を見て、立ち上がったトレーナーが再度車椅子の取っ手を握る。

 

「……トレーナー、これ、どうやって乗るんですか?」

「スロープを付けてもらう。 まぁ……運転手に頼めば設置してもらえる筈だ」

「なるほど、そういう……。 バスの運転手さんも大忙しですね」

 

 そして、タイヤの軋む音と共に到着する。

 空気の抜ける音、開くドア、顔に吹き付ける冷気。

 声をかけるまでもなく、車椅子用のスロープを抱えて姿を見せた搭乗員。

 日陰の向こうにあるそれらに、足置き場に乗るつま先を向けて。

 

「……ねぇ、トレーナー。 今日は……わたしのわがままを聞いてくれて、ありがとうございました」

 

 後ろ背越しに男に声をかけたけれど、返事は別に求めていなかった。

 ただ言いたいだけ。 ただ伝えたいだけ。 反射行動の積み重ねである人形に何を言っても、何かの変容を生み出す事はない。

 リンゴを放れば地に落ちる。 水面に石を落とせば波紋が生まれる。 風が吹けば髪が揺れる。

 それによって何かが起こるわけではなく、単なる物理現象が連鎖的に発生するだけ。

 ファインドフィートとトレーナーの仲は所詮、そういう物だった。

 

 ……だからくだらない執着を覗かせても、一切の変化を齎さない。

 

「……トレーナー」

 

 エンジンの音に飲まれて砕ける。

 少女の声はか細い故に、己の耳以外の何処にも届かない。

 

「お父さん」

 

 だから、この縋る声は届かない。 届かない。 届いてはならない。

 これは幸せを運ばない。

 少女にも、男にも、父にも、誰にも、冒涜だけを押し付ける。

 

 だから重ねるべきではないと、理解しているのに。

 

 


 

 

 顔は覚えていない。

 名前も覚えていない。

 一緒に過ごした思い出もない。

 どんな人だったのかすら分からない。

 

 だから今できるのは、きっとこういう人だったのだろうと想像する事だけ。

 きっと、頼れる人なのだろう。

 きっと、賢い人なのだろう。

 きっと、強い人なのだろう。

 きっと、諭してくれる人なのだろう。

 

 たとえば、そう。 あなたのように。

 

 

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