【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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58話

 

 

 ────。

 

 


 

 

 リハビリ、休養、勉強。 リハビリ、休養、勉強。

 

 退院して二週間。 来る日も来る日も、復帰に向けた土台作り。

 なにせレースの開催までの猶予は残り少ないのだ。

 ファインドフィートに与えられたのはたったニヶ月足らず。

 ()()()()筋力の劣化は殆ど無かったが、怪我の影響は未だに後を引いている。

 既に仮骨硬化期(繋がった骨の補強)は終えているが、その後の数ヶ月──通常であれば──を要する再造形(リモデリング)期は未だ途中。

 車椅子も松葉杖も既に卒業しているが、しかし。

 万全の状態でも負荷の大きい全力疾走に、今の足がどれだけ耐えられるのか。

 

 ……なんて言えども、ファインドフィート自身はさほど問題視していなかった。

 気にしているのは、片目の視界でどれだけやれるか。 そこに尽きる。

 

 まず、ゲートから出る所から問題がある。

 毎回ほぼ最速に近いレベルでゲートから飛び出している彼女であったが、それは両目が揃っていた時のこと。

 残念ながら、片目になった彼女はゲート難である。 ゴールドシップ(気分屋)スイープトウショウ(駄々っ子)と同じ属性だ。

 ただし彼女等とは違って気性を原因としない故に、"改善の余地がある"とも、"改善の余地がない"とも言い切れない。

 もし後方から追い上げるタイプであれば比較的影響は少なかったかもしれないが……現実は真逆の脚質であった。

 

 しかもそれだけではなく、レース中のコーナーカーブも大回りを強いられるし、フォームは崩れやすくなるし、まったく面倒事ばかりだ。

 だからこそ必死に気力を奮い立たせて、練習に励んでみては、いるけれど。

 

「──なので、まずはこうしてゲート練習に励んでいる、という訳です。 コーナー練習だとかはもう少し治ってから……全力疾走に耐えられるようになってから、ですね」

「なるほど。 経緯はよく分かりました。 ですので、もう一度言います。

 ……もう夕方です。 早く片付けて帰宅しましょう」

「……もう少し練習してからで、良いですか?」

「その提案は24分前と12分前にもお聞きしました。 これで3度目の警告です、フィートさん」

 

 少しばかり──そう、ほんの少しばかり気が立っている様子のミホノブルボンの前で。

 少女は薄い微笑みを浮かべながら、ゲート練習用の鉄扉を指で撫でる。

 屋内練習場の一角を占領していた彼女のお供は変わりなく、鈍い光を反射していた。

 

 何度も額をぶつけてしまったから、少し赤くなった肌。

 失敗の痕跡を手のひらで隠して、壁に掛けられた時計を見る。 針は、未だに夕方を指し示していた。

 

「……フィートさん、良いですね?」

「…………。 はい、分かりました」

 

 了解の意を返したものの、納得はしていない。 それに疑問もある。

 授業を終えてからずっと練習に取り組んでいたが、この予定を誰かに言った記憶は無かった。 トレーナー経路で繋がる筈は無かったし、LANAのやり取りでも書いた記憶はない。 自室のノートに予定を記しているわけでもない。

 だというのに、ここでトレーニングを行っているという情報が何処から伝わったのか。 まるで分からなかったのだ。

 

 ……だが、予定を知られている事自体は別に良い。

 誰の口から伝わったのか、友人か、教師か、善意を騙る第三者か。 そこはどうでもいい。

 

 しかし、やたらと練習に反対してくるのはまた別だ。

 冷たい口ぶりで連れ帰ろうとする少女と相対して、どう対応したものかと思い悩む。

 本来なら夏合宿の時期であるのに、態々退院に合わせて寮に戻ってきた彼女に不義理なことは言いたくなかった。

 

「……でもやっぱり、もう少しだけ練習してからはダメですか?」

「ダメです。 許容できません」

「はい……」

 

 それに、理不尽な物言いをしている訳でもないのだ。

 他人の視点から考慮すれば、なるほど、止めるのも仕方がないと、渋々ながら納得できる程度。

 もし仮に逆の立場であったなら──間違いなく、ファインドフィートも同じ行動をしていたからこそ理解できる。

 

(とはいえ、慣らしの練習にとにかく時間を使いたいのも事実……)

 

 はてさて、困った。

 矮小な悩みを抱えつつ、一旦の対応として鈍い動作で練習機の周囲を片付け、軽い点検を済ませる。

 色々思うところはあるが、まずはやり過ごす為に。

 

 そしてこの場をやり過ごせたら、見つからないよう時間をずらしてみるべきか。 大雑把に時間を計算し、おそらく気取られないであろう移動予定を組み立ててみる。

 メニューは、トレーナーに改めて作成してもらえば良い。 場所は最悪外部の設備を借りる。

 ミホノブルボンやトウカイテイオーなど、特に邪魔しそうな面々にさえ見つからなければ、何とかなるのではないか、と粗雑なプランを考えた。

 

 ……しかし、見つからない時間といえば深夜以外にありえない。

 寮にいる時間は殆ど常にミホノブルボンと行動していて、寮の外でも誰かしらの目がある。 たとえば、今日のように。

 

 つまりこのプランは、22時の門限を無視するという前提に成り立つものだ。

 もし学園に伝われば問題になるかもしれない……否、確実に問題になる。 事前に申請するとしても、一体どんな理由を書けるというのか。

 トレーニングを止められたくないから外に出ます、なんて、受領される筈もなし。

 まだ未成年である彼女が夜にほっつき歩けばやはり目立つし、補導の対象にもなりかねない。

 しかも深夜をトレーニングに充ててしまえば睡眠時間を削る羽目にもなってしまう。

 考えれば考えるほど、穴だらけの破綻したプランだった。 流石に成功するとは思えない。

 

「……明日からは、私も手伝います。 ですから……今日は帰りましょう、フィートさん」

「わかり、ました」

 

 ……実に、困ってしまった。

 結局、こういう心配を振り切ることが出来たなら何も悩む必要もなくなるのだけれど、そんな事が彼女に出来るはずない。

 

 そうなると、残された方法は正攻法だけ。

 実績の積み重ね。 無理ではなく妥当である事の証明。

 ファインドフィートの身体には適切な負荷しか与えられていないというデータさえ提示できれば、この少女を納得させられるに違いない。

 

「……結局、こうなるんですね」

 

 諦念。 納得。 部分的に相似する色を瞳に重ねて、対面の少女のつま先を見下ろす。 少しだけバツが悪かった。

 それから若干の間を空けて、"まぁ、仕方ないか"と渋々受け入れた。

 

 最終的により良い結果を導き出せるのであれば、一日程度のズレには目を瞑る。

 時にはこういう妥協策も必要なのだと、頑固な彼女にしては殊勝な考えを建前にして。

 

「……じゃあ、今日は帰りましょうか。 ブルボン先輩」

 

 練習機の横。 壁際。 フローリングの上に置いていたカバンを持ち上げ、薄く微笑みかける。

 赤いジャージを汗で汚すことすら出来ず、思っていた成果を出せもしなかった。

 残りの猶予は少ない上に、克服すべき弱点は放置されたまま。

 

 けれど。 あれやこれやと理由をつけた物の、一番の理由は他にある。 至極単純な理由だ。

 つまりファインドフィートは、安堵の吐息をこぼす彼女を、どうしても裏切れないだけ。 それだけだった。

 

 ……それに、一緒にいる時間だけは、手を穢す赤色が消えてくれたから。

 怪我を言い訳に出来る今の間だけでも、せめて、なんて。

 

 

 ◆

 

 

 明くる日の、更に次の日。 八月も中旬を迎えた頃。

 ファインドフィートはバスに乗って、ちょっとした遠出をしていた。

 服装は普段通りの学園制服だったから、どこかへ遊びに行く、という風情でもない。

 どちらかといえば表情は真剣なもので──親しい人物なら察せられる程度の僅かな差異だったが、ともかく浮ついた雰囲気は何処にもなかった。

 

 早い話が、目的地は夏の合宿所であった。

 ひと夏の間だけの合宿である故に残りの期間はそう長くない。 が、せっかく利用できるのなら使わない手はない。

 つい先日までは一応、療養に専念するとして学園に留まってはいたが、今はもう殆ど治っているのだ。

 それこそ多少ハードなトレーニングにも耐えられると医療機関にだって保証されている。

 もちろん、二度目の骨折なんて愚を犯さぬよう細心の注意を払うべきだが、その警戒が必要なのはもう少しの間だけだ。

 

「……とはいってもトレーナー(お父さん)、本当にこのメニューだけなんですか?」

「ああ、そうだ。 キミの骨の強度を勘案の上で決めたんだから覆らないぞ」

「それは……そうかもしれませんが。 しかしこれでは……」

 

 さすがに少なすぎるのではないかと、唇の先を尖らせる。

 すぐ後ろの座席、ノートパソコンを弄るトレーナーに向けて、もう少し厳し目の代案は無いかと尋ねた。

 が、考慮もされず"存在しない"と突き返されるのみ。 非情だった。

 

「今が八月で、京都大賞典が十月の頭。 天皇賞の秋が十月の末頃。 時間の余裕はあんまりないと思います……」

「だとしても、だ。 急に負荷を上げるのは許容できん。 段階を踏んで慣らしていけ」

「…………仕方ないですね」

 

 焦燥交じりの呟きをこぼして、車窓にもたれ掛かる。

 手元の紙束を膝の上に放り投げ、紙面の文字から目を逸らす。

 神経質になるべき時はたしかにあって、それは今だ。 理解している。 納得もしている。 間違っているのは己なのだという答えは、いつだって頭の中に居座っている。

 そしてその自縄自縛の正当性は、過去の過程が肯定していた。

 

 あるいは、今の男にならファインドフィートの意志を強制することはできるだろう。

 しかし、それを選ぶのは嫌だったから、大人しく矛を収める。 こうして窘められるのも、()()()()()幸福なことなのだ。

 

「でも……多少の無茶はさせてくださいね。 何もなしに勝てるほどわたしは優秀じゃないですから」

「……キミは十分、優秀だと思うが」

「まさか。 本当に優秀ならこんなにやり直す必要なんて無かったですよ。

 そもそもわたしなんて、姉さんの下位互換でしかないですから」

「俺はキミのお姉さんを知らない。 だから、想定に挟む意味はない。 今目の前にいるキミが、ファインドフィートだからな」

「…………そう、ですか」

 

 諦めとともに、窓ガラスに耳をくっつける。 吐息が車窓に当たる度に、薄く曇る。

 その即席のキャンバスに絵を描きながら、到着までの時間を浪費することに挑戦してみた。

 たとえば猫。 たとえば犬。 たとえば星。 描いて、消して、曇りを作って、また描いてみる。

 ……だが所詮、手慰みのくだらない暇つぶしだ。 こんなもので残りの移動時間全てを消費しきれる筈がない。

 

 

 はぁ、と、大きな溜息をもうひとつ。

 今までで一番大きな曇りが出来たが、また指を伸ばす気にもなれない。

 窓ガラスに反射する青い瞳が退屈に淀んでいる様を眺めて、しかし何をやる気も起きず。

 自分の尻尾の毛並みを延々と整えるぐらいしか、出来ることは何もなかった。

 

 

 ◆

 

 

 海沿いの合宿所に到着したのは、昼過ぎになる頃だった。

 徐行運転で駐車場に侵入し、指定の位置まで移動する。

 それから、ききぃ、と鳴るブレーキ音の余韻までを確かめて、鈍重な所作で立ち上がった。

 長い時間座りっぱなしだったせいで凝り固まった肩や腰。 座席の傍らで大きく伸びをして軽くほぐし、車の前方を見る。

 既に、ドアは開いていた。 潮風の香りが漂い始める。

 

トレーナー(お父さん)、これ、持って降りますね?」

「ん……あぁ、すまないが頼む。 一応精密機械だから丁寧にな」

「ええ、もちろん」

 

 そうして抱え上げた黒いケースは見た目にそぐわぬ重さで、トレーナーが持つにはやや積載量オーバーだろうと確信させるほど。

 これをバスに持ち込んだ時は彼自身の手で持ち込んだ筈だが──随分と無理をしたのだろうな、とほんのりと哀れみを抱かせる。

 今の彼女であれば指先でつまめる程度の重さでも、それでもヒト耳には十二分に効く重さなのだ。 もし仮に、ファインドフィートが以前の肉体であれば、無理をしたとしても一時持ち上げることすら叶わなかったに違いない。

 

「あとついでにコレ……この、アンクル入りのダンボールも持って降りときますね。 トレーナー(お父さん)も程々の所で切り上げてください」

「分かった」

 

 左腕で、俵を抱えるようにダンボールを保持。

 右腕と脇でボストンバッグをはさみ、右手で黒いケースを持つ。

 過積載なにするものぞと言わんばかりの風体で、悠々とバスから降りた。 久方ぶりの外気と日光だ。 やけに目に染みる。 片目だけなのに、か。 片目だけだから、か。

 何にせよ、目を細めたせいでただでさえ狭い視界が更に狭まった。

 

 そして、その視界の奥。

 大きな合宿所に隣接する駐車場の端、アスファルトとの境目に、見覚えのある形を見つける。

 

 おや、と片眉を上げる。

 目をさらに細めてじっと見てみれば、ファインドフィートもよく知る少女──トウカイテイオーのものだった。

 そして七月から合宿に参加しているのだからジャージ服を着ているのかと思いきや、着用しているのは普段通りの小綺麗な私服。

 まるで夏休みを謳歌する学生のようにも見えて、少しだけ不思議だった。

 

「──やっほ、フィート! 時間通りだね! 荷物持とっか?」

「こんにちは。 今朝も電話でお話しましたが……その、そんなに気を使わなくても良いですよ。 殆ど治り切ってますから」

「いーからいーから」

 

 なんて言いながら、抱えていたダンボールやボストンバッグを奪い取る。

 少女が語る"殆ど完治した"、というセリフも殆ど信じていないのが態度からも見て取れる。

 とはいえ、否定の言葉を口にしても結果が変わらないことは明白だ。 残念ながら。

 

 故に仕方なく、諦めと共に、最後に残った右手のケースを抱え直した。

 

「……では、早速荷物を置いて──」

「荷物置いたら遊びに行こうよ。 ほら、せっかくの海だし!」

「──荷物を置いて、先にトレーニングを済ませます。 ですから……ほら、テイオーさんは先に遊んでいてください。 わたしは気にしなくて良いですから」

「え~、せっかくこんなにいい天気なのに!?」

「いい天気だろうと何だろうとたいして関係ありませんよ」

 

 耳と尻尾を垂らして、無言の抗議をするトウカイテイオー。

 そんな彼女の前で呆れたふうに頭を振って、宿舎の側につま足を上げる。

 

「──それではまた後ほど……あ、荷物は自力で持っていきますから」

「いやいやいやいや、待って待って。 ボクがこんなにお願いしてるのに酷くない? ねー! 遊ぼうよー!」

 

 はぁ、と気の抜けた声で相槌を返す。

 ファインドフィートの目に力はなく、淡々と物事を進めようとする考えが薄っすらとにじみ出ていた。

 そんな彼女にあれこれと言い募ってどうにか気を引こうとするが、生憎と気のない返事が返ってくるのみ。

 せっかくの海だから泳ぎたい、とか。 偶には食べ歩きもしたい、とか。 こういう時ぐらいは先輩風を吹かせたい、とか。

 赤裸々な欲望──欲望と言うには些か純粋すぎるが──を語って、尻尾を絡ませる。 当人が比較的小柄なことも相まって、駄々をこねる子供にしか見えなかった。

 

 "トレーニングが終わった後なら付き合いますから"、と代わりの案を出しても中々受理されない。

 曰く、昼に行くのと夜に行くのは全く違う、と理由まで付けて。

 そうして歩みを止められると振りほどくのも容易ではなかった。

 

 ならばどうするのか。 ケースを右手の先にぶら下げたまま、うぅむと唸って悩みだす。

 そんなファインドフィートを見てか、単にタイミングを見計らっていたのか。 トウカイテイオーがさもいい案を思い付いたと言わんばかりの顔で口を開いた。

 

「うん、わかった! じゃあ交換条件ね! 遊び終わったらボクも併走する! あとスズカも連れてくるから! 大逃げ同士、何かしらいい刺激になるんじゃないかな!?」

「ええ……」

「ハイ決定! スズカも多分大丈夫って言ってくれるよ!」

 

 そう、特に関係のないサイレンススズカの身柄を持ち出した代案だ。 まだ了解も取っていないのに随分な気合の入りようだった。

 だが出された条件はさほど悪くない。 否、むしろ良い。

 少しの時間と引き換えに、優れたお手本を用意してくれるというのだから。

 つまり、()()()としても十分。 多少遊びにふけても最終的に良い方向に向かうのであれば、きっと。

 ファインドフィートも別に遊びたくない訳ではないのだから、それなりに魅力的な提案だった。

 

「ちなみに遊びに来てくれなかったらスズカはお預けだよ。 少なくとも合宿所に居る間は一緒に走らせないから」

「む……そうきましたか」

 

 しかし、さて。 どうしたものかと首を傾ける。

 右へ左へ傾けて、考えて。

 中々踏ん切りがつかなかったから、バスの中のトレーナーに意見を求めようとした。

 

 ……が、何かを言うまでもなく立てられた親指が返された。

 ふたりの会話はバスの中にまで届くほどの音量だったようで、席に座る運転手の曖昧な笑みが答えを物語っていた。

 

 

 はぁ、と溜息をつく。 ゆらりと尻尾を振る。

 そして上ずった納得の意と共に、仕方がないと向き直った。

 

「……まったく、そこまで言われたら仕方ないですね。

 遊び終わったら、わたしのトレーニングにもちゃんと付き合ってくださいね?」

「よっし、そうこなくっちゃ! 

 あ、フィートの水着はこっちで用意してるから安心してね。 どうせスクール水着しか持ってきてないだろうし」

「何か問題でも……?」

「大アリだよ、海を何だと思ってるのさ!」

 

 そこまでしてようやく。 "じゃあ荷物だけ置きに行こう"と話の前進を見せる。

 それに、何もせずに外に立っているだけでも疲れてしまった。 額にじんわりと浮き始めた汗の粒を片手で拭い、遮蔽の下で目を細めた。

 細い視界の中で、ぼやけた少女の顔が、くっきりと明確に定まる。 それはそれは綺麗な笑顔をしていて──その目が己を見ている事に矮小な喜びを感じてしまうのだから、ひどく現金なものだった。

 

「ほら、こっちこっち!」

「そんなに急がなくてもいいのでは……?」

「実はブルボンを待たせてるんだよね、フィートを遊びに連れていくって約束してさ……!」

「えぇ……」

「だから軽めの駆け足! 軽めね、軽め!」

 

 ぶっきらぼうな言い草とは裏腹に声音は高く、内側から僅かな高揚を滲ませている。

 そして今なら、表情にも、その内面がほんの少しだけ垣間見えていた。 彼女も所詮、単なるひとりの子供なのだ。

 

 それからもう一度己のトレーナーに声をかけて、片手間の返事を合図にアスファルトを蹴り上げる。

 前に立ったのはトウカイテイオー。 後ろを追うのはファインドフィート。

 

 終わりかけの夏の空。 遠くに尾を引く飛行機雲。 海の向こうの入道雲。

 その下で、潮の香りで尻尾を濡らして、小さくも大きい背中を追いかけた。

 最後の夏を楽しむために。

 

 


 

 

 潮騒の音が聞こえる。

 どこまでも耳障りな、気持ち悪い音だった。

 

 

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