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照りつける日光。 吹き抜ける風。 青い海。
白い砂浜に突き立てられた二つのパラソルと、日陰に敷かれたレジャーシート。
多くの学園生で賑わう砂浜の一角であるそこが、今日の集合地点だった。
到着後の諸々の手続きを終え、一足先に移動していたトウカイテイオーに指定された場所だ。 目印は白と緑のパラソルで、ファインドフィートの視界にはそのひとつしか見当たらなかったから、まず間違いない。
幸いにも色覚は残っている。
所在なさげに肩を丸めながら、それなりに多い生徒の隙間を縫って歩く。 ごった返している、という程ではないが、注意しなければ普通に衝突しそうな場面がチラホラと見受けられた。
ファインドフィートは片目である故に、尚更気をつけなければならない。
右を見る。 左を見る。 足を前に進める。
横目で見る周囲の少女達が着ている水着は大体市販の物で、スクール水着を着用しているのは少数派だった。 というよりも、トレーニングを行っているらしき面以外──各々の自由時間を過ごす者はみな、遊び用の華やかなものだ。
当初の彼女はスクール水着で来るつもりだったが、なるほど、と頷く。 遊ぶ時はきちんとした物を選ぶのがセオリーらしいと、今更ながらに実感した。
とはいえ、その遊び用の水着を着ているのは中々落ち着かない。
テレビでも見かけるようなビキニとは違う物で比較的肌の露出は少ないが、どうしても慣れなかった。
……スクール水着であれば、まだ良かったのだ。 着用は簡単で、動きやすくて丈夫。
水泳するには丁度よくて、羞恥以前にトレーニング用装備の印象が先行するから──自分を納得させるのも簡単だった。
が、今着ている水着は別である。
完全に遊び目的で見栄え重視。 さざ波をモチーフにした浅緑と空色のデザインは、肉体の年齢に見合う程度に可憐だ。
だから、これに価値を見出だせない。 見出だせないから、拒否感がある。
そもそも、自意識は未だに十歳を迎えたばかりの少年だ。
だというのに可愛らしい
……ファインドフィートの前身を知る者は殆ど居ないのだから、そういう事情を汲み取れなんて言える筈もないのだが。
「……ってことは、あの病院でも前のわたしの事はあまり知れなかったんでしょうか。
お医者さんもわたしを忘れたのであれば……確かに、あの人達に伝わる事はないんでしょうけど」
元の性すら知られていないのであれば、この状況にもすんなりと納得がいく。
……だからといって、出来る事は何もないのだが。
胸元の傷跡を申し訳程度に隠しながら、砂浜を踏む。
指の間に入り込む砂を蹴飛ばしながら、つま先で軌跡を描いた。
そして、下ばかりを見て歩いて。
そのせいで、前から飛んできたビーチボールに反応出来なかった。
「────」
顔で受け止める。 衝突したボールがぽぉんと跳ねる。 感触自体はとても柔らかく、肌に傷をつけるものではなかった。
が、その程度の衝突でも意識に空白を生み出すには十分だ。
跳ね返ってころころと転がっていくボールを見送るも、困惑が脳内を埋め尽くす。
一体誰のボールなのか。 何故飛んできたのか。
その答えは、慌てて駆け寄ってきた少女が全身で表現していた。 もはや言葉を聞くまでもない。
「ごっめんフィート! 思ってたよりストレートに入っちゃった!」
「……あぁ、はい。 痛くも何ともないので別に構いませんが……」
つまるところ、犯人はトウカイテイオーだった。
曰く、空気を入れたばかりのボールを投げ飛ばしたら偶然ファインドフィートの顔に衝突したらしい。
もっとも、何故投げ飛ばしたのかは結局謎のままである。 きっと大した意味はないだろうけれど。 目の前にぷっくり膨らんだボールがあったから投げただとか、そんなレベルだ。
「うぅ……ごめんよフィート。 でも表情が固くて助かったね……」
「わたしの顔を何だと思ってるんですか……まったく。 鉄仮面とか言われてたのは単なる比喩ですよ」
「えへへ、知ってる」
ともかく、ようやく合流だ。
集合場所に足を踏み入れ、パラソルの下に集まっていた面々の輪に混ざり込んだ。
まず一人目は──またもや砂浜でビーチボールを蹴り飛ばしているトウカイテイオー。 学ばない。
二人目はやけに大きなかき氷を携えたミホノブルボン。 売店で買ったのだろうか。
三人目には、不思議と久しぶりという気がしないマンハッタンカフェ。 珍しく髪型を変えて、額を出している。
更に加えて……一応四人目としてカウントするけれど、ファインドフィートとマンハッタンカフェにしか見えていない『お友達/ひいお婆ちゃん』。 服もカフェに合わせてか、フリルをあしらった黒い水着を装着している。
みな、多少の馴染みがある面子だった。
そして、その彼女等が馴染みのない水着を着ていることに新鮮味を覚える。
あるいは
「どうも、お待たせしました」
「……。 私達もつい6分前に集合が完了した所です。 つまり、誤差の範疇かと」
「……ブルボンさんのかき氷はまだかなり残っていますから……フィートさんも、ひとまず座ってゆっくりしては……?」
『ひ孫、直接顔を合わせるのは久しぶり』
一瞬だけ、胸元の傷跡に視線を感じた。
……が、勘違いとも錯覚するほど一瞬の出来事だった。
何事も無かったかのように目を逸らして普段通りに振る舞う先輩に合わせて、シートの端に腰を下ろす。
それからひんやりと冷えるプラスチックと日差しの下の熱砂との境目に、ゆらりと尻尾を置く。 臀部が微かに熱かった。
「では改めて……やぁやぁフィート、すっごく似合ってるよ! さすがはワガハイの盟友、マックイーンのチョイス……いいセンスしてるね!」
「……あぁ、道理で……テイオーさんならフィートさんに
「それどういう意味~!?」
「その、テイオーさんの私服を思うと……ですね……。
……まぁ、そういう意味です……」
「ちなみに、サイズは私から提供しました。 目測ですが、誤差はプラスマイナス5ミリ以下かと」
「目測……?」
目測。 サイズを目で測ったということ。
ミホノブルボンが発言した情報の入手経路にそこはかとない違和感を感じる。
「……まぁ、いいでしょう」
が、途中で思考を放棄した。 色々と情報量が多すぎたのだ。
少女の矮小なる脳みそは、あっさりとキャパシティオーバーを起こしてしまっていた。
だから、まあ。
何にしても、誰かに手間を掛けて選んでもらった物だし、と。
流されるように、羞恥を溶かさぬままに飲み込んだ。
「……ところで、集まったのは良いんですが」
今もビーチボールと戯れているトウカイテイオーに顔を向ける。
そして、これから何をするのかと問うてみた。
すると行動からも分かる通り、"とりあえずビーチバレーしたい"と返ってくる。 せっかく用意したのだからそれはそうだろう。 納得だ。
「でもさ、他にやりたいことがあればそっちでも良いよ? どーせ時間はたっぷりあるし」
「他に……ですか」
指先を顎にあてる。
他にやりたいこと。 他に出来ること。 選択肢。
口の中で転がしてみれども中々咀嚼できなかった。
「ブルボン先輩は、なにかありますか?」
「……いえ、特に希望はありません。 フィートさんとテイオーさんにおまかせします」
「では……カフェさんは?」
「同じく、おまかせで。 私としては……タキオンさんの暴走から、逃げていたいだけですから」
「……なるほど、困りました」
困り眉を垂らし、一応自分でも考えてみる。
けれどもやはり、何も思い浮かばない。
もし水泳が得意であれば水中レースと洒落込むのも良かった。 が、残念ながら少女は泳ぐのが苦手だった。 犬かきすらできない筋金入りのカナヅチだ。
……というよりも、選択肢を考える以前に、である。
ファインドフィートはそもそも、海での遊び方をほとんど知らなかった。
昔、家族で海に行ったような記憶はあったが、しかし、当時の彼女──彼に、遊びに興じるほどの体力はなかったのだ。
遊んだ経験がなければ、知識だって存在しない。
知識だけを蓄えた所で、できないのなら一層惨めになるだけだったから。
だから彼女が知っているのは焦げつく夏の暑さと、光に反射して波打つ水面と、それらを眺めるパラソルの下の、僅かに冷えた空気程度だった。
どう解釈しても"遊び"とは言えない色褪せた"それ"が少女が持つ数少ない海での記憶である。
つまり、いくら考えたところで無意味だ。 他の選択肢を提示する事なんて出来ない。
無知とはそういうものだった。 無知なる者に選ぶ権利などない。
これも、あれも、それも、どれも、全てにおいて同じ事だ。
「特に何もなければ……うーん、とりあえずバレーしながら考えよっか。 出来る事なんて沢山あるんだしさ」
「……ええ、そうですね。 きっとそれがいい」
だから、ただ、曖昧な笑顔で頷く。
そして、差し出されたボールを受け取った。
◆
ビーチバレー。 続けてスイカ割り。 幾つかのチームを混ぜたビーチフラッグ大会。
それからメジロマックイーンとライスシャワーの大食い大会を見たり、サーフィンをしているウオッカとダイワスカーレットを眺めてみたり。
その後は浮き輪で波に流されたりと……元々思っていた以上に夏を楽しんだ。
夢を目指す『ファインドフィート』にとっては、大した意味を持たない時間だ。 けれども一個人としてのファインドフィートには、大きな意義を持つ時間だった。
頭を空っぽにして地を駆けるのも、遊びのために頭を悩ませるのも、どちらもとにかく楽しいのだ。
この場に姉さんもいればよかったのに、と、小さく呟いてしまうほどに。
走って、砂まみれになって。
海水に浸かって、びしょ濡れになって。
日光を浴びて、からからに乾いて。 そしてまた、砂に塗れる。
遊んで、遊んで、遊んで、束縛を欠いた仮初めの自由を謳歌する。
そうしている内に、空の果てに朱色が混ざり始めた。
日は傾き、遠くの夜を引き連れてくる。
楽しい時間もやがて通り過ぎていくもの。 本当に、あっという間に。
没頭すればするほど体感時間は須臾の領域にまで圧縮されてしまう。
「もう、こんな時間だなんて」
知らずの内に訪れていた変遷の始点。
目に見えた時間の区切りを波打ち際から見つめる。
みなでの遊びの時間も一段落がついて、各々まばらに自分の時間を過ごし始めた頃だった。
「……あぁ、でも。 わたし」
ふと囁く。
"わたし"。 "私"ではなく、"わたし"。
この場にいる自己だけを指す言葉。 『姉』のそれとは違う響き。
ほんの少し舌っ足らずで柔らかく、自己の輪郭を撫でるだけの言葉だ。
その"わたし"が、ぽつりと心の内をこぼした。
「わたし、楽しかった」
寄せては返す波の音に飲まれて砕けるほど、小さく。
満ち足りているように。 物足りなさを感じているように。 寂しさを漂わせるように。 無邪気な童女のように。
何れの表現にも相似していて、しかし毛の先ほどの相違が介在する声音だった。
もしも共通する色があるとするなら、根幹にある執着から染み出した色ぐらいだろうか。
その執着の色が黒いのか、白いのか、青いのか、赤いのか。
雑多な情で塗り重ねられているせいで、見ただけではちっとも分からないけれど、根っこには確かにそれがあった。
もしも正体を知りたくば、その雑多な情を爪先で引き剥がすか、どろどろに溶かして拭うしかない。
そうして日の下に曝したなら。 そこには裁きを求める顔とは違う、また別の顔がある筈だ。
……執着の向かう先が、なにも一つだけとは限らない。
「……そろそろ戻らないと」
──ならばこそ、終わらせなければ。
名残惜しさを滲ませる視線を、もう一度周囲に投げて、五歩隣のミホノブルボンに歩み寄る。
「先輩、ブルボン先輩」
"もうそろそろです"、と。
心底から惜しみつつも、離脱の意を伝える。
すると少女はぱちくりと目を瞬かせて、なるほど、と一度頷いた。
元々の予定は事前に教えてある。 故の得心だ。
──しかし、大変困ったことがある。
ミホノブルボンは、まだ己の後輩を帰したくなかった。
だって、せっかくの合宿で、せっかくの海で、せっかくの自由時間なのだ。
なのにもう終わらせるなんて……あんまりにも、勿体ないではないか。
だから、軽い口調で。
今日の晩ごはんを言い当てようとする時と然程変わらない温度で。
ミホノブルボンにとっての、実に
「では、トレーニングは明日に回しましょう」
提案ではない。 断言する口ぶりだ。
反論されるなんて露ほどにも考えていない語気で、極々自然に話を進めていく。
日常会話の延長線上。 単なる世間話だ、所詮は。
「何せ今日のフィートさんは移動当日です。 フィートさんはまだ三年目に入ったばかりですから、もしかするとしっくりこないかもしれませんが……今日一日を休養に使うのは至極真っ当であり、何ら可笑しいことはありません」
「いえ、それは違──」
「違いません。 なぜなら、私やライスさん、テイオーさん……チームスピカの皆さんも同じだったからです。 適切に休養を挟み、適切に遊ぶ。 只管トレーニングに打ち込むよりも、安定して高いパフォーマンスを維持できる事は明らかです。
つまり、これが自然なのです」
「…………っ」
それからファインドフィートの目をじっと見つめて、"何か変なことを言いましたか? "と小首をかしげる。
変なことか、否か。 これを明確な二択で表現するなら、否──変なことは言っていないと言う他ない。
なにせこれを言っているのが、よりにもよって無敗の二冠だ。 妄言というには実績が伴いすぎている。
その上チームスピカだって、あの面子だけで八大競走の大半を勝っているのだ。
揃いも揃って結果を出しているだけに反論を打ち出せない。
あるいは、ファインドフィート自身の実績を持ち出すことも不可能ではない。
が……その実績がやり直しの上に成り立つ統計上の外れ値であることは自覚していたからこそ、口に出すことは憚られた。
「……ですから、今日は何も考えなくていいのです。 遊ぶことこそが今一番
「そう、でしょうか……?」
「はい。
そこからさらに続けて断言されて。
流されるように、"そうかもしれない"、と思えてしまった。
常に冷静沈着な彼女らしくない口ぶりであったけれど、ファインドフィートには実に効果的だった。 自分自身の芯を持たず、自己を嫌悪している彼女にとっては。
「不安に思うことは何もありません。 これが最良の結果を生むのですから」
「……本当に? でもわたしは──」
「本当です。 私に嘘を発言する機能は搭載されていません」
二の句まで封じられてしまえば、もう。
「さぁ、まずはシャワーで砂を落としましょう。 それから少し一息入れて、お散歩しましょう。
夜になったら大浴場でお湯に浸かって、ゆっくり疲れをほぐすのです」
もはや、従うことしか出来ない。
だってここには、ファインドフィートしかいない。
悪影響を及ぼしかねない存在には
それが意味することはつまり、指揮者の不在である。 だからこそ、今の彼女に新しく与えられた言葉達は、命令に等しい重みを有してしまう。
……もちろん、ミホノブルボンという少女に悪意はなかった。
心理戦を仕掛けているだとか、そういう小難しい話でもない。
けれど今まで多くの失敗を乗り越えてきた彼女は、失敗した時の感情の、その残り滓を抱えている。
幾重にも積もっていく沈殿物は日を追うごとに大きくなっていく。 少しずつ、じわじわと肥えていく。
そうして僅かな知識を蓄えながら、ああしろ、こうしろと、心の奥底から囁きかけてくるのだ。
失敗する度に、また夢になって溶けるというのに。
◆
そして、時計の針をぐるりと回す。 分針を6周。 時針を半周だ。
ミホノブルボンの宣言通りに過ごした後の夜中。 和風の広間に所狭しと敷かれた敷布団の一角にいた。
そうそう感じた事のない強い疲労感と共に、部屋と同じく和風の布団に寝そべる。 近場の商店街を散歩した所までは良かったが、大浴場の段階で少々大変な目にあってしまった。
最終的にどうにか折り合いをつけて風呂に入ったけれど──少女の精神はそもそも幼かったから、そう大きな壁はなかった。 喉元過ぎれば熱さを忘れる、それと同じだ。
服を脱いで浴場に入った頃には何も考えなくなっていたから、きっとそういう事だった。 間違いない。
……とにかく、である。
結果的にはさっぱりした。 肌もつるつるだ。
それに何よりも、自分以外の誰かに背中を流してもらうのは何故か楽しくて、ひどく懐かしかった。 満足だ。
それから湯冷めしないうちに体操服に着替えて、ちょっとした余暇を過ごして。
今はそのあとの、就寝時だった。 つまり一日の終わりだ。
結局トレーニング出来なかったな、と独りごちたけれど、発言に反して声音はどこか満足気だった。
……それほど充実した時間を過ごしたのだから、疲労感は間違いなくある。
だというのに、中々眠れない。
目を瞑って羊を百匹数えても、ちっとも眠気が訪れなかった。
それは一体何故なのか。
答えは、白い首筋に薄っすら滲む汗にあった。
つまり、とにかく蒸し暑いのだ。
夢を見るのが怖いからとか、胸が痛むからとか、そんなよくある理由ではなかった。
腹の上に通気性抜群の薄っぺらい毛布をかけただけなのに、胸元にまでじっとりと汗が浮かび始める。
部屋の隅では扇風機が回っているけれど、時折届くそよ風だけでは夏の暑さを拭えなかった。
それもその筈。 右腕にはセミにようにしがみついて来るトウカイテイオーがいて、太ももの上には何故かミホノブルボンの頭が乗っている。 そこそこの重装備だ。
だからひたすらに、蒸し暑い夜だった。
「……あつい。 寝てるだけなのに、あつい」
そのせいで、なのか。 やけに目が冴える。
真っ暗闇の中、パチリと瞬いた。
光はない。 故に青は反射せず、部屋の中は変わらず暗黒に閉ざされたまま。
だから、視覚以外──耳の感覚が研ぎ澄まされてしまう。 やけに気になって仕方がなくなる。
扇風機の低い駆動音。 鈴虫の甲高い鳴き声。 十の寝息。
そして他に聞こえるのは、潮騒の音。
延々と、滔々と、鼓膜をねぶる。 此処に来てから一度も途切れなかった鬱陶しい雑音だ。
……これが、ひどく気持ち悪い。
眉根を寄せて苛立ちを面に出すほど、気持ちが悪い。 吐き気を催してしまう。
しかも延々と繰り返す音は、存在する筈のない意思を持っているかの如く、誘うように振る舞いはじめるのだ。
引いて寄せて、拡大と縮小を重ね、言葉に類似した規則性を表す。
ざざぁ、ざざぁざざぁ、ざざぁ。 耳を塞いでも指の隙間をすり抜けて、頭を苛む。
どうあっても聞き続けるしかないなんて、ひどい拷問だ。
やがて、未熟な嫌悪感が掻き立てられて限界に至るまで──さほど大した時間はかからなかった。
「……っ」
ため息を一つ。 苛立ちで二つ。
右腕の拘束から音もなく抜け出し、上体を起こす。
そして目を覚まさせないようミホノブルボンの頭を持ち上げ、トウカイテイオーの腹に乗せる。 トウカイテイオー自身は近くに進出していたサイレンススズカにしがみつかせておく。 ちょうど都合がよかった。
それから二人の寝息に変調が無いことを確認して、ゆっくりと立ち上がった。
衣擦れの音に気付かれた様子はない。
今この部屋で目を覚ましているのは、やはりファインドフィートだけだった。
『ひいお婆ちゃん』ですら部屋の隅の方で丸くなって眠っている。
……幽霊なのに変だな、と思わなくもない。
あるいは、真っ当な生き物でなくとも眠る機能だけは共通するのか。
その理論であればファインドフィートの事もまとめて説明できるから、多少の筋は通っているように錯覚できる。
……そもそも『ひいお婆ちゃん』が幽霊ではない、という可能性も残っているから、この考察に意味はないのだが。
「……どうしてこうも、寝相が悪いひとが多いのやら……」
抜き足、差し足、忍び足。
眠る少女達を踏まないよう気をつけながら、間をすり抜け外を目指す。
襖を開けて、廊下にするりと這い出して。
白い尾を引きながら、すり足で外を目指す。
そうして、広間からひとりが消えた。
誰かに知られることもなく、幽霊のように無音で消えた。
あとに残ったのは扇風機の音、鈴虫の鳴き声、そして多くの寝息だけ。
他には何もない。 普遍的な夏の夜がそこにあった。
だから潮騒の音なんて、そもそも存在しなかったのだ。
きっと、最初から。
昔から、藁を掴んで溺れる事だけは得意だった。