【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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61話

 

 "予想外のこともありましたが、よく跳ね除けてくれました"。

 『太陽』の女神さまがクスクスと笑います。

 "もうそろそろ障害もなくなる頃合いかしら"。

 『王冠』の女神さまが残りのリソースと突き合わせて悩んでいます。

 

 もちろん、女神さまは走った軌跡を顧みません。

 その軌跡が生み出す波紋も、また同じく。

 

 


 

 

 ずっと昔のことだ。

 電気がヒトの手に降りてくるよりも前。

 蒸気による機械化の可能性が示されるよりも前。 世界周航により、人々が急速に繋がり始めた頃。

 

 中東(アラブ)の辺鄙な片田舎に、ひとりの芦毛の女がいた。

 祖先に肖った名前を与えられただけの、どこにでも居る女だった。

 

 かといって、別に無個性だった訳では無い。

 喋り方がやや堅苦しく、融通の利かない性格。

 地を駆けることが好きで、干した藁の香りが好みで、砂嵐が嫌い。

 そんな彼女の自慢といえば、他の同胞よりも一等丈夫な身体を持っていた事だった。

 どれもこれも個を象徴する要素としては立派なものだ。 ……人並み程度には。

 

 そして人並みであるが故に、女の一生に特筆すべき点は殆どなかった。

 ただ、産まれて。 身の丈からちょっとはみ出た夢を見て、必死に追いかけて。

 程々の挫折と、身の丈にあった成功を収める。

 やがて生まれ育った地を離れて海を渡り、恋した相手と番になって子を育み、独り立ちする子を見送る。

 女の一生を簡潔に表せば、ただそれだけの物だった。 程々に劇的で、程々に凡庸。

 それら全てをひっくるめて、普通の人生だった。

 

 けれど、そんな普通の人生にもほんの少しの特別はあった。

 たとえば、女の娘達がレースで好成績を収め続けていたこと。 故に十分──視点によっては、特筆すべき要素とも言えるかもしれない。

 もっと言えば娘達から拡がった血統は後世まで続く物となった。

 だから未来の(すえ)からしてみれば、あるいは価値のある人生だったのだろうか。

 ……ただ、それは娘達の功績であって、女自身はさほど関係ない物だ。

 やはり女は、あくまでも優秀止まりの存在だった。

 

 

 だから、その女が紛いなりにも『海』の女神として振る舞えていたのは、ある種のバグのようなものでしかない。

 

 三女神信仰に習合された始祖の一として、であっても、あまりにも器が足りていない。

 いくら祖先に似ていても、あくまで芦毛の祖の分岐先に過ぎず、結局別の存在だ。

 故に女──『海』の女■が振る舞えるのは、あくまでも三女神の『海』を構成する一要素としての姿のみ。 あくまでも一時だけ表に出ている断片だ。

 

 故に、大層な力なんて存在しない。 深い叡智もなく、ヒトを惹き付けるカリスマもない。

 元が祖霊でしかない女は、故に零落してしまえばあっという間。

 僅かな人間性を獲得した(思い出した)としても、力がなければ意味などない。

 遅すぎたのだ、結局。

 

 

「本当に?」

 

 打てる手などない。

 全て手遅れだ。 決断を先送りにしすぎた。 決断するべきだと、決断できなかった。 致命的だ。

 その女は諦めを滲ませる口振りで、己の(すえ)に語りかけた。

 

「本当に?」

 

 破綻していた。 最初から破綻していた。

 義務感故に手を伸ばそうとしていたけれど、それでは何も掴めないのだ。

 (すえ)の部屋の片隅に座り込みながら、半透明の脚を抱え、唇を薄く歪ませる。

 

 見よ、この有様を。

 一時の全能感と、身の丈から外れた視座を得た先を。

 所詮は亡霊。 あくまでその場しのぎの代用品。 不具合で一時的に自我を獲得しただけの愚者だ。

 しかも今となっては、肉を持つ子とさほど変わらぬ無力な存在である。

 そんな己がいまさら何かを選ぶなど、あまりにも非合理的すぎると、部屋の主に突き返した。

 

 

「……じゃあお前はそーやってビビリ散らかしてるだけでいいのかよ。

 アタシらみたいにハタチも生きてないガキに良いように言われてよ、そんなので満足してんだな?」

 

 満足。 否、そんな事はありえない。

 少しでも満たされていたのなら、きっと何かを選ぶことは出来た筈だ。

 けれどもその本音は何故か言い返せず、色もなく見下ろしてくる瞳を見返して、ふつと視線を切る。

 

「まだあんだろ、何か」

 

 選びたくない。 それは事実だ。 失敗が恐ろしいから、選びたくない。

 ……けれど、選ばないことを選ぶには、少しばかり近くなりすぎた。

 今の世を見て、ヒトを学んで、非情を疎む感性を欠片程度にでも持ち合わせてしまったから、不選択を貫くのも叶わない。

 

「なぁ、吐けよ。 ご先祖様なんだろ、オメー。 ちったぁ威厳見せろよ、なぁ」

 

 では、もしも選んだとしたらどうするのか。

 選んで、結果が選ばなかった場合よりも悪いものだったら? 一体どのようにして責任を取れば良い。

 償う方法すらありはしないのに、一体どうやって。

 

「……ひとつだけ、ある」

 

 その責任を負うのが、これ以上なく恐ろしい。

 ヒトひとりの命なんてどうしようもなく重すぎて、背負えない。 背負いたくなかった。

 

 ……だというのに、すらりと言葉が這い出てくる。

 いっそ当の女でさえも不思議に思ってしまうほど、中々出なかった言葉が急速に輪郭を帯びて。

 乾いた唇がパキリと亀裂を生んで、薄皮が剥けてしまった。

 

「もう一度、()()()()()、死なせてやれ」

 

 ああ、本当に。

 

 

 ◆

 

 

 二回。

 それは京都大賞典で目覚まし時計が鳴った(コンティニューした)回数だ。

 そうまでして勝ちを掴んだ京都大賞典は、名の通り京の地で開かれるG2のレースである。

 所謂トライアルレースに分類されるもので、上位成績を収めた者に天皇賞(秋の盾)への優先出走権が与えられる。

 

 とはいえあくまでも()()出走権であって、出走そのものに必須のレースという訳ではない。

 トライアルレースで一着を取らずとも、レーティング順位の上位五名以内に入っていれば問題ない。

 そして幸いにも、ファインドフィートは後者の条件を既にクリアしていた。

 

「つまり、別に勝ち切らずとも良いレースだった。 勝つに越したことがないのは確かだが……あくまで調整目的だからな。 体に無理をさせるほどでもない」

 

 男は手元のタブレットから顔を上げて、くたびれた声で少女に呼びかけた。

 自我がない人形の割にはもっともらしい感情を面と舌に貼り付けて、やれここの疲労がひどいだの、脚の筋が炎症を起こしているだの、理論立てて指摘を並べる。

 

 対し、ソファーに寝っ転がっていた少女に応えた様子はない。

 確かに疲れた、などと小学生レベルの感想を零しているぐらいだ。 中身の年齢を思えば妥当ではあるけれど、良い姿勢とは言い難い。

 

「良いか? 一度折れてしまっている以上、"多分この程度なら大丈夫だろう"は通用しない。 身体の不調は常に疑い続けたほうがいい」

「ええ……まぁ、そうですね。 トレーナー(お父さん)のおっしゃる通りかと」

「……分かったのなら今日と明日は休みする。 休み明けで無理をして、また怪我をしたら笑えない」

「…………はい、ごめんなさい」

 

 人形にしては随分と熱の籠もった訴追である。

 真摯に、偽りなく、正当性のみで弁舌を振るう。

 

 ……とはいえ、ファインドフィートにだって多少の言い分はあるのだ。

 以前とは違って暖房器具の恩恵を受ける部屋の中央で、少女は

 

「確かにトレーナー(お父さん)の言っている事は正しいです。 そこは認めます。

 ですが……多少の無理はしたほうが良い慣らしになるのは間違いないかと。 実際、レース前よりも今のほうが明らかに身体のキレが良くなりましたし、位置取りだってG1でも十分動けるぐらいには整いました。

 トレーナー(お父さん)にしてみればそこもトレーニングで補え、という話なのかも知れませんが……」

 

 ()()的には、間違いなかったと言える。

 

 なにせ、G1に比べるとまだやさしい相手が多い。 しかし絶対に勝てる相手かと言えば、そんな事はない。

 本調子のファインドフィートでも普通に負け得る。

 つまり相応のプレッシャーを味わいながらレース勘を取り戻すには、実にお誂え向きの舞台であった。

 G2で慣らした上での天皇賞であれば、着実にトレーニングだけを積み重ねた先よりも最終的なやり直し回数は減るかもしれない。

 綿密な計算などない感覚上での想像であれど、自信はそれなりにある見立てだった。

 

「それに……期待に応える事も、出来ました。 だから、これで良かったのです」

 

 だから、概ね満足している。

 片目の失明という公表を経ても尚さほど衰えなかった人気。

 少女はそれに応えて──やり直しの上に成り立つものであっても、確かに勝利を簒奪出来たのだから、十分上等だ。

 

 ……それに、本来は一回きりのチャンスだった。 そして、そのチャンスを最初に掴んだ"誰か"がいた筈なのだ。

 その"誰か"を押しのけて得た結果なのだから、これを最適解ではないなどと口走るのはとても出来なかった。

 

 もちろん、思うことがないと言えば嘘になる。

 実情がどうであれ、死者が生者の脚を引っ張っていることに変わりはないのだ。

 しかし少女は、この罪悪を贖う術を、裁きの果て以外に知らなかった。

 痛み、嘆いて、別れて。 私人としてのファインドフィートは、精一杯苦しみながら果てればいいと、心の底から信じていた。 最後に何を齎すのか、後の事から目を逸らして。

 その姿は少女が嫌う者によく似ていて、ひどく愚かしい。

 

「……なぁ、大丈夫なのか? 調子が悪いなら今日はもう帰って休んだ方がいい」

「ん……ああ、いえ。 調子は……まぁ、そんなに悪くないです。 もう少し次に向けたプランを今のうちに──」

「そんなに、ということは多少は悪いんだな。 じゃあダメだ」

「……。 ……揚げ足取りはカッコわるいですよ」

「格好悪くても結構。 素直に言わないキミが悪い」

 

 これで本当に人形なのか。 ファインドフィートは訝しんだ。

 自我が無いにしてはやけに頭が回りすぎる。 いや、頭の回転は別に関係ないのか? 

 もうよく分からなくなってしまった。

 

「……トレーナー(お父さん)、ちょっと屈んでください」

「あぁ、分かった」

 

 人形のくせに一応の主人を軽々しく扱うし、過去の行動に準じた反射行動の積み重ねでしかない筈なのに的確にファインドフィートの頭を押さえつけてくる。

 あるいは、心理を忠実に再現したからこその結果がこれなのか。

 もしそうであれば、一体自我とは何なのか。

 今までは振る舞いの方向性を柔軟に定義するのが自我だと思っていたけれど、こうも想定外の対応ばかりされると自我そのものの疑問さえ湧いてくる。 もはや哲学の領域だ。

 

トレーナー(お父さん)、頭を撫でてください」

「あぁ」

「……別に、言うことを聞かない訳じゃないんですよね……。 じゃあどうして?」

 

 やさしい手付きだ。

 頭に触れる感触に、じっと目を細めて、もう一度疑問を舌に乗せる。 もう既に、半分以上は形骸化した疑問だった。

 どうして、などと口走った所で何も生まない。 "ただそうあるもの"として受け取っておけば十分で、それ以上は必要ないし、それ以下に貶める意味も存在しない。

 もし仮に答えがあっても、今の少女には頭を撫でる感覚だけが真実だった。

 

「──じゃあ、今日はもう帰れ。 身体を動かすのはストレッチ程度に留めておくように」

「決定事項ですか? トレーナー(お父さん)、ずるいですよ」

「まだ知らなかったのか? 大人ってのは基本ずるい生き物だぞ」

 

 ちらりと窓の外を見る。 現時刻は17時前で、陽が傾き始めている。

 遠くに浮かぶ飛行機雲にも朱色が混ざって、日常の景色にほんの僅かな彩りを与えていた。

 

「日が落ちるのも早くなってきた。 だから暗くなる前に、な」

「……ええ、そうですね」

 

 けれどきっと、彩りとして楽しめるのは今だけなのだ。

 いつかは見慣れた物になって、単なる日常の景色に成り下がる。

 そう思ってもう一度見てみれば、ほんの少し特別なものにも見えてくる。

 

「……今日出来ることは全部やり終えていますし、続きは明後日にしましょうか」

「それがいい。 最近は気温の高低差も激しいからな、何かあったらすぐに教えてくれ」

「ええ、トレーナー(お父さん)も」

 

 だからこそ、そのほんの少しの特別を大切にする。

 空を見上げながら道を歩いて、花壇と共に朱色に混じる。

 そうして思うのは、帰り着いたあとのことだった。

 日記を書いて、軽く勉強をして、少し遅れて帰ってくるだろう先輩を出迎えて、一緒にご飯を食べに行こう。 そんな代わり映えのない、ただの予定。

 

 だから与えられる特別とは、ほんの少しだけでいいものだ。

 毎日毎日、代わり映えのない日々に、ちょっぴりの特別を積み重ねていく。

 少しずつ、少しずつ。 こつこつと、ゆっくりと。

 脆く儚いそれこそを、少女は日常と呼んだ。

 

 

 ◆

 

 

 こつり。 さらさら。

 白い電灯の下、ペン先を紙面に走らせる。

 机を前にした少女が相対するのは学生らしく分厚い教科書とノート、ではなく。

 それらをまとめて横において、代わりに青い日記帳につらつらと文字を書き込んでいた。

 

 この日記帳も、今にして思えば随分長いこと使ってきたものだ。

 元々かなりの量を書き込める、いわゆる五年日記と呼ばれる物だったが、それでも残りのページはかなり少ない。 今年いっぱい使えば、最後に1ページ残るか否かという残量。

 そうと思えば、ほんのりとした感慨も浮かんでくる。

 事故の前の数年間と、入学してからの三年間。 その間にあった苦楽を共にして来たのがこの日記帳である。

 人生の集大成、と表すには少々首を傾げてしまう。

 が、人生を構成する一片(ひとひら)、と言い換えるとストンと腑に落ちる程度に大きい存在だった。

 

 日記帳の後ろのページへ書くのは、いつもその日にあったこと。

 たとえば、朝起きた時にパジャマのボタンが取れてしまった、とか。

 クラスメイトの子(アグネスデジタル)がお腹を空かせて倒れていたからカフェテリアに運んであげた、とか。

 あとは『ひいお婆ちゃん』が猫を追いかけている場面を見つけたり、トウカイテイオーの蹄鉄を点検してあげたり。

 そういう大した起伏のない、しかし宝物のような出来事を、昨日も今日も明日も記録する。

 せめて証を残すために祈りを込めて、温度をそのまま書き記す。

 記憶ではいともたやすく消えてしまうけれど、文字は別だ。 文字は時間も距離も超えてくれる、人類のもっとも偉大な発明品のひとつだった。

 

 

「──あぁ、しまった。 もうこんな時間ですか」

 

 しかし、だからといって全てを記すのは当然不可能。

 紙のスペースが無いのもあるし、時間がないのも理由に挙げられる。

 

 時計に曰く、現時刻は18時前。 じきにミホノブルボンが帰ってくる時間だった。

 尻尾をぴんと上げて、いそいそと日記を畳む。

 それから赤裸々に綴った本音を他の誰にも見られないように机横の引き出しに放り込んで、鍵を閉めた。 もっとも、誰にも見られないように、なんて今更かも知れないが。

 

「では……まず、数学からですね」

 

 ようやく教科書を開いて、ノートの白に軌跡の黒を刻む。

 ただ、さほど意味のない物だ。 学校での勉強が将来役に立つとは言うけれど、その将来自体が存在しないのだからどうしようもない。

 せめてテストで赤点を取らない程度に努力はするけれど、やはり少女は必要以上を望むことが出来なかった。

 

 それに、負ける度にこういう細やかな知識は時折失われていく。

 数学の式は虫食いで、国語の文は粗雑になる。 家庭科の針仕事だって何時になっても中々慣れないし、美術センスは壊滅的なまま。

 あったかもしれない成長が気まぐれに無かったことになるのは、少女のやる気を根こそぎ奪っていくには十分だった。

 

 

 そして、気怠げに勉学と向き合ってからほんの数分後。

 はやくも飽き始めていたファインドフィートの耳を、聞き慣れた音が刺激した。 ミホノブルボンの足音だった。

 

 ピンと立つ耳をドアに向けて──さり気ない様を装うために、再度教科書に視線を落とす。

 少なくとも、今の少女にも、だらけきった姿を見せたくないと思える程の羞恥心はあった。

 音もなくドアが開く。 普段通りの装いをした栗毛が姿を表した。

 トレーニングの後に汗を流してきたのか、石鹸の淡い香りがファインドフィートの鼻を擽った。

 

「……おかえりなさい、ブルボン先輩」

「はい、ただいま戻りました。 フィートさんは……勉強中ですか」

「ええ……もうすぐ小テストがあるらしくて」

 

 荷物を置く様を流し見て、今日もしっかり追い込めたのだなぁ、と何処からの目線とも知れぬ感想をこぼす。

 手や脚の動き、重心の揺らぎ、呼吸の深さ。

 そういうパラメータを何となしに意識してみれば、存外分かりやすいのだ。 その頑丈な身体が、少しだけ羨ましくなる。

 

「補習になったら色々と面倒ですからね。 はやめに合格ラインまで勉強しておいた方が後々有利でしょう?」

「同意します。 学業を疎かにしてしまうと結果的にマイナスになるイベントが多くなるかと」

 

 "では、分からない所があれば是非質問してください"、と先輩らしい助け舟を用意されて。

 少女は、ちょっとだけ困ったふうに眉を垂らした。

 逃げ道を自分自身で塞いでしまったことに今さら気付いてしまったのだ。

 

 ……ともかく、今日一日は真面目に勉強に取り組まなければいけない。

 やっぱり嘘です、やる気は欠片もないので走りに行きたいです、なんて、言い出せる筈もなかった。

 

 ひとつ、歯の間にため息を通す。

 秋になって乾燥し始めた唇をちろりと舐めて、ペンを軽く握りしめた。

 まずは数学から。 心の内で宣言して、もう一度のろのろと緩慢な動きで取り掛かり始めた。

 

 

「……フィートさん。 少々よろしいでしょうか」

「はい……?」

 

 ……が、横から口を挟まれて動きを止める。

 一体何事か、と視線を返してみれば、ミホノブルボンがカバンから取り出した雑誌を机に広げてくる。

 何処となく見覚えがあるような気もする、カラフルなファッション誌だった。

 

「ジョーダンさん……トーセンジョーダンさんからお借りしたものです。 ここ最近の流行をまとめた物ですが──」

 

 一度言葉を区切って、ぱらぱらとページを捲る。

 色とりどりのおしゃれな服や靴が表れては消え、少女達の記憶に微かな痕跡だけを残していく。

 

「……ここです。 この42ページを見てください」

「えぇ……と、髪型特集、ですか? 皆さん随分と手が込んだ髪型をしていますね……。

 あと……これはゴールドシップさん? いつも頭につけてる飾りが無いから一瞬誰かと思いました」

「ええ、おっしゃる通りです」

 

 そして、人差し指で芦毛の髪を指し示す。

 その髪型はいわゆるハーフアップと呼ばれる物。 日頃()()()()彼女には似合わぬクールな表情を浮かべていて、頭の飾り以前の部分でも判別が付き辛い。

 どこぞの名家のご令嬢にも見える気品は、当人を人柄を知っているほど頭に混乱を齎してくる。

 

「髪型を変えればそれだけでも印象が変わることはご理解いただけたかと」

「まぁ……写真で見ると尚更、ですね」

 

 ミホノブルボンは、次にファインドフィートの髪を見た。

 

「つまり、フィートさんの髪型を変えてみたいです」

 

 何てことはない。 スキンシップの動機付けだ。

 もちろん髪型云々については偽りではないけれど、本音は結局そこにある。

 

 早い話、ほんの少しでも夢以外に視線を向けさせようとする、涙ぐましい努力だった。

 空へ手を伸ばすだけではなく、他の世界も見て。

 あるいは、その先に縋る先を見つけて欲しい、なんて。 淡い願望だ。

 少しずつ少しずつ積み重ねるために、いつ崩されるとも知れぬ意思を指に乗せる。

 まるで賽の河原のように、一途に。

 

「まぁ……別に構いはしませんが」

「……! では早速失礼して……」

 

 が、本来なら阻止するべきだろう女達はこれを見逃した。 どうでも良かったのだ。

 あとは勝つだけ。 我が子は揺らがぬ芯を持っていると確信した故に、余裕のままにクスクス笑う。

 ミホノブルボンという少女は今までで()()()()道を閉ざした人物ではあるけれど、それも全く気にならない。

 愛ゆえの行いなら仕方がないなと、方向性を違えた共感を秘めて、無機質な笑みを深めるだけだ。

 もはや己達の身体が際限なく脆くなっている事も、まるで気にならなかった。

 

 

 そんな部外者の心の内は、当然ながら少女達は知る由もない。

 ミホノブルボンが雑誌を脇において、少女の背後に回って髪に触れる。 真っ白な髪だ。 もはや白毛と変わらない。

 僅かにぱさついた一房を手にとって、一度奥歯を噛んで。

 ゆっくりと丁寧に、十の指を白に沈めた。

 

「……フィートさん、少し冬毛になっていますね。

 最近は食事量も少し減っている様子ですし、新陳代謝が低下しているのでは?」

「言われてみれば……。 必要な栄養素は摂取している筈なんですけどね」

 

 普段よりも柔らかい毛に包まれた耳を少し揺らしながら、訝しむように首をかしげる。

 新陳代謝の低下。 寒さに対する反応。 日照時間の減少。 理由としてありえるのはそれらの三つぐらいだ。

 しかし、そう考え込む必要はない。

 もし新陳代謝の低下が原因であればコンディションを意識する必要はあるだろうが、その程度。 結果的に勝てれば何でも良かった。

 

 髪と耳を弄られながらもそんな結論を弾き出して、意識の外に放り投げて。

 本来の目的通り、三度目の正直として教科書に意識を向けた。

 ペンを握って、数式を脳味噌に刻み込む。 幸いにも覚えるだけなら得意で、梃子摺るところは特に無かった。

 細い炭の線が止めどなく紙面を滑り、カリカリと先端から削れる音を響かせる。

 

 

「……出来ました。 どうぞ、手鏡です。

 ……いかがでしょう、フィートさん」

「ん……。 他の方がやっているのはよく見かけましたが、わたし自身がこういう華やかな髪型をしているのは……なんというか、不思議な感じがしますね」

 

 ほぅ、と感心のため息をこぼす。

 翳された手鏡をしげしげと見つめ、横髪の一房をつまみ上げた。

 ファインドフィートは普段も最低限の体裁は整えるが、それ以上は然程気にしない(たち)だった。

 そんな彼女であっても多少は興味を惹かれるのか、頭を左右に捻って髪を揺らしていた。

 

 物珍しさ、というのもある。

 普段見慣れた姿でも、髪型一つ変えるだけでかなり印象が変わるとはついさっき聞いた話だ。

 けれどそれを身を以て体験すると、中々不思議な心地になってしまった。

 首を軽く回転させて側頭部を覗いてみると、キレイに編み込まれた白が見える。 ただの毛束を弄っただけなのに気品が漂っていると錯覚できる。 不思議だった。

 

「折角です。 他の髪型も試してみませんか?」

「……ええ、良いですよ。 わたしも少し、楽しくなってきました」

 

 それに、『姉』の違う側面を見つけることにも繋がるのだ。 少女に断る理由は何もなかった。

 

 髪を結わえて、鏡を見て、語彙力に乏しい感想を返して、ミホノブルボンが満足気に尻尾を振る。

 それから一度髪を解いて、また別の髪型を結わえ始める。 その間に教科書と向かい合ってちまちまと勉強を進めて行く。 身体だけでなく、心も休まる余暇の過ごし方だった。

 趣味の尽くを喪失した今となっては、尚更に。

 

 そんなループを繰り返すうちに、いつしか髪型に似合う服装に話が飛躍する。

 終いには休養日の予定埋め(服屋巡り)まで話が波及して、相槌を打つ度に勝手にスケジュールが埋まっていった。

 ……もちろん、嫌ではない。

 休養日の過ごし方に大層な決まりは特にないのだ。

 精々過度なトレーニングを禁止して、食事をしっかりと管理する程度。

 たとえ遊び歩いたとしても、誰かに謗りを受ける事はありえないだろう。

 

 休養日の過ごし方をそこまで考えて。

 スケジュール帳を引っ張り出しながら、ふと思い出した。

 ついさっきまで触っていた青い日記帳と、延長線上にあるもの。

 三年目の終わりを見据えたひとつの思いつき。

 

「そういえばブルボン先輩。 山登りにご興味はありませんか?」

「山登り、ですか? はい、プライベートでも偶に行くことはありましたが……」

 

 スケジュール帳を開く。

 背中の向こうで、身動ぎする音を聞いた。

 遅れて自身が言葉足らずであった事に気づき、少しだけ上擦った声を上げる。 思っていたよりも小さな声量だった。

 

「あぁ、えっと……。

 その、もう少し後……天皇賞が終わった後ぐらいに、ついてきて欲しいところがあるんです。 そこが山の上で、あんまり楽しいところでも無いですけれど……」

 

 ただし、見所は特に無い。 ただの山だ。

 強いて言えば頂上の広場が綺麗で、静寂に浸れる空間である事ぐらい。

 良く言えばのんびり呆けるには丁度よく、悪く言えば味気ない山。

 しかし少女には、一等思い入れのある土地だった。

 

「さほど長い時間をかけるつもりはありません。 ただ……一度だけ、あなたに来て欲しいんです」

 

 ……本当は。

 山のことは、誰にも伝えないつもりだった。

 けれど誰にも知られないままと終わるのかと思えば、少しだけ胸の中がもやもやしてしまう。

 あるいは、訪ねてくる人がいなくなる未来が恐ろしいのかも知れない。

 

 だから、誰かひとりには教えたくて。

 その相手を考えると、自ずと、この相対する少女の顔が浮かんできた。

 『姉』以外では一番多くの時間を共有したからだろうか。

 

「……はい、承知しました。 フィートさんが、あなたが望むのであれば」

「ありがとう、ございます。 ……安心しました」

 

 心底から絞り出した囁きをこぼして、一度目を閉じる。

 そして小さく細い呟きを紙に落とした。

 "ああ、本当に"。 吐息を多分に含む響きは、少年のそれに酷似していた。

 

 その安心とは、何を理由とする物なのか。

 拒絶されなかったから、なのか。 自分を尊重してくれたから、なのか。

 あるいは、また別の、捻くれた願いの表れか。

 他人(だれか)に借りた上辺だけの言葉では、どうにも言い表せそうになかった。

 

 


 

 

 墓の下に還るまで、残りはあと冠三つ。

 

 

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