【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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62話

 

 小さな選択の積み重ね。 風よりも軽い吐息の塊。

 これは、誰かに届けるべきなのだろうか。

 足元に転がったモノを見下ろしながら、小首をかしげる。

 届けるべきだろうか。 届けないべきだろうか。

 

 悩めど悩めど、二択の片方を捨てられない。

 けれど。 "べき"の是非は分からなくとも、少女はこれを届けたいと思った。 残したいと思った。

 

 だから女神さまは顧みなかった波紋のひとひらを、少女は拾い上げた。

 紛うことなきにんげんとして、少女は。

 

 


 

 

 朝がくる。 夜になる。

 黄昏時(夕暮れ)から彼は誰時(夜明け)に至るまで、太陽と月が互いを追いかける。

 

 この一サイクルを一日として、七サイクルの繰り返しを一週間とする。 これが、存外早いのだ。

 いつかの偉人は、時の流れを矢が飛ぶ速さにも(たと)えたけれど、まさしくその通り。 あっという間だった。

 蝉の声も消えて久しい。 木々の緑が色褪せたのも、もうしばらく前の事だ。

 夏にみた青い海の記憶もまた、同じように褪せて、輪郭すら日を追うごとに曖昧になっていく。

 

 秋になった。

 

「今年も残り三ヶ月……か。 そろそろ衣替え、ですね」

 

 まだ薄手の服を着ているけれど、限界は近い。 それに耳や尻尾は冬毛だというのに、衣服だけ薄手というのは、少しばかりアンバランスだ。

 そう、呟きを机の上に転がす。 誰にも受け取られず、ころりと転がりながら溶けていく。

 

「……もう、残り三ヶ月、なんですね」

 

 今年の残り三ヶ月。 今生の残り三ヶ月。

 どちらも正しい表現だ。 二つは等号で結ばれ、つり合っている。

 それらを、同時に舌の上に乗せた。

 しかし二枚舌には成れない少女は、うまく噛み分けることも出来ず、ひとり椅子に座り、鬱屈と腐るばかり。

 

 "めんどうだなぁ"と、上体を反らす。 気怠い本音を天井に放る。 重力に引かれて返ってくる。

 それを受け取ることはせず、顔をすり抜けた言葉を拾いもせず。

 もう一度、"めんどうだなぁ"と呟いた。

 後ろ髪を背中と椅子とで挟んでしまったから、少しの痛みを堪えて。

 

 何がめんどうなのか。 服を替えないといけないからか。 それはそうだ。

 もっと厳密に言えば、残り三ヶ月のために服を替えないといけないから、である。

 少女は、そういう変な細かいところでは面倒臭がる質だった。

 

 けれども、何もしない訳にはいかない。

 本当に、時間が過ぎるのはあっという間なのだ。

 やるべき事をやっておかなければ、すぐに時間切れになってしまう。

 部屋の隅に掛けられた時計も、チックタックと針を鳴らしてファインドフィートの耳を責め立てていた。

 

 チックタック、チックタック。 大変だ、大変だ、余裕はないぞ! 

 ……なんて、そんな陳腐なアフレコを妄想してしまう程に、真に迫った針の音が。

 

「……はぁ。 これを終わらせたら服屋にでも行きますか。

 たしか……そう、最近芦毛に人気のブランドがあったはずです。 ゴールドシップさんやマックイーンさんを誘って行きましょう」

 

 それがいい。 それがいい。

 自分に言い聞かせてやる気を奮い立たせる。

 足を伸ばして、つま先までピンと立てて、胸を大きく張って、身体をほぐす。

 最低限、ペンを持って紙に向き合える程度には整った。

 

「早く済ませましょう」

 

 そして手に取ったのは、机の上にあるいくつかの封筒。 紙が擦れて、反抗的な音を上げた。

 茶封筒、黄色の封筒、レターパック。

 個人的な手紙や、どこぞの業者に向けた依頼書、資産の権利書だったりと内容は様々だ。

 これらの処理を、多少なりとも余裕があるうちに済ませておきたかった。

 

 今はまだ視界は半分だけでも残されているし、色覚だって正常だ。 文字も読める。

 けれどずっと保持されるかといえば、そんな保証は何処にもない。

 だから、今だ。

 すぐ傍らまで擦り寄ってきた未来を受け入れて、満ち足りている今だからこそ、ペンを握れる。 折れるほどの力みはなく、すり抜けるほどの弱さもない。 今だった。

 

「まずは……家の処分から、ですね。 日記を見た限りは時々掃除しに帰っている……らしいですけど、来年からはそうもいきませんし。 売るか、譲るか……さて」

 

 もし親戚がいたなら譲り渡すのも良かったと、透明な呟きを漏らす。

 立地はそんなに悪くないし、設備も建物自体もまだまだ綺麗だ。

 双子が産まれたのとほぼ同時期に建てられた家だから、築年数も比較的浅い。

 四人が住んでいたのは十年。 一人が暮らしたのが三年。 一人が出ていって二年。 合わせて十五年。

 総合的にみて悪くない家である事は間違いない。

 

 それを多少でも縁のある人物に譲り渡せたら良かった。

 ……が、生憎と、その縁のある人物が居なかった。

 ファインドフィートの記憶には、どこにも。

 

 ひょっとすると、探せばいるかもしれない、と思ったことはある。

 祖父や祖母、叔父や叔母、従兄弟、従姉妹。

 そういう血縁は、実はファインドフィートが思い出せないだけで世界の何処かに残されているのではないかと期待した。 だから探した。

 けれどもそんな彼、彼女等に繋がる導線は、結局今の今まで見つからないままだった。

 どこを訪ねても、誰を訪ねても、いつの間にか振り出しに戻っている。 何も掴めない。

 いつしか、探すことを諦めてしまっていた。

 

 それに、法と人に定められた後見人が血縁者ではない──己の主治医になった時点で、もう出会うことは無いのだろうと納得している。

 諦めのように後ろ向きな感情ではなく、きちんと飲み干して、消化していた。

 

「……でもあの人に全部任せるのは、流石に可哀想ですから。 今だって、たかが元患者なのにこんなにも手を煩わせて──」

 

 続く言葉を歯で千切る。 舌を噛む感触にも似た、生理的な不快感が歯の裏をねぶる。

 

 壊れてしまった人を想った。 隈を深く刻んだ、死相の浮かぶ顔を思った。

 これ以上追い詰めるのは、いくらなんでも憚られると、口を一文字に固く結ぶ。

 

 ……とはいえ、ファインドフィートに出来るのはあくまでも可能な範囲で、である。 全部を済ませるのは、不本意ながら不可能だ。

 本当に全てを処理したくば生前葬をあげなければならない。

 

 つまり、多少は忙しくさせてしまう。 時折手を止めることは出来るけど、息を抜けない程度には後見人達の時間を奪っていく。

 けれど多忙とは、時には人の心を救う妙薬になり得るものだ。 下手な薬よりも、よほど。

 ならばこれぐらいは許容すべきだろうと、許容してほしいと、薄っぺらい理由を紙のうえに貼り付けて、ペン先を滑らせた。 黒い線が、僅かに震えながら蛇行している。

 

「だから、これも。 あれも。 それも。 全部意向を示すだけ。 手筈を多少整えておくだけ。 それでいい、はず。

 そう、ですよね……」

 

 茶色の封筒を開く。 中身は後見人向けの書類だ。

 昔から家にあるものを全部まとめて処分するために、そういう業者向けに依頼を出して欲しいと書いてある。

 どうせ大切なものは何も残っていない。 それらは全て自分の手で捨てるか、燃やした。

 今回もまた自分の手でサインを(したた)めて、指針を示す。

 

 黄色の封筒には、自分が保有している資産の全てを入れておく。

 権利書であったり、口座の情報であったり、全てだ。

 いくらかは迷惑料代わりにトレーナーの口座に放り込んだけれど、それでもまだまだ多い。

 両親から受け継いだ遺産もあったが大部分は少女自身の収入だ。

 それこそ孫の代まで養える程度の、相当に(おお)きい金がある。 使い道のない死に金だけれど。

 

 そして最後のレターパックに入れるのは、個人的な手紙で──否。

 この表現では正しくないな、と(かぶり)を振って、手紙と表しかけた己のこめかみを小突く。

 

「遺書ぐらいは、しっかり書かないといけないですよね。 せっかく、今回()ちゃんと用意できるんですから。

 ……こういうのを不幸中の幸いって言うんでしたっけ」

 もうしばらく後、今年を終えて、新しい年を迎えて二、三日経った頃合いに、みなに届けるために。

 真新しい厚紙の袋に、各々に向けた十数枚の封筒をいれて、のりづけして閉じる。 この空気は、きっと三ヶ月前の物になって届く。

 その空気は一体どんな顔に迎えられるのだろうかと、想像してみる。

 レターパックを手に取った時の顔、分配された封筒にペーパーナイフをさし込む顔、ぱっくり開いた封筒の中の便箋をみつけた時の顔。

 どの輪郭も酷くおぼろげで、歪んで、ぐちゃぐちゃに壊れている。 どうしても、顔のカタチに整えて想像することができなかった。

 

 ……しかたなく、程々の所で諦める。

 終わったあとの事を考えた所で、今の自分にできる事も、今の自分がしていい事も、どちらもそう多くないことを理解していた。

 だからひとり、終活マニュアルと、郵便物を引き出しの中に放り込んだ。

 次の出番はニヶ月と少し後。 日付指定で郵送依頼をする時だ。

 

 そして引き出しを閉じる、前。

 

 ふと、"ああ、そういえば忘れていました"と呟いて手を止めた。

 新しく書き始めた便箋に、ずっと窓際に鎮座しているアネモネの植木鉢の扱いを記しておく。

 

「誰に貰った物なのかも、どんな思いで受け取ったのかも、今のわたしには分かりません。 ……けど、誰かに繋がなくては」

 

 便箋を掴み、もうひとつを引き出しに放り込む。

 鬱屈と淀むため息と一緒に、暗がりの中にそっと隠した。

 

 

 ◆

 

 

 がこん。

 鉄のゲートが開く。

 動きの起こりの時点で身体を前に投げ出して、可能な限りロスをなくしたスタートダッシュを決める。

 軸にした右足で地面を押し、逆の左足で二歩を踏んだ。

 

 つまるところ、ゲート練習。

 屋内トレーニング施設の一角にある専用エリアに、ファインドフィートの姿はあった。

 何度か擦ったせいで赤くなった鼻の頭に保護テープを貼りながらも、こりずに練習を続ける。

 ゲートが開く。 飛び出す。 コンマ数秒早い。 ゲートが開く。 飛び出す。 呼吸が合わなかったせいで踏み込みが浅い。

 

 以前の出来を思えば散々な動きだったけれど、しかし先月に比べると遥かにいい仕上がりではあった。

 少なくとも本番で出遅れない程度には、そこそこ精密なスタートダッシュが出来る。

 加えて、先のG2でレース勘を大体取り戻しているのだ。

 何もゲート回りに拘らずとも、本番の天皇賞は上手くいくはずだ……と気楽に思い込もうにも、残念ながら不可能だった。

 

 粘着力の弱くなったテープを引き剥がして、小さく肩を丸める。

 課題は未だに盛り沢山。

 全ては消化できないのが明らかなほどで、背と肩にのしかかって小山を形成していた。

 

「ゲート訓練だと、これ以上の改善は見込めない気がしますね」

「……やはり、一ヶ月そこらじゃあ限界があるか」

「少なくとも以前みたいに毎回顔をぶつけることはなくなりましたし……まぁ、進歩はあったからよしとする、で良いんじゃないでしょうか」

「そうだな……」

 

 傍らで観察をしていたトレーナーへ、最低限の自信を込めて頷いて見せる。

 他にできることは、正常だった頃に積み重ねた経験と、また新しく積み上げた経験を上手い具合に擦り合わせて実践するぐらい。 それで何とかなる。 何とかするしか、ない。

 残りの時間はそう多くないのだから、適切に分配しなくては。

 

 首筋に伝う汗を手ぬぐいで拭いて、やや温度の高い息を吐き出した。

 その吐息が乾いた唇を撫でて、僅かに湿らせる。

 

 もう、秋だった。 乾いた空気と、冷たい温度が、ひとの言葉よりもなお雄弁に四季を語る。

 動きを止めればつま先が冷える程度には夏から遠く、しかし、動けば多少なりとも汗が滲む。

 夏からも、冬からも遠い、どっちつかずの季節だった。

 

「じゃあレース場に移動しますか? ブルボン先輩と崎川トレーナーもそろそろ向こうに到着する頃合いでしょうし……」

「ああ、そうだな……。 崎川、か」

「……トレーナー(お父さん)、いきますよ」

 

 骨張った男の顔は、肉人形には勿体ないほど生々しく、出来の良い嫌悪感を滲ませている。

 過去の情動の再現しかできない故に、これもきっと単なる焼き増しに過ぎない。

 何があったのだろう、と考えたことはある。

 けれど大人の世界はまだ遠く、故に少女は何も知らない無知を良しとした。 知る必要はなく、解決する方法もない。

 だから思うべきはひとつ。

 仲直りできる機会を数カ月先に遠ざけた事を、悔いるぐらいだ。

 

「ねぇ、トレーナー(お父さん)。 来年になったら、ちゃんと話し合ってくださいね。

 これは命令とかそういうのじゃなくて、ただの個人的なお願いです」

「……」

「生きていれば言葉をかわせる。 言葉をかわせるのなら、分かり合える。

 ……なんて、わたしが何も知らないから言えるのでしょうけど……でも、突き詰めればこういう物なんじゃないでしょうか」

 

 歩きだしてしばらく、すぐ真後ろの男に言葉を放る。

 返事はない。 吐息も、歩調も、さざ波一つ立たない。

 今の男の顔は、振り返らずとも分かった。

 のっぺりとした、色がなく、動きもない、無機質な表情をしているのだ。

 頬の骨の下にある浅い影が口の周りを固めて、蝋人形のように、冷たいひとになる。

 少女はその温度を知っていた。 身を以て、よくよく知っていた。

 

 別に、その振る舞いに悪意があるわけではないのだ。

 過去の再現という許された範疇にないから、何にも振る舞えないだけ。 何にもなれないだけ。 肉人形は前に進めないものだった。

 

 トレーニング施設を出て、丁度中天に座した太陽の真下に身体を晒す。

 空は晴れ、雲もなし。 風は弱くも強くもない。 過ごしやすい環境だ。

 手を伸ばせばジャージの袖口から覗く肌が日光を浴びて、じんわりとぬるい熱を伝えてくれる。

 未だに残る縫合痕も、光のお陰で目立たなくなっていた。

 

「……わたしの言葉は覚えていなくても良いんです。 ただ、せっかく言葉が通じるかもしれないのに遠ざけてばかり、なんて。 ……ちょっと、寂しいですから」

「分かっ、た」

「ふふ……これには、ちゃんと反応を返してくれるんですね」

 

 和解の道を目指して欲しい、という言葉に理解を示したのか。

 覚えていなくてもいい、という言葉に理解を示したのか。

 そのどちらが正なのか問おうにも、本当の彼は今も眠ったまま。

 故にファインドフィートと彼が本当の意味で分かり合う機会は、もうどこにもない。

 

 

 ◆

 

 

 空が青かった。 芝も青かった。

 字にしたら同じ青。 目にしたら違う青。

 今日の使用者はさほど多くないのか、はたまた広い芝との対比のせいなのか、深い静けさを感じさせる青だった。

 もし隅っこで喋っても、何処にも届かず消えてしまうに違いない。

 

 その青の端にあるこじんまりとした荷台に手荷物を置いて、入念なウォーミングアップを始める。 神経の繋がっていない心臓へ血を送り、幻痛を歯の根で噛み締め、徐々に炉心として機能させていく。

 視線の先では既にミホノブルボンが走っていた。 綺麗なフォームで、ブレもない。

 現役として走っている年数を考えればもうじき引退の道もチラつき始める頃合だけれど、今の彼女を見る限りでは、まだ遠い未来の話のように思えた。

 以前に骨を折った事がある、なんて、今の彼女を見たものには想像すらできないだろう。 ファインドフィートが目指す姿そのものである。

 

「準備ができたらウォームアップ……軽いジョギングから始めるぞ。 その後はミホノブルボンと併走だ」

「了解しました。 準備運動は五分で終わらせます」

「そんなに急ぐな。 十分はかけろ」

「……では、八分で」

「時間を値切ろうとするな。 とにかく十分だ、分かったな?」

「仕方ないですね……」

 

 伸展、収縮。 筋繊維と関節に熱を与える。

 左足が、ひどく疼いている。 一度折った部位が、冷たい空気を感じているせいなのか。 ジャージの布程度では冷気を完全に防ぐことはできないらしく、骨の芯が大げさな悲鳴で訴えようと、架空の喉笛を張り詰めさせている。

 今叫ぼうか、いいや走り出してから叫ぼうか。 それとも走り切ってから叫ぼうか。

 なんて、うずうずと、ずきずきと、骨の奥底で痺れというカタチを得て、厚顔無恥にも這いずり回っていた。

 これは俗に言う、古傷が痛む、という現象だ。

 踵で芝を蹴り飛ばすが、やはりやわな衝撃では拭いきれなかった。

 

「……ウォームアップ、いってきます」

「ああ、気を付けてな。 何か異常があればすぐ言うように」

 

 ふ、と息を吸い込む。

 けれど"はい"とも"いいえ"とも、何も返事を返さないまま背を向ける。

 そして常歩から駈歩(ハッキング)へ、徐々にリズムを変えていく。

 始めはじわじわゆっくりと、柔らかい足取りで芝を掴む。

 

 叶うなら、風に乗りたい、と思った。

 あるいは、風になりたい、でもいい。

 

 すぅっと風を切って。 ゆびさきから肘へ、肘から肩へ。

 冷たい空気が背中を流れ、尻尾を撫でるのだ。

 開いた口から喉を通り、肺を鋭く突き刺す。 握る先のない手のように、冷たく、軽い空気で。

 一歩を駆ける度に、地を蹴る衝撃で肺の中身が溢れだすように、風と一体になりたかった。

 

 けれども現実のファインドフィートは決して風になることはなく、あくまでも肉を持つひとつの命として、芝の上を駆けている。

 ふと空を見上げる。 羨望と祈りを込めて、一瞥をくれる。

 空の青と芝の青はやはり何処までも違うものでしかないのだと、無情に物語る現実が横たわっていた。

 

 

 ◆

 

 

 マンハッタンカフェは、その姿をぼんやりと眺めていた。

 まばたきも殆どせずに、白い少女の周りの空間へ、じぃっと焦点を合わせ続ける。

 いくら日が出ているとはいえ肌寒い事に変わりないだろうに。 レース場を一望できる観客席の最上段、淵の縁に座ったままで。

 

 秋風が時折に吹き、頬を撫で、黒い毛先を解す。

 乾燥した空気のせいで、少しパサついている。

 

「……元気になった、訳じゃないみたいだね。 あの子」

 

 そしてぽつりと、脈絡もなく呟いた。

 その一言は独り言に見えて、しかし、実際はすぐ隣に座る見えざる『お友達』に向けた物だ。

 言葉の尻を"みたいだね"と曖昧な表現で飾った割に、断定的な響きを含む音で、石のような硬さと冷たさがいくらか混入していた。

 

「雰囲気は柔らかくなったように見える。 前までの人を怖がる仕草だって、殆どない。 けど……」

『……単に、諦めただけに見える? それとも開き直ったように見える?』

「両方、かな」

 

 先んじて出された推察に、同意を返す。

 憂鬱だった。 とにかく、憂鬱だった。

 ざらつく言葉をざらつく舌で包んだせいなのか。 心の表面を撫でる自分の声音が、なんとなく不快に思えてしまう。

 

「どうして、こうなるんだろうね」

 

 いっとき瞼を下ろし、長く、深く、重い息を吐き出す。

 肺の中身を空っぽにして、冷たい空気を取り入れる。

 キンと凍てつく鋭さが、喉の奥から体の芯を貫いて、頭のてっぺんから抜けていく

 当然、その感触は何の慰みにもならなかった。

 

 

 ──息を止める。 瞼を上げる。

 そういえば、と努めて大きな声を出した。 元の声質が声質である故に迫力はない。

 けれど相対的に──当人的には大きい、場の空気を切り替えられる程度の声量で、『お友達』と芝の端っこへと別の話を投げかけた。 出口のない問答ほど気力を消耗する物はないのだから。

 

「その、前から気になってたんだけど、ね。 二人は学園に来てから出会ったでしょう? 

 なのに何でフィートさんの事をひ孫って呼ぶの? ……まさかだけど──」

『そのまさかじゃないよ。 ただ……"向こう"だとひ孫だったからってだけ。 今は半分だけだけどね……』

「"向こう"……ね。 そっか」

 

 ……が、空気が重い。 『お友達』の声も寂しげだ。 受け止めた鼓膜が水に沈んだのかと錯覚するほど、重苦しい。 やがて話題選びを間違えたことを遅れて悟った。

 耳を伏せ、ばつが悪そうに隣のつま先に視線を落とす。

 

『でも、まだ生きてるから』

 

『お友達』は寂しげに笑って、膝を抱えた。

 笑って、といっても、マンハッタンカフェからはその顔が見えない。

 どれだけ近付いたとしても、髪のカーテンを上げたとしても、顔を構成するパーツは何一つとして明瞭な像を結ばない。

 けれど声音と、仕草と、今まで培ってきた関係が、真っ黒い少女の口元を幻視させた。 穏やかに描かれた弧を、そこに。

 

『……多分、あの子は臆病なほうの半分なのかな。 姉のほうと"向こう"のあの子はそこそこ気性が荒かったみたいだけど……う~ん、荒さはちょびっとしかなさそう。 普段で二割ぐらいかな。 レース中だと八割かも』

 

 それに、話が普通に続いていくのなら、別に悪い物ではなかったのだろうと思えた。

 望郷、懐古。 少女らしい身なりには見合わぬ、とぼけた感傷。 何時にもまして掴めない。

 相槌に気不味さを込めながらも、マンハッタンカフェは大人しく聞き手に回ることしか出来なかった。

 

『ああ見えてプライドがとんでもなく高いタイプだね』

「そう、かな……? 二割とか八割っていっても……ある? そんなに」

『あるある。 基本形態でもグラスワンダーの四分の一ぐらいある』

「えぇ……」

 

 返せたのは、困惑とも否定ともつかぬ吐息程度だ。

 ああ。 うん。 そうなんですね。 意外です。

 そんな反応、面白みもないだろうに、『お友達』はくすりと笑って口元あたりを抑えていた。 今度は寂しげなものではなく、ほんのりと明るい調子だ。

 

『本当に落ち着いた顔しか持たない子なんてそうそう居ないからね。 カフェだって、ほら……昔のノートにウマ娘に産まれなければ犯罪を犯してたかもとか、血に飢えた猟犬とか──』

「この話はやめようか」

『はぁい』

 

 けれど、口を閉じさせる。 口を閉じた。 鉄仮面の上に平静を装って、気不味さのない静寂にまた浸る。

 そうして朱色をほんのり散らした頬を、再び芝に向けた。

 視線の先で走るのはミホノブルボンと、いつの間にか連れてこられたらしいサイレンススズカと、ファインドフィート。 そして何故か後ろから猛追するゴールドシップ。

 特定一名の笑い声がレース場の端まで届いてくる。

 豪快ながらも堂に入った声は迫力も備えていて、どことなくテレビアニメで見るような悪役にも通じる。 20分後には負けていそうだ。

 

『……あっ、スズカがゴルシに捕まった。 いつ鬼ごっこになったんだろ……』

「ゴールドシップさんだから」

『そっかぁ』

 

 だが、とにかく平和だった。 少なくとも、表面上は。

 昼下がりの空気はやわらかく、ぬるい膜になって、レース場の端から端までを包みこむ。

 だから響く声はどこか遠く、細く、遠くの方で鳴る草木のざわめきのよう。

 降り積もる全てが、停滞する静寂を形作る。

 

 また、風が吹く。 太陽の光はかすかに淡い。

 あんまりにも穏やかだったから、何となくコーヒーを飲みたい気分になってきた。

 長い前髪の一房が左右に揺れて、視界に不明瞭な影が落ちて。 空の雲よりは澄んだ気持ちで、尻の下の石を温め続けていた。

 

 

「お~いカフェ~、こんなところに居たのかい。 随分探したよ」

 

 ──ただ、穏やかな時間はほんの一時だけのものだった。

 背後からの呼び声がするりとメスを入れてくる。

 正体は分かっている。 顔を確かめるまでもない。

 マンハッタンカフェは露骨にうんざりとした雰囲気を纏いながら、鈍い動作で振り返った。

 

「……今度は、タキオンさんですか。 あなたが態々私を探しに来るなんて、あんまり良い予感がしないのですが……。

 ……もう、帰ってもいいですか?」

「そんなつれないこと言わないでおくれよ~。 それに帰るといっても私達のラボに、だろう? じゃあここで話そうが話さまいが同じじゃないか」

「あの部屋がいつから貴女のラボに……? あの空き教室は元々私が許可を得て用意した趣味の部屋だった筈ですが……」

「でも半分は私のラボだろう? 今は」

「それは、生徒会のひと達に保護者役を頼まれたからです。 だから私は仕方なく……」

「で、受け入れてくれたわけだ。 やっぱりカフェは何だかんだ言って優しいねぇ」

「……本当に、このひとは……」

 

 ああいえばこういう。 こういえばああいう。 何を言っても響かない。

 だからマンハッタンカフェは、未だに口で完勝できた試しがなかった。

 その事実はお互い同じだけれど、正当性は間違いなく己にあると確信しているからこそ、そもそも勝負が成立している事自体を認めたくない。

 

 それから、耳を何度か震わせて。 のろのろと、一步分横にズレて座る。

 そうして生まれた空きスペースを見たアグネスタキオンが、これ幸いと腰を下ろす。 制服の上から着た白衣に、薄っすらと土埃がついた。

 

「それよりも聞いておくれよ、とても良いニュースがあるんだ」

「へぇ……何となく、悪いニュースも続きそうな言い回しですね」

「あったほうが良いかい? 様式美は守るためにある物だしね」

「まさか」

 

 呆れたふうに肩を揺らす。

 悪いニュースは、もうお腹いっぱいだった。

 

「で……その話、長くなりますか?」

「カフェの態度次第さ」

「……はぁ……」

「ハハ、かなり本気目のため息だ」

 

 そもそも聞かない、という選択肢は何処にも無いのか。 もちろん無い。

 アグネスタキオンのブレない言動から、そんな本音が透けて見えた。

 

「……早く、本題に入ってください」

 

 けれど過去の実績から逃げ切れないことはよく知っている。 故に仕方なく、居住まいを正した。

 何だかんだでそうして付き合うのが原因だろうに、マンハッタンカフェはそれを自覚していないのだ。 つまり、ある意味自業自得でもあった。

 

「覚えているかい? 随分前に燃えた資料の事を。 私の三日間の努力の産物が完全な灰に変身してしまった瞬間を」

「……えっ、と……どれの事でしょう……? すみません、候補が多すぎて……」

「ンン~、そう来たかぁ。 怪奇現象ここに極まれりだねぇ」

 

 さて、どこから話そうか。 唇を尖らせ、右へ左へ頭を揺らす。

 風の隙間を泳ぐようにくせ毛を漂わせて、ここではないどこかを見つめた。

 

「まず……前提として、目覚ましのベルという迷信がある。

 "レース前日の夜に、レースに負けた夢を見る"、"負けた瞬間、目を覚ます"、"身体のコンディションが不自然なほど良くなる"、"デジャヴまみれのレースを走る"。

 レースの結果は……まぁ、伝わる地域によってマチマチだねぇ。 ともかく、やり直しの迷信さ」

「やり直し……なるほど。 誰しもが一度は考えることでしょうし、別にそういう迷信があるのは普通なのでは……?」

 

 さもありなん。 生きていれば誰しも一度は考えることである。

 競走の世界に限った話ではなく、どんな世界に生きていようと今とは違う"もしも"の先を妄想してしまうもの。

 あの時ああしていたら。 この時こうしていたら。

 意味などないと当人が最も理解しているだろうに、それでも止められない。

 いわば、心の奥底に根付いた本能に近しい。

 誰だって、幸せを──今よりもいい人生を求めているのだから。

 

「で、この迷信。 知名度は然程でもないが、随分と長い歴史を持ってるのさ。

 時代や地域ごとにバリエーションがあって、大昔……紀元前のギリシャならプラトンの水時計、中国ならろうそく時計、日本なら線香時計……。 近代ではどこも私達がよく知る機械式の目覚まし時計が主軸になってるねぇ。 いやはや、実に興味深い」

「はぁ……?」

「分かるかい? 

 こんなにも広い地域で長年に渡って存在しているのに、知名度だけは低い。 こんなチグハグな迷信、違和感しかないじゃないか」

 

 くぐもった笑い声を半分受け流しながら……言われてみればなるほど、と頷く。

 マンハッタンカフェ自身、今聞くまでまったく知らなかった迷信だが──アグネスタキオンの言葉を信じるなら、ずっと大昔から存在しているらしい。

 実際それを知らなかったからこそ、確かに不思議だなと疑問符を吐き出した。

 

「だから頑張ったんだよ。 毎日の研究と同時並行で、私とモルモットくんの睡眠時間を削ってまで! そうしてようやく──ようやく、資料を復元出来たんだ!」

「はぁ……そうなんですね。 お疲れ様です。 特にトレーナーさんが」

「ハハ、無関心~」

 

 ……比較的有意義な会話は、そこまでだった。

 

 アグネスタキオンがマンハッタンカフェに寄りかかる。

 そして眉を顰めた少女へ、常と同じように絡み始めた。

 

 ところで、燃やしたのはカフェの『お友達』じゃないのかい?、とか。

 言いがかりはやめてください。 証拠はあるんですか? 証拠を出してください、とか。

 前科があるじゃないか。 それで疑うなって言うほうが無理があると思うよ、なんて。

 

 

 特に意義のないじゃれ合いに変化して。

 その二人から少し離れた場所に移動した『お友達』だけが、数十秒前の冷たさを保っていた。

 

『目覚まし時計……』

 

 口の中で反芻する。

 思い浮かべたのは、少し前の朝の光景だ。

 レースの日、目覚まし時計の音で目覚めたファインドフィートが、音の発生源であるそれを強引に叩き潰していたその姿。

 ひっそりと、ベッドの下に隠された2つのベルと金属片と、折れた長針と歪んだ短針。

 その後、不自然なほど"いい状態"で保たれた調子。 まるで未来を見て来たかのように迷いのなさすぎるレース。

 『お友達』は、それら全てを隠れて見ていた。 物質に縛られない身体というのは、こういう時には非常に役に立つ。

 日常生活を送る中で常に周囲を警戒するなぞ、体力も気力も擦り減らす真似を実践する人間がどれほどいようか。

 

 そしてファインドフィートは普遍的な感性を有していたがゆえに、棚の陰も、ベッドの下も、洗面所のドアの裏も気にしなかった。

 だからこうして『お友達』に、見られてはならぬ姿を晒してしまったのだ。

 

『まさか……で片付けるのは、それこそ変な話か。 寄生虫に取り憑かれているという前提情報を踏まえればなおさら。

 私の推理が正しければ、たぶんファインドフィートは目覚まし時計を使って、レースを勝てるまでやり直している……』

 

 横目で傍らの二人を見やる。

 和気藹々と──『お友達』の視点では──仲良く喧嘩中だ。

 まったくもって不本意だが、未だに()()の審議で衝突している。 『お友達』はアグネスタキオンからの信用のなさを知り、密かに耳を垂らした。

 

『……何にしたってタイミングが良すぎて気持ち悪いな。

 でも、そうだね。 目覚まし時計。 使いようはあるのかも』

 

 何者かの意図を薄っすらと感じるような気もするけれど、悪意は感じなかった。 十分だ。

 

『使いよう、使い道、使い方……うん、何か思いつきそう』

 

 バカと鋏は使いよう。

 目覚まし時計だって、使い方次第では。

 

 

「……なんだか寒気がするねぇ。 カフェ、キミの『お友達』のせいかい?」

『冤罪だよ』

「冤罪だそうです。 謝ってください。 誠意を込めて」

 

 そう、冤罪だ。

 今はまだ。

 

 


 

 

 この日に得た記憶も、さて。 一体いつまで残ってくれるのだろうか。

 神ならぬにんげんである少女には、見当がとんとつかなかった。

 

 だから、もし忘れてしまっても良いように、日記帳の端にさらりと書く。

 "お別れの言葉は引き出しの中にある"。 "しばらくの間は、しばらくが続く限り、忘れていよう"。

 これで安心だ、と。 少女は、痛みを忘れるための免罪符を得て、くすりと笑った。

 

 

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