「フィートさん? どうしたの?」
幼気な声を受け止める。びくりと、肩が跳ねた。
夢うつつだった意識が明瞭になり、足元が定まる。
そして、小さな困惑と共に、視線を前に放り投げた。
窓から射し込む日。明るく照らされた廊下。長い直線と、まばらに散らばる少女達。
放課後特有の弛緩した空気感のせいで、どこか生ぬるい。停滞感、と言い換えてもいい。
ファインドフィートは、止まりかけた歩みをとっさに再開して、声の主──すぐ隣の少女を見下ろした。黒鹿毛で片目を隠した少女が、ファインドフィートを見上げていた。
対面で気遣げに揺れる瞳が、鋭く突き刺さって、頭の片隅がもどかしさに震える。
前にも似たような事があった気がするな、なんて。今となっては手遅れの追憶を浮かべて。
「いえ……失礼、少し気が抜けていたみたいです。それで……えぇ、何の話でしたか」
しかし、ふわふわとした感覚はまったく抜けない。
はてさて、一体なぜ自分がここにいるのか。それすらも、分からない。
思い出そうにも前後の記憶は存在せず、断裂した場面が映像として思い浮かぶのみ。
足元は今にも雲になって消えそうで、ふとした瞬間に、また無意識の海に溺れそうになる。
「本当に? 疲れてるなら無理しないでね……?」
けれども、まだ動ける内は社会生活を営んでいたかったのだ。逃げてしまえば楽になれるだろうな、なんて、不毛な妄想をしながらも。
それが失敗し続けている事は火を見るよりも明らかだというのに、仮初めの日常に縋り続ける。
単なるわがままだった。
「えっとね……明日はフィートさんのお誕生日でしょ? だからみんなでケーキ買いに行きたいの。いい、かな?」
「誕生日……?
……あぁ、そっか。もう11月か……」
そして、頷く。顔には薄っぺらい驚きが滲んでいた。
そこには、もう誕生日だったのか、という純朴な驚きと、ファインドフィートの視点では──親交の浅い少女からその言葉が飛び出たことに対する驚きが、それぞれ微量に混ざり合っていた。
たしかに、11月の半ばは双子の誕生日だ。
ウマ娘は一年の前半に産まれるものが多いけれど、彼女らは珍しくそこから大きく外れて、産まれた。
早すぎたのか、あるいは遅すぎたのか、それすらも判別がつかない曖昧な時期の、寒い未明。
冬の始まりが、彼女らが産まれた日だった。
懐かしいな、と郷愁に目を細める。
……そして同時に、何かが引っかかった。
じんわりと湧き上がる違和感に、じっと眉根を寄せる。
喉の奥に小骨が突き刺さったときのように、もどかしい熱。うなじがむず痒くなって仕方がない。
「フィートさん、どうしたの?」
「いえ……何かを忘れているような気がして」
何かを忘れるなんて今更のことだ。白々しい。
そう罵る存在は──幸いにも、ファインドフィートしかいない。おかげでゆっくりと記憶を漁れる。
いつの間にか、すっかり軽くなった箱を前にして、少女は残り少ない記憶の糸を手繰り寄せた。
今日のやり残し、ではない。ファインドフィートの記憶は"今日"のラベルを保存できない。
昨日の思い残し、でもない。ファインドフィートの意識は"昨日"の続きを認識できない。
つまり、今とは繋がりのないもの。時間によらないもの。時系列の外。知識の領域。
そこまで行き着いてしまえば、疑わしきを導き出すのは存外すぐのことだった。
「……あ。今日は21日ですよね? たしか近くのケーキ屋さんは定休日だったような気がするのですが……」
「ううん、14日だよ? ……あれ? フィートさんのお誕生日って15日、だよね?」
「え……? わたしの誕生日は22日──」
そしてまた薄っぺらい驚愕を舌にのせようとして、はたと気付いた。
11月22日。それは、ファインドフィートの誕生日だった。御供瞳の誕生日でもあった。
だが、今は違う。
ファインドフィートは。
『ファインドフィート』は、死没と同じ日に産まれたのだから。
「──いえ、15日であっています。11月の、15日です。……ごめんなさい、ちょっと寝惚けてたかもしれません」
「そ、そうなの……? 夜はちゃんと寝ないとダメだよ?」
「ん……善処します。できる限り」
とは言ったものの、さて。
正直、有言実行できるとはこれっぽっちも思っていない。
善処するという言葉は所詮その場しのぎ。実現性など有さない。
だって、何を目的に、何を以て、どう改善するというのか。
もし人並みにあわせよと言うのであれば、まずファインドフィートは、病院に監禁されるところから始めなければならない。そうなってしまえば、秘している欠落も隠しきれなくなるに違いない。
だから善処とは、目的の真逆をいくものでしかなく、故に決して実行されない。……ひどい皮肉だ。
それを誰よりも理解している少女は、目元の薄黒い隈をこすって、鈍いため息を吐く。
空気よりも重たい息は、誰にも触れずに落ちていく。
「──ま、何にしても……ちょっと早いけどお誕生日おめでと。いやはや、あのフィートもついに……ついに、何歳だっけ? 元が大きかったからちょっと分かんなくなっちゃった……」
「あぁ、テイオーさん。もうミーティングは終わったんですか? ちなみに明日で……15歳になります」
「んー、スペちゃんがやらかしちゃってさ。トレーナーがお冠だったから先に抜けてきちゃった」
"いやぁ、まさかあそこで大食い大会に飛び入り参加しちゃうなんてね"。トウカイテイオーはケラケラと軽いノリで笑う。
当然、スピカのトレーナーとしては堪ったものではないだろう。日々の気苦労に加えての、それ。
ファインドフィートもライスシャワーも、彼に同情を抱かずにはいられなかった。
「ところでさ、二人してどこ行くの? まぁまぁ珍しい組み合わせじゃん……っと、そういえばケーキ買いに行くんだっけ? もうそんな時間?」
「えっとね、これからフィートさんと一緒にタキオンさんのところに遊びに行こうとしてたの。買いに行くのは、そのあとで良いかなって」
「カフェさん経由でお誘いいただきまして。なんでも……新しいリラクゼーションドリンク……? というのが出来たらしいんです。せっかくお誘いを頂いたので、行ってみようかなと」
「んぇ、タキオンの新作? それって大丈夫なの?」
「た、多分……大丈夫、だよね?」
「……さぁ。わたしもタキオンさんの噂話程度なら色々と聞いていますが……今回はカフェさんを経由しているんです。問題はないでしょう」
「あ~、それならたしかに大丈夫かぁ。あっても色々聞かれたりするぐらいでしょ」
アグネスタキオンは知的好奇心旺盛なタチで、好奇心を満たすためにあれこれと話をしたがる少女だ。その理由付けのドリンクと考えれば、なるほど。別に不自然ではない。
マンハッタンカフェがそれに協力した事は珍しいが、押しに押されて仕方なく、の可能性も十分にあり得る。
他人に迷惑をかけない範囲であれば、彼女の頭はかなり柔らかい。少女が保護者としての信頼を獲得している理由のひとつだ。
そう納得して、ピタリと横につく。黒、白、茶の順番で並んだ。
「じゃあ出発進行~。ワガハイをしかと護衛せよ~」
「……ふふ。なんだか懐かしいですね、それ」
真横の姿。澄んだ覇気。肩のあたりにくる頭。
こうしてくだらない会話に興じるのも、ひどく懐かしい気がした。
ライスシャワーと話すのだって、そうだ。
もはやファインドフィートは覚えていないが、一年目や二年目の頃はそれなりの頻度で交流を重ねていたのだ。だというのに、三年目のいまとなっては顔を合わせることすら殆ど出来ていない。
昔は、一緒に買い物に出かけることもあったろう。一緒にお菓子を食べて、ミホノブルボンもまじえて、遊戯にふける事もあったろう。
けれどその記憶の殆どは失われ、記録の輪郭をなぞるしかできない。今のファインドフィートに出来るのは、薄い懐かしさを抱きしめる程度だった。
けれど、そもそもの話で。
そんな過去を懐かしむ資格なんぞ、一体どこにあるというのか。
「……えぇ、本当に。まったく、まったくですよ。見る夢は選べないにしても、もうちょっと他にあるでしょうに」
大きく、息を吸う。意識を尖らせる。
たったそれだけ。それだけで懐かしい景色は、幻のように脆く、儚く消えていく。
停滞した廊下は、弛緩の果てに崩れ去る。
黒鹿毛の少女は、いつかと同じく夢として消える。
鹿毛の少女は、懐かしい笑顔を浮かべて、記憶の中に溶けていった。
そうして、全部が剥がれ落ちる。
今まで見ていたのは、何もかもが、幻覚だ。幻覚だった。
白昼夢のように生々しいだけの、ただの幻。
代わりに広がったのは、見慣れた白い部屋。無機質で冷たい感触は、間違いなく現実のそれだった。
「はぁ……」
鼓膜を揺らすのは、大勢の人々の歓声と、声援と、それにも負けずに響く大きな蹄鉄の音。
それからようやく定まった足元を認識して、ここがレース場の控室であることを悟る。
否、そもそもそういった情報を収集する必要すらなかった。ただ、自分の体を見下ろせばいい。
そこにあるのが白い服であれば、それはレース前しかありえない。もし泥に汚れていればレース後だ。つまり、今のファインドフィートが気にするべき全てがそれで分かる。
……その何れにも当て嵌まらないのであれば、さっさと気を抜いてしまえばいい。もう、それで、全てが事足りるようになった。
「……いまのわたしを見たら、テイオーさんはなんて言うんでしょうね」
ベンチに座り込み、行儀悪く足を乗せて、膝を抱える。
そして、あぁ、と。
納得の意にも、無念の声にも取れる、どっちつかずの呻きをこぼす。
きゅっと結ばれた横一文字の口が、やわらかな失意を象っていた。
「わたしは」
思い出すのは、いつかの、どこか。記憶の中に淡く残る、トウカイテイオーの問いかけ。
"後悔してないの? "なんて、あまりにも直情的な問いかけは、今も胸に突き刺さったままで。
……しかし結局、心残りにはなり切れなかった。少女のひと刺しは傷と同化して、それっきりだ。
「テイオーさん。わたしは結局……こういうバカだったんです。わたしは強くなれなかった。わたしは、後悔をなくそうとは思えなかった」
いま、思うに。
後悔を抱いて、それを消化できるのは、強いものの特権だ。
後悔を後悔のままにせず真正面から向き合い、答えを出す。そんなこと、ファインドフィートにはできなかった。
「わたしも、あなたにみたいに強くなりたかった」
囁いて、臍を噛むように口の端を結ぶ。
けれども、強くなったとして、それで。
……それで、後悔を消化できるのか?
その選択を胸を張って選べるのか?
ファインドフィートは、その帰結を考えていなかった。
消化した想いは、何になるのか。
ファインドフィートの血肉になるのか、それとも何処にも行けなくなって、ただ消えるのか。
消化した先の姿すら想像できない身で、形のない強さを求める欲求は、"愚かしさ"と呼ぶべきではないのか。
……それを何と定義するにしても、きっと"正解"とは呼べない。ファインドフィートが求める"正解"は、そのような欠陥を有さない。
だから、少女達の間にあったそれを突き詰めてしまえば、単なる主義主張の違いだった。
だから、正解なんて存在しないし、トウカイテイオーのそれが正しい訳でもない。
もちろん、ファインドフィートも。
「……羨ましいなぁ」
膝に顔を埋めて、いじけたふうに息を吐いた。
隣の芝生が青く見えているだけなのだ、結局は。
……それを理解したところで、羨望は消えないのだが。
『じゃあ良いじゃない、無視しちゃえば。あなたは変われないのだから、どうしようもないの。
あなたとあの子の双方が納得できる結末なんて存在できないのよ』
「……女神さま」
『はぁい。あなたの女神、王冠よ。太陽のほうは寝ちゃってるから私だけ出てきたわ』
そんな、少女の思考をあざ笑うかの如く。
机のふちに腰掛けた女がくつくつと笑った。
『それにしても……ふふ、あなたも物好きね。
結局忘れちゃうのにああして言葉を交わすんだもの。友情関係は同等関係……あなたのそれは、当てはまるのかしら?』
「…………」
ふたりの視線は絡まない。
少女は膝を抱えたまま床を見つめる。
女は、足をぶらつかせながら天井ばかりを見つめる。
黒いひび割れのはしる足がゆらゆらと、反復運動を繰り返す。その動きに音はなく、故にこの部屋は静寂に包まれていた。
けれど一時だけ訪れた静寂を、また女の声が破る。
無邪気に、とは言えない。薄っすらと欲を滲ませる声は、少しだけ人間臭かった。
『あなたがあの子達と言葉を交わしたのは、どうして? もちろん、燃料に使えるから別に悪い事じゃないのだけれど……ねぇ、どうして自分から足を踏み出したの?』
踏み出した。たしかに、ファインドフィートから踏み出したことは、幾度もあった。
その最たるものは墓参りだ。あれこそ必要なかったものだ。
なくてもマイナスにはならない。そして、プラスにもならない。燃料としても、友好の深さとしても、あるいは数値として扱える全てにおいて、きっと変わるものはない。
言ってしまえば、ファインドフィートの欲でしかないのだ。
『ねぇ、ねぇ。そもそもあなたにとっての友達って何なのかしら。利害関係? 踏み台? それとも、都合のいい道具が欲しかった? ……私に言ってくれたら用意してあげたのに』
「……っ」
『ああ、そうすると……あなたは、本当の友情は感じていなかったのかしら? ……本当は、苦しみを運んでくるあの子達が嫌いだったんじゃないの?』
「……女神さま。あなたは……あのひと達を嫌ってほしいと、思っているんですね」
『さぁ。どうだと思う?』
もし嫌えるのであれば。もし、そうであれと願えるのなら、きっとファインドフィートは楽になれる。
仮初でも良い、嘘でもいいのだ。
"だいきらいだ"と口にしてしまえば、きっとそれは疵になる。疵になれば、ひび割れる。ひび割れれば、やがて砕ける。
つまり、苦しみの根っこが取り除かれるのだ。時間はかかっても、いつかは。
そして天秤は、正しくなる。女達にとっての最適解が実現する。
……けれど、違うのだ。
正しかろうと、何であろうと、しかし違うと少女は言う。
「だって、あのひと達がいたからわたしはここまで来れたんです。あのひと達がいたから、わたしは満足して、いける」
『……そう』
苦しみがあった。悲しみがあった。けれど、それを上回る、喜びがあった。
合理的ではない。矛盾だらけ。その想いは夢の正反対を向いている。
それでも、ファインドフィートはそれを愛していた。
愛している。
「お葬式に来てくれたら、嬉しいなぁ」
そしてまた、ポツンとひとりきり。
少女以外誰もいなくなった部屋の中央で、ベンチに腰掛け、両手をあわせて、祈るように肩を丸める。
矮小な背。卑屈な器。まさしく愚か者。
そんな彼女を見つめるのはベンチの前の、机の上の、雑多に散らばる小道具ばかりだった。
蹄鉄ハンマーだとか、冷却スプレーだとか、目元の隈を隠すための化粧品だとか。
ただカバンの中身をひっくり返しただけの無秩序が、合わせ鏡のように、我が物顔で横たわっている。
それらを片付けるでもなく、手をつけるでもなく、放ったらかしたままで時間を浪費し続けた。
一分、五分、十分。
時間の重みを誰よりも知っていた筈の彼女は、しかしそれを実感するための機能を失っている。
故に、思考を巡らせることすらもせず、有益に消化することもせず、ただ、薬にも毒にもなれない呼吸だけを重ねて。
そして、いつか。
ついに、遠くで歓声が上がる。
続く解説の声。壮年の男の声。しわがれた重みのあるそれが、第11レースが終わった事を語る。勝者の名は、聞き覚えのないものだった。
ジャパンカップは12レースだったから、つまり、ようやくファインドフィートの出番だ。
のろい仕草で顔を上げて、気怠げに目を伏せる。
立ち上がったのは、部屋のノックが鳴ってからだった。