第12レース、ジャパンカップ、18名の中の中央枠。
いち早くゲートに入り込んだ、白い姿。
他は鹿毛や栗毛ばかりだったから、唯一の白はよく目立つ。
ミホノブルボンはそれを、観客席の最前列で見守っていた。
遮るものがない視界には芝と空が広がっていて、こざっぱりとした世界は寒々しかった。
「……私も、本当は出走するつもりだったのですが」
口惜しげに、耳を伏せる。
枠の中のいずれかに自身の姿を重ねて、しかし幻想でしかないそれを悔やんだ。現実は今ある通りでしかないのだ。
確かに、ミホノブルボンにも出走権限はある。実際、ジャパンカップの出走者候補に推挙されていた。
では、何故出走しなかったのか。
まだ得ていないトロフィーを欲するのは、ヒトだろうとウマ娘だろうと変わらない欲求で、少女にも
……状況も、心情も噛み合っていてなお選べなかったのか。
そうであれば、ミホノブルボンの意志の外側に理由があるべきで。
そして同時に、どうしようもなく逆らえないものであるべきで。
「せめて、ピークがもう少し長ければ──私も、あそこに居たのでしょうか」
畢竟、誰だろうと時間には抗えない。
ただ、それだけ。
ただそれだけのシンプルな答えが、少女の前に立ちはだかっていて。それは、誰だろうと乗り越えられない壁だった。
有史以前も、有史以降も、絶対に変わらない不変の法則だ。
逆らう努力そのものは誰にでも認められるべきだが、逆らう事は許されない。あくまでも、そういうものだった。
「……ブルボンは、後悔してる?」
「マスター……」
隣に立つ、紫の目。どこか無機質な、女の顔を見上げる。
ヒールのせいでほんの少し高くなった目を追いかけて、小さく口ごもった。
少なくとも、選んだのはミホノブルボン自身だった。十分に考えて選んだ道だった。
だから、まさか、"無理をしたかった"と言い募れる筈もない。
昔であればともかく、十分に成熟を果たした今はもう。
「ステータス、『平静』。……問題ありません、マスター。私の待機地点は、ここですから」
「そう。なら良いの」
……思うところこそあれど、飲み込む。
しっとりとして、気持ちの悪い喉越しを、眉を顰めながら耐える。
今になってああだこうだと言ったところで何も変わらないのだ。
賽を持つのは、今もゲートの中にいる彼女達だけ。ターフの外にいる者が賽を持つのは許されない。
ミホノブルボンは、己の領分をよく弁えていた。
「……?」
それからすぐにレースが始まる……かと、思いきや。
誰かの右靴が落鉄──蹄鉄が外れ落ちた──というアナウンスと共に、若干の遅延が知らされる。ゲート付近で半泣きになっている少女が、少しだけ目立っている。とはいえ、すぐに打ち直せるものだから目くじらを立てるような事でもない。
少女が目を回しながら右往左往する姿をのほほんと見守る中、ふと、隣の女があちらこちらへ視線を送っている姿が視界に入り込む。
手元には携帯端末。時折見下ろす様子からして、現在進行系で連絡を取り合っているのだろうと察せられる。
……マナーが悪いことを承知でディスプレイを覗く。おや、と首を傾げた。
てっきり、後輩の芦毛のトレーナー相手かと思い込んでいたのだ。が、ディスプレイに映っている名前は知らない人物のそれ。少し、気まずくなった。
「……マスター、どなたをお探しなのですか?」
「ああ、うん……昔、色々とお世話になった人がいてね。ここに来るって言ってたんだけど……」
「
……この人混みです。辿り着けないのでは?」
「うーん……トレセンバッジつけてるだろうし、皆なにかしらを察して前まで通して……は、くれないかぁ、流石に。困ったわ」
崎川は眉根を寄せて、また周囲を見渡した。
その視界の外を補うために、ミホノブルボンも周囲に視線を送る。
人相は分からなくとも、人を探す素振りをしている人物を見つけるぐらいはできる──筈だ。
……筈だったが、残念ながら人混みを見渡すには背丈が足りない。ミホノブルボンは無力だった。
とはいえ、ヒールの補助をうけている女の視界は、比較的ひらけていたらしい。
ある一点を見つめて、表情がぱっと明るくなる。
「っと、見つけた。先輩っ、こっちです!
……あ、すみません、あの人うちのベテラントレーナーで……ええ、はい。ごめんなさい。すみません……」
周囲の客に頭を下げて、件の人物が入り込めるだけのスペースをなんとか空けてもらう。幸いにも心優しい者が多く、事はスムーズに進んだ。
そうしてやってきた人物は、やはりミホノブルボンは見たこと無い男だった。
白いスーツを着込み、サングラスをつけている。それに、衣服では隠しきれない体格の良さも見て取れた。
少しばかり威圧感のある風貌だが──崎川に気にした様子はない。
にこにこと、普段見ることのできない明るい笑顔を浮かべていた。少し、衝撃を受けてしまう。
「……よう、崎川。久しぶりだな」
「ええ、お久しぶりです。直接顔を合わせるのは……六年ぶりですねかね」
「距離が距離だからな。俺とて向こうで教え子を持つ身だ、そう簡単には帰ってこれん」
男が立ったのは崎川の隣。三人で横並びだ。
「それで、お前が……」
「ミホノブルボンです。……あの、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「黒沼だ。よろしく頼む」
黒沼。男の名をころりと舌の上で転がす。
不思議と、よく馴染む響きだ。ともすれば、慣れさえも感じるほどに。
本当に初対面だろうか、としげしげと眺める。しかし男の風貌は記憶の中の誰とも符号せず、事実は覆らない。
だから、ただ、不思議な心持ちだった。
「この人、私の先輩トレーナー兼先生なの。今はフランスのトレセン学園で教鞭をとってるわ。髭面だしサングラスつけてるしやけに体格いいし、まるでヤの付く自由業みたいな出で立ちだけどね」
「……サングラス以降は余計だ、崎川。お前は相変わらずみたいだな」
「もちろん。だって先輩が海外に行ってから、たったの6年そこそこですもの」
ともかくミホノブルボンは、自分が知らない過去があったのだと、理解した。
少なくとも、悪い人間ではない。十分だ。
具体的な理由なんぞ何もない直感で、しかし今まで違えたことはない直感で、黒沼という男を信用した。
「マスターのマスター……大マスターとお呼びしても、いいですか?」
黒沼を見上げる。顔の大部分はサングラスで隠れて見えない。
けれど、怖いとは思わなかった。
むしろよく馴染む気がして、また、不思議な気持ちになる。
「……おい、崎川……」
「素直な子でしょう?」
レースが始まる十秒前の、ちょっとした一幕だった。
◆
無言になった3人が見守る先で。
がこん、と音を立ててゲートが開いた。
飛び出した18名が蹴飛ばす芝は、ほんの少し湿り気を帯びている。
昨日降った雨の残り香が、ミホノブルボンの鼻をくすぐる。
そして、まず先陣を切ったのはやはりファインドフィート──。
「……違うな。記録を見た限りじゃあ大逃げを基本戦法にしてた筈だが……今日は差しか」
では、なく。
まずハナをとったのは四番人気、メジロパーマーだった。
ヒトの走りによく似たフォームで、しかしヒトには似つかぬ速さで駆ける。
風が、吹いていた。
「みたい、ですね……。初期のころは差しだったと思えば、適性がないわけではないでしょうし。見るからにB……A寄りのBか。であれば、ズラシとしても有効かもしれません」
「そもそも大逃げってのは身体への負担がデカい。他の戦法で勝てるんならそれに越したことはない、が……」
位置取りは、良い。
後ろ過ぎず、前過ぎない。中団のなかでもやや内寄りで、きちんと躱せば抜けることができる位置。
理想的というほどではないが、最初の一手としてはまずまずと言ったところか。
ミホノブルボンは、人知れず胸を撫で下ろしていた。
……が。
続きの動きを見て、そっと眉を顰める。
「妙だな。まだ後ろに下がっている……?」
纏わりつく、違和感。
隣の隣に立つ黒沼が口にしたように、ファインドフィートはさらにスルスルと順位を下げていく。
その足取りに淀みはなく、惑いもない。意図したものであることは明らかだった。
そして、最後方に位置を固定して、ようやく止まる。
後ろから二番目になった目の前の少女を風除けにして、じっと息を潜める姿は、いっそ不気味だ。
「だが、ありだな。今まで同じ戦法で勝ってきた分、他の相手からも相応に警戒されてる筈だ。
あっただろう対策を多少なりとも無視できるんなら十分ありだ。見るからに付け焼刃じゃないのもプラスだな」
ごうごうと、大きな音と共に蹄跡が刻まれる。
湿った土と、草の匂いがより濃くなり、風に乗って運ばれてくる。
ヒトの鼻では好き嫌いが分かれる匂いだ。
周囲の人々のなかには、僅かに顔をしかめる者も、いる。
だが逆に、ウマ娘の幼子や、その母と思わしき女性は、微かに顔をほころばせていた。
もちろんミホノブルボンは後者の側だ。どこか懐かしい匂いが、ささくれだった心を癒やしてくれるから。
……そうして各々が見守る先で、ついに先頭が向こう正面に到達した。
1000メートルを通過してのラップタイムは一分を切っている。ややハイペースな展開だった。
「彼女のトレーナー……
「……見解には同意するが……お前ら、まだ仲を拗らせているのか。もうお互い良い年をした大人だろうに」
「良い年をした大人だからこそ、ですよ。お互い頭が固くなってしまって、打ち解ける時期を逃してしまった」
そんな芝の上を見つめながら、なんとなしに片耳を隣の会話にも傾けた。
話の流れからして、妹分のトレーナーの話だろうことは理解できる。その人物が、己のトレーナーと仲を違えていることも理解している。
以前から一緒にトレーニングをする機会もあったから、大まかな人柄も、そこそこ詳しく知っていた。
「私は……あれのスタンスが気に入らない。夢を見せるよりも現実的かつ身近な実績……金稼ぎを目的とした育成方針。それの全てが悪いとは言いません。ですが……いささか、夢というのを小馬鹿にしすぎでしょう」
「……理想だけじゃ食っていけない、ってのは、事実としてある。夢じゃ腹は膨れねぇんだ。ヒトも、ウマ娘もな」
だから会話の内容は、なんとなく把握できた。
つまり、彼のスタンスの話だ。
不相応な夢を追わせるより、安定した実績を積ませよう、という事である。
無理をして怪我をしてしまえば、場合によっては将来に影を落とすものになる。そういう危険を避けて、堅実な勝利を積ませて、金を与えてお茶を濁す。俗物的だがありえなくもない考えだ。
「……フィートさんが彼をトレーナーにした理由は、そこだったらしいですし」
いつか、聞いたことがあるのだ。
ファインドフィートは何故、葛城という男をトレーナーとしたのか。
悪い選択肢だと思ったことはないが、なぜ彼なのかはいまいち腑に落ちなかった。
だって──こう言うのはあんまりかもしれないが──もっと良い選択肢はあったはずなのだ。
彼よりも経験豊富なひと。彼よりも直感に優れたひと。彼よりもよいバックアップ体制を構築できたひと。
そういうひとは確かにいて、彼女はそれを選ぶ側だった。
では何故、そういうひとびとを選ばず、彼を選んだのか。
それも、実際に聞き出した。ファインドフィートと一緒に暮らし始めて、二年が経った頃だった。
「……"確かに、俗物かもしれませんが"」
ゆっくりと、なぞる。
蹄の音の隙間をするりと抜けていく、しとやかな語りで、薄まった感慨を形にした。
「"何も知らないわたしにとって、あのひとが唯一分かるひとだったのです"。"わたしが差し出せる誠意と、あのひとが示せる信頼が、たまたま金だっただけ"。
"形のないものを信じたくなかったあの頃のわたしには、あのひとだけが人間だった"……フィートさんは、そう教えてくれました」
「……そう。あれでも、あれだから良いと言う子もいたのね。……騙されそうで心配になるけど……そう、そっかぁ……」
金、というのは。
俗な響きを持つ言葉だが、しかし何も悪いものではない。
あいまいな信頼を、形ある物に替えたもの。価値に、換算したもの。
それを提示するのは、ある種もっとも誠実であると称せるのかもしれない。
ミホノブルボンには、そう思えた。
……それに、あるいは、そういう彼だから何があっても傷つかないでくれるだろうと、そう予測していたと、はにかみながら教えてくれた。
結局それが叶わぬ願いだったと知ったのは、随分早い段階だったとも。諦めたようで、しかし吹っ切れたようでもある、明るい顔だった。
きっと、悪いひとはいなかったのだ。最初から。
それが良いことだとは、理解している。
けれど、考えずにはいられない。
悪者がいれば良かったのに、なんて。
たとえば、幼い頃に見ていたアニメ。
画面の中にはいつだって悪者がいた。主人公の敵で、その話の元凶となった誰かがいた。
その悪者を倒せばすべてが、文字通りのすべてが解決して、苦しみも、悲しみも、全部正しく精算される。そういう、都合の良いマスターキーが存在していた。
だから、思ってしまう。
そういう悪者がいれば良かったのに、と。
ひどく歪んでいて、浅ましい欲望だと知りながらも、都合の良い悪者を求めてしまった。
お前が悪いのだと、糺したかった。
「ま、何にしても今はレースね。ほら、もう第三コーナーよ」
「……はい。観戦モードに移行します」
消化できない何かが、ぐるぐると胃の中でのたうち回る。
ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると。
何度も何度も吐き出そうとしたのに、いつも無理やり飲み込んでいるせいだ。
それが決して消化できないと知りながら、時間が解決してくれないと知りながら、後回しにし続けていたゆえの報いだ。
けれど、しょうがないではないか。
それを吐き出す、ということは、相手を傷つけて、自分も傷つけること。
傷つけて、傷つけられて、傷を共有して、互いの血で繋ぐ。そして心を、折ってしまう。
最後に残るのは、互いに刻んだ傷だけだ。傷だけが、際限なく積み重なっていく。
……幸か不幸か、ミホノブルボンはやり直しの事実を知らない。しかし、薄々察してはいる。
だから、吐き出す寸前の怖気と、飲み込んだ時の安堵が、正解を選んだ時のそれによく似ていることを、本能的に理解していた。
だから、吐き出さなかったことは正しくて。
だから、吐き気を催す胃の中のむかつきも、あるべきパーツなのだと誤魔化せた。
「仕掛け始めたな」
──第三コーナーを越えて、最終コーナー。
そこに入る寸前から、ファインドフィートはぐんぐんと足を伸ばしていた。
飛ぶ汗に湿った土が張り付いて、混ざり、泥んこまみれの化粧を施す。真っ白い髪も、服も、肌も、どんどん汚れていく。
18から17、躱して16、すり抜けて14、内側から追い越して13。
高かった姿勢を低くしての加速。さらに加速。スピードの向こう側に近付いていく。
それを、観客たちはわぁわぁと騒ぎ立てるのだ。無邪気に、どこまでも無邪気に。
その声が、どうにも癪に障った。
何も知らないのに、と。あれの本当の顔を、見ていないのに、と。
決して誰も悪くないのに、掴みかかって叫びたくなる。
そんな風に考えてしまう自分が、少しだけ嫌いになった。
昔は、この声が大好きだったのだ。
頑張れ、と叫ぶ声が、大好きだった。負けるな、と響く声が大好きだった。
その向かう先が自分であっても、自分でなくても、ほんのちょっぴり熱を分けてもらえるから。
けれど、今はもう。
「……私は」
追い越して。
追い越して、追い越して、ゴボウ抜きにして5。競り合いに勝って3。
そこで失速しかけて、けれど強引に振り絞った力で再加速して、2。
最終直線は残り半分以下、勝利は射程圏内だ。
「こんなにも、あなたに触れたいと願っているのに」
こんなにも、遠い。
歯の根を、噛み締める。それでも、どうして、と囁く声がこぼれた。
群れが走り抜けるのは、観客席の目の前だ。ミホノブルボンの、本当にすぐ目の前だった。
手を伸ばせば届くのではないかと思えるほど、近い。
けれど実際は、見かけ以上の距離がある。
走るものと、見るものの違い。
ターフと観客席を区切る柵。その壁は見た目以上に厚くて、高い。
本当に手を伸ばしただけでは届くはずがないのだと、無言で物語っている。
今日だけではない。昨日もそうだ、一昨日もそうだ。
一週間前も、一ヶ月前も、一年前も。
……いつだって、乗り越えられない壁が、目の前にあった。
それでも、と足掻いても、結局行き着く先はこれなのだ。
だから、向こうからも歩み寄って欲しかったのに、その少女は一切手を寄越さない。
ただ、そこに居るだけだった。そこにいて、穏やかに微笑むだけだった。
今あるだけで十分なのだと、誇るように。
「そんなにも、私は頼りないですか……?」
それが、虚しい。虚しかった。悲しかった。
ミホノブルボンは、感じたそれを、無力感だと定義した。
おぉ、と、隣から冷たい女の声が聞こえる。やるな、と、野太い男の声が聞こえる。
近いようで、しかし遠い声が、朧に反響して、鼓膜をざらりと撫でていく。
ゴールラインを一番に駆け抜けた白い姿を追いかけて、そして少女は、言葉もなく天を仰いだ。
空は、ひどい曇り空だ。
きっと、もうすぐ雨が降る。