【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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66話

 

 

 ドアを潜る。

 真っ白い控え室の真ん中へ、足を進める。 つけたままの蹄鉄が、こつこつと音を立てる。

 床が傷つくことに頓着せず、あるいはそもそも気付かぬに。

 ただ、小さなうめき声だけをこぼした。

 そして、土埃や泥に汚れた身体を震わせて、辿り着いた先のベンチに座ることもせず、ただただ茫洋と揺れる。

 

 このジャパンカップで、ファインドフィートは負けてしまった。

 

 今回のファインドフィートは、()()()()()()()()()で走って、そして後方から差されて負けた。

 ミスはなかった。これと言った原因も、少なくとも今分かるものではない。

 想像の中ですらその程度の、些細なものしかない。

 

 それでも、負けた。

 言い訳の余地は何処にもない。否定もできない。

 あの瞬間、ファインドフィートは完璧ではなくなった。『ファインドフィート』としての虚像は解けて、溶けて、消えてしまった。過去に擲った宝物を道連れにして。

 

 その実感が、ターフから離れた今になって、少し遅れて肩を叩く。

 凍えるほどに冷たい手で、現実を突きつける。ただ、ただ、叫びたくなった。

 勝つことだけが存在意義だというのに、負けてしまったそれに一体どんな価値があるというのか。

 精々、生贄としての機能しか持たない肉人形だ。それも、この現代ではさしたる意味を持たない。

 

「……ぁあ」

 

 それを、誰よりも深く理解していたから。

 少女はただ、頭を抱えて蹲った。

 

 敗北に慣れることはない。何度負けたとしても、それと同じ回数だけ苦しむ。否、苦しまなければならない。

 罪が、罪が、罪が、ファインドフィートを逃さない。

 罪には罰が必要だ。

 

 だからせめて、と。

 単純な思考回路のまま、左手の小指を握りしめる。

 

「……っ、ぁぐ……」

 

 ぽきり。軽い音が響く。

 ぺきり。湿った音が響く。

 行動の意味をさほど理解せぬまま、自分の手でへし折った。

 小指を折った。薬指を折った。負けた数だけ、指を折った。

 そして、ほんの少しでも裁かれた気になりたかった。楽に、なりたかったのだ。

 

 当然、それはほんの一時気を紛らわせるだけのもの。

 根治には程遠い、一時的な麻酔。しかも、使えば使うほど心を歪める劇薬だ。

 けれどそれしか縋る先がないのだから、どうしようもなかった。

 

「……ぅ、ぅあ……っ。つ、次は、次なら、わたしは勝てる。勝てる、はずなんです……。

 だ、だから、今回は、間違いで。あっちゃいけない可能性で……あっちゃいけないわたしは、裁かれ、ないと」

 

 ぼきり。中指を折った。

 傷付いた神経が悲鳴を上げて、大小の破片になった骨が内部の肉に突き刺さる。

 涙が出そうなほどに、痛い。

 それに、胸の痛みもかつてと変わらないまま。ただ、純粋な痛みが少女の頭を埋め尽くす。

 

 けれど、それっぽっちの痛みでは到底足りなかった。

 裁きが、足りない。喘ぐように呟く。

 全然足りない。まるで報えていない。呪いを込めて、呟く。

 

 だからもう一回。もう一回だけ。

 次は絶対に勝つから、やり直しを。

 ……なんて、何度目になるかもわからない"もう一回だけ"を、(こいねが)う。

 折れて歪んだ手で祈りを象って、どうか、どうかと。

 まるでバカのひとつ覚えだ。

 

 しかし、そうすれば自身の中の女神さまが応えてくれるのだと知っていた。

 恥も躊躇も既になく、子供が親に助けを求めるように──親に向けるにしては酷く歪んだ思いを、頭上に掲げる。

 

『分かります、分かりますよぉ。勝ちたいですよねぇ』

 

 そして、必然。

 

 するりと降ってきた言葉が、やさしく撫ぜた。

 少女はそれを受け止めて、あぁ、よかったと、本当によかったと、安堵してしまうのだ。

 そしてさらに祈りを強めて、縋りつく。

 そればかりが繰り返される。そればかりが、待ち受ける。

 延々と、明日になるまで終わらない。

 

 だから、どう転んでも待つのは破滅。

 上を目指せば干からびて、下に沈めば溺れ死ぬ。いったい、ミミズの自殺とどれほどの違いがあろうか。

 

『じゃあ今回も目覚まし時計を鳴らすために……。そして強くなるために、あなた自身を削ぎ落としましょう?』

『どれがいい?なにがいい?あなたは何なら差し出せる?』

 

 けれどファインドフィートは、その明るく歪んだ声に依存しきっていた。

 

 やり直し。

 強くてコンティニュー。

 削り落とした余白に、別の"何か"を注入する儀式。

 女達はころころと、けらけらと笑いながら、少女の左右に陣取った。

 

 指を指す。示したのは耳。つまり、聴覚。

 指を指す。示したのは喉。つまり、声。

 指を指す。示したのは顔。つまり、表情。

 女達は、結局のところ、少女が走れるのなら何でも良かった。

 求められたのも、求めているのも、最終的な結果だけだからだ。

 リザルトが高得点になるのなら多少のデメリットは許容するべきだし、躊躇してはならないとも考えていた。

 

 とはいえ、何でもかんでも使える訳では無い。

 日常生活を送る必要はあるし、生命維持のための機能は残さなければならない。

 それに、走る機能そのものはさほど損なわないように配慮も必要だ。

 だから今まで削ってきたのは、肉体へのダメージがない記憶領域や、可能な範囲での身体機能。ある意味では、優しさとも表せるかもしれない。

 

『……とは言うものの、ねぇ。そろそろ残りが少なくなってきたわね』

『まぁ今まで二桁はやり直していますからねぇ。レースでもそうですし──この子のお友達に邪魔されちゃったりしてますから。その度にやり直してれば流石に消費も嵩んじゃいますよぉ』

『やり方をもう少し考えたほうが良いかしら』

『今更じゃありませんかぁ?やり直して、その都度祝福を与える。散々議論した上での方式じゃあないですか』

『そうだけど、ねぇ……このまま続けても結局全部なくなるでしょう』

 

 そして、女達が悩ましげにかわした会話を聞いて、小さく肩が震えた。

 下げたままの頭と首筋を、じっとりと冷たい予感が這いずっていく。ずるりと、いやな存在感を主張する。

 

 どうしてだろうか、少しだけ考える。

 女達の会話が不穏なのは……ファインドフィートにとっては、いつものことだ。

 生殺与奪の権利は当然のように握られていて、それが大前提。当然の摂理とでも言わんばかりの口ぶりで、ファインドフィートの行く先を話し合っている。

 もちろん、当事者の意志は考慮されない。それもまた、いつも通りだ。

 

『……ああ、そうだっ!良いことを思いつきました!』

 

 だけれど、肩の震えが止まらない。

 

 いつも通り、ではない。

 声を聞く度に、衣擦れの音を聞く度に、床に向けられた視界に裸足が映り込む度に、冷たい予感が何かを訴えかける。手首を見れば肌が栗立ち、冷たい汗も滲んでいた。

 

 そして、つい耐えかねて、頭を上げる。

 柔和にほころぶ女の顔が、視界いっぱいに広がった。

 

『もう十分育ったでしょうし──もう、全部使い切りませんかぁ?』

 

 それ。

 女の指先が、ファインドフィートの胸元を小突いた。

 

『あなたが過ごした三年間の、芯の部分。一番おおきな思い出。今まで使った小枝じゃなくて、幹や根っこ』

 

 そう、言われて。

 明言されるまでもなく、何の記憶なのかすぐに分かってしまった。

 ファインドフィートにとっての、三年間の主軸にあったひとびとの記憶。

 姉みたいな友達と、空みたいに尊大な友達と、細っこい哀れな大人。

 そんなひとびとと過ごした、木漏れ日の思い出。

 

『それ、きっと良い燃料になると思うんですよ。だって、あなたを──"あなた"を育てた思い出だもの。それだけ大きくて、重たいはずなんです。

 だからそれを削ぎ落とせば、きっと、もっと高く飛べる。今までみたいに"勝てるまでコンティニュー"っていうのも大変でしょう?疲れるでしょう?苦しいでしょう?』

『……確かにそうね。空っぽになったほうが速くなれる筈だもの。何度も小刻みに苦痛を味わうより、一度限りの最大の苦痛で済ませたほうが楽でしょ』

 

 今までは、負ける度にコンティニューを繰り返してきた。

 逆を言えば負けなければコンティニューしなくても良い──何も失わずに済む方法だった。

 何故そうなったのか、ファインドフィートは知らない。けれど事実として、()()()()()、最小の犠牲でやり過ごせる方法である。

 

 女達は、それをやめてしまおうと言う。

 

 もうファインドフィートの中身が空っぽになっているから。より正確には、なくしても問題ないものを殆ど使いきったから。

 だから今までの方法に見切りをつけて、一括で全てを支払おう。

 コンティニューなんて必要ないほど、誰にも負けないレベルに祝福を盛ってしまえ、なんて、頭の悪い……しかし、確実な解決方法を提示している。

 

 その意図も、『ファインドフィート』の目指す先と矛盾しない。

 徹頭徹尾、女達の見る先はぶれていない。

 だから正しい未来は、やはり従順に従った先にあるのだろうと思えてしまった。

 

 今この瞬間に、間違いなど無い。

 全て正しい、依然変わりなく。

 ファインドフィートはそう信じていた。

 ……信じていたけれど、喉の奥でぐつぐつと煮える何かが、その信仰に疑問を投げかけている。

 

 ──本当に?

 

『じゃ、やり直しましょう?今度はきっと勝てるわ。次も、勝てるはずよ』

『身軽になったあなたなら、もっと速く走れるはずですものねぇ』

 

 ──本当に、差し出していいの?

 

 差し伸べられる手。

 少女の合意を待っている、血の気のない白い手だ。

 もしその手を取れば、ファインドフィートは喪失と共に立ち上がるのだろう。

 空っぽの身体はさぞかし軽く、心地よく走ってくれるに違いない。ファインドフィートはそうして、芝の緑と空の青に混ざって、満足して終わっていく。

 そんな未来が、選択の先に待ち受けている。

 

 ──本当に、それでいいの?

 

 けれど、思わずにはいられない。

 三年間の思い出を失うことの重みと、大きさを。

 嘗ては空っぽの肉人形だった少女を、ひとりのにんげんに育てた想いを。

 

 ──裏切っても、いいの?

 

 迷わずには、いられない。

 天秤の右の皿に、夢をのせて。

 天秤の左の皿に、記憶をのせる。

 一年目の頃は、右が大きく沈んでいた。

 二年目の頃は、右が少しだけ沈んでいた。

 三年目になった、今は。さて、どうだろうか。

 ファインドフィートは、やはり迷ってしまう。迷うことが、できてしまう。

 

「……女神さま」

 

 女の手を見た。

 今も少女が手を重ねるのを待っている。

 無邪気に優しく微笑んで、夢の先に連れて行こうと待っている。

 ファインドフィートが手を取るものだと疑いもしていない。

 

 だから、少女は手を伸ばした。

 か細く震える指先を虚空に踊らせて、ゆっくり、ゆっくりと近付ける。

 迷いと、恐怖が、見えない鎖になって、震える手を絡めとる。

 

 もう、指と指が触れ合う距離だ。

 

「──」

 

 そして、その手を。

 

 

 ○

 

 

 ぱん、と。

 短く、乾いた音が響く。

 

 女の手はあらぬ方向を向き、微かな赤みを帯びていた。

 つまり、振り払ったのだ。その手を、力いっぱいに。

 

 女達の顔は、氷のように固まっていた。

 怒りも困惑もなにもない。

 ただ、理解できない現象を前に、須臾の硬直が延々と繰り返されるばかり。

 

 そして、当の本人の顔には。

 どうして、という疑問ではなく、やってしまった、という後悔でもなく、やっぱりか、という納得だけが浮かんでいた。

 だからこそ、ただの突発的な行動ではなく、あくまでも自らの意志による拒絶なのだと、言葉よりもなお雄弁に語る。

 

 ファインドフィート──()()()()

 それが、()()()の選択だった。

 おまえはおまえの意思で、それを選んだのだ。

 

 確実な勝利を諦めたおまえの前には、茨の道しか残されていない。

 三年間の記憶を抱えたまま夢を叶えたいなぞ、強欲にも程がある。

 であるならば、相応の苦難があって然るべきだった。

 

「女神さま。これは、ダメなんです」

『……どう、して?それを使えば確実に乗り越えられるのに』

『分かってるの?私達はギリギリの瀬戸際を走っているのよ?それにほら、今までも沢山使ってきたのに今更じゃないの』

「確かに、今まで多くを使ってきました。今更だっていうのは、わかります。今までの全てに優劣をつける、バカなことだって、わかってます」

 

 もうしばらく浸れていた筈の日常には、戻れなくなる。

 なぜなら、フィート。おまえは、記憶の代わりになる何かを捧げるつもりだ。

 その代わりになる何かが一体どれほどの欠落を招くのか、理解しているのか?

 ……もし、理解していないのであれば、まだ救いはあった。 

 けれど、おまえは全てを理解していた。その選択の先を、全てだ。

 納得して、そうであっても構わないと、決意さえ抱いていた。

 

 ひどい矛盾だ。軸がぶれている。おまえは、何になりたかったのか。

 おまえは、おまえの解を出し終えている筈だろうに。

 

「だと、しても」

 

 その目に曇りはない。

 語り口はいつになく滑らかで、惑いもない。

 

「この思い出だけは、渡したくないんです。女神さまにも、お父さんやお母さんにも」

 

 居直って、両膝と、両手を床につける。折れ曲がった指が、ひどく痛んだ。

 その痛みを紛らわせるために、一度、大きく息を吸う。

 そうして目の前の女に、こつこつと言葉を紡いだ。奉じるように、厳かに。

 

「姉さんに、だって」

 

 それは祈りのようでありながら、決して盲目的ではない。

 譲れない最後のひとつを渡さないように、強く、強く抱え込んでいる。

 利他ではなく、利己による執着の発露。

 混じりっけのないそれは、独占欲。醜くくも、()()()()()感情だ。

 

「これは、わたしのもの。わたしだけのもの。"ぼく"じゃなくなった"わたし"の、"わたし"だけの……たいせつな思い出」

 

 つまりおまえは、それほど愛していたのだ。

 あの輝かしい、真昼の日々を。

 

「……だから、ごめんなさい」

 

 こつりと、額を地面に擦りつける。

 

「とらないで」

 

 それが、おまえの綻びだ。おまえの弱さだ。

 知りうる限り、もっとも従順な姿勢で許しを乞うたのは、おまえの願いだ。

 

 だが、同時にこれが認められるべきものではないと、誰よりも理解している。

 女達とは違って捧げた物の重みを知っているからこそ、なおさらに。

 

 

『そう。……そう、だったんですね』

 

 頭上から降ってきた声音はやわらかくて、トゲがない。

 かといって肯定する響きには遠くて、僅かに否定に傾いている。

 それは、おまえが聞いたことのない声だった。

 

 反射的に頭を上げてしまいそうになるのも仕方がない。

 おまえが知るその女は、無機質で、けれど粘着質で、常識の通用しない化生のようなものだった。

 今の姿はそんな印象からかけ離れていて、輪郭を掴めない。

 いまも震える身体だけが、女の声を評価するパラメーターになっていた。

 

 ……何にせよ、言うべきは言った。吐いた言葉は取り消せない。

 今のおまえにできるのは、沙汰を待つだけだ。

 

『でもね……ねぇ、フィートちゃん。分かってるんですかぁ?

 あなたがそれを守りたいのなら、代わりがいる。代わりの、やり直すための燃料がいる。あなたの身体を強くするための対価が、たくさんいる。……それでも、ですかぁ?』

「覚悟の上です。……それに、使えるものはまだあるじゃないですか」

『……ええ。けどそれは──次点で良質な対価、あなたの身体機能を燃料にしないといけないの。今までみたいにコンティニューを繰り返して最小の犠牲を目指すにしろ、一回きりの最大の犠牲で確実な勝利を目指すにしろ、どっちだろうと変わらないわ。あなたは、人形になる』

「分かってます」

『はぁ~……まったく、これっぽっちも分かりませんねぇ。夢のためなら全部を投げ出せるんじゃあなかったんですかぁ?』

 

 ちくり、ちくりとふたりの言葉が突き刺さる。

 呆れたふうの白々しい苦言が、頭上から降りかかった。

 

 さりとて弁明するでもなく、否定することもなく、己の主義主張を曲げぬままで、額と床をくっつけ続ける。

 やがて受け入れられるまで、テコでも動かないつもりだ。

 

 白い服の裾は、泥ではなく、埃に汚され始めていた。

 

『本当に、捨てないつもりですかぁ?』

「……はい。もう、わたしには捨てられません。わたしはあのひと達との思い出と一緒に、最後を迎えたい」

『…………はぁ~~…………』

 

 頭上から降り掛かったのは、大きく、長く、重たいため息。

 平伏した姿勢では見えないが、女達は、とくに太陽の女は、光のない瞳でおまえを見下ろしている。

 けれどおまえにはおまえなりの代案があったし、女達だって保険のひとつやふたつは持っている。だから、問答無用でやり直しのベルが鳴ることはない。

 パワーバランスが偏っている時点で、安心できるとは言い難いが……。

 ……それでも、おまえには十分だった。

 

「女神さま。わたしが正しいのか、間違っているのか、今も分かりません。結局、いつか結果に追いつかれるまでは、正誤は分からないんです。

 ……それは女神さまに連れてきてもらった今までの道のりだって、同じです。わたしは結局、理想そのものにはなれませんから」

 

 悟ったふうの独白を、女達は遮らなかった。

 声音が部屋に染みて、静寂を上書きする。

 

「でも、でもね、女神さま」

 

 そこでふつと、言葉を区切った。

 すぅと息を吸って、頭を上げた。

 

 埃がついた額や、泥がついたままの頬を拭うこともせず、女達を見つめ返した。

 王冠の女は、少しだけ離れた位置に陣取っていた。

 太陽の女は、おまえの直ぐ目の前にいる。黒ずんだ毛先を揺らして、ちりちりと、焦げつくような熱を放っていた。

 熱の正体は、怒りだろうか。悲しみだろうか。

 ともかく、この女には似合わず、人間臭い何かを滲ませている。

 

 それを表す言葉としてもっとも適切なのは、きっと、"嫉妬"だ。

 

 けれどその内面を、おまえは知らない。

 知らないからこそ、はにかむような笑顔で、無邪気に口を開く。

 それこそがおまえの、本当の顔だった。

 

「わたし……なんだか、後悔しない道を選べた気がするんです」

 

 フィート。

 おまえは結局、自分の心を明らかにしたいだけだった。

 

「これから先も、わたしは後悔しない。テイオーさんに言ったようなでまかせじゃありません。

 これを捨てたらきっと、わたしはわたしを見失う。でも持ち続けている限り、わたしはわたしとして苦しむことが出来る。

 ……だから、これでいいんです」

 

 言って、笑う。

 自分勝手に、満足感のあふれる顔で。

 

 正しくても、間違っていても、どちらであっても後悔しない。

 おまえには、確信があったのだ。

 

『黙りなさい』

 

 女にしてみれば、その顔はひどく憎たらしい物だったのだろう。

 

 可愛さ余って憎さ百倍、というべきか。

 歪んだ欲求に従った太陽の女が、するりと手を伸ばす。

 掴んだのは、おまえの顔。おまえの、柔らかい頬。爪を立てられて、血が滲む。

 

『あなた達はね、そんなに難しい事は考えなくていいんです。私達を……私を信じなさい。ただ、走りなさい。何度でも、何度でも、何度でも、私が走らせてあげますから』

 

 そして、滔々と言い聞かせる。

 聞き分けの悪い子供へ、女にとっての通理を説く。

 

 "子供は大人の言う事に従っていれば良い"。

 "背伸びするな"。"背丈にあったものだけを見ろ"。

 "考えるな"。

 "考えるな"。

 "考えるな"。

 

 なんて、今まで通りに、今まで以上に、思想を押し付ける。

 

 ……けれど、対するフィートの表情は凪いでいた。

 意味を理解していないのか?

 いいや、そんな筈はない。だって、今までは従順に従っていたのだから。

 だからこれは、理解した上のもの。

 理解した上で、頷きもせず、まっすぐに対面の目を見つめていた。

 

 それすらも、女の神経を逆撫でると知らずに。

 

『……っ。第一、あなたが正しい道を選べたことなんてありましたかぁ?ねぇ、ヒトミちゃん。産まれるべきではなかったあなたを愛しているのは私だけ。どんなにおバカなあなたでも、私の言う事を聞いていれば正しくあれるんです』

 

 おまえは揺らがない。

 

『何のために生き残ったのですかぁ?あなたのお姉さんは何のために、あなたにすべてを託したのか……分からない筈ないでしょう?』

 

 おまえは揺らがない。

 

『ねぇ、ねぇ、正しくありたいでしょう?正しくあらないと、報いないと、いけないのでしょう?』

 

 おまえは、揺らがない。

 意志は変わらず、撤回しない。

 

 故に女が求めた言葉は、決して口にされなかった。

 

「……女神さま。あなたの名前は何ですか?」

『は……?』

 

 代わりに飛び出したのは、そんな疑問だ。

 心の底から出たものではない。口先だけの、その時ふっと浮かんだ思考を言葉にしただけのもの。

 眉の端をほんの少し垂れさせて、眼の前の女の顔を見上げていた。

 

「あなたに好きな人はいましたか?」

『何を、言って……!』

「あなたは、その誰かに見つけてもらえましたか?」

 

 下手に言葉を選ぼうとせず、ひどくまっすぐに、けれど感慨のこもらない声で言う。

 だから、そのせいなのかもしれない。

 おまえの言葉は、女の胸に、深く突き刺さってしまった。

 

「わたしは、見つけてもらえましたよ」

『────』

 

 沈黙。停止。無音。しばしの静寂が部屋を包む。

 女は、理解に困窮した様子で硬直し、半開きの口を閉じることもしなかった。

 好きな人、とか。誰かに見つけてもらえたのか、とか。意味のない、意味の分からない質問を、空っぽの脳内に反響させる。

 

 そして、やっと意味を理解したのか。

 すっと、表情が抜け落ちた。

 

『もう、いい』

 

 波の失せた声だ。熱のない声だ。

 形容できる表現はいくらでもあるけれど、明確な事実はひとつだけ。

 

 我慢の限界を超えてしまったのだ、きっと。

 

『もういいです。

 連れて帰ります。明日なんてあげない、許さない。あなたは私のもの。このまま、ずっと、眠りにつきなさい。光なんて二度と見せない。あなたは私の──』

 

 頬を掴んでいた手が、するりと首にかかる。力が籠もった。

 そして歪んだ女の顔を、おまえはぼんやりと見つめていた。

 欲に染まった目は爛々と輝いていて、やはり人間臭い。

 もはや、この瞬間の女はおまえよりも人間らしいほどだった。

 

 そんな女の目を、ほんの一瞬だけ眺めて、これからどうしたいのか悩んでしまう。

 どうするべきか、という観点で言えば、おまえは抗うべきだ。

 夢を叶えなくてはいけない。望んだ終着点を求める気持ちに変わりはないのだから。

 そして抗い方は、たった今学んだ。

 反射的な行動であれど、その瞬間の感覚は、今も身体に染み付いたままだ。

 

 けれど、さて。

 女神なくして夢を追いかけるなぞ、いったいどうすれば叶うのか?

 やり直し(コンティニュー)がいる。祝福(ブースト)がいる。茨の冠(いのち)がいる。おまえ単独では、勝ち残れない。

 故に結論、不可能。おまえには、抗えない。

 

 そう、おまえには。

 

 

『あのねぇ、何言ってるのよ。許すわけないでしょ?私はね、この子が夢を叶えるところを見たいの。あなたのオママゴトに興味はないのよ』

 

 続けて響いたのは、冷たい声だった。

 それから、太陽の真横から王冠が顔を覗かせる。

 普段の高飛車な様子とは違った、鋭い眼差し。真冬の石より冷たい目を己の同胞に向けて、手首を引っ掴む。

 

 ぎちりと、軋む音が聞こえた。

 

『はぁ……あなたも邪魔するんですかぁ?血統頼りの末端風情が……ヘロド、あなたの血が本当に青いのか、確かめて差し上げましょうか』

『何ひとりでボルテージ上げてるのよ……。

 いい?私はこの子が最小の犠牲を目指そうが、最大の犠牲で一発勝利しようがどっちでも良いの。無くなるのが記憶だろうが身体機能だろうが、最終的には勝つんだもの。本当にどっちでも良いわ』

 

 そこで、ひと区切り。

 口を閉ざした太陽をみやって、少しだけ力を緩める。

 

『……まずはこの子から手を離して、深呼吸しなさい。頭に血が上りすぎよ』

『…………』

 

 返事はなかった。

 しかし、ゆっくりと、太陽の手から力が抜けていく。それが答えの代わりだ。

 

 ようやく平時の雰囲気に近付いたことを感じて──表情は変わらず能面のようだったが──王冠も、掴んでいた手を離した。

 そして、結論を纏めにかかる。

 

『で、フィートちゃんは記憶をなくしたくない。それは別に良いんじゃない?どうせ終着点は変わらないし。途中経過が、手段がいくら変わろうと、目指す先は変わらない。……そうでしょ?』

 

 つまり、フィート。おまえは最後の一線を守りきったのだ。

 それがきっと、尊厳と呼ぶべきものだった。

 

『選んで。これぐらいの選択は尊重するわ』

「私が望むのは確実な勝利です。ですが記憶は失いたくありません。……だから、代わりを使ってください。使えるもの全部です。

 ……もう、心残りはありませんから」

『そ』

 

 また、手が伸びる。白い頭に、王冠の指がかかる。

 髪を一房すくい上げ、一度、優しい手つきでゆるりと梳いた。

 青い目に浮かんだ疑問は、しかし、すぐに溶けて消える。もう意味の無くなるものだと分かっていたからだ。

 

『じゃ、まずは感覚機能からいきましょう。物の形が見えて、音が聞ければ十分でしょ?』

「……はい。構いません」

 

 身体が、軽くなっていく。

 音もなく、始めから無かったかのように、霞のように消えていく。

 ひとつ、またひとつ。数えることすら難儀なほど、軽やかに。

 色が消えた。模様が消えた。匂いも何もしなくなって、あったはずの肌寒さもいつの間にかなくなっていた。

 昨日と明日の境目と同じだ。夜明けと黄昏時と同じだ。境界線が曖昧になって、混ざり、平坦になる。

 数え切れないほど多くの要素で作られていた世界が、単一のそれに限りなく近づく。

 世界が、色褪せる。

 

『……はぁ~……。まぁいいでしょう。ヒトミちゃん……いえ、フィートちゃん。これからあなたの中身を燃やします。燃やして、空いたスペースに因子を──あなたを強くする夢を、継ぎ足します。あなたは夢と同じもので出来ている。……忘れないでくださいね?』

「はい……っ。心得て、います」

 

 やがて臓器も順々に機能を低下させて、最低限を残して眠りにつく。

 空っぽになっていく自分の体を見下ろして、吐き気がこみ上げた。

 けれど、吐き出しはしない。歯を食いしばって、ただ、耐える。

 

 喉元さえすぎれば、なんとかなる。

 なんとかなって、なんとかなれば。

 ……あとは、今までの道のりを、精算するだけ。

 ここから先に、分岐はない。ここから先に、失敗もない。上振れも下振れも存在しない。

 リザルトを確認できるようになるまで、待つだけだ。

 

『よし、脳機能も大体要らないわね。正直、こんな複雑なのよく分からないけど……たぶん運動野あたり残しておけば何とかなるでしょ。後頭葉は……あ、視覚のためにいるのね。じゃあ頭頂葉……も、いる。前頭葉は良い……良いわよね。で、言語野は……』

『もう要らないでしょう。だって、残り一ヶ月ですもの』

『……ま、そうね。消しましょっか』

 

 やがて、意識まで薄れていく。

 深い眠気が訪れ、目つきが胡乱に淀む。

 息を吸えば意識が引っ込み、けれど息を吐いても戻らない。

 不可逆の眠りが、おまえを捕らえた。

 

『あぁ、声もいらないでしょう』

「────」

 

 そして、最中で。

 完全にまぶたが落ちる寸前、最後の最後に口にしようとしたのは、一体何だったのだろうか。

 ……それを知るのは、それを知っているべきなのは、他の誰でもないおまえだけだ。

 

 フィート。おまえにもまだ聞こえているだろうか。

 おまえを望む声は、今も日本中に散らばっている。おまえに願い、おまえを愛する者が、星の数ほどいる。

 

 フィート。おまえにはもう、聞こえないのだろうか。

 ぱらぱらと、屋根を打つ雫の音が。びゅうびゅうと吹く風の声が。

 外では雨がふり始めている。土の上の水たまりは、じきにおまえよりも大きくなる。

 

 

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