【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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68話

 

 

 最後のレースが待っている。

 人生の大一番。一年の締めくくりで、三年間の締めくくり。

 今日この日ほどの晴れ舞台は、きっと他にないだろう。

 

 フィート、おまえが欲したものだ。

 

 おまえが望んだもの、望まれたもの。

 多くのひとに憶えてほしいと願った先に、ようやく実った果実が、そこにある。

 

 地下道を歩くおまえの前にあるのは、ただの一本道だ。

 模様はみえない。色もみえない。高低差もわからないし、距離もわからない。

 けれど、確かに道だった。

 だからおまえは臆することなく、淡々と歩みを進めていく。

 

 

 ……だけれど、フィート。

 おまえには、周囲にいる少女達が見えていないのだろうか。

 思い思いに声を掛け合う少女のうちのひとりが、おまえに歩み寄ってきたのに、そちらに視線をよこそうともしない。

 その少女に気を悪くした様子はない。だが、おまえが礼を失していることに変わりはない。

 いや、ひょっとすると彼女は気付いていないだけなのかもしれない。

 おまえにころりと笑いかけて、いい勝負にしようね、なんて、語るほどだ。今のおまえが言葉を理解できないなんて、知らずに。

 

 だがその少女が何を思っていようと、何を知っていようと、おまえは言葉を返せない。

 声を持っていないのだから、沈黙以外の選択できない。

 あぁとか、うぅとか、そんな簡単な発声すらできないのだから、当然だ。

 

 だからおまえは少女に顔を向けて、首を傾げて、それっきり。取り繕うことさえできなかった。

 おまえのそれは、人間に語りかけられた犬の所作にも似ている。

 それに違和感すら抱かれずにいるのは、良いことなのか、どうなのか。無様では、あるかもしれない。

 

 

 ……ともかく、相手の少女はそれで満足したらしい。

 

 気力が漲った様子で、意気揚々と一番乗りで道の先の、芝の上へ駆けていった。ながく伸びた影でさえ、ほんの一瞬のうちに淡い光に飲まれる。

 周囲の他の少女も同じだ。次々とそれぞれの足取りで、舞台に上がっていく。

 跳ねるように駆ける者もいれば、一歩一歩踏みしめるように歩く者もいる。

 彼女等に共通するものがあるとするなら、それはみな溢れんばかりの気迫をまとっていること。

 怯懦を抱えている者はいない。だれもが、相応の理由と、願いを携えてこの場を訪れた。

 この場にいるひとりひとりが、紛うことなき強者なのだ。

 

 ……。

 ああ、いや。

 ひとりだけ、例外がいた。

 

 一番後ろにいたおまえの、更に後ろ。

 来た道の奥からするりと姿を見せた少女だけは、浮かない顔をしている。

 顔はじっとり青褪めていて、濡れそぼった苦悶が滲む。まるで、おまえの瞳のように。

 だが、そんな有り様でも、ここに立っている。立っているということは、おまえの競走相手に違いない。

 

 では、おまえのやるべきことは?

 

「──……」

 

 そう。おまえのやるべきことはひとつ。

 口を開かず、背を向けること。

 

 赤い導きが、おまえの首に嵌められた奴隷の輪が、軽やかに嘯く。

 首をつたう赤い糸を追いかけなさい。それがおまえの運命で、おまえの末路につながっている。

 ……おまえは、その命令に逆らえない。

 故に従い、故に盲目的に、ふらりと身体を押し出した。光の差すほうへ──。

 

「待って、ください……っ」

 

 ──その叫びさえなければ。間違いなくそうなっていた筈だ。

 

 長い栗毛の、おまえはもう覚えていない少女が、必死におまえを呼び止めた。

 そう、呼んで、止めたのだ。おまえの足を。

 

 フィート。おまえは、何故止まったのだろう?

 おまえは言葉を解さない。おまえの頭は、その機能を使えない。

 封じられたせいで、なのか、失ったせいで、なのか。そのどちらなのかは定かでないけれど、同じこと。

 その少女の願いなんて、理解できない筈だった。

 

「…………」

 

 それでも、おまえは振り返った。相手の顔を、見た。

 目がふたつあって、鼻があって、口がついている。そんな顔だ。おまえの目ではその程度しか認識できない。ひとそれぞれの個性なんて、何も分からなかった。

 目の色も、顔の特徴も、髪の色も、何もかもだ。

 

 だから、おまえはその少女を──ミホノブルボンを、二度と見つけられなくなっていた筈で。

 事実今も変わっておらず、おまえの無機質な網膜には限りなくゼロに近い情報だけが映っている。

 

 なのに、それだけで。

 (めくら)が見る光のような、朧げなそれだけで。

 たったそれだけの何かが、おまえの足を引き摺り止めたのだ。

 

「あ、ぁ……あなた、は」

 

 ブルボンが薄い唇を震わせる。

 視線の先には、逆光に隠されたおまえの顔があった。

 

 いっぱいに開かれた両目に宿る感情を、何と言い表そう。

 恐怖、驚愕、哀愁、憐憫……懐旧?

 そのどれもが正しく思える。同時に、違うようにも思える。

 ぐちゃぐちゃに混ざりあった感情は……とてもではないが、一口で言い切れない。

 ただ間違いなく、激情と呼べるだけの熱が、そこにはあった。

 

「あなた、は?」

 

 しかし、その熱からこぼれ落ちたのは──熱の割に、静かな問いだった。

 

 つまり、おまえは誰なのか。

 

 その疑問は、当然のものだ。

 おまえがそうであるように、ブルボンだっておまえのことを忘れている。

 記憶に蓋をされて、おまえと共に過ごした日々の何もかもが、暴力的な白に塗りつぶされて。

 

 それでも、だった。

 

 きっと、残っているのだ。その空っぽの頭の中に、おまえを呼び止めるだけの何かが。

 だからおまえと彼女は、そういう所も似た者同士だった。

 ……あの日の事故さえなければ良き友として。あるいは別の間柄としてでも、ずっと共にあれたろうに。

 

「あなたは……誰、ですか?いいえ、私は、私は……あなたを知っている、筈。なのにあなたの名前を、思い出せない……?」

「……」

「あなたは、誰?」

 

 ふらり。一歩近づいてくる。

 手が、おまえに伸びる。届かず、宙をきる。

 

 ゆえに、ブルボンが答えを得ることはない。

 この場では、おまえと彼女は何の繋がりも持たないひとりと、ひとりだった。

 

 

 おまえはまた、前を向いた。

 そして光の差すほうへ歩き始める。薄暗い光が、おまえの道しるべだった。

 縋る視線に背を向けて、輝かしい未来のために、麗しき過去のために、今日いちばん、大きく足を振り上げて。

 

 ……さあ、生前葬だ。

 おまえが、望んだとおりの。

 

 

 ○

 

 

 天気は雨だった。ざあざあと、雨が降っている。

 土砂降り、というほどではない。けれど、小雨ともいえない。

 ざあざあ、ぱらぱら。

 傘を差せば小気味よい音を聞かせてくれそうな、ちょうどいい雨だった。

 

 ……そういえばフィート、おまえにとっては初めての空かもしれない。

 それはもちろん、生まれて初めて見たとか、そういう意味ではない。雨天の下を走るのは初めて、ということだ。

 いままでのレースはすべて晴天下で行われていたから、今日のこれは少しだけ特別だ。

 

 ……雨というのも、案外悪くないものだ。

 だって、ほら、おまえの肌は白くて日光に弱かった。

 クリームを塗り忘れた日には真っ赤に腫らしてしまうほどで、おまえも随分困っていただろう。

 だが、今日はそんなものとは無縁だ。

 肌を灼く日光はすっかり雲に隠されて、熱は雨に流される。

 

 まぁ……今のおまえには、良いも悪いも関係ないのだろうけど。

 

 そしてやはり、おまえは何も見ないまま。けれど確かな足取りで、ゲートの中に入り込んだ。

 おまえには分からないだろうが、風の手触りはじっとりと湿っていて、溺れるような窒息感を漂わせている。

 生臭い草の匂いはむせ返るほどに濃く、土の雑な香りと共にまとわりついてくる。

 その程は……周囲の少女等の顔が、ありありと物語っていた。

 

 ……ねぇ、フィート。ファインドフィート。

 おまえもその居心地の悪さを噛みしめるべきだと、私は思うよ。

 

 

 ○

 

 

 ざあざあ、ぱらぱら、しとしと。

 水に濡れて額に張り付く前髪を、すっと横に流す。

 それと同時にファンファーレが、雨の隙間から響いた。ざあざあと鳴り止まない音にも負けず、甲高く。

 あわせて打ち鳴らされる手拍子もまた同じく、おまえ達の耳を震わせる。

 時刻のわりに薄暗い空とは対照的な、明るい調子の騒がしさだ。

 

 そして、それらに背を押されるように、おまえ達が舞台に立つ。

 数は、おまえを含めて十六。

 誰も彼も、この世代を代表する優駿だ。もちろん、おまえもそのひとりである。

 

 おまえは今まで、よく走ってきた。たくさん走ってきた。

 そのために積み上げた努力は、誰もが認めるものだ。

 だから、ここに立っている。おまえがいま、入りこんだ狭苦しい箱の中からでも、観客席に犇めくひとびとはよく見えるはずだ。その中の幾割かが、おまえだけに視線を注いでいるのも。

 

 ……もし叶うのなら、それに対する感慨も聞いてみたかったところだった。

 これはなにも、私だけの思いではない。

 だって、おまえを見ているみんなは、おまえの姿を見て、そこに夢を重ねている。夢を、乗せている。虹をつかむ姿を見たがっている。

 なのだから、そんなおまえの内心を知りたいと考えるのは……別に、何もおかしくないだろう。

 

 一番人気だと言われて、何と思った?

 勝ってほしいと願われて、何を思った?

 これから走るまわりの娘らに、何を思いたい?

 

 ……。

 …………。

 

 

 分かっている。おまえは答えを持たない。

 だから、そう、推測してみよう。

 もしもおまえに意識があったのなら、きっと……怖いだとか、逃げたいだとか、色濃い負の感情を抱えていたはずだ。

 なにせおまえは臆病だ。生まれついての臆病者だ。

 痛いのは嫌いだし、苦しいのも嫌だ。走っているときに、他人に近づくのが恐ろしい。

 そして何よりも、期待を裏切るのが、怖くて怖くてたまらない。

 おまえはそういう臆病者であると同時に、完璧主義者でもあった。

 

 その内面も含めて、もしもを考えたなら。

 本来のおまえなら、きっと、恐怖だけではなく、両手いっぱいの勇気も抱えていただろう。

 

 

 ……何にせよ、結局こうなってしまったのだから、無意味な憶測でしかないのだが。

 だって、今から流れを変えることはできない。

 もしもには、たどり着けない。

 川を流れる花びらに、自らの行き先を選ぶ権利はあるのだろうか?

 いいや、そんなものはない。決して与えられないものだ。

 いつか大海原に流れ着くか、水底に沈むまで、あるがままに流されるだけ。

 

 

 ……。

 ねぇ、フィート。そこからの見晴らしは、どうだろう。

 

 既に憶えてはいないだろうが、昔はテレビ越しに見つめていた景色だ。

 広い広い芝と、それを眺めるための大きな観客席と、比較してこじんまりとした鉄の箱。その中から今にも飛び出さんと息を潜める、少女達の姿。それらすべてが、私の憧れだった。

 

 フィート、おまえも。

 ……おまえも同じように、憧れてくれていたのか。もう、私には分からない。

 私は、どうしようもなく愚かだったから。救いようのない、間抜けだったから。

 

 おまえも同じように憧れていると、盲信してしまった。

 おまえに夢を託してもいいと、傲ってしまった。

 おまえにすべてを、押し付けてしまった。

 ほんの少しでもおまえの支えになってくれれば、なんて、考えるべきではなかったのに。

 

 だから。始まりの過ちは、私にあったのだ。

 

 私が、おまえに押し付けてしまったこと。

 私を、押し付けてしまったこと。それを間違いと言わず、何とする?

 ひととして、ひとつの命として、決して許されない悪行そのものだろうに。

 

 そのせいでおまえは、テレビの向こうにたどり着いた。

 あの日の憧れに、なってしまった。

 

 

 ○

 

 

 ゲートに入る。

 わずかな静寂が満ちる、ほんの一時。張り詰めた弓のつるのように、ピンと空気が震えた。

 この時ばかりはレース場にいる人々が一斉に口を閉ざして、呼吸を浅くする。

 おまえも、同じだ。

 浅く息を吸って、半分吐き出して。

 

 ──いやに響いた鉄の音が、レースの始まりを告げた。

 

 初手。

 まず最初に逃げウマが飛び出す。

 それから一秒遅れの実況が騒がしくまくし立て、おまえ達の軌跡を言葉にしていく。

 先頭、ミホノブルボン。二番手、マヤノトップガン。三番手、ネオユニヴァース。四番手にゼンノロブロイ──。

 フィート、おまえが着いたのは最後方だった。蹴飛ばされてきた泥がスカートを汚す程度の距離を保ちながら、黙々と走っている。

 後半での追い込みが目的なのは明らかだ。

 

 とはいえ、おまえに作戦という認識はない。

 これを考案したのはおまえのトレーナーで、それを形にしているのが首輪だった。

 おまえの役目は、今まで積み上げた経験を出力すること。それのみである。

 

 ともかく、陣形は早々に定まる。

 今はちょっとした小競り合いでしのぎを削る時間だ。大局を決めるのはもう少しあと、レース後半に入ってから。

 今はただ、身振りでフェイントを仕掛けたり、足音でけん制し、より良い位置に体をねじ込む。いずれも結果を決める物にはなり得ないが、多少の影響を及ぼすもの。

 その多少がどれほどの重みを持つのかは、きっと巡り合わせ次第だろう。

 

 何にせよ、最後方を走るおまえにはさほど関係ない事柄だ。

 おまえはおまえのペースで、群れを追いかけ続ける。

 お気に入りの青い靴は、すっかり泥まみれになってしまっていた。

 

 それでも踊るようにステップを踏む。

 くるくる足を回す。どんどんと足を鳴らす。

 たとえ記憶がなくとも淀みなし。おまえの身体に染み付いたフォームは一切崩れない。

 

 そうして、10秒。

 

 やがて辿り着いたのは、観客席からみて向こうの正面。

 タイム、58秒フラット。ハイペースだ。

 

 差しや追い込みといった、足をためている者達には有利な状況、ではある。

 だがあいにくと、おまえのトレーナーはそれで油断するほど能天気ではなかったし、おまえの首輪の主もまた同じだった。

 

 それに何よりも、中山の直線は短いのだ。

 最終コーナーを回ってから一気に力を振り絞ったとしても、まず足を使い切れない。

 故にようやく、あるいは早くも、足のリズムを変化させる。より速く、激しくに。

 

 おまえのすぐ目の前にいた少女を抜いて、先頭へ三歩分ほど距離を詰めた。

 ぎゅっと姿勢を低くして、おまえはおまえの道を阻むものを追い立てる。

 土を砕いて、砂を噛む。身体を泥で汚して、ほんの少しだけ雨で清める。

 

『    』

 

 今なら、聞こえるだろうか。おまえに叫ぶ声が。

 

 おまえは望まれている。勝利を、望まれている。

 周りの者がそうであるように、おまえも望まれているのだ。 

 理解したところで意味はないのだとしても、おまえには、それを知っていてほしかった。

 

 

 フィート、おまえはそうして、背に声と雨風を受けながら走った。

 そしてついには最後のコーナーに足をかける。

 順位は丁度真ん中の八位……いや、七位になった。先頭までは六バ身ほど。つまりは射程圏内だ。

 

 もし。もしも領域なる技術が使えたら、ここから一気に抜き去って、早くに決着をつけることもできるのかもしれない。問答無用で勝利をもぎ取れるのかもしれない。

 けれど、おまえには無理だった。

 ifの姿の、おまえが欠けなかった世界なら、可能性はあったかもしれない。しかし現実にはならなかった。ゆえにそれは、妄想以上の重さを持たない。

 

 だが、残念に思うことはない。

 おまえには今まで積み上げてきた時間がある。燃やしても燃やしても尽きない想いがある。誰にも恥じることのない、おまえの足がそこにある。

 

『     』

 

 さあ、最終直線だ。

 

 長さはおよそ310メートル。

 もっと力を振り絞れ。もっと大きく息を吸え。土煙を呑み込め。

 ひとりとひとりの間を突き抜けて、思いっきり足を伸ばすのだ。

 そうしてしまえば……ほら、先頭の、棚引く栗毛はすぐ目の前だ。

 

「……っ!」

 

 ブルボン、ミホノブルボンが。

 かつて、おまえを最初に見つけた少女が、一瞬だけ振り返り、焦ったように表情を歪めた。

 雨に濡れそぼった毛先がおまえを突き放すように、ゆらゆらと揺れている。

 

 対するおまえは、もちろん怖気づかない。

 ……あぁ、いや。踏み込んだ一歩の歩幅は、少しだけ小さかったかもしれないが。

 だが、それに何の意味がある?

 おまえの走りを鈍らせるには到底足りない。

 

 残りは200メートル。

 既に影を踏んでいる。栗毛の先は、おまえの顔の横に並んでいた。そして青い目が、おまえを見た。おまえは、視線を返さなかった。

 

 残り100メートル。

 だからフィート、おまえには見えないだろう。

 おまえの横の彼女は、今も苦しげに顔を歪めている。

 

 ……もともと、ピークを終えている身だ。むしろ、ここまで走り続けていることが驚嘆に値する。

 ピークアウトとは本来もっと理不尽で、逆らい難いものなのだから。

 決して、意志の力だの何だので都合よく克服できる物ではない。

 もしあり得るとするなら……以前から長く走るための身体を作っていたこと、ぐらいか。数ヶ月どころではなく、年単位で。

 それならば、多少緩やかな下降に留めることもできるかも知れない。

 

 フィート。おまえはその事実を、もっと噛み締めるべきだ。

 

 残り少ない時間を、おまえと共に走っていること。

 残り少ない時間で、おまえが向き合っていること。

 ……もちろん、たった数百メートルの距離では精算できない。

 その意味の全てを咀嚼するなんて、不可能だ。

 

 けれど、だとしても。

 だからといって最初から無視するのは……あんまりにも、さみしいじゃないか。

 

 残り50メートル。

 一歩分、おまえが前に進み出た。

 となりの顔が苦痛に歪む。それは、充足には程遠い顔だった。

 

 残り、0メートル。

 ゴールラインを越えた。

 おまえは、こうして走り抜けた。

 知るべきを知らないまま、星のように瞬いて。

 

 そして、墜ちた。

 

 

 ▼

 

 

 ざあざあと降る雨は、少しずつ強くなっていた。

 

 空はどんよりと曇っていて、重たい雲はまるで散る様子を見せない。

 駆け抜けたあとの熱を根こそぎ奪うような、冷たい空だった。

 

 フィート。おまえはその真下で、ゴールの向こう側にひとりでぽつんと立っている。

 そして、おもむろに頭を上げた。視線の先はディスプレイの真横、掲示板だ。

 その掲示板の一番上で光る数字は、おまえのもの。おまえが一番最初に走り抜けたことの証拠。

 おまえが、一番速かったことの、証明。

 かつてのおまえが、宣言した通りの。

 

 とはいえ、おまえに数字は読めない。故に、得るはずだった感傷もない。

 走り抜けてよかったとか、どうしようもなく疲れたとか、やっと解放されたとか。

 そういう思いを抱くことすら、許されない。

 

 ……。

 ……おまえは、それを報いと呼ぶのか?

 

 

 ……私は。

 私には、そう思えない。

 たしかに、おまえの目的は達せられたのだろう。

 おまえが刻んだ足跡は、間違いなく世界に残る。

 その見届人はこの場の"みんな"だ。

 カメラの向こうを含めたこの場の、"みんな"の中に、『ファインドフィート』が残る。

 

 けれど、それで。

 そんなものを得たとして、おまえはどうなる?

 報いさえも受け取れないおまえは、いったいどこに居る?

 

 ……ねぇ、フィート。

 おまえの願いは破綻していたのだと、私は思う。

 いつからかといえば、最初から。最初からだ。

 

 だって、おまえが残したがった『ファインドフィート』なんて存在しないじゃないか。

 存在しないものを残すなんて、できるわけがない。

 

 ……。

 ……だからおまえの願いの正体は、ただ新しく作ること。

 ありもしない虚像を、実績という土くれで塗り固めるだけの苦行。

 それは単なる慰めでしかなく、おまえの傷を誤魔化すだけの麻酔。

 それは、現実逃避だ。

 フィート。おまえは逃げるために夢を見て、夢に逃げた先で、今度こそ終わろうとしている。

 

 結局、終わり方に綺麗な理由をつけたかっただけなのだ。

 そうして弔われたら悔いはないのだと、信じ込んでいる。

 おまえの終わりは正しいのだと、言い訳したがっている。

 

「はっ……はっ……!」

 

 ……おまえの、後ろ。

 喘鳴のなる方へゆるく振り返り、ほんの少し遅れてきた少女を見た。

 雨でも流しきれないひどい汗と、血の気の失せた顔色。土気色の肌。

 そのひとは──ブルボンは、今にも倒れそうな面持ちで、しかし、一歩ずつおまえに近付く。

 雨粒の向こうで揺れる瞳に、視線をあわせる。

 

「……あなた、は。あなたの名前は……っ!」

 

 そのひとには目がふたつあって、鼻があって、口がついている。おまえに分かるのは、ただのそれだけ。

 顔と定義するだけで一苦労の、それだけを。

 

 その顔を見て。おまえは、本当に嬉しそうに、本当に無邪気に、ころりと笑った。

 目から鼻からまっかな血を流して、汚された処女雪のように。

 雨では流しきれない、想いをこぼして。

 

 満足そうに、後ろへ寝転んだ。

 

「……待って」

 

 数秒。

 

 まるで潮が引くように、静けさが広がっていく。

 レースのあとの興奮も冷めやらぬひとりが、ターフの上のおまえを見つけて困惑を声にする。

 応援していた少女の敗北を見届けて嘆いていたもうひとりが、その困惑の声をうけてターフの上に視線を向ける。

 その連鎖が幾度となく繰り返されて、やがてざわめきばかりが観客席を埋め尽くしていた。

 

 あれはどうした、何があった、まさか事故か。

 なんて、そんな外野の声がおまえ達に降りかかる。

 

 けれど、所詮は外野。"みんな"ではおまえの血を止められない。

 ゆえに外野ではないブルボンが、寝っ転がったおまえの傍らに駆け寄ってきた。

 そしてひどく取り乱した様子で、おまえの身体を抱き起こす。氷のように冷たい肌に触れて。

 顔が、さっと青ざめた。

 

「待って、ください。そんな、こんなの、ひどいじゃないですか。だから待って、待ってください。起きて、起きて……っ」

 

 これが、おまえの望んだ末路。

 こんなものを、おまえは望んだ。

 ……私がおまえに押し付けてしまったから、こうなった。

 

「いや、いや、いや……っ」

 

 ……それにしたって、あんまりだ。

 

 おまえに、ただ、生きてほしかった。

 私は、おまえを愛していた。だから、生きてほしかった。

 生きてさえいれば、いつか幸せになれると信じていたから。

 

 それだけ、だったのに。

 

「フィート!」

 

 こんな終わり方、私は望んでない。

 

 私の願いは、こんなに……こんなに、穢されなくちゃいけないモノだったの?

 

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