【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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『はっぴーえんど』

 

 

 ピッ、ピッ、ピッ、と。

 規則正しい電子音が、白い部屋に染み渡る。

 まるでいつかの焼き直しだ。無機質な空間と無機質な音はひどく寒々しくて、どうにも落ち着かない。

 

 けれど部屋を作った人間にとって、管理する人間にとっても、どうでもいいことでしかない。

 だから誰に憚ることもなく、ピッ、ピッ、ピッ、とひたすら役目を果たし続ける。

 発生源は、金属の箱。側面は黒いディスプレイになっていて、緑色の線形がカクカクとした波を描いていた。

 心電図だ。

 これが、おまえの生を証明している。

 

 フィート。おまえはまだ生きていた。

 寄せては返す波のように、心臓が必死に生を叫んでいる。

 とくり、とくりと、か細くも、おまえを生かすために。

 

 ……けれど、足りない。

 足りないのだ。それにおまえを生かすほどの力は、もう、残っていない。

 全部、全部、使われてしまったから。

 

 だからその波も、遠からず平坦になる。

 せっかく走り終えたのに、やっと解放されたはずなのに、おまえは。

 おまえは、それを理由に、終わってしまう。

 

「……」

 

 まつ毛が薄く震えた。やわらかく開かれる、瞼の奥。

 その青は澄んでいながらも濁っていて、いずれの目にも光が宿っていない。

 おまえの光は、完全に失われた。もはやそれは、何の像も映さない。

 おまえは、どこまでいっても不自由だった。

 

 見ろ、この部屋を。

 この真っ白い病室は、おまえを延命するために用意されたものだ。

 しかしここは命を救うためではなく、命を見送る時間を用意するための部屋だった。

 自由なんて、どこにもない。

 

「……あぁ、やっと、わたしは」

 

 ……。だと、いうのに。

 おまえは心底満たされたように、薄く笑っていた。酸素マスク越しの、白い曇りの向こうで。

 何も見えないから?どうでもいいことだから?

 あるいは、両方、なのだろうか。

 

 ……フィート。この部屋の中には、他には誰もいない。

 いないけれど、部屋の外には多くの人がいる。

 医者と、看護師。トレーナーや、おまえの友達、後見人の先生まで。

 医者側はおまえのありのままを説明して、そういう、覚悟を決めさせようとしているらしい。

 

 おまえには見えないだろうが、聞こえはするはずだ。

 動揺する声も、すすり泣く声も、自己嫌悪の声も、全部。

 

「でも、わたしは……これで、終わりなんですね」

 

 やっと。咳き込むように笑った。

 

 見えない目で天井を見つめて、枕に頭を沈める。

 管のついた腕を上げようとして、しかしまるで動かないことに気付いて、そっと身体から力を抜いた。

 ここが終着点なのだから、動こうと動くまいとどうだっていい。目が見えないのも、同じことだ。

 言葉ではなく、究極的に無関心な有り様が物語っていた。

 

 つまり、はっきり言って。

 もう、手詰まりだ。おまえはここで終わる。

 ここで、死ぬ。

 

 他の誰でもないおまえが望んでいるから、そうなる。

 

 

『でも、ここで終わりたいのでしょう?それともなぁに、生きてみたくなった?』

 

 それでも、この言い草は──どうしても、納得できないのだ。納得できないに決まってる。

 

 いつものようにするりと姿を晒すこの女が、率直に言って、ひどく憎らしかった。

 済まし顔でおまえのベッドに腰掛ける姿も、ぶらぶらと揺れる半壊した両足も、どれもこれも憎らしい。

 首を絞めてやりたいと、思うほどに。

 

 だってこの女が、王冠を名乗る女が、最初から手を出さなければもっと良い未来にたどり着けていたはずなのだ。

 ……もちろん、これは主体となった太陽にも言えることだけど。

 

 でも、もっと他にあったのではないか。

 おまえの傷がいつかカサブタになって、癒える未来もありえたはずだ。

 相応に挫折して、おまえの希死念慮が無くなる未来だって、許されたはずなのだ。

 

 極論、蘇生した後は一切関わってこなければよかった。

 あるいは、見守ってくれるだけで。

 

 ……私だって、虫の良いことを言っている自覚はある。

 けれどこれでは、あんまりにも……。

 

『どうせ手術は成功しない。なら下手に希望を持たせて足掻かせるよりも、分かりやすい終わりを漂わせたほうがまだマシ……私は、そう思ったのだけれど』

「……ええ、あなたの選択に感謝します。苦しいのは、もうたくさんですから」

 

 なのに、フィート。おまえはそれに感謝するという。

 ここまで来たら結果は変わらないのだとしても……感謝、などと。

 それもこれも、おまえの歪んだ背骨がそうさせるのか。

 

 その歪みをほんのりと滲ませる穏やかな様相で、女が居る方に顔を向けた。

 瞳孔は、縮まりも拡がりもしなかった。

 

「とはいえ正直、意外です」

『あら、どうして?』

「だって、わたしはもう二度と目覚めないものかと思っていましたから。わたしはてっきり……ライブまで済ませて、そのままぽっくりいくものだと」

『……そう。私にはあなたのそれのほうが意外よ。何、ライブまでするつもりだったの?その体で?私達がそこまで縛るって?』

「ええ、まぁ……ライブは義務みたいなものだって、会長も言ってましたから」

『へぇ……。あながち間違ってはいないけど……そう』

 

 そう、お祭りだものね。

 くすくす笑う女の顔は人間のように見える。見えるだけだ。

 

『ねぇ、ファインドフィート。

 私、本当に綺麗なものを見たわ。命を燃やすあなたの姿が、今も目に焼き付いて消えないくらいに……ふふ。目を閉じていても、目を開けていても、ずっとそこにあるの。これが感動、なのかしら。あはっ、とってもいい気分だわ』

「そう、ですか。わたしには、その気持ちは分かりませんが……たぶん、理解できないほうが正しいのでしょうね」

 

 ひとしきり笑ったふうの女に向けて、ため息を吐き出した。

 それから耳を揺らして……いつもの音と重みがないことに、あれ、と疑問の声を漏らす。

 

 違和感。

 耳が軽い。いやに静かだ。ひとしきり耳を振って、ようやく、いつも身につけていた赤い飾りがないことに気付いた。

 けれど、それは当たり前だ。病床では余計な飾りは全て外されるもの。

 おまえはそれを理解しつつも、妙な据わりの悪さに身をよじらせた。

 

 女は、そんなおまえの様子に気付かぬまま。

 おまえの傍らで、消えゆく指先を天井にかざした。

 

『だから、これはその褒美……とでも言うべきかしらね。私が最期の時間を用立ててあげる。煩わしい雑音は全部潰して、邪魔も入らないようにするわ。そうね、満足するまで終わらないように保証してあげる。……もちろん、太陽の横槍だって入れさせないわ』

「それは」

 

 願ったりかなったり、ではあった。

 全て、引き出しの中の手紙で済ませておくつもりだったが、直に対面できるのなら。

 言いたいことを言って、それをお別れにできるのなら。きっと、安らかな終わりになるはずだと。

 

 ……それがより深い傷を遺すことになると知りながら、おまえはそれに仄暗い喜びを感じていた。

 

『ああ、それと……あの子達の記憶は返しておいたわ、あなたが忘れた子達の分も含めてね。今頃大慌てでしょうね。だって、一ヶ月……長い子だと、数年間もあなたのことを忘れていたんだもの。ふふ、ぞっとしないわ』

 

 ただ、それを語る女の白々しさといえば……なんと言葉にしたものか。

 

 おまえが走る内に忘れてしまった記憶は、当然ながら相手と共有していたものだ。おまえが忘れても、相手は覚えている。

 けれど、それでは不都合だった。邪魔になると、女達は考えた。

 だから忘れさせたのだ。おまえ達の意思を無視して、根こそぎ奪った。

 それを今更返して、一体何になる?

 

「……わたし、あなたの事が嫌いになったかもしれません」

『あら、そう?でも、あなたの目的には適うと思うけれど。だって、傷がもっと深くなるもの……そうでしょう?』

 

 囁やきに耳を傾けて、微かに眉根を寄せる。

 "はい"とも"いいえ"とも答えず、口を結ぶばかりだ。……つまり、沈黙こそが答えだった。

 

 そんなおまえを見た女は、一度、くすりと笑った。

 そして、老人のように枯れた視線を瞼で隠して、息をつく。

 

『……ま、何にせよ、ね。夢は叶ったのだし、言うことないわ……本当に、最後まで持って良かった』

 

 身体をよじる。半透明だったはずの手は消え、肘の上まで欠けていた。

 あくまで女神の側面のひとつでしかなく、"もどき"の女にこれから先はない。

 王冠を名乗る女の終着点は、一足先のここだった。

 

『それじゃ……答え合わせ、楽しみにしてるわ。いい終わりを、ファインドフィート……夢に支えられた子』

 

 そして小さく肩を丸めて。

 砂のように崩れて、溶ける。

 

『……あぁ、楽しかった……』

 

 最後の言葉は、それっきり。

 かろうじて残っていた膝から全身へ、罅が一気に広がっていく。

 ぴしり、とも、さらり、とも、何の音も出ない。そいつはただの砂像のように、もろく砕け散った。

 

 ……そうして還った先は空の上か、石像か、虚無か。

 いや、ひょっとすると何処ともしれぬ荒野かもしれない。

 それがどこであれ……私達は、預かり知らぬ事である。

 

「……さようなら、王冠の方」

 

 ひとりは放逐され、もうひとりが今砕けた。

 残る最後のひとりは……さて、どうやら眠っているらしい。王冠の、言葉通りだった。

 

 

 訪れた、ノイズ混じりの静寂。

 それが保たれたのは、十秒そこらだけだった。

 

 からりと、ドアが開かれた。ほんの少し、空気の流れがうまれた。

 音を頼りに顔を向けて、そこにいるはずの──医者か、看護師に声をかける。

 

「こんにちは」

 

 足音は、知らないもの。匂いも、知らないひと。

 けれど薬品の香りが強く染み付いていて、知っているひとに似ていたから医者だと思った。

 思ったままに、声をかけた。

 

「先生。早速で申し訳ないのですが──外の方々に、会わせてもらえますか?」

 

 そして予想は外れておらず、確かに彼は医者だった。

 医者であるがゆえに、おまえの意識が戻ったことをまず喜んだ。おまえが声を出していることに、安堵した。

 彼はその事実を噛み締めて、ついで、密かに眉をひそめた。

 それは、なぜか。

 

 ……匂いだ。

 

 目を覚ましたおまえの体から、漂う匂い。

 甘く、蕩けるような、花の蜜の香り。腐りかけのそれ。

 青白く生気に欠いたおまえの顔は、不気味なほどに穏やかで。

 だから医者は、ただ口を噤んだ。

 

 

 ▼

 

 

 こつこつと、一人分の足音が遠のいていく。

 ドアの向こうに出て、立ち止まり、誰かに声をかけた。小さく抑えられた声音だった。

 もちろん、内緒話なんていくらしようと無意味である。

 おまえの耳は確かに、その医者の、諦念にまみれた声を聞いていた。それに対する疑問や、怒りの声も、同じように聞こえていた。

 

 テイオーが怒声とともに掴みかかっているのも、そうだ。

 それを制止するブルボンの湿った声も、聞こえる。

 

 ……ああ、それにもうひとり。

 嘔吐している男の喘鳴も、である。

 

 おまえがお父さんと重ねて見ていた彼も、ようやく戻ってきたらしい。

 彼はおまえの巻き添えを食らっただけなのに、おまえが身勝手な期待を寄せていただけなのに、ああも罪悪感を抱いている。それを、おまえは、どう感じたのだろう。

 

 ……その感じたものが何であれ、フィート。

 きっとおまえ以外はみな、それとは別のものを求めている。別のものを、求めていた。

 

 もう、何を言っても遅いのだけれど。

 

 物語で言えば最終盤も最終盤で、話の結び。

 終わりはどんどん近付いてくる。時間は、止められない。

 開くドアと、同じように。

 

 

「……フィート、さん」

 

 続く声音を聞いて、おまえは様相を和らげた。

 

 最初に顔を覗かせたのは、ブルボンだった。

 やはり病院である関係上、清潔な服に着替えてはいるが、しかしへばりついた砂の匂いは隠しきれていない。

 

「あぁ──」

 

 そんな。なんで、と。蚊のなくような声が漏れる。

 

 その顔は、真っ白だった。今にも吐き出しそうだった。

 肩はずっと、小刻みに震えている。

 病床に伏せたおまえを見て、傍らで肘をつく死神の姿を幻視したのか。

 おまえの終わりがすぐそこにあるのだと、理解せざるをえなかったのか。

 

 ……理由は何でもいい。

 ただ、今から手を尽くしてもどうしようもならないのだと、理論を飛び越えたところで理解している。

 なんでも何も、関係ない。

 合理を良しとする精神も、虚偽を知らない本能も、どちらもが首を横に振っていた。

 

「ブルボン、中にはいろ。……フィートのトレーナーは、キツかったら別の所に──」

「いや……会う。会わせて、くれ」

「……そ」

 

 そうして立ち尽くしたブルボンの背を押すように、テイオーが現れて。更にその後ろから、幾人かが入室してくる。

 トレーナー、それと先生──おまえの執刀医に加えて……『ひいお婆ちゃん』までこっそりと。誰にも見えないという特性をうまく活かしているようだ。

 

 それで全員だ。

 

 列の先頭から末尾まで病室に入ったのを見届けて、医者は頷き、代わりに退出した。

 それが王冠が言っていた"最期の時間"なのか、単に医者の配慮によるものなのか、おまえに知る由はない。

 

 

 集まった全員で示し合わせたように、おまえのまわりを取り囲む。

 おまえは匂いや音でそれを知って、見えもしない目を左右に揺らした。光は、どこにもなかった。

 

「……なんだか、会うのが久しぶりな気がしますね……」

 

 マスク越しの声は濁っていて、枯れ葉が擦れるように響くばかり。

 おまえはもう、自力では呼吸すらままならない。声を出すことさえひどく気をつかう有り様だ。

 ひゅー、ひゅー、と。細く空気の抜ける呼気を挟んで、おまえはまた、薄く唇を開いた。

 

 声を出す。今までは当然のようにできていたことが、苦しい。

 今までどうしてあんなに楽に声を出せていたのだろう。

 どうして、あんなに楽に、話せていたのだろう。

 急に、分からなくなってしまった。

 

 それゆえに、言葉を迂遠に飾ることすら、できなくて。

 言おうと思っていたことも、全部吹き飛んでしまって

 時間をかけて、どうにか形にできたのは、単純な一言だった。

 

「……ごめんなさい」

 

 なんて、ぽつりと。

 それは、懺悔だった。ひとつの告解だった。

 されど決してゆるしを得ることはない、行き場をなくした罪だった。

 

「わたしは」

 

 血の混じった吐息で、マスクを曇らせる。

 天井に顔を向けて、僅かに喉をつまらせた。

 

「わたしは最初から、こうするつもりでした。どんな形であれ、死ぬつもりでした。死ぬつもりで、生きていました。……ですから、ごめんなさい」

 

 『ひいお婆ちゃん』が、おまえの頭に触れる。

 撫でるためではなく、手のひらを軽く置くだけの所作。そのひとは体温なんて持たないはずなのに、どうしてかほんの少しあったかい。

 

「わたしは、最初から。こうなると知りながら、あなた達と一緒にいたのです」

 

 もう一度、息を吸う。喉が引きつった。

 すぅ、ではなく、ひゅっと空気が抜けて、二度むせる。

 見えもしない目を伏せて、ゆっくりと口を開いて。

 けれど続く言葉が引っ込んだまま、中々出てこない。

 

 空転する。

 ころころと、くるくると、空回りしている。

 

「……でも」

 

 だから結局、諦めて。

 喉に添えたのは、うまく整えられないままの、それ故に飾らない本音。

 

「でもほんとうは、それだけじゃなくて」

 

 右手を、伸ばす。

 空に、見えない空に、震える手を。

 

「わたしは、傷になりたかった。きらきら光るあなた達を、ほんの少し翳らせたかった。そうして、わたしを……ここにいる()()()を、あなた達の中に残して、みたかった」

 

 見えないなにかを掴もうとして、から回る。

 いつも、そうだった。

 だから今回もいつもと同じ。

 伸ばした手から力が抜けて、布団の上に落ちて。

 

 ──その寸前、横から伸びる手が掴み取った。掴んだのはテイオーの手だった。

 彼女の目には、じんわりと涙が滲んでいる。

 苦痛に満ちた眼で、おまえの顔を見つめていた。

 

「……バカだよ、フィート」

 

 フィート。おまえには見えないだろうが、分かるはずだ。

 その涙も、その熱も、その意味も。

 

「ほんとうに、ほんっとうにバカだ。ねぇ、ボクらのことも考えてよ。もっと別のやり方だって、そんなのいくらでもあったじゃん……」

「……。別のやり方、なんて……そんなの、なかったんですよ。わたしは、弱かったから」

 

 弱かった。愚かだった。だから、そんなのなかった。

 もう一度、頭に刷り込むように囁く。

 

 ……ひとには、無限の可能性があるという。

 ひとは、なりたいものになれるという。

 けれどおまえに言わせてみれば、そんなのひどい嘘っぱちだ。

 

 ひとには、ひとそれぞれの可能性が最初に与えられる。

 無限には程遠い数の、限られた可能性が。

 しかもそのくせ、それは時を経るごとにどんどん減っていくのだ。

 道を選んで進むたびに、分かれ道が減っていく。

 そして最後に残るのは、ただの一本道。

 

 フィート、おまえも同じだ。

 限られた可能性だけが与えられた。ひとよりも少ない選択肢が与えられた。

 道を選ぶなんて自由は、どこにもなかった。

 

「でもさ、もし選べたら。もし、もしも……他の選び方を選べるとしたら──」

 

 それでも、テイオーは足掻くように口を開く。

 

「フィートは、それを選んでくれた?」

 

 縋るような言葉を受けたおまえは、曖昧に笑った。

 肯定も否定もせずに、くすりと。

 

 テイオーはその顔を見て、あぁ、と薄い唇を震わせる。

 そして手を抱え込んだまま、小さくうずくまる。まるで、現実から隠れようとする子供のように。

 

 

「……せんせいも、ごめんなさい。せっかくあなたが拾ってくれた命なのに、わたしにはこれしか選べなかった」

 

 そして、テイオーから伝わる熱から逃げるように、おまえは己の恩人に声をかけた。

 今にも死にそうな、死にたがっているような土気色の顔。

 おまえには見えない顔が、くしゃりと歪む。

 

「……きみは、本当にそれでいいのかい?だってそんなの、誰も求めていない。俺は、ただ、目の前の命を救いたかっただけで。その子だって、きみと一緒にいたかっただけじゃないか……」

「わたしが言えたことじゃないけど……仕方のないこと、なんです。……だからせんせい、長生きしてくださいね?」

 

 病床で語り合った日も、今となっては遠い過去。

 後見人となってからは、しっかりと面倒を見てきた訳でもない。関わりは、ひどく薄いまま。

 それでも彼にとっておまえは、逃げてはならない罪の象徴だったのだ。

 

 おまえは、そうして向けられる罪悪感に気づいていた。

 だからこそ、ここに訪れることをよしとした。

 おまえという過去と決別してほしいと、願っていた。

 

 彼も、裁かれたいだけの人間だったのに。

 裁かれたいだけの人間が、こんなことで決別できるわけがないと、おまえは知っているはずなのに。

 

「あぁ……それと、それから……」

 

 ……。今度は葛城に──トレーナーに意識を向ける。

 後見人と同じで、ひどい顔色だ。

 長い間操り人形の身に甘んじていた彼は、しかしその間にあった事柄をすべて記憶している。

 ハリボテの日常の中で交わした言葉も、その少女が己に縋っていたことも、己が無力であったことも、すべて。

 

「ねぇ、トレーナー(お父さん)……。

 ううん、葛城さん。わたし、速かったでしょう?最初、あなたに誓った通りです。……そうですよね?」

「…………」

「なんとか言ってくださいよ。わたし、もう、あなたの顔も見えないんですから」

「……っ」

 

 そこまでいっても、声は、かけられなかった。

 肯定も、否定も、おまえに与えられない。

 だからきっと、それが答えだったのだと、おまえは受け取った。

 

「よかった」

 

 無邪気に、柔らかく笑う。

 先生とトレーナーの、人生を歪めた自覚。その責任と、義務。

 それらを清算できたのだと、おまえは愚かしくも信じてしまった。そのはずだと、信じたかったからだろう。

 自分勝手な納得で、ひとつ、心の鎖がほどけた気がして──。

 

「よく、ないよ」

 

 ──やはり、それは。

 ただ、テイオーの神経を逆撫でるだけだったのだ。

 

「これっぽっちも、よくないよ」

「テイオーさん……?」

 

 握られたままの手が、震える。

 テイオーの目尻には雫がいっぱいに溜まっていて、今にも零れ落ちそうだった。

 触れ合っているからこそ、分かるのだろうか。

 少しずつ、命の灯火がか細くなっていることを。

 

「なんで?どうして?残される側がどう思うのか、なんて、フィートなら分かるでしょ?なのになんで、そんなに笑っていられるの?どうして、ボクらを置いていくの?どうしてそうしなきゃいけなかったの?他のやり方は無かったの?これっぽっちも分かんないよ、ぜんぶ教えてよ、一個ずつぜんぶぜんぶ説明してよ……言ってくれなきゃ、分かんないよ……っ!」

「……っ」

 

 事実、おまえは知っているはずだ。いいや、知っていなければならない。

 おまえもまた残された側であり、残されたからこそ、喪失に狂った。

 その苦しみを、痛みを、悲しみを、おまえだけは軽んじてはならない。

 

 失うことは、さみしくて、痛くて、悲しい。

 悲しかったら、泣きたくなる。

 

 ……あるいは。

 だから、なのだろうか?

 

「……ごめんなさい」

「やだ、ゆるさない……」

「……ええ、どうか、わたしを恨んでください。恨んで、恨んで……それでも、ほんとうに恨みが晴れなくて、納得できなくて……どうしようもなくなったら」

 

 右手を握る。

 力が入らないから、ぷるぷると震えていた。

 

「どうか、わたしのことを忘れてください。それがわたしにとって……一番つらい、罰ですから」

 

 そんなおまえの手が、ゆっくりと握り返された。

 けれど言葉は返ってこなかったから、やはりそれも、答えの形なのだろう。

 言語化は、したくなかった。だから、あとは流れるがままに。

 ……そう、おまえはまた自分で勝手に納得して、ひとつ息をついた。

 

 そして不意に、一瞬。

 

「────」

 

 くらりと、意識が揺らぐ。浮いた、とも表現できる。

 身体から意識が剥げて断裂し、おまえの呼吸が僅かに停止した。

 身体が悲鳴を、上げている。

 

 つまり、この時間も、もうすぐ終わってしまうのだと。

 すぐ先にある断絶を悟るには、十分だった。

 

 だから、最後。最期の時間。

 

 おまえは、この三年間で最も長く同じ時間を過ごしたひとを求めた。

 縋るように、子供が親を求めるように、逆の手を掲げて、何かを探して指先を伸ばした。

 

「先輩」

 

 この部屋にいるのは、知っている。

 けれどこうも何も反応がないと、困ってしまうのだ。

 

 もしかしたら呆れられたんじゃないか、とか。

 もしかしたら見捨てられてるんじゃないか、とか。

 ……もう、顔も見たくもないと思われているんじゃないか、とか。

 

 そんな妄想ばかりがぐるぐる回ってしまって、胸の奥がきゅっと縮む。

 さみしい。

 

「ねぇ、ブルボン先輩、まだそこにいますか?いるなら……手を、握ってください」

 

 否定してほしい。否定してほしくて、手がから回る。

 そうして宙ぶらりんになったおまえの手は、しかし、すぐに絡め取られた。

 ついさっきや、ずっと昔のあの日と、同じように。

 

「……はい、はい。私は、ここにいます。あなたのすぐ傍に、います」

 

 その声を聞いて、おまえは嬉しそうに、ほんとうに嬉しそうに、ころりと笑った。

 おまえの両隣とは真反対の、明るい顔だった。

 

「ふふ……やっぱり、変わらない。この手は、いつもあたたかい」

「体温は……そう、低くなる物ではありません。至極当たり前のことです」

「ええ、その当たり前が、嬉しいんです。……ほんとうに」

 

 当たり前。その当たり前は簡単に消えてなくなるものだと、おまえはよく知っている。

 当たり前なんて大嘘だ。大嘘だった。

 これまでも、これからも……薄っぺらい確信のうえで成り立つ、ハリボテでしかない。けれど──。

 

「いつかなくなるモノだとしても、この手がわたしを見つけてくれた。この手が、わたしを繋いでくれた。あなたがわたしの手を引いてくれたから、わたしは……ここまでおおきくなれた。全部あなたの、おかげなんですよ」

 

 それが救いだった。それが、おまえを救った。

 

 おまえは、気付いているのだろうか。

 おまえはかつて、幻を追いかけていた。幻を追いかけて、己の孤独を慰めていた。

 その幻とはおまえの半身。おまえが求めてやまなかった半身のもしも。

 ねぇ、フィート。

 おまえは、一体いつからそれを追いかけないようになった?一体いつから、それを見ないようになった?

 

 ……おまえは、自分は変わっていないという。ずっと、変わりたくないという。

 けれど、それは違う。

 おまえは信じたがらないけれど、確かに変わっていた。

 おまえは確かに、幻ではない他のものを、支えにしていたのだ。

 

 それに、ほら、耳飾りだって同じだろう。

 フィート。おまえはいつの間にか、その耳飾りの音に囚われないようになっていた。

 ちりちりと鳴っていただろう。四六時中おまえと共にあった飾りの金具は、いつもいつもおまえに己を叫んでいた筈だ。

 それは、きっと煩かった。しかし、おまえの支えになっていたのも事実だ。

 それが聞こえなくなったということは──それに頓着しないようになったということは。

 おまえが他の物に目を向けられるほど、おおきくなったことの証に違いない。

 

 ひな鳥が殻を割って、ひょっこりと卵の外へ顔を覗かせるのと同じように、おまえはおおきくなった。

 おまえは、変わったのだ。

 

 そのきっかけは、間違いなく……。

 

「……私は、そんなつもりでは……っ」

「先輩」

 

 ……。ゆっくりと、念押しするように囁く。

 おまえの真実は、揺らがない。おまえにとっての不変なるもの。

 それは繋がれた手にこそあるのだと、おまえは知ってしまった。

 

「ブルボン先輩、お願いがあります。聞いて、くれますか?」

「……っ。……何ですか、フィートさん。私にできる、ことなら……何でも、遂行してみせましょう」

「そんなに身構えなくてもいいのに……」

 

 だから、だった。

 

 人間、誰しも死ぬまでにやりたいことはあるだろう。

 たとえば……美味しいものをお腹いっぱい食べたいだとか、海外旅行をしてみたいとか、それこそ百個はあってもいい。

 おまえにとっては、これがそれのひとつ。最後のひとつ。

 

 最後は、ぬくもりの中で眠りたい。

 

 くすりと笑いを漏らして、顔をゆるりと傾ける。

 声を頼りに、ブルボンの顔を見つめようとした。

 

「わたしを、抱きしめて」

 

 ──。

 

 あぁ、と、吐息がこぼれる。

 ブルボン──あなたは、その祈りを拒絶しようとは思えなかった。

 

 テイオーが譲るかのように手を離し、ブルボンを視線で促した。じっとりと涙が滲んだ目で、消化しきれない思いを抱えながら。

 ブルボンには、まだ理解できない──理解したくないものだった。

 それでも身体だけが勝手に動く。

 精神と切り離されたかのように、義務感が身体を突き動かしていた。

 

 ベッドに乗って、おまえの首の根っこを支えて、頭を持ち上げる。

 肩に腕を回して、軽く抱き寄せた。

 

「もっと強く」

 

 けれど、物足りなかった。

 

「……もっと強く」

 

 だからもっと強く、抱きしめてほしくて。

 ぎゅうぎゅうに、身体が少し痛くなるほど抱きしめてもらって。

 ようやく、おまえは満足した。

 

「ふふ……あったかい」

 

 いって、笑う。

 ……けれど、笑った端から笑顔が崩れた。

 笑っていたいと思っている。

 最期ぐらいは笑って終わりたいと思っていた。

 なのに、うまく取り繕えない。このぽんこつめ、と心の中で罵った。

 

 でも、理由はもっと単純だ。

 きっと、抱きしめられているから。

 そこはあたたかくて、優しくて……離れたくないと、願ってしまう。

 その、頬を伝う涙は、おまえの弱さが流したものだった。

 

 失うことは、痛くて、悲しい。

 悲しいから、涙が流れる。

 

 ……フィート。

 おまえは終わりを望んだ時点で、誰をも拒絶するべきだった。

 そうしなかったから、こんなにも矛盾している。

 

「……わたし、わたしね……」

 

 だから、安らぎは手に入らない。

 

「ずっと……ずぅっと死にたかったけど、あなた達と別れたかったわけじゃ、ないんですよ」

 

 ……。

 呆然とおまえを抱きしめるブルボンにだって、本能的には分かっている。

 おまえはそこで、そのまま息を引き取るのだと。

 

 腕の中のおまえが、少しずつ冷たくなっていく。

 少しずつ、呼吸が緩やかになっていく。

 

 でも、覚悟なんてできていない。

 そもそも、覚悟なんてしたくなかった。

 おまえが死ぬ、なんて、考えたくもなかった。

 ブルボンも、当たり前のように変わらぬ明日が来るのだと、信じていたかった。

 

「わたしは、死んで、みんなの心にのこりたかった。二度と忘れられないために、傷になりたかった。でも、あなた達と別れるのは──いや、でした。ずっといっしょにいたい。なのに、わたしは、わたしを──許せなかった」

 

 だから、受け入れられないのだ。現実を。

 ふわふわと浮ついていて、夢のようにしか思えない。

 

 こうしておまえは、友の願いを置き去りにしていく。

 おまえは、私の祈りも置き去りにしていく。

 置き去りにして、置き去りにして、辿り着いたのは結局──こんな結末。

 

 ……死は、すぐかたわらまで這い寄っている

 どこか懐かしい寒気と、しとしと滴る夜の匂い。

 このまま眠れば、もう朝は来ない。

 

 それでもおまえは、眠りたいんだね。

 

「わたしの、わたしだけの、お星さま……」

 

 すぅっと長く、細い息を吐き出した。

 

 ゆっくり、ゆっくり肺がしぼんでいく。

 ゆっくり、ゆっくりと、鼓動が穏やかになって。

 ゆっくり、まぶたが落ちていく。

 

 強張った体が、ふっと軽くなる。

 

「おやすみ、なさい」

 

 それっきり。

 

 

「……フィートさん?」

 

 

「フィート、さん。起きてください、まだ、眠るには早いです。今寝たら夜中に目が覚めてしまいます。だから、起きてください」

 

 

「……フィートさん。起きてください」

 

 

「起きてください」

 

 

「起きて……」

 

 

「……お願いします。お願いします。お願いですから、おきてください。いや、いや、いやです」

 

 

「わたしを、おいていかないで」

 

 

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