ぽつんと佇む御影石。
山の峰の広場にあるそれが、この墓地のすべてだった。
ひゅうひゅうと風が吹く中、寂しげに枯れ葉を受け止めて、世間から隔絶されたゆえの汚れで化粧している。
……ブルボン、あなたが訪れたここには、もはや過去の残滓しか残っていない。
私達のみならず、最後の、私の片割れまでもが死んだ。
先生は……もう、立ち直れないし、院長先生は長くない。もう、数週間も経たずに死んでしまうだろう。
だからこれからは、風化していくのみだ。
たとえあなたが足繁く通ってくれたとしても、いつかは砂になって消えてしまう。
それが、死ぬということだから。
「……フィートさん。あなたと会うのは……ひと月ぶり、ですね。ご家族の方々も、お久しぶりです」
だというのに、あなたはここに訪れた。
水をかけて、墓石の顔を手ぬぐいで磨く。
やつれた頬や目元の隈が反射しそうなほど、入念に。
家名が刻まれた棹石、その下のスリンと上台、供物台へ。
上から順に流れるように、丁寧に、指先に力を込める。
あなたは、ただ没頭していた。
没頭していれば、脳裏の白を振り払えるような気がして。
両手で抱えた重みや、ぬくもりと、冷たさをも、全部忘れられる気がして。
……けれど、それが無駄な努力であることは、他の誰でもないあなた自身が知っている。
その証拠に、いまもあなたの視線はここではないどこかを向いている。
墓の石の向こうにある、どこかを。
「……ぁ」
──ふいに、手が止まる。
いつの間にか全て磨き終えていて、あなたの手は行き場をなくしていた。
ひとつ、ため息を吐いて、花立てに数輪の花を挿す。寒菊だ。
そこまでやって、ようやくあなたは動きを止めた。
墓石を眺めたまま、口を横一文字に結ぶ。
顔には、苦悩が滲んでいた。喉の奥で抑えようとしていたが、しかし抑えきれず、溢れ出そうになっている。
堪えて、堪えて。堪えきれなくなって。
あなたは、己の肩を強く抱いた。
「あなたが、いなくなってから」
少し俯いた。
つま先と砂利の境目を見つめて、もう一度口を結んで、開く。
「……あなたがいなくなってから、私達の日常は失われました。……フィートさん、あなたは、こうなると知っていたのでしょうか」
知っていたのでしょう。自問に対し、自答をつぶやく。
そうでなければ、あんな末路は迎えなかったから。
あなたの苦悩を、花が見つめていた。
見つめるだけで、慰めも叱咤もしない花が。
……やがて、風が少しあたたかくなってきた頃。
あなたは平坦な口調で、今日までにあったことを語り始めた。
声に、過分な熱はない。
話は、早くも遅くもない。
中身は、フィートがいなくなったあとの学園の姿。
▽
あなたは墓の前にしゃがんで、まずは、と一度区切った。
最初に口にしたのは、あなたから見て、フィートと特に親交の深かったひとのこと。
テイオーだ。
テイオーは──あなたから見ると、比較的、立ち直っているよう様子だった。
日常生活を送る姿は一見普段通りで、情緒は安定している。
……ただ、ぼんやりと放心している姿が増えたと、あなたは語る。
確かに、トウカイテイオーという少女は強いひとだった。
しかし決して、他者の死に鈍感という訳ではない。むしろ、心の中にずっと抱え込む気質だ。
……だからきっと、フィートのことも抱えていくのだろう。
姿を忘れず、声を忘れず、熱を忘れず。
ゆえに芦毛を見るときには、ほんの一瞬目を細めたり、ぎゅっと目をつむることも、ある。
ライスは、少しひどい。
忘れていた子、忘れられていた子。それゆえに、踏み込むことすら許されなかった子。
フィートの記憶に残っていなくとも、かつては多くの時間を共にした仲だった。
ささやかな日常が、そこにあったのだ。
……けれど、二度と戻ってこない。
だから、心は欠けたままだ。今も、あるいはこれからも。
ゴールドシップは……よくわからない、とあなたは語った。
気まぐれで破天荒で、予測不可能なイタズラを好む彼女は良くも悪くも目立つ。
そんな彼女の姿を見かける機会は、いつの間にか減っていた。
最近の学園が静かなのは、きっとそのせいだ。
大人たちはもっとわからない。
表面上では普段通りだし、フィートのことに触れもしない。
でも、裏側では少しピリピリとした空気が蔓延しているのに、あなたは気付いていた。
その理由は、知っている。
なにせいま、URAには多くの疑問の声──つまり批判が寄せられている。
それも一件二件といったレベルではなく、毎日数百数千の
言い分はどれも基本同じで、フィートの死の原因がURAにあるのではないか、というもの。
数十年前には稀に起きていた事故で、百年前なら日常の景色であったとしても、今は違う。
怪我ならともかく、人命が失われるレベルの事故は皆無といってもいい。
ならば、何かしらの失態があったはずだ、と。
たとえば安全管理、たとえば指導方針、たとえばメンタルケア。そのいずれかに瑕疵があったに違いないと、電話口の向こうで叫んでいる。
きっと、彼らは知らないのだろう。
その発端がフィートにあったことを。
しかし、彼らは知っても変わらないだろう。
発端がフィートにあったとしても、責任を問うには、あの子は若すぎた。幼いとすら言える。
ゆえに責任を取るのは大人達の役目であり、社会全体で共有するルールだった。
だから、世間の熱は火を熾し、少しずつ延焼していっている。
それは簡単に消えるものではないと、あなたは確信していた。
「……ああ、でも。大人の中でもひとりだけ……明らかな方はいます」
その例外は、フィートのトレーナー。
……トレーナー、だったひと。
今はもうずいぶんひどい有り様だと、あなたは聞いていた。
情報源はあなたのトレーナーだ。かつては同じ師を仰いでいたよしみで知ったらしい。
その彼女は少しだけ寂しそうな横顔で、もう再起の見込みはないと語ってくれた。
薄い紫の瞳を静かに伏せて、夢の終わりが訪れたのだと。
……あなたは、フィートと彼の関係をぼんやりとしか知らない。
ただ、あの子から色々話は聞かされていた。
ああいう所がダメだとか、こういう所は意外といいとか、割と気が回るとか、時々デリカシーがないとか。
部屋が汚いとか、扱いが雑なときがあるとか……ぶっきらぼうに見えて、意外と優しいとか。
そういう、愚痴に似た何かを聞かされていたぐらい。
率直に、
遠慮がなく、仲が良いようで、微妙な所が噛み合わない。
だが、そこにはぬくもりがあった。柔らかい情が、あった。
それに彼がフィートを悪く思っていないことは、明らかだったから。
だから、その
「フィートさん」
一度、痛みを堪えるように瞼を閉じる。
墓石に手を当てて、平坦な口調で続けた。
「あなたがいなくなった世界は、さみしいです」
そして、ブルボン。
あなたは立ち直っているのかといえば、私は違うと思う。
たしかに見てくれは落ち着いているし、死を語る舌もある。
けれどあなたは、あの子の死を直視できていない。
だって、そうだろう。あなたはまだ、あの子がいた日常を引き摺っている。
朝起きて隣を見れば、そこに眠るあの子がいるのではないか──なんて期待してしまっている。
あなたの理性は、あの子の死を認識しているのかもしれない。
だが感情がその一切を拒絶しているのだ、きっと。
死んだなんてありえない。まだどこかにいるはずだ。この世界のどこかに、なんて。
……本当のことは分かっているはずなのに、それでも、"もしかしたら"を捨てきれない。
理性と感情の綱引きで、心がねじれそうだった。
それゆえにあなたは、明日に進めない。
今もまだ、あの病室に囚われたままだ。
「今でも、信じられないのです。あなたは私の傍に、ずっといてくれたのに──いまさら、消えるなんて。そんな、そんなこと……」
信じられない、信じたくない、だから認めない。
唇の動きだけで囁き、懐を抑える。
遺された手紙、遺された日記帳、遺された温度。
そのいずれもが、ずっとそこにある。
そのいずれもが、あなたとの別れを惜しむものだった。
だからこそ、それは耐え難い痛みになった。
ブルボン、今もまだ、あなたの脳裏にこびりついているはずだ。
手紙に載せられたたった一文。たったの一言。
"ぼくを忘れないで"、なんて。ただそれだけの想いが染みついている。
それは、呪いの言葉だった。
あなたはだから、小さくうずくまって、なにかに耐えようとした。
耐えて、耐えて、耐えて。
やっぱり耐えきれなくて。
「ぅぷ」
吐き気がこみ上げて、溢れた。
転がるように駆け出す。広場の端の、茂みの中へと。
そこに溢れたそれを吐き出して、へたり込む。
じんと熱くなった目尻は、決して生理的な反応だけではない。
だってあなたは、さみしくて、痛くて、悲しかった。
だからあなたは、涙を流している。
「……どこに行けば、あなたに会えるのでしょうか?あなたはどこにいるのですか?あなたは……本当にいなくなったのですか?……信じられません。だって、まだ残っているのです」
縋るような声だった。
祈るような声だった。
けれどそれに答えるものはなく、風に吹かれて消えるのみ。
「あなたのぬくもりが、あなたの重さが……まだ、ここに」
あなたの世界は、どうしようもなく色褪せた。
「……また、会いたい。あなたに、会いたい……」
ざわざわと、木々の枝が擦れる。
あなたはその雑音に追い立てられるように茂みを離れて、目元を拭いもせず、墓の前に戻った。
でも、どうしてか墓を直視できなくなって、視線を逸らして。
広場の端の空を覆う、枯れた枝ばかりを見つめていた。
……あの枝が彩りを取り戻すのはもうしばらく先だ。
この一日を終えて、一週間を越えて、一月を乗り切って、違う季節にたどり着いて。
その頃になればきっと、何事もなかったかのように、何も知らない顔をして青い葉っぱを茂らせるはずだ。
しかしあなたには、その姿をまるで想像できなかった。
冬は終わらず、春には二度とたどり着けない。不思議と、確信があった。
……。
……けれど、もし。
もしも、またあの子に会えたなら。あなたはまた、今度こそ、春にたどり着けるのだろうか?
あの子と一緒に、冬を越せるとしたら。
『その望みが叶うとしたら。汝はそれを求めるか』
あなたが振り返った先には、銀髪の女がいた。山の中だというのに、車椅子に乗った女だ。
怒っているようにも、嘆いているようにも、笑っているようにも見える、奇妙な表情をした、奇妙な女だった。
『奇跡を』
▽
さくり、と。
茶色い枯れ葉を車輪で踏んで、あなたの元に寄ろうとする。
前を閉じた赤いコートと黒いロングスカート。背中を越すほど長い銀髪は、あの子と違って青味がかった銀色だった。
その顔を見たあなたが最初に感じたのは、強い既視感。
「……ゴールドシップさん?」
『別人だ。吾はオルコックアラ……いや、そうだな。シロと呼べ』
「シロ、さん……」
女──シロの後ろに目を向ける。
そこには誰もいない。誰もいないのに、車椅子で、山の中に?
あなたはそれに、言いしれぬ違和感と不気味さを感じた。
が、それもすぐに霧散する。
そんなこと、どうでもよかったのだ。
今も胸を貫く痛みに比べれば、些事でしかない。
だからあなたはその女へ近づき、ここに来た以上目的は一つしかないだろうと、後ろから車椅子を押してやった。
墓の方へ、ゆっくりと。
『……すまない』
「いえ、お気になさらず」
ちなみに。
あなたには見えないだろうが、シロはここに一人で来たのではなく──『ひいお婆ちゃん』が、ここまで連れてきたのだ。
不機嫌そうに耳を絞る姿から察するに、好きこのんで協力していたわけではないようだったが。
とにかく、墓の前についた。
それはいいが、さて。
……。
今度は両者とも口を開かなくなってしまった。
二人の間にあるのは言葉ではなく、微妙な距離と冷たい空気ばかりだ。
『ひいお婆ちゃん』は墓の周りをふよふよと漂うのみ。口を出す気はなさそうだった。
まぁ、あなたには見えないし聞こえないからほぼ関係ないのだが。
なんにせよ、本来ならシロから話し出すべきだったろう。
話しかけてきたのも、思わせぶりな口を利いたのも彼女だ。
けれど、中々口を開かない。
時折口を開きかける素振りはするが、もごもごと口ごもり、また沈黙する。その繰り返しだった。
一体どうしたものかと、あなたは少し迷った。
"その望みが叶うとしたら"──その言葉の真意は、ひどく気になっている。だが、まず相手の立ち位置がわからない。
無関係ではないのだろうとは、推測ぐらいはできる。
そうでなければ訳知り顔はしないだろうし、そもそもこの場に居ないはずだ。
なにせ『ファインドフィート』という少女の墓は公表されていないのだから。
だとするなら、親戚だろうか、とあなたは思った。
同じ芦毛で、墓の場所を知っているのだから、そう考えてもおかしくない。
ただそうすると、今度はゴールドシップとの関係性も気になるところであった。
そうして考え込むあなたを横目に。
シロは一度息を吐いて、墓石の名前を視線でなぞった。
彫られた字の墨は少し掠れていて、現世との繋がりの薄さをも表しているようだ。
『……吾は』
重く、低く囁く。
ゆえに空気を伝うことすらままならず、あなたの耳に入り込めたのは、かすれ声の余韻だけ。
『吾は、裁かれなければ、ならない』
だからか、今度は少し強めに。
細くも芯のある声で喉を痛めつけて、寒々しい吐息をはく。
『何もしないべきだったのだ。何も見ないべきだったのだ。吾は、我々は、無能であるべきだった』
あなたは、横の低い位置にあるシロの顔を見た。
俯いて、足置きにあるつま先を見つめる紫の瞳を、じっと眺めた。
あなたは、そう。続く言葉を待つつもりだったのだ。
『……あの子に、過ぎた裁きを与えたのも、存在しない罪を与えたのも。あの終わりを迎えさせたのも、結局は──』
けれど。あぁ、けれど。
続くはずの音は声にならず、鈍く、沈黙に溺れる。
「──あなたの、せいですか」
ぎちりと。
両手が軋む。奥歯が軋む。浅い断末魔が、耳の奥で鳴った。
ブルボン、ミホノブルボン。
あなたの両手が、その白く細い喉を握りしめたからだ。
頭にカッと熱が昇って、視界が真っ赤に染まって。どろどろと、ぐつぐつと、熱く熱く煮えたぎる。
そしてそれは、瞬く間に臨界点を超えた。
それは、怒りだ。
堪えきれない怒りが、あなたを支配している。
普段のあなたであれば、きっとこんなことをしなかったろう。
暴力なんて非合理的な選択肢は、あったとしても選ばない筈だ。
あなたは合理を尊び、理性を重んじるひとだからだ。
故にひとと繋がる対話の価値を、あなたはよく知っている。
「あなたの、せいですか……っ」
けれど、それでも。
シロを"憎い"と。どうしようもなく、"憎い"と思った。
どうして、何のために、一体いつから?そんな疑問よりも先に"憎い"が湧き上がる。
いつかの日に求めたマスターキー、悪者がここにいる。
けれど、そのいつかの日に望んだような解決策にはなり得ない。
おまえが悪いと糺しても、正しい未来は訪れない。
おまえのせいだと打ち倒しても、結果は覆せない。
都合の良い現実なんて、結局存在しない。そんなこと、あなただって分かってる。
その現実を前にしたら──本来は、膝を折るべきだとも。
……でも、ブルボン。あなたはこう思っただろう?
"私から友達を、親友を奪っておきながら"。"勝手に後悔するなんて許せない"。"どんな理由があっても許せない"。
"あの子はもう居ないのに"。"もっと一緒にいたかったのに"。"なんで、どうして、ひどい"。
"許せない"。"許せない"。
故の、"憎い"。
他の選択肢を選ぶには、あなたは思い出を積み上げ過ぎた。
日常を共にした。想いを、共有した。
あなたは、あの穏やかな日常を愛してしまった。
だから、つまり。
あなたが選んだのは単なる復讐だ。
大義名分を失った、あなたのための復讐だ。
その首をへし折ったところで、あの子は帰ってこない。
マスターキーは、この世のどこにも存在しないから。
「あなたのせいだ……ッ!」
しかし、同時に。
あなたは未だに、理性の外にある"もしかしたら"の想いを捨てきれていない。
だってこの世には存外、不思議なことが多い。見えないものが沢山あるのだ。
であるのなら、銀の銃弾すら、この世のどこかに落っこちているかもしれない。
あるいは、どうにかして見えざる引き金を引けば、空を貫くのかもしれない。
そしてその引き金は、つまり、この悪者にあるのではないか。
──この悪者を倒せば、"もしかしたら"、何もかもが元通りになるのでは?
そんな妄想じみた願望も、確かにそこにあった。
首に指が食い込む。『ひいお婆ちゃん』が慌てながらあなたの指を剥がそうとする。
けれど、自身に触れるそれにも気付けぬままだった。
わずかに残った理性も一緒になって押し留めてはいるが、はたしていつまで保つものか。
あなたは、それほどまでに怒り狂っていた。
『ぁ、吾の事が憎い、のは……百も、承知だッ。裁きは、受けよ、う……逃げはしない。だが、だが……ッ、まずは話を、聞いてほしい……』
絶叫が響く。口の端から泡がこぼれている。
けれど、あなたが手を緩める理由になるのだろうか?
芯の通った声だった。しかし、あなたの心にはちっとも響かない。
……それに、話などと。
その話とやらを聞いたから、あの子は道を踏み外したのではないか、と。
あなたは自分の中でそう解釈し、完結し、手指の力をさらに強めた。
だからとにかく、このままへし折ってしまえ。
あともう少しだけだ。もう少し力を込めるだけで折れてしまう。
命は、悲しくなるほどに脆い。
だから折って、折ってしまえば、"もしかしたら"あの子とまた──。
『まだ、間に合う……ッ』
「は」
──真っ赤に染まり、熱で茹だった頭に、そんな言葉が割り込む。
折れるまでのあともう少しが先延ばされて、筋肉の収縮が停止した。
あなたは自身の停止した指にも、『ひいお婆ちゃん』の感触にもいまだ気付かぬままで、対面の女の顔を見た。
苦しげに歪んだ表情には、しかし出任せの軽薄さは存在しない。
真摯な光が、あなたを見つめていた。
「……今、何と」
『まだ間に合うと言ったのだ……ケホッ』
まだ間に合う。
まだ間に合う。
……まだ間に合うと、シロはそういった。
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
一呼吸おいて、どうにか咀嚼して、飲み込んだ欠片から──この期に及んで、という怒りが沸く。
また頭に血が昇っていく。熱が、臨界点に指をかける。
……しかし僅かに、その欠片に縋りたくなるような、ごく僅かな希望を抱いてしまえたのも事実で。
その希望ゆえに、あなたの手は完全に停止してしまった。
「…………」
真偽を、考える。
一時しのぎの虚言ではないか?
どうせ嘘だ。こいつはあの子を騙して、あった筈の未来を奪った。
ひどい悪者だ。この期に及んでこんな、甘言を。
ひどい、悪者だ。
……けれど、"もしかしたら"。
このひとの言う事が本当に、本当だったら?
もし、またあの子と会えるのなら。
全部元通りになると、したら。
相反する思いが頭の中で溢れて、互いを喰らいあって、混ざる。
混ざって、溶けて──。
あぁ、と。蒸気と共に、熱を逃がした。
冬の気温でも冷ましきれぬそれは、消えない。
消えないけれど、小さくなって、生まれた余白に理性が回帰する。ほんの僅かな、つま先ほどの理性が。
「……その言葉に、嘘はありませんね」
『あぁ、勿論だ。神に誓って──いや、違うな。吾の、私の、かつての親としての誇りに誓おう』
常識的に考えて、ありえないはずだった。
けれど、あなたは知っている。
世の中は不思議で満ちていて、理解の外側は意外と近い。
だからありえないなんてことは、ありえないのだ。
だとするなら、もしかしたら。
もしかしたら。
……あなたはそのもしもの可能性に、眼が眩んでしまったのだ。
『……細かい理屈は、省く。私もさして理解できているわけでもない。それに理解しなくても何ら問題ない。ただ……得た結末を無かったことにするもの。現実を単なる夢に貶める汚物。請われた三女神の本体が拵えた、祈りの結晶──汚物は汚物でも、使いようはあるのだ』
「……いくつか気になる事は増えましたが──」
一度目を瞑って、疑問を喉の奥に沈める。
『修理したアグネスタキオンと私を拾ったゴールドシップにも感謝するべきだな。私だけでは、あの残骸から修復できなかったし、今ここにいることもなかった』
「…………」
そして増えた疑問のすべてを、二度に分けて飲み込んだ。
あなたの知らないところであった何か。
それに対しては色々と──そう、色々と言いたいことはあったが、今は横においておくだけの理性はあった。
今の自分が見つめるべきは、そこにない。
軽い深呼吸を挟んで、シロを見下ろす。
そして──ようやく、白い細首から指を離した。
『ひいお婆ちゃん』も安心した様子に不可視の吐息をはいて、ふよふよと浮かびはじめた。
あなたとシロの周りを回遊する様は僅かな緊張をはらんでいるが、張り詰めていると言うほどではなかった。
「……オーダーを。つまり、私は何をすればいいのですか」
『やり直し自体はこの目覚まし時計を鳴らすだけでいい。お前はきっと、最後の岐路に回帰する。その工程はこちらで請け負うゆえ、気にせずともいい』
だが、と息を継いだ。
『やり直した先で何もしなければ、結局同じ末路に至るだけだ。だから汝、次は違う選択肢を選んでくれ。違う道を通ったなら、違う結末に至るのが通理で、それこそが我らの欲するものだ。……そうだろう?」
「違う選択肢……」
目をつむる。
選べたもの、選べなかったもの。
それは数え切れないほどにあって、だから、どれがどの終わりに繋がっているのか分からなかった。
正解の道がそんなに簡単に分かるのであれば、ひとは過ちを犯さない。ひとに、不幸など生まれない。
けれどあなたは、それを理由に怖じけることはしなかった。
「オーダー、受領しました」
シロが抱える、目覚まし時計を見た。
見かけは何の変哲もない、目覚まし時計だった。
特別な機構が組み込まれているようには見えないし、おどろおどろしい気配だって存在しない。本当に何の変哲もない、ただの目覚まし時計のように見える。
……そして、その形に見覚えがあるのは、あなたも自覚しているはずだ。
それは時折フィートの傍らにあって、忽然と姿を消すことがあった。
つまりは、諸悪の根源と言い表しても過言ではない。
けれどもそれに頼らなければならないのは事実で、そこに複雑な想いを抱かずにはいられなかった。
『試運転はしていない。故に確信はあっても、確証はない。たった一日巻き戻るだけかもしれないし、何も起きないかもしれない。……汝、それでも、これに賭けるつもりはあるか』
「やりましょう」
だが、迷いはない。
あらゆる謎は、放置するべきものだ。
あらゆる疑問も、今は捨て置くべきものだ。
あなたはそう、覚悟している。
『即答か。……私を、疑ってはいないのか?あるいは、これすらも欺瞞であるかもしれぬぞ』
「はい、もちろん疑っています。あなたが私を騙そうとしているのではないかと」
『……そうか』
けれど、と続ける。
「その猜疑心に、何の意味があるのですか?疑えば望みは叶うとでも?叶うのであれば疑います。何年でも何十年でも疑い続けます。
……ですが、そうはならないのでしょう」
そうだ、叶わない。
だからどうせ、飛び込まずにはいられない。疑う時間は無駄でしかない。
「何であれ、あなたを信じることで叶うのなら。本当に叶うのなら、私は賭けます。不確実で、どれだけ可能性の低い望みだろうと、私は……」
ブルボン。あなたも、私と同じだ。
ときには理屈を考えるよりも先に、身体を動かしたほうが良いこともある。
あなたは私に似て──いいや、逆か。
つまり、私があなたに似たように、"ここぞという時"にはすべてを
その"ここぞという時"が今なのだと、強く確信していた。
「私は、あの子に会いたい」
『そうか……』
そうか。シロはもう一度、噛みしめるように呟いた。
そして墓の表層を視線でなぞって、なら絶対に成功させなければな、と。
穏やかな調子で、薄く微笑む。
『……そのまま持っていろ。今から鳴らす』
そしてシロはひっそりと、目覚まし時計に
やり直すために、後悔しないために、後悔させないために。
やや間を空けて。
カチ、コチ、カチ、コチ。
目覚まし時計の針が進みはじめる。
頂点の十二時を指す寸前で止まっていた秒針が、二周目に向けて刻まれてゆく。
カチ、コチ、カチ、コチ。一秒毎に一度、四秒で四度。
時計の針が進むたびに、あなたは、胸の鼓動が早まっていくのを実感していた。
その鼓動はやがて、針の音と重なり、針の音を追い越した。
鼓動が高鳴って、ひときわ強い風が吹いて。
……ようやく、じりりりり、じりりりり、と。目覚まし時計が鳴りだした。
遠くの空まで響くほど、耳が痛くなるほど、大きく大きく鳴っている。
けれど、その音の終わりをあなたが聞くことはない。
「……感謝します、シロさん」
あなたの意識が保たれていたのは、その言葉を言い終えるまでだったから。
世界が夢から覚めるように、無垢な白に塗りつぶされていく。
現実を夢に、結果を虚構に、真実を偽りに。
不可逆を反転させ、時間の流れを逆流させる。
……あなたがその過程を見ることはない。
だから、あなたが知らないことは、知らないままで終わってしまう。
故に隠された本当は隠されたままで、影に埋もれていくのだ。
あなたは知る由もない。
あなたの瞼が降ろされる最中、シロの足が解けていくのも。
あなたの視界の外で、シロの身体が溶けていくのも。
あなたが知らぬ間に、自分勝手な贖いが履行されていく。
そこに至るまでに何があったのか、どんな後悔があったのか、何もかもがシャボン玉のように消えてしまう。
そして最後に残されるのは、一握りの想いだけだ。
それだけが、シロの命を評価している。
私はそれを、少しだけさみしく思う。
シロ、ご先祖様──オルコックアラビアン。三からなる女神ではなく、百二の始祖に連なるひと。
彼女にあった後悔は、これで精算されるのだろうか?
……私にはきっと、多くを語る資格はない。
最後に浮かべたほほえみだけが、私が語れる彼女の全てだった。
『幸運を』
ねぇ、ブルボン。
だからせめて、より良い結末を目指そう。
誰にも語られぬ、いのちの証を残すために。
さぁ、