【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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『コンティニュー』

 

 

 ぽつんと佇む御影石。

 山の峰の広場にあるそれが、この墓地のすべてだった。

 ひゅうひゅうと風が吹く中、寂しげに枯れ葉を受け止めて、世間から隔絶されたゆえの汚れで化粧している。

 

 ……ブルボン、あなたが訪れたここには、もはや過去の残滓しか残っていない。

 私達のみならず、最後の、私の片割れまでもが死んだ。

 先生は……もう、立ち直れないし、院長先生は長くない。もう、数週間も経たずに死んでしまうだろう。

 だからこれからは、風化していくのみだ。

 たとえあなたが足繁く通ってくれたとしても、いつかは砂になって消えてしまう。

 それが、死ぬということだから。

 

「……フィートさん。あなたと会うのは……ひと月ぶり、ですね。ご家族の方々も、お久しぶりです」

 

 だというのに、あなたはここに訪れた。

 

 水をかけて、墓石の顔を手ぬぐいで磨く。

 やつれた頬や目元の隈が反射しそうなほど、入念に。

 家名が刻まれた棹石、その下のスリンと上台、供物台へ。

 上から順に流れるように、丁寧に、指先に力を込める。

 

 あなたは、ただ没頭していた。

 没頭していれば、脳裏の白を振り払えるような気がして。

 両手で抱えた重みや、ぬくもりと、冷たさをも、全部忘れられる気がして。

 

 ……けれど、それが無駄な努力であることは、他の誰でもないあなた自身が知っている。

 その証拠に、いまもあなたの視線はここではないどこかを向いている。

 墓の石の向こうにある、どこかを。

 

「……ぁ」

 

 ──ふいに、手が止まる。

 いつの間にか全て磨き終えていて、あなたの手は行き場をなくしていた。

 ひとつ、ため息を吐いて、花立てに数輪の花を挿す。寒菊だ。

 

 そこまでやって、ようやくあなたは動きを止めた。

 墓石を眺めたまま、口を横一文字に結ぶ。

 顔には、苦悩が滲んでいた。喉の奥で抑えようとしていたが、しかし抑えきれず、溢れ出そうになっている。

 堪えて、堪えて。堪えきれなくなって。

 あなたは、己の肩を強く抱いた。

 

「あなたが、いなくなってから」

 

 少し俯いた。

 つま先と砂利の境目を見つめて、もう一度口を結んで、開く。

 

「……あなたがいなくなってから、私達の日常は失われました。……フィートさん、あなたは、こうなると知っていたのでしょうか」

 

 知っていたのでしょう。自問に対し、自答をつぶやく。

 そうでなければ、あんな末路は迎えなかったから。

 

 あなたの苦悩を、花が見つめていた。

 見つめるだけで、慰めも叱咤もしない花が。

 

 

 ……やがて、風が少しあたたかくなってきた頃。

 あなたは平坦な口調で、今日までにあったことを語り始めた。

 声に、過分な熱はない。

 話は、早くも遅くもない。

 中身は、フィートがいなくなったあとの学園の姿。

 

 

 ▽

 

 

 あなたは墓の前にしゃがんで、まずは、と一度区切った。

 

 最初に口にしたのは、あなたから見て、フィートと特に親交の深かったひとのこと。

 テイオーだ。

 テイオーは──あなたから見ると、比較的、立ち直っているよう様子だった。

 日常生活を送る姿は一見普段通りで、情緒は安定している。

 

 ……ただ、ぼんやりと放心している姿が増えたと、あなたは語る。

 確かに、トウカイテイオーという少女は強いひとだった。

 しかし決して、他者の死に鈍感という訳ではない。むしろ、心の中にずっと抱え込む気質だ。

 ……だからきっと、フィートのことも抱えていくのだろう。

 姿を忘れず、声を忘れず、熱を忘れず。

 ゆえに芦毛を見るときには、ほんの一瞬目を細めたり、ぎゅっと目をつむることも、ある。

 

 ライスは、少しひどい。

 忘れていた子、忘れられていた子。それゆえに、踏み込むことすら許されなかった子。

 フィートの記憶に残っていなくとも、かつては多くの時間を共にした仲だった。

 ささやかな日常が、そこにあったのだ。

 ……けれど、二度と戻ってこない。

 だから、心は欠けたままだ。今も、あるいはこれからも。

 

 ゴールドシップは……よくわからない、とあなたは語った。

 気まぐれで破天荒で、予測不可能なイタズラを好む彼女は良くも悪くも目立つ。

 そんな彼女の姿を見かける機会は、いつの間にか減っていた。

 最近の学園が静かなのは、きっとそのせいだ。

 

 大人たちはもっとわからない。

 表面上では普段通りだし、フィートのことに触れもしない。

 でも、裏側では少しピリピリとした空気が蔓延しているのに、あなたは気付いていた。

 その理由は、知っている。

 なにせいま、URAには多くの疑問の声──つまり批判が寄せられている。

 それも一件二件といったレベルではなく、毎日数百数千の()()()()が届けられているのだ。

 言い分はどれも基本同じで、フィートの死の原因がURAにあるのではないか、というもの。

 数十年前には稀に起きていた事故で、百年前なら日常の景色であったとしても、今は違う。

 怪我ならともかく、人命が失われるレベルの事故は皆無といってもいい。

 

 ならば、何かしらの失態があったはずだ、と。

 たとえば安全管理、たとえば指導方針、たとえばメンタルケア。そのいずれかに瑕疵があったに違いないと、電話口の向こうで叫んでいる。

 

 きっと、彼らは知らないのだろう。

 その発端がフィートにあったことを。

 しかし、彼らは知っても変わらないだろう。

 発端がフィートにあったとしても、責任を問うには、あの子は若すぎた。幼いとすら言える。

 ゆえに責任を取るのは大人達の役目であり、社会全体で共有するルールだった。

 

 だから、世間の熱は火を熾し、少しずつ延焼していっている。

 それは簡単に消えるものではないと、あなたは確信していた。

 

「……ああ、でも。大人の中でもひとりだけ……明らかな方はいます」

 

 その例外は、フィートのトレーナー。

 ……トレーナー、だったひと。

 

 今はもうずいぶんひどい有り様だと、あなたは聞いていた。

 情報源はあなたのトレーナーだ。かつては同じ師を仰いでいたよしみで知ったらしい。

 

 その彼女は少しだけ寂しそうな横顔で、もう再起の見込みはないと語ってくれた。

 薄い紫の瞳を静かに伏せて、夢の終わりが訪れたのだと。

 

 ……あなたは、フィートと彼の関係をぼんやりとしか知らない。

 ただ、あの子から色々話は聞かされていた。

 ああいう所がダメだとか、こういう所は意外といいとか、割と気が回るとか、時々デリカシーがないとか。

 部屋が汚いとか、扱いが雑なときがあるとか……ぶっきらぼうに見えて、意外と優しいとか。

 そういう、愚痴に似た何かを聞かされていたぐらい。

 

 率直に、父娘(おやこ)みたいだと、思った。

 

 遠慮がなく、仲が良いようで、微妙な所が噛み合わない。

 だが、そこにはぬくもりがあった。柔らかい情が、あった。

 それに彼がフィートを悪く思っていないことは、明らかだったから。

 

 だから、その父娘(おやこ)のような仲がこんな形で引き裂かれてしまったのは、とても悲しい。

 

「フィートさん」

 

 一度、痛みを堪えるように瞼を閉じる。

 墓石に手を当てて、平坦な口調で続けた。

 

「あなたがいなくなった世界は、さみしいです」

 

 そして、ブルボン。

 

 あなたは立ち直っているのかといえば、私は違うと思う。

 たしかに見てくれは落ち着いているし、死を語る舌もある。

 けれどあなたは、あの子の死を直視できていない。

 だって、そうだろう。あなたはまだ、あの子がいた日常を引き摺っている。

 朝起きて隣を見れば、そこに眠るあの子がいるのではないか──なんて期待してしまっている。

 

 あなたの理性は、あの子の死を認識しているのかもしれない。

 だが感情がその一切を拒絶しているのだ、きっと。

 

 死んだなんてありえない。まだどこかにいるはずだ。この世界のどこかに、なんて。

 ……本当のことは分かっているはずなのに、それでも、"もしかしたら"を捨てきれない。

 理性と感情の綱引きで、心がねじれそうだった。

 

 それゆえにあなたは、明日に進めない。

 今もまだ、あの病室に囚われたままだ。

 

「今でも、信じられないのです。あなたは私の傍に、ずっといてくれたのに──いまさら、消えるなんて。そんな、そんなこと……」

 

 信じられない、信じたくない、だから認めない。

 

 唇の動きだけで囁き、懐を抑える。

 遺された手紙、遺された日記帳、遺された温度。

 そのいずれもが、ずっとそこにある。

 そのいずれもが、あなたとの別れを惜しむものだった。

 だからこそ、それは耐え難い痛みになった。

 

 ブルボン、今もまだ、あなたの脳裏にこびりついているはずだ。

 手紙に載せられたたった一文。たったの一言。

 "ぼくを忘れないで"、なんて。ただそれだけの想いが染みついている。

 それは、呪いの言葉だった。

 

 あなたはだから、小さくうずくまって、なにかに耐えようとした。

 耐えて、耐えて、耐えて。

 やっぱり耐えきれなくて。

 

「ぅぷ」

 

 吐き気がこみ上げて、溢れた。

 転がるように駆け出す。広場の端の、茂みの中へと。

 そこに溢れたそれを吐き出して、へたり込む。

 じんと熱くなった目尻は、決して生理的な反応だけではない。

 だってあなたは、さみしくて、痛くて、悲しかった。

 だからあなたは、涙を流している。

 

「……どこに行けば、あなたに会えるのでしょうか?あなたはどこにいるのですか?あなたは……本当にいなくなったのですか?……信じられません。だって、まだ残っているのです」

 

 縋るような声だった。

 祈るような声だった。

 けれどそれに答えるものはなく、風に吹かれて消えるのみ。

 

「あなたのぬくもりが、あなたの重さが……まだ、ここに」

 

 あなたの世界は、どうしようもなく色褪せた。

 

「……また、会いたい。あなたに、会いたい……」

 

 

 ざわざわと、木々の枝が擦れる。

 あなたはその雑音に追い立てられるように茂みを離れて、目元を拭いもせず、墓の前に戻った。

 

 でも、どうしてか墓を直視できなくなって、視線を逸らして。

 広場の端の空を覆う、枯れた枝ばかりを見つめていた。

 

 ……あの枝が彩りを取り戻すのはもうしばらく先だ。

 この一日を終えて、一週間を越えて、一月を乗り切って、違う季節にたどり着いて。

 その頃になればきっと、何事もなかったかのように、何も知らない顔をして青い葉っぱを茂らせるはずだ。

 

 しかしあなたには、その姿をまるで想像できなかった。

 冬は終わらず、春には二度とたどり着けない。不思議と、確信があった。

 

 

 ……。

 ……けれど、もし。

 もしも、またあの子に会えたなら。あなたはまた、今度こそ、春にたどり着けるのだろうか?

 あの子と一緒に、冬を越せるとしたら。

 

 

『その望みが叶うとしたら。汝はそれを求めるか』

 

 あなたが振り返った先には、銀髪の女がいた。山の中だというのに、車椅子に乗った女だ。

 怒っているようにも、嘆いているようにも、笑っているようにも見える、奇妙な表情をした、奇妙な女だった。

 

『奇跡を』

 

 

 ▽

 

 

 さくり、と。

 茶色い枯れ葉を車輪で踏んで、あなたの元に寄ろうとする。

 前を閉じた赤いコートと黒いロングスカート。背中を越すほど長い銀髪は、あの子と違って青味がかった銀色だった。

 その顔を見たあなたが最初に感じたのは、強い既視感。

 

「……ゴールドシップさん?」

『別人だ。吾はオルコックアラ……いや、そうだな。シロと呼べ』

「シロ、さん……」

 

 女──シロの後ろに目を向ける。

 そこには誰もいない。誰もいないのに、車椅子で、山の中に?

 あなたはそれに、言いしれぬ違和感と不気味さを感じた。

 が、それもすぐに霧散する。

 そんなこと、どうでもよかったのだ。

 今も胸を貫く痛みに比べれば、些事でしかない。

 

 だからあなたはその女へ近づき、ここに来た以上目的は一つしかないだろうと、後ろから車椅子を押してやった。

 墓の方へ、ゆっくりと。

 

『……すまない』

「いえ、お気になさらず」

 

 ちなみに。

 あなたには見えないだろうが、シロはここに一人で来たのではなく──『ひいお婆ちゃん』が、ここまで連れてきたのだ。

 不機嫌そうに耳を絞る姿から察するに、好きこのんで協力していたわけではないようだったが。

 

 とにかく、墓の前についた。

 それはいいが、さて。

 

 ……。

 今度は両者とも口を開かなくなってしまった。

 二人の間にあるのは言葉ではなく、微妙な距離と冷たい空気ばかりだ。

 『ひいお婆ちゃん』は墓の周りをふよふよと漂うのみ。口を出す気はなさそうだった。

 まぁ、あなたには見えないし聞こえないからほぼ関係ないのだが。

 

 なんにせよ、本来ならシロから話し出すべきだったろう。

 話しかけてきたのも、思わせぶりな口を利いたのも彼女だ。

 けれど、中々口を開かない。

 時折口を開きかける素振りはするが、もごもごと口ごもり、また沈黙する。その繰り返しだった。

 

 一体どうしたものかと、あなたは少し迷った。

 "その望みが叶うとしたら"──その言葉の真意は、ひどく気になっている。だが、まず相手の立ち位置がわからない。

 無関係ではないのだろうとは、推測ぐらいはできる。

 そうでなければ訳知り顔はしないだろうし、そもそもこの場に居ないはずだ。

 なにせ『ファインドフィート』という少女の墓は公表されていないのだから。

 

 だとするなら、親戚だろうか、とあなたは思った。

 同じ芦毛で、墓の場所を知っているのだから、そう考えてもおかしくない。

 ただそうすると、今度はゴールドシップとの関係性も気になるところであった。

 

 そうして考え込むあなたを横目に。

 シロは一度息を吐いて、墓石の名前を視線でなぞった。

 彫られた字の墨は少し掠れていて、現世との繋がりの薄さをも表しているようだ。

 

『……吾は』

 

 重く、低く囁く。

 ゆえに空気を伝うことすらままならず、あなたの耳に入り込めたのは、かすれ声の余韻だけ。

 

『吾は、裁かれなければ、ならない』

 

 だからか、今度は少し強めに。

 細くも芯のある声で喉を痛めつけて、寒々しい吐息をはく。

 

『何もしないべきだったのだ。何も見ないべきだったのだ。吾は、我々は、無能であるべきだった』

 

 あなたは、横の低い位置にあるシロの顔を見た。

 俯いて、足置きにあるつま先を見つめる紫の瞳を、じっと眺めた。

 あなたは、そう。続く言葉を待つつもりだったのだ。

 

『……あの子に、過ぎた裁きを与えたのも、存在しない罪を与えたのも。あの終わりを迎えさせたのも、結局は──』

 

 けれど。あぁ、けれど。

 続くはずの音は声にならず、鈍く、沈黙に溺れる。

 

「──あなたの、せいですか」

 

 ぎちりと。

 両手が軋む。奥歯が軋む。浅い断末魔が、耳の奥で鳴った。

 ブルボン、ミホノブルボン。

 あなたの両手が、その白く細い喉を握りしめたからだ。

 

 頭にカッと熱が昇って、視界が真っ赤に染まって。どろどろと、ぐつぐつと、熱く熱く煮えたぎる。

 そしてそれは、瞬く間に臨界点を超えた。

 

 それは、怒りだ。

 堪えきれない怒りが、あなたを支配している。

 

 普段のあなたであれば、きっとこんなことをしなかったろう。

 暴力なんて非合理的な選択肢は、あったとしても選ばない筈だ。

 あなたは合理を尊び、理性を重んじるひとだからだ。

 故にひとと繋がる対話の価値を、あなたはよく知っている。

 

「あなたの、せいですか……っ」

 

 けれど、それでも。

 シロを"憎い"と。どうしようもなく、"憎い"と思った。

 どうして、何のために、一体いつから?そんな疑問よりも先に"憎い"が湧き上がる。

 

 いつかの日に求めたマスターキー、悪者がここにいる。

 けれど、そのいつかの日に望んだような解決策にはなり得ない。

 

 おまえが悪いと糺しても、正しい未来は訪れない。

 おまえのせいだと打ち倒しても、結果は覆せない。

 都合の良い現実なんて、結局存在しない。そんなこと、あなただって分かってる。

 その現実を前にしたら──本来は、膝を折るべきだとも。

 

 ……でも、ブルボン。あなたはこう思っただろう?

 "私から友達を、親友を奪っておきながら"。"勝手に後悔するなんて許せない"。"どんな理由があっても許せない"。

 "あの子はもう居ないのに"。"もっと一緒にいたかったのに"。"なんで、どうして、ひどい"。

 "許せない"。"許せない"。

 

 故の、"憎い"。

 他の選択肢を選ぶには、あなたは思い出を積み上げ過ぎた。

 日常を共にした。想いを、共有した。

 あなたは、あの穏やかな日常を愛してしまった。

 

 だから、つまり。

 あなたが選んだのは単なる復讐だ。

 大義名分を失った、あなたのための復讐だ。

 その首をへし折ったところで、あの子は帰ってこない。

 マスターキーは、この世のどこにも存在しないから。

 

「あなたのせいだ……ッ!」

 

 しかし、同時に。

 あなたは未だに、理性の外にある"もしかしたら"の想いを捨てきれていない。

 

 だってこの世には存外、不思議なことが多い。見えないものが沢山あるのだ。

 であるのなら、銀の銃弾すら、この世のどこかに落っこちているかもしれない。

 あるいは、どうにかして見えざる引き金を引けば、空を貫くのかもしれない。

 そしてその引き金は、つまり、この悪者にあるのではないか。

 

 ──この悪者を倒せば、"もしかしたら"、何もかもが元通りになるのでは?

 そんな妄想じみた願望も、確かにそこにあった。

 

 

 首に指が食い込む。『ひいお婆ちゃん』が慌てながらあなたの指を剥がそうとする。

 けれど、自身に触れるそれにも気付けぬままだった。

 わずかに残った理性も一緒になって押し留めてはいるが、はたしていつまで保つものか。

 あなたは、それほどまでに怒り狂っていた。

 

『ぁ、吾の事が憎い、のは……百も、承知だッ。裁きは、受けよ、う……逃げはしない。だが、だが……ッ、まずは話を、聞いてほしい……』

 

 絶叫が響く。口の端から泡がこぼれている。

 

 けれど、あなたが手を緩める理由になるのだろうか?

 芯の通った声だった。しかし、あなたの心にはちっとも響かない。

 

 ……それに、話などと。

 その話とやらを聞いたから、あの子は道を踏み外したのではないか、と。

 あなたは自分の中でそう解釈し、完結し、手指の力をさらに強めた。

 

 だからとにかく、このままへし折ってしまえ。

 あともう少しだけだ。もう少し力を込めるだけで折れてしまう。

 命は、悲しくなるほどに脆い。

 だから折って、折ってしまえば、"もしかしたら"あの子とまた──。

 

『まだ、間に合う……ッ』

「は」

 

 ──真っ赤に染まり、熱で茹だった頭に、そんな言葉が割り込む。

 折れるまでのあともう少しが先延ばされて、筋肉の収縮が停止した。

 

 あなたは自身の停止した指にも、『ひいお婆ちゃん』の感触にもいまだ気付かぬままで、対面の女の顔を見た。

 苦しげに歪んだ表情には、しかし出任せの軽薄さは存在しない。

 真摯な光が、あなたを見つめていた。

 

「……今、何と」

『まだ間に合うと言ったのだ……ケホッ』

 

 まだ間に合う。

 まだ間に合う。

 ……まだ間に合うと、シロはそういった。

 

 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。

 一呼吸おいて、どうにか咀嚼して、飲み込んだ欠片から──この期に及んで、という怒りが沸く。

 また頭に血が昇っていく。熱が、臨界点に指をかける。

 

 ……しかし僅かに、その欠片に縋りたくなるような、ごく僅かな希望を抱いてしまえたのも事実で。

 その希望ゆえに、あなたの手は完全に停止してしまった。

 

「…………」

 

 真偽を、考える。

 

 一時しのぎの虚言ではないか?

 どうせ嘘だ。こいつはあの子を騙して、あった筈の未来を奪った。

 ひどい悪者だ。この期に及んでこんな、甘言を。

 ひどい、悪者だ。

 

 ……けれど、"もしかしたら"。

 このひとの言う事が本当に、本当だったら?

 もし、またあの子と会えるのなら。

 全部元通りになると、したら。

 

 相反する思いが頭の中で溢れて、互いを喰らいあって、混ざる。

 混ざって、溶けて──。

 

 あぁ、と。蒸気と共に、熱を逃がした。

 冬の気温でも冷ましきれぬそれは、消えない。

 消えないけれど、小さくなって、生まれた余白に理性が回帰する。ほんの僅かな、つま先ほどの理性が。

 

「……その言葉に、嘘はありませんね」

『あぁ、勿論だ。神に誓って──いや、違うな。吾の、私の、かつての親としての誇りに誓おう』

 

 常識的に考えて、ありえないはずだった。

 

 けれど、あなたは知っている。

 世の中は不思議で満ちていて、理解の外側は意外と近い。

 だからありえないなんてことは、ありえないのだ。

 だとするなら、もしかしたら。

 

 もしかしたら。

 ……あなたはそのもしもの可能性に、眼が眩んでしまったのだ。

 

『……細かい理屈は、省く。私もさして理解できているわけでもない。それに理解しなくても何ら問題ない。ただ……得た結末を無かったことにするもの。現実を単なる夢に貶める汚物。請われた三女神の本体が拵えた、祈りの結晶──汚物は汚物でも、使いようはあるのだ』

「……いくつか気になる事は増えましたが──」

 

 一度目を瞑って、疑問を喉の奥に沈める。

 

『修理したアグネスタキオンと私を拾ったゴールドシップにも感謝するべきだな。私だけでは、あの残骸から修復できなかったし、今ここにいることもなかった』

「…………」

 

 そして増えた疑問のすべてを、二度に分けて飲み込んだ。

 

 あなたの知らないところであった何か。

 それに対しては色々と──そう、色々と言いたいことはあったが、今は横においておくだけの理性はあった。

 今の自分が見つめるべきは、そこにない。

 

 軽い深呼吸を挟んで、シロを見下ろす。

 そして──ようやく、白い細首から指を離した。

『ひいお婆ちゃん』も安心した様子に不可視の吐息をはいて、ふよふよと浮かびはじめた。

 あなたとシロの周りを回遊する様は僅かな緊張をはらんでいるが、張り詰めていると言うほどではなかった。

 

「……オーダーを。つまり、私は何をすればいいのですか」

『やり直し自体はこの目覚まし時計を鳴らすだけでいい。お前はきっと、最後の岐路に回帰する。その工程はこちらで請け負うゆえ、気にせずともいい』

 

 だが、と息を継いだ。

 

『やり直した先で何もしなければ、結局同じ末路に至るだけだ。だから汝、次は違う選択肢を選んでくれ。違う道を通ったなら、違う結末に至るのが通理で、それこそが我らの欲するものだ。……そうだろう?」

「違う選択肢……」

 

 目をつむる。

 

 選べたもの、選べなかったもの。

 それは数え切れないほどにあって、だから、どれがどの終わりに繋がっているのか分からなかった。

 正解の道がそんなに簡単に分かるのであれば、ひとは過ちを犯さない。ひとに、不幸など生まれない。

 

 けれどあなたは、それを理由に怖じけることはしなかった。

 

「オーダー、受領しました」

 

 シロが抱える、目覚まし時計を見た。

 見かけは何の変哲もない、目覚まし時計だった。

 特別な機構が組み込まれているようには見えないし、おどろおどろしい気配だって存在しない。本当に何の変哲もない、ただの目覚まし時計のように見える。

 

 ……そして、その形に見覚えがあるのは、あなたも自覚しているはずだ。

 それは時折フィートの傍らにあって、忽然と姿を消すことがあった。

 つまりは、諸悪の根源と言い表しても過言ではない。

 けれどもそれに頼らなければならないのは事実で、そこに複雑な想いを抱かずにはいられなかった。

 

『試運転はしていない。故に確信はあっても、確証はない。たった一日巻き戻るだけかもしれないし、何も起きないかもしれない。……汝、それでも、これに賭けるつもりはあるか』

「やりましょう」

 

 だが、迷いはない。

 

 あらゆる謎は、放置するべきものだ。

 あらゆる疑問も、今は捨て置くべきものだ。

 あなたはそう、覚悟している。

 

『即答か。……私を、疑ってはいないのか?あるいは、これすらも欺瞞であるかもしれぬぞ』

「はい、もちろん疑っています。あなたが私を騙そうとしているのではないかと」

『……そうか』

 

 けれど、と続ける。

 

「その猜疑心に、何の意味があるのですか?疑えば望みは叶うとでも?叶うのであれば疑います。何年でも何十年でも疑い続けます。

 ……ですが、そうはならないのでしょう」

 

 そうだ、叶わない。

 だからどうせ、飛び込まずにはいられない。疑う時間は無駄でしかない。

 

「何であれ、あなたを信じることで叶うのなら。本当に叶うのなら、私は賭けます。不確実で、どれだけ可能性の低い望みだろうと、私は……」

 

 ブルボン。あなたも、私と同じだ。

 ときには理屈を考えるよりも先に、身体を動かしたほうが良いこともある。

 あなたは私に似て──いいや、逆か。

 つまり、私があなたに似たように、"ここぞという時"にはすべてを(なげう)てる。

 

 その"ここぞという時"が今なのだと、強く確信していた。

 

「私は、あの子に会いたい」

『そうか……』

 

 そうか。シロはもう一度、噛みしめるように呟いた。

 

 そして墓の表層を視線でなぞって、なら絶対に成功させなければな、と。

 穏やかな調子で、薄く微笑む。

 

『……そのまま持っていろ。今から鳴らす』

 

 そしてシロはひっそりと、目覚まし時計に()()を入れた。

 やり直すために、後悔しないために、後悔させないために。

 

 

 やや間を空けて。

 カチ、コチ、カチ、コチ。

 目覚まし時計の針が進みはじめる。

 頂点の十二時を指す寸前で止まっていた秒針が、二周目に向けて刻まれてゆく。

 カチ、コチ、カチ、コチ。一秒毎に一度、四秒で四度。

 

 時計の針が進むたびに、あなたは、胸の鼓動が早まっていくのを実感していた。

 その鼓動はやがて、針の音と重なり、針の音を追い越した。

 

 鼓動が高鳴って、ひときわ強い風が吹いて。

 ……ようやく、じりりりり、じりりりり、と。目覚まし時計が鳴りだした。

 遠くの空まで響くほど、耳が痛くなるほど、大きく大きく鳴っている。

 

 けれど、その音の終わりをあなたが聞くことはない。

 

「……感謝します、シロさん」

 

 あなたの意識が保たれていたのは、その言葉を言い終えるまでだったから。

 

 

 世界が夢から覚めるように、無垢な白に塗りつぶされていく。

 現実を夢に、結果を虚構に、真実を偽りに。

 不可逆を反転させ、時間の流れを逆流させる。

 

 ……あなたがその過程を見ることはない。

 だから、あなたが知らないことは、知らないままで終わってしまう。

 故に隠された本当は隠されたままで、影に埋もれていくのだ。

 

 あなたは知る由もない。

 あなたの瞼が降ろされる最中、シロの足が解けていくのも。

 あなたの視界の外で、シロの身体が溶けていくのも。

 あなたが知らぬ間に、自分勝手な贖いが履行されていく。

 そこに至るまでに何があったのか、どんな後悔があったのか、何もかもがシャボン玉のように消えてしまう。

 そして最後に残されるのは、一握りの想いだけだ。

 それだけが、シロの命を評価している。

 私はそれを、少しだけさみしく思う。

 

 シロ、ご先祖様──オルコックアラビアン。三からなる女神ではなく、百二の始祖に連なるひと。

 彼女にあった後悔は、これで精算されるのだろうか?

 

 

 ……私にはきっと、多くを語る資格はない。

 最後に浮かべたほほえみだけが、私が語れる彼女の全てだった。

 

『幸運を』

 

 ねぇ、ブルボン。

 だからせめて、より良い結末を目指そう。

 誰にも語られぬ、いのちの証を残すために。

 

 さぁ、コンティニューだ(夢から覚めよう!)

 

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