【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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XXX

 いのちのつかいかた

 


 

 あなたはまず最初に、こう思うだろう。あんまりにも、静かだと。

 人の声は聞こえず、虫の姿もなく、鳥も飛んでいない。

 アスファルトの道や石垣は高温を発し、じりじりと、うだるような熱気を垂れ流している。

 真夏の昼の町並みは、息が詰まるような圧迫感に満ちていた。

 

 そしてあなたは次に、景色に違和感を感じるはずだ。

 たとえば、標識の裏。レンガの側面、塀の下、家の壁。

 どうだろう、少し変ではないか?

 

 ……そう、そこには影がなかった。

 だって、ここに太陽はないから。

 ブルボン、あなたが訪れた場所は、そういう世界だった。

 

 当然、あなたは困惑する。

 ここはどこか、何なのか。

 やり直せるはずなのに、まさか失敗したのか。

 しかも身体が小さく、幼くなっている。背丈はまさに幼子のそれ。

 低い視線で小さな手を見下ろせば、すぐに察せられる事実である。

 それらにきっと、あなたは動揺するだろう、怯えるだろう。

 

 けれど、どうか安心してほしい。

 

 ねぇ、見えるだろうか。

 逃げ水の向こうに、揺れるふたつの白い影がある。

 片方は、車椅子に座っている。

 もう片方は、その車椅子の背を押している。

 両方とも10か、それに満たない年頃の子供だった。

 おそろいの白い髪を揺らす子供のうちの片割れが、あなたを呼んでいる。

 おぉい、おぉい、こんにちは、と。

 

 私が、あなたを呼んでいる。

 

 

 ▽

 ▷

 

 

「あ、あなたは……誰、ですか?」

 

 おっかなびっくりといった様相で、ブルボンが問う。ついさっきまでよりも高い声は、少し震えている。

 私を見て、ひどく驚いた様子だ。まるで幽霊を見たとでも言わんばかりの有り様で、ちょっと傷つく。

 

 けれどもその狼狽は、ほんの僅かな間だけ。

 車椅子のほうを見た途端、急速に落ち着きを取り戻す。

 いや、落ち着き云々というよりは……ただ、あっけにとられているだけか。

 

「……こんにちは、初めまして。道に迷ったのでしょう?分かりますよ。ここ、すっごく迷いやすいんですよね」

 

 きぃ、と音を立てて、車椅子を押す。ブルボンのもとへ、近づいていく。

 私達は決して逃げ水の幻ではなく、ここに在るものだ。

 誰かと触れ合うことだってできるし、手を取り合うこともできる。少なくとも、今は。

 

「あなた、は──」

 

 あぁ、という困惑にも、呻きにも聞こえる声だった。

 それから小刻みに震える足で、さらに一歩踏み出す。

 

 すぐ目の前の私達を見て、一体なにを思ったのだろう?

 死人を前にした恐怖だろうか。それとも純粋に混乱しているだけだろうか。

 ……何にせよ、逃げようとしたわけではない。私には、それで十分である。

 同じ高さの目線があって、同じ言葉を話せて、そして手が届く距離にいる。

 ゆえに私達は対等であり、思いを交わせる存在だった。たとえ、生と死の壁がそこにあろうとも。

 

「……あなた、が」

 

 こつり、足が止まる。

 青と青、赤と赤の視線が重なる。

 三年前と同じように、けれど決定的に違う形で。

 

「あなたが……ファインドフィートさん、ですね?」

「ええ。元、という注釈はつきますが」

 

 見た目はフィートと同じ。目の色の相違を除けば、瓜二つの写し身。

 ブルボンが知る双子の、姉のほう。

 私とは、つまりそういう残骸だった。

 

 ブルボンは納得と共に私を見て、それから視線を横に滑らせる。逸れた先は私の隣。寝ぼけ眼の青を、ゆるく見つめる。

 枯れて褪せる前の、空のような青色を。

 

「……初め、まして?」

 

 そう、子供が語った。

 車椅子の上の、嘗ての片割れが、未来の友達を見つめていた。

 それをブルボンに紹介しようと、口を開いて。

 

「この子、は……」

 

 けれどつい、口ごもってしまった。

 今の片割れを何と呼ぶべきだろう。

 ヒトミと呼ぶのが、きっと正しい。けれどその名前は削ぎ落とされたあと。

 こうして認識できるのは、今となっては当人以外は私だけ。

 

 ……だから、そう。

 やはり、フィートと。

 ファインドフィートと、そう呼ぶべきなのだろう。

 

「フィートはいま、寝ぼけている状態です。いまはこの年までの記憶しかありませんが……おそらく、やり直したあとには全て戻っているかと」

「ああ……そう、ですか」

「ちなみに、ここで何を言っても変わりませんよ。たとえ何を得たとしても、あちらには持ち越せませんから」

「……はい」

 

 あぁ、でも、よかった。ブルボンが言葉もなく、吐息だけでそう語る。

 会えたこと、戻れること、また声を聞けたこと。

 吐息からは、ぐちゃぐちゃに入り乱れた安堵が強く籠もっていた。

 

 私はそれを、複雑な心境で見ていた。

 

 それは、私が求めていた形だった。

 私だって、そうありたかった。

 ……そう、あり続けたかった。

 

 

 ▷

 

 

「……それで、あなたは……。

 ……あなたの事は、何とお呼びしたら」

「適当にファイ、でいいですよ。あなたのほうが年上だし、気をつかう必要もありません」

「…………では、はい。ファイさんと」

 

 躊躇いがちに呼ぶ私の名前は、すこし丸い響きを帯びていた。

 ともかく、名前を呼ぶのはあらゆる関係の第一歩である。これがなくては始まらない。

 互いを知るのにも、仲を深めるのにも、あるいは距離を離すにも、何にしても名前は大事なパーツになる。

 

 私はしたり顔で頷いた。

 つられて、フィートもぼんやりと頷いていた。

 

「ファイさんはなぜ、ここに?……いえ、逆でしょうか。なぜ、私はここにいるのですか?」

 

 もっともな疑問である。

 そもそもブルボンはやり直すつもりしかなくて、こんな所に来る気はなかったろうから。

 

「もしかして、私は──」

「その想像は外れているのでご安心を。あなたはここに訪れただけの客人ですし、私は単なる案内役です」

 

 つまり、生きている。

 それを聞いて、ブルボンはやっと安堵の息をついた。

 小さくなった背丈と幼くなった顔には似合わぬ大人びた仕草で、私達にもう一歩分近づく。

 手を伸ばせば顔に触れる距離が、私達を優しく区切る。

 

「……やっぱり、似ていますね」

「似ている、とは……私とファイさんが、でしょうか?」

「いいえ、あなたとフィートが、ですよ」

「……そうですか?」

 

 そう言って、真顔で首を傾げる。

 その仕草、その表情、その声音。

 それらはやはり、私よりフィートに似ていると思えるのだ。

 とはいえ、私自身が見た私と、他人から見た私にはそれなりの違いがあるだろうし、そのそれなりが私とブルボンの相似を肯定するものなのかもしれない。

 だから結局私の主観でしかないのだが、やはり、その幼い顔を見ていると、昔を思い出して仕方がなかった。

 ……少し、胸が痛む。

 

 その痛みを、誤魔化すように。

 意図して口の端を緩めて、2対1の構図で向かい合う。

 

「……ま、そろそろ本題に入りましょうか」

 

 あんまり長引かせるのも良くないから。

 呟いた言葉に、ブルボンが不思議そうに首を傾げる。が、それを意図的に無視してやや強引に話を進めた。

 

「あなたが知りたいこと。それはここからの出方──もっと言えば、分かれ道までの行き方……そうでしょう?」

 

 こくりと頷きが返される。まあ、当然だ。

 だってここはやり直しの途中で偶然迷い込んだだけ──彼女の視点ではそうとしか言いようがない。

 言ってしまえば事故のようなもの。

 まったく、仕方のないことだ。

 

 一握りのもやもやとした想いをどうにか飲み込んで、目の色を薄い笑みで隠す。

 柔らかく、声を弾ませて。反面、内心を鈍く沈めて。

 

「……私の後ろ、道がありますよね?これを真っ直ぐ進んでください」

 

 車椅子を少し動かして、私達が来た道を視線で示す。

 ずぅっと伸びる長い道。

 焦げた灰色のアスファルトの上を熱気が踊り、じわじわと空気を炙っている。

 見かけは、なんてことはない住宅街の風景だ。ただ、不自然なほど画一的なことを除けば。

 虫の声すら聞こえぬ世界は、背筋を水滴が伝うぐらいに不気味だった。

 

「突き当りに、真っ黒なカーブミラーがあります。そいつに視点を合わせないように気をつけながら、右に進んでください。ただし、声をかけられても決して反応しないように。

 そして2つ目の十字路にお地蔵様がありますから、二度お辞儀をして、今度は左に進んでください。……手は合わせないように気をつけてくださいね」

 

 じりじり、じりじり。

 額に浮かんだ汗をハンカチで軽く拭う。ついでにフィートの額や首筋も拭ってしまう。

 そのまま説明を続けて、ブルボンの目を見る。

 ……理解の光は、きちんと宿っているらしい。結構なことだ。

 

「ある程度進むと横断歩道があります。そこでは道端のカラスが三回鳴いたのを確認してから横断してください。一応信号機もありますが、信じないで。あれは偽物ですから。

 ……それであとは、ひたすら真っ直ぐ進むだけ。もし正面から真っ黒い女の子か……真っ黒で四足歩行の動物が近付いてきたら、その仔についていっても良いでしょう。間違いなくあなたの味方ですから」

「四足歩行の動物、とは?」

「えぇっと……言葉にしづらいですね。キリンの首を短くしたような動物……といいますか。とにかく草食動物っぽければ、大体あっているかと。それを見て違和感とか、異物感を感じなければ問題ありません」

「……なるほど」

 

 もしきたら、とは言ったものの、まず間違いなく来るだろうとは思っている。

 『ひいお婆ちゃん』はそういうひとだし、ここでの"ルール"を教えてくれた……シラ、シラオ……栗毛のなんとかさんも言っていた。

 私達をここに匿ってくれたのもあのひとだし、間違いはないはずだ。

 

「あとは……そうですね。

 絶対に、絶対に振り返らないのと──」

 

 ふいにフィートが動き出す。車椅子から身を乗り出して。

 手を伸ばした先には──真っ赤な果実。またか、と嘆息した。

 

「道端に生えている柘榴、これに触れないことです」

 

 フィートの手が触れる前に、勢いよく蹴飛ばす。

 知らぬ間に近くに生えてくるこれは、まるで誘惑するようにフィートの視界に入ろうとする。何度蹴飛ばしても、何度毟り取っても、何度も何度もしつこく。

 まるで意思を持っているように、フィートに──生者に食べられようとする。まったく、悪辣だ。

 

「どうしようもなく食べたくなったとしても、駄目ですよ。向こうに帰れなくなりますから」

 

 が、とにかくルールさえ守っていれば大丈夫だ。

 ルールさえ守っていれば道を踏み外すことはないし、引きずり込まれることもない。

 そしてブルボンもフィートも、きちんとやり直せる。

 私が何と言おうと、やり直せる。

 

 残念そうな声をあげるフィートの頭に手を置いて、笑顔を繕った。

 

(そう、やり直せる。フィートも、ブルボンも)

 

 その事実を口の中で転がせば……なんとも言い難い、えもしれぬ味が広がってしまうから。

 

 もちろん、胸の中に湧き出るのは安堵だ。それは間違いない。

 けれど、真反対の情が滲み出ているのも、事実だった。

 

 それが私の愚かさであり、弱さ。

 粉薬よりも苦い事実は、いくら飲み込んでも際限なく湧いてくる。

 どろどろ、しとしと、喉の奥から溢れてくる。

 舌の根で蓋をすれば、隠せるものではあるけれど。

 

「……あとは、そうですね」

 

 けれどそれは、どちらかといえば取ってつけたような物言いになってしまった。

 

「ついでに頼みたいことがあるんです」

「頼み……?はい、私に出来ることであれば、何でも」

「そんなに身構えないでくださいよ。ただ、届け物を預かってほしいだけですから」

「届け物、ですか」

 

 本題とは無関係。

 けれど本筋には、大いに関係あるもの。

 だから取ってつけた、などと言うべきではない。

 ……私は、本心から、フィートが前に進めることを願っているのだから。

 

 だから、ためらう必要なんて、どこにもない。

 そうと知りながらも、私の舌の動きはやけに鈍いままだった。

 

「……もちろん、呪いの品、だとか。そういう曰くは、一切ないです」

 

 真横の、真っ青な目を見て、そこに私の姿を見つける。

 困り顔を浮かべた子供が、なんてことはないただの子供が、私を見つめ返していた。

 

「……。……ブルボンさん、私は」

 

 私は結局、そういうものでしかなかった。

 フィートだって本当は、分かっているはずなのだ。

 私に大した力なんてない。優れた人間じゃない。高潔でもない。決して、特別なんかじゃない。

 私は、ただの子供だ。

 ただ、見栄っ張りなだけの子供だった。

 

「私には、何が正しいのか、今も分かりません。これまでだって、私が選んだ道はフィートを苦しめてばかりだった。じゃあこれからは?私の選択が傷にならないなんて、信じられる訳がない」

 

 命を渡して、夢を渡して、名前を渡して、全部を渡した。

 その先にフィートが得たものは、尊厳を削り続ける地獄だけ。

 ……であるなら結局、重荷を押し付けただけではないか?

 私が諸悪の根源であると、そう考えるのが通理ではないか。

 私は私自身を、疑わずにはいられない。

 

「ですが、フィートさんは生きていました。生きて、私と出会ってくれました。ファイさんは、それすらも間違いだったと……苦しみを生んだだけだと言うのですか?」

「……いいえ」

「フィートさんには苦しみしかなかったと、思いますか?」

「いいえ」

「なら……少なくとも、間違いばかりではなかったと、私は思います。苦しい以外にも、楽しいことだって、数え切れないほどあった筈ですから」

 

 そう、そうだ。

 すべてを間違いだったと、言うつもりはない。言われずとも、分かっている。

 だって、フィートは生き残った。

 地獄ばかりではなく、新しい日常と、絆を得た。

 マイナスはマイナスのままかもしれないが、フィートの周りには確かなぬくもりがあった。

 それを間違いだったと、言うべきではない。

 それは必死に生きてきたフィートやブルボン達に対する侮辱に他ならないから。

 

 けれど、思うのだ。

 

 もしかすると、別の道もあったのではないか?

 別の道を、選べたのではないか。

 そんな怯えが、私の胸にあった。それが熱を持って、鋭く突き刺さる。

 

 私は、私が選ぶ道が、心の底から怖くて。

 だからいまも、こんな無様を晒している。

 

「……過去からは逃げられない。過去は、ずっとそこにあって、消えてくれない。それは痛くて、苦しいものです。そんなの、軽いほうがいいに決まってる」

「ファイさん……」

「でも、でもね。うん、やっぱり……だからといって全部捨てちゃうのは、さみしいですよね」

 

 ポケットから取り出したそれを、見えやすく翳す。

 澄んだ光をきらりと反射させて、私の目を淡く灼いた。

 

「……これ、フィートのためにお父さんが初めて買ってくれたものだったんですよ」

 

 青く澄んだ、飾り石だった。

 昔はよく首から下げていたものだ。

 家族を失ってからは耳飾りへと形を変えて、幾ばくかの時を共にしていた宝物。

 

「私とフィートを簡単に見分けるための……まぁ、安物ですけど」

 

 たしかに、青い飾りはフィートのための贈り物だった。

 そして、私に贈られた赤い飾りも、たしかに想いがこもっていた。

 けれどそれらは結局、あのひと達のためのものだった。

 

「帽子を被っただけで見分けがつかなくなるから、なんて……流石にひどいですよね?正直、少し傷つきました」

「……」

「あぁ、ごめんなさい。ちょっとした愚痴ですから、あんまり気にしないでください」

 

 ただ、そう。

 お父さんもお母さんも、そういうひとだったのだな、と。

 そんな、自分勝手な失望があって。親を全能だと思いこんでいた愚かな理想が、ひっそりと砕かれただけの話なのだ。

 

「でも、嬉しかったんです。私も、フィートも。……だから、渡してあげてください」

「……はい。私に、任せてください」

 

 右手に乗せて、差し出す。

 それを見たブルボンは一度、ぎゅっと口を結んだ。

 結んで、言葉もなく、手を重ねる。

 私とは違う、あたたかい手のひらが、飾りを優しく拐っていった。

 

 

 ▷

 

 

 空っぽになった手のひらを見る。

 手だけではなく、腑の底が急に軽くなったような、妙な気分だ。

 脱力感に、少し似ている。気が抜けた、とは些か遠い。

 

 私はきっと、寂しいのだ。

 この子と私を繋げる役目がなくなった。それが、寂しい。

 

 けれど、それを面に出すことはせず。

 口の端に力を込めて、平常の顔を取り繕って、フィートの真横に陣取った。少しでも長く、熱を感じていたかったのかもしれない。

 

 しかしそれすら、じきに終わる。

 ブルボンがここを出ればやり直しは正しく履行されて、この空間もあっという間に消えてしまう。

 ……いや、消えるというのはあまり正しくないか。

 

 あらゆるすべてがあるがままに、流れるだけになる。

 そうして私は、もう、フィートと会えなくなる。

 だから、つまり、今ある異常が、正常になる。そう表すべきなのだろう。

 生者と死者は、同じところにいてはならない。

 

 

「……ぁ」

 

 そう思えば、急に。

 続きを促すべき口が、鈍くなった。

 

 そして、くだらない思いを。本当にくだらない思いを、抱いてしまった。

 適当に話をはぐらかして、中身があるようで何も無い話をして、だらだらと時間を浪費していたい、なんて。

 ……そんなことをしていれば、いつかやり直しもできなくなってしまうのに。

 その末路を知っていながら。いいや、その末路を知っているから。

 私の口は、空回りすらできなくなった。

 

 私は、いつまでもこの時間に留まっていたいと、望んでしまっている。

 

「姉、さん?どうした、の?」

「……いえ、少し、立ち眩みがしただけです」

 

 けれど、この青い目を見るたびに──それを選んではならないと叫ぶ私も、確かにいるのだ。

 

「また、会え、る?」

 

 黙り込んだ私の隣から、かすれ声のフィートが問うた。

 名残惜しさとは違う。何となく気になったから、何となく口にしただけの、意味をもたない問いかけだ。

 ブルボンはすこし、目尻を柔らかく下げて、フィートの頭に手を乗せた。

 

「ええ……数年後に、また」

「そっ、か」

 

 数年後。

 9歳時のいまから4年後──入学までの年数ではなく、数年後。

 ずいぶんと曖昧な時間だ。数字ですらない。

 なのにフィートはさも納得したふうの仕草で頷いて、それなら安心だと、そっと微笑んだ。

 

 あるいは、そういう曖昧なものを聞き慣れていたせいかもしれない。

 いつか、元気になる。

 いつか、また歩けるようになる。

 いつか、身体は治る。

 いつか、いつか、いつか!

 

 ……まるで、バカのひとつ覚えだ。

 

 それがいつもの、大人達の決まり文句。

 その"いつか"が欲しくて"いま"苦しんでいるのに、そんな内面すら慮ってくれない。

 だから"数年後"はやがて曖昧さすらも失って、単なる誤魔化しか、あるいは欺瞞に成り果てる。

 

 つまりフィートに滲む喜びは、愚かさと呼ぶべきものだった。

 

「じゃあ……また、ね、ブルボンお姉さん」

「はい。フィートさんも、それまで──」

 

 ブルボンは、そんな内面を知らない。

 

 けれど、ふいに口を閉ざした。

 "それまで"、に続けようとしたのは、"お元気で"だろうか?

 "お元気で"。そんなの土台、無理な話だ。もう通り過ぎた未来の中で、すべてを失うのだから。

 だからブルボンは、口にできなかったのかもしれない。

 今のフィートは満たされている時期の記憶しかないのだから、言ったところで何も変わりやしないのに。

 

 しかし言葉を押し留めて。

 代わりに口にしたのは、しょうもない祈りだった。

 

「次に会うときは、私のことを先輩と呼んでください」

「……せん、ぱい?」

「はい。あなたのお姉さんはもういますが……先輩の枠は、まだ空いているようですから」

 

 そしてまた会えたその時には、もっと色んな話をしよう。

 お菓子を食べながら、どうでもいいような、楽しい話をしよう。

 ブルボンがそう言えば、フィートはくすくすと笑い声をこぼした。

 

 ……私は。

 その光景が眩しいものに見えてしかたない。

 その未来が確定していることに、喜びだってある。

 顔をしかめる自分がいるのも、自覚しているけれど。

 

 その顔を隠すために薄い笑顔を作った。

 そうして私は、二人の間を見つめていた。

 自分のいない未来を想い、また、胸のもやもやが大きくなった。

 

「──では、私はもう行きます」

 

 そんな私を置き去りにして、尻尾を翻す。

 茶色い毛先が、からりとした空気を泳いだ。

 その軌跡を視線で追いかけるうちに、見えるのは背中だけになって。

 もやもやからこぼれ落ちたひとひらから、名残惜しさを見つけてしまう。

 

 一歩を四度繰り返しただけなのに、もう手が届かない。

 ひとは、こうして簡単に離れ離れになる。

 

「ファイさん」

 

 けれど、背中越しにふっと笑ったような、微かな息遣いを感じた。

 顔は見えない。こちらからも相手からも、何も見えない。

 見えないけれど、優しい目で私を見ている。

 そう予感させるような、優しい声音で。

 

「私も、あなたを忘れません。あなたの目や、あなたの言葉。あなたの、想いを」

「……そうですか」

 

 つまり、きっと。

 顔が見えずとも、顔が見えないからこそ、伝わるものもあった。

 もしかすると、言葉がなくても。

 ……ならば、私の中のもやもやも悟られているのだろうか。

 悟られているから、こんなことを?

 

(それなら、少し恥ずかしいかな)

 

 羞恥心。罪悪感。どちらもここにあったが、それを隠せないのだとしたら。

 あぁ、まったく困ってしまう。

 ……これじゃあ私、道化みたいだ。

 

「あとは、お願いしますね。私は向こうにいけませんから」

 

 それでも、あなたは頷いた。

 背中越しでよく見えなかったけれど、きっとそうだ。

 

 だって、あなたの背が遠のいていく。

 アスファルトを踏んで、熱気を渡り、逃げ水の向こうへ進んでいく。

 遠くへ、遠くへ、遠くの未来へ。

 

 私の言葉通りに振り返らず、淡々と歩む。

 その背が突き当りを曲がるまで、ずっと見ていた。

 

 

 ▷

 

 

 これで、ぜんぶ終わりだ。

 私の役目、私の仕事。私の、為すべきを、為した。

 あとは待って、電池になればいい。やり直しのための燃料に、なればいい。

 そう思えば、急に身体が軽くなった気がする。

 ふわふわと浮いて、そのまま空の向こうに飛んでいけそうだ。

 

 そしてたぶん、そっちのほうが正しい、本来あるべき姿なのだろう。

 そもそも、私は死人だ。

 重みを感じて地に足つけていた今までこそがおかしい。

 

 だから、やはり。

 あるべき姿に、還らなければならない。

 土は土に、灰は灰に、塵は塵に。それが通理だ。

 

「フィート……」

 

 ……分かっている。私は、分かっている。

 自分に言い聞かせるために、閉じた口の中に繰り返し吐き出す。

 抑え込んでいたもやもやを、すべて。けれどいくら吐き出しても、味は変わらない。

 苦くて、辛くて、しょっぱくて、悲しい。

 

 だから私は堪えきれずに、私のもう半分に手を伸ばした。

 

「……ううん、ヒトミ」

 

 その半分を現実から隠すように、抱き締める。

 やわこい髪の毛を指で梳いてみれば、くすぐったそうに身動ぎをした。

 夏の熱気の中にあってもひんやりと冷たくて、少し、私に落ち着きを取り戻させてくれた。

 

 だから、これからどうするべきなのか、とか。

 終わりの瞬間までどう振る舞うべきなのか、とか。

 私は、姉は、何を伝えるべきなのか……まで。

 そういうところにまで思考が回ってしまって。ひどく、泣きたくなった。

 

「ねぇ、ヒトミ……きっと、きっとね。これから先、楽しいことや、苦しいことも、たくさんあると思う」

 

 歪んだ顔は、きっとみっともない。

 だからせめて、ヒトミにだけは見せたくなくて、もっと強く抱きしめる。

 

 ……最後にここまで強く抱きしめたのは、一体いつだったろう。

 まだ私達が幼くて、善悪の境目が薄い頃だった、ような気がする。

 その頃のヒトミは健康で、短距離なら私と追いかけっこをできるぐらいに元気だった。

 

 もう、ずっと昔のことのようだ。

 遠い日の思い出は色褪せていて、干からびた葉っぱよりもスカスカで。

 けれど私は、私も、あの日々を愛していた。

 

 お父さんは私のことを理解していなかった。でも、優しいひとだった。

 お母さんはヒトミのことを心の底では諦めていた。でも、愛情深いひとだった。

 夏には冷たい麦茶を飲ませてくれた。

 秋には新しいニット帽を買ってくれた。

 冬には優しく抱きしめてくれた。

 春には、一緒に桜を見に行った。

 お父さんとお母さんが見守る先で、手を繋いで、知らない世界を見に行った。

 ヒトミがそうであったように、私も、あの日々を愛していた。本当に、大切だった。

 

「つらいことは、ひとりで抱え込まないで。おまえが強くある必要なんてない。強ければいいとか、強ければひとりで生きていけるとか、そんなことはないんだよ」

 

 声が震えていなければ、いいのだけど。

 そう願いながら、おまえの頬に頬をくっつける。ぷっくりとしたおまえの肌は、やっぱり生きているひとのものだった。

 

「それに、ひとりぼっちは寂しいから」

 

 私とは違うそれが、あるべき姿だ。私が望んだ姿だ。

 分かっている。私は、ぜんぶ分かっている。

 

「姉、さん?」

「……っ」

 

 知らず、肩が跳ねた。

 

「どこか、痛い、の?」

 

 宥めるような、慰めるような、やさしい響きの声だった。

 私と同じ声のはずなのに、ヒトミのそれはまるで違う。

 

 ずるい、と思ってしまう。

 

「ねぇ、ヒトミ……その」

 

 私は、分かっている。

 ヒトミの背を押さなければならない。

 そして、明日に送ってやらねばならない。

 私はただひとりの私として、ヒトミに看取られる。

 ヒトミはただひとりのヒトミとして、ヒトミ自身の道をゆく。

 

 けれど同時に、ヒトミの足を引きずり止めたいと願う私がいた。

 

 口を開くたびに、うっかり本音が出そうになるのだ。

 "もうしばらく休んでからでもいいんじゃないか"。

 "眠たいなら一休みして、それからどこかに出かけよう"。

 

 "だから私と一緒に、残ってほしい"。

 

 なんて、そんなひどく甘えたことを口走りそうになって。

 舌先を強く噛んで、必死にせき止める。血の味が、やけに染みた。

 

 

「……先輩とまた会うのは、楽しみ?」

 

 その上で吐き出したのは、何気ない質問を装った欺瞞。

 私はこの問いに、なんて返されるのを望んでいるのだろう。

 

 ……あぁ、私は分かっている。

 私が何を望んでいるのか、他の誰でもない私だからこそ。

 でも、だから、目を背けたい。見たくない。

 この問いは、私の醜さそのものだった。

 

「……うん」

「そっか。……そうだよね。じゃあ、"いつか"を待たないと」

 

 あぁ、吐息がこぼれる。

 それはそうだ、納得をもって腑に落ちる。

 それでいい、言い訳が私を肯定する。

 

「寒いの?」

「ううん、大丈夫……」 

 

 私は。

 もっと遠くまで、行きたかった。生きたかった。

 ヒトミと一緒に、どこまでも、手を繋いでいたかった。

 

 ……そう叫べたら、どれだけ楽になれただろう?

 

 自分の心の赴くままに、自分の欲の赴くままに。

 けれど叫びたがっている自分を押し止めるのも、やはり自分。

 

 私の救いを、手放す。

 私の、私だけの理解者を、私から解放する。

 私の手を逃れたこの子は、きっと私以外の誰かを最愛として、新しい一生を生きていくことになる。

 

 それがヒトミのためだ。ヒトミは生きている。生きているのなら、私を置いていかなければならない。

 分かっている。分かっている。分かっている。

 

「姉、さん……大丈夫、大丈夫だから……」

「……もっと強く抱きしめて」

「ん……」

「もっと強く」

「わかった……暑く、ない?」

「……全然へいき……」

 

 でも、()()()

 

 ずっと一緒にいたい。

 さみしい、悲しい、離れないでほしい!

 

 ただ、ただ、叫びたい。嫉妬と恥を混ぜ合わせた唾棄すべき想いを。

 だって、なんて妬ましい。そんなの許したくない。

 ブルボンが羨ましい。テイオーが羨ましい。トレーナーが羨ましい。生きてるひとが、どうしようもなく羨ましい。

 

 私だって──私だって、生きていればこんなこと考えなくて済んだ。

 醜い自分を見ずに済んだ。ずっと幸せでいられた。ずっと一緒にいられた!

 

 ……生きてさえいれば、そうあれた。

 だから私も、生きていたかったのに。

 

「……死にたくなんて、なかったのに……」

 

 ぽつりと溢れた言葉は、抱きしめられて消えていく。

 ヒトミの胸に顔を埋めて、顔も心も隠して、誰にも見つけられないように押しつぶす。

 そして足から、光の粒になっていく。遠くから鳴る目覚まし時計の音にまぎれて、私の身体が溶けていく。

 二人分のやり直しには、二人分の対価が必要だから。

 私に出来ることは、たったひとつ。

 

 

 だって、どれだけ妬ましくたって、私は。

 

「私は、お姉ちゃんだから」

 

 ……ああ、ほんとうに。

 ほんとうに、死にたくなかった。

 

 私だって、もっと。

 

 

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