遠雷が消える。耳鳴りが遠のく。
肌の上にはそぞろ寒い風が吹き、乾ききった枯野の刺激が這い回る。
いつの間にか閉じていた瞼を開けば、そこは山の中だった。
落ちた枯れ葉が、私のいる場面を語る。
流れる風が、私のいる時間を語る。
眼の前で揺れる白髪が、私の望みを物語る。
「……フィートさん」
その背中にふと、呼びかければ。
真っ白い背中から振り返って、青い右目が私を見た。
いつものように無垢な光を宿した、静かな瞳だった。
私は──会えたら最初に、何かを言おうと思っていた、はずだ。
覚えていますか。ここがどこだか分かりますか。なぜあんな選択をしたのですか。あるいは、なぜ選択するつもりなのですか。
喜びや、悲しみ、怒り、ぶつけたいものは山程ある。
……けれど、その顔を見た瞬間に、少し前まで考えていた言葉がすべて吹っ飛んでしまった。
「ブルボン、先輩?」
泣いていた。
しとしと濡れた瞳の色は、あの時にはなかったもの。
せわしなく震える耳にも、落ち着きはない。
その変化に、私は密かに安堵した。
「……わたし、おかしいんです。ずっと起きてたのに、夢から覚めたみたいで。ずっとここにいたのに、さっきまで違う場所に居たような気もして……っ」
少女はそう呻いて、頭を抱える。
わずかに立てられた指が白をかき乱して、震えた。
「あ、頭の中に……知らない記憶がある」
俯いた顔の、前髪のカーテンの奥。
そこには困惑があった。苦悩があった。朧げな真実の破片から見る、恐怖があった。
つまり、あの時になかったものがあるということで。
それは、この先を変えられることの証明に他ならない。
「こんな、まるでやり直したみたいな──」
風が吹いた。髪をさらう。涙の軌跡が、頬を濡らしていた。
冬の風は冷たくて、ちっとも優しくなかった。
「……ええ、フィートさん。その解釈は間違っていません」
そのつもりはなかったが、まるで責めるような声音だと、自分の声を聞いて驚く。
対面、僅かに驚いたふうの顔を見れば、やはり間違いはないのだろう。
私はこんな声も出せたのかと──知りたくなかった側面を知った。
「フィートさん──いいえ、フィート。私達は、長い夢を見ていたのですから」
今にして、思う。
分かれ道は、ここだったのだ。
この墓の前に立っていた、この瞬間。
私の主観から見た過去であり、再度至った現在こそが、最後の分かれ道だった。
あの時は脇道があるなど思わなかったが、しかし、あったのだ。
「フィート、私はあなたの末路を知りました。あなたの願いも、あなたの望んだ結末も、全て見てきました」
「ブルボン先輩……。一体……何を、何を言ってるんですか……?」
「あなたが何に頼ってやり直していたのかも、何のためにやり直していたのかも、全て」
「ま……待ってください。あなたは、本当に何を言って……いえ、何をしたんですか?」
「あなたが死にたがっていることも」
一歩一歩、距離を詰める。一歩一歩、フィートが後ずさる。
対面の顔は引きつっていて、次第に怯えが混ざり始めていた。
「たとえ縋る先がなくなろうとも、あなたは同じ轍を踏んでしまうことも」
ここから先に奇跡は、存在しない。存在してはならない。
身の丈に合わないものを追い求めることは、いい。
けれど、奇跡を願って求めるのは、少し違う。
奇跡を前提にして求めるのは、きっと駄目だ。その先に待つのは破滅しかないから。
奇跡ありきの結末なんて、そんなもの。
だから私は、これ以上の奇跡を望んではならない。
「ですから、フィート」
では、どうする?
私は私に問いかける。
あの病床の結末を選ばせたのは、環境である。
外的要因アルファ、つまり女神を騙るあれこそが、ここまで追い詰めた。
追い詰められた精神は他の道を見失わせて、そうして──己を忌み嫌う子供が、己の死を望む子供がつくられた。つくられて、しまった。
故に、原因を取り除いただけでは不足だ。
私が、私に答えを返す。
つまり、追い詰められた精神をフラットに戻さなければならない。
その方法は──。
やはり、喧嘩だろう。
「──歯を、食いしばりなさい」
「なん──!」
ぱぁん、と。
響いたのは、乾いた音だった。
音の発生源は、私の手と、フィートの頬だった。
「……。……なん、で?」
呆然と、頬に手を当て私を見る。
赤くなった肌はやけに目立っていて、罪悪感がこみ上げる。
「いいですか?私はあなたに怒っているわけではありません。そう、あなたには──怒っていません」
あるとするならそれは環境であり、世界であり、それらから成った未来そのもの。
私はあんなものを認めたくない。絶対に、何があっても、許容できない。
それをフィートが望んでいる?何をバカな。そんなの許せない。望むがままを受け入れるなんて──そんなの、私が嫌だ。
「つまり、これは『怒り』ではなく。私の、わがままです」
主義主張の違い、その一言で片付けるのは簡単だ。だが、これ以上なく愚かな妥協である。
フィートが望んだ。女神が望んだ。
だから、何だというのか。
そんなの私には関係ない。私達には関係ない。
鼻と鼻がくっつくほどに顔を近付けて、精一杯の文句を吐きつける。
「喧嘩をしましょう、フィート」
そして私は、心をへし折る。フィートだけが満足する末路なんて、いらない。
私は新しい朝を迎えたい。何のしがらみもない空の下を、ただのふたりとして歩いてみたい。
だから私は、拳を握るのだ。
「ここから先に、奇跡は不要です」
△
大マスターが、言うには。
友人とは、喧嘩をするものらしい。
親友もやはり、喧嘩をするものらしい。
姉妹でも当然、喧嘩をするものらしい。
いわく、もっとも原始的なコミュニケーション方法のひとつで、互いの我を押し付けるための"最も冴えたやり方"。
勢いよくぶつかりあって、互いの尖った部分を削りあう。そうしていればいつか丸くなって、寄り添えるようになる。
それが喧嘩、喧嘩だ。実のところ、私にこういう喧嘩の経験は浅い。強いて言えばライスとの一件ぐらいだ。とはいえ……今回のこれとは、かなり毛色が違うのだが。
だが、きっと私達に必要なのはこの喧嘩だ。
私はフィートの願いを否定したい。
フィートは私の願いを否定したい。
だから、拳を腹に打ち込んだ。
「ぐ……っ」
一発。
苦悶の呻きが聞こえる。喉の奥でひしゃげたノイズが、苛立たしげに空鳴る。
力加減は万全のはず、ではある。幼少の
けれど、拳に伝わる感触はあんまりにも不気味で、こわい。
もし全力で叩いたら──なんて、考えたくもない。
そして、だからなのだろう。
フィートは一切反撃してこない。
後退すらしないし、避けようともしない。
きっとわからないのだ、と思った。
あの夏の街で出会ったフィートは、ただの人間の子供──少年だった。
だから
きっと、やり返すのが怖いのだろうと。
だが、それでは困る。
「……言ったでしょう、フィート。私とあなたの喧嘩です。なぜ、反撃しないのですか?」
「…………」
しかし、答えは沈黙。金にも銀にもならない沈黙だ。
この場に限っては雄弁こそ金、沈黙は無価値である。
私が一方的にぶつかるだけでは、何の意味もない。
それでは、誰も報われない。
ならば──。
「もし何もやり返してこないのなら……それはそれで構いません。つまり、私が全面的に正しいと認めるのでしょう」
──向こうからぶつかるように、誘導するべきか。
心から余裕を剥ぎ取る。精神的なハードルを下げる。
……こんなこと、あまりしたくない。けれどそれが必要だというのなら、躊躇はない。
「ですから、フィート。出走を取り消しなさい。全活動を停止し、その身柄の一切を私達に──いえ、私に委ねるのです」
「……は?」
揺らいだ。少しだけ、目が鋭くなった。
語気を意図して強くしながら、フィートとの距離をまた一歩分詰める。拳で離れた、距離以上に。
「しばらく療養生活です。朝七時に起床し、私達が提示する食事を摂り、普通の学校生活を送りなさい。ええ、そうしましょう。それから普通の生徒として卒業をして……私と同じ大学に進んで、『トレーナーになる事』をメインミッションとしましょう。いざとなれば私が養いますからご安心を」
つまり、そうだ、私は煽っている。
強引に揺さぶりをかけて、余裕を奪い──最初から無に等しいが──心を丸裸にしようとしている。
自分でも、汚いとは思う。けれども、それはそれ。
私が求めているのは剥き出しの衝動と、それとの衝突なのだから。
そのためなら私は、何だって言える。
「あなたはもう、何もしなくていい」
──その言葉が、きっと、決定的なもので。
防波堤を打ち崩す槌として、フィートに打ち付けられる。
一瞬、ぽかんと脱力して。
転瞬、目が鋭くつり上がった。
わなわなと震える肩と、白い頬に散らされた朱色が──フィートの激情を、ありありと物語る。
「……ふ、ふざけないでください……っ」
「ふざけてなどいません。私は『真面目』かつ『真摯』に提案しています」
そこにあるのは、たぶん。
怒り、怒りだ。
掴みかからんと私に詰め寄るフィートは怒っていた。未だ見たことのない熱量で、熱く熱く煮え滾る。
仮面を完全に剥ぎ取った、裸の心がそこにあった。
第一段階、クリア。
「っ、さっきから黙って聞いていれば、わたしをバカにしているんですか!?」
「……いいえ。私は何かおかしいことを言いましたか?」
そうだ。
私が思うに──まず、喧嘩に向けた第一歩として、反発が必要になるはずだ。
反発し、反抗し、反論する。それがなければぶつかり合いは成立しない。
だからフィートには、その過ぎた自罰感情を忘れてもらわなければならない。
必要なのは自罰ではなく、他罰だ。
「フィートがそのように思うのであれば、原因はフィート自身にあるのでは?プロトコル、『自身を省みる』を推奨します」
「……っ!……っ!?」
「死の先に永遠を?もう二度と、忘れられないために?……ふざけているのは、あなたです」
……だが、理由とはそれだけではなく。
私も、私が思っていた以上に頭に血が昇っているらしい。そう、頭の片隅にある冷静な部分が呟いた。
開く口が止まらない。思っていたことも、思っていたと知らなかったこともどんどん吐き出されていく。
──あぁ、つまり。
私は、前言撤回しなければいけない。
さっきは『怒り』など抱いていないと言ったが、そんなの嘘だ。真っ赤な嘘だ。
私の中には、確かに、堪えきれぬ『怒り』があった。
「私は『真面目』かつ『真摯』に、あなたの願いを否定している。あのような末路に至る願いが、正しい筈がありません」
あの未来を潰すためなら、私はなんだってできる。
だって、あんな未来を認めたくない。
あんなものの何処に救いがある?
あの痛みが正しいなんて。あの涙が、正しいなんて。
そんなの、認められない。
「……何度でも言います、フィート。これは、私とあなたの喧嘩です」
だから、さぁ、と。
フィートの手を、指差して。私の頬を、差し出した。
ぶつかり合うためには、やはり対等でなくては。
私とフィートは言葉を交わせる。私とフィートは触れ合える。ならば喧嘩出来ない通理なんて存在しない。
フィートの目を見る。血走って怒りを宿した目を、しかしいまだ色濃い怯えが残る、青い瞳を。
さあ、さあ、さあ。私はここにいるぞ、ここで無防備に頬を晒しているぞ。
喧嘩をしよう。喧嘩をしよう。ぶつかり合って、分かり合おう。分かり合って、新しい未来を探そう。
だから、はやく──。
「──つべこべ言わずに拳を握りなさい、この臆病者!」
瞬間。ぱぁんと、破裂音が響く。視界がブレた。
頭上の耳からほど近いところで、肌と肌が打ち合う音色が響き出す。
その音から遅れて……じんわりと、頬が熱を持ちはじめた。
「好き勝手、言わないでよ……」
頬に、張り手を食らったのだと。
そう理解するのに、たいした時間は掛からなかった。
振り抜かれた手は震えていて、弱々しい。
けれでも──だからといって、私は吐いた言葉を取り消すつもりはない。
むしろ、正面から否定してやる。否定しなければならない。
「いいじゃないか、死んだって!」
……大義名分を抜きにしても、あぁ。
私が、この子を許せないのだ。
「いいえ。好き勝手しているのは、あなただ……!私達の気持ちも考えなさい!」
「ぼくだって……っ、考えた結果があれなんだ!毎日毎日考えて、考えて考えて考えて考えて考えて!でも他の道なんてなかったから!だから死のうとした、仕方ないじゃないか!」
「仕方ない……!?あれが、あの末路が仕方がないと!?ふざけないでください!」
「ふざけてなんかない!姉さんの夢とぼくの夢は地続きで──!」
──フィートが私の襟首を掴む。掴んで、ごつんと額をぶつけてくる。
ゼロ距離からだとよく見える、青い瞳が、私を鋭く睨んでいた。
「あの夢を叶えれば、尊厳が手に入る!ブルボン先輩なら分かるでしょう、ぼくの死は多くの人に悼んでもらえた筈だ!ぼくは、ぼくは消えなくなる!」
「その前提の、望みがっ!間違いだと、言っているのです!」
「間違いでもいいよ、もう!」
頭を振りかぶる。打ち付けた。視界に火花が飛び散った。
痛い、痛みが迸っている。
けれど、あの時の喪失の、首を掻きむしりたくなるような痛みと比べれば。……この程度、どうってことない。
だからさらにもう一度、頭を振りかぶった。
「悲しんでもらえたから良い結末?だから消えない?残された側の気持ちぐらい考えなさい!あなたなら──その意味が分かるでしょう!」
衝突。飛んだ火花の向こう側の歪んだ顔が、やわらに遠のいた。フィートが一歩後ずさって──空いた空間を私の足で踏み潰して、またゼロ距離に戻る。
「っ……もちろん分かってる!分かってるから、あれを選んだ……っ!」
「いいえ、いいえ……何も分かっていません。よりにもよってあなたが……あなたが、望むなんて……!」
掴みかかった。
掴まれる。
互いの腕が交差して、互いの身体を縛り合う。
けれど、バランスはこちらに傾いていた。
ゆえに片足を引っ掛け、フィートの身体を強く抱き寄せ──一気に引き倒す。
どさりと、鈍い音がなる。乾いた草が飛び散る。
そうして押し倒した体勢のまま、両手首を抑え込んだ。
そしてまた、額を打ち付ける。
顔と顔をあわせて、フィートを見下ろして。
「は……っ、はっ……私には、理解、できません。その動機が、理解できません。その基準が理解できません。理解できません。理解、したくありません。あなたは、その痛みを、誰よりも知っているはずなのに、なぜ……っ」
「……なぜ?」
また、絡み合った視線の中。
どろりと、青が淀んだ。
「だって、あなたはぜんぶ持ってるじゃないか」
ひどく、鈍く、重く絡みつくような青。
深海のようで、宇宙のような。暗い、昏い、溺れてしまうほどの坩堝の青が、私を捉える。
深く、深く、溺れるほどに。
ひゅっと、喉が引き攣った。
「家族がいる。夢がある。正しい志も、それに見合う背丈も、それを支える背景もある。そして何よりも、あなたは愛されていて──産まれたことを祝福されてる。ほら、ぜんぶ。ぜんぶ持ってる。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ──ぼくが欲しかったもの、ぜんぶ持ってる」
あぁ、なんて。
なんて、目で。
「じゃあ分からないよ。あなたはきれいで、かっこいい。本当に、ぼくとは違ってすごいひとだ」
だから、あなたには理解できない。
突き放すように、吐き捨てた。
色彩──そう表すには、暗すぎる。淀んで、淀んで、淀んで、淀んだ、色の果て。
だから、そう、穴だ。穴がある。ぽっかり空いた二つの穴が、私を見つめていた。
「だけど、うん。認める。ぼくが望むことの不合理は。あなた達にひどく不義理な行いだった。
……でも、それだけで」
その穴の奥から、視線が飛ぶ。
私の目を透かして、私の心へ直接。
「それだけの理由で、ぼくに捨てろって言うの?」
咄嗟に、否定しようとした。
"それだけ"などと吐き捨てられる謂れなど、ない。あってほしくない。
けれど声が出る寸前、フィートの顔を見て──何も言えなくなってしまった。
どうして。そんなに、傷ついた顔で私を見るのか。
……自分の言葉で傷つくぐらいなら、言わなければいいのに。
「ぼくはあの家に帰りたかった。あの家がぼくの全てだった。愛しかった、大切だった、ぼくの幸せそのものだった。
あそこに未来がなくてもいい。理解されなくたっていい。諦められても、いい。そんなの、もうどうだっていい。大人になりたいなんて言わないし、立ちたいなんて言わない。何もいらないから、帰りたいだけなのに」
一気に吐き出して、代わりの空気を肺に入れる。
けれどまだ、息苦しそうだ。ひゅう、ひゅうと空鳴りのように喉が震えていた。
「ふ、ふふ……でもさ、もうないの。ぼくに残されたのは姉さんの残り香だけ。ぜんぶなくなった。ぜんぶ、ぜんぶ、過去も」
ゆえに、行き先を失った想いは。
迷子になった想いは、どこにも帰れなくなった想いは、一体どこにいくのだろう?
ふと、疑問を抱く。いつかにも、似たことを考えたような、気もする。
だからか、答えは簡単に思い浮かぶ。
(きっと、腐るだけ)
腐って、腐って、腐り落ちて。
地面の染みになって、いつかその染みすら薄れて。
そして、消える。どこにもいなくなる。
それがフィートが出した答えであり、だから今消えたがっている。
どうしようもなくなったから、消えたい。
何もできなくなったから、消えたい。
けれど、せめてもの慰めに、尊厳が欲しかった。
家族の死に、過去の終わりに、尊厳だけでも与えてやりたかった。
ファインドフィートという誰かは、それを救いと呼んでいた。
……なんて、中途半端に。
「せめて、終わり方ぐらい選ばせてよ」
「……それなら、私達は」
なんて、なんて、自分勝手に。
それじゃあ、私は──そんなにも、頼りないのか、と。
とにかく、泣き叫びたくなって。声が、情けなく震えて。
心が、千切れそうだ。
「私に、あなたを見捨てろと、言うのですか」
「……そう、言っているつもりだよ」
「あなたは、そうまでして逃げると?逃げて、その先に救いがあるのですか?あなたは、そんなものを──」
「救いはあるよ。尊厳さえあれば、十分。だから、ずっと言ってるの」
それでも、フィートは己をなじるように。
心底から蔑むような声音で、自分を言葉で串刺しにした。
「死ねばいい」
──。
…………。
「……して……」
頭が、真っ白だ。
真っ白に、なった。
痛くて、痛くて、痛くて、痛くて──。
「どう、して……」
ぽつり。ぽたり。
目の奥がじっと熱くなって、その熱が歪んで、集まって。
やがて、雫が落ちる。
「どうして、ですか。どうして、どうして、生きてくれないんですか」
「だから、それは──」
「私は、離れたくありません。いやです、絶対にいやです」
雫が、涙が、落ちて。
フィートの頬に当たって、弾けて、細い軌跡を残す。
私はそこに、惨めさを垣間見た。
だって、こんなにも。
こんなにも、求めているのに。
「だって、まだ、まだ、これからなんです。私達には、これからがあるのです。毎日知らないことを知って、知っていることを増やして、メモリに"たくさん"を刻んでいくのです。私は、もっと、一緒にいたい……」
まるで、無意味だ。
私は。
私は、望まれなかったのだろうか。
私は──フィートの親友であると思っていた私は、フィートの姉代わりになったつもりの私は。
命の重りに、なれなかったのだろうか。
「私との日々は、あなたが死を望むほどに……価値のないもの、でしたか?」
「……ううん」
「私は、あなたの宿り木にすらなれなかったのですか?」
「それ、は……」
もしそうなのだとしたら、あんまりだ。あんまりにもひどい。
こんなに一緒に過ごしてきたのに──なんで、今更。
「ぼくには……」
ためらいがちに口をもごもごと動かして、ふっと息を抜く。
「ぼくには、勿体ないぐらい、あたたかい居場所だった」
「なら死にたいなんて、言わないでください。他の道も、他の生き方も、これから探していけばいいのですから。
……少なくとも、死ぬべき理由は、もうありません。それを答えにすることも、できるでしょう。それでも生きる理由が必要だというのなら……」
押し倒した少女の顔の、ぽっかり空いた二つの穴。
そこには、確かに心があった。穴の空いた、心があった。
……ならば、それならば。
「私があなたの理由になります。裁かれたいというのなら、私が裁きます。愛されたいというのなら、私が愛します。それでももし、終わりたいというのなら──私が、それを担います」
つまり、私がそこを埋めるパーツになればいい。
いや──なればいいではなく、そうさせる。強引にでも、私をねじ込む。
どんな手を使ってでも。どんなに歪であっても。
「……ブルボン先輩。それは、ダメだよ。だって、それじゃあブルボン先輩が──」
「私はっ!」
喉が痛くて。けれどそれ以上に、胸が痛かった。
どうにか堪えようと一瞬唇を噛み締めるけれど、やはり大した意味はなく、ただ痛みが溢れる。
さみしいことは、悲しくて。悲しいことは、痛いから。
「私は……もう、嫌なんです。あなたがいない日常に、戻れない。だって寒いのです。さみしくて、さみしくて、かなしくて──胸がずっと痛いままで、何も変われなくなった」
「……ぁ」
楽しかった。優しかった。
あの日々のぬくもりは代えがたく、だから私は、こんなにも脆くなってしまった。
その想いが、ほんの少しでも強く伝わるようにと。額と額を、くっつける。
強く押し付けて、鼻先同士を僅かに触れ合わせて、視線を交わす。
目の前には、青が広がっていた。
「どうか、お願いです。私を理由にしてください。いえ……私じゃなくてもいい。テイオーさんでも、トレーナーさんでも、誰でもいいから。誰かを理由にして、誰かを頼って、生きてください」
私は。
……私はきっと、ひどいことを願っている。
つまり、どんなことがあっても生きろと──どんなに苦しくても生き続けろと、押し付けているから。
私は自覚している。私は理解している。しかし、それでも望まずにはいられなかった。
「フィート。私達にはまだ、時間があります。……少しくらい、一緒に脇道に逸れてくれても、いいじゃないですか」
押さえつけていた手を離して、代わりに抱きしめて。
フィートの温度を、私に溶かした。
そこに、命のぬくもりを感じる。
あったかくて、心臓の音も聞こえてくる。
とくり、とくり、とくりと、鼓動が伝わる。
だからフィートは生きている。生きている。生きている。
もう、二度と逃さない。
「……ふ、ふふ……なに、それ。おかしいじゃん……」
頭の横から聞こえる声は、震えていて、少し湿っていて。
「それじゃあ、生きてほしいから生きてって、そう言ってるみたい……」
呆れたふうで、諦めたふうで、投げやりで。
「なに、それ。無責任だよ。ほんとうに……そんな、そんなの……」
けれど、確かに微熱のこもった声だった。
「……」
少し身をよじって、青い耳飾りを取り出す。
僅かな重みと、夏の残照を宿した石を握り込んで、そっとフィートの手のひらに重ねた。
「……これ、は?」
かちゃりと響く、小さな金属音。重なった肌以外の熱。重み。
フィートはそれらに訝しげな声を出して。
すぐに、息を呑む音が聞こえてきた。
「ファイさん……お姉さんからの預かり物です。確かに、返しました」
少し間を空けて、そっか、と。
返ってきたのはそんな、空気が抜けるだけの返事。
その中には涙の音も混ざっていて──私に、続く言葉を失わせた。
……けれど、それでいいのだと思う。触れるべきではない領域は、触れてはならない聖域としても、存在する。
だから、これ以上があるとするなら──。
「フィート、あなたの名前を教えてください」
「……瞳。御供、瞳」
「そう、瞳……」
──そう、そうだ。今更かもしれないし、もういらないかもしれない。
想いは、言葉にせずとも伝わることはある。けれど逆に、言葉にしなければ伝わらないこともある。
そして言葉は、声にしなければ伝わらないから。
だから私は私なりの精一杯を、声にした。
「瞳。産まれてきてくれて、ありがとう」
ただ、普遍的で、ありきたりな祝福を。
精一杯の、愛を。
……瞳から、言葉は返ってこない。
代わりに、抑えられた嗚咽が聞こえる。
くぐもっていて、低く、呻くように。ただの、幼い子供のように。
「だから、いまは」
重ねた手を、ぎゅっと握る。
……少し遅れて、やわく握り返された。
いまは。
きっとこれで良いのだと、私は思う。