【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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こえのかたち

 

 

 遠雷が消える。耳鳴りが遠のく。

 肌の上にはそぞろ寒い風が吹き、乾ききった枯野の刺激が這い回る。

 いつの間にか閉じていた瞼を開けば、そこは山の中だった。

 

 落ちた枯れ葉が、私のいる場面を語る。

 流れる風が、私のいる時間を語る。

 眼の前で揺れる白髪が、私の望みを物語る。

 

「……フィートさん」

 

 その背中にふと、呼びかければ。

 真っ白い背中から振り返って、青い右目が私を見た。

 いつものように無垢な光を宿した、静かな瞳だった。

 

 私は──会えたら最初に、何かを言おうと思っていた、はずだ。

 覚えていますか。ここがどこだか分かりますか。なぜあんな選択をしたのですか。あるいは、なぜ選択するつもりなのですか。

 喜びや、悲しみ、怒り、ぶつけたいものは山程ある。

 ……けれど、その顔を見た瞬間に、少し前まで考えていた言葉がすべて吹っ飛んでしまった。

 

「ブルボン、先輩?」

 

 泣いていた。

 しとしと濡れた瞳の色は、あの時にはなかったもの。

 せわしなく震える耳にも、落ち着きはない。

 

 その変化に、私は密かに安堵した。

 

「……わたし、おかしいんです。ずっと起きてたのに、夢から覚めたみたいで。ずっとここにいたのに、さっきまで違う場所に居たような気もして……っ」

 

 少女はそう呻いて、頭を抱える。

 わずかに立てられた指が白をかき乱して、震えた。

 

「あ、頭の中に……知らない記憶がある」

 

 俯いた顔の、前髪のカーテンの奥。

 そこには困惑があった。苦悩があった。朧げな真実の破片から見る、恐怖があった。

 つまり、あの時になかったものがあるということで。

 それは、この先を変えられることの証明に他ならない。

 

「こんな、まるでやり直したみたいな──」

 

 風が吹いた。髪をさらう。涙の軌跡が、頬を濡らしていた。

 冬の風は冷たくて、ちっとも優しくなかった。

 

「……ええ、フィートさん。その解釈は間違っていません」

 

 そのつもりはなかったが、まるで責めるような声音だと、自分の声を聞いて驚く。

 対面、僅かに驚いたふうの顔を見れば、やはり間違いはないのだろう。

 私はこんな声も出せたのかと──知りたくなかった側面を知った。

 

「フィートさん──いいえ、フィート。私達は、長い夢を見ていたのですから」

 

 今にして、思う。

 

 分かれ道は、ここだったのだ。

 この墓の前に立っていた、この瞬間。

 私の主観から見た過去であり、再度至った現在こそが、最後の分かれ道だった。

 あの時は脇道があるなど思わなかったが、しかし、あったのだ。

 

「フィート、私はあなたの末路を知りました。あなたの願いも、あなたの望んだ結末も、全て見てきました」

「ブルボン先輩……。一体……何を、何を言ってるんですか……?」

「あなたが何に頼ってやり直していたのかも、何のためにやり直していたのかも、全て」

「ま……待ってください。あなたは、本当に何を言って……いえ、何をしたんですか?」

「あなたが死にたがっていることも」

 

 一歩一歩、距離を詰める。一歩一歩、フィートが後ずさる。

 対面の顔は引きつっていて、次第に怯えが混ざり始めていた。

 

「たとえ縋る先がなくなろうとも、あなたは同じ轍を踏んでしまうことも」

 

 ここから先に奇跡は、存在しない。存在してはならない。

 身の丈に合わないものを追い求めることは、いい。

 けれど、奇跡を願って求めるのは、少し違う。

 奇跡を前提にして求めるのは、きっと駄目だ。その先に待つのは破滅しかないから。

 奇跡ありきの結末なんて、そんなもの。

 

 だから私は、これ以上の奇跡を望んではならない。

 

「ですから、フィート」

 

 では、どうする?

 

 私は私に問いかける。

 あの病床の結末を選ばせたのは、環境である。

 外的要因アルファ、つまり女神を騙るあれこそが、ここまで追い詰めた。

 追い詰められた精神は他の道を見失わせて、そうして──己を忌み嫌う子供が、己の死を望む子供がつくられた。つくられて、しまった。

 故に、原因を取り除いただけでは不足だ。

 

 私が、私に答えを返す。

 つまり、追い詰められた精神をフラットに戻さなければならない。

 その方法は──。

 

 やはり、喧嘩だろう。

 

「──歯を、食いしばりなさい」

「なん──!」

 

 ぱぁん、と。

 響いたのは、乾いた音だった。

 音の発生源は、私の手と、フィートの頬だった。

 

「……。……なん、で?」

 

 呆然と、頬に手を当て私を見る。

 赤くなった肌はやけに目立っていて、罪悪感がこみ上げる。

 

「いいですか?私はあなたに怒っているわけではありません。そう、あなたには──怒っていません」

 

 あるとするならそれは環境であり、世界であり、それらから成った未来そのもの。

 私はあんなものを認めたくない。絶対に、何があっても、許容できない。

 それをフィートが望んでいる?何をバカな。そんなの許せない。望むがままを受け入れるなんて──そんなの、私が嫌だ。

 

「つまり、これは『怒り』ではなく。私の、わがままです」

 

 主義主張の違い、その一言で片付けるのは簡単だ。だが、これ以上なく愚かな妥協である。

 フィートが望んだ。女神が望んだ。

 

 だから、何だというのか。

 そんなの私には関係ない。私達には関係ない。

 

 鼻と鼻がくっつくほどに顔を近付けて、精一杯の文句を吐きつける。

 

「喧嘩をしましょう、フィート」

 

 そして私は、心をへし折る。フィートだけが満足する末路なんて、いらない。

 私は新しい朝を迎えたい。何のしがらみもない空の下を、ただのふたりとして歩いてみたい。

 だから私は、拳を握るのだ。

 

「ここから先に、奇跡は不要です」

 

 

 △

 

 

 大マスターが、言うには。

 友人とは、喧嘩をするものらしい。

 親友もやはり、喧嘩をするものらしい。

 姉妹でも当然、喧嘩をするものらしい。

 

 いわく、もっとも原始的なコミュニケーション方法のひとつで、互いの我を押し付けるための"最も冴えたやり方"。

 勢いよくぶつかりあって、互いの尖った部分を削りあう。そうしていればいつか丸くなって、寄り添えるようになる。

 それが喧嘩、喧嘩だ。実のところ、私にこういう喧嘩の経験は浅い。強いて言えばライスとの一件ぐらいだ。とはいえ……今回のこれとは、かなり毛色が違うのだが。

 

 だが、きっと私達に必要なのはこの喧嘩だ。

 私はフィートの願いを否定したい。

 フィートは私の願いを否定したい。

 だから、拳を腹に打ち込んだ。

 

「ぐ……っ」

 

 一発。

 苦悶の呻きが聞こえる。喉の奥でひしゃげたノイズが、苛立たしげに空鳴る。

 力加減は万全のはず、ではある。幼少の社会化期(じゃれあい)で相応に学んだつもりだった。

 

 けれど、拳に伝わる感触はあんまりにも不気味で、こわい。

 もし全力で叩いたら──なんて、考えたくもない。

 

 そして、だからなのだろう。

 フィートは一切反撃してこない。

 後退すらしないし、避けようともしない。

 

 きっとわからないのだ、と思った。

 あの夏の街で出会ったフィートは、ただの人間の子供──少年だった。

 だから社会化期(じゃれあい)を経験していないだろうし、正しい力加減も知らない筈。

 きっと、やり返すのが怖いのだろうと。

 

 だが、それでは困る。

 

「……言ったでしょう、フィート。私とあなたの喧嘩です。なぜ、反撃しないのですか?」

「…………」

 

 しかし、答えは沈黙。金にも銀にもならない沈黙だ。

 この場に限っては雄弁こそ金、沈黙は無価値である。

 私が一方的にぶつかるだけでは、何の意味もない。

 それでは、誰も報われない。

 

 ならば──。

 

「もし何もやり返してこないのなら……それはそれで構いません。つまり、私が全面的に正しいと認めるのでしょう」

 

 ──向こうからぶつかるように、誘導するべきか。

 心から余裕を剥ぎ取る。精神的なハードルを下げる。

 ……こんなこと、あまりしたくない。けれどそれが必要だというのなら、躊躇はない。

 

「ですから、フィート。出走を取り消しなさい。全活動を停止し、その身柄の一切を私達に──いえ、私に委ねるのです」

「……は?」

 

 揺らいだ。少しだけ、目が鋭くなった。

 語気を意図して強くしながら、フィートとの距離をまた一歩分詰める。拳で離れた、距離以上に。

 

「しばらく療養生活です。朝七時に起床し、私達が提示する食事を摂り、普通の学校生活を送りなさい。ええ、そうしましょう。それから普通の生徒として卒業をして……私と同じ大学に進んで、『トレーナーになる事』をメインミッションとしましょう。いざとなれば私が養いますからご安心を」

 

 つまり、そうだ、私は煽っている。

 強引に揺さぶりをかけて、余裕を奪い──最初から無に等しいが──心を丸裸にしようとしている。

 自分でも、汚いとは思う。けれども、それはそれ。

 私が求めているのは剥き出しの衝動と、それとの衝突なのだから。

 

 そのためなら私は、何だって言える。

 

「あなたはもう、何もしなくていい」

 

 ──その言葉が、きっと、決定的なもので。

 防波堤を打ち崩す槌として、フィートに打ち付けられる。

 

 一瞬、ぽかんと脱力して。

 転瞬、目が鋭くつり上がった。

 わなわなと震える肩と、白い頬に散らされた朱色が──フィートの激情を、ありありと物語る。

 

「……ふ、ふざけないでください……っ」

「ふざけてなどいません。私は『真面目』かつ『真摯』に提案しています」

 

 そこにあるのは、たぶん。

 怒り、怒りだ。

 掴みかからんと私に詰め寄るフィートは怒っていた。未だ見たことのない熱量で、熱く熱く煮え滾る。

 仮面を完全に剥ぎ取った、裸の心がそこにあった。

 

 第一段階、クリア。

 

「っ、さっきから黙って聞いていれば、わたしをバカにしているんですか!?」

「……いいえ。私は何かおかしいことを言いましたか?」

 

 そうだ。

 私が思うに──まず、喧嘩に向けた第一歩として、反発が必要になるはずだ。

 反発し、反抗し、反論する。それがなければぶつかり合いは成立しない。

 だからフィートには、その過ぎた自罰感情を忘れてもらわなければならない。

 必要なのは自罰ではなく、他罰だ。

 

「フィートがそのように思うのであれば、原因はフィート自身にあるのでは?プロトコル、『自身を省みる』を推奨します」

「……っ!……っ!?」

「死の先に永遠を?もう二度と、忘れられないために?……ふざけているのは、あなたです」

 

 ……だが、理由とはそれだけではなく。

 私も、私が思っていた以上に頭に血が昇っているらしい。そう、頭の片隅にある冷静な部分が呟いた。

 開く口が止まらない。思っていたことも、思っていたと知らなかったこともどんどん吐き出されていく。

 

 ──あぁ、つまり。

 私は、前言撤回しなければいけない。

 さっきは『怒り』など抱いていないと言ったが、そんなの嘘だ。真っ赤な嘘だ。

 私の中には、確かに、堪えきれぬ『怒り』があった。

 

「私は『真面目』かつ『真摯』に、あなたの願いを否定している。あのような末路に至る願いが、正しい筈がありません」

 

 あの未来を潰すためなら、私はなんだってできる。

 だって、あんな未来を認めたくない。

 あんなものの何処に救いがある?

 あの痛みが正しいなんて。あの涙が、正しいなんて。

 

 そんなの、認められない。

 

「……何度でも言います、フィート。これは、私とあなたの喧嘩です」

 

 だから、さぁ、と。

 フィートの手を、指差して。私の頬を、差し出した。

 

 ぶつかり合うためには、やはり対等でなくては。

 私とフィートは言葉を交わせる。私とフィートは触れ合える。ならば喧嘩出来ない通理なんて存在しない。

 

 フィートの目を見る。血走って怒りを宿した目を、しかしいまだ色濃い怯えが残る、青い瞳を。

 

 さあ、さあ、さあ。私はここにいるぞ、ここで無防備に頬を晒しているぞ。

 喧嘩をしよう。喧嘩をしよう。ぶつかり合って、分かり合おう。分かり合って、新しい未来を探そう。

 だから、はやく──。

 

「──つべこべ言わずに拳を握りなさい、この臆病者!」

 

 

 瞬間。ぱぁんと、破裂音が響く。視界がブレた。

 頭上の耳からほど近いところで、肌と肌が打ち合う音色が響き出す。

 

 その音から遅れて……じんわりと、頬が熱を持ちはじめた。

 

「好き勝手、言わないでよ……」

 

 頬に、張り手を食らったのだと。

 そう理解するのに、たいした時間は掛からなかった。

 

 振り抜かれた手は震えていて、弱々しい。

 けれでも──だからといって、私は吐いた言葉を取り消すつもりはない。

 むしろ、正面から否定してやる。否定しなければならない。

 

「いいじゃないか、死んだって!」

 

 ……大義名分を抜きにしても、あぁ。

 私が、この子を許せないのだ。

 

「いいえ。好き勝手しているのは、あなただ……!私達の気持ちも考えなさい!」

「ぼくだって……っ、考えた結果があれなんだ!毎日毎日考えて、考えて考えて考えて考えて考えて!でも他の道なんてなかったから!だから死のうとした、仕方ないじゃないか!」

「仕方ない……!?あれが、あの末路が仕方がないと!?ふざけないでください!」

「ふざけてなんかない!姉さんの夢とぼくの夢は地続きで──!」

 

 ──フィートが私の襟首を掴む。掴んで、ごつんと額をぶつけてくる。

 ゼロ距離からだとよく見える、青い瞳が、私を鋭く睨んでいた。

 

「あの夢を叶えれば、尊厳が手に入る!ブルボン先輩なら分かるでしょう、ぼくの死は多くの人に悼んでもらえた筈だ!ぼくは、ぼくは消えなくなる!」

「その前提の、望みがっ!間違いだと、言っているのです!」

「間違いでもいいよ、もう!」

 

 頭を振りかぶる。打ち付けた。視界に火花が飛び散った。

 痛い、痛みが迸っている。

 けれど、あの時の喪失の、首を掻きむしりたくなるような痛みと比べれば。……この程度、どうってことない。

 

 だからさらにもう一度、頭を振りかぶった。

 

「悲しんでもらえたから良い結末?だから消えない?残された側の気持ちぐらい考えなさい!あなたなら──その意味が分かるでしょう!」

 

 衝突。飛んだ火花の向こう側の歪んだ顔が、やわらに遠のいた。フィートが一歩後ずさって──空いた空間を私の足で踏み潰して、またゼロ距離に戻る。

 

「っ……もちろん分かってる!分かってるから、あれを選んだ……っ!」

「いいえ、いいえ……何も分かっていません。よりにもよってあなたが……あなたが、望むなんて……!」

 

 掴みかかった。

 掴まれる。

 互いの腕が交差して、互いの身体を縛り合う。

 

 けれど、バランスはこちらに傾いていた。

 ゆえに片足を引っ掛け、フィートの身体を強く抱き寄せ──一気に引き倒す。

 どさりと、鈍い音がなる。乾いた草が飛び散る。

 そうして押し倒した体勢のまま、両手首を抑え込んだ。

 

 そしてまた、額を打ち付ける。

 顔と顔をあわせて、フィートを見下ろして。

 

「は……っ、はっ……私には、理解、できません。その動機が、理解できません。その基準が理解できません。理解できません。理解、したくありません。あなたは、その痛みを、誰よりも知っているはずなのに、なぜ……っ」

「……なぜ?」

 

 また、絡み合った視線の中。

 どろりと、青が淀んだ。

 

「だって、あなたはぜんぶ持ってるじゃないか」

 

 ひどく、鈍く、重く絡みつくような青。

 深海のようで、宇宙のような。暗い、昏い、溺れてしまうほどの坩堝の青が、私を捉える。

 深く、深く、溺れるほどに。

 

 ひゅっと、喉が引き攣った。

 

「家族がいる。夢がある。正しい志も、それに見合う背丈も、それを支える背景もある。そして何よりも、あなたは愛されていて──産まれたことを祝福されてる。ほら、ぜんぶ。ぜんぶ持ってる。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ──ぼくが欲しかったもの、ぜんぶ持ってる」

 

 あぁ、なんて。

 なんて、目で。

 

「じゃあ分からないよ。あなたはきれいで、かっこいい。本当に、ぼくとは違ってすごいひとだ」

 

 だから、あなたには理解できない。

 突き放すように、吐き捨てた。

 

 色彩──そう表すには、暗すぎる。淀んで、淀んで、淀んで、淀んだ、色の果て。

 だから、そう、穴だ。穴がある。ぽっかり空いた二つの穴が、私を見つめていた。

 

「だけど、うん。認める。ぼくが望むことの不合理は。あなた達にひどく不義理な行いだった。

 ……でも、それだけで」

 

 その穴の奥から、視線が飛ぶ。

 私の目を透かして、私の心へ直接。

 

「それだけの理由で、ぼくに捨てろって言うの?」

 

 咄嗟に、否定しようとした。

 "それだけ"などと吐き捨てられる謂れなど、ない。あってほしくない。

 けれど声が出る寸前、フィートの顔を見て──何も言えなくなってしまった。

 

 どうして。そんなに、傷ついた顔で私を見るのか。

 ……自分の言葉で傷つくぐらいなら、言わなければいいのに。

 

「ぼくはあの家に帰りたかった。あの家がぼくの全てだった。愛しかった、大切だった、ぼくの幸せそのものだった。

 あそこに未来がなくてもいい。理解されなくたっていい。諦められても、いい。そんなの、もうどうだっていい。大人になりたいなんて言わないし、立ちたいなんて言わない。何もいらないから、帰りたいだけなのに」

 

 一気に吐き出して、代わりの空気を肺に入れる。

 けれどまだ、息苦しそうだ。ひゅう、ひゅうと空鳴りのように喉が震えていた。

 

「ふ、ふふ……でもさ、もうないの。ぼくに残されたのは姉さんの残り香だけ。ぜんぶなくなった。ぜんぶ、ぜんぶ、過去も」

 

 ゆえに、行き先を失った想いは。

 迷子になった想いは、どこにも帰れなくなった想いは、一体どこにいくのだろう?

 

 ふと、疑問を抱く。いつかにも、似たことを考えたような、気もする。

 だからか、答えは簡単に思い浮かぶ。

 

(きっと、腐るだけ)

 

 腐って、腐って、腐り落ちて。

 地面の染みになって、いつかその染みすら薄れて。

 そして、消える。どこにもいなくなる。

 

 それがフィートが出した答えであり、だから今消えたがっている。

 どうしようもなくなったから、消えたい。

 何もできなくなったから、消えたい。

 

 けれど、せめてもの慰めに、尊厳が欲しかった。

 家族の死に、過去の終わりに、尊厳だけでも与えてやりたかった。

 ファインドフィートという誰かは、それを救いと呼んでいた。

 

 ……なんて、中途半端に。

 

「せめて、終わり方ぐらい選ばせてよ」

「……それなら、私達は」 

 

 なんて、なんて、自分勝手に。

 それじゃあ、私は──そんなにも、頼りないのか、と。

 とにかく、泣き叫びたくなって。声が、情けなく震えて。

 心が、千切れそうだ。

 

「私に、あなたを見捨てろと、言うのですか」

「……そう、言っているつもりだよ」

「あなたは、そうまでして逃げると?逃げて、その先に救いがあるのですか?あなたは、そんなものを──」

「救いはあるよ。尊厳さえあれば、十分。だから、ずっと言ってるの」

 

 それでも、フィートは己をなじるように。

 心底から蔑むような声音で、自分を言葉で串刺しにした。

 

「死ねばいい」

 

 ──。

 …………。

 

「……して……」

 

 頭が、真っ白だ。

 真っ白に、なった。

 痛くて、痛くて、痛くて、痛くて──。

 

「どう、して……」

 

 ぽつり。ぽたり。

 目の奥がじっと熱くなって、その熱が歪んで、集まって。

 やがて、雫が落ちる。

 

「どうして、ですか。どうして、どうして、生きてくれないんですか」

「だから、それは──」

「私は、離れたくありません。いやです、絶対にいやです」

 

 雫が、涙が、落ちて。

 フィートの頬に当たって、弾けて、細い軌跡を残す。

 私はそこに、惨めさを垣間見た。

 

 だって、こんなにも。

 こんなにも、求めているのに。

 

「だって、まだ、まだ、これからなんです。私達には、これからがあるのです。毎日知らないことを知って、知っていることを増やして、メモリに"たくさん"を刻んでいくのです。私は、もっと、一緒にいたい……」

 

 まるで、無意味だ。

 

 私は。

 私は、望まれなかったのだろうか。

 私は──フィートの親友であると思っていた私は、フィートの姉代わりになったつもりの私は。

 命の重りに、なれなかったのだろうか。

 

「私との日々は、あなたが死を望むほどに……価値のないもの、でしたか?」

「……ううん」

「私は、あなたの宿り木にすらなれなかったのですか?」

「それ、は……」

 

 もしそうなのだとしたら、あんまりだ。あんまりにもひどい。

 こんなに一緒に過ごしてきたのに──なんで、今更。

 

「ぼくには……」

 

 ためらいがちに口をもごもごと動かして、ふっと息を抜く。

 

「ぼくには、勿体ないぐらい、あたたかい居場所だった」

「なら死にたいなんて、言わないでください。他の道も、他の生き方も、これから探していけばいいのですから。

 ……少なくとも、死ぬべき理由は、もうありません。それを答えにすることも、できるでしょう。それでも生きる理由が必要だというのなら……」

 

 押し倒した少女の顔の、ぽっかり空いた二つの穴。

 そこには、確かに心があった。穴の空いた、心があった。

 

 ……ならば、それならば。

 

「私があなたの理由になります。裁かれたいというのなら、私が裁きます。愛されたいというのなら、私が愛します。それでももし、終わりたいというのなら──私が、それを担います」

 

 つまり、私がそこを埋めるパーツになればいい。

 いや──なればいいではなく、そうさせる。強引にでも、私をねじ込む。

 どんな手を使ってでも。どんなに歪であっても。

 

「……ブルボン先輩。それは、ダメだよ。だって、それじゃあブルボン先輩が──」

「私はっ!」

 

 喉が痛くて。けれどそれ以上に、胸が痛かった。

 どうにか堪えようと一瞬唇を噛み締めるけれど、やはり大した意味はなく、ただ痛みが溢れる。

 さみしいことは、悲しくて。悲しいことは、痛いから。

 

「私は……もう、嫌なんです。あなたがいない日常に、戻れない。だって寒いのです。さみしくて、さみしくて、かなしくて──胸がずっと痛いままで、何も変われなくなった」

「……ぁ」

 

 楽しかった。優しかった。

 あの日々のぬくもりは代えがたく、だから私は、こんなにも脆くなってしまった。

 

 その想いが、ほんの少しでも強く伝わるようにと。額と額を、くっつける。

 強く押し付けて、鼻先同士を僅かに触れ合わせて、視線を交わす。

 目の前には、青が広がっていた。

 

「どうか、お願いです。私を理由にしてください。いえ……私じゃなくてもいい。テイオーさんでも、トレーナーさんでも、誰でもいいから。誰かを理由にして、誰かを頼って、生きてください」

 

 私は。

 ……私はきっと、ひどいことを願っている。

 つまり、どんなことがあっても生きろと──どんなに苦しくても生き続けろと、押し付けているから。

 私は自覚している。私は理解している。しかし、それでも望まずにはいられなかった。

 

「フィート。私達にはまだ、時間があります。……少しくらい、一緒に脇道に逸れてくれても、いいじゃないですか」

 

 押さえつけていた手を離して、代わりに抱きしめて。

 フィートの温度を、私に溶かした。

 

 そこに、命のぬくもりを感じる。

 あったかくて、心臓の音も聞こえてくる。

 とくり、とくり、とくりと、鼓動が伝わる。

 だからフィートは生きている。生きている。生きている。

 

 もう、二度と逃さない。

 

 

「……ふ、ふふ……なに、それ。おかしいじゃん……」

 

 頭の横から聞こえる声は、震えていて、少し湿っていて。

 

「それじゃあ、生きてほしいから生きてって、そう言ってるみたい……」

 

 呆れたふうで、諦めたふうで、投げやりで。

 

「なに、それ。無責任だよ。ほんとうに……そんな、そんなの……」

 

 けれど、確かに微熱のこもった声だった。

 

「……」

 

 少し身をよじって、青い耳飾りを取り出す。

 僅かな重みと、夏の残照を宿した石を握り込んで、そっとフィートの手のひらに重ねた。

 

「……これ、は?」

 

 かちゃりと響く、小さな金属音。重なった肌以外の熱。重み。

 フィートはそれらに訝しげな声を出して。

 すぐに、息を呑む音が聞こえてきた。

 

「ファイさん……お姉さんからの預かり物です。確かに、返しました」

 

 少し間を空けて、そっか、と。

 返ってきたのはそんな、空気が抜けるだけの返事。

 その中には涙の音も混ざっていて──私に、続く言葉を失わせた。

 

 ……けれど、それでいいのだと思う。触れるべきではない領域は、触れてはならない聖域としても、存在する。

 だから、これ以上があるとするなら──。

 

「フィート、あなたの名前を教えてください」

「……瞳。御供、瞳」

「そう、瞳……」

 

 ──そう、そうだ。今更かもしれないし、もういらないかもしれない。

 想いは、言葉にせずとも伝わることはある。けれど逆に、言葉にしなければ伝わらないこともある。

 そして言葉は、声にしなければ伝わらないから。

 だから私は私なりの精一杯を、声にした。

 

「瞳。産まれてきてくれて、ありがとう」

 

 ただ、普遍的で、ありきたりな祝福を。

 精一杯の、愛を。

 

 

 ……瞳から、言葉は返ってこない。

 代わりに、抑えられた嗚咽が聞こえる。

 くぐもっていて、低く、呻くように。ただの、幼い子供のように。

 

「だから、いまは」

 

 重ねた手を、ぎゅっと握る。

 ……少し遅れて、やわく握り返された。

 

 いまは。

 きっとこれで良いのだと、私は思う。

 

 

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