【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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さよならのうた

 

 

 手を繋いだまま、空を見上げて幾ばくか。

 少し肌寒くなってきたな、なんて、ぼんやり思う。

 汗をかいたこともあり、冷えた空気は身体に堪える。もちろん、そう簡単に風邪をひくほどやわではないけれど。

 だが、そろそろ帰っても良い頃合いかもしれない。今から電車に乗れば、まだ日が高いうちに帰れる。

 

 だから、そう。

 これからの事は、部屋の中で考えたらいいのだ。

 温かい飲み物で人心地をつけて、腰を落ち着けて。それからああしたいとか、こうしたいとか、互いの意見をぶつけたらいい。それでも解決できなかったら喧嘩して、仲直りして。私達には、それができる。

 焦る必要はない。ゆっくりでいい。

 

「そろそろ帰りましょう、瞳」

「……。そうです、ね……」

 

 立ち上がる。隣の瞳にも手を貸して、立ち上がらせる。

 

「……瞳?」

「ああ、いえ……すみません。少し考え事が。……あと、そうだ。ぼく……わたしのことは、フィートって呼んでください。わたしはもう、ファインドフィートですから」

「……そうですか……」

「……でも、ふたりきりの時は瞳って呼んでください」

「……!はい、新しい規則を追加しました」

 

 瞳、瞳と呼んでみる。瞳はくすぐったそうに苦笑して、なんですかと返してきた。

 どこにでもあるやり取りだ。けれど、どこにでもあるこれは、決して当たり前ではない。

 だから、嬉しかった。また、こうして言葉をかわせる今が。

 

 

「──ところで、考え事と言っていましたが」

「えっと……そんなに大したことじゃないんです」

「本当に、ですか」

 

 少し、詰め寄ってみる。

 

 瞳は、溜め込む性質だ。それはここに至るまでの過程が証明している通りで、瞳という少年、あるいは少女の本質でもある。

 私は──それそのものを否定するつもりはない。

 だが、怖いのだ。また、何も知らない内に、何かが壊れてしまうのではないかと。

 

 ……だから私は、全部を知りたい。

 何かがあってからでは、遅すぎる。

 それではファイさんにも、顔向けできない。

 

「はぁ……別にそんなに身構えなくても大丈夫ですよ」

 

 尻についた土を払いながら、瞳は呆れたように私を見た。

 

「ええ、まぁ……正直、全部受け止めたつもりはありません。でも、少しぐらいは足を止めるつもりです。

 どうしても他の道が見つからなければもう一度……なんてことも、出来ますからね」

 

 "それこそ、今度は凱旋門を獲ってからでもいい"。

 なんて続けて、肩をすくめてみせた。

 その時にはまた私が立ちはだかると知っていながらそう言うのだから、まったく呆れるほどの頑固者だ。

 

 ……もしそうなったら、私は。

 きっと、瞳に言ったように、その役目を担う。その役目は、他の誰にも渡さない。

 どうしても死にたくなったら、その時には。

 

 ……。

 ──私の考えが正しければ、そんな未来は訪れないはずだけれど。

 

「ただ……その、けじめをつける、必要があるな、と」

「けじめ……ですか」

 

 けじめ、けじめ。

 物事の境目に、けりをつけること。

 よく聞くのは"自らの行いの責任を取る"ことだが……。

 しかし、けじめをつけるべきは瞳ではないはずだ。

 

「そんなことはありません。わたしには責任と、義務があります。ここまで走ってきたのは、間違いなくわたしですから」

「…………」

 

 不安が、あった。

 その目に、危うい光はない。言動も、いつも通りだ。

 けれど──その"いつも通り"は、果たして信用できるものなのか。

 少なくとも、今まで私が見てきた"いつも通り"の裏で、あの女神を名乗る某が暗躍していたことは知っている。私が見る"いつも通り"とは、そういう分厚い仮面でしかない。

 

「大丈夫ですよ。監視の目もありますから……万が一はありません」

「監視の、目?」

「ええほら、今もそこに……。……いえ、すみません。他の人には見えないんでした……」

 

 瞳が視線を向けたのは、虚空。

 私の右隣3歩先の、何も無い空間。

 

「ただ、その……一度家に帰って、色々処分するだけです。本当です。別に危ないことは何もありません」

 

 瞳が慌てたように口を開くが──さて、その言葉自体はさほど信用できないものの気がする。

 まず、雑すぎだ。色々とは一体何なのか。処分とは何をするのか?細かなところが何も見えない。

 

 ……が、しかし。

 監視の目とやらには、心当たりがあった。

 

「……良いでしょう。日没までに帰ってくるように」

 

 だから、おそらくいるのだろう。

 あの白い街で出会った彼女のような誰かが、そこに。

 であるなら、ひとまずは安心できるというもの。

 

 それに、私は瞳を信じたい。

 信じたいから、信じる。物事は、それぐらいシンプルで良い。

 

「ですが、山を下りるまでは一緒ですよ」

 

 瞳の手を取った。

 風の冷たさに浸された手に、少しでも私の温度が伝われば良い、なんて、願いながら。

 

 

 △

 

 

 ここから先は、絶対に必要というわけじゃない。

 このけじめがなくとも、新しい朝を迎えることはできる。

 

 ……すぐに元通りとはいかない、けれど。

 でも新しい朝を迎えれば、そしてそれを繰り返せば、いつかは癒えるはずだ。

 傷口がかさぶたになって、かさぶたが消えて傷跡になる。

 消えはしないけれど、痛みはうんと和らぐだろう。

 

 しかし、本当にそれだけでいいのか?

 

 もう気にしなくていいと、抱えていたもの全てをほっぽりだすのか。

 ……きっとブルボン先輩は、それで良いと言うだろう。ぼくを責めはしない。不思議と、そんな確信があった。

 今までの苦しみを軽視して、昨日を無視して、明日を見る。簡単なことだ。

 

 でも、やっぱり、そんなの無理だ。

 いまさら捨てるなんてできない。

 ぼくは一生、これを抱えて生きていく。

 苦しみを、悲しみを、痛みを、全部忘れずに。いつか死ぬそのときまで、抱え続ける。

 

 だから今日は、宣言するのだ。ぼく自身と、過去の全てに。

 過去を見つめるためではなく、前を向くための儀式として、区切りをつけるために。

 葬式は、そういうものだから。

 

 

 ──山を下りて、ブルボン先輩と別れて、『ひいお婆ちゃん』といっしょに歩く。

 懐かしい白い町並みを眺めながら、できるだけゆっくりと。

 灰色のアスファルトは記憶にある姿よりも古ぼけていて、細かく走った亀裂が過去と現在の壁を教えてくれる。

 ぼくは生まれてからの十歳まで、そして操り人形だった十歳から十三歳までもこのあたりで暮らしていた。

 ただ、人形としての記憶は実感を伴わない記録。だからそこを基準にするのはひどく難しくて、五年前の記憶のほうが身近になる。

 ゆえに、ここを通るのは実質五年ぶりと表現したほうが正しい。

 ちょっとだけ、さみしいけれど。

 

 

 突き当りのカーブミラーを、右に曲がる。

 地蔵の前を通り過ぎて、古ぼけた横断歩道で立ち止まる。

 車は一切通っていないが、何も考えずに信号機へ伺いを立ててみた。

 信号機は、真っ赤な顔でぼくを見つめていた。

 

「……この道も、こんなに狭かったんですね」

 

 なんとなく、周囲を見渡す。

 記憶の中とのギャップは中々大きい。

 信号機の頭はもう少し遠くにあった気がしたけれど、実際の位置は存外近い。ジャンプすれば普通に届きそうだ。

 

 そのギャップを感じるのは、昔よりもぼくの身体が大きくなったから、だろうか。

 もしそうなら、いくらか誇らしい気持ちにもなる。

 

『昔のひ孫、すごく小さかったもんね。それだけ身長違うとすごく変わるでしょ。あ、そういえばもう"ぼく"って言わないの?私ああいうのもいいと思うんだよね』

「なぜ知ってるんですか?いえ、まぁ、確かに小さかったですけど……それは年齢の違いもありますし。あとわたしは"わたし"で通します。今更じゃないですか」

『えー、残念。

 ……で、ひ孫さ、平均で見ても小さかったと思う。こんぐらい』

「さすがに豆粒レベルで表現されるのは心外ですね……」

 

 『ひいお婆ちゃん』の指先でつまむジェスチャーに指を差し込んでいるうちに、信号が青に切り替わった。

 横断歩道の白い部分だけを選んで、ぴょんぴょんと跳ねて渡る。

 あとはひたすら真っすぐ進むだけだ。

 

『……人通り、少ないね』

「ん……昔はもう少し色んな人がいましたが……まぁ、これも時代の流れです。この辺りも人口が減って、商店街もなくなって、随分住みづらくなりましたから」

『そうなんだ。……さみしい?』

「……はい、少しだけ」

 

 とん、とん、とん。

 足音はひとりぶん。しかし、響く声はふたりぶん。

 だからか、その少しのさみしさもじんわりと和らぐ。

 目的地まではまだ歩くから、その間賑やかなのは良いことだ。

 

 そして、ふと思う。

 今更、だけれど。

 そもそも、『ひいお婆ちゃん』はどういう存在なのだろう。

 

 今までのやり取りからして、けっして女神さまのような、外れたものでないことは分かっている。

 幽霊、とも少し違う気がする。なんというか……幽霊というには、まともすぎる、気がする。

 ぼく自身に幽霊を見た経験はあまり無いが、その少ない経験からでも風変わりなことぐらいは判別できるつもりだった。

 

 『ひいお婆ちゃん』の横顔──顔のつくりは見えないが──を見る。

 肌は柔らかそうで、生きている人間のものと見分けがつかない。

 ……人間、なのだろうか。普通のひとからは、見えないのに。

 

『……どうしたの?』

 

 その視線を怪訝に思ったのか。『ひいお婆ちゃん』が、ぼくを見る。

 肌と同じで、柔らかい眼差しをしているのだと、なんとなしに思う。顔は、やっぱり見えないけれど。

 

『疲れたならおんぶしようか?』

「いえ、それはいいです。ですが、その……今更気になったんですけど。本当に今更なんですけれど、『ひいお婆ちゃん』ってどういう存在なんです?幽霊?それとも女神さまの亜種ですか?」

『本当に今更だね……もっと興味もっていこ?あと、あいつらと同類扱いはやめて』

 

 絶対に、やめてね。二度目はないから。

 『ひいお婆ちゃん』は低い声で続けて、ぼくの頬をつねった。痛い。

 

『で、私が何かって言うと……』

「何かって、言うと?」

 

 そこで一度、溜めて。

 

『……まぁ、そのうち教えるよ。まだカフェにも教えてないことだから、そのうちね』

 

 結局、後回しにされてしまった。

 

 でも、そうかと、納得した。

 言われてみれば確かに、最初に知るべきはカフェさんだろう。

 ぼくも二人の間柄を深く知っているわけじゃない。

 だが、二人が特別な関係であることぐらいは察している。

 幼い頃からの、『お友達』。その意味の重さは、ぼくが思うよりもきっと大きいのだろう。

 

「……ちなみに、なぜわたしをひ孫と呼ぶのかは?」

『それもそのうちね』

「教えてくれないことばかりですね」

『知らないの?女の子は秘密が多ければ多いほど魅力的になるんだよ』

 

 なら無理に問いただすこともないな、なんて。

 ぼくは適当に相槌をうった。そして、遠目に見つけた青い屋根の家へ向けて、少しだけ足を早める。

 

「……あ、それと今更ついでなんですが……『ひいお婆ちゃん』はどこまで知ってるんですか?」

『ん、だいたい全部。あの、まだマシなヤツ……自称海に教えてもらったからね』

「……あぁ、あの」

 

 海、といえば──それに当てはまるのは、潮騒の音を聞かせてくれたあのひとしかいない。

 かわいそうなひと。……そう呼んでしまったあのひとは、今はどうしているのだろう。少し、気になった。

 

『私もさ、実は裏でいろいろ頑張ってたんだよ?やり直しの目覚まし時計を直させたり、海をどつき回したり、タキオンをしばき回したり……』

「ん、ん……。……それは、その、ごめんなさい……?」

『許さない。うそ、許す』

 

 謝れてえらい、と『ひいお婆ちゃん』がぼくの頭を撫でる。軽く浮かんで。唐突すぎて変な声が出てしまった。

 

 

 △

 

 

 そして、ようやく家にたどり着いた。

 一応、年に一回ぐらいはハウスクリーニングに依頼をしていたから、荒れ具合はさほどでもない。

 庭の雑草は刈り取られているし、外壁だって綺麗だ。

 ……とはいえ人が住んでる家に比べれば、かなり味のある風体だが。無機質と言ってもいい。

 

『鍵は?』

「わたしの記憶が正しければ……たしか、このガスメーターボックスの天板裏に……あぁ、ありました」

『えぇ……セキュリティ的にどうなの、それ』

「まぁここに盗むようなものは何もありませんから……」

 

 鍵を、ドアに差し込んでくるりとひねる。かちゃりと軽い音をたてて、錠が開いた。

 

「……さぁ、上がってください。あいにく、もてなすことは出来ませんが」

 

 埃っぽい匂いが、ぼくらを出迎える。

 古臭く、色褪せた写真の中のように、とぼけた空気が。

 ぼくらの肌をやさしく撫でて、溶けた。

 

 

 △

 

 

 玄関に置きっぱなしだったスリッパを履いた。三足あるうちのひとつ。ぼくが使っていた青いスリッパだ。

 

 空気の淀んだ廊下を抜け、家族の残り香すらないリビングへ。

 昔使っていた家具は、当然むかしの姿を保っていた。最後にぼくが暮らしていたのは三年前だけれど、その時と殆ど変わっていない。

 お父さんとお母さんが使っていたコップも、ぼくが使っていたお茶碗も、そのまま。

 ……これで姉さんのものが残っていたら、もう少しさみしさも薄れてくれたのだろうか?いや、より一層、さみしさが深まるだけかもしれない。

 

 ソファーのホコリを軽く払って、腰を沈める。すこし、歩き疲れてしまった。

 

『……で、けじめってどうするの?もし指を詰めるとかなら絶対に許さないけど』

「やりませんよ」

『じゃあ髪を切るとか?許さないよ』

「それもやりませんって。少なくとも、今日は」

 

 けじめ。ぼくにとっての、けじめ。

 ……それはやはり、夢を、終わらせることだろう。

 いつだったか、星を見ることを諦めたように。

 

 ふぅ、と息を抜く。ふわりと、埃が舞った。

 窓から挿す光の中でゆらゆら踊り、退廃的な煙たさを漂わせた。

 

「……二階の、わたしと姉さんの部屋にいきましょう」

 

 立ち上がる。リビングを抜け、階段に足をかける。後ろから『ひいお婆ちゃん』がついてくるのを気配で察しながら、久しぶりに二階へ上がった。

 二階の角にはお父さんとお母さんの寝室があって、その隣に物置として使っている小部屋、さらにその隣に、ぼくらの部屋がある。

 なんてことはない木目調の、普通のドアが入り口だ。

 

 取っ手を捻って押してみれば、きぃと鈍い音が鳴る。経年劣化のせいだろう。

 それでも、ドアはきちんと開いた。開いて、部屋の中をぼくらに晒す。

 布団のない、マットレスだけのベッドと、子供向けの勉強机、壁際に本棚。部屋の真ん中あたりには、青い座布団があった。

 ……姉さんの痕跡がないことを除けば、昔の姿そのままだ。

 

 だから、当然。

 

 部屋の隅っこに放ったらかしにしていたおもちゃ箱も、そのままで。

 その中身もまた同じく、過去のそれと変わらない。

 ずっと昔に遊んでいた人形も、細かな傷にまみれたガラス細工の地球も、しろくまの縫いぐるみも。

 そして、そのなかでひときわ目立つ異物たる木像も。

 

 その木像を持ち上げて、そっと息を吐く。

 丁度、頭と同じぐらいの大きさで、ずっしりとした重みがある。古ぼけて、かろうじて人体を象っていると理解できる程度の、不格好な木像だった。

 

『……なに、それ』

 

 ただ、人体──ヒトにあるまじき特徴がふたつある。耳と尻尾だ。荒削りでひどい出来だが、そうと見て取れるつくりだった。

 

 そして、これが。

 この、見るからに、子供の小さな手で作られたことが見て取れる、これが。

 

「これが、女神さまです」

『は?』

 

 薄汚れた頬を指で拭う。ざらりと、肌を軽く削られた。

 

「……わたしね、ずっと祈ってたんです」

 

 そして思い浮かべたのは、昔の、ずっと昔に抱いていた願い。

 姉さんの夢を継ぐ前の、もともとの夢を抱くよりも、さらにもっと前。

 たしか、まだ7歳ぐらいだったと思う。

 

 そう、あの頃だ。

 ぼくはあの頃、自分の身体が他より劣ることを知った。

 普通よりも弱いこと、脆いこと、先がないことを知った。思い、知らされた。

 お父さんとお母さん、姉さんを置いていく未来も、全て。……結局、そうはならなかったけれど。

 

「あの頃は……わたしも走りたいって、みんなといっしょの身体がほしいって、ずっと思っていました。流れ星に願ったり、神社に通ったり、いろんなものに手を出しました。ぼくに出来ることなんて、多くはなかったですから」

 

 ぼくは現実に対して、あまりにも無力だったのだ。

 言葉を話せるだけの生き物。考えることすらおぼつかない葦。ぼくは、そういうものだった。

 だから、ああいう形のないものに願って、頼って……そして、目をつけられた。

 

「これは、聖像です。子供の手で作ったものであっても、女神さまがここに来るための発信機で、目印にはなりうる」

 

 これさえなければ、と言うのは簡単だ。作らなければ、目につくこともなかったのではないか、なんて。

 

 ……けれど所詮、こんなものはきっかけのひとつに過ぎない。

 ぼくが何もしなかったところで、遅かれ早かれ、ぼくらという珍種は見つかっていた。

 だって、たかが像ひとつを作っただけで目をつけられるようなら、この世界はもう少し厳しいものになっていたはずだ。

 戯れに願いが叶えられ、気まぐれに祈りを踏みにじられ、容易く死者が蘇る。それを人の世と言えるはずがない。

 

 だからきっと、間が悪かったのだ。

 ぼくらが死んでしまった理由と同じで、ただ、運がなかった。

 

 ……そう思わなければ、どうしようもない。

 

「でも、そう。だから……壊さないといけない」

 

 故に、義務だ。果たすべき義理でもある。

 

「たとえ、もうなんの力も持たない誰かになっていたとしても。これから先に、奇跡がないとしても。……わたしから、お別れを言わないと」

 

 そこまでしてやっと、区切りをつけられる。

 確固たる輪郭をもつ確信が、ぼくをここに連れてきた。

 

 

 そして、聖像を抱え込んで。

 

『──どうして?』

 

 じっとりと、声が響く。

 上から、ではなく、内側からでもない。

 目の前から、か細い女のひとの声が、滲むように。

 

『どうして?ねえ、どうして?私、あなたのことが好きなのに。あなたのことを愛しているのに──』

 

 蹲っていた。

 かつて、女神とよんでいたひとが。

 ぼくが盲信して、縋っていた、おそろしくも美しいひとが。

 ただ、嘆きながら、蹲っていた。

 

 やがて上げられた面には、昏く輝く金の瞳。

 焦がすように、ぼくを見ていた。

 

『……あなたに、恋をしていたのに』

 

 嘆きを浮かべた顔で、嘘偽りの気配なんて欠片もない声音で言う。

 その言葉を濡らすのが、恋、と呼ぶものなのか。

 恋と愛は、何か違うのか。何が、違うのか。

 ……ぼくには分からない。分からないけど、分からないから、こわい。

 

 知らず、体が強張った。

 

『私、あなたのためなら何でもできたの』

 

 ひたり、ひたり。

 両手だけで、ほんの少し、ぼくに近付く。

 

 そしてぼくに触れる距離に、入る寸前。白い両手がするりと伸びる。『ひいお婆ちゃん』の両手だった。

 その手が向かう先は女神さまの首元で──。

 

「だ、駄目です!」

 

 ──咄嗟に、それは駄目だと声を上げる。気付けば、『ひいお婆ちゃん』の肩にしがみついていた。

 

「ご、ごめんなさい。少し、待って、ください……」

『何故。ここでカタをつけておかないと……ね、色々と困るんだけど』

「大丈夫、ですから」

 

 だって、それは。

 ……それは、ぼくがやるべきことだから。

 

 道のりがあんまりにも複雑で、それぞれの思いがぐちゃぐちゃに入り交じったせいで、見えづらくなってしまったけれど。

 

 きっかけは、ぼくと、女神さまだった。

 これは、ぼくと女神さまがはじめた物語なのだ。

 ならば、責任を取るべきは、やはりぼくらであるべきで。後始末を『ひいお婆ちゃん』に押し付けるのは、大いに間違っている。

 当然、ブルボン先輩にも、テイオーさんにも、トレーナーにも、押し付けてはならない。

 ……いまさら、なのかもしれないけれど。

 

『フィート、フィート、ファインドフィート……ねぇ、もう一度やり直しましょう。もう一度、もう一度、最初からやり直しましょう。昔に、戻りましょう。昔に、昔に、昔に──私と一緒に』

 

 女神さまの手が、ぼくの肩に置かれる。重さのない、羽のような手だった。

 そして、その悲しいほどに非力な手を。

 ぼくの肩にかかった手を、精一杯やさしく払った。せめて、少しでも傷つかないように。

 

「……ねぇ、女神さま」

 

 すぐ近くにある透明な目を見た。

 ぼくを透かす目の奥に、ぼくはいなかった。……今までと同じように。

 

()()は、わたしの役目じゃありません。わたしはあなたが見ている誰かじゃないんです」

 

 ずっと、感じていたことだ。

 

 女神さまは、ぼくを見ていない。

 ぼくを通した先の誰かを見て、その誰かに焦がれているのだろうと。

 

 その誰かはもしかすると、ぼくに似ているのかもしれない。だから、ぼくを見つけたのかもしれない。

 でも、女神さまが求めているのはぼくではないのだ。

 ……確証はないし、本当のところは分からないが──ただ、少し、かわいそうだと思う。

 ぼくにそんなことを思う資格はないし、女神さまだってごめんだろうけど。

 

 でも、やっぱり、教える誰かが必要だ。

 女神さまが求めるものにはなれないが、その程度なら、ぼくにだって担えるはずだから。

 

『いいえ、あなたなの。あなたじゃないといけないの。フィート、ファインドフィート──私の、私、の……私の』

「女神さま」

 

 膝をついて、視線を合わせる。

 鈍い光すら宿せなくなった、過去の残骸に。

 

「あなたの名前は、何ですか?」

『私の、名前?』

「そう、あなたの名前です。今目の前にいる、あなたの名前」

 

 そのひとは一度、息を吸って、戸惑いがちに視線を彷徨わせた。

 それからぽつりと、欠片を落とす。

 

『……私、は、エクリプス。アテナイの、エクリプス』

「そっか、エクリプス。

 ……ねぇ、エクリプス。あなたに、好きなひとはいましたか?」

 

 以前にも投げかけた問い。その焼き増し。

 

「その誰かに、見つけてもらえましたか?」

 

 あの日、エクリプスを激昂させた言葉は、しかし静かに受け止められた。

 カーテン越しの柔らかい光が差し込む中で、金の眼がゆっくり瞬く。逡巡は、一切なかった。

 

『……ええ、ええ、もちろん。だって私、私は──あなたを見つけたの。あなたが、あなたは、私の……──』

「わたしはあなたの、何?」

 

 その無機質な心の隙間を貫くように、重ねた問いを投げつける。

 

 つまり、ぼくとは一体誰なのか。

 エクリプスから見たぼくは、どんなラベルを貼られていたのか。

 かつての名札を剥がしたあとを、一体どんな言葉で塗り潰したのか。

 

 ぼくはまだ、それを知らない。

 『ファインドフィート』というのはぼくが求めた名札であって、ぼくが認識しているだけの、内で閉じた概念だ。

 自己認識、自己証明、それを根拠とした宣言。

 

 だから、逆に。

 他者認識によって成り立つぼく自身も、存在するはずなのだ。

 人間は、自己と多くの他者の認識で世界に根付くもの。

 エクリプスから見たぼくも、きっと存在する。ぼくを見ているのなら、存在しなければならない。

 

「娘ですか?それとも妹、弟?いえ、生贄か、おもちゃでしょうか。……ねぇ、エクリプス。わたしはあなたの何ですか?」

『私、の』

 

 私の。

 私の。私の。

 

 

 私の、何だっけ。

 

 ぽつりと、こぼれる。

 無感動で熱のない、嘆きのなり損ないが。

 

 きっとエクリプスは、それすらも置き去りにしてきたのだろう。

 

 だって、彼女は女神だ。

 それは、死人の成れの果て。ずっと昔に死んだ誰かが、三女神のかけらになった姿。

 であるなら、死人になる前の、生きていた頃もあるはずで。

 ゆえに、大切なものを抱え込んでいたはずで。

 

(だから、たぶん。ぼくは、代用品だった)

 

 このひとが誰かに向けた願いを、代わりに叶えるための。

 ……そんなの、誰も幸せにならないのに。

 

「……エクリプス。もう、終わりにしましょう」

 

 だって、そんな願いを叶えるなんてぼくにはできない。どうあがいたって無理だ。

 ぼくとそのひとは違う。もし似ていたとしても、別人だ。

 魂をいくら削っても、いくら足しても、同じものにはなれない。

 ぼくは結局、どこまでいってもぼくだった。

 

 そして、聖像を抱える。

 両手で、力いっぱいに。

 

「あなたはもう、還るべきだ。何もない荒野へ……わたしではなく、あなたを望む誰かに、会いに行かなければ。

 ……そしてわたしのように、誰かとの別れを惜しんでください。わたしのように、言葉を恐れてください。ぬくもりを、つめたさを、抱きしめてください」

 

 いつか、いつか。

 誰かを惑わすことすら出来ない不自由の果てに、答えを得たなら──その時が、このひとの救いになるのかもしれない。

 

「……でも、感謝はしているんです。わたしは今ここにいるのはあなたのおかげ。奇跡がなければ叶わなかった。苦しむことも、悲しむことも、誰かに寄り添うことも。

 ……それだけは、履き違えちゃいけませんから」

 

 そして、最後に小さく祈る。

 自分のためではなく、姉さんのためでもなく、女神さまのためでもなく。

 終わるはずだった命を繋いでくれた恩人が、静かな湖のほとりへ至れるように。小さく、祈る。

 

『──酷い、酷いわ……。せっかく告白できたのに。星のような、あなたが大好きだったのに』

 

 両手に強く、強く力を込める。像がひび割れた。胴の端から始まり、ゆるやかに広がっていく。

 それはじわじわと蜘蛛の巣のように木を蝕み、やがて溝が深くなる。

 ぴきぴきと、深い亀裂となって。

 

『待ってるわ、私、あなたが来るのを待ってるわ。ねぇ、いつか会いましょう?私の、私の……愛しい、誰か』

 

 愛してる。恋してるの。

 耳にこびりついた音の羅列は、鳥の鳴き声と変わらない。

 

 何が楽しいのか、何が面白いのか、じっとりと浮かぶ笑みは人間らしく、しかしどこか違うもの。

 ぼくはその顔に、返す言葉を持てなかった。

 

「……さようなら、エクリプス」

 

 やがて、ばきりと。

 砕けて、ばらばらの破片になる。木片が飛び散った。

 同時に、目の前の虚像も光の粒になってほどける。

 さらさらと、無風の中でもそよぐように、踊って、溶けた。

 

「いつか、いつか、あなたにも、あなたを愛する誰かが」

 

 

 三年間の清算にしては、きれいであっけない。

 けれど、目尻に熱いものが溜まって、溢れて。

 

 少しだけ、さみしいと思ってしまった。

 

 

 


 

 

 ……。

 

 脱力。脱力、している。

 

 肩の荷が、一気に無くなったような錯覚さえある。

 もちろん、全てを下ろした訳ではないし、そう自分を戒めているつもりではある。この先、一生下ろせないことも、忘れていない。

 でもこの一時だけは、ぼくの中を解放感が満たしていた。

 

 

『……けじめ、終わりでいいでしょ?早く帰ろう。すごく疲れた、ぐっすり寝たい』

「ええ……本当に、ありがとうございました。カフェさんにも、お礼を言わなきゃだ」

『分かってると思うけど、カフェだけじゃなくてみんなにね。タキオンは目覚まし時計を修理してくれたし、ガイコツにも心労かけてるし、テイオーやブルボンは言わずもがな、だよ』

 

 まったく反論の余地がない。その通りである。

 

 言葉もだせず、頷く。

 ぼくは、多くのひとを引っ掻き回した。

 多くのひとの心に、傷をつけてしまった。

 

 ……しばらくは、謝罪行脚になりそうだ。

 ぼくの頭程度で、どの程度償えるのか分からないけれど……。

 

『あ、そういえば海を保護してくれてたのゴルシなんだよね。一般常識を叩き込んだのも、裏で私達を繋いだのもゴルシなんだよ。すごいよね、普段はあんななのに』

「……。わたしはこれから、きちんと返せるんでしょうか」

『さぁ。それはひ孫次第だね』

 

 ほぅ、とため息をひとつ。

 微かな熱を置き去りにして、勢いよく立ち上がる。

 

 だって、そうだ。

 あれこれ考えるのは何も今日じゃなくてもいい。

 だから、明日考えよう。明日になって、服を着替えて、眠気覚ましのコーヒーを飲んで──それから、ゆっくり考えよう。

 なんたって、明日がある。

 明日の次には明後日があって、明後日の次に明々後日と、延々と続いていく。

 

 

 ……。

 

「……そういえば」

 

 明日の明日を続けた先の、1ヶ月後。

 おそらくブルボン先輩が経験したのであろう、有マ記念。ぼくの成れの果てが至る祭典。

 忘れていた訳ではない。決して、忘れていた訳ではないが──さて、どうしようか。

 

 この流れなら、おそらく棄権するのが自然なのだろう。

 

 だが、それでは不誠実ではないかと、なんとなく思ってしまう。

 ぼくの道に、ではない。

 ぼくの道に夢を重ねた人達に、である。

 はっきり言って、ぼくは無愛想で可愛げのない──少し悪い言い方だが、しょうもないガキだと思う。

 そんなのを応援するために遠路はるばるやってきて、ぼくの背に声援を投げかけてくれる人が、たくさんいた。

 

 ぼくは覚えている。

 芝のふちから精一杯声を上げていた女の子を。手を振ってくれた男の子を。大口開けたおじさんや、必死につま先で背伸びするおばさんも。色々なひとが、ぼくを支えてくれていた。

 そんな彼ら彼女らに報いたいと願うのは、そうおかしいことでは無いはずだ。

 ……少なくとも、ぼくの事情だけで"はいさようなら"というのは、ひどいと思う

 

「この流れで言うと、怒られちゃうかもしれませんが……」

 

 だからか。口は、意外と軽かった。

 

「引退試合、やりたいんですよね」

『……ふーん?』

「あ、もちろん前とは違う理由ですよ。ただ、その……わたしが示せる礼儀というか、義理というか……」

 

 自分で言って、軽く笑う。

 呆れを含む声だった。

 

 だって深堀りすると、本当にしょうもなくて、本当に当たり前のことだった。

 終点なのにようやく始点に至ったかのような、簡単なことに気づいて。ぼくはまた、掠れ声で喉を揺らした。

 

「最後くらいは、わたしだけの力で。わたしの意思で、走りたいんです」

 

 それが、レースというものだから。

 

 

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