【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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『ファインドフィート』:エピローグ

 

 

 緊張。

 緊張が、ぼくの心を支配していた。それはあっという間に全身に広がって、鈍い痺れをはしらせる。

 服に乱れはないだろうか。血色は大丈夫だろうか。髪型は崩れていないだろうか。

 ……なんて、まるでメイクデビューを前にした新人みたいだ。

 

 けれど当然、ぼくの前にあるのはメイクデビューではない。

 むしろ真逆も真逆だ。

 引退するのだ、今日で。

 

(これで全部終わり──とは、言えないけど)

 

 そわそわと手指をくみかわして、肩をゆする。

 胸の内にあるのは予感ではなく、確信だった。

 

 ぼくはこれで、区切りをつけることになる。が、やはり、過去全てを振り払うなんて出来ない。

 ぼくはこれから先も、ずっとこの想いを抱え続けていく。

 抱えて、ぼくを嫌いながら、それでも脇道にそれていかなければならない。

 果ての見えない、苦行の道に。

 

(いつかは、ぼくも生きたいと思うようになるのかな)

 

 ならないだろう。……ならない、はずだ。

 無邪気に生を求めるには、多くのものを取りこぼしすぎた。

 お父さんやお母さんとの記憶、姉さんの命、ぼくの過去。

 それら全ての重みとつりあうほどの執着を取り戻せるとは、とてもじゃないが思えない。

 

 ……けれど、それでも。

 あの苦しみを他人に押し付けるぐらいなら──そう考えているのも、事実だ。

 そのうえ、生きろと願われてしまった。生きて、一緒にいようと、望まれてしまった。

 

「……あんなことを言われたら、迷っちゃうじゃないですか」

 

 道に。夢の先の、死という永遠も霞む光を見て。

 踏み出そうとした足が、地面から離れなくなった。繋がれた手に、安らぎを感じた。

 離れたくないと、願った。

 

 だからきっと、ぼくの芯は──確かに揺らいでいるのだろう。

 

「ほんとうに、ひどいひと……」

 

 エクリプスも、ブルボン先輩もそうだ。

 二人の手でぐちゃぐちゃにかき乱された価値観は、今も歪んだまま。元の形には中々戻ってくれない。

 目をそらし続けてきた、報いだ。

 

 

 準備を終えて、椅子に座り込む。深く、息を吐いた。

 現在時刻は14時、出走まではまだ大分時間がある。

 

 ……それまで、どうしていよう。

 時間を潰そうにもいったい何をしたものか。

 本は、あいにく持っていない。ウマッターで時間を潰すのもいいが、あんまり気乗りしない。

 一応アカウントは所有しているし、タイムラインはかなり賑やかでもある。

 だが──先月出した引退告知の影響もあって、色々な書き込みが目に入ってしまうのだ。

 純粋に応援してくれるひとたちは、良い。こちらとしてもありがたい気持ちになる。

 だが、根も葉もない憶測が飛び交っているのは、良い気分ではない。

 もちろん前者が圧倒的に多い。

 多いが、だからといって少数派の憶測が消えてくれるわけでない。

 

 ぼく個人に対するものであれば、まだマシだった。

 しかしトレーナーに対する批判がそれなりの割合を占めていて……正直、不愉快だ。

 やれ無茶なトレーニングのせいだとか、選手生命を無視した指導のせいだとか。

 何も知らないくせに、勝手なことばかり。この不愉快さに温度を与えることができたなら、きっと周囲の新聞や雑誌を残らず燃やし尽くしていたことだろう。

 

 ……元の原因を辿ればぼくのせいなのだから、憤る資格なんて無いのだが。

 

 

 ため息が出る。もともとため息をついてばかりの毎日だったが、今日も変わらず絶好調だ。いや、絶不調のほうが正しいか。

 

 だというのに、そんなぼくの様子なんて知らない様子で、ドアの向こうから足音が鳴る。

 そして一拍、間をおいて。

 こんこんと、軽いノック音が響いた。

 

「入るぞ」

「まだ返事してないんですが」

「……すまん」

「冗談ですよ……なんでこの世の終わりみたいな顔するんですか、やめてくださいよ」

 

 もう一度、すまんと言って、トレーナーがのろのろと部屋に入ってきた。

 ただ、動きが本当に鈍い。亀みたいだ。ぼくの十分の一ぐらいではなかろうか。ともかく、その不調を察するには十分だった。

 

 ……この一ヶ月。ぼくは、ぼくなりに誠意を尽くしたつもりでは、ある。

 なぜ、ぼくが走るのか、とか。

 なぜ、トレーナーがああなったのか、とか。

 ……なぜ、あの日トレーナーに掴みかかったのか、とか。

 全部言葉にした。したけれど、それを受け止めてもらえたのかは……未だに分からない。

 

 ただ"そうだったのか"と頷いてみせただけの彼。

 胸の内では一体何を思っているのか、ぼくは今日も掴み損ねた。

 

「……いや、これは気にするな。もともと病弱なんだよ、俺は」

「気にするな、といわれても……」

 

 顔を見る。痩せこけた頬、染み付いた隈、真っ黒な目。

 三年前と比較して、さらに濃くなった暗い気配。

 それを見て、気にするな、なんて。

 

「でも、わたしのせいじゃないですか」

 

 しかも、ぼくは。

 このひとのことを、お父さんと呼んでしまった。そんなの、このひとの重荷にしかならないのに。重荷になると知りながら、お父さんに縋ってしまった。

 ひどい侮辱だ。双方に対する、ひどい侮辱だ。

 

「……トレーナー。ごめんなさい」

 

 今更だ、こんなの。

 謝罪を述べて何になるのかすら、分からない。

 でも、思わずにはいられない。

 

 愚かしくも頭を垂れることすら、烏滸がましいというのに。

 

「なぁ、ファインドフィート」

 

 肩が跳ねた。

 鈍く、硬い声が頭上に降って、ぼくの身体を縫い留める。

 

 その気配は、まるで氷のように冷たくて、鋭くて。

 叱られてしまうのではないかと──。

 

「なんでおまえはそう自罰的なんだ」

「いたっ……」

 

 ──額を弾かれた。

 

「わ、わたしはこれでも真面目に……っ」

「それをやめろと言ってるんだ。自己を省みるのは大事だが、おまえのそれは行きすぎだ。……俺にあんなことを言う割に、な」

「う」

 

 そして、ため息がひとつ。

 恐る恐る見上げてみれば、冷たくて、鋭く。しかしどこか緩んだ雰囲気の、トレーナーの顔があった。

 重ねてはならないのに、お父さんと呼びたくなってしまうような。

 

「おまえ、今は楽しいか」

 

 一瞬、否定しようとした。

 けれど、開きかけた口が止まる。

 

 否定するのは楽、だけれど。

 でも、朝を迎えるたびにおはようと言える今は。

 ……決して、悪いものじゃない。悪いものと思いたくないから、なんて義務感を理由にしたものではなく、正真正銘。

 

「……。……最近は……少しだけ」

「なら良いじゃないか。少しずつでもこれから良くなる一方だっていうんなら、余計にあれこれ考えなくて良い」

 

 トレーナーはそう言って、薄く、口の端をつり上げた。

 

「ここ最近のおまえは謝ってばかりだな。ほら、もっと昔みたいにふてぶてしく振る舞ってくれたほうが俺は楽なんだが?」

「……わたし、そんなふうでしたっけ。あと謝ってばかりなのはトレーナーもです」

「ああ、無邪気なガキだった。今が悪いと言うつもりはないが」

「ガキ……。……今と昔、トレーナーはどっちがいいですか?」

「さあな。だが謝ってばかりよりは、昔のほうがおまえに向いてるだろうさ」

 

 ……あぁ、ずるいなぁ。

 そんなことを言われたら、ぼくの気持ちはどこにいけるのか。

 

(……いや、ずるいのはぼくか)

 

 でも、そう。

 そもそも謝ることを求められていないのに、それでも続けてしまったら、単なる押しつけになってしまう。

 ぼくが楽になるための物に成り下がってしまうし、それは、あまりにも誠実じゃない。

 

 ……じゃあ、ぼくは。

 この気持ちを抱えながら、このひとに向き合うしかないのか。

 自分に問えば、当然、肯定が返ってくる。

 

「少なくとも、おまえはちょっとふてぶてしいぐらいが丁度いい」

「ん……トレーナーも、ですよ」

「そうか、じゃあお相子だな」

「ふふ……ええ、お相子ですね」

 

 ならば今は、ただ走らなければ。

 走って、走って、トレーナーとぼくの成果を形にして──そうしたら、少しはこの苦味も、薄らいでくれるのかもしれない。

 

「……トレーナー、見ててくださいね。わたしが、一番速いことを証明してみせますから」

 

 そして、その時には。

 

 もっと素直に、甘えてもいいだろうか。

 父と重ねて、ではなく。ただの、ひとりの大人に。

 

 

 △

 

 

 トレーナーに激励を貰って、出ていった先の地下道。

 日のない暗がりの中をこつこつと歩く。

 等間隔に光る照明は些か頼りないが、その下を歩く人々の足取りに淀みはない。

 URAの職員や、出走者、そのトレーナーといった関係者達。

 駆け足だったり勇み足だったり、ひとによって色は違う。それらに共通しているのは、ゆったりと歩く者はほぼ居ないことぐらいだ。

 

 パドックでの準備運動を終えて、ターフへ向かう道中は、その人々のおかげで静寂とは無縁だった。

 ……なんとなしに歩みを止めて、壁に背を預ける。それから肩の力を抜くために、深く息を吐いた。が、変わらない、身体は今も強張ったまま、十と数分後の未来を恐れていた。

 

 それでも必死に抗うように、また、淡々と前を見る。息を吐く。埃が、蛍光灯の真下で揺らめいていた。

 

 そうして黙りこくったぼくを見兼ねたかのようなタイミングで、真横から見知った顔が飛び出してきた。

 そういう雰囲気は微塵も感じさせない表情で、いつも通りの軽い調子で。

 

「やっほー」

「……テイオーさん」

「どうしたのさフィート、顔に豆鉄砲くらったみたいな顔じゃん」

 

 テイオーさんがくすくす笑う。いつもの学生服の裾が、あわせてゆらゆらと揺れた。

 

「隣、いい?」

 

 それから返事を返す間もなく、流れるように隣に陣取る。

 ぼくと同じ姿勢で、同じ壁に背を預けて、同じ道を見る。

 行き交う人々を眺めてばかりの立ち位置は、まるで流れに取り残された部外者のそれ。

 

 とはいえ実際は、ぼくは主役のひとりだし、テイオーさんだって無関係ではない。

 テイオーさん、トウカイテイオーさん。かつての二冠であり、URAともパイプを持つ旧家の令嬢。

 ゆえにこの場にいるのは──まぁ、不自然ではない。

 

 そんな彼女の真隣で、ぼくはわざとらしく居住まいを直した。気まずかったのだ。

 

「今日の意気込みはどう?ちゃーんと全力出せそう?」

「……ええ、はい。今日はよく眠れましたし、ごはんもしっかり食べました。昨日までの疲れも、全部とれてます」

 

 一ヶ月前までとは違って。

 言葉にせず、言外に滲ませて、一度深く息を吸った。喉に絡みつく空気は少し埃っぽい。軽く、咳をした。

 

「……ホントの事を言うと、さ。ちょっと不安だったんだよね。また自暴自棄になってるんじゃないかって」

「一ヶ月前みたいに?」

「そう、一ヶ月前みたいに。自覚してたんだ」

「していた、というよりも、させられた、ですね。……わたしのこれを、自覚といっていいのかは微妙ですが」

 

 白状すると、自分ではそうと思っていない。

 ぼくはあれでも、エクリプスのことを信じていたし、間違っていたとは思っていない。いまでも、そうだ。

 

 でも、ブルボン先輩や、『ひいお婆ちゃん』まで、ぼくを叱咤するのだ。

 やめろと、エクリプスが指し示した道を否定して、脇にそれようと手を掴む。

 

 ぼくはそれを、振り払えなかった。

 結局のところ、この一ヶ月はその一文で説明できてしまう。

 

「でも、安心した」

 

 半トーン上がった声が耳をつつく。

 そして、穏やかな顔でぼくを見た。

 テレビ越しの彼女よりもいくらか成熟した雰囲気は、ぼくの内へ染みるほどに澄んでいた。

 

「いい顔になったね、フィート」

 

 そう言って、笑う。

 けれどぼくは、それを真正面から受け止めるのは恥ずかしくて、うつむいて誤魔化してしまった。

 だって、そうだろう。

 いい顔になったなんて言われても、自分では納得できないに決まってる。

 変わった、ことは分かる。そうでなければ、今頃ぼくはここに居ない。

 でも、その"変わった"を良いものとして捉えられるのは──少し、複雑だった。

 

 うつむいたまま、ちらりと横に視線を向けた。胸から下しか見えなかった。

 テイオーさんは壁に背を預けたままで、身体が向くのは真正面。

 でも、首から上はどこを向いているのか分からない。

 身体と同じで前を見ているのか、はたまたさっきのように、ぼくのほうを見ているのか。

 もし、ぼくを見ていたら。そう思うと、なぜだか顔を上げるのが妙に恥ずかしくなって、微かに悔しくなって、ついぞ下を見るばかりだった。

 

「……わたしには、分かりません」

「ふふん、年上の言う事は素直に信じなよ」

 

 信じたい、けれど、信じられない。

 くだらない意地だ。そんなことは、ぼくだって分かっている。

 そのくせ、それすらも面に出せず、結局悶々とした気持ちを抱えたままで。

 

 時間になったことをこれ幸いと、テイオーさんに背を向けた。

 

「……本当に、本当にいい顔になった」

 

 その背を、優しい声が撫でた。尻尾が、微かに揺れてしまった。

 

 

 ≠

 

 

 芝の上に、足をつける。

 

 ここは中山レース場、いまは第11レース。

 空は晴れ、湿気はそこそこ、気温は例年よりも少し高め。

 芝の調子は非常によく、手掛けた職員の丁寧さが伝わってくる。

 

 蹄鉄の先端で軽く芝を撫でてみれば、ぴょこんと健気に反発してくれた。

 一度、二度と繰り返して、今度は周囲を見渡す。

 他15名の選手と、誘導ウマ娘達と、観客席の人海と、そして隅にはトレーナー。

 そのうち、観客席の子供が手を振ってくれるのに応えながら、じっと奥歯をかみしめた。

 

(作戦は、頭に入れたけど)

 

 もう一度、周囲を見る。

 誰も彼も屑星ではない一等星、ぼくよりも才に溢れて、研鑽を積み重ねた敵達。

 その誰もが違う表情をしていたが、誰もが等しく闘志を秘めている。熱気が、ほのかにうねり始めていた。

 

(あまり、役に立ちそうにないかも)

 

 ぴりりとひりつく空気の中で弾む鼓動と、痺れる頭、高揚する心。

 走っている最中でもその作戦をうまく意識できるのか、あんまり自信がなかった。

 

「やっ、いいレースにしようね!」

 

 そしてゲートに入る前。

 前振りもなく声をかけてきたのは──おそらく初対面の少女だった。

 金糸雀の囀りのように澄んだ宣戦布告は、驚くほどに隔意を感じさせない。透明な闘志、とでもいうべきか。

 背筋がピンとのびるような、あまりに真っ直ぐな声。

 

「ええ……互いに全力を尽くしましょう」

 

 それに、等価の布告を返す。目を逸らさず、少女の顔を見て。

 

 上と下が曖昧なままなんてありえない……とは言えないが、少なくとも、その日のうちの上下は簡単につく。

 勝つか、負けるか、それだけの単純な概念が、単純ゆえにはっきり境目を与える。

 それがレースというものだ。

 それが、今日のぼくらの役割だ。

 

「……へへっ」

 

 少女は、ただ笑っていた。心の底から楽しそうに。

 

 

 軽く手を振って別れた頃には、レース開始の二分前。

 アナウンスの軌跡を追いかけて、ふらりとゲートに入り込む。

 ぼくに割り当てられたのは2枠の4番、内枠だ。

 全員が収まるのを待つ間は、ただ、空を見ていた。

 骨組みの屋根の隙間から見える空は狭くて、ちょっと窮屈だった。

 

「いい天気ですね。ステータス、『高揚』を獲得しました」

「……ええ、本当にいい天気です。引退試合にはお誂え向きじゃないですか?」

 

 そして隣には、姉さんの次ぐらいには馴染んだ気配。

 ブルボン先輩、ぼくを脇道に誘う、鋼鉄のひと。

 目を向けなくても分かる。ブルボン先輩もまた、同じように空を見上げて、そしてまた、いつものように前を見るのだろう。

 そよ風の隙間から聞こえる音は、まさにそういう音だ。

 芝を蹴り、最後の最後まで身体の調整を欠かさない。ぼくが知る彼女はそういうひとで、実際その理解はさほど外れていなかった。ぼくに声をかけなければ、その予想は満点だった。

 

 その落胆ともいえぬ落胆を、ほんのりと舌に乗せる。

 すっと息を吸って、勢い任せに。

 

「……さ、ブルボン先輩。いい加減に白黒はっきりつけましょうか。わたしと、あなたと、ここにいる全員……誰が一番速いのか」

「望む所です。つまり……私が勝ちます」

 

 そして反対の隣からは"調子に乗るな"と反論が聞こえる。隣の隣からも"私のほうが速い"と笑い声が届く。

 

 それに対してぼくは、何も言わなかった。

 必要なのは言葉ではなく、結果。結果に至る過程。

 ぼくらの誰かに正当性を与えるのは、つまりそれだけなのだ。

 

 

『年末の中山、私達の夢の結実、有マ記念!アクシデントは何もなく、空は快晴、絶好のレース日和と言えましょう』

 

 ……走るための足は、このためにある。

 走れるから、競える。

 そして勝てる。

 

 ぼくは、ファインドフィートなのだから。

 だからもう、祈らない。

 

『さぁ、ゲートが開きました!』

 

 鉄が弾ける。

 視界がひらける。

 光がさした。

 そして一瞬のちのぼくの前には、緑の道がのびていた。

 どこまでも広がる、青い、青い空の下に。

 

 そこにあるのが、自由だった。

 

 

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