【本編完結】心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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ファインドフィート:プロローグ

 

 

 ────。

 ──。

 

 ちゅんちゅん。鳥の囀りが聞こえる。

 寝ぼけ眼のぼくを咎めるように、何度も何度も繰り返し。

 高く澄んだ、メジロの鳴き声だった。

 

(……ああ、今日はいい天気だ)

 

 カーテンが風で揺れていた。

 その無軌道の揺らめきを視線で追いかけて、ぼんやり考える。

 まるでぬるま湯のような──いや、ぬるま湯そのものの停滞した時間が、ひどく心地よかった。

 

 

 ……今日は、何をしようか。

 顔を洗って、適当に化粧水だけあてて、またぼんやり考える。

 窓の外はからりと乾いていて、見ているだけでもなんとなく気分が上向く。

 その上向いた気分のまま、服を着替えた。

 身に纏うのはいつもの制服ではなく、薄手の白シャツに青いズボン。私服だ。

 

 今日は土曜日で、特に予定があるわけでもなかった。

 引退前なら色々と……主にトレーニングの予定を詰め込んでいたが、もう四ヶ月も前に解放されてしまった。

 携帯の液晶をなんとなしに眺めれど、スケジュールアプリの密度は驚くほど薄い。トレーニングは最低限で、あくまで身体を劣化させないためのもの。それを見るたびに、己が引退したことを実感する。

 ほかにあるのはちょっとした仕事の予定だったり、あとは極めて個人的な予定が挟まる程度。

 そして今日の予定は、何もなかった。

 

「……どうしようかな。トレーナーのところに顔を出すか、テイオーさんに遊んでもらうか、『ひいお婆ちゃん』とカフェさんに絡みに行くか……ああ、蹄鉄のメンテナンスもしておかないと……」

 

 つらつらと考えながらも、手癖でニュースアプリを開く。月額1400円の、少しリッチなアプリだ。

 『有マ記念特集!密着取材で見えた、二人の引退の真実とは──』

 『無敗8冠vs栗毛のサイボーグ、勝者は果たして』

 『サトノグループのレーシングサポートAIシステム、今後の展望は』

 『鉄血指導者、葛城トレーナーの本性を暴く』──。

 

「……やっぱりこれはいいや」

 

 記事タイトルだけ見て、アプリを閉じた。

 興味を惹かれる惹かれない以前に、最初に目に入ってきた文字列だけでなんとなく気が変わった。

 レーシングサポートAIシステムとやらは少し気になりはするが……まぁ、読むのは後で良いだろう。

 ディスプレイの電源を切って、机の上に放り投げる。カバンの上に、ぽすんと軽い音をたてて着地した。

 

「まぁ、とはいっても他にやることはないんだけど」

 

 でも、そう。結局変わりはないのだ。予定がないのはそのままで、なんだか少し落ち着かない。

 いつもいつもあれをしようこれをしようと詰め込んでばかりいたから、その反動もあるのかもしれない。

 

 カップに眠気覚ましのコーヒーを淹れながら、うっすら香る匂いを取り込む。

 安物のコーヒーだったが、味覚や嗅覚が鈍い──皆無ではなくなった──今のぼくには関係ない。高かろうと安かろうと、分からなければどうでも良いものである。

 カップを両手で抱えたまま、ぐでりと椅子にもたれて、立ち昇る湯気で唇を湿らせる。

 

「……あ、日記出しっぱなしだ。昨日読み返したままにしてたんだっけ……」

 

 机の上の、筆記用具の隣。

 握った取っ手から熱の移った指先で、その青い日記帳を開いてみた。

 表紙はかなり擦り切れていて、紙も若干黄ばんでいる。

 指を滑らせばほろほろ溶けてしまいそうだったから、ページを捲る手は気持ち優しめに。

 捲って、捲って、褪せたインクの黒を追いかける。

 苦しいことがあった。悲しいことがあった。寂しくなることもあった。楽しいことも、たくさんあった。

 そんな過去の軌跡に、思いを馳せる。

 

 でも、その軌跡を前にして同時に思う。

 ずいぶん多くを忘れてしまったな、という実感を。失われたものを見つけるたびに湧き出る、寂寥感も。

 

「こんなことも、あったんだっけ……」

 

 一年目を抜けて、二年目を飛ばして、三年目を終えたいま。

 多くを忘れて、多くを得た、いま。

 

 ぼくは、おおきくなれたのだろうか。

 

 コーヒーカップの水面を鏡に見立てて、覗き込む。

 けれど、その鏡は見せてくれない。顔も答えも、何も。

 八つ当たりのように、カップの縁を弾いた。ちん、と高い音が鳴る。それだけだ。

 コーヒーひとつで自分の姿を知ろうなんて、当然ながら無理だった。

 

 そうして毒にも薬にもならない一人遊びを終えて、またページを捲る。

 捲って、ふいに手が止まった。

 

「……ん、微妙にページが余ってる」

 

 残りの厚みは2ページ分程度。本当に微妙な量だ。

 最後にペン先を押し付けたのはかなり前だから、細かなことは覚えていないが……たしかに、きりが悪いと少しがっかりした記憶はある。

 去年の、遺書を書ききった頃だったか。

 

 どうせならこのまま埋めてしまおうか。

 内容自体はわりと何でも良い。何かの文章でしっかり埋めれたら、なんとなくきりが良くなる気がする。

 それに、いまなら三年目の終わりと日記帳の終わりを同時にできるのだ。やはり、とてもきりが良い。

 

 だから、と。

 とりあえず、ペンを握る。近くの商店街で買った三百円の赤いボディの、かすれはじめたペン先に軽く息を吹きかけて、紙の上に少し強めに押し付ける。

 横にずらせばきちんと黒い線が引かれた。まだ、買い替える必要はなさそうだ。

 

 

 ……けれど、さて。

 きりを良くするにも、そもそも何を日記に記すべきか。何でもいいとは言ったが、本当に"何でも"はちょっとイヤだ。

 じゃあ書くとしたら……今の心境だろうか?昨日あったこと?これからすることとか?幾らか案を考えてみる。

 が、どうにもしっくりこなかった。

 尻尾に安物の香油をつけた時のような、微妙な据わりの悪さを感じてしまう。

 

 背もたれに体重をかけて、天井を見る。

 しみのない天井は面白みもなく、今のページと同じ有り様だった。

 

(面白さ、を求めるものじゃない気もするけど)

 

 しかし、だとするなら、何を求めるべきなのか。

 

(……三年間の締めくくりとしたら、三年間の集大成を書くのもいいかも)

 

 その三年間の集大成がなにかといえば、やはり今まで積み上げた実績だろう。

 G1タイトル多数、タイムレコード更新、最近はたまにテレビに出ることもある。富と名誉を手にしたと、そういっても過言ではない。

 

 けれどこれは、青い日記帳なのだ。

 姉さんをなぞった果てのものではなく、他の誰でもないぼく自身を記録するもの。

 ゆえに『ファインドフィート』としての記録は他に記すべきだろう。

 だから、書くべきは──。

 

「……終わりの続き、かな」

 

 一度、ペンを握り直した。

 

 ぼくの集大成とは、日常にあるものだ。

 あの人たちと関わったのは姉さんなのか?違う、ぼくだ。

 あの人たちを愛しいと思ったのも、姉さんではない。ぼくだった。

 つまり書くべきは、ぼくと、あの人たちの軌跡に他ならない。

 

 たとえば、テイオーさんのこと。

 テイオーさんは卒業するルドルフ会長のあとを継いで、新しい生徒会長になった。

 予想外、というほどではないが、その知らせを聞いて驚いたのは記憶に新しい。だって、ぼくが知るテイオーさんは天真爛漫で、そういう立場に縛られない、あるいは縛られたがらない性質のひとだった。

 しかしあのひとは、昔からルドルフ会長……ルドルフさんに憧れていた。だからその席には、ぼくが知る以上の価値があるのだろう。

 事実、新しくその肩書を名乗るテイオーさんの顔はきらきらと輝いていた。きっと、いいことだ。

 今度顔を合わせる時にはテイオー会長と呼んでみるつもりだ。

 その時テイオーさんは威張るのか、恥ずかしがるのか、はたまた何も変わらないのか。今から反応が楽しみだ。

 

 それと、トレーナー。

 トレーナーは、相変わらずトレーナーのままだ。

 一時期は本当に、本当にひどい有り様で、今にも死にそうなほど沈んでいたが何とか生きている。……ぼくが言えたことではないが。

 けれどトレーナーの道を変えるのは本意ではなかったし、トレーナーの夢を歪めるつもりもなかった。だから……その、ぼくだって責任を感じている。

 当人が考え抜いたうえでの結論ならともかく、ぼくの巻き込み事故で人生を変えるなんて、静観できないに決まってる。……本当に、ぼくが言っていいことではないのだけれど。

 だからありとあらゆる手を使って懐柔して──懐柔といえるほど大したことはできないが──どうにか、トレーナーバッジをその胸に着けてもらっている。

 ……ぼくは、償い切れるのかな。

 

 ……。

 

 …………。

 

 ……そういえば、カフェさんとは今でも親交が続いている。

 より正確に言えば、世話を焼かれているというべきか。

 味覚がすっかり役立たずになったぼくでも楽しめるようなコーヒーをブレンドしてくれたり、時々一緒に登山にいったり。

 山の上から見る空はとても澄んでいて、なんでか、妙に泣きたくなる。

 

 『ひいお婆ちゃん』ともやっぱり時々顔を合わせる。

 正直、いまでもよくわからないひとだ。とにかく、謎が多い。

 聞いてみてもはぐらかされてばかりだから、結局いつも答えが見つからない。

 『ひいお婆ちゃん』はいったい誰なんだろう。

 いつかは、分かる日が来るのだろうか。

 

 最近、タキオンさんとも話すようになった。

 彼女は薬学に明るいらしく、ぼくの味覚を正常に戻すための薬を作ろうとしてくれている、らしい。カフェさんからの又聞きだけど。

 ただ、確かに会うたびに色々聞かれるし、時には液体が入った試験管を渡される。

 あれはきっと、そういうものなのだろう。だからたぶん、優しいひとだ。

 それに彼女の研究室に遊びに行けば、そのたびにいろんなお菓子を分けてくれる。やっぱり、優しいひとに違いない。

 

 先生とは、前よりも積極的に関わるようになった。

 ぼくの後見人という立場なのに、実は入学以降はあんまり顔をあわせていない。

 ……それはあんまりにも不義理じゃないかと、ふと思い至ったのだ。

 だから時折時間を見つけては、あの病院の裏に建つ一軒家に遊びに行っている。

 

 たぶん、前までのぼくなら気付きもしなかっただろう。

 先生は実はゲームが好きだった、とか。ロボットアニメのファンだった、とか。……もしかすると、ブルボン先輩とも相性がいいのかもしれない。

 最近は先生おすすめのアニメを並んで見ているのを、院長先生が苦笑交じりに見守ってくれている。新しい日常のひとつだ。

 あと、院長先生は高いお菓子をたくさん食べさせてくれるからいい人だ。ブルボン先輩とも仲良くなれるに違いない。

 

 それと、ゴールドシップさん。ゴールドシップさんは……ゴールドシップさんも、正直よく分からないひとだ。

 だけど時々、ぼくを拐っては色んなところを連れ回してくれる。

 今まで知らなかった所、知ろうとも思わなかった所、色々だ。

 海沿いの牡蠣小屋とか、山中の道の駅とか、いちご狩りとか。

 とにかく色んなところを回ったおかげで、ぼくの世界は急速に広がっていっている。

 

「……こうしてみるとよく分からないひと多いな」

 

 だって、そうだろう。『ひいお婆ちゃん』はある意味曾祖母を自称する不審者だし、タキオンさんの言う数式は欠片も理解できないし、ゴールドシップさんは違う常識の中を生きている。

 テイオーさんの会長愛も少し謎だし、カフェさんのコーヒー愛はちょっと強火すぎる。

 

 でも、きっと、彼女たちはそれで良いのだろう。

 きらきら輝いてるから、それぞれの正しさの中を走っているに違いない。

 ならばそれは、心の底から祝福するべきことだと思うのだ。

 

 ……あぁ、トレーナーには特に言うことはない。先生も、院長先生もだ。ご飯をきちんと食べてくれてたら、それでいい。

 

 

「あとは……ブルボン先輩か」

 

 そう、ブルボン先輩。

 ぼくの先輩。ぼくの導。

 とぼけているようで、けれど確固たる己を有する鋼鉄のひと。

 この三年間ずっと共にいたのが誰かと言えば、それはブルボン先輩だ。

 

 大きな背を思い浮かべて、ペンを握り直す。

 丁度その時だった。ぶー、ぶーと音が鳴る。

 

「……ん?」

 

 発生源は、机の隅に置かれた携帯。

 手にペンを握ったまま、反対の手で手繰り寄せる。

 

「あ、ブルボン先輩……」

 

 アイコンの顔は……初詣の時に撮ったものだったか。自然に、薄く微笑んでいる。

 手の中でぶるぶる震える液晶に触れて、応答をタップした。

 それからスピーカーモードに切り替えて、日記帳の横へ。

 

「もしもし?珍しいですね、ブルボン先輩が自力で電話かけてくるなんて」

『……瞳。私達はまた喧嘩をする必要があるようですね』

「ふふ、冗談ですよ」

 

 柔らかい、声だった。鼓膜を撫でる優しい感触に小さく笑いをこぼして、一度軽く伸びをする。

 そして、ペンを持った手を膝の上にのせた。

 

「それで、荷解きは終わったんですか?」

『はい、滞りなく。つまり、タスク『お引っ越し作戦』は無事完了です』

「家電も無事に?」

『……はい、業者の方に運んでいただきましたから』

 

 つまり、そう。

 ブルボン先輩は寮を出て、引っ越したのだ。

 

 そうですか、そうですよね。笑いを多分に含ませて、けれどそれを悟られまいと抑えめにして返す。

 が、ブルボン先輩には伝わってしまったようだ。

 いくらか硬くなった声音で、ぼくの名前を呼んでくる。

 瞳。……瞳、と。

 

「……あー、そういえば周囲の散策はまだですよね?せっかくですし、わたしもそちらに行ってもいいですか?」

『む……良いでしょう。続きはそれからでも遅くありません』

「そんなに引っ張らないでくださいよ」

 

 遠慮なんてない正直な物言いだ。

 それがなんだか嬉しくて、でも悟られるのは恥ずかしくて──。

 

「……大学は、その……どうでしたか?」

 

 適当な問いかけで、適当に誤魔化した。

 けれどブルボン先輩には伝わっていたのだろう。くぐもった笑い声が電話越しに聞こえてきた。……なんとも言い難い敗北感がある。

 

『まだ、評価は不可能です。入学式まであと一週間もありますから』

「あぁ……それはまぁ、そうですね」

『ですが……少なくとも、設備のレベルは非常に良いと推測できます。自動販売機でお茶を買えましたので』

「それは……すごい、ですね?」

『はい。間違いなく東京圏内トップクラスの自動販売機かと』

 

 そう、あと一週間。

 あと一週間でブルボン先輩は大学生になる。

 

 ブルボン先輩は……トレーナーに、なりたいらしい。

 彼女自身がそうであったように、寒門の出の少女達を導きたいのだと言っていた。

 トレセン学園──とりわけ中央は、比較的財力に恵まれた出自の子が多い。もちろん全員が全員そうではない。

 だがやはり、中にはいるのだ。生まれ持った資質を頼りに中央に入ってきたは良いものの、環境面には恵まれず、ノウハウもコネも手に入れられなかった子が。

 

 ……それ自体は、悪いことではない。学園からのサポートだってあるし、目に見える扱いの差もない。

 しかしスタートダッシュの差は、どうしたって存在する。

 そしてトレーナーを見つけられずに、スタート地点にすら辿り着けない子も──残念ながら。

 ブルボン先輩はそういう子達の助けになりたいのだと言っていた。夢を見る資格は誰にでも与えられるべきで、夢に挑む前に手折られるのはあってはならない事なのだと。

 

 

 ブルボン先輩は、そうして前に進んでいる。前に、前に、新しい朝に。

 少しずつ変わっていって、昨日の姿から、ちょっとずつずれていく。

 ブルボン先輩だけではない。テイオーさんもトレーナーも、みんなそうだ。

 

 ……だとしたら、ぼくも。

 ぼくも、そうなのだろうか。

 ぼくも、明日の朝には、変わったと思われるのだろうか。

 

『……瞳?』

「ああ、いえ……何でもありません」

 

 でも、急にガラリと変わるわけではない。少しずつ、なのだ。

 新しい朝を何度も迎えて、何度も新しい夜を越えて、その繰り返しだ。

 その繰り返しの先に、ぼくはおおきくなる。

 一日飛ばしではいけない。一日ずつを、積み重ねた先で、ようやくおおきくなって。

 

 ……ぼくはその時、何を思うのだろう。

 憎いと憤るのか。切なさに溺れるのか。そこに生の喜びを見出すのか。

 

 あるいはその果てに、後悔を抱きしめられるように、なるのかもしれない。

 過去を過去として認めて、古傷を己の愛の証明として誇るような、そんな未来が訪れる可能性はゼロではない。

 そうであればいいと、漠然と願った。

 

「じゃあ今からそっちに行きますね」

『今からですか?……私は構いませんが──その、今日は』

「……知ってたんですか。でも、いいんですよ、べつに。ただ、前住んでいただけの家がなくなるだけで、今のわたしの家がなくなるわけじゃないんですから。元々いく予定はありませんでした」

 

 抜け殻とはいえ過去の象徴だ。さみしくないと言えば、嘘になる。

 でも、あれを残したままでは……ブルボン先輩との約束を守れなくなってしまう気がするのだ。

 あの日々に戻りたくなって、そうして約束を破るのだろうと。

 バカバカしい、現実味を帯びた予感が、脳裏にへばりついて離れなかった。

 

「それに、墓だってあるんです。それで十分ですよ」

 

 だから、いい。ぼくの道は──まだ、変わらない。

 死ぬまでの間に少し脇道にそれて、納得できたらまた戻る。

 それでいいのだ。

 

 一度息を吸って、鼻からはいて。

 だからいいんですと、押しつぶすように囁く。

 声は、少し震えていたかもしれない。

 

 

 そこからさらに一言二言やり取りして、またあとで、の言葉を最後に通話を切った。

 

「……まぁ、そろそろ行きますか」

 

 書きかけの日記帳を閉じて、引き出しにいれる。鍵はかけない。

 あとは床の上に放り投げたままのカバンを抱えれば、外出準備はばっちりだ。

 いつでも外に出れるよう身支度していた甲斐があった。

 

 

 ドアノブに手をかける。

 そしてふと、振り返った。

 

 うんと広くなった部屋を、いつかのように見渡す。

 もう、ブルボン先輩の物はない。机の上も、箪笥の中も、本棚も、どこにも。

 だから当然、その温度もなくなった。残り香だって、ほとんど。

 でも不思議と、さみしいとは思わない。

 

 ここにはぼくひとりしかいなくても、決して独りではない。

 たとえ一緒に住んでいなくても、本当の意味で離れ離れになったわけでは、ない。

 だから、きっと、姉さんも──。

 

「……姉さん」

 

 胸元の、傷跡にふれる。

 服の下にある傷は、今も薄れず赤いまま。時々引き攣って、雨の日にはひどく痛む。

 けれどその内の心臓は、今日も優しくうたっていた。

 だからぼくは、今日も生きている。生かされて、生きている。

 

「わたしは、この世界に恋することができなかったけれど」

 

 ……恋。それはたぶん、盲目であることだ。盲目のまま、期待することだ。

 ぼくには、それができなかった。この盲目は失望にしか繋がらず、だから、明日はもっと良くなると信じられなかった。

 知らない場所に思いを馳せることも、新しいひだまりを探すことも、求めなかった。

 ぼくが求めていたのは尊厳だけで、それ以外からは目をそらしていたから。

 

 けれど、と。

 後悔を秘めて、下を見下ろす。

 床があった。床に触れる足があった。立っている、ぼく自身がここにいた。

 死んでいない、生きている。生きているから足があり、足があるから立っている。

 ぼくは確かに、ファインドフィートだった。

 でも、御供瞳でもあった。

 ぼくは、欠けていない。ぼくは、ぼくなのだ。

 

「……でも、もう少しだけ。

 もう少しだけ、踏ん張ってみようと思います。あなたに貰った、この足で」

 

 つまり、きっと、そんなものでいいのだ。

 生きるとは、ただそれだけで。

 

 

 もう一度、カバンを抱え直す。大きく息を吸いながら、顔を上げる。

 窓の下、木漏れ日の中。

 植木鉢に芽吹く小さな花の葉の先が、涙のように光っていた。

 

 


 

 

 ゆっくりおいで。

 

 







(読了ありがとうございました。
最後までお付き合いくださった皆様に、深く感謝申し上げます。
これからも番外のお話や、恋のお話も少しずつ投稿する予定ですが、本編は一旦完結となります)

(もしよろしければ、評価、感想等いただけますと幸いです)

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