その後のお話はいらないや~って方は何も見なかったことにして、そっ閉じでお願いしますね)
アフター・アクター
あたたかく、おだやかな日差し。
時折吹く風に目を細めながら、目の前の道をゆったりと歩く。
風に乗ってくるのは、春の、ほどよく乾いた土の匂い。青々とした草の呼吸の残り香。
校舎からトレーナー室への道程は、少し前の冬とはまったく違う顔をしていた。
もう、片目だけの視界にはすっかり慣れた。半分だけの空でも"そうあるもの"と受け入れてしまえば、やがて欠落ですらなくなる。時間の流れは寛大であり無情でもある故に、あらゆる傷を風化させてしまうから。
でも、見えないもう片方の隣に誰もいないのは……まだ慣れそうにない。つい、いつも隣にいたひとを探して、求めてしまう。
さみしくは、ない。決して、さみしくはない。ないが……やっぱり、ぬくもりを求めずにはいられなかった。
……ブルボン先輩は、今頃何をしているのだろう。
鼻先をかすめた桜の花びらを視線で追いかけて、ふと思って。
そして、くすりと笑いをこぼす。呆れを含む吐息は、きっとぼくの姿を真似ていた。
けれど、それは誰にも見つからない。
トレセン学園の中央にある大きな通路は多くのひとと多くの喧騒で溢れかえっていたから、ぼく以外は誰も知らないままだった。
「新入生はこっち!こっちだよ〜!」
「道に迷ったの?……そう、寮長はこの時間だと……第三集会室かな。案内するよ」
「サークル募集中でーす!教官三人体制!先輩達の親切な指導あり!ニンジン支給あり!アットホームなサークルです!」
わいわい、がやがや。
右を見ても左を見ても、後ろを見ても人だかり。
もちろんトレセン学園の中なのだから、九割以上は同族、ウマ娘だ。
そしてその人だかりの規模は、いつもよりも多い。活気もそうだ。
その理由が何かといえば……大きい声の彼女が語る通りで、今日、入学式があったから。
三年前のぼくの時もそうだったが、道もわからぬ新入生はすぐに群れたがる。群れたがるから集まって、集まったから声が増える。自然の通理だ。
その声につられて在校生が集まるのも、また同じく。
だからこうして自主的なボランティア要員だのサークル勧誘員だの、雑多な目的がぐちゃぐちゃに入り乱れる。
……けれど、不快ではない騒がしさだ。ぼくは、意外と嫌いじゃなかった。
見るからに初々しい新入生を眺めているうちに、頬が緩むのを自覚する。
生活が落ち着いた頃に声をかけて、先輩風を吹かせてみたいな……なんて想像しながら。
それは明日か明後日か、もう少し先のことだろうか。ともかく、今から少しだけ楽しみだった。
……そんな、ふわふわとした妄想をしているのが良くなかったのだろう。
右肩を軽く叩かれてようやく、すぐ後ろにひとが立っていることに気づいた。
「あ、あの……っ」
少し驚いて振り返ると、そこにいたのは肩口で切り揃えられた芦毛を揺らす少女。
新入生、なのだろう。
服のサイズは身体よりも大きくて、例に漏れず地に足つかない様子だった。
「すみません、道に迷ってしまいましてェ~……」
「ああ、なるほど……ここ、広いですからね。どこをお探しですか?案内しますよ」
「ほ、ホントですか!」
あどけない笑顔がぱぁっと咲いた。
この時期の中等部一年生は、つまりまだ小学生から上がったばかりの雛鳥だ。
……だからこれが子供らしさというもので──あの頃のぼくと彼女を比較して思うのは、ぼくはずいぶんと可愛げのない子供だったのだろうな、という今更な感想。
いつもむっつりとした表情で、口数も少なくて、愛想が悪い。目の前の彼女と真逆だ。正直、少し自分が恥ずかしい。
……今は違う、なんて、傲るつもりはないけれど。
「あのっ、食堂って新入生でも入れますよね?」
「あー……まぁ、はい。確かに、学生証さえあれば問題ないですけど……」
「じゃ、じゃあ行きましょう!私、入学したらトレセン名物のお好み焼きを食べてみたかったんです!」
「ええ……」
本当に、真逆だ。
入学してすぐにやることが食堂でご飯を食べる、とは。
なんだかおかしくて、面白くて、少し笑ってしまった。
顔を赤く染めた彼女には申し訳ないけれど、あぁ。それはいいなと、思う。
「さ、こっちですよ」
身体を校舎に向ける。
全校生徒2000人の胃袋を満たす料理人達は、きっと彼女を満足させてくれるはずだ。
そして同じ食卓を囲む仲間も、間違いなく。
「……ところで、あなたのお名前は?」
周囲の声に飲まれないよう大きな声を出して、少しだけ顔を寄せて。
少女は白と青のストライプのメンコを揺らして、元気よく口を開いた。
「ヒシミラクルって言います!よろしくお願いしますね、先輩!」
「よろしく、ヒシミラクルさん。わたしはファインドフィートです」
「え、ファイ……ゔぇ!?」
一歩半、前に出る。
慌てた様子のヒシミラクルをつれて、桜の海をふたりで泳ぐ。
やわらかい日差しに片目を細めて、心臓の音色を聞いて。
そしてぼくは、あたたかい実感で尻尾を揺らした。
春に、なった。
◇
ヒシミラクルを食堂に送り届けて、料理の注文方法を口頭で教えたあと。
ぼくはトレーナー室に用事があったから、そこで別れて再び移動を再開していた。
彼女は、あそこまで山盛りになったお好み焼きをすべて食べ切れるのだろうか?大皿の上に建てられたタワーは、いくらぼくらの胃袋が大きいにしても限界を超えているように思える。
……でも、たぶん、食べ切れるのだろう。そうでなくてはあんな自信満々に笑うはずがない。
それに、もし残しそうになったとしても、料理人のおばさまが盛大に雷を降らせるから彼女に食べきる以外の選択肢は存在しない。
この三年間ですっかり慣れた道順で、教室がある校舎とは別棟の校舎を練り歩く。
階段を上って二階へ。右に曲がって左に曲がって、そのまま直進。以前使っていたトレーナー室から少し違う場所にある、大きめの部屋が並んだ廊下を進む。
それらのいくつかを通り過ぎて、止まる。
ドアに吊り下げられたネームプレートには『葛城』の文字。
つまり、ここが目的地だ。
居住まいを正して、軽くノック。コンコンコン。規則正しい三連打。
いつもであれば二拍おいてトレーナーの呼び声がかかるのだが……。
……。
今日はどうしたことか、沈黙だけがぼくを迎える。
とはいえ僅かな衣擦れの音と男ふたりの話し声が聞こえてくるから、別に不在というわけではなく、無視されているわけでもないらしい。
……珍しいこともあるものだ。
トレーナーは人付き合いの悪いタイプだし、誰かと話し込むなんてあんまり想像がつかない。
ほんのちょっぴりの好奇心を胸に、ドアに手をかけた。
「……トレーナー?入りますよ」
声を、息のようにか細く吹きながら、そっと開く。
まず視界に入ってきたのはいつものソファーと、そこに座るいつも通りのトレーナー。真っ黒いスーツを着ていて、痩せ気味で──けれど、以前よりかは遥かに肉付きの良い体だ。
そしてその対面には、以前、どこかで見かけたことがある男の姿。
短く切り揃えられ、鋭く立ち上がった短髪、サングラス、白ジャージの上下。
ただし、なぜか肌着をつけていない。そのせいで男らしい腹筋や胸筋が見えている。
彼の名前を知らなければ借金の取り立て屋か何かだろうかと勘違いしてしまいそうな、貫禄のある姿だった。
「フィートか。すまんな、気付かんかった」
「……よう、邪魔してるぞ」
大きい、ひとだった。
身体が、という意味でも。彼の纏う雰囲気の重み、という観点でも。
ぼくは彼の前に立って、胸を張ろうとして、けれど肩を縮こませてしまった。
「お、お久しぶりです、大マスター……」
「……久しぶりだな。とりあえず、お前まで大マスター呼びはやめてくれ」
◇
かちゃり、と軽い着地音と共にカップを置く。カフェさん直伝のコーヒーだ。
ぼくにしてはかなり良い出来栄えだと思う。微かに立ち上る湯気の香りだって、100点満点中80点ぐらいはつけていい。
けれどトレーナーも大マスター……黒沼さんも、表情をぴくりとも動かさずに、ただ口をつける。
そして無愛想にうまいな、とだけ声を漏らした。やっぱり、100点満点中90点ぐらいにしてもいいかもしれない。
まぁ、カフェさんの腕前には遠く及ばないのだけれど
それから黒沼さんは一呼吸置いて、サングラスをこちらに向ける。
真っ黒いレンズの奥に、鋭い眼差しを幻視した。
「どうだ、最近は」
そして聞かれたのは、最近のこと。最近の悩みのこと。何か悩みはないかと、ぶっきらぼうな声で。
少し、考える。
簡易キッチンで自分の分のコーヒーを淹れながら、そこに自身の声を溶かしてみた。
……ぼくの中に、そんなものはあっただろうか?
水面がぼくに返してくる。
一つ二つ、三つや四つはあるじゃあないか。
「まぁ……うーん、そんなに多くはないんですが……」
カップを両手で包んで、トレーナーの隣に座った。黒い水面が揺れる。
思い浮かべたのは、ニ年前あたりから急に増えた頭痛の種のこと。
まるで三者面談みたいな空気のなかで、簡潔に言葉を組み立てる。
「……知らない親戚が増えたこと、ですね。有マの後一気に増えました」
「あぁ……」
「ぜんぶ学園の方に対応してもらってるのでわたしの負担はないですけど……ふふ、なんとも言えない微妙な気疲れがあります。なんなんでしょうね、あのひとたち」
大したことではない。が、思うところが何もないと言えば嘘になる。
世間知らずであることは自覚しているが、そんなぼくでも考えられる理由はいくつかあった。
ぼくが急に有名になったから、とか。ぼくのお金が目当て、とか。
もしかすると、みなしごという身空を憐れまれているのかもしれない。
何であれそのどれもが偽りで、どうしようもない欺瞞ばかりだ。
ろくでもないし、しょうもないし、くだらない。
……ほんとうに、どうでもいいことでしかない。
コーヒーの苦みで押し流そうと口に含んだ。流れなかった。
「わたしのお父さんとお母さんはもういません。だから親戚付き合いなんて殆ど知らないですし、誰とどういう関係だったのかも分かりません。手がかりなんて、家に残ってた数通の年賀状ぐらいです」
「……その送り主達とは、もう連絡を取っているのか?」
「いいえ。もしかすると葬儀で顔を合わせていたのかもしれないですけど、それっきりです。わたしから何か連絡することも……向こうから来ることも、この三年は」
だから、今更じゃないかと。
今更連絡を取って──それで、何になる?何を得る?何を与えられる?
ぼくは、その血縁に重みを見出さない。今更だからだ。
そうしてあとに残ったのは、沢山のうそつきだけ。
……でも、最初の頃はほんのちょっぴり期待していたのだ。
本当に叔父さんがいたのなら、本当に伯母さんがいたのなら、本当に従姉妹はいたのなら──そういうもしもを想像したことはあったけれど、すぐにそのもしもは否定されてしまった。
ぼくに真実を教えてくれた理事長は、ひどく沈鬱に歪んでいた。
たづなさんの同情の目線は、どうしようもなくぼくに突き刺さった。
その痛みを覚えている。ぼくの喉から漏れた、ひどく惨めな声を覚えている。
だから、納得した。
この話はそれでおしまい。
「それと……進路をどうしようか悩んでるぐらいですね。しょうらい、なんて今まであまり考えてこなかったですから」
そしてそれ以外でさえその程度。
しょうらい──将来。今まで考えることはなかった、考える必要もなかった概念。
脇道にそれた今の、軸に据えるべきなにか。
ぼくはそれを心の底から欲しているわけではないけれど、悩みといえば悩みだった。
あとの三つと四つは誰かに言うつもりもないから、そのくらい。
黒沼さんは顎ひげをさすりながら、うぅむと唸った。
「……ファインドフィート。おまえ、もう復帰するつもりはないのか?」
「黒沼さん、わたしはもう引退したんですよ。そうやすやすと撤回したら引退の意味がないじゃないですか」
「分かってる。だが……おまえ、まだピークが終わっていないだろう」
そして、ぼくの足を一瞥。
「よく鍛えられたトモだ。筋力、瞬発力、柔軟性、持久力……いずれも間違いなく一級品。今すぐレースに出ても問題ないくらいには仕上がっている」
「そうなんですか?」
「なぜ本人が把握していない……おい葛城」
「別にそういうつもりでメニューを組んじゃいませんよ。たしかに身体機能の維持を目的にしたメニューですが……」
今度はトレーナーがぼくの足を見る。
なんだか少しだけ気まずくなって、視線がうろうろと空中を彷徨った。気恥ずかしさと、いくらかの憤りもあったかもしれない。
対し、トレーナーは一言"すまん"と謝るのみ。返事に、尻尾で軽く脇腹を叩いた。
「……しかし、なんだ。思ってたよりも上手くやってるみたいだな」
「はは。まぁうちのお嬢様は何だかんだ扱いやす……いつっ、やめろやめろ、悪かったから」
それでも忍び笑いはやめないのだから、どうにも腹立たしい。距離が縮まったようで、嬉しくないとは言わないけれど──ただ、釈然としない。
ぼくはもう一度、ぺしんと尻尾を打ち付けた。トレーナーの膝の上で、へにょりと伸び切った。
「はぁ……それで、復帰しないのか、でしたか。少なくとも今のわたしは復帰するつもりはありませんよ」
「もうおまえは、おまえの夢を叶えたのか」
「……さて、どうでしょうね」
黒沼さんの、湯気で曇ったサングラスの向こうから視線で刺される。
遊びのない物言いと、低く、腹の底に響くような声音で。
重たい問いかけが、耳からみぞおちに滑り落ちる。
──でも、あぁ。
「満足は、しています。あの日、あの有マの景色に、あの青い空に、わたしは満足したんです」
胸に手を当てれば、今でも思い出せる。
ゲートの中で味わった土と芝の生臭い香りや、肌をなめる熱気。
ゲートから解放された先の緑の芝と、雲一つない青い空も。
ぼくは、それを美しいと感じた。そこには、感動さえあった。
あの瞬間、ぼくは確かに生きているのだと。
生きているかぎり、自由なのだと、知ってしまった。
……ひどい話だ。
昔のぼくであれば、たとえ"それ"を知ったとしても忌避していただろう。
あるいは、憎んですらいたかもしれない。
だって、理不尽じゃないか。
死んで、でも死にきれなくて、そのおかげで、そのせいで自由を知るなんて。
ぼくが自由になるには姉さんの犠牲が必要だったなんて、惨い真実。
あの日、事故にさえ遭わなければ。
いや、そもそも、この世に車なんてなければ、今頃は。
目を、ぎゅっと瞑る。
真っ暗な世界に、白い火花が散った。
それは過去の思い出を象るように綺麗に無邪気に軽く踊って、しかし何の像も結ばず、ほどけた。
目を開ける。
白い蛍光灯の世界はまるで綺麗じゃないけれど、それが現実だった。
ぼくがいるべき、現実だった。
「だから、いいんです」
「……そうか。なら、良い。おまえがそれを望むのなら、その背を支えるのも俺達の役目だ」
そう言って黒沼さんはくつくつと笑った。
笑い慣れていないのか、口の端が歪につり上がった顔だったが、決して恐ろしいものではなかった。
彼の本性は、きっとそこにあるのだろう。
◇
「……ところで黒沼さん。ひとつお聞きしたいのですが……」
「どうした」
「その、トレーナー業って……服も買えないぐらい、お金に困ることがあるのですか?」
「なに?」
「だって……ほら、着てないじゃないですか……」
「だとしたらブルボン先輩も……いえ、すみません。あっちにトレーナーの替えの服があるので持ってきますね」
「……葛城」
「はい」
「この格好、まずいのか」
「……はい」
「そうか……」
◇
一度部屋の外に出て、再度許可をもらってから入室する。
黒沼さんはさっきまでの白ジャージ姿とは打って変わってしっかりとした装いに身を包んでいる。トレーナーの予備スーツだ。
さすがに体のサイズはあってないが、それでも先ほどよりはマシな見た目だと思う。
いくら自由な校風のトレセン学園とはいえ、あれは無いのではなかろうか、あれは。まったく、東条トレーナーや桐生院トレーナーを見習ってほしいものだ。
……もっとも、黒沼さんにはどうでもいいことらしく、ぼくを見る目は平熱そのものだった。
「ところでお前、次にやりたいことはあるのか?」
その温度はトレーナーも同じだ。
幾ぶんか気の抜けた様相で、のんびりせんべいを噛み砕いている。
「まぁ焦る必要はないがな。今は仕事もある訳だし。なんせお前は広報役としてはこの上なく使い勝手がいい。戦績は日本トップクラスで、知名度も高く、黙ってればツラもいい。ほら、客寄せパンダとしては最上級だ」
「トレーナー、うるさい」
「おお、反抗期か?」
「……いつの間にか随分めんどくさくなりましたね、このひと」
笑い声一つ。ため息一つ。無論、後者がぼくだ。
今はさすがに黒沼さんの目もあるからやらないが、ふたりきりになったら軽く蹴り飛ばそうか。
でもたぶん、トレーナーは態度を改めることはないのだろう。不思議と、確信があった。
「……で、次にやりたいことですか?特に決まってないですよ」
小石を蹴飛ばすような語調で、話を戻す。
「しょうらいの夢。いりますか?そんなの」
「……諸説あり、だな。まぁ、あったほうが良いものではあるんじゃないか」
「でも必須ではないでしょう。少なくとも、今のわたしになりたいものは──」
ふと、口を噤む。
半分ほどになったカップの縁をなんとなく撫でて、噛みしめるように。
「……なりたいものなんて、ありませんから」
そんなことまで考える余裕は、ない。
ぼくは、明日を見なければならない。
直視しているだけでも失明しそうな光に、手を伸ばし続けなければ。
ぼくには、それで精一杯だ。ぼくの手はまだ小さいのだから。
新しい夢なんて、そんなものは手に余る。そして手に余るものを追いかけるのは、ひどく疲れるから。
今は、いい。
「そうか。……まぁ、なんだ。好きに悩めば良い。いや……悩むべきだ。その先に選ぶものが何であれ、俺達がその背を押してやる」
「それはトレーナーが、トレーナーだからですか?」
「……そうだな。トレーナーだから、でもあるが……俺個人としても、そうしたいからだ」
そう言って、ほんの少し口元を緩める。
「……トレーナー、やっぱり変わりましたね」
「そうか?……あぁ、いや、確かにそうかもしれない、な」
「最初の頃はもっと露悪的というか……もっと、ダメな感じのひとだったのに」
「……そういや、そうだったか」
……ぼくは、好ましい変化だと思う。
最初が悪かったなどと言うつもりはないが、今の彼のほうがとっつきやすいのは間違いない。
だって、ほら、こんなにもまっすぐな目をしてる。まだ迷いや仄暗さは宿っているけれど、だからこそまっすぐで、真っ当だ。
普段の言動はともかくとして、こういう部分は素直に羨ましい。
本人には絶対言わないけど、そう思える。
「あー……まぁ、あれだ。さっきも言ったが別に焦る必要はないんだ。しばらくはゆっくり探せば良いんじゃないか。お前はまだ子供で、時間なんていくらでもある」
「そう、ですね。時間は、まだありますから」
ぼくが明日を見続けている限りは、そうなのだろう。
ブルボン先輩とともに脇道にそれ続けているうちは、探し求めることができる。
……もしかすると、いつか、それが救いに繋がるのかもしれない。
手の中のカップからは、いつの間にか湯気が消えていた。
すっかり冷めた中身を空にして──ふと、なんでこんな話をし始めたのかと我に返る。
ぼくは別に、こんなことを話すためにここに来た訳ではない。
もっといえばトレーナーだってそうだし、客人の黒沼さんだってそうに違いない。
まったく、なぜこうなったのかよく分からない。分からないが──急に気恥ずかしくなって、誤魔化すように舌の向き先を変えた。
んん、と喉を鳴らす。自分でも分かるぐらい態とらしかった。
「ところで黒沼さん、何か御用があったのでは?」
「……そうだ、そうだったな。一応葛城には既に通した件だが……ファインドフィート、おまえに関係することだ」
「わたしに?」
そうして返ってきた言葉は、正直意外だった。
だって、ぼくと黒沼さんの関係性はかなり浅い。
話を聞く限り、彼はトレーナーとの師弟関係にあるから、ある意味ぼくは孫弟子とも言えるかもしれない。
でも、それだけだ。
ぼくが教えを請うのはトレーナーだし、レース絡みのやり取りだって全てトレーナーを経由する。
メディアと取引しているのもトレーナーだし、スポンサーとのあれこれは全部学園が受け持ち、そこからトレーナーを経由してぼくに話がくる。
だから、その中に黒沼さんが入ってくるのは──どうにも、すこし変に思えた。
その疑問は口には出さなかったが、しかしたった四文字の疑問の声だけで伝わったらしい。
彼はさもありなんと鷹揚に頷き、少しだけ居住まいを正した。
「これはまだ一般には公表されていない事だが。俺や、葛城、崎川や、沖野、お花さん──一部トレーナーに軽い依頼があった」
「……みんな知ってる人ですね。有力トレーナーを選んで声をかけた、ということでしょうか」
「そうなるな。だが彼らが求めているのはトレーナー陣ではなく、お前達だ」
黒沼さんはフランスのトレセン学園に出向しているらしいが、向こうでもかなりの実績を積んでるようだ。教え子が凱旋門賞を獲ったというのだから、トレーナーとしての腕前は疑うべくもない。
そのウマ娘の名は……たしかヴェニュスパークといったか。
そして葛城──ぼくのトレーナーや、崎川トレーナー、沖野トレーナーにお花さん、もとい東条トレーナーは言うまでもない。今のトレセン学園では特に名のしれた人々だ。
……沖野トレーナーの知られ方は、ちょっと毛色が違うかもしれないが。事あるごとに足をさわろうとする変人だし。
「依頼元はトレセン学園、ならびにサトノグループ。内容は最新のレーシングサポートシステムの最終検証。トゥインクルシリーズを引退した選手達に確認してほしい、だと」
「最新の……レーシングサポート、ですか」
……が、その肝心の依頼内容は、一口ではなんとも言えないような──正直に言うと、なんともパッとしないものだった。
けれど。そう、耳から入った言葉をそのまま自分の口から出してみれば。なんだか、聞き覚えがあるような気がした。
しかし、さて。それはいつ、何をしているときに聞いたのか。
少しばかり考え込んでみるが、中々輪郭をつかめない。
そう、確かにそれを聞いた──いや、見た記憶はあるのだが。
それで、と。黒沼さんに視線を向けて、続きを促す。
彼は少しばかりもったいぶった様子でカップを傾けて、それから横のカバンから取り出した紙面を、テーブルの上にすべらせた。薄いA4の紙面には大きく書かれたタイトルと、細かく書かれた詳細が踊っている。
そしてそれは、ぼくの目を強く惹いた。
「AI三女神、聞き覚えぐらいはあるんじゃないか」
は、と。
短く、虫の羽ばたきのような。
衣擦れにも似た、小さな息がこぼれる。
「サトノグループが開発したレーシングサポートシステムの中枢、過去の偉人を名乗るAI達だ。なんでもヒトと同等の自我を持ち、量子コンピュータの演算能力を得て、競走ウマ娘のバックアップを務めるらしいが──」
続けられた解説は、耳からみぞおちまで滑り落ちて、そしてぱらぱらの砂にほどける。
小難しい用語は陳腐な雑音になって、整った話の筋は毛糸のようにほつれて絡まる。
結局、ぼくの中にかろうじて残ったのはひとつの単語だけだった。
AI三女神。……三女神。
口の中で、ひっそり転がす。歯の裏に、浅く突き刺さった。
「どうした。何か、気になることでもあったか」
「いえ……。
…………はい、大丈夫です。それで、最終検証とやらは一体なにを?」
「……。俺達に求められたのは二つ。一つはサポート能力が費用に見合うことの評価。二つ目は……」
一度、口を閉ざして。
彼は眉間に刻まれた皺を一層深くして、噛みしめるように続きを放り投げた。
「見定めてほしい、と」
「……それは、一体どういう意味で?」
「言葉通りだと思うが……こいつは三女神自身からの要望らしい。実際に使い物になるのかどうかを評価しろって意味じゃあないのか」
ころりと、投げられた言葉がテーブルの上を転がる。ぼくが掴みそこねてしまったせいだ。
そうして行き場を失った言葉を拾い上げようにも、どうにもこうにも手が伸びない。
「……まぁ、あの理事長が承認してるんだ。そう変なものじゃないだろう」
トレーナーの締めの言葉に、それならまぁそうだろうな、とは思う。
あの小さな理事長は、間違いなくぼくら寄りだ。価値観も、気性も、おそらくは。
そんな彼女が認めているのであれば、まず問題はないだろう。
しかも求められているのは最終検証。実用化の一歩前……いや、半歩前の通過儀礼。であるなら、そう気負う必要もない。
……ただ、それを理由にしても安心はできなかった。
「で、わたしにも声が掛かっていると、そういう訳ですね?」
「あぁ」
「俺は……フィート、お前の判断に任せる。やってもいいし、やらなくてもいい。自由に選べ」
「…………」
投げられたボールを今度はきちんと握りしめて、考える。
出来るか出来ないかで言えば、出来る。
今のぼくには時間的な余裕がある。トゥインクルシリーズを引退して、さりとてドリームトロフィーリーグに進むでもなく、やっていることといえば最低限のトレーニングと少しのメディア対応と、あとは企業の広告塔程度。
忙しいと言えば忙しいが、常に働き詰めという訳ではない。未成年に対する配慮というやつらしい。ありがたい限りだ。
これでドリームトロフィーリーグからのオファーを受けていたらもっと忙しくなっていたのだろうが、あいにく今は保留中。
そうした諸々ひっくるめて考えると、この提案を受けるのは全然"あり"だ。
……けれど、そういう物理的な制約を除いた、ぼく個人の心情ではどうか。
どうなのだろう。
分からない。曖昧だ。
忌避感は、ない。
これは後の世代への投資だ。ぼくにそれを厭う理由は、何も無い。
……けれど、三女神という言葉を聞くと。
そのたった三文字のせいで、足が竦んでしまう。二の足を踏んで、そのまま動けなくなりそうだ。
ぼくの知る彼女達ではないはずだ、と頭の隣で誰かが囁く。
けれど逆の耳の傍で、似たひとが出てこないとも限らないよね、と怯え交じりに呟かれた。
ひどく矮小な二律背反。
それがぎゃあぎゃあと喚きながら、みっともなくぼくの首もとにしがみついている。べったりと。
「……ちなみに、返答の期限は?」
「1ヶ月後、5月の初旬。検証は6月から7月までだ」
「そう、ですか。……じゃあ、もう少し考えさせてもらってもいいですか?」
「構わない。もし意思が固まったら葛城に言えばいい」
……。
…………。
そうして結局、ぼくは選択を先延ばしにした。
白い毛先を意味もなく弄んで、油の切れた人形のように動きを止めたのだ。
「……あぁ、でも、もしかしたら」
ひとり帰った自室で、思う。
ブルボン先輩の残り香に包まれて、たったひとりのかくれんぼをして。
もし、AIの三女神が、ひとにはない視座を有するのだとしたら。
もし、ぼくには出来ないことが出来て、ぼくが知らないことを知っているのだとしたら。
忘れてしまったお父さんやお母さんのことも、思い出させてくれるんじゃないか、なんて。
……いや、それは目的じゃなくて、単なる都合のいい言い訳かもしれない。
ぼくの中のふたりの姿は、今も真っ黒に染まったままだから。
たぶん、ぼくは問い質したいだけなのだ。
・ファインドフィート / 享年10才 年齢15才
出身 / 日本 - 埼玉
モチーフ / 迷子
テーマ / 尊厳の奴隷
性格 / 自罰的
大事なもの / 過去
いらないもの / 自分
トラウマ / 車
家族構成 / 父(享年33才) 母(享年30才) 姉(享年10才)
目標 / 永遠を遺すこと。 → もう少しだけ、明日を見続けること。
・ファインドフィート / 享年10才
出身 / 日本 - 埼玉
モチーフ / 故人
テーマ / 愛に殉ずること
性格 / 直情的
大事なもの / 未来
いらないもの / 自分
トラウマ / 車
家族構成 / 父(享年33才) 母(享年30才) 弟(享年10才 → 存命)
目標 / 何かを遺すこと。その願いは、正しく果たされた。
・エクリプス / 享年26才
出身 / ギリシャ - アテナイ
モチーフ / プレイヤー
テーマ / 舞台装置
性格 / 利己的
大事なもの / 愛
いらないもの / 反抗
トラウマ / 蝗害
家族構成 / 妹(享年15才) 娘(享年10才) 娘(享年87才)
目標 / 連れ帰ること。もう、叶わなくなったけれど。