心臓継承ウマ娘   作:豚ゴリラ

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9話

夢をかける。

 

 


 

 

 

「崎川トレーナーは……まだ、来ていないようですね」

 

 三女神の像が見守る広場の中央に駆け寄り、白く染まった息を吐き出す。

 ファインドフィートの芦毛とそう変わらない色彩は、閑散と静まり返った広場では際立って映えた。

 

 昨夜は雪が降っていたらしいけれど、彼女が見渡す限りでは殆どが単なる水として蒸発した後である。

 しかしトレセン学園に満ちる冷気そのものは相変わらずの様子で、彼女の肌を無遠慮に突き刺していた。

 

 寒さで震える指先を擦り合わせて紛らわせ、人影の到来を待つ。

 そうして体の動きを止めてしまえば、一層体の末端部分から凍えさせてくる冷気の波。

 ……今更ながらに、もう少し厚着でも良かったかもしれないなと後悔した。

 上半身すべてを包む茶色のコートが裏起毛に熱を溜めて、果敢に寒気を追い払おうと奮起しているが……幾らか劣勢なご様子であった。

 

「ふぅ……」

 

 もう一つ白い息を吐き出して、じわじわと大気に(ほど)けて溶けゆく様をそっと見送る。

 

 まだ日も顔を覗かせ始めたばかりの早朝とはいえ、朝練に赴くウマ娘が居てもおかしくは無さそうだが──今この瞬間は彼女が独り占めだ。

 

 音のない世界。誰も居ない景色の中、ぼんやりと空を見上げる。

 そして葛城トレーナーに前もって伝えられた名前と人相を脳裏で反芻し、薄暗い空に浮かんだ雲たちに空想の人物像を描いてみた。

 

「しまった」

 

 ……出来上がったのは何とも名状しがたいナニカ。

 "いやいや、さすがにこれは失礼でしょう"とぶんぶんかぶりを振って追い払い、改めて脳裏にころころと印象を転がしてみる。

 

「……思い付かないですね」

 

 流石に未知の人物を現実に落とし込んで捏ねくり上げるのは無理だった。

 霊長類を思い浮かべたはずなのに、出来上がったのは謎の海洋生物(うにょうにょ蠢く触手)

 さっくりと諦めて、空想上のモンスターを脳内のゴミ箱に放り込んで削除処理(デリート)してしまう。

 つまりファインドフィートの賢さでは、人物像の予測なぞ土台不可能な行いだったのだ。

 

「何にせよ、"怖い人"でなければ誰でも良いんです」

 

 初対面の人間とのコミュニケーションと言うだけでも怖いのに。

 もしもそこにナイフの様にキレた性格が加わってしまうとすれば……ああ、なんと恐ろしい。

 だから優しい人なら誰でもいい。正直に言えば、そうでなければ逃げ出してしまうかもしれない。

 

 そして願を掛けるようにもうひとつ、もうふたつ。

 大きく吐き出した白い息を空気に混ぜ合わせ、視界をホワイトフィルターで飾り立てる。

 そうやって無邪気に遊んでいれば、薄ぼんやりと白化粧を施す女神様の像も、うっすらと笑っているようにも見えた。

 

「……ん?」

 

 ──彼女が広場を訪れて4分、あるいは5分程度経った頃か。

 

 ウマ娘の優れた聴覚が、石畳を軽快に叩く靴音を捉えた。

 カツ、カツ、カツと一定に纏まったリズムで空虚に響く。

 この足音は意外と近くから鳴っているらしい。ちらりと周囲を見渡してみれば、音の主は驚く程すぐに見つかった。

 

「おはよう。

 ごめんなさい、待たせちゃったかな?」

 

「あっ……い、いえ。

 ついさっき到着したばかりです」

 

「そう?」

 

 柔らかく鼓膜を撫でるソプラノボイス。

 その発生源たる喉の持ち主は、黒髪をうなじで結わえる涼やかな風貌の女性だった。

 黒いオーバーコート姿で、その下には仕立てのいいスーツ。

 右手には大きなかばん。胸元に燦然と輝くトレーナーバッジ。

 "いかにも"な彼女の風体は、前もって葛城トレーナーから聞き取っていた通りのそれ。

 俗に言うなら"仕事がデキる女"。彼女はそう称されるべき風格を放っていた。

 

 ……そして。

 彼女みたいなヒトは、ファインドフィートが初めて出会うタイプの人物でもある。

 

「では改めまして。

 私は崎川。崎川メグミと言います。

 よろしくね、ファインドフィートちゃん」

 

「……わたしはファインドフィート、です。

 本日はお世話になります」

 

「良いの良いの、気にしないで。

 ほら、ブルボンもお世話になってるし。

 あの子と仲良くしてくれてありがとね」

 

「いえ……。

 逆に、わたしのほうがお世話になっているというか、お世話されているというか……」

 

 ファインドフィートの何処かよそよそしい言葉にも気を悪くした様子はない。むしろどこか微笑ましそうに目尻を緩めている。

 "これは一体どう対応したら良いのですか?"と心の内で戸惑いのままに叫んだ。

 そうすると、何処からか這い出たらしき心の中のトウカイテイオーが鮮やかに答えを返す。

 

 "まあ、話したら良いんじゃないかな~?"

 ──()()を出来ないからコミュ障だというのに。

 コミュ強者たるトウカイテイオーには理解できない事かもしれないが、とんでもなく大きいハードルなのだ。初対面の他者と話すということは。

 

 尻尾がたらりと垂れ下がり、殆ど股の内側にまで入りかけていた。

 かと思えば奮起したように跳ね上がり──また、気勢を失いだらりと脱力。

 

「ふふっ」

 

 崎川トレーナーは、それをじっと見守っていた。

 くすくすと喉を鳴らす姿に嫌味はないけれど、なんとなく恥ずかしくもなる。

 

「…………」

 

 ……とはいえ、だからどうといったアクションを取れるわけでもない。

 ひとしきり笑った崎川トレーナーにじっとりと視線を送ってやるぐらいしかできないのだ。

 瞬きもせず、青い虹彩を輝かせるばかりの彼女の姿に、何故かまたもう一度小さく吹き出して──薄っすら滲んだ涙を指で弾き飛ばした。

 

「ご、ごめんなさいね。

 こう、思っていた通りの(犬みたいな)子だったから……」

 

「はぁ……」

 

「んんっ!

 よし!それじゃあ行きましょうか!」

 

 大きく息を吐きだした。

 白い霞の中に"なんですかキャリアウーマン。最初の緊張を返して欲しい"と八つ当たりを隠し混ぜたのはきっと、気付かれなかったのだろう。

 先導するべく、背を向け歩き出した崎川トレーナーの後ろ姿を追いかける。

 ……いつの間にか全身を縛りつけていた緊張は(ほぐ)れて消え去っていた。

 

「近くに私の車を停めてるの。

 ゴールド免許の運転スキルを見せてあげるわ」

 

 "ま、ゴールドっていうのも殆ど運転していないからってだけなんだけど"と言葉が続く。

 ファインドフィートとしては安全運転でお願いしますとしか言えないのだが──まあ、良いだろう。

 事故に遭うなんて不運、そうそう出会うわけでもない(そもそも今更の事だし)

 

「さあ、行きましょう?」

 

「……はい」

 

 崎川トレーナーの背中で軽やかな風と戯れる黒い髪。

 艶のある毛先から漂う匂いは嗅ぎ覚えのある柑橘系のものだ。

 不思議と安心できる、いい香りだった。

 

 

 ◆

 

 

 車を降りて、駐車場に預けて歩いて幾分か。

 迷いなく足を進める崎川トレーナーの背を追いかけて、ヒト通りで栄えた道路を踏みしめる。

 

 ショッピングモール、喫茶店、本屋。それによくわからない店も沢山ある。

 ここ最近では──学園のすぐ近くと、生まれ育った故郷、そして前回の中山競バ場(芙蓉ステークス)ぐらいでしか行動したことがない。

 そんなファインドフィートにとっては、初めて見るほどの人混みだった。

 

 右を見ても左を見ても眼界を埋め尽くすヒト、ヒト、そして数多のウマ娘達。

 有マ記念が始まる競バ場のすぐ近くだから相応に観客の数も多いのだろう。

 まだ競バ場に辿り着けてすらいないのに、早くも人混みに酔ってしまいそうだった。

 

「──こ、これが有マ記念の……」

 

「そ、中山競バ場。

 今日はすごい熱気でしょ?」

 

「はい……」

 

「今回の出走ウマ娘のネームバリューもあるかな。

 トウカイテイオー、ミホノブルボン……ライスシャワーやメジロマックイーン。ビワハヤヒデ。

 まるで夢のような面子(ドリームマッチ)だわ」

 

 くらりとふらつきそうになる体を自慢の精神力でねじ伏せて、波にさらわれないように人の海を必死に泳ぐ。

 しかし泳ぎは苦手なファインドフィート。

 右に左に揺れる振動に翻弄される。どうにか抗おうにも、あっという間に主軸を失い流され始める──

 

 ──直前で、崎川トレーナーに回収された。

 なんと、彼女はあの人混みの中にあって後ろを気にしていたらしい。それこそウマ娘並みに広い視野である。

 ハグレないように掴まれた右手を引っ張られながら、"トレーナーはすごいんだなぁ"と小さく感動の意を込め黒いスーツの彼女を見遣った。やはり中央トレセン学園所属のトレーナーは化け物揃いという事か。

 

 ……よくよく思い返せば自分のトレーナーもある意味化け物じみていた気もする。

 なんと、つまりこれは純然たる事実かもしれない──と、密かに納得した。無論、これは誤解である。たぶん。

 

「ほんとうに、ほんとうに……人混みが、すごいですね」

 

 一旦道路脇に身を寄せた。

 期待の活気で沸く人々とは対照的で、小さく肩を落とす姿は哀愁さえ漂っていた。

 自分に()()()()()耐性が無い事なぞ分かりきってはいたのだが、こうも容易くアテられるようでは悲しくなっても来る。

 

 ……なんて、落ち込むファインドフィートの背中をポンポンと軽く叩いて、優しく慰めてくれる崎川トレーナー。

 彼女の存在は──有り難いけれど、そこはかとなく惨めな気持ちにもなってしまった。

 

「さあ、気を取り直してしっかり着いてきてね」

 

「はい」

 

「ハグレないようにね?」

 

 再び歩き出した背中を、距離を離されないよう駈歩(かけあし)で追いかける。

 人の波の隙間をくぐり抜けて、すり抜けて。

 前から迫る男の背中に"すみません"と謝罪の言葉を投げかけながら押し退けて、右から突き出すウマ娘の肩を華麗に躱す。

 時折そんな彼女へと振り返っては足を止め、待ってくれている崎川トレーナー目掛けて足を進めた。

 

「あの、これは何処にむかっているのですか?」

 

「……えっ?ごめんなさい、よく聞こえないわ」

 

「あのっ、これは何処にむかって歩いてるんですかっ」

 

「ああ、まずはパドックよ。

 ほら、お披露目がもうすぐ始まっちゃうから急がないと」

 

「なるほど……!」

 

「早く入場してしまいましょう」

 

 どうにか崎川トレーナーの後ろにピッタリと付け、競バ場の構内へ足を踏み入れる。

 そしていよいよ友人達の姿を求めて進撃を開始するのだが──。

 

「……なんと」

 

 ──いくらファインドフィートの背が高いとは言え、それは女性平均比で見ればのこと。

 世の中の半分は男性であるからして、この有マ記念に訪れた観客の割合もそれに準ずる数字となるだろう。

 ……つまり何が言いたいのかと言えば、彼女は定期的に埋もれてしまうという事実だ。

 

 人波を越え、人波を泳ぎ、崎川トレーナーの隣──観覧場の最前列に辿り着いた頃には、自慢の芦毛がボサボサに乱れていた。

 それだけこのレースに対する人々の熱中具合もかなり狂騒しているのかもしれない。

 が、その余波をくらう側としてみれば堪ったものではない。

 

「まったく……」

 

 懐から取り出した青い櫛で毛並みを軽く整えて、未だ幕が下りたままの舞台に視線を向ける。

 左腕に鎮座するデジタル時計曰く、主役達の登壇まで残り6分程度。

 はちみー1カップを飲みきるまでの時間と同じぐらいだ。

 もしもはちみーがこの場にあれば、"のんびりじゅここ"と甘味を啜りながら時を待つのが良かったのだろう。

 

 ……しかし残念ながら、はちみーがあるべき右手は虚空を掴むばかり。

 故に仕方なく、代替品の飴玉を口の中に放り込む。はちみつ味だ。

 

「……崎川トレーナーも食べます?」

 

「ありがとう。頂くわ」

 

「どうぞ」

 

 ──二人して、飴玉を口に含みカラリと弄ぶ。

 

 口の中に物がはいっているから何を語るでもなく、ぼんやりと晴れの舞台を待ちぼうけた。

 ……ひょっとすると、崎川トレーナーも緊張していたのかもしれない。

 なにせ、己と二輪三脚で歩んできた愛バの研鑽の集大成──その三年間の結実を世に刻むのがこのレース。

 きっと当然の情動だ。

 ファインドフィートには未だ遠く、まるで理解の及ばない境地でしかないが……そういったモノもあるのだ。

 

「……始まり、ね」

 

 崎川トレーナーからこぼれ落ちた言葉を火蓋とし、ついにパドックの幕が上がる。

 そして現れたるは麗しの出走バ達。

 

「……」

 

 ──代わる代わるに姿を晒し、各々の研鑽の成果を衆目に語る。

 

 不調かもしれない。好調かもしれない。

 中には、明らかに能力が追いついていない娘もいるかもしれない。

 しかしだからといって、負けるつもりでいるウマ娘は誰も居なかった。

 皆、自分と、自分の背を押してくれた全ての勝利を信じているのだろう。

 

「……あ、ブルボン先輩」

 

「今日も絶好調ね」

 

 彼女が姿を現すと同時に響いた観客達の感嘆のため息。それは、きっと皆が同じ結論に至ったが故だろう。

 肌にぴっちりと張り付いた白いスーツと、要所で浮遊し輝く、青と赤の謎の発光機械装甲。

 その内側に鎮座する肉体は凄まじい精度で洗練されており、"ミホノブルボン"のトモ(太腿)に秘められた圧倒的なパワーをひと目で感じ取れた。

 

「今日も()()()なミホノブルボン……」

 

「ああ、()()()な」

 

「やはりな……」

 

「なあ、あの浮いてる機械は何なんだ?」

 

「かっこいいよな」

 

「え、そこはどうでも良くないか?」

 

「どうでも良くないが?大事だが?」

 

「愚か者めが、恥を知れ」

 

 隣の観客達の視線もミホノブルボンに釘付けだ。

 とある一人の青年はどうでも良いと言っていたが、ファインドフィートはその機械パーツにも心を惹かれた。

 あの勝負服の機械パーツはなぜ浮いているのか、どんな技術で作られたものなのか。それは全くの未知である(企業秘密)

 だがしかし、だからこそ心を擽るものだ。

 さながらロボットアニメに目を輝かせる子供の如く、彼女もまた"かっこいい"というロマンに胸を高鳴らせた。

 

「ほら、ブルボンが見てるよ」

 

「あ……」

 

 ……確かに、深海の青色はこちらを捉えていた。

 咄嗟に手を振ってみれば大きく頷いて、ファインドフィートは初めて見るお決まりポーズ(くるりと一回転)

 

 目と目を合わせて、小さく"がんばれ"と呟いた。

 ウマ娘の聴力とは言え届くはずもない。ないが──しかし物理現象ではない、その心なら届く。

 

「……戦意高揚、気分上々って感じ」

 

「そうなんですか?」

 

「ええ。

 ファインドフィートちゃんが応援に来てくれたの、余程嬉しかったのね」

 

「……そう、なんですか」

 

 入れ替わりの合図と共にミホノブルボンの背が遠ざかる。

 その背中には、溢れんばかりの闘志が滾っているようにも見えて──正直に言えば、大いに驚いた。

 だってそんな姿はファインドフィートが知らないモノだった。

 彼女にとってのミホノブルボンは世話焼きで、心優しく、けれど大型犬と同等に無邪気で、そして無表情。

 ……こんな熱で、こんな圧を宿せる人物だとはまるで知らなかったのだ。

 

 ヒトにもウマ娘も多様な側面を持つことなんて当然の事なのに、しかしファインドフィートは知ろうともしていなかったのだ。

 一度自覚してしまえば──チクリと喉の奥に魚の骨が刺さったような、酷くもどかしい気持ちにもなってしまった。自業自得なのに。

 

「わたし、知らないことばかりだ……」

 

 ──そんな彼女の独白も置き去りに、栄えある優駿達のお披露目は続く。

 気品のある黒い勝負服を纏った芦毛のウマ娘(メジロマックイーン)

 貞淑な黒いドレスと青いバラが特徴的な黒鹿毛のウマ娘(ライスシャワー)

 

 ……そして彼女等に続けて姿を見せたのは、果てしない蒼穹を連想させる青と白の勝負服。

 それを自慢気に見せびらかすのは鹿毛のウマ娘──トウカイテイオー。

 空に向けて突き上げた一本指は"これから一着を取るぞ!"という意思表明か。

 何にせよ"彼女ならやってくれるんじゃあないか"と無根拠でも信じたくなってしまうのだから、実に不思議なものである。

 圧倒的な自信を感じ取れてしまうからか。あるいは溢れ出るカリスマ故か。

 

「……今回のレース、とんでもないことになりそうね……」

 

「………」

 

 固唾を飲み込む喉が震えた。

 誰を見ても、誰が勝ってもおかしくないとしか思えない。

 なにせ彼女等は皆、今のファインドフィートにとっては雲の上を疾走している怪物ばかり。

 だからそもそも品評しようとすること自体に無理があるのでは、と非生産的な回答に辿り着いてしまう。

 トウカイテイオーとミホノブルボン、どちらが勝つのか?ではない。

 誰が勝つのか?

 誰が笑って終われるのか?

 ファインドフィートには、まるで分からなかった。

 

「勝利の栄光は、パイを分け合うようにはいかないのよね。

 誰が勝って笑っても、その誰か以外が負けて泣いても、それが全て」

 

「……わたしが応援している二人のどちらかは、決して夢をつかめない。

 あるいは、どちらもが」

 

「ええ。

 パイは、たった一人の勝者が総取り。

 かと言って、お手々を繋いで全員同着なんて……。

 

 ……いえ、あなた(ウマ娘)相手には釈迦に説法か」

 

 ──ここでどうこう語ってたって、彼女に出来るのは親しい二人への応援のみである。

 走るのは彼女達。

 死力を振り絞るのは彼女達なのだ。

 当人以外にはレースへ手出しできることは何もない。

 

 ならばせめて、"悔いが残りませんように"、"全力を出し切れますように"。

 有象無象の観客として、一人の後輩として、そして二人の友人として真摯に祈る。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ──パドックを終えて幾ばくかの分針を刻んだ後。

 

 自由席へと立ち位置を変え、他の観客らと同様に出走ウマ娘のゲート入りを待つ。

 小さな手に持つピンク色でハート型のうちわ、そのそれぞれに記された名前は「ミホノブルボン」と「トウカイテイオー」。

 一対のうちわをギュッと握り締めて、未だ主役の揃わないターフに視野を拡げた。

 あまり詳しい応援の作法を知るわけではないのだが──きっと、こういうものは気持ちである。

 気持ちを伝えられるのなら目的には適うはずだ。それに、そもそも大きな声を出せる質でも無いのだし、いい具合にブンブン振り回してしまおう。

 果敢に肩を怒らせる姿からはそんな思惑が漏れ出ていた。

 

「……そんなに力まなくても良いのよ」

 

「す、すみません……」

 

「ほらほら、リラックスリラックス」

 

 微笑みと共に手渡されたのは、ホカホカの缶コーヒー。

 ラベルにはしっかり"砂糖入り"と明記されている。

 流石の若き天才だ。ウマ娘に対する理解度は抜群であった。

 

 流れる所作でプルタブを開き、喉の奥に甘みとほのかな苦味を流し込み、そして小さく息を吐きだした。

 ……けれども残念ながら、なぜかファインドフィートは緊張したまま。

 胸の奥で疼くような、腹の底がふわふわと落ち着かないような──。

 

 ……そもそも、何故観客者にしか過ぎない自分が緊張しているのだろうか。

 

 ぼんやり自問する。

 しかしそれは、他の誰でもない彼女自身にも分かっていない事。

 ただ、いつかの日はテレビ越しでしか見ることの叶わなかった舞台にいるのだと考えると──途端に震えが走ってしまう。

『姉』と二人並んで見つめた世界に立っているのだ。

 それが観客としての参列であろうとも、深い情動が胸を衝いて仕方がない。

 

『年末の中山で争われる夢のグランプリ、有マ記念!

 あなたの夢、私の夢は叶うのか!』

 

「ゲートインが始まったみたいね……」

 

「…………」

 

 カメラを通して見た世界ならば──。

 まず0と1のデジタル信号として分解し、遠隔地へと伝達され、単なる映像として解釈を繰り返して編み返して像を結ぶ。

 つまり、一種のフィルターを通したものと言える。

 そのフィルターは競技の熱を遮断し、現実感を濾過し、臨場の感覚を失わせるモノ。

 当然の事ではあるが、技術の発展によって真に迫れども成り代わることは未だ不可能。

 

 しかしそんな()が存在しない世界は、驚くほどに鮮やかだった。

 場を満たす熱気。

 芝を揺らす涼風。

 空を震わす声援。

 そのいずれもが深い衝撃となって、ファインドフィートの総身を包み込む。

 

「……すごいなぁ」

 

『三番人気はこの娘です、メジロマックイーン。数多の苦難を跳ね除けた名優!』

 

『二番人気はミホノブルボン、二冠ウマ娘! 圧倒的かつ精密な逃げを見たいところ』

 

『前年度有マ記念の覇者。今日、二連覇という栄えある夢を掴めるのか!

 不撓不屈のトウカイテイオー、一番人気です!』

 

『気合十分!熱意がここまで漂ってきます』

 

『各ウマ娘、ゲートに入って今体勢揃いました』

 

 水を打ったようにざわめきが引いていく。

 それは大きな嵐が到来する寸前の如くに静寂で、どこまでも神聖な圧を有していた。

 周囲が固唾を飲む様に合わせて彼女もまた、じっと息を潜めて目を凝らす。

 耳も痛む無音の中で過ぎ去るほんの数十秒、あるいは数秒。もしくは唯の一瞬か。

 

『ゲートが開きました!』

 

 ──弾けて、流れるハーフバウンド(スタートダッシュ)

 瞬間的な加速に支えられ、一斉に飛び出したバ群。

 彼女等は一様に轟々と燃え盛る気炎を引き連れている。

 その小さな背には不釣り合いなほど大きい人々の夢を──そして己達の夢をも背負い、風を切って駆け出した。

 

 

 

 


 

 

夢を賭ける。

 

双子で共有した、憧れの原風景に。

いつか二人で――。

 

 

 

 


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